キリストによる勝利。

旧約の箇所はありません。 ローマの信徒への手紙8章17-39節(新284頁) ローマの信徒への手紙8章17節には、こう書いてあります。『もし、子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。』神の恵みによって罪人の身分から救われ、神の子供、正しい人と生まれ変わったキリスト者は、神の御国の相続人として認められた存在です。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14)イエス・キリストの御救いと神のお愛によって、私たちに来られた聖霊が、私たちキリスト者の人生に共に歩まれ、神の子供、神の相続人という身分を与えてくださったからです。神を離れ、肉的な人生を生きていた私たちは、今や聖霊のお導きと恵みとによって、神と共に生きる霊的な存在、もはや罪人ではなく、神の子供であり、神の相続人となったのです。 ただし、だからといって、今後の人生に、いかなる苦しみも、悲しみもなく、ただただ、気楽で楽しさばかりの人生だけが残っているとは言えません。『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』(ローマ8:17)(新共同訳の翻訳は、原文と翻訳順番が違います。より原文に近い翻訳は『キリストと共に栄光を受けるなら、共にその苦しみをも受けるべきなのです。』の方が、本文に近い表現だと思います。)17節は、キリスト者の生活の両面性を語っています。『神の相続人として栄光を受ける者となったが、それと共に、相続人としての苦しみをも負うべきである。』ということです。ローマ書の5章では、これについてすでに記されています。『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』(ローマ書5:2-4)神から栄光を受けるためには、主による苦難をも経験しなければならないということでしょう。 なぜ、栄光の主によって、神の相続人となったキリスト者に、このような苦難が襲ってくるのでしょうか?神の子供なら、祝福と平和いっぱいで生きるべきではないでしょうか?残念なことにその苦難の理由は、この世の罪にあります。『被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。』(22)ここでの被造物とは、人間世界のすべての物事を意味します。これは、自然環境のような物理的な世界と共に、人の間柄のような霊的、精神的な世界をも意味します。その中には人と人との関係、人と自然の調和のような、この世界のすべてが含まれています。しかし、最初の人の不義による罪は、人と人の対立、自然への人間の乱用などにつながってしまいました。人と人が憎み合い、国と国が戦争し合い、人間の貪欲のために自然が破壊されました。人間の罪は人間だけでなく、この世の物理的、精神的な被造物にも悪い影響を及ぼしたわけです。この憎しみと破壊の世界で神の子供として、御言葉に聞き従い、罪の世界に対抗して生きるというのは、汚れたこの世の方式とは全く反対側にいくことと同じものです。だから、この世に生きる神の子供は、当然、罪の世界から苦難を受けるようになるのです。キリスト者が受ける迫害と苦難は、こんな経緯から生まれたものです。 私たちが聖書に従って正しく生きようとして受ける苦しみは、神の民なら、受けるに決まっている苦難です。自分の敵を愛するための苦難であり、他国との平和を祈るための苦難であり、自然環境に優しくするための苦難であります。罪と不義に満ちた世界で、神の正義と愛とを宣べ伝えるために受ける苦難なのです。もし私たちが神を真の父と信じ、そのご意志に従って生きることを決心したなら、これらの苦難は避けられない、絶対的な課題です。しかし、これらの苦難は苦しみだけで終わるものではありません。それらには、より大きな御業を計画しておられる神の御心が隠れているからです。『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。』(28)、そのような神の御国の相続人としての苦難の中で、神を愛し、信頼して生きる際に、そのような苦難さえも、最終的には一つになって共に働き、神の御心を成し遂げる万事の益となるからです。 パウロは、イエスに出会って以来、神の支配による理想的な世界を夢見て働きました。私たちが御国と呼ぶ神の国、それは神のお導きとご統治に満たされた世界です。それは、ただの死後のユートピア、極楽、天国などを意味するものではありません。罪によって汚された、この世界で、神の真の愛とお導きのもとで成し遂げられる主の支配権が現れるすべてのところ(例:主の御心に聞き従って生きる私たちの人生)が、まさに御国なのです。神はそのためにキリストをお遣わしになったわけです。キリスト・イエスは、主を信じる者が、この地上で苦難に負けず、御国を望んで生きることが出来るように、先立って自ら苦難の模範を見せてくださいました。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。』(29) 罪によって歪んでしまった、この世で御国を成し遂げるということは、苦難をともなう難しいことです。しかし、神は口先だけの命令ばかりの方ではありませんでした。イエス・キリストという神の独り子が直接私たちのところに来られ、苦難を受け、私たちの進むべき道を開け、ご自分で先に進んで行かれたのです。聖書は、このようなイエス・キリストを長子と表現しています。私たちキリスト者は、そのイエスが切り開いた道に沿っていくことで、御国を建てていくことが許されたのです。 だから、神の子供とされた私たちは、苦難の背後に隠れている神の栄光を望まなければなりません。キリスト者がいくら頑張ろうとしても世界はそう簡単には変わりません。教会の規模と影響力は依然として小さく、世界は罪の道に走っています。これらの罪に満ちた世界で、世界を変えられない教会は、無力感を憶えやすいと思います。しかし、本質を見抜かなければなりません。教会の弱さが神の弱さを意味するわけではなく、教会が無力だから、神も無力な方であるというわけでもありません。卵で岩を打てば卵が割られますが、神が岩を壊し、その場に卵を置こうとされたら、神は成し遂げられます。神はお出来になる方です。私たちは、自分の状況ではなく、神の御腕を望むべきです。 『誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。』(33-34)御子イエスの命を犠牲になさってまで、主の民を呼び出され、導かれた神。この神が私たちと共に歩んでくださる限り、私たちは信徒の苦難の中でも希望を見つけることが出来ます。私たちの苦難は、すでにキリストがご経験なさった苦難であり、主は誰よりも私たちの苦難を知っておられる方であります。『私を殺せない苦難は、私をさらに強く鍛えさせる。』という言葉があります。このように、キリストと一緒に受ける苦難は、私たちをさらに強く鍛えるものであり、終わりの日、神の相続人として主に召された私たちは、その苦難によって輝かしい勝利を得るようになるでしょう。『誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。』(35)主なる神はキリスト・イエスの愛によって私たちを世の終わりまでお守りくださり、勝利を与えてくださるでしょう。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

わたしの一番いいものを。

箴言 3章9-10節(旧993頁) マルコによる福音書 14章3-9節(新90頁) 前置き 先日、エフェソの信徒への手紙の説教が終わりました。今年、エフェソ書の説教をした理由は、エフェソ書が、志免教会の今年のテーマである「教会とは何か?」と深い関りがあるからでした。そのため、今年初までしていたマルコによる福音書の説教をしばらく休んで、エフェソ書について話してきたのです。私たちはエフェソ書を通じて、教会とは何かについて十分に考えることが出来たと思います。それでは、今週からは、また、マルコの福音書の残りの箇所を説教していきたいと思います。今日、探ってみようとしている箇所は「イエスの頭に香油を注ぎかけたベタニアの女」です。この本文を通して「私の一番良いものを」という題で話してみましょう。今日の本文を通して、主は私たちに何を教えてくださるでしょうか? 1。ベタニアにおられる主なる神。 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) イエスが十字架につけられる数日前、主はべタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人だったシモンの家に行き、食事の席に着かれました。名前からも分かるように、シモンはかつてハンセン病者だったようです。律法によると、ハンセン病者は必ずイスラエルから隔離しなければなりませんでした。しかし、それでも、純粋なユダヤ人だった主イエスは、彼の家に入り、一緒に食事されたのです。食事の席に着くというのは、一緒に飲み食いする人と深い関係を結ぶという意味です。もちろん、学者たちはシモンがすでにイエスによって癒され、正常になっていたと言います。そして、おそらく彼は本当に回復していたでしょう。もし、彼が依然としてハンセン病者だったら、律法のため、イエスを除いてみんなが彼の家に入ろうとしなかったはずだからです。ハンセン病から治ったとしても、人々は気軽に彼の家に入ろうとしなかったでしょう。しかし、イエスは全くお気になさらず、シモンの家に入り、彼と食事の交わりをなさいました。神の呪いのようなハンセン病によって隔離され、嫌われ、結局は寂しく死んでいくはずだったシモンは、イエスによって癒され、再び隣人と共に暮らせるようになったのです。 さて、このシモンの家はエルサレムから東へ約4-5km離れていた「べタニア」にありました。べタニアはアラム語(当時、エルサレム地域の人が主に使っていた言葉)で「貧しい者の家」という意味で、べタニアの近くには、ハンセン病者の隔離地域があったと言われます。イエス·キリストは、何のためらいもなくハンセン病にかかった者たちの地域から近いべタニアに行き、貧しい者たちを慰め、ハンセン病にかかった者たちを治してくださったのです。当時、ユダヤ教の人々はイエスを軽蔑して「徴税人や罪人の仲間だ。」と呼びました。ユダヤ人にとって、そのようなあだ名は呪いのようなものでした。しかし、イエス·キリストは、喜んで「徴税人や罪人の仲間」すなわち「疎外された者の友人」になってくださいました。イエスは華やかなエルサレムの王宮、あるいは、聖なるエルサレムの神殿ではなく、汚く、貧しく、疎外された「罪人のところ」におられたのです。神であるイエスは、寒くて汚くて臭いがする「飼い葉おけ」に生まれ、いつも低くて疎外されたところにおり、最後まで貧しいところ、罪人たちのところ、低いところにおられたのです。今日の本文のその日、神であるイエス·キリストは、べタニアにおられました。そして、貧しくて辛くて悲しい者たちと一緒にいてくださいました。私たちの主が生前初中いらっしゃった所、そこは、低くて貧しいところでした。 2.キリストに香油を注ぎかけた女。 「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) 主がシモンの家で食事される時、一人の女がイエスのところに来て、300デナリオン以上のナルド香油をイエスの頭に注ぎかけました。ナルドとはイスラエル地域には育たない、現在のインド、ヒマラヤ山脈に育つ非常に貴重な植物だと言われます。当時、元気な男性労働者1人の一日労賃が1デナリオンだったということですから、300デナリオンなら、ほぼ1年の給料に当たる大きい金額だったでしょう。おそらく、そんなに富んでない彼女は、長い間、貯めてきたお金で高い香油を買ってイエスのためにささげたでしょう。低いところで貧しくて苦しい人々とおられた主のために、女は自分の一番良いものを差し上げたでしょう。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。そして、彼女を厳しくとがめた。」(4-5) すると、人々は驚いて憤慨しました。常識的に考えてみても、いっぺんに、値の高いものを使い切るよりは、それを売って他の貧しい者たちを助けたほうが、さらに有意義だったかもしれません。しかし、主は彼女をとがめる人々にこう言われました。 「イエスは言われた。するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(6) その理由は十字架にて、人類の罪を背負って亡くなられるイエス·キリストの犠牲を記念するために、彼女が自分の一番良いものを主にささげたと、主が知っておられたからです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8) そして、イエスに自分の最も良いものを差し上げた、この女の行為が、福音が宣べ伝えられるすべてのところに共に伝えられると言われました。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9) イスラエルの多くの人々はイエスに「してください。」と要求ばかりしていたでしょう。イエスの存在自体を讃美し、その方の御救いと犠牲を記念しようとする人は多くなかったと思います。主の弟子たちでさえ、各々の野望と必要のために、主に従ったからです。しかし、この女はいかなる条件も要求もなく、ただ、イエスとその犠牲とを記念するために、自分の大事なものをささげました。ある女が「油注がれた者メシア、イエス」に、実際に油を注ぎかけることで、イエスが自分の主であり、キリストであることを公に告白したのです。そして、主はこの女の行為が福音が宣べ伝えられるすべての場所で憶えられるようにしてくださいました。 3.私の一番良いものを。 今日の本文で重要なことは、主に高値のものをささげなさいということでも、自分のすべてを一つも残さず、すべてささげなさいということでもありません。べタニアの女の香油は高いものでしたが、それを文字通りにして、現実に適用しろという意味ではありません。時には異端団体、いや普通の教会でも度を越えた献金を要求することがあると思います。たくさんの献金を持ってきて神を喜ばせという望ましくない説教をする牧師もきっと世の中にはいると思います。しかし、今日の本文は、それとは違います。私は皆さんが自分の出来る範囲で日常生活に差支えのないくらい、主がくださる心に従って献金することを積極的にお勧めします。つまり、今日の本文は献金の大小の問題ではないということです。私たちが主をどれほど憶え、記念し、仕えているかという問題でしょう。主が私たちと一緒におられることを常に憶えているか? 主が私たちの命の主であることを認めているか? 主が私たちの罪を赦し救ってくださったことを信じているか? 私たちの心を主だけにささげているか? 私たちの命を尽くして主の御心と御言葉に聞き従って生きているか? 私たちの一番良いもの、私たちの心、私たちの生命、私たちの意志、私たちの愛を主にささげているかどうかとの問題なのです。 主は貧しい女に高い香油という重荷のような献物を求められたわけではありません。ただ、十字架で死んでいくご自分への愛、奉仕、女の信仰と心をお受けになったわけです。高値の物でなくても、主は神殿でレプトン銅貨二枚(極めてわずかな献金、マルコ12章)をささげた貧しい女や、五つのパン二匹の魚を出した少年(ヨハネ6章)の心も同じくお受け取りになったでしょう。私たちは主に私たちの心、愛、生命の主権、純粋な信仰をささげているでしょうか? 私たちの情熱的な教会での奉仕と多くの献金も、時には必要であるかもしれませんが、それよりさらに大事なもの、つまり、私たちの真心を主にささげていきたいと思います。大金、高価なもの、負担のかかる献物がすべてではありません。主への私たちの真心、私たちの一生をキリストの栄光のために生きると誓うこと、主が命じた御言葉に従順に生きること、神と隣人に仕えて生きること。そのような私たちの真心と愛が、今日、主に香油を注ぎかけた女のように、主の心を喜ばせる真の献物ではないでしょうか。 締め括り 「それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9‐10) 旧約は「初物」を非常に大事に扱います。神がくださった初めての恵みだと思うからです。つまり、一番良いもの、大事なものということです。私たちにとって最も大事なものを神にささげること、それもある意味で旧約のこのような「初物」に似ているのではないでしょうか? 私たちの一番良いものは高価のものでも、多くのお金でもありません。一番良いものは、神を最も愛しようとする私たちの心構えであり、何よりも神への私たちの真心ではないでしょうか。今日、香油を注ぎかけた女を見て、私たちの一番良いものとは何であり、神に何をささければいいだろうかと考えてみる機会であることを願います。神に一番良いものをささげることが出来る志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

十の災い。

出エジプト記 7章4-5節(旧103頁) ヨハネの黙示録 20章11-12節(新477頁) 前置き モーセは失敗者でした。40代の若い頃、エジプト王女の養子だったモーセは、自分の政治的な力でイスラエルを解放しようとしました。しかし、彼は血気によって同胞を苦しめるエジプト人を殺してしまい、そんなモーセへのイスラエル人の支持もなかったので、結局エジプトから逃げてしまいました。40年後、彼は神に呼び出され、再びイスラエルの解放のためにファラオの前に立つことになりました。しかし、彼はまた失敗します。ファラオはイスラエルの解放を承認するどころか、むしろさらに苦しめるだけでした。モーセは解放の成就も、周りからの歓呼もなく、同胞に恨まれるようになってしまいました。若い頃の失敗と今の失敗、二回の失敗を経験したモーセには、もはや人間的な野望もやる気もなくなりました。そのようにモーセが最も落ち込んだ時、神は彼にイスラエルの解放を必ず成し遂げると約束されました。神の民が最も弱くなった時、神の御業は始まります。私たちの失敗は、主による私たちの勝利をさらに輝かせる絶好の機会です。失敗と絶望の時こそ、主なる神が私たちの人生に最も積極的に介入してくださる時です。私たちが最もみすぼらしくなった時、その時が神のお導きに一番近い時です。 1.神の災いへの理解。 イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)でした。「わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。」(出エジプト7:4)、そして、その裁き(審判)の方式はエジプトへの十の災いでした。十の災いの詳細については、後ほど話すことにして、まずは神と災いについて話してみたいと思います。私は先ほど、イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)だったと言いました。ここで私たちは、神の裁きと災いが誰に向けたものであるかを理解する必要があります。最近、水曜祈祷会でヨハネの黙示録を学んでいますが、私たちは黙示録を思い出すと、ふと恐怖を感じます。恐ろしい災いと神の裁きが記された書だからです。しかし、詳しく読んでみると黙示録の災いと裁きが神の民に向けられているものではなく、神に逆らう悪へのものであることが分かります。その災いは恐ろしいでしょうが、災いの対象が、主の民ではなく、神の敵に対する裁きであるということです。さて、黙示録は多くの部分、出エジプト記の影響を受けました。そのため、黙示録の災いは出エジプト記の十の災いとも関りがあるということです。イスラエルは神の民、すなわち教会を反映し、エジプト帝国は神に逆らう悪の勢力を反映するのです。 したがって、私たちは出エジプト記の十の災いが、神に逆らう悪への裁きであることを憶えなければなりません。それは私たちへの裁きではなく、滅びるべき悪への裁きなのです。罪によって歪んでしまった世界は、死、悲しみ、苦しみに満ちています。時には私たちの人生にも災いのような苦しみが襲ってき、神を恨むようになる場合もあります。神を信じるといっても、依然としての私たちの人生の辛さはよくあることです。しかし、神は決して私たちに災いを与えられる方ではありません。神は独り子を犠牲になさるだけに、私たちを愛してくださる方です。ただし、私たちが生きるこの世の罪と悪によって、私たちが感じる苦しみを神による災いであると誤解するのです。私たちはやむを得ず、この悪の世界に生き、苦しみを経験しなければならない時もあります。しかし、その苦しみは神からの災いでも、裁きでもありません。むしろ、神は罪と悪を裁かれる方です。そして、主なる神は災いのような苦しみの中でも、私たちを絶対に諦めず、見守ってくださる方です。終わりの日、私たちが主なる神の前に立つ時、神は私たちを慰め、永遠の喜びによって報いてくださるでしょう。ですから、神を誤解しないようにしましょう。神は悪の世界を裁かれる方であり、むしろ、その裁きの炎からご自分の民を守ってくださる方であることを忘れてはなりません。 2.十の災いと裁き 神は、ご自分の民であるイスラエル(教会)を邪悪なエジプト(罪)から救ってくださるために、災いを伴う裁きを下されました。十の災いについての出エジプト記の記録は、7章から12章まで非常に長いです。したがって、これらのすべての災いを一度に説教するのは無理であり、何度に分けて説教するのも、内容が重なるため、かなり退屈になると思います。ですから、今日の一度の説教で手短に取り上げ、詳細な内容は皆さんに本文を読んでいただくことで振替したいと思います。それでは、十の災いについて考えてみましょう。①川の水が血に変わる災い(7:14-25)、生命の根源であるナイル川(水)を司る神ハピへの裁き ②蛙の災い(8:1-15)、富と多産の女神ヘケトへの裁き、自分の偶像に苦しめられる裁き。 ③ぶよ(蚋)の災い(8:16-19)、大地の神ゲブへの裁き。エジプト全土の塵がぶよになる。これからはエジプトの魔術師でも真似できない。神だけの権能  ④あぶ(虻)の災い(8:20-32)、日の出の神ケプリへの審判。時間を司る神。(カエル、ぶよ、あぶへの裁きは、水、地、空の神々の無力化を象徴) ⑤疫病の災い(9:1-7)、農業を助ける家畜の神アピスへの裁き ⑥はれ物の災い(9:8-12)、癒しの神ネフェルトゥムへの裁き、真の癒しは主なる神だけにある。 ⑦雹の災い(9:13-35)、天空の神ホルスへの裁き、エジプト人が死んだ最初の裁き。予告があり、御言葉を恐れた人は生き、無視した人は死んだ。 ⑧イナゴの災い(10:1-20)、農作物を荒れ果てさせるイナゴの群れの襲来。雹の害を免れた残りのものを食い荒らした。戦争の神セトへの裁き。(戦争とイナゴの関係は不明)⑨暗闇の災い(10:21-29)、太陽の神を主神とあがめるエジプトから太陽が消えた。エジプトの偶像の無力さを示す災い。太陽の神ラ-への裁き ⑩死の災い。人間、家畜を問わず、初産は死んだ。王位を継承するべきファラオの子も死んだ。エジプトの賢人神であったファラオも神の権能に無力だった。地上の太陽神と呼ばれたファラオへの裁き。以上が十の災いの持つ意味です。この意味は、神に逆らうエジプトと共に、彼らがあがめていた数多くの偶像への災いであり、ただイスラエルの神だけが真の神、絶対者であることを示す出来事でした。これらにより、エジプトはイスラエルの神が真の神であることを認めざるを得なくなりました。特別な点は、これらの災いの中で、イスラエルも恐ろしい裁きを目撃したが、イスラエル人の地域は、これらの災いを避けたということです。神が恐ろしい災いの裁きから、主の民を守ってくださったからです。 3.神の裁きへの教会の理解。 私たちは、神という存在を考える時、ひたすら、愛ばかりでいっぱいの方だと誤解しやすいです。しかし、聖書は神は愛の神でもあるが、裁きの神でもあると述べています。主なる神に自分の罪を告げ、聞き従う者には愛の神ですが、逆らって罪を犯し続ける者には、裁きの神であるのです。「ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」(出7:4-5) 神はこのように、裁きによって、神に逆らうすべての存在に神が真の主であると教えてくださるのです。したがって、主の民である私たちは神の裁きに恐怖を感じるより、この裁きがあるからこそ、主の民である私たちの救いがより明確になり、神の偉大さをより一層知るようになるということを憶えるべきです。今日の新約の本文を読んでみます。「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(黙示録20:11-12) すべての存在は、いつか神の御前に立ち、裁きを受けることになるでしょう。身分の高い者、低い者、白人、黒人、東洋人、信者、未信者を問わず、すべての存在は神の御前に立つことになります。その時、私たちはキリストによって神の民であることが証明され、神に受け入れられるようになるでしょう。ですから、裁きは恐ろしさばかりのことではありません。主の民にとっては、自分の身分を証明する救いの道具となるのです。しかし、神に逆らった存在には滅びの道具になるでしょう。エジプトにとっては、恐ろしい裁きだった災いが、イスラエルにとっては、エジプトからの解放の道具だったことを憶えてください。そのような裁きの両面性を理解する私たちにならなければなりません。神は裁きの時に各人の行いを測られるでしょう。ここで行いとは、救いを得るために私たちの努力を意味するわけではありません。救いは、たったキリストの恵みだけによって与えられるからです。ただ、キリストに寄りかかり、神に聞き従う者とキリストを拒否し、神に逆らう者を見分けて裁くという意味です。 それによって、永遠の命の者と永遠の死の者が分けられるでしょう。 締め括り 今は終末の時代です。キリストの到来以来、終末の時代は長く続いてきました。神は一人でも多くの命を救われるために、こんなに長い終末の時代を許されたのです。そして、いつかは必ずこの世を裁くために再臨なさるでしょう。その裁きの日の後、神は新しい天と新しい地で、主の民に真の喜びと幸せをくださるでしょう。このような終末の時代に、私たちは神の裁きの意味を正しく知り、神の御旨に適う存在として生きていくべきでしょう。最後に、日本キリスト教会の大信仰問答に書いてある裁きの項目を読んで説教を終わりたいと思います。「問283 終わりの日は、罪びとにとっては、恐ろしい審判の日ですか。」「答 そうです。聖霊の執り成しをしりぞけ、あくまでも神に従わない者には、呪いと永遠の刑罰とが宣告される日です。しかし、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じる者には待望の日です。なぜなら、私たちの罪に対する呪いと刑罰とは、キリストによって負われ、赦されているからです。」 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。