神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き なぜ、私たちは主日ごとに教会に出席して説教を聞いているのでしょうか? それは聖書に記された主なる神の御言葉を説教を通じて聞くためです。説教は説教者個人の知識を自慢する手立てでも、説教者の思想を広める手立てでもありません。説教は新旧約聖書に記された神の御言葉を(説教する当時の)聞き手が聞き取れる言葉で宣べ伝え、数千年前に記録された主の御心を、現代の言葉に教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要によって主の言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、説教を聞きながら神の言葉が歪曲される可能性があり、心配です。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書の解釈者になって説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は、聖霊によって生命を得て、今も生き生きと働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話してみたいと思います。 1. この世の言葉とは異なる神の言葉。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55:6-8) 今日の旧約本文は、罪と偶像崇拝によって罰を受け、滅ぼされてしまったイスラエルの民を赦し、もう一度機会を与えようとされる神の心が書いてある箇所です。イスラエルは神の祭司の王国と呼ばれる聖別された民族でした。他の国々のように武力で他国を征服したり、富で他国を圧倒するのではなく、ひとえに神の御救いの言葉を伝えるために生まれた、祭司長のような国として神に選ばれた民族でした。しかし、彼らは他の国々のように武力と富を求めました。その結果、イスラエル民族は、真っ二つに分かれてしまい、その後、子孫の罪と偶像崇拝のため、主なる神に用いられたアッシリアとバビロンによって滅ぼされたのです。今日の旧約本文は、そのように滅びてしまったイスラエルへの主なる神のお赦しと回復を呼びかける言葉です。「主はあなたたちイスラエルの近くにおられる。今こそ帰るべき時である。主を尋ね求めよ。罪を捨てて主のもとに帰れ、主がお憐れみで待っておられる。」 主の民が失敗して、何をすれば良いか、どうすれば良いか、到底見当がつかない時に、主なる神は迷わずに主に帰ってくることを呼びかけておられます。聖書を通して主は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。」世の常識によれば、罪を犯した人は、赦されにくくなります。犯罪者が釈放後、再出発するのが難しい理由も、社会は一度の失敗を人を簡単に許さないからです。しかし、主なる神は、この世の常識とは異なる思いによって、罪人に接しておられるということを、今日の旧約本文は教えてくれます。主の御言葉(思い)は、この世の常識とは全く違います。失敗して到底二度と起きられないような絶望の中でも、主の御言葉は「新しく始めることが出来る」と語ります。この世は失敗した者を蔑視しても、主は世間の思いとは違って新しい始まりを語られます。私たちがこの世の言葉ではなく、主なる神の言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。世の言葉は押さえつけて殺す言葉です。しかし、主の御言葉は立て直して生かす言葉です。世はもう終わりだと言っても、主の言葉はこれから始まりだと言います。孤独で厳しい現代社会を生きている私たちに神の御言葉が必要な理由です。 2. 神の言葉は生きている。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)以前にも説教の時に申し上げたことがありますが、「言葉」をギリシア語で言うと「ロゴス」になります。ところで「ロゴス」は言葉を意味するとともに「考え、思い、理屈、思想、意見、説明」などの意味も持ちます。つまり、主の言葉としてのロゴスは、主なる神の「思い、理屈」とも言えるでしょう。ですから、先ほどの説教で主の言葉を主の思いとも申し上げたのです。新約聖書ヨハネによる福音書は、このように語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) つまり、神の御言葉が肉体となって、私たちに来られた神の子イエス·キリストは、主なる神の思いと理屈を人間に完全に伝える主のロゴスとして私たちの間に一緒におられるのです。牧師の説教は、この主なる神の思いと理屈を完全に表されるイエス・キリストとその御言葉をありのままに伝えなければなりません。説教に通して宣べ伝えられる主の御言葉によって人間は御言葉どおりに望ましく変わることができるからです。 日頃、私たちは、主の御言葉の働きを力強く感じて生きるのが容易くありません。聖書を読んでもその意味が分かりにくく、毎日御言葉を黙想しても圧倒的な人生の変化を経験するのは難しいです。しかし、毎日少しずつの御言葉からの小さい学びによって、私たちの人生は少しずつ主の御心に気づいていき、その御心に従って生きるようになります。隣人を愛しなさいという繰り返しの主の御言葉は、私たちの生活にあって隣人を配慮しなければならないということを思い出させます。常に祈りなさいという御言葉は、心の中に「祈らないと」という聖なる負担感を与えます。主の御言葉に隠れている神の思いと理屈は、私たちの人生でいっぺんに大きな変化を起こすことはなくても、小さな変化が続く呼び水になることはできます。そして、その小さな変化が積もっていき、ある瞬間(あるいは神の時が来れば)、私たちの人生に大きな津波のように力強く働き始めます。神の言葉は生きており、力を発揮して働くからです。今すぐはかすかに感じられても、決定的な瞬間に私たちの人生に強く働いて著しい変化をもたらします。その時になれば、まるで両刃の剣のように、いや、それ以上鋭く、私たちの心と良心と思いを刺し通して、主の御前に悔い改めさせ、神の御心を推し量らせ、人生の変化にまでつながらせるようになるのです。 3。だからこそ、聞かなければならない。 そういうわけで、使徒パウロはこう語ったのではないでしょうか? 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) 私たちは御言葉を聞かなければなりません。御言葉が聞き取れるか、聞き取れないかを問わず、私たちは常に御言葉に耳を傾けなければなりません。今日、聞いた御言葉が、すぐに私たちの人生にあって働くかもしれませんが、すぐに働かないと言っても、御言葉の小さな一片一片が集まって、自分の人生を変える津波になって戻ってくるということを常に心に留めて生きていきたいと思います。御言葉は喜びのない者と絶望に陥っている者に、主なる神の思いが世の思いと違うということを、諦めたい者に新しい道が開かれているということを知らせる希望の道具です。今すぐ変化がなくても、いつか神の時になれば、大きな変化を起こす、主なる神の大事な道具です。御言葉は生きています。聖霊なる神が御言葉を用いられ、私たちの人生を美しく導いていかれるからです。ですから、私たちは、毎日、主の御言葉を読み、その御言葉に聞き従い、主の思いを待ち望みながら生きていかなければなりません。生きている神の言葉は、今日も私たちと共にあり、私たちの人生を正しい道へと導きながら生きています。 締め括り 改革教会には非常に重要な二人の人物がいます。一人はアウグスティヌスであり、一人はマーティン・ルーサーであります。アウグスティヌスはプロテスタント教会、カトリック教会を問わない初期キリスト教会の教理を整理した尊敬される神学者です。マーティン·ルーサーは宗教改革の核心的な人物で、プロテスタント教会の歴史上、最も重要な人だと評価されます。この二人の共通点は偶然のきっかけでローマ書の言葉を読んだところにあります。二人とも、ローマ書の言葉によって人生が変わり、偉大な業を果たす勇気を得たのです。彼らのような偉大な人物でなくても、窓からの風で聖書が開き、そのページの偶然の言葉を読んで回心したり、信仰を持ったりしたとの証は数え切れないほど多いです。御言葉は聖書に記されており、動けない文字にすぎないと思われがちですが、神はその御言葉を通して、教会の歴史を導いてこられました。私たちも主なる神の御言葉を聖書の中の文字だけに思わず、自分の人生の中で力強く働けるように毎日毎日聖書を読み、学びつつ生きていきましょう。主なる神の御言葉は生きており、御言葉を大事にする私たちの人生にあって働いてくれるでしょう。

草は枯れ、花は散るが。

箴言16章9節(旧1011頁) ペトロの手紙一1章23~25節(新429頁) 前置き 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。中国南宋時代、胡寅(こいん)という儒学者が残した言葉で、「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」という意味です。南宋時代は西暦1098年~1156年頃ですが「人事を尽くして天命を待つ。」と似たような聖書の言葉がそれより数千年も前からありました。南宋時代は中国宣教が始まる数百年前ですので、聖書の影響で生まれた言葉ではないでしょうが、「人事を尽くして天命を待つ」という思想は古今東西を問わず、人々の一般的な認識だったようです。人事を尽くして天命を待つ。もしかしたら、とても聖書的な言葉であるかもしれません。今日は、箴言の言葉を通じて聖書的な「人事を尽くして天命を待つ」について考えてみたいと思います。 1. 自分の思い通りにならない人生。 何日前、妻と会話する時、心に迫ってくることがありました。「最近のあなたは来日したばかりの頃より冷めているよね」でした。最初、協力宣教師として赴任した頃は、情熱的に宣教と伝道を考え、熱心に説教と祈祷会の準備をしたあまり、過労で倒れそうに見えたが、最近はそんなに熱くないということでした。考えてみれば、本当にそうかもと思いました。志免教会に来て1年あまりの頃、私の説教は50分に近いほど長く、水曜祈祷会を2時間した時もありました。まるで、明日はないかのように何でも熱心だったと思います。しかし、時間の経ちにつれ、教会の人数は増えず、特にコロナ時代を経て、明確な変化なしに高齢化は進み、何人かの新しい方々は落ち着かず遠ざかってしまい、いろんな状況にがっかりするようになり、その結果、情熱も以前より冷めているかもしれないと思いました。最初の期待とトキメキが消えていきつつ、毎週の説教作りと皆さんとの最小限の交わり、中会の仕事だけで満足する消極的な自分になっているのではないか顧みることになりました。 なぜ、そうなってしまっただろうか、じっくり考えてみたら、「時間の経ちにつれて人は増えるだろう。目に見える結果があるだろう。」という自分の願いが叶わなかったのが原因ではないかと思います。いつも、教会は神の御心による共同体だと説教し、私自身もそう考えていましたが、結局、私は自分自身の願いが早く叶わないことで、知らず知らずに疲れてしまったかもしれません。私だけでなく、多くのキリスト者が自分の思い通りにならない現実のため、疲れてしまうかもしれません。長い間の祈りに神の答えは聞こえず、大きな変化もない人生に両手上げする人もいるかもしれません。長年、信仰生活をしてこられた、皆さんにもそのような経験がおありかもしれないと控えめに考えてみます。本当に私たちの人生は最初の計画や考えと違う結果につながる場合が多いです。そのような状況の中で、私たちは主なる神が本当に自分の祈りを聞いておられるのか、さらには神という存在が本当にいるのかと、信仰的な懐疑に陥るようになるかもしれません。しかし、人々のこういう悩みが、すでに遠い昔にもあったかのように、箴言はこう語っています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9) 2. 人間の計画と神の計画。 以上の言葉は、「人間が自分の道を計画すれば、神がその道を備えてくださる」のふうに読まれるかもしれません。しかし、原語のニュアンスはそれとは異なります。「人の心は積極的に自分の道を計画する。しかし、結局その道は主の御心にかかっている。」のほうが原文により近い意味だと思います。つまり、人が自分の心に立派な計画を立てても、結局そのすべては神の御心によって定められるということです。だから、私たちが計画を立てても、その計画通りにならないのは当然であるかもしれません。自分は100歳まで生きると決めても、今夜主に召されるかもしれないのが私たちの命です。幼い頃は皆に自分の夢があるでしょうが、すべての人がその夢を叶えるわけではありません。2019年に協力宣教師として赴任した私は、志免教会に新しい信者が増え、子供たちも来ると信じて祈りました。しかし、私が計画した通りにうまく行かなかったのです。そのため、がっかりしなかったとは言えないのが事実です。そして、だれにでもそんな経験があるかもしれません。 しかし、箴言は、すでにそのようなことについて語っています。もしかしたら、私たちの計画と考えが、思い通りにならないのはすごく自然なことであるかもしれません。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」(箴言20:24)人の計画には成し遂げられない可能性があり、私たちの人生は不確実性の中にあるということです。今日の旧約本文もそのような観点から理解する必要があります。私たちの計画は神の御心を超えることができません。神の御心とは何か、私たち自身は神ではないのではっきりは分かりません。しかし、神の御心が、すなわち神のご計画であるのは分かります。つまり、私たちの計画は神の計画のもとにあるとき、完全になります。私たちの思いでは、教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるのが正しいかもしれません。しかし、神の計画ではすぐに教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるよりは、小さな群れ、見えない未来の中でも、主なる神の民として、自分のあり方を守りつつ生きるのがより神の御心、ご計画に近いのであるかもしれません。したがって、私たちは自分の計画が成し遂げられないんだとがっかりする前に、神の計画は何であり、主が私たちに本当に望んでおられることは何であるかをまず考えならなければならないと思います。 3. 草は枯れ、花は散るが、主の言葉は永遠に変わらない。 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1ベドロ1:23-25) 今日の新約本文ペトロの手紙1は、今のトルコ地域に住んでいた初代教会のキリスト者たちへのペトロの教えです。当時、その地域のキリスト者たちはローマ帝国やユダヤ人たちの迫害によって辛い時を過ごしていました。誰かは教会と家族の平和のために祈り、誰かは自分の信仰を守るために祈ったでしょう。しかし、状況はそう簡単に改善されませんでした。一緒に礼拝していた兄弟姉妹の中で、背教して礼拝をやめる人も生じ、苦しい迫害に気がくじけて信仰を捨ててしまう者もいました。ペトロはそのように迫害される者たちにこう語ったのです。「あなたたちがイエス·キリストによっていただいた信仰は朽ちるものではなく、朽ちないものである。なぜなら、その信仰は主の御言葉によって与えられたものだから。すべての肉体は草のようで、その華やかさも花のようで、すべては枯れていくだろう。しかし、主の御言葉は永遠に変わることなく、あなたたちと共にあるだろう。」 人生を生きながら、自分の思い通りにならない現実と向き合う時がきっと迫ってくるでしょう。長年、信仰を続けてこられた皆さんは、何度も経験された、すでに知っておられる事実であるもしれません。しかし、聖書は語ります。「自分の思い通りにならないことにがっかりせず、それにもかかわらず、私たちのためのご計画を備えておられる主に信頼しなさい。」私たちの目に良くないのが、実は、主の御目には良いものであるかもしれず、また私たちの目に正しいのが神の御目には正しくないものであるかもしれません。良いことと悪いこと、正しいことと正しくないことの判断は、主なる神の事柄です。箴言16章25節は、このように述べています。「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」私たちは自分の目と考えを盲信してはなりません。主が何を望んでおられるのか、どんな計画を立てておられるのか、弱い私たち人間は絶対に分からないでしょう。しかし、少なくとも私たちの考えと計画が草と花のように枯れ散っても、私たちを助ける、主の御言葉は永遠にあり、私たちの道を導くことを信じて生きたいと思います。神は永遠に私たちを見捨てられず、御言葉通りに導いてくださるでしょう。その主なる神への信頼によって、決して順調でないこの世を生き抜いて進みたいと思います。 締め括り また、最初の話しに戻って、キリスト者にとって「人事を尽くして天命を待つ。」という言葉はどういう意味なのでしょうか。キリスト者に与えられた、全うすべき人事とは、神に出会い、神を知り、神を信じ、その方と共に生きることです。私たちは自分の願いを叶えるために神を信じているわけではありません。それは付随的なことであって、信仰の真の理由は「神と共に生きること」にあります。ですから、神を信じるからといって、私たちのすべての願いが叶い、すべての状況がうまくいくとは限りません。主なる神に出会って(肉体的に)うまくいく人もいれば、神に出会ってもうまく行かない人もいます。重要なのは自分に託された人生を全うして神と共に生き、その結果は一生の間、私たちと共におられる神に任せるものです。私たちは草と花のように弱い存在で、枯れ散っていきます。けれども、主の御言葉は永遠にあって私たちの道を導き、終わりには必ず豊かな祝福で報いてくれるでしょう。それを信じる人生の旅路が、真の意味の信仰の道ではないでしょうか。