キリストによる幸いな人生。

詩編1編1‐6節 (旧835頁)マタイによる福音書5章3‐12節 (新6頁) 前置き 先日、竹内結子さんという俳優が自ら命を絶ったとのニュースがありました。彼女は2004年から4年間、連続して日本アカデミー賞で最優秀主演女優賞を受けており、米国の企業との合作ドラマ「ミスシャーロック」で熱演、西欧圏でも認知度を高めたそうです。今年1月には息子も出産し、一見、何の不自由もなく裕福に見える人でした。しかし、彼女は他人の知らない理由で、極端な選択をしてしまいました。彼女の悲報を聞きながら、人生とは、幸せとは何だろうと考えざるを得ませんでした。遺族に深い慰めの気持ちを伝えたいと思います。果たして幸せとは何でしょうか?人間は皆、幸いな人生を夢見ます。ひょっとしたら人々は幸せになるために、勉強し、働いて一生懸命生きていくものなのかも知れません。しかし、そのすべてを達成しても、依然として満足できずに渇望してやまないのが、人間の姿ではないでしょうか?このように財力と名誉を持っている人々の残念な選択を見るたびに、私たちは真の幸いな人生とは何か、もう一度考えてみるべきだと思います。クリスチャンである私たちは、本当に、幸せを感じつつ生活しているでしょうか?今日はキリスト者が追求すべき、幸せとは何かについて分かち合いたいと思います。 1.アジア人にとって、福とは? 冗談半分ですが、私たちは祝福の中に住んでいると思います。私たちが住んでいる地域が福岡県だからです。福の岡、本当に良い地名だと思います。来福して2年間、福岡県について調べて見る機会が何度もありました。玄界灘の綺麗な海、背振山地の緑色、筑紫平野の原野、清い空気、美味しい食べ物、美しい夕焼けなどなど魅力的なものが数えきれないほどありました。このような自然に恵まれた昔の人たちが、祝福されていると感じて、その中心部に福岡という町を建てたのかもしれないと思いました。「福」は日本でよく使われる漢字ですね。ところで、この「福」という文字は日本だけでなく、アジアの国々でも多く使われているようです。 中国には「福」の字が逆さまになった看板がたくさんあります。 「逆さ」という意味の「タオ」が、「来る」という意味の「タオ」と同じ発音で、逆さまになった福は、「福が来る」という意味になるからだそうです。韓国でも「福」という字をしばしば使います。元旦になると、「あけましておめでとうございます」というかわりに、「新しい年に、福がたくさんありますように。」という挨拶をします。このようにアジアの日本、中国、韓国はすべて「福」への特別な願いを持っているようです。 それでは、アジア人にとって、福とはどんな意味を持っているのでしょうか? 2014年、韓国の「改革主義説教学会」というキリスト教系の学術集会で「アジアの宗教においての福」というテーマでセミナーが持たれました。その時、ある発題者が、このような発表をしました。 「アジアの宗教が追求する最高の福は三つあります。第一は、自力で究極の実在と合一すること、第二は、人間のうちにある本質を回復して社会に役立つ存在になること、第三は、自分の限界を乗り越え、大我に至る宇宙的な歴史観を持つこと。」 これを簡単に表現すると、「自力で自らを救うこと、自らを発展させて社会を導くこと、超越した宇宙的な存在になること。」だと言えるでしょう。つまり、福とは「自ら努力して願いをかなえること」という意味に理解することが出来ると思います。このような思想は、仏教や道教などでも、たやすく見つかる概念です。これらの福の精神をもとにして、自ら努力して得る誉れ、権力、富などの立身出世も、結局、福の一部として位置付けられたことでしょう。アジア人にとって福とは、この「自ら努力して願いをかなえること」を意味するのではないでしょうか? それでは、世俗的な福に関する話は、ここまでして、私たちが神の御言葉だと信じている聖書では、この福について、どのように説明しているか、今日の本文を通して話してみたいと思います。 2.旧約が示している「幸いな人生」とは? 詩篇の第1篇はヘブライ語の「アシュレイ」という言葉で始まります。 「アシュレイ」は「幸いだ、幸せだ、福を得る、幸福だ。」との意味を持っています。詩篇1篇は150編の詩編を始める、前置きに当たる詩です。前置きとは、ある本の全体的な内容を述べる文章で、その本の序文だと言えるでしょう。つまり、「幸いだ、幸せだ、 福を得る、幸福だ。」を意味する「アシュレイ」で始まった詩編は、その後、150編という数多くの詩を通して、「真に祝福された幸いな人は、どのように生きるべきか」について教える書なのです。 「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(1-2 )先にアジアの宗教においての「福、つまり幸いな人生」が、自ら努力して願いをかなえることを意味するものであったならば、旧約が示している幸いな人生とは、主の教え、すなわち、神の御言葉を愛し、その御言葉に従う人生であることが分かります。 旧約のイザヤ書には、このような言葉があります。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。」(イザヤ44:6) 神は創造の初めであり、世の終末を成し遂げられる全能なる方です。本当に幸いな人は、神から離れ、自分の志のままに生きる者ではなく、初めと終わりである神の御旨を受けとめ、その御心に従って生きる者であるということです。初めの人は、なぜ神に呪われ、楽園から追い払われたのでしょうか?まさに自分が神のようになり、神を排除して身勝手に生きようとしていたからです。しかし、神はご自分が創造なさった人間が、神に従って生きることを望んでおられる方です。 「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉も萎れることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(3)神様と共に歩み、御言葉に聞き従う人は神に祝福されます。まるで、流れのほとりに植えられた木が、萎れることのないように、主と同行する者は、神の御助けのもとで生きていくのです。そして彼の人生は、神のもとで繁栄するようになるのです。私たちは自ら努力して願いをかなえるというアジアの宗教的な「福あるいは幸い」を追求して生きるわけにはいきません。なぜなら、私たちはキリスト者だからです。自ら努力して願いをかなえるということは、自分が神のようになる人生です。本当に幸いな人生は全能なる神を覚え、彼と共に歩み、その御言葉に聞き従うこと、つまり、神と同行する生き方であることを忘れてはならないと思います。 3.新約が示している「幸いな人生」とは? 今日の新約の本文にも「幸いな人生」についての言葉があります。先に詩篇1編では、神の言葉に聞き従い、彼と同行すれば、すべてのことに繁栄がもたらされるとの言葉がありました。私たちは、その言葉を読む時、知らず知らずに「神に聞き従い、同行すれば、栄え、成功し、出世し、楽に生きられるようになるだろう」と思うかもしれません。実際に、成功し、出世し、気楽に生きることも、ある意味で幸いな人生の一つだと言えるでしょう。そのような幸せも確かに必要です。しかし、神への従順から始め、自分の成功で終わる幸いなら、結局、最初、お話しましたアジアの宗教で語られる「幸いな人生」のために神を用いる冒涜になるのではないでしょうか?つまり、自分の幸いのために、神と共におり、従うことではなく、神と共に歩むこと、そのものが幸いな人生であるということを明らかにする必要があるということです。今日の新約の本文の最初の3節と最後の10節に共通に登場する語句があります。「〜人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」という言葉です。今日の新約の言葉が示しているのは、「幸いな人は、天の国を所有する人である。」ということです。「心の貧しい、悲しむ、柔和な、義に飢え渇く、憐れみ深い、心の清い、平和を実現する、義のために迫害される人々」これらの人たちは皆、神に天の国を与えられる幸いな人たちであるということです。 ここでの天の国とは何でしょうか?死後に入る楽園なのでしょうか?もちろん、そのような意味でもあるでしょうが、マタイ書が語る天の国とは、もっと深い意味を持っています。イエスの当時のユダヤ人たちには、神の御名をみだりに呼んだり書きしるしたりすることが許されていませんでした。そのため、ユダヤ人たちを対象にして、記されたマタイ書は「神」という呼称を「天」という言葉に振り替えて使ったのです。東アジア平和センターの黄南徳牧師は天の国についてこう説教しました。 「マタイ書に出て来る天の国とは、人間に基づいた、如何なる政治制度、経済体制、イデオロギーなどを示すものではありません。天の国とは、神様の御旨によって治められる全ての領域を意味するものです。政治、経済、社会、文化など、神の正義と平和が働かれる場所なら、どこでも、天の国となるのです。」つまり、今日の新約の本文は、天の国すなわち神の支配を積極的に受け入れ、待ち望む人々に関する話なのです。自分ではなく、神を中心とする人、主の言葉を自分の思考よりも大事にする人こそが、本当に「幸せな人」だということです。しかし、これは地上での「成功、出世、幸いな人生」とは、異なります。 「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(11)天の国、すなわち神が支配しておられる神の国を求め、その御旨に従うためには、この世が語る幸いと立ち向かわなければならないからです。 この世で成功するためには、他者を引きずりおろしたり、他者に損害を強要したりしなければならない場合もあります。しかし、天の国を追い求めるキリスト者なら、それを拒むべきです。また、キリストの福音を伝えるために、この世が大切に扱っている社会、経済、宗教的な価値を否定しなければならない場合もあります。もしかしたら、そんなときに社会的なイジメに直面するかもしれません。もし、そうなれば、私たちは本当に幸いになったと認めることが出来るでしょうか?聖書はキリストと神の御心のために、そのような辛い目に遭う時があり、むしろ、キリスト者なら、そのような生活を「幸いな人生」として受け入れなければならない時もあることを明らかにしています。その難しくて大変な人生が幸いな人生であるなんて、如何に皮肉なことなのでしょうか? 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(12)しかし、聖書はそのような生活の中でも、神は私たちをお忘れにならず、共におられ、天に私たちのための大きな報いを備えてくださると語っています。私たちの幸いは、どんな状況でも、私たちを見捨てられず、助けてくださる神様そのものです。キリスト教の幸いは、世のそれとは、全く違うものです。世のすべてに棄てられても、神のみには棄てられず、永遠に一緒に歩んでいただくこと、それこそがキリスト教の真の幸いなのではないでしょうか。 締め括り 私たちが信じているイエス・キリストは神様に棄てられた、この世の人類を神様に帰らせるために、苦しみと悲しみの十字架に、喜んで付けられました。この世の代わりにご自分が、神様に棄てられたのです。その全ては、この世の人々を神様と和解させるための主の自己犠牲だったのです。だから、このイエスを信じる私たちにとって、最大の幸せは、キリストによって我らをお召し出しくださった神様ご自身ではないでしょうか。聖書が語る「幸いな人」は、如何なる苦難と逆境の中でも、神様が共におられる人なのです。神が共にいらっしゃらなければ、どんなに豊かになったとしても、名誉を得たとしても、お金持ちになったとしても「幸いな者」になったとは言えません。苦難と逆境の中にいながらも、神を愛する人こそが、聖書が示している、真の「幸いな者」なのです。でも、神は単に苦しみだけをお与えになる方ではありません。神様も私たちがこの世で栄えて安らかに生きることを望んでおられる方なのです。したがって、一日一日を守ってくださり、共にいてくださる神様に感謝し、今の生活で喜びを持って生きていきましょう。私たちの幸せは、ひとえに神様にだけあります。その神と常に同行する「幸せなキリスト者」になることを願います。

洗礼と試練とをお受けになったイエス。(1)

詩編2編7-9節 (旧835頁)マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き ローマ帝国の激しい迫害により、甚だしい試練に苦しんでいた初期キリスト者たちには絶対的な慰めが必要でした。迫害のために苦しんでいる神の民に、彼らを罪からお救いになり、永遠の命を約束なさったキリストが、迫害の中でも、相変わらず彼らと一緒におられることを思い出させる必要があったのです。そういうわけで記された本が、まさにマルコ書なのです。そのため、マルコ書は、4つの福音書の中でも最も簡潔かつ力強くイエス・キリストと彼の御業について述べています。私たちは苦難に遭った時、神はあの高い天の上で楽にしておられ、地上の私たちは苦難の中に瀕していると考えがちだと思います。世の中には、依然として不条理があふれ、善人より悪人が頭を擡げているかのような印象を受けやすいからです。しかし、マルコ書は絶えず私たちと一緒におられるイエス・キリストを証しし、主が苦難の中で私たちと共におられるということを訴えています。今日はマルコ書の、その二つ目の話を通して、罪人のために謙虚さと愛とをもって犠牲になってくださるイエス・キリストと、彼が受けられた洗礼について話してみたいと思います。 1.荒野の意味。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)神は旧約の預言者イザヤを通して、神のメシアが臨むという啓示を与えてくださいました。神はイザヤの預言を通して、そのメシアが来る前に、神の民が荒れ野で、あのメシアの道を整え、彼の到来に備えることを命じられたのです。そのため、イスラエルの民は、荒れ野に特別な印象を持っていました。ローマ帝国の弾圧とイスラエル社会の不条理に苦しんでいた、貧しいイスラエルの民衆は、荒れ野の主の道を通して臨まれる神のメシアと、その支配を待ち望んでいました。荒れ野はイスラエルの民にとって希望の所でした。荒れ野からメシアが来られれば、苦しんでいるイスラエルを救ってくださり、神の国をうち立ててくださるはずだったからです。なので、荒れ野はイスラエルの民衆にとって、神の御裁きの象徴であり、解放の象徴でもありました。そんな荒れ野に洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者が登場したという噂は、まるで「荒れ野で叫ぶ者の声」が現れたことと同様な一大事でした。洗礼者ヨハネの登場は、間もなくメシアが臨まれるという希望の前触れだったからです。 そういうわけで、メシアの到来を待ち望んでいたイスラエルの民衆は、洗礼者ヨハネのいる荒野に来て、洗礼を進んで受けました。洗礼者ヨハネの後から来られるメシアに大きな希望をかけて、待ち望んでいたからです。彼らはメシアが来られると不条理に満ちたイスラエルは新たになり、自分たちの苦痛も終わるだろうと信じていました。彼らはメシアが来られれば、暴政を事とする邪悪な王が追い出され、財力と権力しか知らない大祭司たちは罰せられ、見せ掛けばかりの知識人たちも誤りを問い詰められると思いました。とりわけ、神の強い力によって、ローマ帝国が没落、イスラエルの地に神の国が到来し、自分たちが、あんなにも待っていた解放が成し遂げられると信じていたのです。 「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」(詩篇2:9)まるで有名なメシア詩である詩篇2篇のように、世の悪い権力が、恐ろしい裁きを受けるだろうと信じていたのです。それだけに荒れ野は、イスラエルの民衆にあって特別な所であり、そこで悔い改めの洗礼を授けるヨハネは解放の象徴的な人物でした。そして、その荒れ野から来られるメシアは、この世を揺るがす存在でした。 2.洗礼を受けられたイエス。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」(9)そんなある日、一人の青年が洗礼者ヨハネのところに来ました。彼はナザレの若い大工でした。彼はあまりにも素朴な姿でした。しかし、彼はあの荒れ野からのメシアでした。そのためか、メシアを待ち望んでいた人々は、彼がメシアであることを見分けられませんでした。それにも関わらず、洗礼者ヨハネは彼がメシアであることを一目で気付きました。その青年はイエスでした。今日のマルコ書の本文には出て来ませんが、マタイ書では洗礼者ヨハネの反応が出てきます。 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)神のメシアが自分の目の前に来て、受洗を請うた(こうた)のです。 400年以上を待ち望んでいたメシア、何よりも輝いて強力でなければならない神のメシアが、突然素朴な姿で現れたものです。洗礼者ヨハネは、罪人に聖霊と火の洗礼をお授けになるはずのメシアに、むしろ洗礼を授けることになり、少なからず戸惑いを感じました。しかも、罪人である自分に洗礼を請うているメシアです。迷っている彼にメシアはこう話しました。 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです。」(マタイ3:15) イエスは全能なる神であり、荒れ野からのメシアであり、全世界の主である方でいらっしゃるのに、なぜ一介の人間である洗礼者ヨハネに洗礼を受けることを望んでおられたのでしょうか?そして、なぜイエスは、神の権能を持っておられたにも拘わらず、荒れ野の主の道で凱旋将軍の姿ではなく、素朴なナザレの大工の姿で来られたのでしょうか?メシアに関する有名な記録であるイザヤ53章には、メシアについて、このように記されています。 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」(53:2)私たちは、この箇所を通して、当初からメシアという存在が、軍事力による征服者や武力を伴う解放者ではないことが分かります。ひょっとしたら、荒れ野での主の道は、メシアの凱旋道路ではなかったかも知れません。イエスは強力な支配者ではなく、素朴な大工の姿で来られ、ヨハネの洗礼を受け、罪人を救うための公生涯をお始めになりました。しかし、人間の考えとは異なり、それでも、父なる神様は、その姿にとても満足なさったかのように言われました。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(11) 洗礼とは、罪への死と清さを意味する儀式です。今日もバプテスト教派では、水の中に沈む洗礼を行なっていますが、イエス様当時の洗礼も水の中に完全に沈んで出る形でした。罪人が水の中に入る行為は、罪に対して完全に死ぬことを意味することであり、水から出る行為は義に対して蘇ることを意味します。これは出エジプト記に出てくる紅海を渡る出来事に由来したもので、パウロは洗礼についてこのように話しています。 「わたしたちの先祖は皆…海を通り抜け、 皆…海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。」(コリント第一10:1-2から)パウロはイスラエルが紅海を渡る出来事が、罪のエジプトから抜け出し、救いのカナンに入る清めの礼であると理解しました。つまり、洗礼は罪を洗う清めの礼の意味を持っているという意味です。だから、洗礼はひとえに罪人だけが受ける儀式なのです。ところが素朴な姿のメシアが、突然現れ、洗礼者ヨハネに洗礼を求めたのです。イスラエルの民衆も、洗礼者ヨハネも、白馬に乗った強力な王のようなメシアを待っていたのかもしれません。しかし、荒れ野のメシアは全く別の姿で現れ、しかも罪人が受けるべき洗礼を受けたのです。これは、人々が期待していたメシアの姿とは、あまりにも異なる失望すべき様子ではなかったのでしょうか。そのような理由なのか、時間が流れ、洗礼者ヨハネは、イエスにこのような質問をします。 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ11:2-3) 3.仕えるために来られたメシア。 イスラエルの民衆が念願していた荒れ野からのメシア、イエスは、征服者の姿ではなく、素朴な大工の姿で来られました。そして、この地上での御働きをお始めになる前に、罪人と共に洗礼を受けられました。これは、すべての人々が予想していたメシアの姿とは、全く違うものでした。神でいらっしゃるイエスは、自らみすぼらしい人間の立場に降りられました。罪のない神様でしたが、罪人の立場に進んで行かれたのです。そして、その全てのことは「正しいこと」を成し遂げるためでした。ローマ書を説教したとき、このような言葉がありました。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)イエス様が自ら罪人の立場に御降りになり、水で洗礼を御受けになった理由は、御自分を信じる者たちに神の義を与えてくださるために、イエス様が律法の目標になるためでした。ただの人間としては決して達成できない、律法の目標をイエス様が人間の立場にこられ、代わりに成し遂げてくださいました。イエスは罪のない神様でいらっしゃるので、罪を贖う権限があり、同時に人間でいらっしゃるので、その罪を代わりに背負うことも御出来になる方です。したがって、今日の本文に出てくるイエスが受けられた洗礼は、イエスが世のすべての罪人の代表者になると共に、すべての人間の弱さを代わりに背負う崇高な自己否定を意味するものです。 このような自己否定が、メシア、イエス・キリストの最大の特徴です。人々は強力なメシアを願っていたかも知れません。洗礼者ヨハネも自分に洗礼を授けてくださる強力なメシアを望んでいたかも知れません。ひょっとしたら、私たちもメシア・イエスが、強い力を持って、この世を御裁きになることを願っているかも知れません。しかし、初めて来られたイエスは、罪人への裁きではなく、罪人への赦しを持って来られました。主は自ら十字架での死に進み、罪人であるこの世の誰も達成することが出来なかった贖いと恵みをくださるために、強力な征服者ではなく、苦難のしもべとして来られたのです。イエスが受けられた洗礼は、ご自分が無慈悲な審判者になるためではなく、むしろ、無慈悲な裁きを受ける者になるための象徴的な出来事です。ここに今日のマルコ書の説教の主題が含まれています。いくら、強力な者が来て、世界を裁くと言っても、人々に罪の影響が残っている限り、世界は再び堕落してしまいます。罪の影響がはっきり解決されなければ、世界は、しばらくは清くなっても、間もなく罪によって汚されるはずだからです。したがって、真の救いは、罪の解決から始まります。罪が、その力を失うときに初めて、世界は本当に変わることが出来るからです。イエス・キリストは、素朴で低い姿で来られました。そして、自ら罪人に代わって、苦しみを受けるメシアとして来られました。イエスが洗礼を御受けになった理由は、独りで強力な審判者になるためではなく、一緒に罪から逃れるための、民と共におられる救い主であることを証しするためでした。 締め括り。 日本でキリスト教会は全人口の0.5%にも至らない微々たる規模の共同体です。どこから見ても、日本社会に大きな影響は及ぼせない存在です。そのため、為政者が靖国神社などを参拝したり、信教の自由に反する政策を広げたりするたびに、どんなにキリスト教系から声明を出しても、目立つ反応はありませんでした。そのたびに、教会の誰かはイエスが再臨なさって、この国を支配なさり、イエス・キリストの父なる神のみに仕える国になることを夢見るかもしれません。私たちは、そのように強力なキリストを願っているかも知れません。しかし、神はいつも人間の考えとは異なる方法で働かれる方です。神はむしろ微々たる力でも、日本の教会が一つになって、神の愛と福音を伝え、少しずつ、この国を変えて行くことを、より望んでおられるのではないでしょうか。まだ、神を信じていない99.5%以上の日本の人々を愛しておられる神様は、0.5%の教会を通して、日本社会に神の愛を伝え、残酷な裁きではなく、暖かい救いを伝えるのを願っておられると思います。罪人が受ける洗礼を、共に受けられたメシア、イエス・キリストは、今日も日本の人々のための代表者になられ、裁きではなく、救いを与えることを願っておられる方です。ご自分は無垢な方にも拘わらず、喜んで洗礼を受けられ、罪人の立場に降りられたイエスを覚え、この日本社会のために私たちの教会が何をしていくべきか考えてみる1週間になること望みます。

洪水Ⅱ‐世の希望、神の箱舟 。

聖書 創世記7章1-16節 (旧9頁) ローマの信徒への手紙8章19-22節(新284頁) 前置き 神が世界を造られた理由は、被造物に崇められるためでした。神は被造世界を造り、神に象った人間をも造って、その被造世界を支配させ、被造物に対する人間の導きを通して、被造物に礼拝される世界を望んでおられたのです。被造物の中で人間が重要な理由は、まさに、この世界を神に導かれ、崇めさせる祭司の役割を持っていたからです。しかし残念なことに、祭司として創造された、その人間の堕落のため、この世に罪が侵してくるようになり、世界は罪の影響下に置かれることになってしまいました。そのような人間の罪は神の御前に、さらに大きい不義をもたらし、最終的には神を崇めるために造られた、この世界は、罪によって堕落してしまいました。人間の堕落が、この世界の堕落につながったというわけです。結局、ノアの時に至って、神は堕落した、この世を水でお裁きになることを決断なさいました。しかし、神は、そのような堕落した世界の中でも、神に従っていたノアを哀れんでくださり、彼を通して再び機会を許してくださいました。そのために与えられたのが、ノアの箱舟です。今日はこの箱舟が、今の私たちにとって、どのような意味を持つのか、話してみたいと思います。 1.義人を救ってくださる神。 先々週の創世記の説教では、ノアが神にどのような評価を受けたのかを知ることが出来ました。 「ノアは主の好意を得た。」(6:8)私たちは、ノアがどのような人生を送ってきたのか、詳細には知ることが出来ません。彼の仕事、思想、信仰などについて、聖書は詳しく述べていません。しかし、ノアという名前を通して、彼の人生を間接的に推し量ることは出来ると思います。旧約聖書は、多くの場合、登場人物の名前をもって、その人の性格や生き方について説明したりするからです。 「ノア」の語源は、「ヌアフ」というヘブライ語ですが、その意味は「慰める。休ませる。」などの意味を持っています。 「レメクは、主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろうと言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」(5:29)ノアの父レメクはノアを儲けた時、ノアが自分の慰めになるだろうと告白しました。また、 6:9では、このノアを義人と称しています。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」日本語の聖書で、「神に従う人」と翻訳されている部分は、原文では「義人」と記録されています。ノアは隣人にだけでなく、人間の罪によって、心を痛めておられた神にも、神に従うことを通して慰めになっていたでしょう。 「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(6:22)ノアは、おそらく、自分の名前のように隣人を愛し、慰め、罪に満ちた世に対抗して、神に聞き従う義人だったはずでしょう。 神に従い、隣人を慰めたノアは、すべての生命が滅びる状況にもかかわらず、神に好意を得た唯一の人でした。そして、聖書は、そのような好意を得たノアが義人であり、無垢な人であったと証ししています。私たちは、義人という言葉を頻繁に使います。日本では「義人」という言葉を日常生活で、そのまま使うかどうか分かりませんが、明らかにそれに相応する「善良な人、正義の人」などの単語があるでしょう。聖書でも「義人」について少なからず言及されています。それでは、この義人は一体どんな人なのでしょうか?今日の説教ではっきり分かるのは、聖書で語られる「義人」は、単に「正義の人や、善良な人」だけを意味するものではないということです。聖書が語る「義人」とは、神の御心に従って、従順する人です。ノアは「神を愛し、隣人を愛する。」という、神の御心に完全に従い、神の前で無垢な者でした。そのため、彼は神に義人だと認められて、神の好意を得たのでしょう。とにかく、確かなことは、神に義と認められた彼に与えられた報いは、世界の何ものも避ることが出来ない洪水の裁きから避けられる恵み、つまり箱舟を得たということでした。神は全世界を滅ぼそうと決断なさったにも拘わらず、一人の義人、ノアを大切に扱ってくださり、生き残る手立てをくださいました。まさに今日の箱舟のことです。 2.義人に委ねられた被造物の救い。 ところで、今日の本文によると、神に義と認められた人が、たった、ノア一人であったにも拘わらず、神はノアだけでなく、他の存在をも救ってくださったということが分かります。 「雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、 まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。 彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、 命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。 」(12-15)神はノアだけでなく、ノアの家族、また、すべての動物をも、それぞれに救ってくださいました。特に動物に関しては清い動物も清くない動物も連れ、彼らさえも救ってくださいました。神に義と認められた1人によって、彼の家族だけでなく、聖俗を問わず、すべての肉なるものが、神から与えられた箱舟に乗られたのです。何年前か、「ノア – 約束の舟」というハリウッド映画がありました。内容は聖書に基づきましたが、 世俗映画だったので、神学的な価値は非常に低いと思いますが、それでも、記憶に残る場面がありました。蛇たちが集まってきて、箱舟に乗る場面でした。聖書の代表的な清くない動物である蛇さえ、箱舟に乗る場面は、かなり深い印象を残しました。ノアという義人のために、不正な動物さえ、救いを得ることを見て、私たちは、この義人という存在が持っている重要性が、どれだけ大きなものか再び感じることが出来るでしょう。 義人は自分一人だけ、幸せに生きる者ではありません。義人は、自分だけでなく、他者にも、神の救いの影響を与える大事な存在です。創世記の他の箇所で、神に義と認められたアブラハムに神はこう言われました。 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(12:2-3)神はアブラハムと契約を結ばれ、イサク、ヤコブ、ダビデなどを通じて義人の系図を引き継がせてくださり、最も完全な義人であるイエス・キリストをお許しくださいました。そして、そのイエス・キリストを通して、罪の影響を断ち切られる大いなる御業を行なってくださいました。このように、神は義人を通して、呪いに満ちた、この世に祝福を与えてくださる方です。義人が特別だからではなく、神が、その義人を特別に用いられるからです。(イエスはただの義人ではなく、神そのもの。)神は初めにアダムと結ばれた、被造物の支配という失敗した契約を、別の義人を通して継続なさる方です。神はアダムの失敗のため、罪で汚された世界を裁かれつつ、別の義人であるノアに新しい世界を任せ、御自分の御業を成し遂げられました。私たちが生きている、今の時代にも、神は義人を通して御自分の業を続けていかれる方です。したがって、義人として召されたキリスト者は、常に自分を用いて御働きになる神への信仰を持って、常に神の御心を弁え、へりくだって生きるべきでしょう。ノアを通して、家族と動物たちが救われたように、キリストを通して義人に認められた私たちは、私たちの家族や隣人、この世界の被造物に仕えていくべきでしょう。神は義人を通して被造世界の救いを果たしていかれる方だからです。 3.世の希望、神の箱舟。 改革派教会では、この箱舟を教会のモデルとして扱ったりします。改革派神学によれば、神は義人ノアをお召しになったように、完全な義人であるキリストをお立てになり、彼を通して、この世の新しい箱舟である教会を造られました。イエス・キリストだけが、真の義人であり、彼を信じる人々は、罪の赦しを受け、義と認められ、神の箱舟である教会に属されます。いつか神が世をお裁きになる終わりの日が来るまで、新しい箱舟である教会は、キリストを中心として、世に神の祝福を伝えていくのです。キリスト者は、この教会に属する救われた者です。教会という箱舟に乗り込んだキリスト者は主の福音を宣べ伝え、祈りと御言葉に努め、神の御裁きとキリストの再臨を待ち望んで生きる存在です。しかし、我々はこのような伝統的な改革派神学のみに留まって満足すべきでしょうか。私たちは、ノアの家族だけが船に乗られたわけではないということを確かめる必要があります。神は聖俗を問わず、動物、つまりノアの家族以外の存在をも箱舟に乗らせてくださいました。そして、ノアと一緒に再び世界で生きていくことを許されました。この話は、現代を生きている私たちにどのような教えを与えてるのでしょうか?神の箱舟はノアだけでなく、全ての被造物のためにも与えられたということでしょう。 箱舟の話はこのようにも適用できると思います。まずは、環境的な側面からです。今年、全世界はコロナをはじめ、様々な災いを経験しました。特にその中に産業化による災いが多かったそうです。今年の地球の温度は18世紀より1.1度も上がったそうです。そのため豪雨、猛暑、山火事などが起こったりしました。それは過去のキリスト教の間違った認識によって自然を征服の対象だと思っていた欧米諸国の誤った自然認識が、世界中に広がった結果ではないかと思います。こんな状況下で、我が教会は、自然と環境を愛し、面倒を見、守るべきです。次は、社会的な側面からですが、産業革命を通して、素早く発展した国々は、自国の利益のために他国を侵略しました。また、各国内でも、富裕層が貧困層を苦しめる理不尽が生じ始めました。そのような過去の歴史が国々や人々同師の隔たりをもたらし、依然として世界のあちこちでは、国々と人々の間の傷が残っています。教会は、このような傷を癒し、平和に満ちた世界を作っていく義務を持っています。比喩的な話ですが、自分だけが箱舟に乗っていると思っていた欧米キリスト教の誤った教えのため、「他者は箱舟に乗れなかったと見なし、他者を征服し、弾圧しようとする傾向」が蔓延るようになったのではないでしょうか。ノアだけでなく、他の被造物にも該当される神の救いと箱舟の意味を誤って理解し、教えた教会の過ちの結果が、こんなに大きな問題点をもたらしたのではないかと思います。 箱舟はノアだけのために与えられたものではありません。義人ノアは神の祝福を他の被造物とも分け持つ義務を持っていました。自分の大切な家族だけでなく、他の被造物をも神の救いに招く義務を持っていたわけです。人間を含む、世界のすべての被造物は、神の所有です。神は義人を愛しておられますが、他の被造物をも大切になさる方です。キリストを通して義人として召されたキリスト者は、そのような神の御心に倣い、神と隣人はもちろん、被造世界にも仕える使命を持っています。神がノアに与えてくださった箱舟は義人を通して世界を祝福なさる、神の愛を象徴するものです。新しい箱舟と呼ばれる教会も同様です。教会は自分の利益だけを企んではいけません。隣人、自然、社会等、あらゆる場で、神の救いが伝わるように、仕え、愛して生きるのが教会の在り方ではないでしょうか。洪水によって、すべての肉なるものが裁きを受けましたが、箱舟の中にあった被造物は再び命を続けることが出来ました。キリストの体なる教会は、この時代の箱舟として、被造物を神の御救いへ導く希望にならなければなりません。神はすべての被造物に祝福を与えるために、神の箱舟、つまり教会を許されたのです。 締め括り 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(8:19,21)人間の罪のゆえに、被造物も罪の支配に置かれています。被造物の待ち望むことは、神の子たち、すなわち主の教会を通して、神の子らの栄光に輝く自由を得ることです。神は、この時代の箱舟である教会に天地万物を罪の影響から解放させる使命を与えてくださいました。ノアだけのための箱舟ではなく、他者と被造世界のための箱舟でもあることを覚え、この時代の箱舟である教会の役割をもう一度考えてみる機会になることを願います。私たちは、キリストによって義と認められた義人の集まりです。私たちには義人としての役割が託されています。隣人を愛すると共に、自然と社会の隅々まで関心を持って祈り、仕える志免教会になることを願います。私たち志免教会を通して、志免と須恵そして、福岡に神の祝福が臨まれるように祈ります。神の恵みに満ちる一週間になることをお祈りします。

福音の初め。

イザヤ書40章3-5節 (旧1123頁) マルコによる福音書1章1-8節(新61 頁) 前置き 今週からはマルコの福音書をもって新約の御言葉を学んでいこうと思います。新約聖書には、4つの福音書があります。その中でも、マルコの福音書は、最も簡潔な文体と主題で、イエス・キリストの福音を急進的に伝える書です。そのため、古代のキリスト教の指導者たちは、マルコの福音書を獅子(ライオン)の福音書と呼んだそうです。まるで勇ましい獅子のように、力強く福音とイエスについて証言する聖書だからです。 4つの福音書は、それぞれの特徴を持っており、各福音書は、イエスについて、いくつかの側面から説明しています。マタイは、アブラハムの子孫、ユダヤの王であるイエスを、ルカは人間イエスの生涯を順々に、ヨハネはイエスが、ただの人間ではなく、神そのものであるという観点から述べています。しかし、マルコは、そのすべての視点を省略して、最も重要な福音の真理である「イエスは救い主である。」を宣言することによって始まります。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」今から数ヶ月間、私たちは、この強力な福音の書について学んでいきます。マルコの福音書の説教を通して、神様の豊かな御恵みと御教えに触れることを切に望みます。 1.マルコの福音書はどのような書か? マルコ書は、福音書の中で一番最初に記されたものです。あの有名なローマ帝国の暴君、ネロが皇帝だった西暦64年に、帝国の首都ローマでは大きな火災がありました。火災はローマの3分の2を灰燼に帰し、甚大な被害をもたらしました。ローマ市民の心は怒りに沸き立って、物狂いネロがローマに火をつけたという噂が流れ始めました。政治的なリスクの中に置かれたネロは、市民の怒りを鎮めるために、当時の新興宗教であったキリスト教徒が放火したというデマを飛ばしました。キリスト教は神と隣人を愛し、イエスを伝える善良な共同体でしたが、そのようなデマにより、一瞬にして邪教の烙印を押されてしまいました。そのため、ローマ帝国の内部ではキリスト者への迫害が始まりました。そして、その邪教という汚名と迫害は200年以上の長い間、キリスト教についてまわりました。イエスを信じているという理由だけで信徒たちは闘技場で猛獣の餌にされ、信仰を保つためには、命をかけなければならない、恐ろしい時代を送らなければなりませんでした。キリスト者は生きるために身を隠したり、時には疲れて信仰を捨てたりしました。彼らはただ、キリストへの信仰を告白しただけだったのに、その報いはあまりにも残酷だったのです。 彼らは自然に、こんな問いをするようになりました。 「神様、どこにおられるのですか?」「イエスよ、あなたはどなたですか?」信徒たちの信仰が弱まり、神とキリストへの信仰が崩れていった時、主の民には希望が必要でした。神の子が一緒におられることを、もう一度悟らせなければなりませんでした。マルコ書は、そのような絶体絶命の時、絶望の中に陥れられている信者のために記録された書です。死の恐怖の前で神を探している者らに、すべてを投げ出したいと思う者らに希望と慰めを与えるために、マルコの福音書は記録されたのです。そのため、マルコ書は西暦65年から70年の間に記録されたそうです。マルコ書の頭部には、華麗な述語はありません。むしろ、信仰の源、イエスについて簡潔かつ率直に伝えているだけです。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」このマルコ書は今日を生きている我々にとって、どのような意味を持っているのでしょう?日本という特有の文化、キリスト教の伝道が、あまりにも難しい環境、あの有名な小説家、遠藤周作の小説「沈黙」に書かれているように、「まるでキリスト教という木を根から腐らせる沼」と言われる日本でも、マルコ書は諦めずにそして変わることなく、主イエスの福音を宣言しています。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」主は今日もマルコ書の言葉を通して、神が依然として日本の教会を愛しておられ、その御子はちっともに変わらずに私たちの間におられることを証言しているのです。 2.神の使者、洗礼者ヨハネ。 1節で、御子イエス・キリストの御健在を宣言したマルコ書は、すぐに旧約聖書の啓示を紹介します。 「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(2-3)マルコ書は、これが旧約聖書の有名な預言者であるイザヤの書での記録だと証言していますが、実際に、この部分はイザヤ書だけでなく、 旧約聖書の最後の預言者であるマラキの言葉が合わせられた部分です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザヤ40:3)「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」(マラキ3:1)マルコはこの二つの文章を引用し、神の子イエスが、すでに古くから準備され、旧約を通して預言された神のメシアであり、彼が臨む前に、ある使者を遣わして、その道筋を準備させると証言しているのです。マルコ書はその使者が洗礼者ヨハネであり、彼の登場の後、真のメシアであるイエスが来られることを告白しています。使者の登場は、即ちメシアの登場を意味するものだからです。だから、マルコは神の子イエスの福音の宣言の後、すぐに洗礼者ヨハネを登場させます。つまり、救い主の到来が迫ってきたということです。 ところで、イエス当時、「神の使者」というものには、どのような意味があったのでしょうか?これを探ってみるためには、過去の歴史を振り返ってみる必要があります。洗礼者ヨハネが来る約600年前、不従順と偶像崇拝で綴られていたイスラエル民族は、結局、神の厳重な裁きを受けて、バビロン帝国に滅ぼされました。神殿は崩れ、民は捕囚となって異邦の地に連行されました。時が流れ、神はイスラエルを哀れんでくださり、捕囚の身から解き放たせ、再び故郷に帰還させてくださいました。イスラエルは指導者ネヘミヤとエズラを通じ、過去の罪を悔い改め、新たに生まれ変わることを約束しました。しかし、その情熱は長続きしませんでした。彼らは依然として神を信頼しておらず、また、神に従わない愚かな過ちを犯してしまったのです。その時、神様は預言者マラキを遣わされ、旧約聖書の最後の言葉をくださいました。 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。」そして、400年以上の間に、神は啓示をお止めになりました。神の時をお待ちになり、沈黙なさったのです。神の啓示が消えた時代に、イスラエル民は、ペルシャ、ギリシャ、いくつかの戦争、ローマ帝国の支配を経験し、イスラエルの神ではなく、邪悪な権力に支配されなければなりませんでした。 神の言葉が消えた世界で、イスラエル民族は苦しみを体験しなければなりませんでした。彼らは再び神が共におられることを待ち望みました。民が苦しみの下にいる時、異民族の悪人が彼らの王になって暴政を敷き、祭司たちは祭礼ではなく、権力と富に興味を持ちました。民を教える学者たちは、自分の知識をもって民を蔑みました。徴税人のような売国奴はローマ帝国の側に立って、同胞の血を絞りました。あちこちで強盗が暴れ、イスラエルの過激団体は、ローマ軍との衝突し、社会の雰囲気は荒れに荒れていたのです。イスラエルは、まるで牧者を失った羊の群れように飢え、彷徨いました。そんな彼らにとって、唯一の希望は400年前、神が残された御言葉でした。 「神は預言者マラキの啓示のように、主の使者をお遣わしになるだろう。彼が来ると、やがてメシアがお臨みになり、必ず我らを解放してくださるだろう。」イスラエルの民が、洗礼者ヨハネを歓迎した理由は、このためです。神の使者、洗礼者ヨハネが来れば、もうすぐメシアが来られるはずだったからです。マルコはそんな理由で、洗礼者ヨハネを他の福音書に比べ、いきなり登場させます。洗礼者ヨハネの登場は、即ち神のメシアの登場を意味するものだったからです。 3.イエス・キリストの福音の初め。 イエス・キリストの到来は、希望のない所に希望が、神の支配のない所に神の支配が、御言葉のない所に御言葉が、慰めのない所に慰めが戻ってくるのを意味します。過去に罪のために神から見捨てられ、忘れられた者らが、神の御前に召し出され、神は父になり、見捨てられた者らは子供となる、新しい時代の始まりを意味するのです。イエス・キリストの到来は、神と人間の関係を根本的に新たに確立する空前絶後の新しい歴史の始まりです。イエスはこのようなグッドニュース、即ち福音の初めになる御方です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(イザヤ40:3,5)神の使者が先立って来、主の道を備える際に、神はメシアを通してご自分の民に来られ、主の栄光をお現わしくださり、すべての肉なる者が、共にその栄光を見るように導いてくださるでしょう。イエスを通して、人間は一緒に共におられる神の栄光を悟ることになるのでしょう。それは古代帝国に支配されていたイスラエルが、ネロの迫害にうめき声を吐いていた初代キリスト教会が、切実に求めていた主の恵みなのです。今、その恵みはキリストの福音を通して、主を追い求めている、すべての者に許されています。マルコは、そのような神の恵みが、ただイエス・キリストを通してのみ、行われることを強く証言することにより、既に来ておられるイエス・キリストに私達の希望を置くことを促しています。 神の使者として、先立って遣わされた洗礼者ヨハネは、すぐに到来するメシアについて証言し始めました。 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7-8)イエス・キリストは、権能の主です。彼は私たちと一緒におられ、私たちを神のもとへ導かれる方です。彼は私たちの希望なのです。しかし、主につき従うためには、主の福音と力を認めるべきです。過去、イスラエルが犯した不従順の罪を捨てなければなりません。主への堅い信仰が必要です。そのために私達は自分の中にある罪を主イエスの御前に置き、常に御赦しの恵みを求めるべきです。 今日の最後の節では、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授け、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになると記されています。聖書で水は死あるいは清さを意味します。その二つは全く違う異質のイメージを持っていますが、罪に対しては共通点を持ちます。死者は罪を犯しません。死者は罪に対して清いです。水の洗礼は罪に対して死ぬことを意味します。洗礼者ヨハネは主の到来の前に,まるで罪に対して死んだ者のように罪を捨て、来たる主を待ち望もうという意味で水の洗礼を授けたのです。しかし、主が来られると、単なる罪への死を越えて、義とされた者として蘇り、主と共に歩むことが出来る聖霊の洗礼をお授けくださいます。主イエスを通して、私たちに来られる聖霊は、私たちの中に清い心を造り、私たちを義の道にお導きくださいます。今日の洗礼者ヨハネの物語は、私たちを、そのような悔い改めの場に招きます。そして、福音の初めであり、福音の源である主に私たちを進ませます。私たちの間におられる主イエスを期待し、自分の罪を悔い改め、主の聖霊のお導きを求めていきましょう。私たちを神に導かれる主に、私たちの罪を悔い改めることによって、主の福音に答えて行きましょう。 締め括り 私は時々自分自身にがっかりしたりします。幼い頃から聞かせてもらったイエスの話、神学を勉強しながら、常に接してきたイエスの話、あまりにもたびたび取り上げてきたイエスの話ですので、感謝をもって反応することが出来ない時が少なからずあるからです。しかし、このイエスの福音は絶対に軽んじられてはならない大事なものです。神様は、はるかな昔から、計り知れない長い時間を通して、このイエスを準備され、時をお待ちになり、私たちに与えてくださいました。旧約聖書の民と預言者たちが、命をかけてまで、切に待ち望んだ神のメシアが、このイエス・キリストなのです。この大事な方が、我らのために来られるという予告が、福音が持っている掛け替えのない価値なのです。マルコの福音書を説教しながら、そのイエスの福音を再び心に留める私たちになることを願います。主の共同体である志免教会がマルコ書を通して、その福音に敏感に反応する共同体になることを祈ります。福音の主が我らと共にお歩みになることを願います。