救いの歴史の余白。

出エジプト記1章1~14節 (旧94頁) ヨハネによる福音書20章29節 (新210頁) 前置き 3年間の長い創世記の説教が終わりました。そして今日からは新しく出エジプト記の説教に入ろうとしています。前の創世記の説教では、比較的に聖書の本文を細かく探ってみようとしたので、時間がかなりかかるようになったと思います。これからの出エジプト記の説教では、すべての本文を説教するより、聖書の重要な出来事を中心に説教する予定です。今日は出エジプト記の始めに出てくるヤコブの子孫の系図について、そしてイスラエル民族に迫ってきた苦難と主の時について、話してみたいと思います。主が出エジプト記を通して主の御言葉を教えてくださり、私たちの信仰生活を導いてくださることを祈ります。 1. 歴史の導き主は、イスラエルの神である。 中学生の頃、母がこんな質問をしました。「英語で歴史が何かわかる?」「ヒストリーですよ。」「なぜ、ヒストリーかな?」「分からない。」「HIS STORY、彼の話だからよ。」「彼って誰?」「イエス様のこと。」「ええっ、うそ!」歴史を意味する英語のヒストリーは本当に「彼の話」という意味でしょうか? 実はこの英語のヒストリーはラテン語の「ヒストリア」に由来します。またラテン語の「ヒストリア」はギリシャ語の「ヒストリア」をそのまま訳した表現です。そして、ギリシャ語の「ヒストリア」は「賢い」という意味の「ヒストール」から来ました。どこかで、ヒストリーに関して聞いた母が感激しながらヒストリーについて情熱に話しましたが、十何年後、神学校で、そうではないことを知り、くすっと笑った記憶があります。ところが、原文的には間違った解釈であるかもしれませんが、信仰の経験的には、本当にヒストリー(歴史)が「彼(神様)の話」のように感じられる時もあります。主が歴史の導き主であるということです。そして出エジプト記は、その歴史の導き主である神について、顕かに示している聖書だと思います。今日の本文1-7節は、神が歴史の導き主であることを教える箇所です。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」1-5節には創世記に比重大きく登場していたヤコブとその息子たちの名前が書いてあります。 この間の説教で、創世記のヘブライ語のタイトルを訳すると「はじめに」になり、出エジプト記のヘブライ語のタイトルを訳すると「名前」になると申し上げました。旧約聖書は別のタイトルがなく、接続詞を除いた最初の文章の最初の単語がタイトルとして使われたからです。したがって、出エジプト記は、まず名前、つまりヤコブとその息子たちの名前から始まります。ヤコブと息子たちの名前が記録された後、6節では彼らが皆死んだと記してあります。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、」イスラエル民族を代表する先祖たちが皆死にましたが、7節は再びこのように語ります。「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」日本語聖書では「が」という接続助詞で、わりと薄く訳されたと思いますが、ヘブライ語の聖書を読むと、6節と7節の間に「しかし」という表現がはっきり入っています。つまり、「大事な先祖たちが皆死んだ。しかし、イスラエルの子孫はますます栄え続けていった。」ということでしょう。祖先は皆死んで神のもとに召されたんですが、その子孫は先祖の死と関係なく、神によって栄え続けていったということです。ここで私たちは神の民を導く者が、ある特別な指導者ではなく、偉大な神ご自身であるということが分かります。この世に数多くの指導者がいます。しかし、歴史はその指導者たちが作っていくものではありません。ひとえに主なる神だけが歴史を導いていかれます。そのため、大事な祖先が亡くなったにもかかわらず、神のお導きによってイスラエルはますます強くなっていきました。 2. 苦難は神の不在のためなのか。 さて、ここで一つ問題が生じます。「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し…イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」(出エジプト記1章8-11節の一部)イスラエル民族がますます強くなっていくだけなら良いですが、現実はそうではありませんでした。新しいエジプトのファラオが現れ、イスラエルの民を奴隷にして苦しめ始めたのです。なぜエジプトの王はイスラエルを苦しめ始めたのでしょうか? 先祖のファラオがヨセフによってイスラエルを受け入れてくれたのに、子孫のファラオが先祖の判断に逆らうということでしょうか? 違います。私たちはヤコブ時代のエジプト王朝と出エジプト時代の王朝が違うことを留意しなければなりません。日本の場合「万世一系」という概念で天皇家は一つの血統によると言いますが、近い中国や韓国の場合、王朝が変わった出来事が多いです。たとえば、韓国の以前の朝鮮は李氏王朝で、朝鮮の前の高麗は王氏王朝だったようにです。前にも説教で話しましたが、ヨセフが総理だった時代のエジプトはヒクソス人の王朝でした。つまり、純粋なエジプト人ではなかったのです。むしろ、アブラハム家が属したセム族に近い民族でした。ヒクソス人が北から攻めてきてエジプトを征服し、エジプトで自分たちの王朝を打ち立てたわけです。しかし、ヒクソス人は、後日、エジプト人の反乱軍によって滅ぼされ、権力を引き渡すことになったのです。 その過程で、イスラエルは新しいエジプト王朝の奴隷となってしまいます。イスラエルはエジプトよりヒクソス人に近い民族なので、戦争でも起こればイスラエル民族が裏切るかもしれないとおそれたからです。本文にその根拠があります。「これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト記1章10節) そのようにイスラエルは非常に大きな危険にさらされていました。エジプトの新しいファラオは、イスラエル民族を弱めるために重労働を課して虐待しました。エジプトの総理の民族だったイスラエルが、奴隷民族になってしまったのです。神に選ばれた民族「イスラエル」、神が先祖アブラハムとイサクとヤコブと、空の星のように、海の砂のように栄えさせてくださると約束された「イスラエル」。そのイスラエルに絶体絶命の危機が迫ってきたのです。もし、ここでイスラエル民族が大きい苦難に負けて滅びることになったら、神の約束は台無しになってしまうでしょう。それでも、今日の本文の1節から14節では、神の御業が一度も現れていません。まるで神が知らないふりをしていらっしゃるように感じられます。イスラエルが苦難の真ん中にさらされている、この物騒な時代に神は果たしてどこにいらっしゃったのでしょうか? 3. 余白は不在ではない。 先ほど、私は神が歴史の導き主であり、イスラエルを栄えさせてくださったと言いました。ところが、今日の本文に出てくるイスラエルを見れば、歴史の導き主である神の動きが全く見つかりません。ご自分の民が苦難を受けても、主の御業は見つかりません。もちろん1章17節からは神のお働きが見えますが、今日の本文に限っては神がイスラエルを完全に無視しておられる様子です。では、主はイスラエルの苦難を傍観しておられたわけでしょうか? 私たちは神の時間と人間の時間の違いによる乖離を理解する必要があります。ギリシャ語には「時間」を意味する2つの言葉があります。1つは「クロノス」であり、2つは「カイロス」です。旧約聖書の神の御業について話しているので、ギリシャ語の概念を取り上げるのは少し無理ではないかと思いますが、これ以上、主の時間を説明するのにぴったりの概念はないと思います。「クロノス」とは、自然に流れていく物理的な時間のことです。「志免教会の主日礼拝は午前10時15分から1時間くらいです。」ここでの時間はクロノスです。「カイロス」とは時間の長短とは関係ない、具体的な出来事の中で現れる驚くべき変化を経験する時間のことです。「志免教会で守った、その日の礼拝は、私において人生が根こそぎ変わるほどの大事な時間でした。」ここでの時間はカイロスです。 つまり、人間は「クロノス」という物理的な時間に束縛されているので、クロノスの外で働いておられる神の御業を全く感じることが出来ない存在です。時間の束縛から自由でいらっしゃる神は、最も決定的な瞬間に決定的な時間である「カイロス」を通して働かれます。そこから、まるで、神は何もしていないという人間の誤解への答えが出てくるのです。主は主の時間を通して働いておられる方です。イスラエル民族がクロノスの時間の中で苦しみ、泣き叫んでいた時、主なる神はカイロスの時間を通して、イスラエルの解放と救いのために準備しておられました。私たちの人生において、主のお導きが全くないような時、主の答えも聞こえてこないような時、主は私たちのことを無視しておられるわけではありません。主は主の時間を通して私たちのために働いていらっしゃるのです。つまり、私たちが主がおられないと感じるその瞬間は、主の不在の時間ではありません。それは主の時を準備する余白の時間です。不在と余白は雲泥の差です。不在は無力ですが、余白は力強いです。主がご自分の御業を成し遂げられる「カイロス」の時間が来るまで、主は余白を持ってその時が来るのを待っておられるのです。イスラエルが強くなって数十万になるまで、たとえ彼らに苦難が襲ってきたといっも、主はその時を静かに待っておられるのです。 締め括り 出エジプト記でヤコブとヨセフが亡くなり、イスラエルはエジプトの奴隷となりました。その時間(クロノス)の間、主はイスラエルを完全に見捨てておられるようでした。しかし、主の時間(カイロス)になった時、(聖書では、時が満ちたというふうで使われる場合がある。)主はモーセを遣わされ、イスラエルを救ってくださいました。それと似たような出来事が新約にもあります。旧約聖書マラキ書以後から洗礼者ヨハネの登場までの約400年の間、公式的な神の啓示はありませんでした。そういうわけで、ある学者たちはこの時期を神の啓示が消えた暗黒時代だと言いました。しかし、その後どんなことが起こったでしょうか? 神の時が近づき、子なる神がイエスという名でご自分の民を訪れてこられたのです。啓示の代わりに啓示の主人が遣わされたわけです。神への信仰によって生きるキリスト者にとって、神の不在はありません。ただ、神がわざわざ残しておかれた余白の時間があるだけです。信仰とは、主の時を待ち望むことです。「日本の教会が困難であり、私たちの生活が苦難であり」など、私たちの人生には数多くの危機が起こり得ます。そして、神の応えが聞こえないような時もあり得ます。けれでも、忘れないようにしましょう。その時間は神の不在の時間ではありません、それは明らかに答えてくださるために主が置かれた余白の時間です。主イエスのこの言葉が思い起こされます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 神の不在と余白。私たちはどちらを信じていますでしょうか? 主のお導きをかたく信じる私たちであることを切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

天地創造の前に。

イザヤ書49章1~3節 (旧1142頁) エフェソの信徒への手紙1章3~14節 (新352頁) 前置き もともと今日はマルコ福音書を説教する番でした。しかし、マルコ福音書の残りの箇所が主イエスの苦難と十字架での死、復活に関する話しであるため、レントとイースターの説教と重なると思い、しばらくはエフェソ書の説教をすることにしました。(エフェソ書の説教はマルコ福音書の次の順番でした。) エフェソ書の説教が終われば、またマルコによる福音書に戻って、残りの内容について話したいと思います。今年の志免教会の主題聖句はキリストの教会のあり方についての箇所でした。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」この言葉は、エフェソ書2章22節の言葉です。パウロはエフェソ書を通して教会の意義とあり方について語っています。教会は、神がご自分でお建てになったとても大事なキリストの体なる共同体です。今回のエフェソ書のみ言葉を通じて、教会とは何か、教会の一員である私たちは、どう生きるべきかについて一緒に考えてみたいと思います。今日は、その中でも特に主なる神のお選びと予定、お呼び出しについて話してみたいと思います。 1. 神の選びと予定。 「冬のソナタ」以来、韓流メロドラマが大人気です。韓流ドラマが人気な理由はいろいろあるでしょうが、男の主人公たちの甘いセリフも一役買ったと思います。例えば、イケメンの主人公の「生まれ変わっても君だけを愛するから。」のような照れくさくて切ないセリフは、数多くの女性視聴者の心をつかむのに十分だったと思います。ところで、神も主の民に向かってそのようなロマンチックな言葉を言われました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4) 神の御言葉である聖書へのロマンチックだという言い方は、神への失礼であるかもしれませんが、主はご自分の民を、この世が造られる前にキリストにおいてお選びになり、愛しておられるという、まるで韓流ドラマの男の主人公が言うかようなことをおっしゃったのです。「この世が造られる前に私はすでに君を選んだのだ。愛してるよ。」つまり、神がこの世の創造よりも先に、主の民一人一人をすでにご存知で、愛しておられたという意味でしょう。天地創造の前にお選びになった私たちを、キリストにおいて呼んでくださるために、神は大切なご自分の独り子イエス·キリストを十字架の献げ物として犠牲にさせられたのです。それだけに主の民と呼ばれる私たちは、主の切ない愛のもとに生きている存在なのです。韓流ドラマの女主人公を羨む必要はありません。主の愛はそれより深くて切ないからです。 改革教会において、大事な教理の中の一つで「神の予定」という概念があります。神がこの世の始まりの前から、すべてのことを知っておられ、あらかじめお定めになったということです。つまり、ご自分の民を天地創造の前に、すでにお選びになったということです。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(エフェソ1:5-6) 新共同訳聖書は「御心のままに前もってお定めになった。」という表現を使っていますが、それに基づいた神学の概念が、まさに「予定説」なのです。予定だからといって「誰かは選び、誰かは見捨てた。神は悪いことも予定される。」という意味ではなく、ただ「神は全知全能であるため、すべてをあらかじめ知っておられ、その御心のままに成し遂げられる。」と理解するのが正しいと思います。主はご自分の民をすでに知っておられる方です。私たち一人一人は、この日本で、そんなに影響力のない非常に平凡な普通の人であるかもしれません。そのため、誰かは自分のことを「つまらない、うまくいかない、みすぼらしい」など、低く評価しているかもしれません。しかし、神はそのような人でさえ、この世が造られる前から、すでに愛してお選びくださいました。主に特別に指名されたということです。したがって、私たちは自分のことを低く評価してはなりません。このよの造り主である偉大な神が、私たちを天地創造の前に選ばれたからです。そして、主はその選ばれた私たちをキリストによって、予定通りに教会に呼び出してくださったのです。 2. 神の予定を信じる者の生き方。 このような神の予定と係わりがあるような旧約の言葉があります。今日の本文です。「島々よ、わたしに聞け、遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。」(イザヤ49:1) この度、レント期間にキリストの苦難について説教する際、イザヤ書に出てくる「しもべの歌」について話しました。イザヤ書49章1-6節は、イザヤ書に出てくる四つの「しもべの歌」の中、二つ目の歌です。ここで、神のしもべは、自分が母の腹にいる時から、神に名を呼ばれたと告白しています。旧約に現れる神のお選びの箇所でしょう。このように新旧約を問わず、主はご自分の民をあらかじめご存知でおられ、呼んでくださる方なのです。私たちが願って神に選ばれ、キリスト者になったわけではありません。神が私たちをお望みになったので、私たちをキリスト者と呼び出してくださったわけです。先週の説教で、信仰は信じる人のものではなく、信じさせてくださる方のものであると話しました。主のお呼びも同じです。したがって、すべてを知り、すべてを計画し、すべてを予定される主なる神を信じる者は、私たちのすべてが主の御心のもとにあることを信じなければなりません。今現在の苦しみと逆境も、結局は神が知っておられ、主の御心にあって万事が益となっていくということを信じなければならないのです。 今日の新約本文であるエフェソ書は、いわゆる獄中書簡と呼ばれる手紙で、パウロがローマ帝国によって投獄されたときに記された聖書と知られています。彼は福音のために無実に投獄され、苦しみの中にありながらも、神の恵みと導きを疑わず、むしろエフェソ教会の兄弟姉妹たちにキリストにあって、神のご統治を堅く信じることを頼んだのです。また、今日の旧約本文であるイザヤ書49章は、イスラエル民族がバビロンの捕囚となった時代に主から与えられた慰めの言葉です。他国の植民地のようになり、もうこれ以上希望がなさそうな苦しい時にも、神は変わらずイスラエルを愛し、覚え、導いておられるということを訴える歌なのです。主の予定、計画、導くを信じる主の民は、何があっても主の御心が予定通りに成し遂げられていくことを信じなければなりません。パウロとイザヤ書49章の記録者が、苦しい現実にあったにもかかわらず、主のお導きを信じたように、キリストにおいて教会と呼ばれるようになった私たちも、何があっても主の御心が私と共にあるということを信じるべきなのです。それが神の予定を信じる者の生き方なのです。皆さんは神のご計画、つまり天地創造の前から、母の腹にいた時から、キリストにおいて神に選ばれた特別な存在です。その存在性にふさわしい信仰で神の御心を待ち望みながら生きていきたいと思います。 3. キリストにおいて。 さて、今日の新約の本文の中に、何度も繰り返される表現がありますが、それは「キリストにおいて、キリストによって」です。二つを言いましたが、原文としては同じ言葉なのでしょう。この表現は今日の本文だけでなく、これからもエフェソ書に、よく出てくる表現です。父なる神は「キリストにおいて」天のあらゆる霊的な祝福を満たしてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天地創造の前にわたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者にしようとお選びになりました。父なる神は「キリストにおいて」御心のままに前もってお定めになったのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちの罪を赦してくださいました。父なる神は「キリストにおいて」主の秘密である福音を私たちに教えてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天と地にあるものをキリストのもとに一つにまとめられたのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちを御国を受け継ぐ者としてくださり、父なる神は「キリストにおいて」私たちに聖霊によって神の栄光をたたえるようにしてくださったのです。以上、キリストにおいてという言葉を何度も繰り返しましたが、そのすべてが今日の本文に出てくる表現です。私たちが神によって天地創造の前から選ばれ、神への信仰を持たれ、罪を赦され、喜ばれ、教会に集められ、神のものとなったすべての根源的な理由は、まさに神の予定によって「キリストにおいて」の存在となったからです。 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11-12) したがって、志免教会につらなる兄弟姉妹は皆、神のご計画により、キリストにおいて、前もって定められた神の民となった存在であり、またキリストにおいて、神に栄光を帰すべき存在です。私たちはキリストにおいて選ばれ、一つになってキリストを頭とする教会です。主の体なる教会という表現も、キリストにおいての共同体という表現の言い換えなのでしょう。私たちが、神の予定によって天地創造の前から選ばれた理由も、主のお導きによって教会に集まった理由も、主と共に毎日を過ごせる理由も、すなわち私たちがこの世に存在できるすべての理由が、まさにキリストにおいて、その全てが成し遂げられたからです。ですから、教会を形成する私たちは、私たちのすべてがキリストにおいてあることを必ず憶えて生きるべきです。私たちの人生の焦点がキリストに集められるべきであるということです。 締め括り 最後に、今日の説教についてもう一度まとめて終わりたいと思います。第一に、主はすべてを前もってお定めになる方です。主は天地創造の前から、ご自分の予定通りに私たちをお選びになり、教会に集めてくださいました。第二に、この神の予定を信じる者は、どんなことがあっても自分の人生のすべてにおいて神の御心があるといいうことを信じ、その方の御業を待ち望みながら信仰によって生きるべきです。最後に、このすべての神の恵みはキリストにおいて(よって)成し遂げられたのです。だから、私たちは主の教会の一員としてキリストを私たちの人生の最優先として生きなければなりません。これからは、エフェソ書を学んでいきます。使徒パウロがあれほど大事にしていたキリストの体なる教会。私たちはその教会を成す兄弟姉妹として教会を大切にしながら生きる使命を持っています。今週もキリストにおいて前もってお定めになられた者、教会の一員として生きていくことを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

信仰によって。

創世記49章29~33節 (旧91頁) ヘブライ人への手紙11章17~22節 (新415頁) 前置き 今日は、2020年から3年間続いてきた創世記の最後の説教です。まだ、48章、49章、50章が残っており、説教したい箇所が多いですが、今までと重なる内容を繰り返すことになると思い、大事な内容だけを取り上げて最後の説教をしたいと思います。ちなみに48章はヤコブの孫たちへの祝福、49章はヤコブの息子たちへの預言、そして50章はヤコブの葬儀とヤコブの息子たちの和解について描かれています。今日の説教は、その中で49章後尾にあるヤコブの最後の遺言について考えてみたいと思います。48、49、50章は読むだけで理解できる内容ですので、帰宅後に一読することをお勧めします。今日の説教のタイトルのように、創世記は罪によって遠ざかってしまった神と人間が、信仰によって再び結ばれる物語であります。今日は、創世記の大事な教えをもう一度振り返り、私たちの信仰生活において、適用できる教訓を考えてみたいと思います。 1. 信仰によって生きてきたヤコブの最期。 アブラハムの孫、イサクの息子、イスラエルという民族の名前の根源である人、ある意味で創世記の本当の主人公だとも言えるヤコブが、波乱万丈の人生を後にして神に召されました。ヤコブはアブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の中で、最も欲張りで、弱い信仰で、世俗的な人と評価される人物です。しかし、彼はアブラハムとイサク以上に、劇的な神の導きと守りの中で生きてきた人でした。若い頃の彼は、揺れやすい信仰で生きたのですが、それでも神は彼と常に共に歩んでくださり、彼が信仰の道を踏み外さないように導いてくださいました。そして、今日の新約本文は、彼の人生をこう評価しています。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。」(ヘブライ11:21) 私たちはこの言葉の「信仰によって」という表現に注目する必要があります。ヤコブは若い頃、神の御心ではなく、自分の意思に従って生きようとする人でした。彼は常に神のもとではなく、他のところを追い求める人でした。自分の利益のためには嘘もつき、欲張りで、算用高く、特定の妻と息子への偏愛で家族どうしの葛藤の元になる人でした。客観的に彼は信仰者として好ましくない生き方の人物だったのです。 しかし、彼の逝去後、長い時間が経ち、新約聖書は彼を「信仰によって」生きた人と評価しています。若い頃、信仰とは関係なく生きたヤコブが、神のお導きによって年を重ねつつ信仰の人物に成長していき、最終的には神のお許しによって信仰の先達として新約聖書に記されるようになったのです。私たちはそれを通じて、信仰というものの本質についてわかるようになります。信仰は信じる人によるものではなく、信仰をくださる方によるものであるということです。人が自らの立派な信仰によって信仰者として認められるわけではなく、神がご自分の恵みによって罪人を赦してくださり、信じる人と見なしてくださるから、信仰者として認められるというわけです。そういう意味で、私たちは自分の努力によってキリスト者になったわけではありません。父のお選び、キリストの御救い、聖霊のお導きによる信仰を通して、私たちは義とされ、キリスト者となったのです。私たちは今日も罪から自由ではない弱い存在です。しかし、主は常に私たちが信仰によって生きるように助けてくださいます。そして、私たちが主に召される日、主は私たちを「信仰によって生きた者」と呼ばれながら迎えてくださるでしょう。だから、今現在の自分の信仰の弱さのため、がっかりしないようにしましょう。自分の力で信仰生活をうまくいかせるわけではありません。主なる神が、私たちの信仰を導いてくださるのです。ヤコブは、その神の信仰のお導きによって信仰者と認められたのです。 2. 創世記が持つ真の意味。 「罪人に信仰への道が開かれた。」これが創世記が持つ最も大事な教えです。私たちは創世記という聖書について聞く時、「この世界がどのように創造されたのかを話す書だ。」と思うかもしれません。しかし、それは誤解です。創世記は、世界がどのように造られたのかを教える書ではありません。一部の無神論者たちは、聖書に現れる創造が、科学的に全く根拠のない嘘だと言います。「どうして世界が6日間に造られるだろうか、科学的にあり得ないことではないだろか。」と批判します。創世記が世界の創造についての書だと思うからです。しかし、それは創世記への完全に間違った理解の結果です。実際、創世記は創造に重点を置いた書ではありません。それなのになぜ創世記と呼ばれるのでしょうか? 創世記1章1節をヘブライ語で読むと「ベレシト(初めに)バラ(創造した)エロヒム(神が)」となります。「初めに神が創造された。」という意味です。創世記が創世記と呼ばれる理由は、この「ベレシト」にあります。古代中東の書籍(巻物)は別に題名がなく、第一行目の文章の最初の単語を題名として使う場合が多かったと言われます。たとえば、出エジプト記のヘブライ語のタイトルは「出」とか「エジプト」とか「記」とかではありません。「名前」がヘブライ語の出エジプト記のタイトルです。 「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。」(出エジプト1:1) ヘブライ語の出エジプト記1章1節の一番最初に出てくる接続詞を除いて「名前」という意味の「シェモト」が文章の一番前に出てくるからです。出エジプト記というタイトルは、後、ギリシャの翻訳に付けられた題名です。また創世記の物語に戻って、つまり創世記は最初の文章のために名付けられたタイトルに過ぎません。創世記の真の主題は「信仰のない罪人たちが、信仰によって神に立ち返る。」なのです。主は創世記の登場人物、アブラハムとイサクとヤコブを通して、本格的に信仰の歴史を始められ、この3人が登場する理由を裏付けするために創造、堕落、人類についてお話になったのです。(1章から11章まで)だから、私たちは創世記を読む際に創造だけに重点を置いてはなりません。「世界を創造された神が、堕落によって汚された罪人を愛し、彼らに信仰を与え、彼らをご自分に引き戻されるために信仰の先祖であるアブラハムとその子孫イスラエルをお呼びになった。」に重点を置かなければなりません。したがって、創世記の最も重要なテーマは「信仰」なのです。私たちはできないことを神はお出来になるという信仰。私たちが信仰を作るのではなく、神が私たちに信仰をくださるという信仰。創世記は、まさにその信仰のために記された書なのです。 3. 信仰によって。 「ヤコブは息子たちに命じた。間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」(創世記49:29) 今日の旧約本文は、それほど重要な言葉だとは感じられないかもしれません。ただ、ヤコブの遺言の中の一つに過ぎないと思われるかもしれません。しかし、「ヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」という表現ほど、ヤコブの最後の信仰をよく表わす言葉はないと思います。若き日のヤコブは信仰と遠い人間でした。しかし、数多くの人生の喜怒哀楽の中で、ヤコブは神が養ってくださった信仰によって、真の信仰者に成長していきました。若い頃の彼は、自分自身の思いのままに生きようとする人でしたが、死を目の前にした今では、神の御心に従順に従い、神おひとりだけを崇める人となっていました。「ヘト人エフロンの畑にある洞穴(マクペラ)」とは、創世記23章でアブラハムが、ヘト人エフロンから銀400で買い取ったアブラハムの土地です。そして、そこは神がアブラハムの子孫に与えると約束された乳と密の流れる地カナンを意味する場所でした。ヤコブはその地を偲びつつ、死んでも神の約束の地に帰ろうとしたわけです。ヤコブは昔の自分の欲望に満ちた人生から完全に変わり、信仰によって神の約束を憶えながら死んでいったのです。もしかして、ヤコブにはエジプトで盛大な葬儀を行い、華やかな墓に葬られる選択肢もあったかもしれません。もし若い頃のヤコブだったら、そうしたかもしれません。しかし、最期のヤコブは、この世の栄ではなく、信仰によって神の約束を選んだのです。 結局のところ、創世記の長い話しは信仰についての物語なのです。創世記で一番比重の大きい人物であるヤコブは、この世の栄ではなく、神への信仰を選びました。創世記の1章から11章の間に登場した数多くの人類が神を背いて罪の道に沿って行ったのに、ヤコブはその道から脱し、神への信仰の道に沿って行ったのです。だからヤコブは「信仰によって」神の御前で自分の人生の最期を迎えたのです。このように創世記は信仰の書です。不信仰の中で信仰を選んだ偉大な信仰の先達の物語です。そして創世記は今日も私たちに不信仰と信仰の分かれ道を見せ、正しい選びを求めています。過去3年間の説教の内容が全て覚えられるわけではないと思います。説教をした私もすべて覚えることは無理です。しかし、これ一つだけははっきり覚えましょう。神は信仰によって生きる人をお呼びになるために信仰の書である創世記をくださいました。そして、私たちは創世記に登場した信仰の先達を継ぐ信仰者として神に召されたキリスト者なのです。確かに私たちの信仰は弱いです。しかし、神はいつも私たちの弱い信仰を大切に守ってくださり、私たちと一緒に歩いてくださいます。創世記を通じて学んだ神への信仰の物語を記憶し、弱いけれど、変わりない信仰を追求していく私たちであることを祈ります。 締め括り 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。正しい者は信仰によって生きると書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) キリスト教において、信仰とは、存在の前提条件であると言っても過言ではないと思います。信仰がなければ神の創造を信じることができず、信仰がなければ主イエスの救いを信じることもできず、信仰がなければ今も私と共にいて私を導いてくださる聖霊の御業を信じることもできず、信仰がなければ私たちの人生が神によって守られているということも信じられないでしょう。したがって、信仰はキリスト者の最も重要な価値の中で一つなのです。神が志免教会の兄弟姉妹に変わらない信仰を与えてくださることを祈ります。また、その信仰によって世に勝利して生きていく私たちであることを祈ります。正しい者は信仰によって生きます。今週も信仰によって生きていく私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

十字架がなければ、復活もない。

詩編126編1~6節 (旧971頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19~20節 (新345頁) 前置き 復活なさった主イエス·キリストを讃美します。キリスト教は救い主イエスの復活を信じる宗教です。私たちは聖書に書いてあるとおり、神であるイエス·キリストが罪人を救ってくださるために、この地上に来られたことを信じます。また、罪によって苦しむ罪人に贖いの良い知らせ、すなわち福音を宣べ伝え、罪人の友になって癒してくださったことを信じます。私たちは、キリストが罪人の贖罪のために苦難を受けられ、十字架につけられ死んでくださった後、3日目に復活なさって罪人に救いの道を開いてくださったことを信じます。私たちはクリスマスを通して救い主イエスの人間としてのお生まれを記念し、またイースターを通して救い主イエスの死と復活を記念します。これらすべてはキリスト者の信仰において絶対に諦められない大事な価値であり、教えであります。今日はイースターを迎え、キリストの復活について話してみたいと思います。 1. 肉体の復活と霊の復活。 復活とは何でしょうか? ご存知のように、復活とは死者が再び生き返ることを意味します。ところで、この復活とは単純に生物学的に死んた肉体が生き返ることだけを意味するのでしょうか? 生物学的に肉体が生き返ることだけを復活だとすれば、もしかしたら、この世の中にはまだまともに復活した人がいないかもしれません。なぜなら、再び生き返った人は人類の歴史上、救い主イエスを除いて一人もいないからです。そうであれば、私たちはキリスト教の復活をどう理解すれば良いでしょうか。私たちはまず、肉体の復活と霊の復活という二つの概念から復活について考える必要があります。キリスト教が語る肉体の復活は、遠い未来に起こる終末の出来事と言えます。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(第一コリント15:51-52) 使徒パウロは第一コリントを通して、この世の終わりに起こる復活について話しました。この世の造り主である神が終わりの日、ご自分の子イエス·キリストをこの地上に再び遣わされる時(再臨の日)、イエスを主と崇める者たちは、死から生き返ることになります。すでに朽ちたり、燃えりした肉体も神の不思議なお働きによって、完全できれいな姿に生き返るのです。 こういう肉体の復活はキリスト教の最も重要な教理の一つであるため、信仰を持った人なら、誰でも堅く信じる教えです。しかし、今すぐ私たちの周辺では、起こり得ないことですので、未信者たちに客観的に証明することができない復活でもあります。そういうわけで、私たちは霊の復活に目を注ぐ必要があります。聖書は霊の復活を「新たに生まれる」という表現で言う場合もあります。「イエスは答えて言われた。はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。イエスはお答えになった。はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3,5) ヨハネによる福音書で、イエスは新たに生まれることの特徴について、このように言われました。「第一、神の国を見ること、第二、水と聖霊とによって生まれること。」第一に「神の国を見る」の意味は何でしょうか? キリスト教が語る神の国は、死後の来世だけの意味ではありません。現世であれ来世であれ、神に治められるすべての場所がすなわち神の国なのです。ですから、神の国を見ることとは、神のご統治を待ち望むこと、神による信仰にあって生きることです。つまり、霊の復活を経験した人とは、何があっても神のご統治を待ち望み、また、そのように生きることを誓う信仰者のことを意味します。 第二、霊の復活を経験した人、すなわち新たに生まれた人は「水と霊とによって生まれた人」です。「水による」とはキリストの贖いによって清くなることを意味します。自分の罪に無感覚で世俗的だった人が、まるで水で洗われたかのようにキリストの贖いによって新たにされ、信仰の人生を追い求めるようになることです。それによって、自分だけのために生きてきた人が、他人に仕えるようになり、自分だけを愛した人が、神を愛するようになり、自分の欲望だけを追求した人が、神の御心に聴き従うようになること、聖書はそれを水によって生まれることと言うのです。では、「霊による」とはどういう意味でしょうか? 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ福音書14:26) 人は自力で水によって清くなれないので、霊、つまり聖霊なる神が、人を助け導いてくださるという意味です。したがって「水と霊とによって生まれる。」とは、聖霊の導きによってキリストの贖罪を受け、清くなった信仰者のことを意味します。キリストの贖いによって新たになった信仰者が、すなわち神の国を見る人、水と霊とによって生まれた人、まさに霊の復活を経験した人なのです。 2. 十字架がなければ、復活もない。 さて、ここで一つ考えたいことがあります。肉体の復活は、遠い未来、キリストの再臨の時に起こる出来事であり、霊の復活は、キリストの贖いによって信仰者になることであるから、過去の霊の復活をすでに経験し、未来の肉体の復活をただ待つしかない私たちは、もうこれ以上、復活について何も考えずに生きても良いのでしょうか?ヨーロッパの宗教改革を触発したマーティン·ルーターは中世カトリック教会の改革を訴え、95ヵ条論題を掲げました。そして、その最初の条項は次のとおりです。「私たちの主であるイエス・キリストが、悔い改めよと言われたとき、彼は信仰者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」第一条のイエスが「悔い改めよ」という言葉で信仰者の全生涯が悔い改めであることを命じられたとありますが、その原型はマタイ福音書4章17節です。「イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいた。と言って、宣べ伝え始められた。」「悔い改めよ。」という表現の原文はギリシャ語の現在形そして命令形の動詞です。文法的に能動的で反復的な行為を命令する時に使われる表現でもあります。つまり、一生悔い改めを繰り返して生きることを命令する文章なのです。ルーターはこの言葉を参考にして95ヶ条論題の最初の文章を書き始めたのです。このような能動的で反復的な悔い改めへの促しは、後日、改革教会の大事な合言葉として位置づけられ「改革された教会は常に改革されなければならない」という大事な教えを残しました。 つまり、キリスト者は、一度だけの悔い改めに満足してはならないという意味です。キリスト者は繰り返して自分のことを省み、悔い改め、信仰によって生きるべき存在です。それこそが、真の改革なのです。これは復活に対する私たちの姿勢にも同じく適用されます。「私はすでに信仰を持った人として霊の復活を経験した。そして肉体の復活は遠い未来のことなので待つしかない。だから、もうこれ以上復活について悩む必要はないだろう。」ではないのです。改革教会が常に改革されなければならないことと同じように、霊の復活を経験した信仰者である私たちも毎日霊的に新たに生まれ、復活の人生を生きていかなければならないということです。キリストにあって、毎日復活し、昨日の自分に対して死に、新たにされた自分となって生きていかなければならないということです。つまり、私たちは毎日死んで毎日復活するべき存在なのです。そのため、復活は今日もまた私たちに与えられる神からの信仰の課題なのです。昨日隣人を憎んだら、今日は隣人を愛するために復活しなければなりません。昨日嘘をついたら、今日は真実になるために復活しなければなりません。昨日不信仰だったら、今日は真の信仰であるために復活しなければなりません。私たちの毎日の生活が復活の連続でなければなりません。したがって、イースター(復活節)は毎年4月の、ある一日だけを意味するものではありません。私たちの全生涯が繰り返し復活するイースターであるのです。 使徒パウロは言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」復活のためには死が前提となります。私たち、キリスト者は毎日昨日の自分に対して死に、今日の自分に対して生きる復活の人生を求めるべき存在です。したがって、聖書は私たちに自分の十字架を負うことを促します。十字架は死刑道具であり、キリストは十字架で死に、復活されました。私たちも、主のように毎日自分の十字架を負って罪に対して死ななければなりません。そしてキリストが復活されたように、信仰による新たな存在として復活しなければなりません。他人を憎む自分は死に、他人を愛する自分として復活しなければなりません。信じられない自分は死に、信じる自分として復活しなければなりません。私たちはキリストと共に十字架で死に、キリストと共に再び復活したキリスト者です。そしてキリストにあって復活した存在として毎日を生きていく存在でもあります。それが霊の復活を経験した者が求めるべき生き方ではないでしょうか。毎日死ぬというのは難しいことです。信仰によって、自分自身を徹底して制御することだからです。自分を制御することが、まさに私たちにおいての自分の十字架なのです。しかし、その十字架での死があってこそ、私たちの人生は真の復活の人生を生きることが出来るようになるのです。 締め括り 「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126:5-6) この言葉は私の大好きな詩篇の一つです。自分のことを十字架につけ、復活した存在として一日を始めるというのは非常につらいものです。しかし、涙で種をまく者は喜びで刈り入れるという言葉のように、つらい十字架を負う人は、まことの復活の者として神による喜びにあって生きるようになるでしょう。自分の昨日の悪い生き方を十字架につけ、信仰によって新たになった今日を生きる復活のある人生。それこそがキリスト者の進むべき、復活の道ではないでしょうか? 今日の説教はかなり神学的で比較的に難しい内容だったと思います。お久しぶりにお越しくださった方々には本当に申し訳ございませんでした。しかし、主なる神が、ここに集っておられる皆さまに聞く耳をくださることを祈ります。主イエスの復活を記念するイースターです。主の復活を喜ぶ一週間になることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

主の十字架。

申命記21章22~23節 (旧314頁) ガラテヤの信徒への手紙3章10~13節 (新345頁) 前置き 今日はイエス·キリストの受難主日です。前回の説教で、私たちはキリストの苦難について学びました。それを通して私たちはイエスが苦難を受けなければならなかった理由について、そして私たちにとって主の苦難とは何かについて話しました。イエスの苦難は、罪によって神に呪われた罪人たちのために、罪のないイエスが代わりに受けてくださった贖いの苦難でした。主イエスがお受けになった苦難と死によって、罪人への神の呪いは解決され、イエスを信じる者たちはみな、苦難の代わりに希望を、死の代わりに命を得ることになりました。また、主の苦難は十字架の上で受けた肉体的な痛みだけを意味するものではありませんでした。神であるキリストがしもべの姿、すなわち人の子の姿となって来られたこと自体が苦難の始まりでした。このすべてのキリストの苦難は、ご自分の命を神への献げ物としてささげ、罪によって汚されたご自分の民を罪から救い、父なる神と和解させるための崇高な苦難でした。そういう意味として、イエスの苦難は罪人である私たちが受けるべき苦難だったのです。主の苦難を憶える時、私たちはそれを絶対に憶えなければなりません。今日は、その苦難の極みである十字架の出来事について話してみましょう。 1. 旧約の木と新約の十字架。 すでにご存知であると思いますが、十字架はローマ時代の刑罰道具です。イエスは弟子たちと一緒に最後の晩餐をとられ、オリーブ山に行かれ、そこでイスカリオテのユダの裏切りによって、ローマの兵隊たちに逮捕されました。以後、主はユダヤの宗教指導者たちとヘロデ、そしてローマの総督であったポンテオ・ピラトに次々と尋問され、苦難を受けられた後、この十字架で壮絶に亡くなられました。前回の説教で学んだように、神であるイエスがしもべの姿で来られたのが苦難の始まりだったと言えば、この十字架で血を流して亡くなられたのは、その苦難の極みであり、完成だったのです。ところで、イエスの時代のローマでは、すべての囚人が十字架刑にされたわけではありませんでした。十字架刑はローマ帝国にとって最も危険な政治犯が受けるべき、恥と残酷の死刑だったのです。つまり、ローマ帝国の滅びを企んだり、反逆を図ったりした者たちにくだされる死刑だったわけです。そういう意味として、イエスはまったく政治犯ではありませんでした。罪人への真の悔い改めと神との和解の福音を宣べ伝えられただけです。しかし、ユダヤの指導者たちは霊的なユダヤ人の王として来られたイエスを誤解し、中傷して、ユダヤ人の王という表現を政治的に歪めて、罪のない主イエスを最も残酷な十字架刑に処したのです。まるで大罪を犯した凶悪犯であるかのように十字架で殺されました。ところで、なぜ主イエスは政治犯でもないのに、十字架で死ななければならなかったでしょうか? 私たちはその理由を新約聖書ガラテヤ書を通して知ることができます。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13) ガラテヤ書は律法と福音の関係について説明した使徒パウロの大事な手紙です。律法と十字架の関係については後で話すことにして、ここでは「木にかけられる」という表現について考えてみましょう。旧約の律法には、神の御裁きの一つとして、自分の罪によって死刑にされた罪人を木にかけろとの命令がありました。木にかけられた者は、神に呪われた者であり、神の民から排除された惨めな存在でした。これについては、今日の旧約本文にも記されています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記21:22-23)つまり、旧約の「木にかける」という神の裁きが、新約にあって目に見えるように実現されたのが、まさにこの十字架の出来事だったということです。もちろん、十字架刑はローマ時代の死刑制度でしたが、ある意味で「木にかける」という律法の命令とも重なっているということです。これによって、ユダヤ人は木にかけられたイエスを神に呪われた者、神の民から排除された者と認識したはずです。つまり、イエスの十字架の出来事は、イエスが神に完全に御捨てられたことを律法的に示す出来事になったのです。 2. 律法は束縛を、十字架は自由を。 しかし、それはイエスの罪のために起こった出来事ではありませんでした。イエスはご自分の罪によって木にかけられたわけではないからです。かえって、イエスは何の罪もない方であり、しかも神ご自身であります。それなのに、なぜ主は木にかけられて悲惨に死ななければならなかったのでしょうか? それは神であるイエスが、呪いを受けるべき誰かのために、父なる神の呪いを代わりにお受けになって死に、復活して、ご自分の功績によって、その呪いを断ち切ってくださるためでした。イエスの時代のユダヤ人たちは、「自力で律法の要求を完全に果たして神の祝福(救い)に至る」という思想を持っていたようです。何度もお話しましたが、ユダヤ人の律法には、すべて613種類の数多くの掟がありました。そして、そのすべての掟を完全に行い保つ時、律法は完璧に守られるものでした。しかし、そのうちの一つでも守り保つことが出来なかったら、律法全体を完璧に守ったとは言えなかったのです。つまり、不完全な存在である人間が自力で律法を守り、神に認められ、救われるということは、まったくあり得ないという意味です。そのため、自分の力で神に認められる救いを得ることが出来ない人間は、何をしても呪いから自由になることが出来ません。しかし、イエスは正しい方で神ご自身であるゆえに、律法の要求をすべて果たすことが出来る方です。とういうわけで、律法を完成されたイエスがご自分の命をかけて、民の呪いを償い、ご自分の完全さによって民の救いを守り保たせてくださるのです。 だから、イエスを信じる者たちはみな、「イエスの功績によって律法を完成した者」と神に見なされ、認められるのです。私たちはこれを救いと言うのです。そのような意味として、旧約の律法は、どうしても罪人が罪から自由になれないことを明らかに示す束縛の道具なのです。誰も律法の行いを完全に守り保つことができないからです。しかし、罪のない完全な主イエスは罪人を罪に定める律法の束縛から自由な方です。主ご自身が律法を造られた方であり、律法の上にいらっしゃる正しい方であるからです。十字架は、律法を完全に成し遂げられたイエスが、律法の束縛を断ち切られたのを示す、主イエスの祝福の象徴なのです。イエスは、罪人の代わりに神の呪いを受けて木にかけられてしまったのですが、それによってすべての呪いの対価を支払ってくださったのです。そのため、イエス·キリストを主と信じる者はみな、呪いから自由な主の子供として生まれ変わったのです。明らかに新約聖書の十字架と旧約聖書の木は呪いの象徴です。しかし、呪いを圧倒する主なる神の恵みはキリストの贖いの血によって、呪いの十字架という木から呪いを消し去り、その代わりに祝福を入れ替えてくれました。そういうわけで、主の十字架は呪いが過ぎ去ったのを象徴する救いの道具となりました。誰でも、十字架で成し遂げられたキリストの贖いを信じるなら、呪いから自由になり、主の御救いに入ることができるのです。これによってイエスの十字架は、主の救いによる自由と救いを象徴するものとなったのです。 3. 十字架そのものではなく、十字架の出来事を憶えましょう。 ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは十字架そのものは聖なるものではないということです。ひと時、ハリウッドのホラー映画の中にドラキュラが登場する映画が多かったです。映画を観るとドラキュラには弱点がありましたが、日差し、銀、聖水、ニンニク、十字架などでした。このような映画の影響のためか、キリスト者でない人々においては、十字架に不思議な聖なる力が宿っていると誤解する場合が多いと思います。しかし、それは映画的な楽しみのために作られた現代人の想像に過ぎません。十字架そのものには何の力もありません。というわけで、宗教改革期のプロテスタント教会では、会堂に十字架もつけないケースが多かったと言われます。十字架をもう一つの偶像にする恐れがあったからです。実際にローマ帝国の処刑道具として使われる前、古代フェニキアやバビロン、エジプトなどでは、この十字架が、異邦の神々を象徴する偶像崇拝の道具として使われていたとも言われます。また、このような道具が時間の経過とともにカルタゴやペルシアなどで処刑道具として使われ(おそらく、神々の呪いとして)、その後ローマ帝国にも導入されたと言われます。そのため、信仰が弱い人々は、いつでも十字架を神やイエスの化身と誤解して偶像のように受け入れる可能性があるということです。 ですので、私たちは先ほど語り合ったように、十字架の意味を正しく知り、使わなければなりません。十字架そのものではなく、十字架での主イエスの贖いの出来事を、より一層大切に憶えるべきです。十字架を眺める時、キリスト教の聖なる象徴と思うより、私たちのためのキリストの苦難と恥の証拠と思うべきです。何のためにキリストが、この十字架の上で苦しめられたのかをよく考えましょう。そして、自分にとって十字架とは何かについて顧みましょう。使徒パウロはこう言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラディア2:19-20) 十字架を憶える時、私たちは十字架にて成し遂げられたキリストの救いと共に、今後私たち自身が十字架にあってどう生きるべきなのかを悩まなければなりません。主イエスがご自分の民の救いのために、自ら命をささげて救ってくださったように、今や私たちは救い主イエスの栄光のために、私たち自身の十字架を負って生きていかなければなりません。私たちはキリストの十字架にあって、私たちのために身を献げられた神の子に対する信仰によって生きて行かなければなりません。そのような十字架の意味を心に留めて生きていきたいと思います。 締め括り 今日は、主の十字架について考えてみました。志免教会に赴任してから、5回目のレントを過ごしていますが、そのたびに十字架について説教をしてきました。しかし、振り返ってみると、いつ聞いても新しく感じられるのが、この十字架の話しではないかと思います。十字架は私たちの代わりに主イエスが苦難を受けてくださった愛の証拠です。十字架は私たちが受けるべき呪いを主イエスが断ち切ってくださった自由の証拠です。十字架は私たちの命のために、ご自分の命を捨てられた主イエスの犠牲の証拠です。十字架は私たちを救ってくださったキリストのために、私たちも主に自分を捧げる献身の証拠です。そのような十字架の意味を憶え、今週を過ごしていきたいと思います。十字架の主が志免教会の上に豊かな恵みを与えてくださいますように。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。