福岡 東アジア平和センター長 黄南徳(ファン・ナムドク) 牧師
イザヤ書65章17〜25節 (旧1169頁)
エフェソの人への手紙2章14〜16節 (新354頁)
今日、読んだイザヤ書65章は、イスラエルがバビロンから解放されて故国に戻った以降の状況を示しています。 バビロンを占領したペルシャの王、キュロスの勅令で、イスラエルの民は待ちわびていた解放を迎えました。故国に帰ってきた彼らは、神殿も建築し、すべてが本来の場所に戻ったような気がしました。 しかし、イスラエルの民は国を建て直すために努力しましたが、すべてが思ったとおりにうまくいったのではありませんでした。
例えば、対外的には当時の国際情勢が良くありませんでした。 ペルシャとギリシャの間で戦争が起き、イスラエルはまたペルシャに税金を納めなければならなかったため、経済的な困難がありました。イスラエル内部でも、サマリアとユダヤが対立していました。 一言でいうと、紀元前5世紀、イスラエルは国内外の困難に直面し、民衆は疲弊してしまっていました。
神殿建築も厳しいものでした。 その昔、ソロモン王国の時に建てた神殿を思えば、今彼らが建てようとしている神殿は小さく質素なものです。 だから、バビロンから解放されたからといって、すべてが順調によくなっていったわけではありません。
こんな困難な状況にいるイスラエルの民に向かってイザヤは言っています。
19節です。<わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。>
この言葉によると、それまではエルサレムでは泣き声が多く、泣き叫ぶ声が多かったということです。 そして 20-21節の言葉を見ますと
そこには、もはや若死にする者も
年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
百歳で死ぬ者は若者とされ
百歳に達しない者は呪われた者とされる。
彼らは家を建てて住み
ぶどうを植えてその実を食べる。
この言葉は、多くの人が戦争で無念にも命を落とし、自分の家もなく、ブドウ園を作っても、人手に渡ることの多かった当時の社会像を物語っています。
本文の言葉に接する皆さんの中には、この様な状況が今日の私たちには当てはまらないと考える方もいるでしょう。
今は戦争もなく平穏な状態で、仮に幼くして亡くなる子がいるといってもそれはアフリカのような貧しい国で起きていることで、医学の発達した日本とは関係ない話だと思うかもしれません。 まして、日本は平均寿命が長い、高齢化社会となりました。 では、イザヤ書は私達には全く関係のないことでしょうか? 今日の現実はどうですか?
日本は早くから近代化の道を歩みました。 経済が発展してアジアで豊かな国になりました。もちろんアジアでは日本以外にシンガポール、台湾、韓国なども経済的に豊かな国と呼ばれています。しかし、このような資本主義諸国を見れば、経済が発展すればするほど、金持ちと貧しい人々との経済的格差が深刻になることがわかります。労働者達は低賃金で労働災害の危険にさらされたまま仕事をしています。農民たちは一年中農作業をしますが、多くの借金を負うことになっています。
前述のアジアで豊かな国々において、統計的に差はありますが、貧しい人々が苦しい生活を送っていることは共通しています。 特に貧しいアジアやアフリカ、南米など、いわゆる第3世界の民衆の生活がますます困難になっています。
イザヤ書に照らしてみると、 今日この世界にたった一人でも戦争や貧困で 不当に死ぬ子供と老人がいたら、一人でも自分がした労働の果実を得ることができず奪われる人がいたら、住む所のないホームレスがいたら、正義のためのイザヤの宣言を私たちはもう一度聞かなければなりません。
イザヤは厳しい時代状況の中で、「見よ, わたしは 新しい 天と 新しい 地を 創造する。初めからのことを思い 起こす者はない。それはだれの 心にも 上ることはない」という神様の言葉を宣言します。
新しい天と新しい地を創造する神、歴史の支配者である神、その神の正義と平和を、イスラエルの民に宣言しています。 絶望の中で希望を約束しています。 そうして明日に、そして未来に向かって立たせます。
2020年は全ての人にとって大変な時間でした。 私はコロナが初めて発症したとき、長くても3カ月くらいだろうと思っていました。 こんなに長い間人類が苦しむとは思いませんでした。
すぐにも終わりそうな疫病だったのに、いまだにワクチンと治療薬を作れずにおり、世界的に感染者がさらに増えている状況です。 長期化しているコロナで経済的な困難も多々あります。 特に自営業を営む人たちの困難は相当深刻です。 私たちはみんな心理的に厳しい経済状況の中で希望を喪失しつつあります。しかしこの状況下で私たちはどこで希望を見つけることができるのでしょうか. その希望は何ですか。
その希望は新しい天と新しい地を創造してくださる神様を望み見る希望です. 歴史の新しい明日を開く神様を信じる信仰です. だから希望は 私たちの存在そのものであり、存在理由だからです。 私たちは希望がなければ一日も息をすることができません。
私は2019年2月に日本キリスト教会にエキュメニカル宣教師として派遣を受けて福岡に来ました。 所属している教団で実施される宣教師の訓練を、夫婦で1ヶ月間受け、派遣礼拝を捧げて日本に 平和宣教師として来ました。
私が日本に来て最初にやったことは”東アジア平和センター福岡”を設立したことです。日韓理事会を組織して開設式を行いました。その間 いろいろな仕事をしましたがその中の一つに青年平和学校があります
2019年8月に、青年平和学校は 第1回を沖縄で開きました。日本の学生が3名、韓国の学生が3名、中国の学生が1名参加しました。
沖縄と言えば、人々は美しい観光地だけを考えますが沖縄は第2次世界大戦末期に本土の日本軍により沖縄の原住民たちが戦場に追い込まれて多くの無辜のたみが、犠牲になったところです。第2次世界大戦後、米軍基地が建設され、今も引き続き建設されています。平和学校を開いて午前には平和についての講義を聴いて午後には平和記念公園、ひめゆり平和記念資料館、そして米軍基地が建設される辺野古などを訪問しました。この海軍基地をアメリカが軍事基地化しようとしています。
韓国の済州島の状況は沖縄とよく似ていて、そこには海軍基地があります。多くの済州道民と平和うんどうかが建設に反対しましたが、2016年2月に竣工しました。 済州島にはすでに米軍の海軍艦だけでなく原子力潜水艦まで停泊しているのです。
だから 2020年は日本の学生10人、韓国の学生10人を募集して8月に済州島にて、第2回青年平和学校を開催しようと準備しました。
しかし、新型コロナ・ウィルスのため、済州島での平和学校は残念ながら実施できませんでした。それでも今年の8月に沖縄で日本人学生だけを対象に第2回青年平和学校を開こうと準備中です。私たちは、平和への希望を捨てることはできません。
新しい天と新しい地を私たちに見せてくださる神様を信じる限り、私たちは神様の国の平和のために働き続けなければなりません。
新しい天と新しい地を創造する神様は私たちに、「私が新しい天と新しい地を創造する。お前たちは喜べ、踊れ」とおっしゃっています。 神様がくださった希望を私たちが大事にするとき、私たちは喜び、楽しむことができます。
そのために私たちは創造主の神様が歴史を導いていく歴史の主であるという信頼と希望の上で、正義と平和のために働かなければなりません。
イザヤは平和のビジョンを25節でこう述べています。
狼と小羊は共に草をはみ
獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし
わたしの聖なる山のどこにおいても
害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。
ここに二組の動物が出てきます。狼と小羊、ライオンと牛です。 これは対立する勢力を象徴します。 おおかみは、小羊を取って食おうとするし、ライオンもやはり牛を狙います。 しかし、イザヤの黙示思想によると、新しい天と新しい地、つまり新しい世界では、この敵対勢力を象徴する動物たちが友達のように草を食べて生きることになります。 共生の世界が開かれるのです。 イザヤは共生の時代をこのように美しく表現しました。
南アフリカのズールー語に<Ubuntu>という言葉があります。英訳は“I am because you are.”日本語に訳すと「君がいるから僕がいられる」というような意味です。
この言葉は、ある人類学者がアフリカのある部族の子供たちにゲームを提案したことから、意味が知られ始めたそうです。その人類学者は、村の近くのある木に子どもたちが好きな食べ物を結びつけておいて、一番先に走りついた人が全部食べられると言いました。さて試合開始を叫んだところ、子供達がそれぞれに走り出さないで皆が手をつないで走り出したそうです. そして、とうとうその木に到着して、その食べ物をみんなで食べていました。
そこで、その人類学者が子供たちに、こう尋ねました。「誰かが一番早く走り着いたらこれを一人で全部食べられたのに。」すると子供たちがみんなで「ウブントゥ」と叫び「他の人がみんな悲しいのにどうして一人だけ幸せになれるんですか?」 と言ったそうです。 共生の精神をよく表しています。
イザヤが夢見た共生の時代を、東アジアに適用してみます。 朝鮮半島が統一し、日本と韓国が友達のように仲良く平和に暮らす世の中、それはどれほど美しいでしょうか。 さらに、中国も加わって、共に歩む東アジアの民の世界、共生の世界、新しい平和(シャローム)共同体は、神様が創造する新しい天と新しい地ではないでしょうか。
新しい天と新しい地を創造される神様は、希望する人々と共にいてくださいます。生きておられる神様を心から信じるものとして、私たちは平和(シャローム)共同体に向けた歩みを止めることはできません。 これはイエス·キリストに従う私たちの宣教的使命でもあります。
イエス·キリストは私たちに生命と平和の神様を見せてくださいました。 復活を通じて死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様、絶望と挫折から私たちを立ち直らせる神様を見せてくださいました。
イエスに従う私たちがいかなる絶望の中にあっても再び力を得ることができるのは、神様が私たちに希望を与え、私たちと共にいてくださるという信仰のゆえです。
新しい天と新しい地を創造される神様を仰ぎ見る希望の中で喜びつつ力強く歩みを進めましょう。