アブラハムとメルキゼデク。

創世記14章13〜24節 (旧18頁)・ヘブライ人への手紙7章1-3節 (新407頁) 前置き 過去2回の説教で、私たちはアブラハムという人が犯した罪について話しました。信仰の父と呼ばれるアブラハムでしたが、彼にも私たちと全く同じ罪があったのです。彼は神に何も伺わずに、自分自身の判断で、飢饉を避けてエジプトに行きました。彼はそこで、生き残るために妻を他人に渡してしまい、それを通して不正の富を得る罪を犯しました。その後、彼は神に赦され、再びカナンに戻ってきましたが、そこで彼は不正に得た富の結果により、甥との不和が起こり、別れてしまいました。偉大な信仰の人物であったアブラハムさえも、結局、罪のゆえに残念な姿を見せたわけです。しかし、神は彼の罪をお赦しくださり、変わらず彼と共にいてくださいました。そして今日の本文は、一人の男を通して神がアブラハムと一緒におられることを証明しています。その男は、まさにサレムの王メルキゼデクでした。今日はアブラハムとメルキゼデクの物語を通して、ご自分の民と一緒におられる神様、そして神から遣わされたイエス・キリストについて話してみたいと思います。 1.アブラハムを正しく変化させる神の同行。 私たちは、漠然とアブラハム、モーセ、ダビデ、洗礼者のヨハネ、12人の使徒のような、聖書に登場する信仰の人物たちが私たちより、遥かに優れた信仰を持っているだろうと考えたりします。しかし、聖書はそのような信仰の人物たちの欠点さえも加減せずに表します。これは、聖書と同じころの古代に記された中東やギリシャの、褒め言葉で一貫した英雄たちの話と比べれば、非常に独特な違いだと言えるでしょう。特に信仰の父と呼ばれるアブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のすべてで、偉大な信仰の人物だと評価されていますが、聖書は彼の罪をありのままに記録することにより、彼の欠点を暴露しています。しかし、聖書はそのような欠点のある人物と最後まで一緒に歩んでくださる神の偉大さをも一緒に示しています。そして、そのような偉大な神の同行は、かつて取るに足りなかった聖書の人物を、偉大な信仰者に導く重要なターニングポイントになりました。前の創世記12章13章の物語の中で、私たちに失望を抱かせたアブラハムは、今日の本文を通しては、全く違う姿を見せてくれます。このように神様は、罪人の欠点をお赦しくださり、彼らと共に歩んでくださって、主の民が真の信仰者になれるように養ってくださる方です。 「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。さあ、目を上げて、…見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。…アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(13:14-18)エジプトでの失敗、甥との不和で、自分のどん底を見せたアブラハムでしたが、それでも、神はアブラハムと一緒にいてくださいました。このような神の同行は彼を変化させました。ロトと別れた後、アブラハムはヘブロンという地域に移住しました。過去、飢饉を避けて華麗なエジプトに行ったのと、また、ロトが潤ったが、罪に染まっていたソドムに行ったのとは違って、彼は比較的に発展していなかったヘブロンの地域、しかも、華麗さと遠い山林の地域に行ったのです。しかし、彼は、もうこれ以上欲張らず、謙虚に礼拝の生活を追い求めていきました。以降、彼は神だけに依り頼む人に変わっていったはずでしょう。人は何かに依存的な存在です。誉、富、権力、他人に頼りがちな本性を持っています。しかし、この世のどれ一つも永遠なものはありません。アブラハムにあった、財産も、親類も、結局はすべて変わってしまいました。しかし、神だけは変わることなく、彼と永遠におられる存在でした。移り変わりの無い神様によって、アブラハムは徐々に信仰の人に変わっていきました。 2.神の同行がもたらしたアブラハムの変化。 神が共におられることを信じ、神様の御前に礼拝者として立つようになったアブラハムは変化していました。それは、自分を捨てて去った甥を救うために、命をかけるほどの犠牲を覚悟した今日の本文の物語を通して知ることができます。私は前回の説教で、アブラハムと甥ロトが各々の財産を守るために、別れを選んだとお話ししました。ロトは叔父と同行しながら豊かになりました。しかし、彼はそのような恩を忘れてしまい、自分の目に良い土地を選んで、アブラハムを離れてしまいました。おそらく、アブラハムはそのような甥の裏切りに悔しさを感じたかもしれません。面倒をみてもらった恩も知らぬ、自分の利益だけを取るやつだと憎んだかもしれません。しかし、神の同行を信じたアブラハムは、そのような過去を省み、ロトを赦したのでしょう。 「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。…アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。」(14:11-14)今日の本文では朗読しませんでしたが、創世記14章は国々の戦争から始まります。 1節に登場する国は、おそらくバベルの塔が建てられた地域にあった強い国々だったと思われます。シンアルという地名が11章のバベルの塔の話にも書かれているからです。 この地域で打ち立てられた国々の中には、大きくて強い帝国が多かったです。旧約聖書でイスラエルを支配したアッシリヤ、バビロン、ペルシャなどのような国々が、この地域で発展しました。創世記14章によると、ある日、シンアルと、その同盟国の王たちが自分たちに支配されていた、ソドムとゴモラを含む5ヶ国の反乱を鎮めるために戦争を引き起こしました。その中のソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトも戦争に巻き込まれ、彼らの捕虜となってしまいました。もし、アブラハムに何の変化も無かったら、自分を捨て去った甥を、そのまま放っておいていたのかもしれません。しかし、アブラハムは、取り急ぎ、自分の手下を率いて、甥を救うために戦場に向かいました。自分の命が危険にさらされる可能性がある状況でも、アブラハムは神だけを信じて、行ったのです。彼はわずか318人の手下を率いて、同盟部族とシンアルの同盟軍を追いかけました。そして、アブラハムは甥と財産を救い出しました。かつて神を信頼せず、飢饉を避けてエジプトに行ってしまったアブラハム、それにより信仰の失敗を味わった彼は、今回は、神との同伴の中で、自分を捨て去った甥を救うために命をかけたのです。神の同道を信頼するようになったアブラハムは変わりました。自分の命だけを大事にしていた彼が、他人のために自らの命をかける大胆な信仰者に変わったのです。そして、神はそんな彼に勝利を与えてくださいました。 3.変化したアブラハムを出迎えた神の祭司。 「アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。 」( 14:17-18)アブラハムがソドムと、その同盟国を侵略した王たちを打ち破って戻ってくる時、アブラハムに助けられたソドムの王がアブラハムを迎えました。その時、ソドムの王と一緒にアブラハムを出迎えた、もう一人の人がいましたが、彼は神の祭司であるサレムの王メルキゼデクでした。メルキゼデクに関しては、今日の新約本文で詳細に記されています。 「メルキゼデクという名の意味は、まず、義の王、次にサレムの王、つまり、平和の王です。 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」メルキゼデクはヘブライ語で「義の王」という意味です。また、今日の本文では、サレムの王とも呼ばれていたが、エルサレム地域の王だったとの解釈もあり、ヘブライ語サレムの意味に従い、平和の王の解釈もあります。また、ユダヤ教のラビの中に彼がノアの子孫だと思っている人もいました。そして、現代の神学者たちは、彼をアンジェリーク・ルプリースト、つまり、超越的な祭司とも呼びます。 いずれにせよ、メルキゼデクは義と平和を愛し、神の子のような、聖なる存在、すなわち人間を超越する存在としての神の祭司でした。それ故に、ヘブライ書では、このメルキゼデクが永遠の祭司として、神と民の間を仲保する旧約聖書に表れるキリストの象徴として表現されています。神は神の子のような、神聖で義と平和を愛するメルキゼデクを送ってくださり、アブラハムへの祝福を通して、アブラハムを愛しておられることを確かめてくださいました。アブラハムは、神の民として召されましたが、神を完全に信頼していない者でした。そして、神よりも自分の考えを優先にし、信仰の失敗を経験した者です。しかし、神はそのような取るに足りなくて、愚かな彼を最後までお見捨てにならず、お待ちくださいました。そのような神の愛と導きの中で、アブラハムは少しずつ正しい道を追う信仰の人物になっていきました。そして、自分の考えではなく、神の御心に聞き従おうとしたアブラハムは、最終的に神の子のような祭司メルキゼデクに出会い、祝福を受ける、大きな恵みを体験したのです。 今日の本文でメルキゼデクが重要な理由は、神の子イエスに対する代表的な旧約のモデルだからです。もともとイスラエルで祭司はレビ族のサドカイ派系列のみ行うことが出来る職として知られていますが、実際に聖書に記された最初の祭司は、レビ族ではなく、イスラエル人でもない、このメルキゼデクだったのです。ひょっとしたら、メルキゼデクはイエス・キリストが旧約で、直接人間の姿をとって現れた存在なのかもしれません。ユダヤ族の子孫であるイエスが、真の祭司と呼ばれることが出来る理由も、まさにこのメルキゼデクというレビ族ではない、最初の祭司から、その職を受け継ぐ方だからです。彼はアブラハムに十分の一を受けることで、アブラハムの礼拝を神にお帰ししました。神はイエスのモデルである、彼を介してアブラハムを祝福なさり、それから、アブラハムが神の偉大な民として生きていくことを予告なさったのです。神は祭司を通して、王に油を注ぎ、彼を祝福なさいます。神の祭司に出会ったアブラハムは、それからは単純な神の民と呼ばれるレベルを超えて、神が立ててくださった王のような存在として生きていき、このアブラハムの子孫を通して、真の王イエス・キリストが生まれることになったのです。このように、神に希望を置いて、神様と共に歩んだアブラハムは、メルキゼデクとの出会いを通じ、キリストと呼ばれる救い主の先祖として、いっそう確実な土台を築きました。 締め括り 「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。」(14:19)神の祭司メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、その後15章で、神だけを信じる信仰によって、神に義とされました。義の王メルキゼデクの祝福を受けたアブラハムは、真の正しい人として神のご計画のように、祝福の源となりました。私たち人間は、知らず知らず罪を犯して生きています。神に従わず、隣人を憎みがちな存在です。しかし、それでも、神は、その人間を愛しておられ、神を追い求める者を祝福してくださる方です。そして、神は旧約のメルキゼデクのような神の真の祭司であるキリストを遣わしてくださり、神に従おうとする者を祝福し、神の民にしてくださる方です。私たちに罪があるといって絶望する必要はありません。私たちが罪人であっても、神を求め、信じて生きていく際に、主は私たちと同道してくださり、キリストを通して私たちを変化させてくださるからです。今日の本文を通して、大昔からご自分の民のために祭司を備えてくださった神、今もまた、キリストという私たちの祭司をくださる神を覚えましょう。そして、私たちを信仰に導かれる神を信頼しましょう。

罪を赦す人の子の権威。

ダニエル記7章13-14節 (旧1393頁) マルコによる福音書2章1-12節 (新63頁) 前置き イエスが、この地で行なわれた御業は大きく3つに分けられます。それは癒すこと、宣教すること、教えることでした。癒しとは、単に肉体の治癒だけの意味を超えて、罪を赦す意味をも持っています。これはイエスによって、もはや罪の支配ではなく、主に治められる神の国が到来することを意味するものでした。宣教とは、罪によって神と敵になった罪人に、キリストを通した神との和解がもたらされることを宣言し、罪人が神の御前に出て来て、御赦しと,御救いを受けるように導くことでした。最後に教えることとは、神の御言葉を通して罪人を教え、それを介して、神の御旨に従わせること、神の民にさせることでした。イエス・キリストは、罪深いこの世で罪人を赦し、神に帰らせるために臨まれた方です。そして癒し、宣教、教えを通して、それを行われました。それらの点を覚えつつ、今日の言葉を取り上げてみましょう。 1.中風の人のようなイスラエルの状況。 ガリラヤ地方のあちこちを巡回なさりながら、弱い者たちを癒し、宣教し、教えてくださったイエスは、再び主のおもな活動地域であったカファルナウムに来られました。カファルナウムはヘブライ語で、町を意味する「カファル」と慰めを意味する「ナハム」の合成語です。すなわち、カファルナウムとは「慰めの町」という意味です。イエス・キリストは裁きのために来られた方ではなく、慰めと救いのために来られた方です。主がおもに活動なさった、カファルナウムが持つ意味を通して、マルコ書の読み手は、主が来られた意味を、もう一度顧みることが出来るでしょう。 「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、」(2:1-2)イエスは、この慰めの町、カファルナウムで神の御言葉を宣言なさいました。当時の堕落したイスラエルの宗教指導者たちから真の慰めを得られなかった人々は、主イエスに希望を置いて、訪ねてきました。神様は、共同体を正しく導くために指導者を立て、ご自分の民をお委ねになります。しかし、指導者が神の御前に正しくない時、彼らは民を守る者ではなく、民を苦しめる者になってしまいます。 「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。」(ルカ5:17)今日の本文の内容は、マタイ、マルコ、ルカ書で共通して登場しますが、宗教指導者たちの話も同じく出てきます。状況的に、彼らは主を批判するために集まったようです。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。」彼らがイエスに否定的に反応するからです。主は貧しい者たちと弱い者たちのために癒しを施されましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、貧しい者と弱い者の座を奪い、ひたすらイエスを責めるために集まったのです。 「四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(2:3-4 )イエスを責めようとする、イスラエルの指導者たちの邪悪さの故に、群衆は家の外に追い立てられ、最も癒しが必要な中風の人は、家の中に入ることさえ出来ませんでした。今日の本文は、単純に中風の人と彼をイエスに連れて行った4人の物語ではありません。これは当時のイスラエルの悲劇を描いた物語です。神の御言葉と愛を正しく教えることも、行うこともなかった、邪悪な指導者たちのために、イスラエルでは真の癒しが起こることがなかったのです。イスラエルはまるで床の中風の人のように麻痺して患っている状態でした。 2. 4人の信仰をご覧になり、中風の人を癒してくださったイエス。 キリスト教は、神と信者が、互いに反応する宗教です。生ける神が信者を愛してくださり、信者も、その神の愛にお応えする関係の宗教なのです。つまり、信者なら、神への渇望を持って、積極的に反応を行うべきだということです。今日の本文に中風の人と一緒にいた4人が、まさにそのような人たちだったのです。邪悪な宗教指導者たちによって、もたらされた妨げのために、人々がイエスと向かい合う機会が奪われたにも関わらず、彼らは家の屋根をはがして、主に中風の人をつり降ろしました。 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)主は、その4人の信仰をお測りになり、中風の人をお治しくださいました。ところで、ここで少し疑問が生じます。プロテスタント教会は、明らかに自分の信仰によって、自分が救われる宗教、つまり他人の信仰を通して救われる宗教ではありません。そんな方式は、中世のカトリック教会で行われたことでした。まだ、救いが不透明な知人のために、免罪符を買えば煉獄の知人の魂が天国に昇れるというような信仰で、中世のカトリックで通用していた方式です。 ですから、私たちは、今日の本文を文字、そのままに受け入れ、中風の人を運んだ、4人の信仰のおかげで、中風の人が癒されたという風に解釈してはならないでしょう。私たちは、今日の話を通して、中風の人が持つ意味が、当事者だけではなく、中風の人のような状況であった当時のイスラエルの社会を認識する必要があります。指導者の正しい導きの不在のために、当時のイスラエルは全身が麻痺した中風の人のように、霊的な麻痺の中にあり、その結果、大勢の民が苦しみに陥っていたと理解しなければなりません。教会共同体も時には罪のために病んだり、崩れたりします。中風の人のように機能が麻痺した教会になってしまうこともあります。しかし、あの4人の人々のように、積極的に神との関係の回復を追い求め、立ち上がる人々が必要なのです。我々は、皆、すべて諦めてしまう中風の人のような者にも、何とかやってみようとする、あの4人のような者にもなれるのです。イエス様がくださる癒しと回復を待ち望み、如何なる妨げと逆境にも、主を探しに出る私たちになる必要があるでしょう。主はそのような人を用いて、教会を再び立ててくださり、進むべき道を開いてくださる方でいらっしゃるからです。 3.罪をお赦しになる人の子、イエス。 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)イエスは、4人の活躍で、イエスに辿り着いた中風の人に癒しを許してくださいました。ところで、主は中風の人に、「私があなたを治してあげる。」あるいは「あなたは私に癒される。」と言われませんでした。主は「あなたの罪は赦される。」と仰ったのです。今日、我々は、主のこの御言葉を介して、前回の説教で分かち合った癒しの本義について、もう一度学ぶことが出来ます。主のお癒しは贖いを前提とする癒しです。肉体と魂の癒し自体が目的ではなく、罪人への赦しの証明として癒しが施されるわけです。したがって主に癒された人は、その癒しが霊的であれ、肉体的であれ、それを通して神が、自分を愛しておられ、罪の赦しを通して完全な神の子供となることを待ち望んでおられるということを覚え、悔い改めの座に進むべきです。主は、人間の罪を赦してくださるために、この地に来られた方だからです。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(7)イエスの癒しと罪の赦しを目撃した宗教指導者たちは、主の発言を神への冒涜だと評価しました。主が「あなたの罪は赦される。」と言われた言葉は、ギリシャ語的に「神である私によってあなたの罪は赦される。」という意味が含まれている表現でした。宗教指導者たちは、人間であるイエスが自ら神であると認めることを見て、神への大きな冒涜だと思いました。しかし、イエスは彼らの心を見抜かれ、ご自分が病気を癒し、また、それよりも深刻な人間の罪をも赦してくださる贖いの神であることを証明なさるために、中風の人をお癒しくださいました。それにも関わらず、霊的な目が閉じてしまった、指導者たちは、イエス・キリストが真の神であるという事実を悟ることが出来ませんでした。 イスラエルの全歴史をまとめて、罪を赦す権限を持つ存在は、神様お独りのみでした。今日の本文で、我々はどのようにイエスが神であることを知ることが出来るでしょうか?私たちは、今日の本文で、主が言われた「人の子」という表現に焦点を当てる必要があります。 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10)人の子という表現は、旧約のダニエル書で出てくる言葉で、神のメシアを指す表現です。 「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。」(7:13-14)旧約聖書の預言者ダニエルは、獣で表現された世界の諸帝国同士の食うか食われるかとの阿鼻叫喚の幻を見て、最終的に、そのすべてに勝利し、支配する者は、まさに「日の老いたる者の前に立った人の子のような者」である預言しました。ただ、その人の子だけが、滅びることのない権威を受けて、この世界を支配すると神に教えていただいたわけです。マルコは今日の本文の出来事と人の子という表現を通して、イエスが罪を赦し、この世を正しく導いていかれる真の神であることを告白しているのです。 締め括り。 今日の本文は、多くの内容を含んでいるので、一度、整理して終わりたいと思います。第一に、正しくない指導者によって、教会共同体が不健全になり得るということです。ここで、指導者とは牧師、長老だけでなく、ペテロの手紙Ⅰの言葉のように、神の聖なる祭司として召された、すべての信徒に該当するものです。一人の間違いによって、共同体全体が病むことを覚え、常に謙虚と真実に生きていくべきでしょう。第二に、共同体が病んで、無力な時でも、誰かは神に進まなければならないということです。中風の人を移した4人のように、共同体のために、神を渇望する人々が必要だということです。これもまた、私たちみんなに当たる教えです。第三に、主イエスは、罪を赦してくださる神様であることです。私たちの希望は、ひとえに主にあります。私たちは、絶えず悔い改めながら、主イエスが神様であることを認めて生きていくべきです。主イエスは、旧約から預言された真のメシア、神様です。主だけが罪を赦すことが出来、教会を回復することが出来ます。主は、なぜ人の子と自称なさったのでしょうか?主は神でいらっしゃいますが、人々の間に一緒におられる方、つまり真の神であり、真の人である方だからです。この人の子イエスに私たちの希望を置いて、罪を告白し、主に従っていく私たち志免教会になることを望みます。

富は神の祝福か?

創世記13章1〜18節 (旧16頁) テモテの手紙Ⅰ 6章17-19節 (新390頁) 前置き 前回の創世記の説教では、飢饉によってエジプトに行ったアブラハムの信仰の失敗についてお話しました。彼はカナンで遭った飢饉について、神の御心を伺わずに、もっぱら自分の判断で、神が定めてくださった土地、カナンを去ってしまいました。その結果、彼は妻を他人に渡すことになり、不正な富を得ることになり、エジプトの住民に災いをもたらすことになってしまいました。私たちは、これらを通して、神の御心を求めず、自分の判断だけを追求する人生が、どれだけ、大きな問題を引き起こしてしまうのかが、はっきり分かりました。今日は、そのようなアブラハムの失敗から生まれたもう一つの問題を取り上げてみたいと思います。それは不正な富が巻き起こす問題なのです。人間の生活において富は必要不可欠なものです。しかし、富は肯定的な側面と否定的な側面の二面性を持っています。聖書は、富に対して、どのように語っているのか、また、私たちは富に対して、どのような心得を持つべきか、今日の言葉を通して考えてみたいと思います。 1.旧約聖書が語る富。 皆さんは、お金のない世界をお考えになったことがありますか?お金は非常に重要な価値を持っています。お金、つまり富が無ければ、日用の糧を食べることが出来ず、基本的な衣服を着ることも出来ず、また、風と雨を避けることも出来ないでしょう。富が無ければ、子供たちに良質の教育をさせることが出来ず、家族を誠実に扶養することも出来ません。このように富の力は強いのです。そのため、世のすべての人々は富をなすために毎日、熱心に働き、生きていくのです。文明が生まれて以来、人々は富を用いて多くのことを享受してきました。ひょっとすると、富は人間という存在を人間らしく生きさせる、最も基本的な価値であるかもしれません。しかし、富は人を破滅させるものでもあります。富のゆえに暴力が生じ、富のゆえに関係が崩れ、富のゆえに命を失うことも珍しくないからです。宝くじに当たって、大きな富を手に入れたものの、悲劇的な結果に終わる話は、よくあることでしょう。そのためか、聖書は富に対して中立的な姿勢を取りながら、同時に過度の富がもたらす副作用についても警告しているのです。 先ほど、申し上げましたように、旧約聖書は、富に対して否定的には語っていません。神は忠実なダビデ王に多くの富と権力をくださり、知恵を求めた、彼の息子であるソロモンにも富を許してくださいました。旧約で富は神の祝福の一つだったからです。しかし、この富は人を変質させる力を持っているようです。最初は神の御前に純粋だった信仰の人物たちも、富と権力を味わってからは変わってしまったからです。ダビデは他人を羨むことのないほどの富と権力を手に入れてから、神に禁じられた人口調査を強いて行なって、罰せられてしまいました。 (サムエル下24)ソロモンは富と権力を手に入れてから、隣国との同盟のために、異教徒の娘を王妃に迎えました。その結果、イスラエルは二分されてしまいました。(列王記上11)また、ダビデとソロモンの子孫であったヒゼキヤ王はバビロンから来た使者に自分の富を誇ってしまい、神に滅亡の予言を聞かされてしまいました。 (列王記下20)このように、富そのものは、悪いものではありませんが、その富を取り扱う人間の心が変わって、富を悪の道具に使ってしまったのです。これが富に対する聖書の基本的な視座なのです。 2.アブラハムとロトを別れさせた富の副作用。 多くの旧約神学者たちは、アブラハムが甥ロトと同行した理由が、ロトを自分の相続人にするためだったと思いました。神がアブラハムをお召しになった時、彼には子供がいなかったからです。そのため、アブラハムは、甥を養子縁組し、相続人にするつもりでロトを連れていったのでしょう。ところで、アブラハムは、そのロトの目の前で大きな間違いを犯してしまいました。それは前回の説教でお話しましたアブラハムの信仰の失敗によるものでした。韓国のことわざの中に「子供の前では、冷たい水もやたらに飲めない。」という言葉があります。その意味は、「目上の人の悪い言動を若者たちが、やたらと見て真似をする。」という意味です。アブラハムは、自分の大切な妻を他人に渡し、あまりにも簡単に不正な財産を得ました。そして、神がそれを解決してくださる時まで、別に悔い改めの姿も示さなかったのです。おそらくアブラハムは、そんな望ましくない姿を見習ったロトに、知らず知らずに間違った富と信仰の基準を提示してしまったのかもしれません。そして、そのようなアブラハムの過ちは、カナンに戻ってきた後、実際の出来事として現れ始めました。 「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていました。 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかったのです。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのです。 アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。」(13:5-7)エジプトを去って、カナンに戻ってきたアブラハムの前に予期せぬ問題が待っていました。多くの財産により、甥との関係に葛藤が生じたことでした。エジプトに行く前まで、二人は様々な問題に出くわしても、理解し合って力を合わせ、逆境を勝ち抜いたはずでしょう。しかし、エジプトで得られた不正な富のゆえに二人の間に葛藤がもたらされたのです。その富により増えた数多くの家畜のため、飼う者たちの間に争いが起きたからです。また、一度エジプトを体験して、富に対する間違った基準を持つようになったロトは、過去のように叔父と一緒に逆境を乗り越えることなく、自分の富を守るため、アブラハムを離れようとする心をも持つことになったのでしょう。 「アブラムはロトに言った。わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」(13:8-10)当初からアブラハムがロトを相続人として養子縁組をしたならば、アブラハムはロトをそう簡単に行かしてはならなかったのでしょう。しかし、彼らの富は、そのような関係を破壊してしまいました。互いに葛藤があっても、アブラハムはロトを抱き、調和をなさなければならなかったはずです。しかし、彼はあまりにも簡単に別れを宣言してしまいました。また、ロトも叔父に良い土地を譲らず、まるでエジプトのように潤った地を選んで、離れてしまいました。その結果として、ロトは罪と悪の地、ソドムとゴモラで悲惨な結末を迎えることになります。結局、エジプトからの不正な富さえ無かったら、起こるはずの無かった葛藤が、二人の間を引き離してしまったのです。富による貪欲と富への異常な追求が、二人共に別れという極端な結果をもたらしてしまったのです。 3.聖書を通して学ぶ富に対する心構え。 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)主は山上の垂訓の時、まるで、富を人の主人のように描かれました。現代の多くの人々も富から自由になることが出来ません。差し当たって、国からの年金が出なければ、あるいは、職場からの給料が出なければ、私たちは果たして気軽に日常生活を営み、教会に行って礼拝をささげることが出来るのでしょうか?それだけに富は重要なものであり、絶対に必要なものです。しかし、それにもかかわらず、私たちは、その富のみを追い求めて、生きてはいけない存在です。富を利用するが、富に捕らわれない生き方が必要なのです。富のために仁義に反してはならず、富のために信仰を捨ててもなりません。つまり、富が私達の主人のようになってはならないという意味です。私たちは、ひとえに神様のみを主人にして生きるべき、キリスト者だからです。 「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)ロトが去っていった後、相続人への希望も、富の意味への希望も失われたアブラハムに、神は現れて言われました。 「私こそがあなたの富である」主はアブラハムにとっての真の富が、神ご自身であると教えてくださいました。そして、アブラハムが、その神を信じた時、初めて神は彼を義と認めてくださいました。富は神様が私たちに与えられたプレゼントに過ぎないものです。プレゼントは、あれば良いし、なくても構わないものでしょう。もともと、我らのものではありません。重要なことは、私たちにプレゼントを与える存在なのです。私達はプレゼントを渡すとき、「気持ちだけです。」と言ったりします。重要なのはプレゼントをする者と、その心なのです。プレゼント自体が大事ではありません。富に対する私たちの心構えも同じです。重要なのは、富を与えてくださった神様への信仰なのです。私たちが、日常生活の中で本当に神の御前に恥のない信仰者として立つためには、富への正しい姿勢を取ることからだと思います。 締め括り 「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 」(テモテⅠ6:17-18)私たちの真の富は、神ご自身でいらっしゃいます。そして神を通して、私たちに来られたイエス・キリストなのです。旧約で富と豊かさで表現された数多くの神の祝福は、新約になってからは、イエス・キリストと、その方への信仰として、完全に置き換えられました。金持ちも貧しい者も、キリストへの信仰と信頼がなければ、すべてが無意味になることを忘れてはならないでしょう。神様が私たちに与えられた富を用いて、神と隣人に仕え、富のとりこではなく、富の主人として生きるべきでしょう。それが私たちに与えられた富への在り方なのです。富は神の祝福になることも、呪いになることも出来るものです。もし私たちが主の御心に従って、神に望みを置いて、富を正しく利用すれば、その富は私たちに祝福となるでしょう。私たちの富を用いて、神と隣人への愛を実践して生きていきましょう。私たちの行い次第で、富の性質が変わることを心に留めて、神の御心に適う一週間を過ごしましょう。

イエスの御業。

イザヤ書61章1〜4節 (旧1162頁)マルコによる福音書 1章29-45節 (新61頁) 前置き 30年間、平凡に生きて来られたイエスは、洗礼者ヨハネに洗礼を受けることと、荒野で試練を経験なさることを通して公生涯、すなわちキリストとしての生涯をお始めになりました。以降、主は神の国の到来を宣言なさり、弟子たちをお召になり、この世の罪人のための本格的な救いの旅に出られました。イエスは公生涯の最初のしるしとして、カファルナウムの会堂で、汚れた霊に取り付かれた人についていた悪霊を追い出されましたが、マタイの福音書によると、悪霊が追い出されることは、悪魔の支配下に置かれている、この世に神の統治が到来したことを象徴するものでした。 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)つまり、イエスが悪霊を追い出された出来事は、罪に満ちた、この地に神のお赦しをもたらし、もはや罪の呪いではなく、神のお赦しと愛を持って世を新たにしようとするイエスの覚悟を示す象徴的なことだったのです。今日の本文は、そのような新しい世のためのイエスの御業を描いています。今日の本文を通して主がなさった生前の御業について話してみましょう。 1.イエスという方。 私たちが信じるイエスはどんな方でしょうか?キリスト教の教義では、このイエスが完全な神であると同時に、また、完全な人間であると教えています。それでは、まず、人間イエスについて話してみましょう。イエスの時代のイスラエルには、イエスという名前が珍しくなかったと言われます。イスラエルの歴史上、最も偉大な人物の一人である、モーセの後継者ヨシュアに由来した名前だったからです。ヨシュアは「神が救ってくださる。」という意味を持っています。ヨシュアという名前は、時には「ホセア」や「イエス」とも呼ばれましたが、これらも、また「神が救ってくださる。」という意味を持っていました。以後、イエスは罪人の贖いのために十字架で処刑されましたが、ユダヤ教では、イエスが神の呪いを受けて死んだと信じていました。そういうわけで、ユダヤ教では、イエスという名前を不正に考え、タブー視したそうです。イエスはベツレヘム出身のヨセフとマリアの長男として、お生まれになりましたが、彼らの祖先は共通して、ダビデ王だったと言われます。そのため、聖書はイエスをダビデの子孫であると称しています。イエスは公生涯が始まる時まで、家族と一緒に暮らし、大工を生業として生きてこられました。 イエスは30歳になった時から、ご自分の町、ナザレを離れられ、公生涯をお始めになったと知られています。 また、イエスは初めから存在しておられた神様です。私たちが三位一体と呼んでいる神は、父、御子、聖霊の三位が独りの神としておられる方です。この三位一体は、世界が造られる前からおられ、世界の創造、維持、終末までの、すべてを司られる神です。三位一体なる神は、各自、限りの無い権能を持っておられますが、自ら低くなられ、お互いに協力し合って、摂理を行われて、それを通して、この世界を治めて行かれる方です。そのような神の統治は、今でも移り変わりが無く、これからも永遠に続くでしょう。御父は、この世のすべてをご計画される方です。御子は父なる神の御言葉、すなわち神のご意志でいらっしゃり、神の計画をこの世に啓示なさる方です。そして、聖霊は、その御父の計画を御子の啓示によって、世の中で成し遂げられ、行われる方でいらっしゃいます。イエスが完全な神であり、完全な人間であるという意味は、神の全能さと人間の弱さをすべて知っておられ、そういうわけで神と人間の間で完全な仲保者になることが出来るということを意味します。イエスの御業は、これらの完全な神であり、人間であるという、神と人間への完全な知識の中で、この世を新たにしつつ、回復させる救いのお働きなのです。 2.イエス・キリストの御働き それでは、イエスは、この地上でどのようなお働きをなさったのでしょうか?私たちは今日の本文を通して、イエスが3つのお働きをなさったことが分かります。一つ目に、イエスが癒しをなさったということです。 「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(1:30-31)イエスの時代のユダヤ地域は、邪悪な王の支配とローマ帝国の圧政の故に、権力と富のある人は住みやすい所でしたが、貧しくて弱い人々には、ますます苦しくなる所でした。神は旧約聖書を通して、常に貧しくて弱い者たちの世話を見なさいと命じられました。また、貧富の隔たりを無くし、誰もが神のご支配の中で平和に生きる世界を追い求めるイスラエルをお望みになりました。しかし、イエスの時代は、そのような神の御意志とは、あまりにも遠ざかっている現実に置かれていました。王と総督は自分の権力と富だけを貪り、その下の祭司と宗教人たちも大きく異なるところがありませんでした。 前回の説教で、私は悪魔の性質について、自らを神のように高めようとする傲慢さだと話しました。当時の指導者たちは、低くて弱い者には関心を持たず、ひたすら自分の政治的、社会的、宗教的な権力が高まることだけに気を取られていました。イエス様が、この地に来られ、病んだ人を癒し、悪霊を追い出し、弱い者たちと一緒におられたというのは、そのような世の風潮に真正面から抵抗する行為でした。イエスは貧しい弟子の家族を癒してくださることから始め、あらゆる病人を治され、人を苦しめる悪魔を追い出され、罪人を清めてくださいました。 「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますと言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれと言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 」(1:40-42)イエスのお癒しは、真の王でいらっしゃる神様が、イエスを介して、弱い者たちと一緒におられることを積極的に見せてくださる行為でした。最も高いところから来られたイエスは、最も低いところに自ら臨まれて、お慰めくださり、お癒しくださって、神が民の間におられることを証明されました。 二つ目に、イエスは宣教なさいました。 「イエスは言われた。近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38)今日の本文に宣教するとして翻訳された単語は、ギリシャ語で「ケリュッソ」と言いますが、「宣言する。述べ伝える。告げる。」などの意味を持っています。つまり、今日の本文の「宣教する」は、イエスの説教、あるいは宣言として翻訳することが出来ます。この「ケリュッソ」という言葉から、キリストを通した救い、罪の赦し、恵みなどを述べ伝えるという意味の「ケリュグマ」という概念が由来しました。イエスが病人を癒され、悪霊に取り付かれてた者から悪魔を追い出された理由は、神の国がこの地上に臨んだということを宣言する宣教をなさるためでした。イエスは、この宣教のために、神から人間にお生まれになったのです。もし、ただ、癒されるばかり、悪霊を追い出されるばかり、糧を分けてくださるばかりで、イエスのお働きが終わったならば、イエスの御業は中途半端になってしまったはずでしょう。主が癒してくださった理由は、その癒しと伴う宣教を通して、人々がイエスを信じて、神の民になり、神の国に入るように導いてくださるためだったのです。 三つ目に、イエスはお教えになりました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)イエスはお癒しを受けるために、主のところに来た重い皮膚病を患っている人を清めてくださり、それから彼が何をすべきかを教えてくださいました。主はレビ記の教えに基づいて、回復された人の在り方を教えてくださったのです。主は旧約聖書の言葉を無視なさらず、その言葉に応じて、祭司のところに行ってモーセが定めたものを献げて、人々に証明することを命じられました。主は、聖書の言葉を生活の中で適用するように、導かれ、治った人が御言葉のように行なうことを望まれたのです。イエスは癒しと共に、御言葉を教えてくださる方です。癒しを通じて体と生活を新たにしてくださり、御言葉の教えを通じて、魂と信仰を新たにしてくださいます。イエスは今でも聖霊を通して、教会にお教えをくださいます。聖日の説教と、個人の黙想を通して、主は今日も、御心を教えてくださり、その教えを通して信徒の進むべき道を教えてくださるのです。 締め括り 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)かつて、イザヤ書は、神が油注がれたメシアを遣わし、貧しくて弱い者を救い、慰めてくださることを予告しました。主イエスがこの地に来られ、御業を行われたのは、このようなメシアの到来を実際に証明することでした。主はお癒しを通して、弱い者を立ててくださり、宣教なさることを通して、主の救いを知らせてくださいました。そして教えてくださることを通して、信者の在り方を教えてくださいました。私はこのような主の3つの御業が、キリストの教会が貫くべき働きであると思います。私たち教会は、主の体なる共同体です。私たちは、楽園に入るだけのために、主を信じる存在ではありません。このようにお働きになるまでに、世を愛してくださった主の、そのご意志を受け継ぐ者として召されたのです。イエスが再び来られる、その日まで、主がお働きになったように、教会は働くべきです。イエスは今日も、聖霊を通して私たちの間におられます。そして、その聖霊を通して、教会が働くことを望んでおられます。 21世紀の日本社会で、私たち教会は何をすることが出来るでしょうか?今日の言葉を顧みつつ、我々が働くべきことは何なのか、悟りを得る一週間になることを願います。