新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-7節(旧1152頁) マルコによる福音書2章18-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 という言葉があります。「新しい発想を実現したり、世代交代を進めたりしようとする時、それに応じる新たな形式や環境を促す」ために、よく使う表現です。ところで、この言葉は、実は新約聖書の「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの御言葉に由来します。しかし、聖書の言葉を真似したこの表現は聖書の本当の意味を見落とした表現であるかもしれません。もともと、この表現にはイエスを信じる者にふさわしく生きろという意味が含まれているからです。イエスは、なぜ、この言葉を言われたのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日は、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という御言葉を通じて、この言葉が持つ意味について考えてみたいと思います。 1. 間違った宗教儀式に囚われていたイスラエル社会 イエスが公生涯を始められた時、イスラエル社会は宗教儀式に囚われていました。宗教の真の意味より、宗教行為に執着している社会だったということです。例えば、当時の宗教指導者、あるいは、宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時の尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食をしながら、貧しい者たちへ救済をしました。彼らは断食の時に、洗面もせずに、顔の辛い表情をも隠さずにいました。自分の宗教行為を隠さなかったということです。そして、そのような姿で救済を行い、救済でさえ、自分の宗教行為として用いたのです。そのような行いによって、イエスが登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人社会で尊敬されたのです。「ファリサイ派の先生たちはやっぱり偉いんだ。私たちとはぜんぜん違う。彼らは神の正しい者なのだ。」のように、人々の褒め言葉と尊敬が彼らについてきました。 しかし、彼らの宗教行為の裏には「そうだ。この私は普通の人々とは違う。自分は正しい者だから。」という偽善が隠れていました。彼らの祈り、救済そのものには、確かに社会への良い影響があったのですが、心の奥底には、神に栄光帰すより、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が隠れていたのです。ということで、何の褒め言葉も代価も求めないで、ただ人々を愛し、癒し、教えてくださるイエスは、自然に彼らに憎まれるようになったのです。彼らは、道端や神殿の入口で長く祈り、断食の時に苦しい顔を見せ、救済の時には偉そうに威張って、人々に褒められたのです。しかし、イエスは彼らよりさらに慰め、癒し、奇跡を行われながらも、何の代価も求められなかったのです。ただ、主イエスが望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神に帰って来ることだけだったのです。だから、人々の関心と愛がイエスに集中されるのは当然の結果でした。それによって、彼らはイエスが人々の人気を横取りすると思い、イエスを憎むようになったのです。 2.私たちの姿はどうか。 イエスの時代のエルサレムには、表面上、神に献げ物を捧げる神殿があり、断食と祈りといった宗教儀式があり、貧しい人々への救済がある、それなりの宗教的な秩序が定着されている所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々のうめき声が聞こえ、弱者が疎外され、既得権者の偽善が満ち溢れていました。今日の旧約本文のイザヤ書を通して、主なる神は言われました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神の御前に来て、飾り気と偽善のない真の交わりを望まれる方だったのです。なのに、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや宗教行為が、宗教的な熱心さに勘違いされ、それによって宗教的な欲望を満す、主なる神の御心とかけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、貧しくて弱い人々は何の慰めも、助けも得ることができませんでした。 残念なことにそれらは、聖書だけに記されている問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代を生きる私たちからも見える問題であるかもしれません。以前ある教会で説教するとき、ひどい目にあった未信者の知り合いの話をして、祈りを求めたことがあります。その話で時間が長くなり、説教の内容とも少しずれるところがあり、申し訳ないと思いました。ところで、案の定、礼拝後にある方に説教の時は余計な話は控えてほしいと言われました。意図は十分わかりましたが、一方では「ひどい目にあった未信者のための祈りが礼拝でなければ、はたして何が礼拝だろうか。苦しい隣人のために祈りを求める以上の礼拝はあるだろうか。」同時に、聖書の言葉が一つ思い起されてきました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく寂しくなりました。 3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。 私は韓国の代表的な長老派教会である高神派出身の者です。高神派は神社参拝反対運動で有名な教会です。その信仰の誇りは韓国の教会の中でも目立つほどです。そういうわけで、私は子供の時から「高神派的な信仰」という言葉をよく耳にしながら育ちました。また、日本に来ては「日本キリスト教会的な説教」という表現を聞くことになりました。それを初めて聞いた時、母教会の高神派が思い浮かびながら、なんとなく日本キリスト教会のプライドが分かってきました。高神派教会と日本キリスト教会は、まるで双子のように感じられます。ところで、高神派的な信仰は何であり、また、日本キリスト教会的な説教とは何でありますでしょうか。イエスが望まれたのは、高神派的な信仰、または、日本キリスト教会的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何であるだろうかと思うようになります。形式は大事です。しかし、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があります。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありませんでした。イエスへの抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずです。彼らは「なぜ、あなたは私たちの形式(律法)を無視するのですか?」と問い詰めたわけです。 その時、イエスは「新しいぶどう酒は新しい革袋に。」という多少理解しにくい言葉を言われました。イエスは旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたと教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法の精神、つまり、愛の実践だと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛を日常生活にあって実践することに関心を持っておられたのでです。もちろん、律法も教義も大事です。しかし、そのすべてが神のご命令、愛の実践ための道具であることを見逃してはなりません。イエスはご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた以前の姿を捨てて、神と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰を望まれたのです。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神がご計画なさった、生き生きとした信仰を望んでおられるのです。神が求められることは、何十年も繰り返してきた習慣的な宗教行為ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないかと顧みたいと思います。このイエスを信じる私たちは、昔のユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきではないでしょうか。 締め括り 主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しいぶどう酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、熟成する時のガスによって袋が裂けてしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きる私たちは主による愛の実践を貫いていくべきでしょう。その時はじめて、私たちは美味しくて良いぶどう酒のように、神の喜びになるでしょう。神の国は宗教儀式と教理による所ではありません。それらを通して、さらにイエスを堅く信じ、主に倣って愛を実践する時、私たちの人生に現れるものです。そのように生きる者こそ、死後、神が備えてくださった天国に入ることになるでしょう。宗教生活ではなく、愛の実践、それが私たちが求めるべき、新しい革袋ではないでしょうか。

主が涙をぬぐい取ってくださる。

詩編27編1節(旧867頁) ヨハネの黙示録21章1-8節(新477頁) 前置き 先週の木曜日の夜、宣教師派遣元の釜山の告白教会から至急の祈りを願うメールが届きました。告白教会の設立から物心両面仕えてきた、ある姉妹が脳出血で入院したとのことでした。釜山の告白教会の団体メールがありますが、3時間前までも明るいメッセージを載せた方でした。その3時間後に脳出血で倒れたわけでした。素早く搬送装置したため、しっかりと治療を受け、また元気になるだろうと思っていたのに、火曜日の夕方、逝去したとの知らを聞きました。里帰り中の妻が葬儀場に行き、遺族を訪問しました。死というのは本当に突然近づいてくるものです。いつも明るい笑顔で私を励んでくれた姉妹でしたが、逝去は一瞬でした。しかし、私はまた会える希望を持っているので、落ちこんではいません。聖書は語ります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3-4) 私たちは、いつか主に召され、亡くなるでしょう。しかし、主を信じる私たちは、それが終わりではないということを知っています。キリスト者にとって死は、この世のすべての憂いと悲しみを全て払い落とし、主のふところで慰められる至福の始まりだと思います。私たちは必ず天国でまた逢うでしょう。今日はキリスト者の死について考えてみたいと思います。 1.死について。 人間はなぜ死ぬのでしょうか? 実は科学的に人間だけでなく、すべての生物は死ぬに決まっています。すべての生物は生まれ、育ち、老いて死滅するようになります。そして、私たち自身もいつか必ず死を迎えるようになります。聖書もこう語ります。「人間にはただ一度死ぬこと…が定まっている」(ヘブライ語9:27) 科学的に死は「生きる機能を失うこと」を意味します。生まれた時、すべてが新しかった私たちの体は、時間の経過とともに古くなっていきます。私たちはこれを「老いていく」と言います。幼い頃は眼鏡なしでも本の字があきらかに見えたのですが、歳を取るにつれて虫眼鏡をかけなければならなくなります。目が古くなっていくということです。若い頃は音がはっきり聞こえたのですが、老いていくのにつれて補聴器をつけなければならない人もいます。耳が古くなっていくということです。真っ黒だった髪の毛が白髪に変わっていきます。顔のしわも増えていきます。私たちの肉体が、このように古くなって機能を失っていくのです。すべての生物は生まれ育って、少しずつ機能を失っていきます。そして、最終的に老化と病気によってすべての機能が永久的に失われます。私たちはそれを死と呼びます。 しかし、聖書は肉体の死だけがすべてではないと語ります。今日の新約本文はこう述べています。「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示録21:8) 先のヘブライ人への手紙には、人間は誰でも一度必ず死ぬことが決まっていると記してありました。おそらく、それは肉体の死の意味でしょう。しかし、本文はまた第二の死があると語ります。主の反対側で、主の御心通りに生きない者たちは、2度目の死、つまり霊的な死に襲われるということです。私はこれをもって「未信者たちは皆呪われて地獄に落ちる」という残酷な話をするつもりではありません。私たちみんなには未信者の家族がいます。ですので、あえて彼らが滅びるとは言いたくありません。そのような他の人々への判断は神にお任せしたいと思います。教理を用いて勝手に人を裁くのは望ましくないからです。ただ、この時間には私たち自身に当てはめて言いたいだけです。私たちには肉体の死が必ず訪れてくるでしょう。そして、その後、私たちは主への信仰によって永遠の生命と永遠の死の分かれ道の前で神の裁きを受けるでしょう。イエス·キリストを信じる者たちは救われるというのが聖書の教えですが、私たちはイエスを信じるふりばかりして、実は信じない者ではないか、神の民と自負するが、神の民のふりばかりをして、実は神に逆らう者ではないか、自ら振り返る必要があると思います。 にもかからわず、幸いなことは、私たちの救い主イエス·キリストが私たちのそのような弱さをよくご存知なので、今日も父なる神の右から私たちのために執り成しておられるということです。私たちの信仰が弱く、主の御前で至らない私たちを主イエスは憐れんでくださり、私たちのために祈って(執り成して)おられるということです。したがって、私たちには何の資格がないにもかかわらず、主なる神は、私たちを民として見なし認めてくださるのです。私たちは時々主の御心に適わない弱い存在であるかもしれません。私たちは神の民だと自分自身を思っていますが、実は逆らう存在であるかもしれません。それでも主イエスは聖霊によって、私たちの罪を悟らせ、悔い改めさせ、再び生きていけるように導いてくださいます。だから、イエス·キリストを信じる者には直りの機会が与えられるのです。そのため、私たちは一度の肉体的な死は経験しても、主イエスのお憐れみによって二度目の死を避けることができるのです。これがまさに聖書が語るキリストの救いであり、憐れみであるのです。一度お選びになった人は決して見捨てられない主イエス·キリストの恵み、その恵みによって私たちは資格のない罪人であるにも関わらず、主にあって生きることができるのです。主イエスは死に支配されている、この世にいる私たちに真の生命を与えてくださる方だからです。 2.主はわたしの命の砦。 今日の新約聖書の本文は私たちに語ります。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4) この世の終わりの日が到来する時、神の幕屋が主の民の間にあり、主が民の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるということです。本文に出てくる神の幕屋とは、旧約時代に神と人間をつなぐ掟の箱を置く場所でした。幕屋の中には聖所があり、聖所の一番奥には至聖所がありました。そこに掟の箱があったのです。至聖所は年に一度、イスラエルの大祭司だけが入ることができ、大祭司さえも贖罪の献げ物をささげなければ(悔い改めなければ)、入るやいなや罰を受けて死んでしまう恐ろしい場所でした。しかし、聖書はイエス·キリストがたった一度のご自分の犠牲によって、永遠の大祭司になられ、私たちを執り成してくださると証言しています。つまり、私たちはイエス·キリストの執り成しによって贖われ、主イエスとともに神の至聖所に入ることができる正しい人と認められたわけです。したがって、今日の本文の神の幕屋はイエス·キリストの贖いの恵みを意味するとも言えるでしょう。 この世には必ず終わりの日(イエス・キリストの再臨の日)が到来するでしょうが、その前に私たちは私たちの人生の終わり(死)の日を迎えることになるでしょう。しかし、私たちの霊は主なる神に召され、主のところに行くことになるでしょう。そして、イエス·キリストが再臨される、真の終わりの日まで、私たちは、主とともにその日を待ち望むでしょう。私たちの死はキリストの再臨による完全な神の国の到来をあらかじめ味わう、祝福された経験になるでしょう。世の人々にとって死は終わりであるかもしれませんが、私たちキリスト者にとって死は神の限りのない恵みを限りなく享受する至福に入る新しい始まりになるでしょう。その時、そこで主なる神は私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださるでしょう。そして、苦しくて悲しいこの世で本当によくやったと褒めてくださるでしょう。 私たちに二度目の霊的な死は決してなく、永遠に神の生命のもとでキリストの再臨を待ちのぞみながら、笑顔と喜びで生きるでしょう。これが死についてのキリスト者の正しい認識なるべきです。だから、死を恐れないようにしましょう。キリストにあって死を迎える者たちは、主の約束によって必ず平和と喜びの神の国に入るからです。 締め括り 「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩篇27:1)説教の序盤に韓国にいる知人の死について話しましたが、実は私たちの中にも先週家族を失った方がおられます。この説教を準備しながら、その方が思い起こされました。子供の頃から喜怒哀楽をともにしてきた大切なご家族だったはずです。亡くなられた方はキリストの民として召されました。ですから、今、主は約束どおりに、その方の目の涙をぬぐい取ってくださり、真の幸せを与えてくださるでしょう。わたしたちにもその日が近づいてきています。主の御心によって、誰かは先に召されるかもしれなく、また、誰かはもう少し長くいて召されるかもしれません。しかし、明らかなことは、主に召されるその日、私たちは悲しみではなく喜びの中にいるということです。キリストがくださった永遠の生命という賜物が、私たちを待っているからです。主が私たちの生命の砦としておられるかぎり、私たちは何も恐れおののく必要がありません。キリスト者にあって、死とは神の恵みへ進むもう一つの始まりだからです。私たちに生命を与え、神の国に導いてくださる主イエス・キリストを拠り所にして、残りの人生を生きていきたいと思います。

神のお招き

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは聖書の言葉の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブを継承した彼らの霊的な子孫(霊的なイスラエル)が、キリストの体なる教会であると証しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して主の民が追い求めるべき掟である律法とキリストによる全人類を救う良いお知らせ、つまり福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神に選ばれた民を教会と名づけてくださったのです。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話だけでなく、その霊的な子孫、教会についての話しでもあります。今日の本文を通して、教会への神のお招きについて話してみたいと思います。 1.罪人をお招きくださる神。 ヨベル書というユダヤ教の古代文献にこんな物語があります。「ある日、カルデヤのウルで父テラと偶像制作業をしていたアブラハムは、父に質問した。お父さん、私たちが木で作る、この像は命も無いのに、なぜ人々はこれを神だと言うのですか。するとテラが答えた。息子よ、私も知っている。しかし、私たちがあの像を偽物だと扱ったら、それを神とする者たちに狙われて殺されるだろう。だから、知らないふりしなさい。」また、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書にはこんな物語があります。「父と偶像制作業をしていたアブラハムは、命もない偶像を神とする人々が全く理解できなかった。ある日、アブラハムは棒で工房の小さい偶像をすべて叩き壊し、一番大きい偶像の手の上に棒を置いた。テラが戻って来た時、工房の中はめちゃくちゃになっていた。テラは怒って言った。何だ!これ!お前か!するとアブラハムは答えた。一番大きい像が小さい像たちを妬んで叩き潰しました。するとテラは顔が真っ赤になって叱った。馬鹿野郎!生きてもいない偶像が動けるもんか!」 ユダヤ人は先祖アブラハムを正しい人だと思いました。以上の物語には、偶像崇拝を拒んだアウラハムという、そのようなユダヤ人の心が含まれているのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが正しいから神に選ばれたという言葉はありません。むしろ、何一つ正しさもなかったのに、信仰によって義とされたと書いてあります。アブラハムも罪人に過ぎなかったという証です。アブラハムの出身地ウルはメソポタミア文明の中心地でした。ウルは多神教社会であり、アブラハムの家族は偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、アブラハム自身が主なる神を見つけたわけではなく、主が彼を訪れ、選び、ご自分の民にしてくださったということです。私たちが信じる主なる神はご自分の独り子イエスの執り成しによって、正しくない者を正しいと見なしてくださり、保証してくださる方です。キリスト者は正しいから救われた存在ではありません。神は人の行いではなく、キリストの執り成しによって、罪人を赦してくださいます。ですので、民への主のお招きは、イエス・キリストによる条件なしの賜物であるのです。 2.主の民を先に知っておられる神。 創世記には、主が「ハラン」という町から、アブラハムを呼び出されたとあります。もともと、アブラハムの家族はウルに住んでいましたが、なぜ当時の文明の中心地であるウルを離れ、ハランに移住したでしょうか?聖書には書いてありませんので、理由は分かりません。ところで、使徒言行録7章のステファノの説教では「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかった時、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはアブラハムの家族の移住が神のお招きによるものだというニュアンスで語りました。このように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾があるように見えます。神がアブラハムに現れた場所が、創世記ではハランであり、また使徒言行録ではウルであると語っているからです。神がアブラハムをお招きくださった本当の場所はどこだったでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、明らかなことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらく、ステファノは、すでにアブラハムを選ばれた主なる神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと語ったかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムの時代と思われる紀元前2000年ごろ、ウルには栄えた王国があったと言われます。現代人はそれをウル第3王朝と名付けました。ところで、このウル第3王朝は、その歴史が100年くらいにしか至らかったと知られています。その理由は、当時ウルの土地に強い塩分が増えていたからです。長年の農業により、土地が荒れ果てて、飢饉につながったわけです。おそらくウル第3王朝は、その飢饉によって滅びてしまったでしょう。結局、全人口の4割くらいが故郷を離れ、ハランなどの地域に移住したと言われます。 私たちは、アブラハムの家族が、なぜウルを離れ、ハランに移住したか分かりません。上記のような歴史的な理由か、主のお招きか、聖書だけでは分かりません。しかし、明らかな事実は、そのすべてが神のご計画であったということです。神は、すでにアブラハムの先祖の時から彼へのお招きを準備してこられました。そして、時が満ち、創世記12章で彼の前に現れられたのです。アブラハムは神を知らなかったですが、神は世界の創造、人間の堕落、国々の盛衰興亡の中で、アブラハムの登場を備えてこられたのです。神のご計画は、民の考えと全く違う方法で成し遂げられます。主の民が神に出会うにも前に、神は民を知っておられ、民との会いを待ち望んでおられるのです。その神が御子の贖いを通して、ご自分の民を救い、お招きくださるのです。それだけに主の民は神にとって大切な存在であるのです。 締め括り 今日の説教のポイントは二つです。「一、主なる神は何の正しさもない罪人をお選びくださり、キリストの贖いによって赦し、正しい者と見なしてくださる。」「二、人間(罪人)が先に主なる神を見つけるわけではなく、主なる神が先に人間(罪人)を訪れ、ご自分の民にしてくださる。」主なる神のお招きは神学用語では「召命」と言われます。「神の恵みによって神に呼び出されること。」が辞書の説明です。救われる資格のない私たちは、主なる神の一方的な恵みによって救われ、主の民と呼ばれています。世の中で、苦難が襲ってくる時も、主はお選びくださった民を大事にしておられます。その主なる神への信仰によって、この一週間も生きたいと思います。豊かな主の恵みが志免教会の兄弟姉妹に注がれますように祈り願います。

信じる者になりなさい。

箴言3章5~6節 (旧993頁) ヨハネによる福音書 20章19~29節(新210頁) 前置き 生前のイエスは、何度もご自身が「死んで、復活する」と言われました。神は罪人の救いのために、ご自分の独り子イエスを贖いの献げ物とされ、死を命じられました。その死はイエスにとっては、呪いのような死でしたが、イエスを信じる者にとっては、祝福となりました。イエスの死で、主を信じる者たちには永遠の生命が与えられたからです。したがって、主の死は罪人の救いを計画された、父なる神の必要不可欠な御心の成就でした。そして、神は死で罪人の贖いを完成されたイエスを復活させてくださることで、イエスの死を価値あるものにしてくださいました。とういうことで、生前のイエスは、何度も「私は死ぬ。しかし復活する」と言われたのです。残念なことに、主の弟子たちは、このイエスの死の真の意味が分からず、主の死ですべてが終わったと思いました。だから、イエスの復活が信じられなかったわけです。信仰とは実に難しいものです。どうやって死者の復活があり得るのでしょうか? 世の常識でありえないことを信じることが信仰だからです。しかし、私たちの信仰は世の常識に基づいたものではなく、神の御言葉に基づくのです。私たちは一生自分の信仰について深く考えるべきです。今日は信仰について話してみたいと思います。 1. 私たちを訪れてこられるキリスト。 「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、わたしは主を見ましたと告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20:18) 先週の本文の最後の箇所には、マグダラのマリアがイエスの復活を目撃し、弟子たちに「私は主を見た」と告げる場面が出てきていました。生前、主が言われた通りに、主は復活されたのです。しかし、弟子たちの反応は、マリアとは全く違っていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ福音書20:19) 弟子たちは、依然として主の復活を信じられず、むしろユダヤ人の迫害を恐れていました。先に申し上げましたように、生前のイエスが「私は死ぬ。しかし復活する」と言われ、イエスの死後にも主の遺体を守っていたマグダラのマリアが、イエスの復活を証ししたにもかかわらず、弟子たちには主の復活への信仰が全くなかったのです。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。」(ヨハネ福音書20:19) そのような弟子たちにイエスが直接訪れて、ご自身の復活を証明してくださいました。その時になってやっと弟子たちはイエスの復活を信じ、喜ぶようになったのです。 イエスの弟子だからといって、皆が深い信仰を持っているわけではありませんでした。信仰は、イエスという存在を長く知ってきたからといって、他人より成長しているとは言えないものです。長年、イエスを信じてきた私たちも、今日の本文の弟子たちの姿から自由ではないかもしれません。私たちはイエスの復活をありのままに信じ、主の御言葉に全面的に信頼しているのでしょうか? おそらく、そうではない可能性が高いと思います。私たちには、イエスの復活や主の御言葉を自分の力で完全に信じることができる力がありません。私たちの中にある罪の本性がそれを妨げているからです。人間は、この世の常識のもとに生きる存在であり、目に見えない主の御言葉より、目に見えるこの世の常識にさらに目を注いでしまう弱い存在です。そのため、神は今日も御言葉を通して、私たちのところに訪れてくださるのです。主の復活が信じられず不安に震えている弟子たちに直接現れて証明され、信じる力をくださったように、主は今日も御言葉によって私たちに来られ、神への信仰を堅くしてくださり、ご自分について教えてくださるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。」(ヨハネ福音書20:22) ただし、聖書の御言葉のように、天の御父の右におられるイエスご自身が直接来られるわけではなく、約束通りに助け主でおられる聖霊なる神を通して来てくださるのです。(ヨハネ福音書16章) 2. トマスの信仰と私たちの信仰。 ところで、今日の本文に、目立つ人物が登場します。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、わたしたちは主を見たと言うと、トマスは言った。あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:24-25)弟子トマスはイエスが復活して弟子たちを訪れられた時、その場にいなかったようです。それで、他の弟子たちがイエスに会ったと喜びで証しても、信じられなかったのです。トマスはヘブライ語式の名前で(テオム)、別の名前ディディモはギリシャ語式の表現です。日本語に訳すと「双子」となります。彼が本当に双子だったのかどうか、なぜ双子と名付けられたかは今日の本文ではわかりませんが、心理学的に双子は、普通の子供たちと違う心理状態で成長すると言われます。嫉妬も強く、疑いも多く、互いに争う場合も、割と普通の子供たちより多いと言われます。私個人としては、このようにも考えてみたりもしました。(神学的な根拠はない)この双子と呼ばれるトマスの、もう一人の双子は、主を完全に信じることが出来ない「私たち自身」ではないかとのことでした。 大学時代、私は英会話授業の時、アメリカ人の先生が、各自、英語の名前を作ってほしいと宿題を出しました。長く工夫した私は「トマス」を選びました。なぜなら、その時の私は神の存在への疑いを持っていたからです。両親に連れられ、幼い頃から教会に出席してきたのですが、イエスは本当に生きているだろうか? 神は本当に存在しているだろうかと疑問を抱いていたのです。30歳の会心の時まで、私はトマスと似たような人生を送りました。日曜学校で学んだ疑い深いトマスが、私とそっくりだと思いました。それで、英語の名前を「トマス·キム」と付けたのでした。私たちは自ら神を信じていると思いやすいます。長年の教会で信仰生活をしてきました。しかし、考えてみましょう。私たちは本当に主を信じているでしょうか? あまりにも長い間、教会に通っていたので、信じていると勘違いしているのではないでしょうか? むしろ、トマスのように疑って、信じられないのは信じられないと正直に言った方が健全であるかもしれません。私たちにはトマスの信仰が弱いと貶める資格がありません。むしろ、トマスのような率直さが私たちに有益であるかもしれません。自分には信仰があるかどうか、自分は本当に主の民かどうか。厳しく考える機会があれば幸いです。私たちは果たしてトマスより、成熟した信仰を持っていますでしょうか? 3.私たちの信仰を守ってくださる主。 だからといって、疑いで不信心であるトマスが正しいとは思いません。私たちは、明らかにキリストの復活と救い、そして神への信仰を追い求めて生きるべきだからです。それでも、信じられないならば、それは祈りの課題として、絶えず主に求めて、信仰の続きのために力を入れなければならないと思います。神が信じられないからといって、神がおられないわけではなく、信じられないからといって、イエスの復活と救いがなかったことになるわけではありません。信じられないのは、私たち自身の問題に過ぎません。聖書は明らかに神が存在していると、イエスが復活され、罪人を救ってくださったと証言しているからです。何よりも大事なのは、キリスト者の信仰の歩みにつれて、聖書の証である神の存在とイエスの復活と救いとが、少しずつ分かってくるということです。ですから、信仰は変わりません。変わるのは私たち自身なのです。このような弱い私たちのために、今日もイエス・キリストは、父なる神の右におられ、執り成してくださるのです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:33-35) トマスは弱い信仰により、イエスの復活を疑う懐疑主義者でした。しかし、懐疑主義者が会心するとき、彼は他人の信仰を超える強い信仰を示すことになります。懐疑主義者をも変わらず愛し、執り成してくださるキリストの恵みによって、イエスに出会う時、最も印象的な信仰の告白をすることになるのです。今日、トマスはイエスに会って、その方の復活を信じるようになり、このような信仰の告白を言うことになります。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28) 私たちの信仰の真の主は、私たち自身ではなく主なる神です。ですから、時々、私たちの信仰が弱まってきても終わりではありません。主イエスが、私たちの信仰を大切にしてくださり、今日も私たちの信仰のために、父なる神の右から執り成してくださるからです。だから、信じられない時が来ても、私たちの信仰をあきらめないようにしましょう。信じても何の変化も見えず、信仰への疑問が沸いてくる時も、主が私たちの信仰を応援しておられることを信じて、主に寄りかかって生きていきましょう。そして、私たちが見て信じる者ではなく、見なくても信じる、信仰者になっていくように、祈りつつ生きていきましょう。主イエス・キリストは必ず私たちの信仰を守ってくださるでしょう。 締め括り キリスト教の最も重要な価値の一つは、断然、信仰だと思います。信仰なしでは、父なる神の子供になることも、キリストの御救いを得ることも、聖霊なる神のお助けを得ることもできないからです。ですが、信仰は私たちの思い通りに簡単にできるものでも、簡単に守られるものでもありません。私たちの信仰は主の恵みによって与えられるからです。したがって、私たちは「自分の弱い信仰を守ってください。」と、毎日、主に祈らなければなりません。揺るぎやすい私たちの信仰は、復活されたキリストによって、しっかりと守られ、保たれています。必要なのは、主イエスのお声に答えて、信仰に立とうとする、私たちの心なのです。最後に今日の旧約本文を読んで終わりたいと思います。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」