主に賛美せよ。

詩編113編1~3節(旧954頁) エフェソの信徒への手紙1章3~6節(新352頁) 前置き 賛美とはどういうものでしょうか? 私たちは礼拝の際、何度も讃美歌を歌います。讃詠を皮切りに聖書朗読前の讃美歌、説教前の讃美歌、説教後の讃美歌、聖餐式の讃美歌、礼拝が終わる時の頌栄を歌います。教会によっては、礼拝開始の前に讃美歌を歌うか、礼拝の後に讃美歌を練習する場合もあります。大きい教会では、イースター、クリスマスなどの記念日に合わせて賛美のコンサートを開くところもあります。そのため、私たちは無意識に「賛美は歌である」と受け止めがちです。しかし、賛美は果たして歌だけに限るものなのでしょうか? 今日は聖書に現れる賛美について学び、その意味を、あらためて心に留める時間を持ちたいと思います。 1.聖書に現れる賛美 聖書の言語であるヘブライ語とギリシャ語には、数多くの賛美にかかわる言葉があります。日本語では「讃美、賛美」あるいは「ほめたたえ」くらいですが、聖書の言語では数多くの表現があるのです。そのすべてを一々取り上げて説明することは、かなり時間がかかりますので、今日の本文に出てくる四つの表現(ヘブライ語ハラルとギリシャ語翻訳エパイノスとヘブライ語バラクとギリシャ語翻訳エヴロゲオー)について考えてみたいと思います。まず、今日の旧約本文を読んでみましょう。「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美(ハラル)せよ。主の御名を賛美(ハラル)せよ。今よりとこしえに、主の御名がたたえられる(バラク)ように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美(ハラル)されるように。」(詩篇113:1-3)詩篇113編はイスラエルの民が過越祭のような大事な祭りに歌った賛美として知られています。 詩篇113編だけでなく114編から118編までも、そのような歌でしたが、それらは「ハレルの詩」と呼ばれました。このハレルという名称は、これから探ってみる「ハラル」に由来します。今日の旧約本文で主なる神への賛美、その一つ目のヘブライ語は「ハラル」です。 ハラルには、さまざまな意味がありますが、基本的に「明らかになる。輝く。」のイメージを持っています。そして、そのイメージから「賛美する。褒める。誇る。」などの表現が派生しました。主なる神が成し遂げられたすべてのことが「闇を退け、秩序をもたらす最も明らかで輝かしい御業」であるため、天地万物が主なる神を「ほめたたえ、誇りにする」のです。また、このハラルはギリシャ語では「エパイノス」と訳されますが「エパイノス」はそのままで「~に賛美する」という意味です。 賛美にかかわる、その二つ目のヘブライ語は「バラク」です。この表現のイメージは「ひざまずく」です。そして、もう少し意味を拡張して「主の御前にひざまずいて謙虚に屈服する。」と解き明かすことが出来ます。主なる神の偉大な御業に感謝し、謙虚にひれ伏し、主の偉大さをほめたたえるという意味です。この表現はギリシャ語ではエウロゲオ-と訳されますが、エウは「良い、立派な」を意味し「ロゲオー」は言葉、思想、理屈を意味する「ロゴス」の動詞形です。主なる神に一番良い言葉と思いをささげるという意味でしょう。賛美は狭い意味では礼拝の時に歌う「歌」として定義することが出来るでしょう。しかし、より広い意味としては「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」とも言えるでしょう。したがって、賛美はただの歌だけを意味するものではありません。私たちの人生のすべての姿が、私たちの賛美そのものになるのです。教会党に出席し、讃美歌を歌うだけで賛美を尽くしたと思ってはなりません。教会でも、家庭でも、社会でも、主の御言葉と御心に聞き従って正しい信仰の人生を生きること、それこそが私たちの真の賛美なのです。 2.主の明らかで輝かしい御業 それでは、主なる神が成し遂げられた明らかで輝かしい御業とは果たして何でしょうか? 今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえ(エウロゲオ-)られますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえる(エパイノス)ためです。」(エフェソ1:3-6) 今日の旧約本文に出てきた賛美を意味する「ハラルとバラク」が、今日の新約本文でもギリシャ語(エパイノスとエウロゲオ-)に訳されて出てきています。使徒パウロは主なる神が成し遂げられた偉大な御業をハラル(エパイノス)とバラク(エウロゲオ-)という言葉を用いてたたえているのです。主の明らかで輝かしい御業を被造物の人間に過ぎない私たちが、すべて見抜くことは不可能です。しかし、私たちは新約本文に記録された言葉を通じて主の御業の一部を覗き見ることができます。 一、主なる神は、天のあらゆる霊的な祝福で私たちを満たしてくださいました。罪によって見捨てられた罪人をイエス·キリストの十字架の贖いよって救い、さらに霊的な祝福をくださったのです。(3節) 二、主なる神の救いは、偶然や即興的な救いではなく、天地創造の前から計画された永遠の愛に基づいています。(4節) 三、私たちは主なる神の御心のままに前もって定められ、キリストにおいて主の子供とされました。(5節) 四、これらによって、主なる神はキリストによって主の子供に召された私たちに、主の輝かしい恵みを賛美する資格を与えてくださいました。(6節) 主はすべての光の源であり、すべての正義と秩序の主です。主がなさるすべてのことが明らかで輝かしい御業です。聖書は、その中でも特にイエス·キリストによって主の民を選び、救い、主と共に生きるようにしてくださったことを最も偉大な御業であると証しています。私たちはイエス·キリストにあって、私たちの救いを成し遂げてくださった主なる神の明らかで輝かしい御業に感謝し、その方に私たちのすべてを捧げ、従順に聞き従う人生を生きるべきです。そして、そのような生き方そのものが、主なる神への私たちの賛美になるのです。素晴らしい歌唱力、美しい音色、きれいな奏楽も良い賛美です。しかし、最も根本的で基礎的な賛美は、断然主の民にふさわしく信仰にあって主と共に歩む私たちの日常の生活ではないでしょうか? 3。賛美について思いめぐらす逸話 アメリカの黒人解放期、黒人の人権のために尽力した女性作家がいました。   彼女は「アンクル・トムの小屋」という小説で有名な「ハリエット•ビーチャー•ストウ」でした。長老教会の牧師の娘に生まれ、神学を勉強した彼女は、黒人の悲惨な生活を目撃し、奴隷制度に反対する作品「アンクル・トムの小屋」を書いたのです。彼女の小説はアメリカ社会に大きな波紋を投げました。ある日、彼女はアメリカの南北戦争を勝利に導き、黒人奴隷解放を宣言したアブラハム・リンカーン大統領に会うことになりました。「ストウさんにお会いできてとても嬉しく思います。小説を読んだ後、作家が軍人あるいは政治家だろうと思いましたが、こんなに小さなご婦人であるとは思いませんでした。私はあなたの小説を読んで大きな感動を受けました。そんなに素晴らしい小説をどう書かれたのでしょうか。」ストウは答えました。「とんでもございません。それは私が受けるべき褒め言葉ではございません。主なる神にに才能をいただいたのですから、ひとえに主だけに栄光を捧げるだけです。それよりも、多くの黒人を悲惨な奴隷制度から解放された閣下の業績こそ、永く輝くでしょう。」するとリンカーンは謙虚に答えました。「いいえ、こちらこそ、とんでもございません。私はただ主のしもべに過ぎません。私自身には何の力もありません。すべてが、主のご命令に従った結果なのです。だから、すべての栄誉は主に帰すだけです。」黒人解放の主役である2人は自分の業績を自慢せず、そのすべてが主なる神の恵みであるとほめたたえました。 締め括り 上記の物語は、真偽のほどは定かではありませんが、少なくとも、思いめぐらせるところはあると思います。リンカーンとストウの会話を読みながら、これこそ真の賛美のあり方ではないかと思いました。毎週教会に出席して讃美歌を歌っているが、職場では冷たくて薄情な上司ではないか。毎週教会で奏楽しているが、学校では真面目でない生徒ではないか。毎週教会で奉仕をしているが、家庭では配偶者との関係は悪くないか。いろいろなケースがあるでしょう。そのような人々が歌う讃美歌は果たして主なる神に喜ばれる賛美になれるのでしょうか。今日学んだ賛美の意味についてもう一度復習して説教を終わりたいと思います。「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」それこそが私たちの生活に現れる真の賛美ではないでしょうか?

神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き 私たちが主日ごとに教会に出席し、説教を聴く理由は聖書に記してある主なる神の御言葉を説教を通じて教えていただくためです。説教は説教者個人の知識の自慢でも、思想を広める手立てでもありません。説教は聖書に記してある主なる神の御言葉を現代の聞き手が理解できる言葉で解き明かし、数千年前の主の御心を教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要のため、御言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、また、聴いているだけに神の御言葉が歪曲される可能性がないとはいえません。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書のまことの解釈者になってくださり、説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は聖霊によって生命を得、今でも働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話しましょう。 1. この世の言葉とは異なる神の言葉。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55:6-8) 今日の旧約本文は、悪行と偶像崇拝の罪のため、罰を受け、滅ぼされたイスラエルの民を赦し、あらためて機会を与えようとする主の御心が書いてある箇所です。イスラエルは、神の祭司の王国と呼ばれる聖別された民族でした。他の国々のように武力で他国を征服したり、富で他国を圧倒したりするのではなく、ひとえに神の御救いの言葉を伝えるために生まれた、祭司長のような国として神に選ばれた民族でした。しかし、彼らは他の国々のように武力と富を求めました。その結果、イスラエル民族は真っ二つに分かれてしまい、その後にも、子孫の悪行と偶像崇拝のため、主なる神に用いられたアッシリアとバビロンといった帝国よって滅ぼされたのです。今日の旧約本文は、その滅びてしまったイスラエルへの主のお赦しと回復を呼びかける言葉です。 ご自分の民が失敗し、どうすれば良いか到底分からない時、主なる神は迷わずに主に帰ってきなさいと呼びかけられる方です。聖書を通して主は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。」世の常識によれば、罪を犯した人は、赦されにくくなります。犯罪者が釈放されても、再出発しにくい理由も、社会が一度失敗した人を簡単に許さないからです。しかし、主なる神は、この世の常識とは異なる御心によって、罪人を扱っておられることが、今日の旧約本文から分かります。主の御言葉(思い)は、この世の常識とは全く違います。失敗して二度と起きられないような絶望の時にも、主の御言葉は「新しい始まりが出来る」と語ります。この世は失敗した者を蔑んでも、主は世の思いとは違って新しい始まりを語られます。私たちがこの世の言葉ではなく、主の御言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。世の言葉は押さえつけて殺す言葉です。しかし、主の御言葉は立て直して生かす言葉です。世はもう終わりだと語っても、主の言葉はこれから始まりだと語ります。孤独で厳しい現代社会を生きる私たちに神の御言葉が必要な理由です。 2. 神の言葉は生きている。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)「言葉」は、ギリシア語で「ロゴス」です。この「ロゴス」は言葉を意味するとともに「考え、思い、理屈、思想、意見、説明」などの多い意味を持ちます。つまり、主の言葉としてのロゴスは、主なる神の「思い、理屈」とも言えるでしょう。ですから、先ほどの説教で主の言葉を主の思いとも言い換えることが出来るでしょう。ということで、新約聖書ヨハネによる福音書は、こう語っているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) つまり、御言葉が肉となって、私たちに来られた神の子イエス•キリストは、主なる神の思いと理屈を人間に完全に伝える主のロゴスとして私たちの間に来られたということです。だから、説教の時、主なる神の思いと理屈を完全に表されるイエス・キリストとその御言葉をありのままに伝えなければなりません。説教という道具によって伝えられる主の御言葉が人間に正しい生き方を示す主の道具だからです。 日ごろ、私たちは、主の御言葉の働きを敏感に感じながら生きるのが難しいです。聖書を読んでもその意味が分かりにくく、毎日御言葉を黙想しても圧倒されるほどの生活の変化を経験するのは難しいです。しかし、毎日の御言葉からの小さい教えによって、私たちの人生は少しずつ主の御心に気づき、その御心に従って生きるようになります。隣人を愛しなさいという繰り返す主の御言葉は、私たちの生活において隣人への配慮を思い出させます。常に祈りなさいという御言葉は、心の中に「祈らないと」という望ましい負担感を与えます。御言葉に隠れている主の思いと理屈は、私たちの生活でいっぺんに大きな変化を起こすことはなくても、小さな変化を起こし続ける、変化の呼び水になることはできます。そして、その小さな変化が溜まっていき、ある瞬間(神の時が来れば)、私たちの人生に力強く働き始めます。神の御言葉は生きており、力を発揮して働くからです。今すぐはかすかに感じられても、決定的な瞬間、私たちの人生に強く働いて著しい変化をもたらすのです。その時になれば、するどい両刃の剣のように、私たちの心と良心と思いを刺し通し、主の御前に悔い改めさせ、神の御心を推し量らせ、人生の変化にまでつながるようになるのです。 3。だからこそ、聴かなければならない。 そういうわけで、使徒パウロはこう語ったのではないでしょうか? 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) 私たちは御言葉を聴かなければなりません。御言葉が聞き取れるか、聞き取れないかを問わず、私たちは常に御言葉に耳を傾けなければなりません。今日、聞いた御言葉が、すぐに私たちの生活にあって働かないかもしれませんが、すぐに働かないといっても、御言葉の小さな一片一片が集まって、自分の人生を変える津波になって戻ってくるということを常に心に留めて生きていきたいと思います。御言葉は喜びのない者と絶望に陥っている者に、主なる神の思いが世の思いと違うということを、諦めたい者に新しい道が開かれているということを知らせる希望の道具です。今すぐ変化がなくても、いつか神の時になれば、大きな変化を起こす、主なる神の大事な道具なのです。御言葉は生きています。聖霊なる神が御言葉を用いられ、私たちの人生を美しく導いていかれるからです。ですから、私たちは、毎日、主の御言葉を読み、その御言葉に聞き従い、主の思いを待ち望みながら生きていかなければなりません。生きている神の言葉は、今日も私たちと共にあり、私たちの人生を正しい道へと導きながら生きています。

聖霊と教会

ハガイ書2章1-9節(旧1477頁) エフェソの信徒への手紙2章14-22節(新354頁) 前置き キリスト教会は、御父、御子、聖霊の三位一体なる神を信じます。すべてを計画される父なる神と、神と人を執り成してくださる御子イエス・キリストと、教会と世界を導いていかれる聖霊、三位が一つになって三位一体の神である方です。しかし、私たちには、おもに父なる神と御子にだけ集中する傾向があって、聖霊に対しては見過ごしがちではないかと思うようになります。私たちは普段、聖霊について、どんな認識を持っていますでしょうか。実際、御父や御子に比べて、聖霊への認識は薄くありませんか。毎年聖霊降臨節(ペンテコステ)を記念していますが、私たちの日常生活において、聖霊はどのように位置づけられていますか。聖霊なる神と、そのご降臨について話してみたいと思います。 1.聖霊のご降臨 主イエスは、十字架で救いを成し遂げられた後、3日目、復活されました。復活された主は40日間、12弟子と主の人々に現われ、ご自分の復活を証明され、福音の伝道を命じられ、昇天されました。それにより、弟子たちは主イエスが本当に復活の主であることを信じるようになりました。弟子たちは主の不在を恐れながらも、御言葉に従い、命令通りに行いました。その命令とは、主の約束つまり聖霊の降臨を待つことでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4-5) 生前の主イエスは、繰り返し聖霊の降臨を予告してくださいました。 使徒言行録によると、聖霊が来られれば、主の民が神に力をいただき、地の果てに至るまで主の証人になると記されています。そして、その結果、聖霊によって主の教会が打ち立てられました。 主の昇天後の10日間、弟子たちは主の約束、聖霊の降臨を待ちながら力を尽くして祈りました。ペンテコステの日、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らがいる家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で語り始めました。聖霊に満たされたペトロは、前のような恐れではなく、確信に満ちてイエス・キリストとその福音を堂々と宣べ伝えました。そして、その日、彼の伝道によって3000人がイエスを信じるようになりました。主の教会はこのように聖霊の降臨から始まりました。主イエスが繰り返して予告された聖霊の登場は弱い信仰を強め、不信を信仰に変え、また、主の福音を地の果てまで伝える原動力となりました。そのすべては、聖霊の降臨からはじめて実現したのでした。 2.聖霊の正体 聖霊はどのようなお方なのでしょうか。聖霊はヘブライ語では「ルーアッハ」ギリシャ語では「プニュマ」と言います。いずれも「風、息」を意味します。主なる神の霊である聖霊は、人間が触れることも、見ることもできない超越的な存在です。しかし、風が見えなくても存在するのと同じように、聖霊は主の民と共におられる方です。聖霊はまるで風のように人間のコントロールを超える方です。時には、そよ風のように優しい方で、時には嵐のように力強く働かれる方です。聖霊は創造の前から御父、御子と共におられた神で、創世記1章でも現れる方です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(倉1:2)また、聖霊は息のような方です。生き物が呼吸して生命をつないでいくように、聖霊はキリスト者に主による御言葉と信仰、生命を与えてくださる方です。聖霊を通じて生命の主であるキリストを知るようになり、信じるようになり、日常生活において主の御言葉に聞き従って生きるように導いてくださいます。 初めの混沌と暗闇と無秩序の世界に秩序と生命を与えてくださったように、聖霊は地上のキリスト者に信仰と生命と秩序を与えてくださる生命の息のような方なのです。聖霊は教会と切っても切りはなせない方です。御父と御子がなさる、すべての働きが聖霊によって成就します。イエスは頭、教会は体という教会のあり方も、主イエスと私たちを一つに結び付けてくださる聖霊のおかげで成立するのです。私たちの聖書も各時代の預言者たちが、聖霊の導きによって書き残された御言葉の記録なのです。聖書を読む時の悟りも、説教も聖霊によるものです。国籍が異なる人々が、一つの心を持って礼拝する理由も、聖霊によって一つになったからです。もし、聖霊の降臨が無かったら、2000年前に打ち立てられたキリスト教会は100年も経たないうちに消えてしまったでしょう。しかし、御父と御子から遣わされた聖霊のお導きによって、教会は2000年の歴史でも健在に続いてきたのです。 3.教会を保たせてくださる聖霊 今日の旧約本文は、この聖霊なる神が旧約時代にも主の民と共におられ、働かれた方であることを示しています。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:4-5) 聖霊は初めからおられ、旧約時代の神の民とも常にいてくださった方です。イスラエルという国が滅び、主がいらっしゃらないように感じられた時も、聖霊は移り変わりなくいつも民と共におられました。それでは、このように旧約時代から存在しておられた聖霊が、なぜペンテコステに再び臨まれたのでしょうか。これは、これまで不在だった聖霊が、新しく臨まれたという意味ではなく、常におられた聖霊がキリストの新約の教会を打ち立ててくださるために、改めて働き始められたと理解するのが正しいでしょう。初めから常におられた聖霊が、主イエスの十字架での贖いと復活によって建てられた主の教会を支え、保たせてくださることを示すために降臨という出来事を起こしてくださったということでしょう。 このように、新約の民、すなわちキリスト者に臨まれた聖霊は、聖書を通じて現れる主の御言葉を私たちに教えてくださる方です。また、キリスト者に「御心に聞き従おう」とする聖なる熱望をくださる方です。聖霊はキリストへの信仰をくださり、神と隣人への愛を起こしてくださる方です。このように主の教会がキリストを中心にし、しっかりと建てられるように、聖霊は教会を助けてくださる方です。そういうわけで、主イエスはヨハネによる福音書を通じて「助け主」聖霊が来られると力強く予告してくださったわけです。聖霊なる神は、時空間を越えて、いつまでも、キリストの民である教会と共にいてくださるでしょう。したがって、主イエスの教会がある場所には、かならず聖霊が一緒におられます。「(教会は)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) 締め括り 聖霊なる神は絶対に遠くにおられる方ではありません。聖霊は常に私たちの中におられ、私たちが感じるにしろ、感じられないにしろ、私たちを導いてくださいます。ペンテコステ(聖霊降臨節)を迎え、私たちの間におられる聖霊なる神を憶え、御父、御子だけでなく、聖霊まで、三位一体なる神が私たちの主であり、私たちを守ってくださる方であることを信じ、感謝をささげる志免教会になることを祈り願います。

主に栄光を帰す生活

歴代誌上16章28-29節 (旧651頁) ローマの信徒への手紙11章34-36節(新291頁) 前置き 聖書には、主に栄光を帰すという言葉がよく出てきます。日本ではほとんどないかもしれませんが、アメリカや韓国のようなキリスト者の多い国では、年末の授賞式などで「この栄光を主に帰します。」というふうの感想を言うキリスト者の俳優や歌手もいます。私たちもキリスト者として生きながら、一度以上、主に栄光を帰すという言葉を口にしたことがあるでしょう。主に栄光を帰すというのはいったいどういう意味でしょうか。そして、主に栄光を帰す生活とは、どんなものなのでしょうか。今日は「主に栄光を帰す」という言葉の意味とその生き方について話してみたいと思います。 1. 栄光を帰すという言葉の意味 「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて御前に近づき、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」(歴代誌上16:28-29) 若いころの数多くの逆境と苦難を乗り越え、堂々とイスラエルの王になったダビデは、自分の宮殿を建てた後、一番最初に主なる神の幕屋と掟の箱を置く場所をもうけました。彼は主の掟の箱を自分の宮殿に運びながら、心から喜び踊りました。その時、ダビデは先ほどの讃美を歌いました。「主に栄光を帰せよ」と繰り返し歌いました。今までの危険の中で自分の歩みを守ってくださり、イスラエルの王に立たせるという約束を守ってくださった主なる神に最高の賛美をささげようとしたダビデの真心をこめた歌だったのです。ヘブライ語で栄光の語源は「重い」に由来しました。 漢字語のように栄誉ある光を意味するより、軽くなく厳粛で威厳のある価値により近い表現です。当時、ヘブライ文化では鉄のような重い金属が大きな価値を持っていたと言われます。その重さによって、その価値がさらに上がったそうです。ですから、「重いものは価値あるもの」という認識が一般的だったようです。そういうわけで主なる神の栄光も重いものではないかと思ったわけです。この世で一番重くて価値あるものが、主なる神の栄光であると思ったのです。 主なる神の栄光は、ひとえに主だけのものです。主はその栄光を誰とも分けられない方です。いや、分けようとしても、その栄光を受けて自分のものにすることができる存在は、この宇宙に存在しません。したがって、この主の栄光は、唯一主なる神だけが持つことができる栄誉なのです。主だけが持つことの出来るものを主に返すという言葉、罪によって汚され堕落したこの世の中で、数多くの偶像と自らを神とする数多くの罪人の間で、ただ、聖なる神だけを主と崇め、その方だけを万物の主として認めること、それこそが主に栄光を帰す人生のあり方ではないでしょうか。したがって、私たちの人生において、主に栄光を帰すということは、主なる神が主として完全におられるように、自分の人生のすべてを主中心に生きることを意味します。この世は、主なる神を軽んじます。主を無視し、認めようとしません。特にキリスト教の影響が著しく貧弱なこの日本ではなおさらです。しかし、私たちは主イエスのお導きと恵みによって、主の言葉を聞くようになり、御言葉によって主なる神という存在を認識し、信じるようになりました。それによって、私たちは主だけが私たちの真の主であり、父であり、私たちのすべてであることを知るようになりました。その主なる神の御言葉に従って御心のままに生きること。「主に栄光を帰しながら生きる人生」は、その主の御言葉に従順に聞き従うことから始まるのです。 2. 主に栄光を帰す生活 したがって、主の栄光は「主なる神が主らしくおられること」とも言えるでしょう。主なる神が主らしくおられることは、この世のすべての被造物が創造主である神を主に認め、ほめたたえることでしょう。自分の人生において、主なる神だけを唯一の主として認め、ほめたたえ、御言葉に従順に聞き従うことは、最も現実的な栄光の帰し方でしょう。マタイ福音書には、このように記されています。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16) 主の御言葉に従順に従う私たちの生活が、世の人々に光のように映る時、主なる神を知らない人々が  私たちの生活を見て、主の存在に気づき、認め、栄光を帰すようになるでしょう。御父は創造主として、御子は救い主として、聖霊は助け主として認められ、ほめたたえられなければなりません。私たちは全生涯を通して、三位一体なる神を自分の主に認め、その方の御言葉に従い、主の御心通りに生きなければなりません。そして、そのような私たちの人生に現れる良い影響によって、私たちの隣人も主の存在に気付き、認めるようになるでしょう。私たちにできる「主に帰す最高の栄光」は、まさにそのような人生からではないでしょうか? しかし、ある人々は自分が何かを情熱に行い、良い結果を出し、他人より優れた者になることによって、主に栄光を帰せると誤解します。ですが、主は人間に栄光を帰してくれと、栄光を要求する方ではありません。主は被造物がなくても、彼らの助けや献身がなくても、十分主自らの栄光によって満ちておらえる方です。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:33-36) 今日の新約聖書の言葉のように、いかなる被造物も主を助けることが出来ません。したがって、私たちは自分の努力と行為を通して、主に栄光を帰そうと思ってはなりません。私たちは、ただ主にいただいた自分の人生を主の御言葉のもとに、謙虚に生きていくだけです。だから、主に栄光を帰そうという熱心と努力が、主に栄光を帰す手立てになるわけではありません。自分に託された人生を忠実に生き、主にあって感謝と喜びに生きる時、その平凡な日常がすなわち主に栄光を帰す人生になるのです。最も平凡な信仰の生き方が、最も望ましい、主に栄光を帰す人生になるということです。 締め括り 仕える者の心構え この説教の後、長老と執事の任職式があります。長老と執事になるのに負担を感じる方もおられるかもしれません。長老や執事になると、何か他人より優れた者にならないととか、他人よりもっと仕えるべきではとかの気持ちで、長老や執事になるのをためらう方々もおられるでしょう。しかし、今日、お話ししましたように、私たちの行為や努力によって主が栄光をお受けになるわけではありません。教会に仕える者は、いつもの通りに、主への愛と感謝とで、安らかに自分に託された務めを素朴に果たすことで充分です。もっと頑張らなければ、もっと優れていなければという気持ちのため、自分を責めたり、苦しめたりしないようにしましょう。いったい誰が完璧に教会に仕え、主に仕えることが出来ますでしょうか? ただ、自分に任されたことを自分に出来る範囲で、最善を尽くすことで、主なる神は喜ばれるでしょう。だから、すべてを主に委ね、一日一日を喜びに生きる長老、執事になってください。そして、長老、執事でない方々も、同じく主を愛し、御言葉に従う人生を送り、感謝と喜びの人生を生きましょう。牧師、長老、執事、一般信徒を問わず、信仰生活に臨む心構えは同じだからです。重要なのは務めではなく、信仰の心です。主の御言葉に従い、主を愛し、兄弟姉妹と隣人を愛する人生こそ、主が望まれる真の栄光を帰す人生です。 そのような人生を生きる兄弟姉妹でありますよう祈り願います。