ヨセフの夢

創世記37章1-11節(旧63頁) テモテへの手紙第二2章15節(新393頁) 前置き 前回の創世記の説教では35章の言葉を通じてベテルという場所について話しました。なぜ、ヤコブはベテルに行かなければならなかったのか、現在の私たちにとってベテルとはどういう意味を持つのかについて学びました。ヤコブがベテルに行かなければならなかった理由は、そこが神とヤコブの約束の場所だったからです。また私たちがベテルを大事にすべき理由は、イエス•キリストによる神との和解、罪への悔い改めを象徴する場所だからです。キリスト者である私たちは、常に神との関係の中に生きるべき存在です。キリストの救いを通じて、神の所有となった私たちは、もはや「私自身」が主ではなく「神」が主となった存在だからです。私たちは毎日の自分の生活を振り返り、今、自分の中心となった存在が自分自身であるか、それとも神であるかを考えつつ生きる必要があります。私たちは常に神が中心にいらっしゃる神の家、つまり「ベテル」を憶え、追い求めて生きるべきです。そこに私たちの主である神が私たちを待っておられるからです。 1.35章の後半と36章について。 もともと今日の説教は、引き続き35章の残りの箇所について取り上げる予定でした。しかし、ベテルに立ち戻ったヤコブの物語を最後にヤコブの話を一段落したいと思います。そこで、35章の後半は手短に触れることで終わりたいと思います。また、36章の内容はエサウの系図の話であるため、別に言及せずに進みたいと思います。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」(創世記35:5) ヤコブは神の一方的なお助けによって無事にベテルに到着しました。神を憶え、立ち戻ることを望む者、神の御前に出て悔い改めることを願う者には、誰も邪魔することができません。神はご自分に帰り、悔い改める主の民を憐れんでお迎えくださる方だからです。私たちが悔い改めて神に帰ろうとする時、神は誰にも邪魔されないように私たちを守ってくださいます。そして、そのような私たちを祝福してくださるでしょう。神は主の民の悔い改めを何よりも喜ばれる方だからです。「神は、また彼に言われた。わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」(創世記35:11-12) そして神は主の下に帰ってきたヤコブに祖父と父に与えた約束と祝福をもう一度確かめてくださいました。 神はご自分の民との約束を絶対に忘れずに守ってくださる方です。神はアダム(創世記1:28)、ノア(創世記8:17)、そして、アブラハム(創世記15:5)にくださった祝福の約束の宣言を、ベテルの神の下に帰ってきたヤコブにもしてくださいました。今後、神はヤコブとその子孫を通して神の約束を成し遂げていかれるでしょう。新約時代を生きる私たちは、神がヤコブとお結びになった約束の成就であるイエス•キリストの民として生きていく存在です。また神はキリストを通じて、私たちに救いの約束をくださいました。イエスの救いの中に生きる新約時代の民である私たちは、移り変わりのない主イエスの約束によって、神の愛と導きの中に生きているのです。35章には3人の死が記録されています。ヤコブの母であるリベカの乳母デボラの死(8節)、ヤコブの妻ラケルの死(19節)、ヤコブの父イサクの死(29節)であります。ヤコブは野望と欲望で生きる人でした。自分の目標のために父と兄をだましたり、しつこく欲を張ったりする存在だったのです。しかし、そんなしつこい生き方にも関わらず、結局、身内の死を防ぐことはできませんでした。死を目の前にして人間の欲望は、どういう意味を持つでしょうか。私たちはいつか私たちを訪れてくる死の前で、人生の真の意味について考えてみるべきです。「ヤコブは、キルヤト・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところへ行った。そこは、イサクだけでなく、アブラハムも滞在していた所である。」(創世記35:27)最後にヤコブはいよいよ父イサクの地、主が約束された土地にたどり着きました。 2。御言葉をくださる神。 では、37章の言葉を見てみましょう。「ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。」(創世記37:1) ヤコブはついに自分の居場所に住むことになりました。 1節にはヤコブの父イサクが、カナン地方に「滞在」していたと記されています。しかし、ヤコブはそこに「住んで」いたと記されています。「滞在」と「住む」は大きな違いを持つ表現です。辞書的な意味も全然違います。滞在は「よそに行って一定の期間そこに留まること。」住むは「居所を定めて、そこで生活する。」と説明しています。原文はどうでしょうか?イサクの「滞在」は「マグル」という表現で「宿泊」の意味を持っています。ヤコブの「住む」は「ヤシャブ」という表現で「安定的に居住する」という意味を持っています。父のイサクにとっては滞在の地であったカナンが、息子のヤコブにとっては住いとなったということです。神は約束をお忘れにならない方です。かつて主は滞在者だったアブラハムとイサクにその土地を与えると約束されました。そして神はその孫であるヤコブをアブラハムに約束された土地に住ませてくださいました。つまり、神はその約束に基づいて必ずヤコブの人生への責任を負ってくださるという意味です。なのに、ヤコブは約束を信じず自ら自分の人生を守ろうとしました。そんな理由で神の御心からはずれたりする時もありました。結局、彼はシケムでひどい目に遭ってしまいました。悔い改めてベテルに立ち戻ったヤコブに与えられたのは、祖父、父にとっては滞在の地であったカナンが、ヤコブ自身にとっては住いの地となっていたという事実でした。 確かに、しばらくしてヤコブは大飢饉を避けてエジプトに向かうことになります。しかし、神はその400年後にヤコブの住いだったカナンの地に、彼の子孫イスラエルをまた呼び集めてくださったのです。そこは神がアブラハム、イサク、ヤコブと約束された契約の地であるからです。神のご計画は一点一画も誤りなく完全です。そして神の民はそのご計画にあって生きるべきです。この言葉を誤解してはいけません。神の計画にあって生きなければならないから、自分は何もやらなくても良いという意味ではありません。私たちは変らず熱心に自分の人生を生きていかなければなりません。しかし、その人生の歩みが神の計画と御心において進んでいるかどうかを点検し、常に主の御言葉を通じて私たちがいるべき場所を確認しつつ生きるべきであるという意味です。私たちの居場所は神の計画、御心、そして約束の中でなければなりません。ヤコブが神の御心に従ってベテルに向かい、結局約束の地にたどり着いて住み始めた時、主はその息子ヨセフを通して主の御言葉を示す夢を見せてくださいました。主の民が主の御心にしたがって生きる時、神は御言葉をくださいます。主の民が主の御言葉を通じてより正しい道を歩んでいけるように主は御言葉をくださるのです。神の御言葉をいただきたいですか。それなら神の約束の中にお住まいください。神の御心を常に求め、「どのように生きれば、神の約束の中に住むことが出来るか」を考え抜きつつ生きていきましょう。そのような民に主は必ず答えてくださるでしょう。 3.言葉を預かった者は謙虚に生きなければならない。 「ヨセフは言った。聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(創世記37:6-7)今日の本文を通して、私たちはヨセフがまだ分別がなく、未熟な人だったということが分かります。兄たちの過ちを父親に告げ口して兄たちの気に障る姿が見られます。そして自分の夢を偉そうに言いふらして親兄弟に失礼な言動をすることが分かります。しかし、彼の夢は数十年後に実際に起きることをあらかじめ見せてくれる一種の神の啓示(言葉)でした。なぜなら、ヨセフは実際に当時の巨大な帝国エジプトの宮廷の責任者(総理)になり、人々にひれ伏されるからです。神は未来に起きる実際のことをヨセフの夢を通して啓示(言葉)されたのです。しかし、分別なく未熟だったヨセフはそれを配慮なく言い表してしまい、他人の心を傷つけてしまいました。つまり、ヨセフは神の御言葉を預かった者でした。しかし、彼の愚かな言動によって、大切な神の御言葉は周りの人々に伝わりませんでした。神の御言葉を預かった者は謙遜でなければなりません。牧師、教師はもとより長老、執事、そして私たち皆が神の御言葉を預かった者です。私たちは神の御言葉の源であるイエス•キリストの体なる教会だからです。私たちには生ける神の、生き生きとした御言葉が共にあります。私たちの謙虚によって神の御言葉が広く伝えられることもあり、私たちの高慢によって神の御言葉が妨げられることもあります。 使徒パウロは、自分の愛弟子であるテモテにこう言いました。「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」(Ⅱテモテ2:15) 私たちは若いヨセフのように軽んじて神の御言葉を取り扱ってはなりません。御言葉を預かった私たちは、御言葉を大事にし、自らをわきまえて、恥じるところのない働き手と認められた者らしく、神の御前に生きるべき存在です。私たちキリスト者の一歩一歩が、神を知らない隣人への神の御言葉であることを憶え、謙虚に生きていくべきです。最後に「夢による啓示」についての一言で説教を終えたいと思います。新約時代を生きる私たちは、新旧約聖書が唯一の神の啓示(言葉)であると信じています。しかし、聖書の記録される前、例えば創世紀の時代やイスラエルが堕落した時代、新約聖書の完成前などの時は、夢や幻などで神の啓示が伝えられたりもしました。しかし、今は違います。教会が立っているところであれば、どこでも神の御言葉である新旧約聖書を読み、その言葉による説教を聞くことができます。従って、今の時代の日本には夢による啓示がほとんどないと言っても過言ではないでしょう。神の啓示は個人に密かに伝えられるものではありません。誰か自分の夢を通して神が啓示されたという人がいたら、まずは疑いましょう。そして牧師に問い合わせてください。「真理の言葉を正しく分別」して啓示を私的に使おうとする者に注意してください。 締め括り これから創世記はヨセフが主人公として登場するようになります。ヨセフも曽祖父、祖父、父のように間違いの中で彼の歩みを始めました。しかし、主はこの未熟で取るに足らないヨセフを通して、偉大な主の歴史を作っていかれます。今日の説教で大切なこととして取り上げたのは、「一つ、神は悔い改める者を必ず守ってくださる。」「二つ、神の約束に従ってヤコブはカナンの滞在者ではなく、住人になった。」「三つ、御言葉を預かった者は謙虚に生きるべきである。」でした。いろいろありましたが、この三つが最も大事だと思います。これから繰り広げられるヨセフの物語を通じて神のご恩寵と御愛を味わっていくことを願います。創世記ももう後半です。残りの箇所も頑張りましょう。今週一週間も主の約束の中に、謙虚に生きる志免教会になりますように祈り願います。

まことの富とは何か。

詩編49編7-9節 (旧882頁) マルコによる福音書10章13-22節 (新81頁) 前置き マルコによる福音書の説教を始めてから、もう1年半が経ちました。最初、マルコによる福音書の説教を始めた時、私はローマ帝国の迫害の下で苦しんでいたキリスト者たちを慰め励ますために、この福音書が記録されたと話しました。マルコによる福音書1章でイエスが最初におっしゃった言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。」でした。つまり、マルコによる福音書は、苦難と迫害にさらされているキリスト者たちに「神の国」という理想的な世界が、キリストによってまもなく到来することを宣言する、希望のメッセージだったのです。そのためかイエスはマルコによる福音書の所々で神の国について言われるのです。今日の本文も例外ではありません。したがって、今日の本文も、その「神の国」という観点から取り上げる必要があります。特に、今日は「富」と「神の国」とを結びつけて話しています。人間の一生において、富とはとても大事な事柄です。適切な富がなければ、私たちは飢えるか他人に迷惑をかけることになるでしょう。しかし、私たちがキリスト者である限り、この世が追い求める貪欲に染まった富の価値観に、そのままついていくわけにはいきません。私たちキリスト者にとって、真の「富」とは何でしょうか。今日の本文を通じて富について考えてみたいと思います。 1.子供のような者–神の国を所有する者。 10章1節では、イエスがユダヤ地方に行かれたと記されています。当時のユダヤ地方といえば、エルサレムを中心とするイスラエルの中心部を意味します。比喩で言うと東京23区のような所だったでしょうか。つまり、イスラエルの宗教、政治、経済、社会の中心部であり、物質的にも、精神的にも最も豊かな地域だったということでしょう。ところが、そこに行かれたイエスが初めて体験されたことは、前回の説教でも取り上げた間違った結婚観によるファリサイ派の人々の質問攻めでした。当時ユダヤ人は結婚と離婚をあまりにも軽んじているだけでなく、宗教指導者たちさえも結婚に関する律法の教えを誤って理解していました。ユダヤ地方は物質的だけでなく、精神的にも最も豊かであるべきユダヤ教の中心地だったのに、むしろ宗教の中心地という華やかな表だけで、精神的な貧困によって聖書の本来の意味さえも、まともに理解できずにいたのです。表向きは裕福そうな地域でしたが、心の中は貧弱極まりない状況だったということです。そして今日の本文は、そのようなユダヤ地方の状況を改めて想起させる物語なのです。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(13) ところで、今日の本文を通じて、私たちはイエスの弟子たちも当時のファリサイ派の人々と大差ない姿を見せることが分かります。彼らもまた、ファリサイ派の人々のように目に見えることだけを見て、本当に重要な価値に気付かずにいたのです。 なぜかというと、弟子たちが「イエスに触れていただく」ことを願って子供たちを連れてきた人々を叱ったからです。ここで「触れる」を意味するギリシャ語「ハプトマイ」は「所属する、関わる」という基本的な意味を持っています。自ら主に帰属するために来た存在を、主の弟子たちが外見だけを見て叱り、追い出したわけです。その時、主は弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とおっしゃいました。当時、子供たちは大人の思いに左右される存在でした。大人たちの言葉をそのままに受け入れ、従順に従わなければならない存在だったのです。しかし、それだけに子供たちは、ずる賢くなく純粋でした。イエスはそのような子供たちを貴いとされました。単純に弱い者であるからだけでなく、純粋で謙虚に大人に従う彼らの生き方を愛されたからです。主は子供たちの中に神に従順に聞き従うべきキリスト者の在り方を見つけられたでしょう。そして、主はそのような子供たちのように主に従う者たちこそが、神の国を所有することができると教えたのです。表では裕福そうでしたが、裏では神の言葉である律法を、まともに理解できなかったユダヤのファリサイ派の人々より、表面的には弱いが、そのままに主の御言葉に聞き従う子供のような者たちが、真に神に愛される存在であることを、子供たちを受け入れることで見せてくださったのです。ここで、私たちは神の国を所有することができる、真の裕福な者とは子供のように神の御言葉に純粋に聞き従う者であることが分かります。 2.永遠な命とは何か? 子供たちが去った後、イエスの所に、ある金持ちの男が訪ねてきました。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17) そして彼はイエスにどうすれば永遠の命を得ることができるかについて質問しました。ところで、ここで永遠の命とは何でしょうか。ただ長生きすることでしょうか。もし、人が死なずに数千年、数万年も生きるとしたら果たして幸せでしょうか?もしかして退屈にならないでしょうか。私たちはキリスト教が語る永遠の命について、正しい理解を持たなければなりません。今日の本文の永遠の命のギリシャ語は「ゾエン・アイオニオン」という表現で、「アイオニオン」は「常に、いつも」を、また「ゾエン(ゾエ)」は「命」を意味する表現です。つまり、常に命にあって生きることを意味します。しかし「ゾエ」は単純に生物学的な命を意味する表現ではありません。英語には「バイオ(BIO)」という単語があります。バイオは生物学的な命、つまり肉体の命を意味します。そういうわけで、生物学をバイオロジーといいます。ところが、このバイオという表現はギリシャ語の「ビオス」に由来します。ギリシャ語には生物学的で物理的な命を意味する「ビオス」と、根源的な(霊的な)命を意味する「ゾエ」が区別されています。今日の本文で永遠の命には「ビオス」ではなく「ゾエ」という表現が使われました。つまり、聖書が語る永遠の命とは、肉体の命を超え、それより深い意味を持つ根源的な命を意味するのです。 言い換えれば「ゾエ」は、根本的で霊的な命を意味します。そして神に由来する命をも意味します。聖書はその「ゾエ」の源が神であると証ししています。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩編36:10) 神がこの世の中を創造されたのも、この神の「命(ゾエ)」を世の中に表したものです。キリスト者が、主によって救われ、真の命を得たという表現も、単純に「ビオス」的な表現ではなく、真の「ゾエ」を得たという意味です。したがって、聖書が語る永遠の命とは、神に「命(ゾエ)」を得て限りなく根源的な命を享受することになったという意味です。つまり、命の源である神と、いつも、常に一緒に生きるようになったという意味です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3) そしてさらに聖書はこの永遠の命はイエス•キリストを通じて得ることになると証言しています。そのような意味として、今日の、イエスの前に出てきて「触れていただく」ことを願った子供たちは、真の永遠の命を見つけた存在であったかもしれません。そして、彼らこそが神と一緒に生きる、真の裕福な者だったのかもしれません。永遠の命とはいつも神と一緒に生きることです。永遠の命は神を信じ、その御言葉に従順に生きる人々に与えられる神の贈り物なのです。今日の御言葉は、その永遠の命を持った者こそが、まさに真の裕福な者であることを私たちに教えてくれるのです。 3.真の富とは何か? 今日の17節に登場するイエスのところにやってきた金持ちの男は、一見、永遠の命を探求する者と見られます。最初の質問が永遠の命についての問いだったからです。またイエスを善い先生と告白し、律法もよく守る者です。どこから見ても理想的な信仰者です。そして金持ちです。もし、このように信仰を追求し、御言葉に真剣であり、イエスに友好な金持ちの人が、志免教会に来たら、私たちは皆その人を疑わずに大歓迎するでしょう。彼は教会に活気を与え、毎週の献金も目立って増えるでしょう。しかし、イエスもそう考えられたでしょうか。イエスは人の外見だけをご覧になる方ではありません。もちろん主は本文の金持ちの男の情熱を慈しんでおられます。しかし、イエスはそこで留まらず、彼の最も弱い部分を見抜かれて鋭く掘り下げられました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21) 主にこう指摘された金持ちの男は、自分の多くの財物のため、悲しみながら主のもとを立ち去りました。何も持っておらず、力の弱い子供たちが主の御前に無邪気に出てきたのとは反対に、彼は自分の力でイエスの前に出てきて、自分の思い通り信仰にも熱心に生きてきましたが、彼の財物を標的とした主の鋭い指摘の前で崩れてしまったのです。彼は自分の持ち物を諦めることができず、真の富であり、永遠の命であるキリストとの歩みを逃してしまいました。 聖書が語る富は、非常に霊的な事柄です。これは単純な財物の多寡の問題ではありません。イエス•キリストに人生の希望を置いて神の国を待望する者は、貧富を問わず、実際には裕福な者です。財物、名誉、権力など、神以外のものを追求するために神の国への待望も、期待もない者は、いくら富裕と言っても実際には貧しい者です。イエスの前に出てきた子供たちは低くて貧しい存在だったかもしれません。けれども、彼らは主の祝福を限りなく享受する真の富を持った存在でした。主と歩むことが出来る永遠の命が彼らにはあったかもしれません。しかし、多くの財物を持っている金持ちの男は、もしかしたら自分の財物を守るために主との歩みを諦めてしまった霊的に貧しい者だったのかもしれません。聖書が語る富の基準は、神に属することを望むか否かの問題です。人間は貪欲に満ち、満足を知らない存在です。今日、主イエスがおっしゃった「天に富を積む」という言葉の意味は貪欲を捨て、神の完全なご支配に自身のすべてを委ねるという意味です。(多くの献金をしなさいという意味ではない。) もし神を最も大事な方とし、すべてを神に委ねることが出来るならば、その人は真の裕福な者であり、永遠の命を享受する者であるでしょう。しかし、神以外の自分の物事のために神の御心に聞き従えない者は、真の貧しい者であり、永遠の命から遠い者であるでしょう。今日の物語は私たちに、富に対する霊的かつ根源的な基準について教えているのです。 締め括り 「どうして恐れることがあろうか、財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」(詩編49:7-8) 詩編は富の虚しさについてこう話しています。いくら多くの財物を持っていると言っても、人は皆死んで神のところに戻らなければなりません。いくら多くの財物があると言っても、一人の魂を救うには、とても足りません。真の富とは私たちが持っている財物ではなく、主への私たちの信仰にかかっています。主への信仰こそが私たちの魂を救いに至らせる唯一の道だからです。神の国では財物の多少ではなく、神への純粋な信仰だけが真の富と認められます。確かに私たちに、ある程度の富は必要です。家庭を守るために、子供を育てるために、老後の生活のために、私たちは富を積まなければなりません。つまり、富そのものは悪ではありません。しかし、それが私たちにとって真の富ではないことを常に念頭に置いて生きるべきでしょう。私たちの真の富は主なる神への私たちの信仰と従順に従う人生そのものです。私たちの心があるところに私たちの富もあるのです。この世の富ではなく、神の国で認められる富が、私たちが追求すべき真の富であることを憶え、この世の財物より、神への信仰をより大切にする私たちになることを願います。そのような生き方に主は真の富を豊かに与えてくださるでしょう。

祈り

歴代誌下7章14節(旧679頁) マタイによる福音書6章5-8節(新9頁) 前置き  祈りとは何でしょうか。私たちは、祈りによって礼拝を始め、祈りによって礼拝を終わります。また、祈りたけのために水曜祈祷会を守り、常に個人の祈りをし、中会、大会の時も祈りによって始まります。そして、聖書も祈りについて、非常に大事に扱い、主イエスも生前に祈りの歩みを歩かれました。このように祈りはとても大事なキリスト者の信仰の行為なのです。今日は、聖書の御言葉を通して、この祈りというものについて一緒に考えてみたいと思います。 1.旧約時代の祈りの場-神殿 「あなたは天からその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。(歴代誌下6:35)」歴代誌下6章にはソロモンの祈りが記してあります。エルサレムの神殿が完成された日、ソロモンは神殿で祈りました。彼は神がご自分の民を哀れみ助け、最後まで導いてくださることを願いました。ソロモンはイスラエルの神だけがイスラエルの主であり、助けてくださる全能者であると祈りました。すると、神はその夜にソロモンの夢に現れ、今日の旧約本文のように言われました。 『もし、私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。』(歴代誌下7:14)神はソロモンが捧げた神殿をご自分の民の祈りを聞かれる場所にしてくださいました。「今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでも留める。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16)イスラエルの神殿は特別な場所でした。神殿に当たる概念は出エジプト記の時代にもありました。その時は幕屋と呼ばれる仮小屋でしたが、それは主がくださった十戒の石板が入った契約の箱が置かれる場所でした。契約の箱は神の足台とも呼ばれましたが、それは神がこの地上に直接関わっておられるという意味でした。幕屋は人間の罪のゆえに神との関係が崩れたこの世に、神が積極的に関わられ、特に神に選ばれた民と一緒におられることを示す、神のご臨在の象徴でした。ところで、ソロモンはその幕屋をいっそう大きくアップグレードして、神が「主の名をもって呼ばれている神の民」と共におられることを望んだのです。しかし、それは単にイスラエルの民だけに限られることではありませんでした。他民族が神殿に来て主を認め、謙遜に祈る時、彼らも受け入れてくださる、異邦への主の救いの象徴としてもしようとしたのです。 神殿で祈る時、神は祈る者を助け、癒してくださると約束されました。しかし、残念なことに現代のエルサレムに神殿はありません。西暦70年にローマ軍によって破壊されました。それでは、神殿の新約時代に、私たちはどうすれば良いでしょうか?単刀直入に 旧約聖書の神殿は、新約のイエス・キリストを意味する重要な象徴であります。これは新約聖書からも知ることが出来ます。『イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』(ヨハネ2:19-21)旧約の神殿は、神がご自分の民と会ってくださる場所でした。神の民も、神を認める異邦人も、この神殿で神の御前で祈ることが許されたのです。そして、新約時代はキリストにあって神に会い、祈ることが出来ます。もちろん、イエス・キリストは建物ではありません。しかし、この旧約の神殿のようにイエスを通じて、私たちの祈りが神に捧げられるのです。神殿は祈りの家でした。そして、 現代においては、神が神殿として認めてくださったイエス・キリストの、御名によって祈ることが出来るようになりました。私たちが祈りを終える時、いつも「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と唱えることには、このような意味があるからです。昔の神の民は神殿で祈りました。つまり、私たちは新約の真の神殿であるイエス・キリストにあって祈るべきということです。別の名を通じては、私たちの祈りが父なる神に届くことが出来ません。神が「私の名をもって呼ばれている私の民」と言われた部分を記憶したいと思います。私たちが神にいただいたその名、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは、あの旧約の神殿での神の民の祈りのように神にささげられるのです。 2.祈りは調律。 今日の新約本文は、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださる前の物語です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)イエスの時代には、ラビや宗教指導者が広場や神殿の庭で他者に目立つように大声で祈る場合があったと言われます。そのような祈りを通して、「私はこんなに素晴らしい祈りをする。律法についてよく知らない君たちより、私の方がはるかに正しい人である。私は君たちとは違う。」ということを見せて、自分の義を自慢するためでした。しかし、イエスは、むしろ小部屋に入ってひそかに祈ることを命じられました。祈りは他者に見せるために、あるいは自分自身の欲望を満たすためのものではありません。 祈りは調律です。演奏者は、演奏の前に基準音に合わせて調律をします。オーケストラの公演に行くと、公演を始める前に、オーボエ奏者が『ラ音』を出すそうです。この音に合わせて全ての楽器は調律します。これが基準音です。祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に信徒が自分の基準を合わせる行為です。祈りを通して神の御心を基準音とし、それに従って生きていくということです。ですので、私たちは、調律の祈りをするべきです。自分自身の欲望と罪を神の御前で抑え切って、神の御心に沿って行くことを求める行為です。だから、自分の願いを叶えようとする意図だけでは、完全な祈りを捧げることは出来ません。もちろん、私たちは、経済、子供、健康、人間関係のために祈る必要があると思います。しかし、その祈りは私たちの弱さを告白する祈りとなる必要があります。自分が金持ちになり、権力者になって、欲を満たす祈りではなく、自分の祈りを通して、経済、子供、健康、人間関係への自分の弱さを告白するということです。叶えてくださるにせよ、拒まれるにせよ、神に自分の事情を打ち明けることが大事だということです。そして、神が与えられるお答えに応じて、願いが叶っても感謝し、叶わなくても感謝することが重要です。そして、そのような祈りの中で最も重要なことは、神の御心とは何かを悟り、それに自分の心を共に重ねていくことです。イエスはこのような調律としての祈りを強調されたのです。 3.主イエスの御名によって祈る。 神はイエス・キリストを現代の神殿にしてくださいました。私たちが主イエスの名によって祈る時、その祈りを聞いてくださいます。この会堂は神殿ではありません。ただ建物に過ぎないのです。この会堂が無くても、私たちは公園で礼拝することが出来ます。志免教会の始まりは、この会堂ではなく、家庭礼拝からでした。誰かの家での集いも主イエスによって教会になるということでしょう。主の御名によって集まる所が教会そのものだからです。しかし、神がくださった真の神殿であるイエスの御名がなければ、私たちの祈りは、御父に届くことが出来ません。また祈りは神の御心に自分の心を合わせていく行動です。主イエスが父なる神の御心に合わせて、ご自分の命を捧げられたように、祈りは自分のことを神の御心に合わせる行為なのです。神が望んでおられることを自分の基準にし、それに合わせることです。その基準に合わせて、神は私たちの願いを叶えられるか拒まれるのです。しかし、その神の御心に従って叶っても感謝、叶わなくても感謝する成熟した信仰を持っている私たちになりましょう。 イエス・キリストの名によって祈りましょう。そして、その祈りを自分の欲望と必要だけのためにではなく、神の御心とは何か?自分がどのように神の御心に気づいて行くべきだろうかのために祈りましょう。『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイ6:8)神は、すでに私たちの必要を知っておられる方です。神の御心に合わせて、私たちに必要な祈りを聞かれ、その願いを叶えてくださると信じます。しかし、時には、自分の思いが神の御心に合わない場合、拒まれるかも知れません。それでも絶望せず、神の正しさを信じて従って行きましょう。神は、主の民を愛しておられます。神は、主の民が最も良い道に行くことを望んでおられます。私たちに良いものを与えてくださる神を信じて、何のために祈って行くべきかについて、毎日、主に伺って行きましょう。その時、神は私たちに最も必要なものを喜んで答えてくださるのでしょう。 締め括り 今後の祈りを通して、私たちの人生を通して、神が許されたイエス・キリストの御名によって、神に自分を捧げて、神の御心に自分を合わせて、へりくだって真実な祈りを捧げる志免教会になっていきましょう。常に神の御心に聞き従い、その御心を私たちの基準として生きていく志免教会になることを祈り願います。

ベトザタの奇跡

イザヤ書 49章10節(旧1143頁) ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁) 1.慈しみの家 – ベトザタ。 ベトザタとはイエスの時代、当時のユダヤ人たちが使っていた大規模の貯水槽で、このベトザタには、病院のような施設がありました。その意味は「慈しみの家」でした。病人の治療にきれいな水が必要だったので、大きい貯水槽があったわけです。そのベトザタには不思議な噂がありました。今日の本文を読むと3節の次に4節がありません。ヨハネの福音書の最後に、その4節の言葉があります。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』これは、最初に記されたヨハネによる福音書には無かったのですが、後で加えられたと知られています。「後で」といっても、大昔のことですので、聖書としての権威はあります。 ベトザタには主の御使いが、時々水を動かすという噂があり、その水が動いた直後に入る人には、どのような病気でも癒される奇跡があったようです。これが本当か噂かは分かりませんが、大勢の人々が自分の病気を癒すために、そこに集まっていたのは事実でした。その中には、今日の本文の38年間の病人もいました。この話を聞くと、欠けた箇所の 『主の使い』という表現が気になります。愛の主がなぜ、こんなにけちをしていたでしょうか。ベトザタは「慈しみの家」なのに、なぜ皆を治してくれず、一番だけを治したのでしょうか、人々に虚しい希望を与える主なんて、本当に神だったでしょうか。それでギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書では『主の』の部分が一冊も無く、英語聖書ではあるのもあり、ないものもありました。おそらく、『主の』という表現は原文を翻訳する時の誤解によるものだったかもしれません。 イエスの時代のエルサレムはローマ帝国の植民地としてギリシャ、ローマの宗教と文化も混ざっている場所でした。イエスの当時のミシュナーというユダヤの文献によると、このべトザタはローマの神々のための場所だったと言われます。古代のアスクレピオスという神はギリシャ、ローマの医術の神でした。ところで、近代の考古学者たちによって、このアスクレピオスと思われる像が、べトザタの跡で見つけられたのです。べトザタは慈しみの家でしたが、その慈しみは、私たちが信じる三位一体の神の慈しみではなく、ローマの神々の慈しみだったかもしれません。病人たちは、この異邦の神の使いが、水を動かしてくれると信じていたわけです。慈しみの家という名の場所で、わずか一人のみに施されるケチな慈しみを待ち望みつつ、一生を過ごした病人たち。実際にローマの神の使いが来て、水を動かしたかどうかは分かりませんが、人々は病気からの自由を望んで、一生偽りの神を待っていました。その偽りの神による自由は、非常に限定的で、競争的だったのです。それは一番だけへの慈しみでした。 2.ベトザタの束縛された者。 ベトザタの病人たちは、イエスの時代の最もどん底に束縛されている弱者でした。その時、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。ダビデの子孫、ユダ系列の人ではなく、異民族出身のヘロデ王家に支配されており、彼らの権力でさえも、ローマ帝国によるものでした。宗教も純粋さを失っていました。イスラエルの神からの託宣は現れず、ユダヤ教の宗教指導者たちの富と力と誉れのための宗教でした。社会も、純粋ではなかったのです。お金持ちはさらに富み、貧乏者はますます貧しくなりました。イスラエルは孤児や寡婦のようになっていました。それだけに病人や障害者は、さらに疎外され、呪われたと蔑視されていました。そんな彼らには真の慰めと自由と慈しみが必要でした。権力者が彼らに興味がなかったことは言うまでもありません。極めて弱い彼らに何の助けもありませんでした。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きるに決まっていました。 彼らは二つの束縛に置かれていました。一つは一番でない限り、抜け出せない社会的な束縛でした。病気によって苦しんでいる者が治るためには、まず水に入らなければならないという前提がありました。スリを働く途中、けがをした人が足早に水に入ると治されたということです。暴力を振ってけがをした人も、先に入ると癒されたということです。しかし、生まれつき足が不自由な人、気の毒な事故によって盲人になった本当の弱い者は治されなかったということです。いくら悪人でも一番なら、治されるシステムでした。社会は本当の弱者のために何もしてくれませんでした。ただ噂を信じろという傍観と、偽りの神への信仰の強要だけで、何の希望も与えなかったのです。 また、宗教的、文化的な束縛もありました。38年もなった病人が、イエスに癒されても、ユダヤ人たちは祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分たちの教理を突きつけ、『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と無慈悲な対応だけでした。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸せは何の意味もなかったのです。苦しむ病人の回復なんて大事ではなく、ただ彼らに重要なのは、自分たちの既得権だけでした。彼らはむしろ、弱者を助け、治されたイエスを迫害しました。正しくない世で、何の慰めも得られなかった弱者の命を、誰も大切に扱っていなかったということです。ベトザタの束縛は、ただの個人の問題ではなく、社会の問題であり、束縛でありました。ベトザタの病人は、そのような束縛から絶対に逃れない存在でした。 3.ベトザタの解放者。 そんなに地獄のような現実、一番だけに機会が与えられるベトザタの池、そして、そのべトザタの池の不条理から目をそらした指導者たち、そこから抜け出しても、情けの無い基準をあげて判断し、非難した宗教人たち。もはやベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化の地獄のような所だったかも知れません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように見捨て、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておくゴミ箱だったかも知れません。そこは慈しみも、公平さも、希望も無い墓のような所でした。しかし、そこに神の御子が臨まれました。皆が高い所、明るい所に憧れたとき、主イエスは、誰も注目しない最も低い所、暗い所、ベトザタおられたのです。 そして、どうしても一番になれない38年の病人に手を差し出されました。『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。』(ヨハネ5:6)イスラエルのゴミ箱のような低いところに臨まれたイエスは、その中でも一番弱い者に注目されたのです。そして言われました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は治されることを求めませんでした。ただ、自分の惨めさを告白するだけでした。誰も自分を助けてくれなかったことを話しています。すると、イエスは彼の話をお聞きになり、最も低いところで苦しんでいた彼を治してくださいました。その時、彼は38年の長くて苦い病気から自由、ベトザタという一番だけを覚える地獄から解放されました。政治、社会、宗教、文化から見捨てられた人が、イエス・キリストの慈しみによって新しい人生を始めるようになったのです。  しかし、彼の回復を、人々は喜んでくれなかったのです。むしろ安息日に律法を犯したと叱りました。誰が安息日にそのようにしたのかと問いただしてイエスを迫害し、殺そうとします。しかし、イエスは言われました。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』(ヨハネ5:17)いくら世の不条理と悪が暴れても、イエスは堂々と言われました。「君たちがいくら暴れても、私は私の父が今もなお働かれるように働く。」イエス・キリストは、束縛と抑圧の下で苦しんでいる人を、ご自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、ご自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛されている者を、喜んで回復させたイエス・キリストを通して、神の真の慈しみが、その日、ベトザタに臨んだのです。最も低いところで、いつも働いておられた神の豊かな恵みが主イエスを通して、その地に臨んだのです。 締め括り 今日の旧約本文はメシアの働きを示す箇所です。国を失って束縛の中で苦難を受けたイスラエルに神は言われました。『彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。』(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、湧き出る水のほとりのような自由へ導かれるということです。そういう意味で、メシアとして来られるイエス・キリストは解放者です。イエスは、罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる、真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きることが出来る真の自由です。そのような人間らしい生活を施すために、イエス・キリストは遣わされたのです。このイエスを信じる私たちの在り方について、どう生きるべきなのかについて今日の本文は問うているのです。

なぜ、ベテルなのか

創世記35章1-7節(旧59頁) ヨハネの黙示録2章4-5節(新453頁) 前置き ヤコブは創世記32章で、神にイスラエルという新しい名前をいただきました。それによって、彼はもはや過去のような、騙して奪いとる存在ではなく、神と共に歩む人生を生きなければならない存在となりました。しかし、彼の人生はそう簡単には変わりませんでした。神の恵みによって兄エサウとの問題が解決されるやいなや、ヤコブは神の望まれるところではなく、自分の目で見て好むところに行ってしまったからです。兄との問題で恐れ戦いていた時は、神に寄りかかって離さなかったのに、神が問題を解決してくださると、彼は神の御心ではなく再び自分の思いのままに振舞ってしまったのです。前回の説教では、それをイスラエル的な人生ではなく、ヤコブ的な人生に戻ってしまったと表現しました。そしてその結果、創世記34章で、ヤコブはあまりにも悲惨な状況に置かれてしまいます。そんな彼に神は再び現れ「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。」と言われました。なぜ、神はヤコブをベテルに呼び出されたのでしょうか?今日の物語を通じて、キリスト者の人生と神の導きについて話してみたいと思います。 1.34章のあらすじ-惨めで残酷な人間たちの物語。 まず、33章後半と34章全体のあらすじを話してみましょう。33章で兄と再会したヤコブは、幸いにも兄と円満に和解することができました。エサウはヤコブの家族と群をエスコートして自分の場所であるセイルに一緒に行こうとしましたが、ヤコブはいろいろな言い訳をし、嘘までついて兄をセイルに行かせました。(33:12-16) そして彼は兄の家とまったく違う方向であるシケムの町に向かいました。(ヤコブとエサウが再会した場所からセイルは南、シケムは西)当時シケムは、その地域の商業、宗教、政治の中心地である大きな町でした。ヤコブは、その近くに自分の天幕を張って、その土地の一部をシケムの父ハモルの息子たちから買い取りました。ここで、土地を買い取ったのは、そこに長く留まるつもりだったという意味です。ヤコブは若い頃、パダン・アラムに向かう時、神に誓願を立てたのに(28:20-22) ベテルに帰らず、自分の目に良く映ったシケムの町に長く留まるために土地を買ったのです。そして自分勝手に祭壇を築き、「神はイスラエルの神」という意味の「エル・エロヘ・イスラエル」と呼びました。(33:17-20) 絶体絶命の瞬間にしばらく神に頼るようになっていたヤコブは、危機が消えると、すべて忘れたかのように、神の御心ではなく、自分の思い通りに生き始めたのです。彼は神によってイスラエルと呼ばれる存在となりましたが、全くイスラエルらしく生きなかったのです。 ところで、34章からヤコブの家に問題が生じ始めます。ある日、ヤコブの一番目の妻であるレアから生まれた娘ディナが、その土地の娘たちを見に出かけました。(34:1会いに行くではなく、見に行くの方が原文に忠実)ここで「その土地の娘たち」という表現にも「見に行く」という表現にも、神とは関係ない存在、神の御心に適わない行為のニュアンスが含まれています。そして、彼女はシケムの町の族長ハモルの息子であるシケムに強制的に辱められました。(34:2) それを聞いたヤコブは、愛していないレアが生んだ娘だったからか、彼女のために真剣な対応をしませんでした。ただ牧畜をしている息子たちが帰ってくるのを待つだけでした。(34:5)その後、息子たちが帰ってきた時、彼らは非常に嘆き憤りました。(34:7) ディナを恋い慕うようになったシケムは、父ハモルを通じて、ヤコブの息子たちにディナを嫁としてくれと言いました。するとヤコブの息子たちは「割礼を受けていない男に、妹を妻として与えることはできません。そのようなことは我々の恥とするところです。」と言い、その提案を断りました。(34:14)すると、ハモルとシケムは町の人々と話し合い、割礼をすることにしました。しかし、シケムがディナと結婚しようとする理由も割り切れません。もちろん、シケムがディナを恋するようになったのは事実のようです。しかし、この結婚を通じて、ヤコブの家族と併合し、その財産を自分の部族に吸収しようとする純粋ではない思いもあったようです。(34:20-25) 三日後、シケムの男たちが割礼の痛さのため、何も出来ない時、ヤコブとレアの息子たちであり、ディナの実の兄たちであるシメオンとレビはめいめい剣を取ってセゲムを奇襲し、男たちをことごとく剣で殺し、シケムを略奪しました。神と民の聖なる契約を意味する割礼を敵を討つための殺人の手段として使ったのです。彼らは家畜と財物を奪い、子供と女性たちを捕らえました。(34:35以下)この話を聞いたヤコブは「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」と言いました。ヤコブはこのような状況の中でも息子たちの罪と、娘の傷には一切触れずに、ただ自分と家族(おそらく、ラケルとヨセフ)の安全だけを心配していたのです。結局、このすべての残酷な出来事は、ヤコブがシケムに行って生じたことであり、ヤコブがエサウのために感じた恐怖よりも、はるかに深刻な結果として襲ってきました。34章をよく読んでみると、「神、主」などの表現が一つもないことが分かります。つまり、34章は神と全く関係のない人生を生きていたヤコブと、その家の問題、そして神のない人生の罪と悲惨さをよく示しているのです。もし、ヤコブが神との約束を記憶してベテルに行ったとすれば、イスラエルになったヤコブが家族を信仰の道にただしく導いたとすれば、こういうことはなかったでしょう。神の民が、神なき人生を生きる時、彼の人生には悲惨さと残酷さが残るだけです。 2.ベテル-お待ちくださり、お呼びくださる神 35章に入って、神はヤコブが直面している最悪の状況をご覧になり、すぐヤコブに仰せになりました。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」(35:1) ベテルという場所は、神が祖父アブラハムと父イサクの神ではなく、ヤコブ自身の神としてヤコブと出会ってくださったところなのです。彼にとって自分の家族の神、自分の知り合いの神ではなく、まさに自分自身の神になってくださったところだったということです。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。」(創世記28:12-13) ヤコブがどんな人生を生きてきたのか、どんな性格の人間なのか、そのような条件による選びではなく、全能なる神が一方的な恵みでヤコブに現れ、彼と一緒に歩むヤコブの神になってくださった場所です。そして、そこはヤコブ自身が神への誓願のために再び戻ってくると約束したところでもあります。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(創世記28:20-22) たとえ、当時のヤコブが「主がわたしの神となられるなら」という条件的な表現で話したとしても、すでに祖父アブラハムの時からヤコブをお選びくださった神は、ベテルでのヤコブの誓願を記憶され、ヤコブの神として彼の全生涯の中でいつも一緒にいてくださったのです。創世記34章では、神という表現が一度も出てこなかったように、創世記34章でのヤコブは神のない人生の極みを見せてくれました。神にイスラエルと呼ばれるようになったにもかかわらず、彼の人生は依然として神のない人生だったのです。しかし、それにもかかわらず神は彼の歩みを一瞬も見逃されず、彼に神が最も必要な時に現れ、最も正しくて安全な道に彼を導いてくださったのです。ヤコブの娘は神のない世の中の歓楽に憧れ、ヤコブの息子たちは世の中の人々でさえやらないような残酷な虐殺と略奪を犯してしまいました。ヤコブ自身も神の民という自分の立場を知っているにもかかわらず、神を無視して自分の思い通りに生きようとしました。もし神が当時のカナン人が崇拝していた異邦の神々のような存在だったら、ヤコブは悲惨に最後を迎えることになったでしょう。しかし、神は機会をくださり、ヤコブと家族が生きる道を教えてくださいました。それは「ベテルに上ること」でした。 「ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」(創世記35:2-3) その時やっとヤコブは神の御心に気づき、自分の家族が持っていた不浄な偶像崇拝の道具を捨てさせ、悔い改めさせて自分が若い頃に誓願したベテルの神に向かって進み始めました。ベテルに上るということは、神のない人生を辞めるという意味です。ベテルに上るということは、自分の罪を神に告白し悔い改めるという意味です。ベテルに上るということは、ひとえに神のみを自分の主と認め、お導きに自分の人生を委ねるという意味です。ベテルに上るということは、初めて神に出会った時、神にいただいた恵みを憶え、追い求めて生きていくという意味です。神はベテルという最初の約束の場所から、少しも離れられずにヤコブを守りつつずっと待っておられたのです。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。ヤコブはやがて、… ベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。」(創世記35:5-7) そして、ヤコブがベテルに着くまで彼の道を守ってくださいました。 締め括り 「あなたは今シケムに立っているか?ベテルに立っているか?」今日の本文は私たちにこう問うています。個人の差があるでしょうが、神様は各々の民に相応しい方法で出会ってくださいます。ある人とは静かに、またある人とは激しく出会ってくださいます。しかし、共通点は神がイエス•キリストを通して私たちの神になってくださるということです。神との初めての出会い以後、世の中に出ると神と遠ざかったり、神を忘れたりする場合もしばしばあります。そのような人生を生きていれば、私たちは自然に神との初めての出会いを忘れて神のない人生を生きることになりえます。しかし、神は必ずご自分の選ばれた民を憶えられ、また会いに来られます。ただし、神のない人生の中で思いがけない困難に置かれる可能性もあります。そして、その困難によって私たちは神を再び憶え、帰っていくことになります。その時、私たちはシケムではなく、ベテルに足を運ばなければなりません。自分のことを振り返り、悔い改めつつ神に進まなければなりません。もし、そのようなことがあれば、神が待っておられるベテルに上りましょう。主イエスはヨハネの黙示録を通してこう言われました。「悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:5)現代を生きる私たちにとって、ベテルに上るということは悔い改めて主への信仰を回復するということです。自分勝手の生き方から、神の御言葉による生き方に立ち戻るということです。今の自分の人生がうまくいかないと思われるなら、自分の心や行いを顧みてください。自分がシケムに立っているか、ベテルに立っているか、反省しましょう。そして、主の御心とは何か推察しましょう。なぜベテルなのでしょうか。そこに私たちの主がいらっしゃるからです。