異邦人を照らす光、イスラエルの誉れ。

イザヤ書42章1-7節 (旧1128頁) ルカによる福音書2章22~32節 (新103頁) クリスマスツリーの由来 昔、ドイツのある小さい村にマルティン・ルターという神父さんが住んでいました。ある冬の夜、彼はクリスマス・イブのミサを終え、家路につきました。昼間に雪が降り積り、夜には明るいお月様が昇って、夢みたいな真っ白な夜でした。ところで、帰り道の途中に、小さいモミの森がありました。マルティン・ルターはいつもの通り、通り過ぎようと森の中に入りました。森を半分くらい歩いた彼は素晴らしい光景を見つけて驚きました。普段、真っ暗だと思っていた森の真ん中に、まるでスポットライトのような明るい光が一本の小さいモミの木を照らしていたからです。どこからの光か、マルティン・ルターが上を向いて目を上げたら、そこには美しい夜空のお月様と星々がありました。雪が積もったモミの木の枝の間に月明かりと星明かりが降り注いでいたのです。誰もいない、真っ暗な森の中に、創り主が施された光の宴が開かれていたわけです。マルティン・ルターは、それを見て大事なことを悟りました。 「人も、あの小さいモミの木と同じではないか。罪人は暗闇の中にいるみすぼらしい存在であるけど、救い主の栄光が照らされれば、暗闇から自由になり、輝かしい人生を過ごすことになるのではないか。」マルティン・ルターは、それを人々に教えようとして、小さい一本のモミの木を家に持ってきました。そして、そのモミの木に雪のような綿、星々のような飾り、キラキラする玉をつけました。みすぼらしくて小さいモミの木に照らされた光を表現するためにモミの木に飾り付けをしたわけです。一説によると、それがクリスマスツリーの由来とだったと言われます。この話が本当か創作かは分かりませんが、とても大事な教訓が含まれていると思います。それは、キリストの栄光によって、暗闇の中の罪人が輝かしい存在に生まれ変わるということです。つまり、イエスは暗闇にいる罪人に、ご自分の栄光を照らしてくださるためにお生まれになったということです。 1.ご自分の民のために来られたイエス。 聖書によると、人間は自分の罪のために、いつか死に、必ず神の裁きを受ける悲惨な存在だそうです。豊かであろうが、貧乏であろうが、有名であろうが、無名であろうが、人が死んで神に裁かれるのは決まっているとのことです。そういうわけで、聖書は、生まれつき罪を持った、すべての人間は滅びる存在、暗闇の中にいる存在だと述べているのです。しかし、聖書はまた、その暗闇の中に光を照らしてくれる存在が、罪人のところに与えられたとも証言しています。その存在が、まさに罪のない神の独り子イエス·キリストなのです。この世の創り主である神は、罪によって惨めになった人間に、贖いの恵みを与えてくださるためにイエス·キリストを送ってくださいました。その方のご恩寵によって罪人は、再び神の御前に立ち、赦されるのです。したがって、イエス·キリストは暗闇の中に置かれている人類に与えられた一筋の光のような存在です。クリスマスは、そのイエス·キリストが人間としてお生まれになったたことを記念する、キリスト教において、最も重要な日なのです。今日は、このイエス·キリストについて話してみましょう。今日の新約本文は、イエス·キリストのお生まれから何十日後、主の両親が赤ちゃんイエスを連れて律法に記された清めの儀式のためにエルサレムの神殿に上った出来事から始まります。「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。」(ルカ2:22-23) 律法によると男の子の産後から40日が経つと、産婦はエルサレムの神殿で清めの儀式を行わなければならないと言われます。子供が生まれた後に清めの儀式を行うということは、産婦も子供も罪の中にいるということを示唆するものです。しかし、神の子イエスは人間の父親ではなく、聖霊によってお生まれになった罪のない方です。それにもかかわらず、赤ちゃんイエスはご自分の民たちと同じように神殿で清めの儀式をお受けになったのです。罪のない神としての本質を持っているにも関わらず、民たちの罪人の本質を、罪のない方が体験されたわけです。つまり、生まれた瞬間からイエスは罪人の側におられ、彼らと共に歩んでくださったということです。「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」(ルカ2:24)また、産後の女は普通は一歳の雄羊一匹で贖罪のいけにえを献げますが、イエスの両親はあまりにも貧しくて、鳩で贖罪のいけにえを献げなければなりませんでした。いと高き神の子イエスは、人間としての人生が始まった時から貧しさと惨めさに自分自身を投げつけられたということです。これはイエスがご自分のためではなく、この世の哀れな民たちを救われるために来られたことを顕かに示す証拠でした。イエスはご自分の富貴栄華のために来られた方ではありません。その方は、ひとえに罪人の救いと贖いのために最も低い所に来られた救い主であったのです。 2.異邦人を照らす光、イスラエルの誉れ。 その後、イエスの両親は神殿でシメオンという老人と出会うことになりました。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカ2:25) シメオンは預言者ではありませんでしたが、旧約の真の預言者たちと同じ心を持った「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰めを待ち望む」者でした。神は彼に聖霊を遣わされ、神の心を知る信仰の人生を生きるようにされました。そのため、ヘロデ王や宗教指導者たちにはなかった、メシアを見分ける目をくださったのです。シメオンは赤ちゃんイエスに会うやいなや、赤ちゃんを腕に抱いて神に感謝の讃美を捧げました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)神はシメオンにメシアが来るまで死なないとの特別な使命をくださいました。そして、彼は神の御言葉に従って、年を取って老いるまでメシアを待ち望む自分の使命に忠実に生きてきたのです。そして時が満ち、神殿で両親と一緒に清めの儀式のために来られたメシア・イエスと出会うことになったのです。そして彼はメシア・イエスを一目で見分け、讃美したのです。 旧約の正しい預言者たちは、このシメオンと同じ心で生きました。エリヤが、イザヤが、エレミヤが、そして数多くの預言者たちが神の救いと慰めを待ち望みつつ生きていきたのです。彼らは切実に神による真の救いと慰めであるメシアを待ち望んでいましたが、結局その成就を見ることができず、死んでいったのです。しかし、神は旧約の偉大な預言者よりはるかに至らない人、一介の老人シメオンに異邦人の光であり、イスラエルの誉れであるメシアの到来を見せてくださったのです。新約時代は、そのような恵みの時代です。旧約の偉大な預言者たちさえも、拝見することが出来なかったメシアを、老いて体力も弱るシメオンが会うようになったのです。ということは、私たちのような金持ちでない人も、権力者でない人も、有名でない人も、ごく平凡な人も、このメシアに会えるようになったということです。私たちにシメオンのような信仰さえあれば、神の救いと慰めを信じる心さえあれば、私たちは、いつでもどこでも真の救い主であるメシア·イエスと会えるようになったということです。今日、シメオンの言葉のように「異邦人を照らす啓示の光、主の民イスラエルの誉れ」であるイエスに、何の代価もなく信仰だけによって会えるようになったということです。クリスマスが祝福された日である理由は、神がこの栄光の主イエスを私たちに何の代価もなく与えてくださったからです。私たちにとって日常のようなイエス·キリストへの信仰が、旧約の預言者たちには決して許されなかった非常に特別な恩寵であることを私たちは忘れてはならないと思います。 締め括り 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」(イサヤ42:1) かつて、主なる神は、旧約の預言者たちを通して必ず、神のメシアが来ると預言されました。そして、メシアがご到来なされば、主は真の恵みを、この世に与えてくださると約束してくださいました。私たちが生きる新約の時代は、まさにこのイエスがすでに私たちのところに来ておられる時代です。私たちは、このメシアが私たちの主として私たちの間にすでに来ておられることを喜びと感謝を持って生きるべきです。今年も私たちは、この主の恵みにあって生きてきました。教会は依然として小さく、日本は全然変わらず、世界はますます悪くなっています。しかし、私たちは目に見える現実に心を奪われて絶望してはなりません。2000年前、神のメシアが罪に満ちたこの世に来て以来、神は、ご自分のメシア、イエス・キリストによって、いつもご自分の民と一緒に歩んでこられました。そして、今も私たちを正しい道に導いてくださるのです。それを信じてクリスマスを過ごし、また、来年を迎えたいと思います。異邦人の光、イスラエルの誉れ、神である主イエスが私たちと常に一緒におられることを感謝しつつ今年と来年も生きていきたいと思います。 主の豊かな恵みがここに集っている兄弟姉妹たちの上に注がれますように。 父と子と聖霊で。アーメン。

わたしの父、あなたがたの父。

イザヤ書49章13-15節 (旧1143頁) ヨハネによる福音書20章15~18節 (新209頁) 前置き 今日の説教の本文は、クリスマスよりイースターにふさわしい言葉であるかもしれません。人間の罪をあがない、神のみもとで新たにされた者としてくださるために、十字架にかけられ、亡くなったイエスが3日後、復活された朝の出来事だからです。しかし、私たちはイエスのご誕生と地上での生と死と復活を別々に区切って考えてはいけません。真の神であるイエスが人間として生まれ、人間として生き、人間として死に、真の神であり、真の人間として復活された一連の出来事は、罪人を救おうとされた神の御心の中で、すでに完璧に計画された一つの出来事だったからです。 神であるキリストが人として来られなかったら、人間の弱さを体験されることが出来ず、人間の弱さを体験されることが出来なかったら、主イエスは人間の代表になることも出来ず、人間の代表になることが出来なかったら、罪を持った人間の代わりに死ぬことも出来ず、人間の代わりに死ぬことが出来なかったら、人間のために復活し、彼らを罪から自由にしてくださることも出来なかったからです。したがって、イエスのご誕生はすなわち復活と救いの前提条件になるのです。主のご誕生は、神の御救いの始まりなのです。今日はキリストがご自分の民を、主の御父の子供にしてくださった恵みの出来事、そして、その始まりであるキリストのご誕生の意味について話してみたいと思います。今日の説教は多少神学的な表現があるかもしれませんので、後、原稿が必要な方はお声がけください。 1.なぜ、神を父と呼ぶのか。 今日の説教は、水曜祈祷会で学んだ日本キリスト教会の小信仰問答からヒントを得て作成しました。小信仰問答 問31にはこういう質問があります。「問31:どうして神を父と呼ぶのですか?」「答:創造主はキリストの父ですから、キリストを信じて神の子とされている私たちも、父と呼ぶことを許されるのです。」私たちは、なぜ神を父と呼んでいるのでしょうか? この世を創造された創り主だからでしょうか。自分に命をくださった方だからでしょうか。自分が神を父親として決めたからでしょうか? ある意味で、以上の質問は全部正解であるかもしれません。しかし、だからといって、それらが私たちが神を父と呼べる根本的で、決定的な理由だとは言えないと思います。私たちが神を父と呼べる、最も根本的かつ決定的な理由は、神が私たちの救い主であるイエス·キリストの父でいらっしゃるからです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、アッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:4-6) もちろん人間も神の被造物だから、広い意味で神を父だと見なすことができます。しかし、問題は、人間という存在が「すでに神に呪われ、見捨てられた存在」であるということです。 「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創3:24) 初めに神を裏切った人間は、取り返しのつかない死の呪いを受けました。そして、自力では二度と真の命を手に入れることが出来ない、惨めな存在となってしまったのです。しかし、神は一つの希望の約束をくださいました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15) 先ほど読みましたガラテヤ書の言葉には「神は、その御子を女から…お遣わしになりました。」という言葉がありました。この言葉は創世記3章15節を引用した表現です。「エデンの園の東のケルビムと剣の炎」は象徴的に人間が自力では死に勝つ命を得ることが出来なくなったという意味です。しかし、ケルビムと剣の炎をお創りになった神ご自身が人間のところに来られ、その人間を連れて命の木に進まれるとすれば、話は違います。イエス·キリストは罪人を救い、命の木、つまり神による真の命に、私たちを導いてくださるために来られた救い主です。そして、このキリストと一緒にいる時、私たちは真の命に進むことができるようになるのです。私たちが神を父と呼ぶ理由は、まさにこのためです。私たちが神を父と呼べるようにしてくださるキリストが、私たちの代表者になって、ご自分の父の御前へと導いてくださるからです。 2.「キリストと父との関係」 それでは、キリストと御父はどのような関係を結んでおられるでしょうか。日本キリスト教会 大信仰問答「問38 父なる神と子なる神と…の関係はどういうものでありますか。(一部抜書)」「答:…父は何ものよりも成らず、造られず、生まれざる永遠の子孫者、子は父より永遠において生まれたもの。(一部抜書)」以前、大信仰問答の問38を学びつつ、御子の永遠の生まれについて話しました。ここでいう生まれとは、創造や出生とは違う概念です。ギリシャ語には「ギノマイ」という語彙があります。その本来の意味は「存在するようにする。創造する。なる。」などです。しかし、文法的に使って「創造するようにする原因、ある存在を存在するようにする原因、あるものの発生的な根源」などを含む奥深い表現です。つまり「御父から御子が永遠において生まれた。」という表現は、創造されたり、生まれたりした、という意味ではなく、御子の存在性が永遠において御父の中にあるという意味で、創造された存在ではなく、御父と共に永遠において存在してこられた方であるという意味で解釈するのが正しいと思います。用語が本当に難しいですが、イエスは時空間が出来る、ずっと前から父と一緒に存在してこられた真の神であるという意味です。ヨハネによる福音書はこう言います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1-2) つまり、イエスは神によって造られた普通の被造物とは異なる、最初から神の子として存在しておられた真の神の子であるということです。最初から父とおられ、父と創造も共になさった存在であるということです。私たちのような人間は神の被造物として神とは本質的に全く違う、創造された存在です。しかし、主イエスは父と永遠に一緒におられ、最初から御子として存在された方です。そのため、キリスト教の神学では、イエスのことを神の唯一の真の実子であり、キリスト者はキリストによって神に養子縁組された養子だと表現しているのです。これを通じてキリスト者が神の被造物であるため、神を父と呼ぶのではないということが分かります。真の神の実子であるキリストによって神の子とみなされた存在であるということです。真の神の子キリストの犠牲と御救いによって、神を父と呼べない者たちが、神を父と呼べるようになったわけです。もちろん旧約にも神はご自分の民を父親、あるいは母親の観点から扱われることもあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15) しかし、ここでは神がイスラエルの民の創造者として彼らを子供のように考えておられるということであって、イエスのように存在そのものが完全な実子であるという意味ではありません。旧約においての神の子の概念と新約においての神の子の概念は、まったく違う意味を持っていることを忘れないようにしましょう。 3.堂々と神を父と呼べる者たち。 ですから、主は言われたのです。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28) 洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者でした。イエスのご到来からは、新約の時代であり、イエスを主と崇める私たちは新約の民です。私たちの中で最も小さな者でも、神はイエス·キリストによって、旧約最後の偉大な預言者である洗礼者ヨハネより、さらに優れた存在として認めてくださるという意味です。ヨハネの時代、すなわち旧約時代には、キリストによって神の養子となったという概念がありませんでした。しかし、新約の民はイエス·キリストによって神の子と認められたのです。養子だからといって、神が私たちのことをニセ息子として思っておられるわけではありません。私たちはよく「キリストは教会の頭、教会はキリストの体」という表現を口にします。つまり、私たちはキリストのものとなった存在です。神は御子イエスを愛されるように、その体となった教会と教会に連なる一人一人をも愛しておられます。まるで、神がキリストを愛しておられるように、キリストの民をも愛しておられるのです。言葉だけ養子であって、実際はキリストに負けないほど私たちは愛されているのです。そんなに愛されていなかったら、父なる神は、独り子を十字架のいけにえとして犠牲されなかったでしょう。私たちはキリストによって、キリストのように神に愛される神の本当の子供になったのです。したがって、私たちは、いつでもどこでも神の子として堂々と立つのが出来るのです。 締め括り コラムデオという言葉をご存知ですか。この言葉はラテン語で「神の前で」という意味です。罪を持った人間は神の御前に立つ瞬間、神聖によって滅ぼされます。しかし、このコラムデオという言葉の裏には「キリストと共に神の前で」という意味が含まれています。神の真の子イエス·キリストによって、主の体となった私たちは、主と共に神の御前に堂々と立つことが出来ます。主イエスを通じて、神の子として生きることが出来るのです。イエスが、この地上に肉となって来られた理由は、まさに私たちを神の子にして神の前に堂々と立たせてくださるためです。そして、私たちは、そのキリストを信じて神の子、キリスト者と呼ばれるようになったのです。「イエスは言われた。…わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20:17) イエスが復活された朝、以上のように主は言われました。主のご誕生は、まさに私たちに真の父をくださるためです。なぜ神であるキリストが、この地上に来られたのだろうか、なぜ、私たちは神を父と呼べるのだろうか、今日の言葉を通じて、もう一度考えてみる機会になることを願います。 父と子と聖霊によって、アーメン。

希望のない者たちのための希望。

ミカ書5章1節 (旧1454頁) マタイによる福音書2章1~12節 (新2頁) 1.アドベントとロウソクの意味。 私たちは今アドベントの期間を過ごしています。アドベントとはラテン語のアドバントゥスを英文に表現したもので「到来、出現」を意味します。つまり、イエスのご到来を記念し、待ち望むという意味です。このアドベントは漢字語では「待降節」または「待臨節」とも呼ばれますが、主が天から地上にご到来なさったという意味です。もともと初期カトリック教会でクリスマスではなく主顕祭(1月6日) つまり、今日の新約本文に出てくる「東方からの占星術の学者たち」が赤ちゃんイエスを訪問した時を、イエスの神聖が現れたと見なし、その日を主顕祭と呼び、それを準備するために4世紀から始まったと知られています。また6世紀からはイエスの初臨を記念するだけでなく、再臨をも記念する意味を持つ期間になったとも言われます。しかし改革教会はイエスのご誕生にもっと意味を与え、クリスマス前の4週間をアドベント期間として記念しています。アドベントの期間に教会は4本のロウソクに火を灯していますが、正確にいつから始まったのかはわかりません。しかし、この4本のロウソクの点灯にも意味があります。 第一週間目のロウソクは、待望と希望のロウソクです。キリストのご降臨を待ち望み、御国への希望を表すロウソクです。キリスト者が、疲れた者たち、貧しい者たち、闇の中にいる者たちを助けることを祈るロウソクなのです。第二週間目のロウソクは悔い改めとざんげのロウソクです。互いに傷つけあい、憎みあい、赦さず、主の民らしく生きてこなかった自分の罪を悔い改め、主の民らしく生きることを祈るロウソクなのです。第三週間目のロウソクは、愛と分かち合いのロウソクです。傷ついた隣人、貧しい隣人、独りぼっちとなった隣人を憶え、愛の実践を祈るロウソクなのです。貧しい隣人のために、志免教会は何ができますでしょうか? 第四週間目のロウソクは出会いと和解のロウソクです。イエスは神と罪人の和解のために、この世の私たちに来られ、共にいてくださいました。 どうすれば、私たちは隣人、家族、友人にイエスを紹介し、神と和解させることができますでしょうか? 私たちの伝道について考えさせるロウソクではないかと思います。 2.イエスを訪れた東方の学者たち。 イエスがお生まれになった夜、輝かしい星が空に現れました。そして、東方の国(おそらくペルシャ)で占星術を研究していた学者たちが、その星を見つけ、偉大な人物が生まれる良い兆しだと思い、星についてイスラエルの地まで来ました。彼らはエルサレムにたどり着き、ヘロデの王宮に向かいました。今日生まれた偉大な人物はきっとユダヤの王子だろうと思ったからです。しかし、彼らが王宮に到着したとき、そこには赤ちゃんがおらず、誰も偉大な人物が生まれたことを知っていなかったのです。それでは、その偉大な人物は一体どこに生まれたのでしょうか。ところで、当時のイスラエルには「神のメシア」が来ると永遠の王になり、この世を正しく統治するとのメシア信仰がありました。つまり、東方の学者たちの話を聞いたヘロデとユダヤの宗教指導者たちはメシアの出現だと気づき、たいへん動揺したでしょう。もし本物のメシアの生まれだったら、まもなく自分たちの政治権力や宗教権力は脅かされるに間違いなかったからです。 そのため、ヘロデは自分の権力を守るために東方の学者たちを利用してユダヤの王と呼ばれる赤ちゃんの位置を突き止めようとしました。ヘロデは、メシアがどこに生まれるのかを宗教指導者たちに調べさせました。そして、彼らは旧約のミカ書5章1節に記してある言葉から、その位置を推定しました。そこは小さい村ベツレヘムでした。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2:5-6) 東方の学者たちはその言葉を聞いてヘロデを離れ、メシアとして生まれた赤ちゃんのところを探し出すために、星についてベツレヘムに足を運びました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイ2:9-10) 結局、彼らはベツレヘムの小さい馬小屋で赤ちゃんとその両親に会うことになりました。 ベツレヘムはエルサレムから南の方に10キロも離れていない近場の町です。(志免町から天神ください) イエスの時代にも賑やかなエルサレムとは違って、貧しくて小さい村だったと言われます。現代でも、ベツレヘムはエルサレムと比べて素朴で、特にイスラエル人に迫害され、差別されるパレスチナ人の貧しい町です。そこにはイエス誕生教会というカトリック教会があります。その教会がイエスがお生まれになったところだと推定しています。驚くべきことに東方の学者たちがそこに到着した時、小さい赤ちゃんが飼い葉桶の中にいました。(飼い葉桶の話はルカによる福音書に出てくる。) そして、その赤ちゃんはイエスという名前の男の子でした。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11) ところが、偉大な人物メシアとして生まれた赤ちゃんは、予想とは裏腹に王子や名望のある貴族ではなく、貧しい没落王族の息子として生まれていました。 3。主がいちばん小さい村に来られた。 学者たちは、赤ちゃんに黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。黄金は王権を、乳香は神聖を、没薬は苦難を意味するという解釈もありますが、しかし、それより重要なことは占星術(当時は迷信というより科学に近い)を研究する東方の学者たちが、この貧しい家柄の赤ちゃんを真の偉大な人物、メシア、王として認め、上記の贈り物を献げたということです。つまり、神のメシアが王子ではなく貧しい家柄の息子として来られたということを確定する意味なのです。人間は罪によって神から離れた存在です。人間は一生、罪に束縛されて生きる、悲惨な存在です。人間は神に見捨てられても全くおかしいことのない存在なのです。しかし、神のメシア、神の独り子が肉体になり、しかも貧しくて弱い家柄の息子として生まれ、王宮ではなく飼い葉桶に生まれたということは、神が自ら、罪によって悲惨になった人間を守るために罪人のところに来られたという意味です。イエスのご誕生はまさにこの罪人たちへの神の愛を確証する恵みと希望の出来事なのです。 私は先ほど4つのアドベントのロウソクのうち、第一週間目のロウソクの意味が待望と希望であると申し上げました。数多くの旧約聖書の預言者たちが神のメシアを待ち望んでいました。イスラエルと人類が自分の罪のため、到底救われることの出来ない状態だったにも関わらず、神が必ず救い主メシアを送り、イスラエルと人類に希望の光を与えくださることを信じ、待ち望んだわけです。だから、イエスがこの世に来られたということは、まさにこの旧約の待ち望みと希望が成し遂げられたという意味なのです。イエスは最も小さい村、最も貧しい村、最も悲惨な村の中でも、最もむさ苦しく寒いところにお生まれになりました。今日も誰かを憎み、自分のことだけを考え、自分の罪から自由でない私たち罪人を救い、新たにしてくださるために、主イエスは天の最も明るく輝かしい王座を捨てて、罪人である、この私のために、地上に来られたのです。 締め括り 希望のない者たちのための希望 イエスと共に生きる私たちには絶対的な希望があります。自分自身を見る時は全く希望がないように見えるかもしれませんが、私たちの救いために来られた主イエスを通じて自分を見ると輝かしい希望が見えてくるのです。イエスがいらっしゃるからこそ、こんなに小さくてみすぼらしい私にも希望があるのです。だから、イエスのご誕生は他人事ではありません。希望のない私自身のための神の恵みなのです。クリスマスまであと2週間です。2週間、イエスが来られたということは私にとってどんな意味を持つのか、今日の言葉を通して考えてみることを願います。私みたいな罪人のために低くて寒くて汚いところに来られたイエス、そのイエスの御心に従って自ら謙虚にし、私たちもイエスのように他人を愛し、赦し、仕える者となることを願います。その恵みが皆さんの上に豊かに注がれますことを祈ります。 父と子と聖霊によって。アーメン。

最も重要な掟。

申命記6章4~5節 (旧291頁) マルコによる福音書12章28~34節 (新87頁) 1.掟が与えられた理由。 志免教会に赴任してから、掟あるいは戒めについて、何度も説教をした記憶があります。以前にはなかった十戒の朗読も月に一度、礼拝の儀式に組み入れました。なぜかというと十戒をはじめとする旧約の掟は、神の御言葉の要約であり、改革教会の礼拝伝統においても大事な意味を持っているからです。神は、なぜ私たちに十戒と様々な掟をくださったのでしょうか。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(申命記5:10) それは、神の民がその掟から学び、正しく生きるようにされ、神の祝福と恵みをいただくようにしてくださるためでした。しかし、ここで、私たちは誤解してはなりません。「掟を行い守る。」という「自分の行為」の代価として、神の恵みをいただくわけではないということです。イエスの時代のユダヤ人たちが「行いによって救われる。」と思っていたのも、掟の存在理由を誤解したためでした。神は、すでにご自分の民に恵みと祝福を与えてくださった方です。神は行いを通して掟を守り「自分の力で何かを成し遂げろ」という意味として、掟を与えられたわけではありません。むしろ、掟を通じて主の御言葉を憶え、その御言葉の意図に従って生きることを望まれ、掟をくださったわけです。すなわち、掟を行うより、掟の真の意味を知ることが、さらに大事であり、知るようになった掟を守りながら、主の民に相応しく生きる時に、神の恵みと祝福はより一層大きくなって私たちに与えられるのです。 ユダヤ人には、モーセ五書の言葉を縮約して掟の形にした「ミツボト」という掟集がありました。縮約と表現しましたが「しなければならない掟248個、してはならない掟365個、合計613個」のかなり膨大な量の掟を含んでいたのです。おそらく現代のエルサレムに住んでいる純粋なユダヤ人たちは、今でもこの「ミツボト」を守っているかもしれません。「ミツボト」とは、ヘブライ語で「戒め、掟」を意味する表現です。「ミツボト」の中の「しなければならない248個」は「人が生まれた時の骨節の数」に由来したと言われ「してはならない365個」は1年の日数に由来したと言われます。つまり、主の掟をよく守れば、骨と節が楽に一生を生きることができ、主の掟を破って生きれば、1年365日が辛くなるだろうとの意味だったそうです。おそらく、これらの物語は、昔のユダヤ人のラビによって作られたものだと思われます。しかしながら、それなりに深い意味があると思います。主は旧約聖書を通して、神の御言葉に聞き従い、主のみ旨にふさわしく生きる人には、幾千代まで慈しみをお与えになると言われました。最初の「ミツボト」は、このような神の御言葉を大切にすた、昔の人々がモーセ五書の言葉を厳選して整えた律法であるため、彼らがどれほど神の掟を重要視したのかが分かります。しかし、残念なことに、その子孫たちは掟を完全に誤解し、自分たちの行いによって救いを得るための人間的な道具、あるいは、掟をよく守れない人々を非難するための暴力の道具として使ってしまいました。 2.最も重要な掟 そして、その子孫たちが、まさにイエスと対立したユダヤの宗教指導者たちだったのです。彼らは普通の民より、掟に詳しい人々でした。しかし、彼らが理解していた掟は、神の御言葉に聞き従い、それを実践するためのものではなかったのです。彼らは数多くの掟をほとんど覚えているほどでした。また、覚えている掟を厳守しようとする熱心も持っていました。しかし、彼らは掟を覚えて機械的に行うだけで、その真の精神と意味を込めた実践はしていませんでした。主はご自分の民が神を愛し、その方のみ旨に適う人生(そのうち、隣人愛の実践)を生きるようにしてくださるために、掟を与えられたのです。なのに、彼らは掟を利用して自分たちの宗教的な欲望だけを満たし、自分たちの既得権だけを築き、掟をよく守れない人々を批判するために誤用してしまいました。神を愛するからこそ、掟を厳しく守るのだと言っていましたが、彼らは掟を利用して自分自身だけを愛していたのです。彼らは神も隣人も愛していない存在でした。ですから、神であるイエスが、彼らと会われた時、厳しく叱られたわけです。私たちは、教会に通い、説教を聞き、毎日祈り、聖書を読みます。しかし、それらによって自分自身の宗教的な欲望を満たそうとするだけなら、私たちの信仰は有名無実なものになってしまうのです。神の御言葉には、神の意図が含まれています。それは主の民が神を愛して生きるようにすることであり、さらに神の御心に従って生きるようにすることです。 今日の本文には、ある律法学者が登場します。彼は掟に精通した人です。彼は今までの論争を見ながら、イエスが御言葉によってユダヤ人の反対者たちの鼻を折られるのを目撃しました。彼はユダヤの宗教指導者たちにも屈しないイエスという人に興味ができたようでした。それで、彼は自分の専門である掟についてイエスに質問しました。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12:28) もしかしたら、この律法学者はイエスを攻撃しようと来たのに、最後に心を変えたかもしれません。以後、イエスの御言葉を肯定する姿が出てくるからです。ひょっとしたら、彼はイエスの律法への理解し方に興味が出来たかもしれません。するとイエスは言われました。「イエスはお答えになった。第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(12:29-31) 掟の専門家である律法学者は、イエスが掟の精神を正確に見抜いておられるのを見て喜びました。「律法学者はイエスに言った。先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」(12:32) 3。主が望んでおられる信仰生活。 神学を始めて以来、旧約には裁きの神が登場し、新約には愛の神が登場すると誤解する人が少なからずいました。しかし、神は新旧約を問わず、いつも愛の神であり、また、裁きの神であります。というのは、神は旧約においても、新約においても、全く移り変わりなく、いつも同一の方でおられるということです。ということで、神は新約の福音だけでなく、旧約の掟(律法)を通しても、愛について言われたのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5) 神は旧約の掟(律法)によって、神への愛を教えてくださいました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)また、主は旧約の掟(律法)によって、隣人への愛をも忘れられず、教えてくださったのです。つまり、神は旧約の律法でも、神と隣人への愛を語っておられるのです。したがって、神の愛の掟は神と隣人に向けた主の命令であり、教えであるのです。613個の掟を別々に思ってはなりません。十戒を十の戒であると覚えてはなりません。掟そのものが一つの愛の命令だからです。ですから、神への愛と隣人への愛をも別扱いしてはなりません。神を愛する人なら、隣人をも愛するべきです。そうしてこそ、神にいただいた掟の中心である愛の実践が出来るようになるからです。 今日、本文に登場した律法学者は、もしかしたら、最初はイエスを嫌う人だったかもしれません。噂による偏見で、イエスが律法と掟を無視する人だと誤解していたかもしれません。しかし、主は掟(律法)の精神である、愛の実践を正確に見抜いておられる方ですので、若い頃から掟(律法)を研究してきた律法学者は、イエスが掟に精通でいらっしゃることに気づくことになったでしょう。「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(12:33) 彼はイエスが律法について、立派にお答えになったのを見て感心し、応用までしました。「神と隣人を愛することが、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている。」律法学者は、神の御望みは掟を機械的に厳守しながら自身の宗教的な欲望を満たすことではなく、掟の最も中心的な内容である愛の実践、神の御言葉への従順さであることを悟りました。イエスがエルサレムに来られ、最初にされたのは、宗教的な欲望の場所になってしまった神殿を清められることでした。宗教行為としての神殿礼拝を否定されたわけです。むしろ律法と掟を通して、主の命令である神と隣人への愛を守ることを主はお望みになっておられたのです。 締め括り 私は、年に1~2回、家族関係で、主日礼拝を欠席しなければならない方に、積極的に家族との時間をお勧めします。主日に教会に出席しなくても良いという意味ではありません。日本キリスト教会の規則や改革教会の規則にも、主日の公的な礼拝は、とても大事にされています。しかし、主日礼拝に出席するために、家族の苦しみや隣人の悲しみを見逃すなら、私たちは、礼拝の意味を完全に誤解しているのかもしれませんので、主日に家族と一緒に苦しみと喜びの時間を過ごされるように勧めるわけです。つまり、皆さんが家族の苦しみを分かち合うために教会を欠席することは、ある意味で、教会での礼拝と同じように重要なことだということです。それは、ただの家族との時間ではありません。家族の魂を愛するという、また違う礼拝の時間なのです。宗教的な人間にならないように気をつけましょう。信仰者になっていきましょう。皆さんのいるところが愛の場になり、皆さんのいるところが礼拝の場になるように、信仰者になっていきましょう。そのような人生こそが、まさに掟の真の精神である、愛を実践する人生なのです。神と隣人への愛、いくら強調してもし過ぎることのない重要な信仰のあり方です。そのような愛を実践することで、神の掟を守っていく志免教会であることを祈ります。 父と子と聖霊によって。 アーメン。