ある日、突然。

創世記40章1~23節 (旧69頁) テサロニケの信徒への手紙第二3章3節 (新382頁) 前置き 前回の創世記39章の説教で、私たちは「主がうまく計らってくださった。」という言葉の意味について話しました。兄たちに裏切られ、エジプトに売られてしまったヨセフ、彼はエジプトの侍従長の奴隷となりました。ヤコブという大金持ちの最愛の息子だったヨセフが一夜にして他国の奴隷となってしまったのです。それでも、彼は絶望せず、熱心に主人に仕え、まじめに生きました。しかし、彼は淫らな女主人の偽りによって無実に濡れ衣を着せられ、投獄されることになりました。そして、長い間、監獄から出られず、悔しい時間を過ごさなければなりませんでした。ところが、聖書はヨセフの人生を、決して失敗だとは評価していません。むしろ、主がヨセフを守られ、彼の人生をうまく計らわれたと語っています。人間の目には失敗に見えるヨセフの人生でしたが、聖書は神が彼と共におられたと評価しています。これらを通して私たちは神の祝福とは、この世が語る祝福と異なるということが分かります。キリスト者にとって、真の祝福とは、私たちがいくら失敗と苦しみにさらされていても、神が私たちのことをあきらめられず、いつも共におられることを意味します。主がご自分の民を見捨てられない限り、その民には真の希望があるからです。以上が前回の説教の主な内容でした。 1。キリスト者を成長させる苦難と孤独の時間。 人間は有限な存在です。そのため、比較的に短い時間を生きます。ですので、人間は時間という概念に執着する傾向があります。その反面、永遠におられる主において、時間という概念は特別な意味を持ちません。短い生涯を生きる人間にとって、あまりにも大きなことが、永遠におられる主にとっては、非常に小さなことになってしまうということです。そういうわけで、人間にとっては大失敗のようだったヨセフの人生が、主にとっては失敗として評価されなかったのです。むしろヨセフの失敗はより明るい未来のための神の祝福と見なされました。したがって、キリスト者の人生においての失敗と苦難は、より明るい未来のための神の計画の過程だと言えるでしょう。神は人間の目には見えない、すべての物事をご覧になり、今現在、主の民の人生が失敗の中にあろうが、成功の中にあろうが、その人生全体は祝福であると評価してくださいます。残念なことに、このような神の時間観念は、人間に大きな苦しみを与える時もあります。私たちには耐えられないほどの失敗と苦難の時間なのに、神は何もしておられないように感じられ、恨む時もあるでしょう。しかし、私たちにどう感じられても、神の祝福、その本質は決して変わることがありません。私たちが人生の中で苦しみを感じるからといって、神の祝福が消えてしまうことはあり得ません。失敗と苦難の時が終わると祝福の時は必ず来ます。神と人が感じる時間の違いはあるかもしれませんが、神のご計画が破れたり取り消されたりすることはないからです。主は必ずその計画を成し遂げられる方なのです。 今日のヨセフの人生も同じだと思います。ある学者は、ヨセフが17歳から約10年間、エジプトで奴隷として暮らし、その後30歳までの3年間、牢獄にいたと主張しました。つまり、ヨセフは13年間、自由の身ではなかったということです。しかし、その13年間、ヨセフは神のお導きによって成長していきました。分別なく父親と兄たちに自分の夢を偉そうにしゃべっていた未熟なヨセフが、他国での奴隷暮らしを経て謙遜を身につけました。無実に投獄されて孤独な時間を過ごしたが、その経験を通して忍耐を学びました。13年という苦難と孤独の時間は、果たしてヨセフに無駄な時間に過ぎなかったのでしょうか? 最近、このような文章を読んだことがあります。「真の孤独とは、ただひとりでいることではない。自らの真の自由と自己の尊厳を自覚し、それを楽しむ高度な生き方の一つである。」信仰の文章ではありませんが、本当に有意義な言葉だと思いました。もしかしたら、孤独はこの世という束縛から自由を与え、自分のことを顧みさせる省察の機会であるかもしれません。また、苦難もその当時はつらい経験であるかもしれませんが、遠くから見ると弱い自身を強める成長の道具であるかもしれません。神はヨセフに苦難と孤独を与え、成長させ、一国の総理にふさわしく養っていかれました。そして時が満ち、ヨセフを一瞬にしてエジプト帝国の総理に引き上げてくださいました。 2.二人の宮廷の役人の夢とヨセフの解き明かし しかし、私は出来るだけ、皆さんが孤独と苦難に遭われないように祈っています。皆さんが神の祝福にあって常に平和と幸せであることを望んでいます。しかし、もし神がみ旨に従って孤独と苦難を許されるなら、皆さんが恐れられたり、絶望されたりせずに、神の善い計画を信じて、その信仰によって忍耐しつつ生きていかれることを願います。これ一つは確かです。神は苦難と孤独の後に必ず新しい始まりを与えてくださるということです。神の祝福にあって生きるキリスト者において、いちばん重要なことは、ただ苦難と孤独を乗り切ることだけではありません。その苦難と孤独の中に主が共におられるということ、すなわち苦難と孤独も結局は祝福という大前提の一部であるということを信じることです。「これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。」(創40:1-3)ヨセフが無実に獄中生活をしていた時、ニ人の高官がヨセフのいる牢獄に引き渡されることになりました。当時のエジプトはヒクソス人という異民族によって王朝が変わっていました。学説によるとヒクソス人は、もともとエジプト系の民族ではなく、北の地域から下ってきたセム族系の民族だったと言われますが、アブラハムの民族もセム族系で、彼らとは同じ祖先を共有していました。そして今日、牢獄に引き渡された2人の高官も、王に最も近いヒクソス人の権力者たちだったと推定されます。 給仕役、料理役と訳された原文は、お酒を造る者、パンを焼く者と翻訳できますが、単なる醸造人や料理人という意味ではありません。毒殺のおそれのため、ファラオに最も信頼される人だけが、この務めを引き受けることができると言われます。つまり、彼らはファラオに次ぐ権力者だったということです。歴史学者たちは、おそらく、この時期がエジプト帝国の政治的な混乱期だったと見なしています。これによって、その二人の投獄が権力闘争に負けた結果であることが分かります。さて、この出来事は無実に監獄暮らしをしていたヨセフに小さな機会を与えました。「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいないと二人は答えた。ヨセフは、解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてくださいと言った。」(8) ヨセフが、この二人の高官と自然に出会い、夢を解き明かすことになったからです。ところで、10年以上、外国で奴隷として過ごし、監獄に閉じ込められていたヨセフに大きな変化が生じました。それは夢に対するヨセフの考え方が変わったということです。昔の彼は、神が将来の啓示のためにくださった夢を自分勝手に解き明かし、父と兄たちを怒らしました。自分のために神の啓示の夢を間違って利用したわけです。しかし、今の彼は夢の解き明かしが神にあると認め、過去とは違って謙虚に行いました。10年以上の苦難と孤独が、ヨセフの未熟さを成長させ、神おひとりだけを崇める信仰の人物に養ったのです。 3.神の御言葉をありのままに伝えるようになったヨセフ。 以後、給仕役と料理役の夢を聞いたヨセフは、完璧にその夢を解き明かしました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。」(13)神がくださった夢の意味を、以前は自分の必要と自慢のために利用したヨセフでしたが、今回は違いました。彼は神がくださった夢の意味を正しく解き明かし、加減なく伝えました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」(19) 神の御言葉なら、その相手が高官だといっても、その言葉が聞きづらいといっても、ヨセフはありのままに述べ伝えました。結局、ヨセフの解き明かしどおり、給仕役は復権し、料理役は処刑されてしまいました。神に御言葉を託された者は、その御言葉を加減なく伝えなければなりません。一点一画も人の耳に聞き良く、省いたり、加えたりしてはなりません。自分の欲望のために誤用してもいけません。主の御言葉がありのままに世に伝えられるように自分の命をかけてまで、そのまま伝えるべきです。それが御言葉をいただいたキリスト者の宿命です。約100年前、日本帝国時代のキリスト教殉教者の中には、こんなことを問われる場合もあったと言われます。 「天皇陛下が上か?イエスという者が上か?」聖書の言葉通り、当然イエスが上だと言った者たちは無残な拷問を受け、殉教されたと言われます。また、日本でも朝鮮でも、教会の指導者という者たちが「教会を守るためには仕方がない」という口実で、偶像崇拝を禁じる御言葉に背き、宮城腰背をすすめたとも言われます。私たちは聖書の御言葉を通じて「主なる神おひとりのほかに神などない」ということを学び信じています。もし、誰かが私たちに凶器を突きつけて偶像崇拝をさせたら、果たして私たちはどのように対応すべきでしょうか? 主の御言葉をいただいたキリスト者は、自分にいかなる被害があっても、その御言葉通りに行わなければなりません。この話が聞きづらく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、牧師は正しい御言葉の説教の義務を託された者ですので、公に宣べ伝えるしかありません。今日の本文のヨセフがエジプトの高官の前で、主がくださった夢をありのままに解き明かした理由は、人間の権力より神の権勢をより畏れていたからでしょう。今までのヨセフの苦難と孤独は、このように彼を成長させ、神の御前で立派な信仰者として養いました。しかし、残念なことに、このように神の御言葉をありのままに伝えたにもかかわらず、ヨセフは再び忘れ去られます。給仕役が復権し、ヨセフとの出来事をすっかり忘れてしまったからです。 締め括り 忘れ去られたヨセフ、しかしある日突然。 その出来事以来、ヨセフはさらに2年間、余儀なく監獄暮らしを続けることになりました。しかし、神が計画された苦難と孤独の時間が終わると、ある日突然、ヨセフはファラオの前に召し出されました。神がファラオにも難解な夢を与え、ヨセフが活躍する機会をくださったからです。そしてヨセフはお見事にその夢を解き明かし、堂々とエジプトの総理になりました。主はなぜヨセフを給仕役と共に、直ちに解放させてくださらず、むしろ忘れ去られるようになさったのでしょうか? 一部の歴史神学者は、ヨセフが監獄にいた時期がエジプトの政治的な混乱期であったと推定しています。つまり、主は孤独と苦難という名の巣でご自分の民ヨセフが安全に孵化するまで、彼をこっそり守ってくださったのです。そして、政治的に落ち着いた、ある日突然、誰よりも偉い者にしてくださったのです。ヨセフからしては苦難と孤独の時間でしたが、神からしてはヨセフを安全に守ってくださる時間でした。この新約の言葉が思い起こされます。「主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」(2テサロニケ3:3)苦難と孤独は辛いものです。それらによって神を恨むこともあり得るでしょう。ただし、苦難と孤独も、結局は神の計画の中にあるということ、主の時になれば、大きな祝福をもって報いてくださることを信て生きていきたいと思います。苦難と孤独は神の祝福の過程です。これを忘れずに、常に信仰に生きる私たちになることを祈ります。

人の罪と主の赦し

イザヤ書59章1~ 2節 (旧1158頁) ローマ信徒への手紙 1章18 ~ 32節(新274頁) 前置き ある宣教師がいました。彼は長年宣教をしてきましたが、先住民の一人もイエスを信じていませんでした。人々は彼を友達と認めましたが、神を信じてはいなかったのです。そんなある日、近所の先住民が宣教師を訪問しました。二人はお茶を飲みながら、歓談をかわしました。その時、ふとイエスの生涯に話題が移りました。宣教師は人の罪とイエスの死と罪の赦しについて話しました。その日、先住民は自分の罪に気づき、衝撃を受け、悔い改めることになりました。それを皮切りに、その地域に本当の宣教が始まり、多くの先住民がイエスを救い主として信じることになりました。その宣教師の問題点は、先住民と親しくは過ごしたが、福音の核心である罪と赦しを教えなかったことにありました。その宣教師は、今までの自分の誤りについてやっと気づくことになりました。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。出世のための宗教でも、瞑想や省察のための宗教でもありません。キリスト教はイエス・キリストによって天地万物を創造された真の神と和解し、一緒に生きる宗教なのです。そのように創り主である神と歩んで行きながら、時には神によって幸せを経験し、また時には神と逆境を乗り越えつつ、最後まで神と共に進む宗教が、まさにキリスト教なのです。その歩みの結果の一つが、死後、天国に入るということです。それは目標ではなく、ただ神の賜物の一つに過ぎないのです。創り主、神と共に生きることそのものが既に私たちの天国が始まったということであり、私たちの救いが成し遂げられはじめたという意味です。 ところで、その神に出会うことを妨げる深刻な問題があります。それは罪という問題です。今日の旧約聖書を見てみましょう。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ書59:1-2)罪によって、造り主から離れた人間が、真の救いを得るためには、絶対に造り主、神の御前にいなければなりません。御前にいるということは、神と共に歩むという意味です。しかし、罪がある限り、人間は神の御前にいることが出来ません。罪が神と人間の仲を隔てているからです。 実に神には人を救ってくださる十分な権能があります。しかし、人に罪がある限り、主は人を救うことが出来ません。主の手が短いわけでも、主の耳が鈍いわけでもありません。厳密に言って、できないわけではなく、しないのです。なぜなら、罪は神の正反対のものだからです。罪は神と人間の間の巨大な隔てをもたらします。罪は人間に恵みと哀れみをくださる神の御顔を隠すものです。罪は神の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人間が神に救われることが出来ないようにする結果、人間が神に見捨てられるしかない悲惨な結果をもたらします。だから、人が自分の罪を解決していない以上、その人は絶対に救いを得ることも、神と共に歩むことも出来ないのです。 2.罪の悲惨さについて。 ソクラテスは「無知は罪なり。」と言いました。彼はキリスト者ではありませんが、彼のこの言葉は正しいと思います。罪から生まれた惨めさの一つは無知です。罪を持っている人は、自分にどんな罪があるのか、何が問題なのかが分かりません。分からないので、解決が出来ず、解決が出来ないので、救いに至ることも出来ません。今日の新約本文であるローマの信徒への手紙は罪人がどれだけ悲惨であるかを明らかに語っています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20)世界の創造の時、神はすべての被造物が神を知ることが出来るように神の神性を示してくださいました。だから、罪のない状態の被造物は、神の存在を感じ、知ることが出来ます。しかし、罪によって神とその神性に気づかないようになった人間は、自力では、神を知ることが出来なくなってしまいました。 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)しかし、人は神性を求める存在です。人間の本能がそれを証明します。『誰なのかはっきり分からないけど、きっと全能者はいるのだ。』という人の漠然とした感覚は、よくあるものです。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、人間の罪のため、人は自分が勝手に願うものを神だと定めてしまいます。木を、石を、獣を、人を神にしてしまいます。日本はその名前どおり、古くから太陽を神と崇めて来た国です。それによって生まれた存在が天照大神でしょう。太陽をお天道様と呼ぶことにも、そのような文化が溶け込んでいるからではないかと思います。しかし、創世記1章は、きっぱりと太陽を含むすべてのものが、ただ神の被造物にすぎないと語っています。人間の罪は罪に気づかないようにするだけでなく、とんでもないものを神にする心を与え、真の神を冒瀆する偶像崇拝までもたらします。 「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28)罪に生きる人への最も危険で、悲惨な神のお裁きは、神が彼らを自らの罪に放って置かれ、見捨てられることです。本文の「渡す」という表現はギリシャ語「パラディドミ」の翻訳ですが、「見捨てる。」という意味です。「してはならないことをするように。」すなわち、神がどのような形の憐みもくださらず、罪を犯し続けるように放っておかれ、赦されずにお裁きになるということです。これを神学的な用語で、神の遺棄と言います。「捨てるために残す。」という意味です。そのような人たちからは29-31節までの数多くの罪が現れます。罪が罪を産み出し、罪が罪を増やし、罪によって人が神から永遠に見捨てられるという意味です。これが罪の恐ろしい結果であり、最も悲惨な呪いであるのです。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。 未信者が信仰を持とうとする時、一番難しいのは自分の罪を認めることだと思います。犯罪者なら、比較的に納得しやすいかもしれませんが、法律的に犯罪したことのない普通の人々は、自分が罪人であることを納得しにくいでしょう。しかし、聖書はこのように語っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ローマ3:23)旧約聖書の創世記で人類を代表するアダムとエバが神を裏切って離れた後、人々は罪の中に生きることになってしまいました。アダムとエバの話は時空間の超えて私たちに教えてくれます。神を裏切って離れることから、罪が生まれるという最も基本的な罪の理由を。 罪とは矢と的との関係と似ています。矢が的に当たらない場合、スコアがないように、罪は人が神の基準から外れる時に生じます。したがって、神がお定めになった法則に従って「神の御心に聞き従うこと、神と一緒に歩むこと」を満足させない時、人生で、新しい罪が生じ続けるようになります。しかし、人は皆、すでに罪を持っているので、自力では、神の御心に適うことが出来ません。そして、赦してくださる神を知ることも出来ません。つまり、人間は自ら罪を解決することが出来ないということです。だから、人は自然に罪に生きるしかありません。そして、その罪は引き続き別の罪をもたらします。最終的に罪人は罪によって神に見捨てられ、永遠の死を迎えるしかありません。 イエス・キリストが私たちのところに来られた理由は、まさにこの罪の問題を解決してくださるためです。私たちが福音を福音と呼ぶ理由はこのためです。「自力で解決できない罪を解決できるお方がいらっしゃる」という良いニュースだからです。神から来られたイエスは、罪を赦してくださる方です。そして人が満たせない神の基準を代わりに満足させてくださる方です。私たちは、このイエスの罪を赦す力、神の基準を満たす力を、私たちを救ってくださる主の恵みとして信じる時に、神の赦しを得ることができます。私たちが果たせないことを、キリストが代わりに成し遂げてくださり、自分の赦しのために何も出来なかった私たちが、キリストによって赦されたということを信じる時、私たちは神に赦されることが出来ます。イエス・キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決するために、私たちに代わって十字架につけられ、死に、私たちを救い、私たちのために神から新しい命を受けてくださいました。罪の結果は恐ろしい悲惨さですが、その悲惨さから私たちを救ってくださる主がおられるため、私たちは希望を持つことが出来るのです。 締め括り パウロは今日の本文を通じて私たちにも罪があることを示します。私たちは、すでに救われ、主の中にいると存在ですが、罪ある人間ですので、誰かを憎み、悪い思いをし、神の御心に適わない時が、しばしばあるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じているからです。私たちは、キリストの罪の赦しによって日々新たにされる者です。そして、主を信じる私たちは、主のお導きにより、その罪から立ち返って、神の恵みに進むことが出来ます。罪は私たちを惨めにし、神に見捨てられるように働きますが、イエス・キリストは私たちが悔い改める時、その罪をいつも赦してくださり、私たちが神と一緒に生きるように導いてくださいます。この私たちの罪、そしてキリストの赦しを憶えつつ福音の本当の意味について顧みる志免教会であることを祈ります。

権威について。

ダニエル記7章13~14節 (旧1393頁) マルコによる福音書11章27~12章12節 (新85頁) 前置き イエスは3年間の公生涯、つまりキリストとしての地上での御業を終えてご自分の体を十字架での犠牲として神に捧げるためにエルサレムにお入りになりました。主はエルサレムに到着して、一番最初に神殿に足を運ばれました。神殿はイスラエルの信仰の中心地だったからです。エゼキエル書43章には「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」と記録されていますが、神の真の栄光であるイエスは、この言葉のように神殿に臨まれたのです。しかし、神殿では誰もイエスをお迎えしませんでした。祭司たちが一番先にイエスの到来を知り、主を迎え入れるべきだったのに、むしろ彼らはイエスが来たことも知らなかったかのように無視していたのです。いや、かえって彼らは自分たちの宗教的な既得権を否定するイエスを憎み、嫌がる存在でした。翌日、イエスはまた神殿に足を運ばれる途中、実はなく葉っぱだけが茂ったいちじくの木を呪われました。これは神殿の存在理由を失い、宗教的な偽善だけが残っていた神殿と宗教指導者たちへの主のお裁きを象徴する行為でした。また、イエスは神殿に入られ、祭司たちと結託して商売をしている商人たちを追い出し、叱られました。神の御心を成し遂げるために来られたイエスは「祈りの家」という本来の機能を失った神殿を清められたのです。そして、イエスはご自身が神と人との間を執り成してくださる真の神殿となるだろうと教えてくださいました。 1。イエスの時代の宗教指導者たちの実状。 「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(11:27-28) イエスが神殿の商人たちを追い出されると、彼らと結託して不正蓄財をしていたエルサレムの宗教指導者たちがイエスのところに来ました。そして「何の権威でこんなことをしているのか?」と問い詰めました。ある新約の学者は、彼らがイエスに「何の権威」と云々したのが「君はどの学派の所属なのか?」という意図の言い方だったと話しました。当時には様々なラビの学派があって、学風にそって学派も分かれていたそうです。そして、学派別にそれなりの正当性があったようです。つまり、宗教指導者たちはイエスの正当性を傷つけるために、どこの所属なのかと尋ねたということです。考えてみれば、牧師の世界にもこういう傾向があると思います。「私は00教派所属の牧師です。」「私はXX教派所属の牧師です。」など、相手がどんな神学を学び、どんな性向の牧師なのかを確かめるためです。そして、自分が属している教派を前面に出し、自分の神学的な正当性を密かに表すためです。今日の本文の宗教指導者たちも「何の権威で」という表現で、どこにも属しておられなかったイエスの権威を傷つけ、自分たちの正当性を高めようとしていたわけです。 前の説教を通して、何度もお話してきましたが、イエスの時代の宗教指導者たちは純粋ではありませんでした。祭司長たちは見た目は宗教家であるだけで、精神的には世俗的すぎで、神への真の信仰、復活への希望を失っていました。復活への信仰を失ったため、神の永遠のご統治と御導きも信じていませんでした。彼らはただただこの世での繁栄だけを大事にしていたのです。そういうわけで、彼らは政治、財物、権力に執着するようになってしまいました。律法学者たちは、律法の真の精神、つまり神と人への愛を失っていました。彼らは行いによる救いを信じ、人々の前で自分の宗教的な優越性、つまり自分の義を示すことを楽しんでいたのです。律法を通して民を正しく教え、愛の実践へと導かなければならなかったのに、彼らは律法を悪用して人々を判断し、他人を罪に定めたのです。長老たちは、民の模範にならなければならない人々でしたが、祭司長、律法学者たちとともに政治的、宗教的な権力を欲しがっているだけでした。祭司長、律法学者、長老、すなわち今日イエスの権威について問い詰めた人々は、サンヘドリン公会という当時のユダヤ最高の権力機関だったと推定されます。彼らはユダヤの民衆を神へと導き、聖書を正しく教え、指導しなければならない宗教、社会、民族の指導者たちでした。そんな彼らが神の神殿を用いて自分たちの私利私欲だけを満たそうとしていたということから、当時のユダヤ社会の問題点が明らかにされます。イエスはまさに神殿で、このような問題を見つけられ、叱られたのです。 2.主イエスの権威 宗教指導者たちが、イエスの前で権威について話した理由は、自分たちの宗教的な正当性を高め、イエスの正当性をおとしめ、困らせるためでした。しかし、主はその計略に巻き込まれず、むしろ問い返されました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(11:30)ヘロデ·アンティパスの暴挙により、悲惨になくなった洗礼者ヨハネ、群衆は彼を神からの預言者だと信じていました。宗教指導者たちはイエスの前で自分たちの宗教的な正当性のために「権威」について問い詰めましたが、イエスは群衆が預言者として信じる者、そして、イエスに洗礼を授けた者であるヨハネと彼の洗礼が持つ権威について問い返されたのです。「ヨハネは神からの預言者としての権威を持って洗礼を授けた。そして、私は彼を通じて神が認められた権威ある正当な洗礼を受けた。だから、私の権威もヨハネのように神にいただいたのだ。あなたたちはこれについてどう思うのか?」と問われたわけです。イエスの出身を取り上げて脅迫し、自分たちの正当性を高めようとしていた宗教指導者たちは、イエスのご質問に困ってしまいました。洗礼者ヨハネの権威が天からのものだと言えば、彼を排斥した自分たちの正当性を自ら損ねるさまとなり、洗礼者ヨハネの権威が人からのものだと言えば、群衆を刺激することとなり、また自分たちの正当性が損なわれるため、いずれにしても困難な答えだったのです。 「そこで、彼らはイエスに、分からないと答えた。すると、イエスは言われた。それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(11:33) イエスはご自分の権威を守りながら、宗教指導者たちを戸惑わせることで、彼らの質問から抜け出されました。そして、12章の「ぶどう園と農夫」のたとえを通じて、宗教指導者たちの問題点を暴かれました。たとえの中のぶどう園の農夫たちは、主人を本当に愛し、仕えていませんでした。彼らは主人のぶどう園を利用して自分たちのよこしまな利益だけをたくらみ、結局、主人のものを奪い取ろうとして、主人の僕とその息子まで殺そうとしました。まるで今日のぶどう園のたとえの中の農夫たちのように振舞っていた宗教指導者たち。彼らが権威を云々したのは、ぶどう園として表現された神殿を奪い取り、自分たちの歪んだ権威を用いて私利私欲を満たすための言い訳だったのです。彼らは権威を言い訳にし、神の栄光と神への信仰とは、まったく関係ない自分たちの利益と欲望のために神のもの(神殿)を悪用しているだけでした。だから、イエスは当時の宗教指導者たちの不信仰と悪を「ぶどう園のたとえ」を通して告発されたのです。ここで私たちは果たして「真の権威とは何か」について考える必要があります。ユダヤの宗教指導者たちが、あのように重要視していた権威。聖書が語る真の権威とは一体何でしょうか。 3.真の権威について。 今日の新約本文に記された権威という言葉は、ギリシャ語の「エクスシア」を翻訳した表現です。エクスシアは「権威」という意味とともに「権勢、権能、所属、源」などの意味をも持っていると言われます。つまり、エクスシアとは、上から押さえつける水平的な力のイメージを持っています。宗教指導者たちがイエスに「何の権威で」と尋ねた理由は、自分たちの世俗的なエクスシアを強調するためでした。「君の所属はどこか? 君は私たちが認めるべき者なのか。 私たちより上にいるのか。私たちより下にいる者ではないか」という意味で問うたわけです。彼らにとって権威とは、神に由来する権威という意味合いではなかったのです。主導権を握るための世俗的な上下の意味で聞いたのです。自分たちがイエスより上にいる優越な存在であるということをアピールするためでした。しかし、主は天からの権威について語られました。「私は神が洗礼者ヨハネに与えられた権威、それ以上の権威をいただいている」と暗黙的に示されたのです。今日の旧約の本文を見てみましょう。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14) ダニエル書は、人の子のような者について神からエクスシア(権威)をいただいた者と語りました。つまり、メシアの権威は神がくださったということです。真の権威は、今日の宗教指導者たちが口にした世俗的な偉さを意味するものではありません。宗教指導者たちが考えた権威とイエスが言われた権威は、その性格が全く違うものだったからです。当時の宗教指導者たちの権威は、神が認めてくださらない、群衆が納得しない自分たちの欲望ための世俗的な権威でした。そのため、宗教指導者たちは群衆の反応を恐れていたのです。しかし、主イエスは神も群衆も認めることが出来る真の権威について語られ、イエスご自身がその神からの権威を持っておられたのです。権威とは、人間が作るものではありません。ある人が誰かに与えるものでもありません。権威はひたすら神に由来するものです。権威の真の主人は神おひとりだけだからです。したがって、私たちも自分に権威があると思うなら、それを前面に出して威張るより、果たして、自分は神に認められる権威を受けているのか、もし、そうであれば、自分は神からの権威を正しく取り扱っているのかを考えてみるべきだと思います。 締め括り 権威は神からいただくものです。私たちは、常に真の権威とは何かをわきまえて生きるべきです。教会に長く通っているからといって権威が高く、出席してわずかだからといって権威が低いわけではありません。主なる神の必要であれば、主は誰にでも権威を与えてくださり、権威をいただいた者は、謙虚にその神からの権威を正しく使うべきです。そうでなければ、今日の宗教指導者たちのように、権威を世俗的に悪用してしまうからです。現代の政治家たちを考えてみましょう。彼らは自らが権威者であると思い、国民を軽んじてしまう場合が多いでしょう。それは真の権威の使い方ではありません。皆さん、金牧師を志免教会の権威者だと思わないでください。牧師が持っている権威は、神がくださった御言葉の権威を述べ伝えるための道具にすぎません。牧師に権威があるわけではなく、神の御言葉に権威があり、牧師はそれを支えるだけです。長老、執事の皆さんも自らを志免教会の権威者だと思わないようにしましょう。皆さんの務めに神からの権威が置かれ、私たちはその権威のために仕えているだけです。将来、誰か志免教会の長老、執事になられれば、その権威が君臨のための権威ではなく、奉仕のための権威であることを忘れないでください。真の権威者でおられる主イエス·キリストが、ご自分の権威の責任を果たすために十字架にかけられ、自らを犠牲にされたことを憶えつつ生きましょう。真の権威の在り方について常に考え、心に留めて生きる志免教会の皆さんであることを願います。

主がうまく計らってくださった。

創世記39章1~23節 (旧68頁) マタイによる福音書28章20下節 (新60頁) 前置き 前回の創世記37章で、ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。彼は父親のヤコブの最愛の息子でしたが、神からいただいた将来を啓示する夢を偉そうにしゃべってしまい、それによって兄たちの憎しみを買い、エジプトに売られることになったのです。人間的な視座から見れば、この物語はヨセフの悲惨な失敗の話のように見えるかもしれません。彼は兄弟たちに裏切られ、他国の奴隷となってしまったからです。しかし、神の視座から見れば、この物語は、神の御心を成し遂げるための、一つの過程にすぎません。この段階があるからこそ、ヨセフはエジプトの総理の席に近づいていくからです。つまり、「ヨセフはエジプトに売られ、彼の人生は悲惨に終わった。」ではなく、これからが「ヨセフの人生の全盛期の始まり」ということです。ですので、今日の本文の冒頭と末尾に、「主がヨセフと共におられた。」という表現が2度も出てきているのです。今日の本文は、たとえヨセフが失敗を経験していても、神はヨセフのすべてのことをうまく計らっておられるという希望のメッセージを伝えています。人間には「もう終わりだ」と感じられるかもしれませんが、神にとっては「御心を成し遂げられるための過程」に過ぎないということです。ここにキリスト者の希望があります。今日は創世記39章を通じて人間の失敗さえも主の祝福の過程として用いてくださる主なる神のお導きについて話してみたいと思います。 1。主がヨセフのすべてのことを計らってくださった。 今日の本文は、ヨセフがファラオの侍従長ポティファルに売られ、彼の召使い(奴隷)となったという話から始まります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。」(39:1)以前、神がヨセフにくださった夢によれば、彼は大勢の人の上に君臨する偉い人物になるべきでした。なのに、むしろ彼はエジプト人の奴隷となってしまったのです。彼の夢は、ただ、つまらない空夢だったでしょうか。ところで、2~3節の言葉を読むと、おかしい点が見つかります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ(主がうまく計らわれたと同じ原文)。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(39:2-3)ヨセフはヤコブの最愛の息子に生まれ、当時の王族たちだけが着られる華麗な服を着て育ってきました。そんなヨセフがエジプトの奴隷として売られ、他人の召使いになっていたのに、聖書は彼がまるで神の祝福を受けているかのように描写しています。この世の常識から見ると、今のヨセフの状況は肯定的だとは絶対に言えないでしょう。しかし、聖書は、この世の常識とは、まったく違う観点からヨセフの状況を解釈しているのです。まるで予想していたことを平気で話しているかのようです。その中で最も理解できない表現は、神がヨセフと共におられ、彼のすべてのことを「うまく計らわれた。」ということです。「計らわれた。」という表現を英文聖書的に表現すると「繁栄させてくださった。」「成功させてくださった。」となります。つまり、ヨセフが奴隷となっていたにも関わらず、聖書はその状況さえも神の祝福として述べているということです。 ヨセフは兄弟たちに裏切られ、他国に売られ、異邦人の召使いとなっていたのに、なぜ聖書は彼の人生についてこれほど平気に、神によってうまく計らわれていると描写しているのでしょうか? 神が彼と共におられ、彼のすべてのことが成功的に導かれているという聖書の評価を、私たちはどう受け入れるべきでしょうか。アブラハムから、イサク、ヤコブ、ヨセフの人生まで、神の祝福は、人の考えとは全く違う姿で彼らに現れました。最初、神の祝福を約束されたアブラハムは、挫折を重ねた末に、100歳にもなってやっと相続人を儲け、イサクは息子たちの葛藤により、家庭の破綻を経験しなければなりませんでした。ヤコブは叔父であり、義父であるラバンの家で苦労し、故郷に帰る時も兄の仕返しを恐れなければなりませんでした。そして晩年には、愛する妻と息子まで失わなければなりませんでした。いくら考えてもアブラハム、イサク、ヤコブは人間的な観点から見れば、祝福された人だとは考えられないほど肉体的、精神的に苦難を経験しつつ生きてきました。しかし、聖書の評価はいかがでしょうか。彼らは神の祝福を受けた者として語られています。彼らには共通の事実がありました。それは神が彼らの人生の道に共におられ、彼らが成功をしようが、失敗をしようが、彼らから離れられず、いつも共におられたということです。 2。神の祝福への正しい理解。 今日の本文での「うまく事を運ぶ。」「うまく計らう。」という言葉のヘブライ語は「ツァラッハ」という表現です。「良い。平坦だ。 有益だ。繁栄する。」などの意味を持っています。ところで、旧約聖書の他の箇所では、この表現が、主の霊が「ご臨在なさる。」という風にも使われます。「主の霊があなたに激しく降り(ツァラッハ)、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」(サムエル記上10:6) ある人にとって「良い時、有益な時、繁栄する時」は主の霊が臨まれ、その人と共におられる時を意味するということでしょう。つまり、神が、ある人と一緒におられる、その瞬間が、その人の人生において真の祝福の時であるという意味でしょう。そのような観点から見ると、キリスト者の人生において、真の祝福の時は、神が一緒にいらっしゃることとも言えるでしょう。しかし、神の祝福を受けた者にも、相変わらず苦難は存在し、試練を経験しなければならない時もあります。今日の本文で、ヨセフは熱心に主人の家に仕えてきましたが、淫らな女主人の偽りによって濡れ衣を着せられ、監獄に閉じ込められてしまいました。しかし、そのような危機の中でも、神はご自分の選ばれた者ヨセフを絶対に見捨てられなかったのです。むしろ、主は監獄にいるヨセフと変わらず一緒にいてくださいました。常にご自分の民と一緒におられ「主の御旨にかなう方向に、導いていかれること」聖書はそれを祝福だと語っているのです。 今まで教師として働いてきながら、数多くの苦しむキリスト者と出会う機会がありました。彼らにはこんな疑問がありました。「なぜ、主は主を信じる自分に、こんなに苦難を与えられるのか?」事業がつぶれてしまい、一寸先も見えない人、不意の事故によってひどく怪我をしたり、家族を失った人、いくら努力しても人生がうまくいかない人。数多くの人々が「主はどこにいらっしゃるのか?」 「主はなぜ自分にこんな苦難を与えられるのか」という疑問を抱いていたのです。そして、その中には神への信仰を諦めてしまう人々もいました。しかし、その苦難の瞬間を信仰を持って最後まで乗り切った人々は、一様にこう告白しました。「当時は死にたいほど辛かったが、今になって考えてみると、その都度、神は私と一緒におられた。」神の祝福は盲目的にすべての苦難を防いでくれる盾のようなものではありません。偉い親は、無条件に子供の苦難を防ぎ、弱虫に育てる人ではありません。子供が苦難に立ち向かって進んでいけるように導き、一緒にその苦難を乗り越えていく親こそが、本当に偉い親ではないでしょうか。神もそのように無条件に苦難を防いでくださる方ではなく、乗り越えていけるよう背後におられ、諦めることなく導いてくださる方なのです。神の祝福に生きる民も苦難を経験し得ると思います。今日の本文のヨセフも確かにすべてがうまくいく状況ではありませんでした。他国に来て他人の召使となり、淫らな女主人の誘惑を断って、誤解されて監獄に閉じ込められることになってしまいました。しかし、そのような状況下でも、神は常に彼の苦難の時に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったのです。それがまさにヨセフへの神の祝福だったのです。そして、その苦難を伴う祝福の道の終わりに、ヨセフはエジプトの総理となり、その昔、神がくださった夢のように、すべての人の上に君臨し、飢饉から数多くの民族を救う真の成功を成し遂げることになったのです。 締め括り 今日の説教の主題はとても簡単です。神が一緒におられることこそが、真の祝福であるということです。もちろん、神は私たちに経済的な豊、心の安らぎ、家族の成功のような、この世が語る祝福も許してくださると信じます。人生において苦難だけを受けつつ生きることはできず、主もそれを知っておられるからです。しかし、それらだけが祝福のすべてではないでしょう。私たちは聖書が語る祝福の真の意味について常に念頭に置いて生きなければなりません。私たちにいくら辛いことがあるといっても、神が私たちと共にいらっしゃるということ、私たちのすべての人生に介入しておられるということ、それこそが真の神の祝福であることを憶えなければならないでしょう。イエス・キリストが昇天される前に私たちに聖霊を約束してくださった理由も、ペンテコステに聖霊を送ってくださった理由も、私たちがこの聖霊によって神と常に一緒にいるようにしてくださるためでした。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 新約時代を生きていく私たちに主は聖霊を通して常に一緒におられ、私たちに祝福しておられることを忘れてはなりません。神が苦難を受けるヨセフの人生に常に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったことを記憶し、現在を生きている私たちに与えられた真の祝福とは何かについて顧みる時間になることを願います。そして、私たちを見捨てられず、常に一緒にいてくださる主の豊かな恵みに感謝しつつ生きていく私たちになることを願います。

神殿について。

歴代誌下 7章1~22節 (旧679頁) マルコによる福音書 11章12~19節 (新84頁) 前置き 前回の説教で、イエスは3年間の奉仕の御業を終え、いよいよご自分の命を十字架で捧げ、罪人を赦し、救ってくださるためにエルサレムに向かっていかれました。旧約の預言のように、子ろばに乗ったメシアとしてエルサレムにお入りになったイエスは、大勢の群衆が叫んだ「ホサナ(主よ、どうか私たちを救ってください。)」、すなわち罪からご自分の民をお救いになるために十字架に進んでいかれます。これからのマルコによる福音書は、そのイエスの最後の一週間について描きます。そして今日の本文は、その初日にあった出来事の記録です。今日の本文で、私たちは何を学べるでしょうか? 一緒に探ってみましょう。 1。イエスが実のないイチジクの木を呪い、神殿から商人を追い出した理由。 今日の本文には、イエスが神殿にお入りになる前に、実のないイチジクの木を呪われ、神殿境内から商人たちを追い出される物語が登場します。なぜイエスはイチジクの木を呪い、神殿の商人たちを追い出されたのでしょうか。ドイツの医師であり、神学者であるシュヴァイツァーはイエスが差し迫った死の前で理性を失い、イチジクの木を呪ったと解釈しました。また、ある人たちはイエスが神経質な方なので、商人たちを追い出されたとも解釈しました。しかし、果たして、本当にそのためだったのでしょうか。それでは、より適切な解釈のために、まず前回の本文を読んでみましょう。「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った。」(11) エルサレムに来られたメシア・イエスは一番先に「神殿」に行かれました。そして、その境内を見て回りました。ここで「見て回る。(ペリブレポ)」という意味のギリシャ語をより詳しく意訳すると「注意深く貫いて見る。」という語でも表現することができます。イエスがエルサレムに来て当時のユダヤ教の最も重要な場所であった神殿にお入りになり、まともに機能を全うしているかどうか「注意深く貫いて見」て判断されたというわけです。旧約聖書のエゼキエル書44章は、メシアの時代の神殿と祭司がどうあるべきか、よく説明しています。「彼ら(祭司)は、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。」(エゼキエル44:23) 神はエゼキエル書を通じて、望ましい神殿の在り方を教えてくださいます。「見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。… 主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。 … 見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」(エゼキエル43:2-5中)エゼキエル書によると、神の栄光が神殿に到来する時、すなわちメシアが神殿に臨む時に、神殿は神の区別された祭司によって、聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教える場所にならなければならないと記録されています。しかし、メシア・イエスが神殿にお臨みになった時、神殿の祭司のうち誰も民を教えず、メシアの到来を待っていませんでした。むしろ、彼らは神殿を利用して世俗的な商売をしていたのです。そのため、神殿はまるで市場のようになっていました。マルコによる福音書は、それを「強盗の巣」と表現しています。 「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」(11:15) ところで、なぜ商人たちは、聖なる神殿の境内で両替をし、動物を売っていたのでしょうか? それを知るためには、当時の神殿の祭司たちの行動と変質した神殿の礼拝について探ってみる必要があります。 イエスの当時の神殿の祭司たちは、サドカイ派と呼ばれました。彼らはユダヤの宗教指導者であったにもかかわらず、非常に世俗的な勢力でした。また、ローマ帝国と結託し、神殿を用いて民の金を奪い取る売国奴のようなことをしていました。旧約の律法には、神に供え物を捧げる時には「傷のないものを捧げるべき」と明示されています。サドカイ派の祭司たちは、この掟を悪用し、民が連れてきた供え物の獣から、いくら小さい傷だといっても捜し出し「傷があってはならない」という名目で断り、商人たちに安値に売らせた後、自分たちが備えた「傷のない獣」を高値で買わせました。そこで、民は、損害を負いつつ、自分の「傷のある獣」を神殿と契約した商人たちに売り、新たに「傷のない獣」を買わなければなりませんでした。ところで、面白いのは、民が売った「傷のある獣」が、何日か後には「傷のない動物」となって、他の人に再び売られたということです。 また、外国に在住するユダヤ人同胞たちが神殿詣でに来た時、ローマ帝国の銀貨であるデナリオンを持ってくると、「ローマ皇帝の肖像があるから、偶像である」という名目で、ユダヤの銀貨であるシェケルに、高い手数料で両替させました。 つまり、サドカイ派の祭司たちは、神殿を私的に利用して獣と両替商売をしたわけです。イエスが神殿にお入りになる前にイチジクの木を呪い、神殿に入った後に怒って商人たちを追い出されたことは、まさにこのような宗教指導者たちの誤った行動を裁かれるという象徴的意味を含んでいました。 2。神殿の機能 神は世界を創造された方です。つまり、被造物であるこの世のすべては創り主である神の統治の下にあるということです。創造した者が造られた物の下にいることはあり得ないからです。そんなわけで、神はイザヤ書を通して次のように言われました。「天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。」(66:1)すなわち、神にとって、旧約の神殿は、絶対に必要なものではないということです。むしろ神は、この世の主の民のために神殿をくださったのです。「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(レビ記26:11-12) 被造物より大きい神が、被造物である人間たちと関係を結んでくださるために聖なる幕屋をくださり、以後、それがソロモンの時代に神殿として発展したということです。そして最も決定的な神殿の存在理由は、今日の旧約本文から見ることができます。「今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16) つまり、神殿の機能は、神が人間のためにくださった場所で、人間が神とお交わりを持つこと、すなわち祈りのためです。 なのに、イエスの時代のユダヤの宗教指導者たちは、この聖なる祈りの場である神殿で民をだまし、自分の私利私欲のために、商売をしていたわけです。そのため、イエスは神殿の商人たちを追い出し、宗教指導者である祭司たちを叱られたのです。イエス様がイチジクの木を呪われたことも、この神殿を汚した宗教指導者への呪いを象徴するものです。聖書でイチジクの木は「平和と安定」を象徴する道具としてしばしば使われます。神は宗教指導者である祭司たちを神と民を取りなす役割のために、民に平和と安定の道を示すために遣わしてくださいました。 しかし、祭司たちは民に神の御心と御言葉を正しく教えず、むしろ自分のお金儲けのために神殿を悪用していたのです。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。」(11:12-13確かに本文の背景は春なので、イチジクの本格的な季節ではない、しかし、イチジクは春、夏、2回にわたって実を結ぶ。というのは、イエスがイチジクに近寄られた時も、イチジクは春の実を結んでいるべきだったということを意味する。)春のイチジクの木は、先に実が出てから、葉っぱが茂るようになると言われます。つまり、実はなく葉っぱだけが茂っているイチジクの木は、正常じゃなく何の役にも立たないということです。イエスの時代の宗教指導者たちの姿と似ているのです。 イエスはマルコによる福音書1章15節で以下のように宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」すでにメシアの時になりましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、その時に葉っぱだけ茂って、実はないイチジクの木のように有名無実な存在になっていました。主イエスはイチジクの木に向けた呪いを通じて、当時の宗教指導者たちが、神に裁かれるようになることを象徴的にお示しくださったのです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」(18)しかし、宗教指導者たちは警告するイエスを恐れるどころか、かえって主を殺そうとするだけでした。彼らは「あのいちじくの木が根元から枯れている」(20)の御言葉のように、神に呪われ、根元から枯れたイチジクのように滅びるでしょう。主イエスは、このような堕落した宗教指導者たちと、その寿命を迎えた神殿の機能をご覧になって、ヨハネによる福音書2章でこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主はこのような機能を失った建物としての神殿の代わりに、主ご自身が神と民を取り成してくださる真の神殿になられ、神への真の礼拝を回復させると宣言されたのです。 締め括り 今日の本文を通じて、私たちが学ぶべき教訓は何でしょうか? 聖書のあちこちに、このような表現があります。「見よ、わたしは盗人のように来る。」すなわち、イエスが突然、誰も分からない時に、再臨されるということです。その時、私たちはどんな姿であるべきでしょうか?  私たちが生きている、この世に、もはや神の神殿はありません。エルサレムの神殿は西暦70年にローマ帝国によって崩壊し、現在はイスラムの寺院があるだけです。それでは、今の時代の神殿はどこにあるのでしょうか。先ほど申し上げたように、イエスがまさに真の神殿になって神と民を取り成しておられます。だから、イエスがおられる所は、どこでも神殿になれるのです。ということは、主の体なる私たち志免教会も現代の神の神殿として機能できるということです。志免教会堂という建物が神殿であるという意味ではなく、ここに集まっているイエスの体となった志免教会員の一人一人が、まさに神の神殿であるということです。この神殿として生きていく私たちは、果たして実を結ぶイチジクのような人生を生きているのでしょうか。 葉っぱだけが茂っているイチジクのような姿ではないでしょうか。この教会にいる私たちは、主の御言葉のように、聖と俗、汚れたものと清いものとを区別する、正しい人生を追求しているのでしょうか。神殿の堕落した祭司たちや商人たちのように生きているのではないでしょうか。もし、今突然、イエスが志免教会に到来されれば、私たちは主の御前で堂々と立つことができるのでしょうか? 今日の御言葉を通じて、神の神殿である、私たち志免教会の在り方について考えてみたいと思います。その反省と悩みを主イエスは喜んで祝福してくださるからです。