神の教会

出エジプト記19章3-6節 (旧124頁) ペトロの手紙一2章9節 (新429頁) 前置き 今日は、2023年度の志免教会の総会の日です。私たちは今日の総会を通して、昨年の歩みを顧み、また今年の歩みを準備して、主の共同体である教会にうまく仕えていくために一緒に話し合います。そして、今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ書2:22)であります。主が打ち立ててくださった神の住まいである志免教会が、どういう存在なのかを学んでいく一年でありますように祈ります。そういう意味として、今日は「教会」という共同体について考えてみたいと思います。今年のテーマが「教会について学ぶ。」ですので、今年は時々、特に第5週目の日曜日には教会についての説教をしていきたいと思います。私たちは、なぜここに集って志免教会を成し、教会を私たちの人生の最も大事なものとして生きるのでしょうか? 今日の説教を通して教会の意味について聖霊なる神が教えてくださることを祈ります。 1.教会の原型 – 神に選ばれた祭司の王国。 教会はいつから存在してきたのでしょうか。まず、日本で呼ばれる教会という表現はあくまでも「漢字語」的な表現です。おそらく中国にキリスト教が伝えられた時に名付けられ、日本にも伝わったわけではないでしょうか? 私たちは「教会」という漢字語のゆえ、つい教会を「聖書を教えるところ、説教を聞くところ」という、何かを教え、学ぶところというイメージで認識しているかもしれません。しかし、「教会」と訳された本来の単語であるギリシャ語「エクレシア」は教えるところという意味ではなく「外に呼び出された者たち」という意味です。もともとエクレシアは、ヘレニズム文化圏での市民の集まりである世俗的な民会を意味する表現だったと言われますが、キリスト教が打ち立てられた後、キリスト者だちはエクレシアを教会を意味する表現として使い始めました。ところで、面白いことに、 旧約にも「エクレシア」とそっくりの表現があります。それは「カハル」です。このカハルも「呼ばれて集まった者たち」という表現ですが、旧約のイスラエル人の集まりを指す単語(集会)で、旧約聖書ギリシャ語訳ではカハルをエクレシアと訳しています。つまり、教会を意味する「エクレシア」という表現が使われたのはイエス以来ですが、旧約のヘブライ語にも教会(エクレシア)に相当する表現があったということです。とういうことで、教会の原型はイエスのご到来前にも、すでにあり、イスラエルの神の名のもとで、その民が集まったところは神の共同体(教会)として認識されていたことが推測できると思います。 ここで重要なのが「呼び出された者たち」という表現です。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」(出エジプト記19:5) 19章はエジプトから脱出し、神のご臨在の場所であるシナイ山に着いたイスラエルの民に、神が主の御言葉を与えてくださる場面です。5節で「私の宝となる」という表現は直訳です。意訳で表現すると「あなたたちはすべての民の中で、わたしだけの所有となる。」と言えます。つまり、主の宝物とは、神に呼び出され、選ばれた、神だけのものであるということです。神はなぜイスラエルをエジプトから脱出させ、主の所有として呼び出してくださったのでしょうか? その答えは次の節に出てきます。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」つまり、主は罪によって汚された、この世を意味するエジプトから主の民であるイスラエルを呼び出して、神を崇める祭司のような国(神に礼拝する存在)、この世から聖別された存在にするために、主の民を召されたのです。したがって、私たちは教会の原型を旧約聖書の出エジプト記から見つけることが出来ると思います。私たちはそれぞれ、違う国と民族に生まれ、互いに異なる文化と仕来りの中で生きてきましたが、神の民という同じアイデンティティをいただき、神の民となった共同体、すなわち教会として集いました。私たちが集まるようになった理由は、神に礼拝を捧げる祭司のような共同体、世の中から聖別された神の民の共同体として神に呼び出されたからです。 2.教会の存在理由 – 主の福音を宣べ伝える存在。 そのため、使徒言行録7章37、38節で、執事ステファノはこう述べているのではないかと思います。「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」ここで荒れ野の集会という表現の中で「集会」が、まさにギリシャ語で教会を意味する「エクレシア」と表現されます。もちろん、エクレアには民会という非宗教的なニュアンスもありますが、使徒言行録の著者の神学に基づくと、旧約の教会という認識が込められて書いてあるわけではないでしょうか。さて、主の教会は、ただ神への礼拝だけのために呼ばれた共同体なのでしょうか? 神は宗教儀式としての礼拝だけのために教会を打ち立ててくださったでしょうか。つまり、私たちは教会という共同体の存在理由について考える必要があるということです。使徒ペトロは上記の出エジプト記19章5節、6節の言葉を引用して、自分の手紙にこのように書きました。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(第一ペトロ2:9) ペトロは、前の出エジプト記19章5-6節の言葉のように、新約時代の教会が主に選ばれた王のような祭司であり、聖なる国民であり、主のものとなった民であると言いながら、その存在理由も一緒に述べました。それは「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため」だったのです。 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」という、この言葉はどういう意味なのでしょうか?複雑に解説書を参考にしたり、原文を分析したりしなくても、読むだけで「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れ」という表現が、罪によって堕落した罪人を救うという意味であることはお分かりだと思います。また、ヨハネによる福音書に、こんな言葉がありますが、「初めに言があった。…言は神であった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ福音書1:1-4一部)これを参考にして光とは何かについて推し量ることが出来ると思います。つまり、真の光であるイエス·キリストへの「導き入れ」すなわち、その方に属するように神が導いてくださったという意味ではないでしょうか? ペトロはそれが、まさに神の力ある御業であり、教会にはそれを宣べ伝える務めがあるということを語ったわけです。光であるイエスによって罪人を救い、主イエスのものとしてくださったのが、まさに神の力ある御業であるということであり、それを宣べ伝えるのが教会の務めであるということでしょう。とういうことで、この言葉は福音伝道を示す言葉だと思います。それでは説教の始めに語った話と、この話を合わせるとどうなるでしょうか。「第一、教会は神に礼拝するために呼び出された共同体である。 第二、神に呼び出された教会はイエス·キリストの福音を宣べ伝える共同体である。」のようにまとめることができると思います。 締め括り 神学校の科目の中に、組織神学という学問があります。キリスト教の信仰内容を現代の文脈に即して捉え直し、理解を深めて行く学問です。そして、その中には教会論という分野もあります。それだけにキリスト教は教会を大事なものとして扱っています。教会論の全体を話すと、おそらく何日もかかるかもしれませんので、今日はすべての話をすることができません。ただ、今日は教会という共同体が 如何なる経緯で存在するようになったのか、また何のために存在するのかについてお話しました。教会は神に礼拝する共同体です。つまり、神への愛を主日の礼拝において表し、その礼拝を始めにして、一週間の日常そのものを礼拝にしていくことで神への愛を再び表します。また、教会は教会の外の存在にキリストの愛と救いの福音を宣べ伝える存在です。「イエスを信じなさい。」という言葉だけを伝えるわけではなく、イエスに属した主のものとして、主の愛を私たちの生活の中で実践し、隣人にキリストの福音を伝えることです。ですから、教会は、この会堂を指すわけではなく、ここに集い、神と隣人を愛する私たち自身のことなのです。今日、私たちは人の価値基準と考えではなく、神への礼拝によって愛を示し、隣人への愛によって、主の福音を宣べ伝えるという、教会のアイデンティティに基づいて、総会に臨みたいと思います。今日の説教は短いですが、教会の存在理由と務めについて、顧みる機会となれば幸いです。主に礼拝する共同体、福音と愛をもって隣人に仕える共同体、志免教会が追い求めるべきあり方ではないでしょうか。そのような志免教会として歩んでいくことを心より祈り願います。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。

神の変わらない約束。

創世記46章1-7節 (旧83頁) ローマの信徒への手紙8章33-35節 (新285頁) 前置き ヤコブの最愛の息子ヨセフは、兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。しかし、神のお導きによって祝福され、あらゆる困難を乗り越えて、最終的にエジプトの総理になりました。また、彼は神からの知恵により、ひどい大飢饉を見抜き、あらかじめ徹底して備えました。彼が治めるエジプトは大飢饉でも、食糧を売ることが出来るほど、豊かになりました。そんなある日、皮肉なことに、そのひどい大飢饉によってヨセフは家族と再会することになります。食糧が底をついたヤコブの家族が穀物を買うためにエジプトに来たからです。神と長い間、歩んできたヨセフは、信仰によって兄たちへの恨みを振り払い、自分は兄たちに売られたわけではなく、イスラエルを救うために神に先立って遣わされたと告白しつつ彼らを赦しました。そして、父と家族全員をエジプトに呼び入れました。神はヤコブの家族の悲劇を用いられ、むしろヤコブの家族に生きる道を備えてくださったのです。近くから見ると悲劇だったことが、遠くから見ると恵みであったわけです。人知を超える神のお導きがヤコブの家族を大飢饉から救ったのです。 1.エジプトへ呼び入れ、しかし、先にベエル・シェバへ。 キリスト者は、主のお導きの恵みを信じて生きる存在です。今、自分の人生が、たとえ自分の予想とはまったく違うようになってしまっても、その中に主の御心が必ずあるということを信じ、主のお導きを待ち望んで生きるということです。そのお導きを待ち望むのが、まさに信仰なのです。時には、自分が乗り切れないほどの、悲しみと苦しみが襲ってくる場合もあります。そのような時、私たちは絶対に信仰を諦めてはなりません。神が必ず導いておられ、最も善い道を備えておられることを信じるべきです。私たちの人生のすべての経験が、結局、神のご計画によって最も善いものとして戻ってくると信じたいです。神のお導きの恵みへの信仰で生きていくことを願います。キリスト者の喜怒哀楽が一つになって、結局は神の祝福として戻ってくるということ、それがヨセフの物語から学ぶ大事な教訓ではないでしょうか。さて、すでに死んだはずの最愛の息子ヨセフが生きているという知らせを聞いたヤコブは驚きました。おそらく彼は夢を見ている気持ちだったでしょう。一日も早くエジプトに行って出世した息子との再会を願望していたはずです。 いや、ヤコブが出世できず、依然として奴隷だったとしても、ヤコブは一息にエジプトに駆けつけて、全財産を払ってでも息子を救おうとしたでしょう。それが父の愛だからです。なのに、その息子が大帝国の総理だなんて、信じられなかったでしょう。「イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。」(創世記46:1) しかし、ヤコブはすぐにエジプトへ足を運びませんでした。彼はまずベエル・シェバに着き、アブラハムとイサクの神にいけにえを捧げました。ベエル・シェバはアブラハムとイサクの信仰の場所でした。かつてアブラハムとイサクがそこで神の名を呼び、いけにえを捧げると、神は彼らに現れて言われました。ヤコブもエジプトに向かう前にいけにえを捧げ、神はヤコブにも現れて主の御言葉をくださいました。新約聖書マタイによる福音書6章33節でイエスはこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 神の国を求めるというのは、神の御心によって治められる神の国の国民として、神に従順に聞き従いなさいという意味であり、義を求めるというのは、キリストによって神の義をいただいた者として、民らしく生きなさいという意味です。そうすれば、神がご自分の民のすべてのことを導かれるということです。昔、かかとをつかむ者、すなわち、だます者というあだ名で呼ばれたヤコブでしたが、その人生の中に共におられた神は、ヤコブを信仰へと導き、生まれ変わらせてくださいました。若き日のヤコブだったら、おそらく権力者になった息子を通して、利益を得ようと神の御心とは関係なく、自分勝手に動いたでしょうが、一生の間、数多くの苦しみと思い煩いを信仰によって乗り越えてきたヤコブは、もはや、神の民としてのアイデンティティを身につけ、自分の思いではなく、神の御心を問うようになっていたのです。 「その夜、幻の中で神がイスラエルに、ヤコブ、ヤコブと呼びかけた。」(創世記46:2) キリスト者である私たちも、自分の思いのまま、動く前に神の御心とは何か、主に問うて生きべきなのです。自分の思いの前に神の御心を先に聞こうとすること、キリスト者の信仰生活の基本なのです。 2。 神がエジプト行きをお許しになった理由。 「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。」(創世記46:3) ここでしばらくエジプトについて考えてみたいと思います。創世記の説教の序盤、アブラハムについて取り上げた時、私たちはアブラハムが神の御心を問わずに、勝手にエジプトへ下った出来事について話しました。 当時、神はアブラハムのエジプト行きを喜ばれませんでした。また、出エジプト記でも、エジプトをイスラエルを迫害する絶対的な悪のように描いています。旧約聖書では、時々エジプトを「罪」の象徴として描く場合があります。なのに、なぜ神はヤコブの家族のエジプト行きを許されたでしょうか? ある神学者は、ヤコブの息子たちのカナンでの偶像信仰を根絶するために、神がヤコブ家をエジプトに行かしたとも言いました。しかし、エジプトも代表的な罪の象徴なので、説得力が弱いと思います。それで、私はこう解釈したいと思います。エジプトがたとえ「罪」を象徴する場所だったとしても、神にはその罪を圧倒する力があったからではないでしょうか。 たとえば、ある意味で、私たちは「世の中」という霊的なエジプトに住んでいる存在であるかもしれません。この世は罪に支配される汚された場所だからです。しかし、神はそのような世の中でも、イエス•キリストを通してご自分の民を選び、呼び出して、主の共同体である教会にしてくださいました。 主イエスの血によって清められ、神の民というアイデンティティを持って生きるようにしてくださったのです。世の中がいくら罪によって汚されたといっても、神は全くお気になさらず、この世にこられ、民を救ってくださったのです。神には罪に勝利する力があり、罪によって汚されない至高の神聖さがあるからです。神であるイエス•キリストが人になり、罪人の代わりに死に、復活されたのも、まさにこの罪に勝利する主の力のためではないでしょうか。神は罪の象徴として描かれるエジプトでも、ご自分の民を育てられ、御心によって呼び出すことが出来るお方です。いかなる罪にも妨げられず、私たちを清め守ってくださる神、私たちは、そのような偉大な神を信じているのです。 3。 変わらない神の約束。 「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創世記46:4) このように神は罪を象徴するエジプトでも、常にイスラエルと共におられ、時がくれば必ず連れ戻すと予言されました。実際、神はアブラハムにも、似たようなことを言われました。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14)、神がヤコブのエジプト行きをご自身で命じた理由は、アブラハムとの約束を成し遂げられるためでした。彼らがエジプトに行っても、神は必ず彼らを無事に戻すと約束されたからです。神にはそのような力があるからです。神の約束は絶対に変わりません。主の約束は必ず成就します。その約束は神の存在のように永遠に変わらないのです。 締め括り このアブラハムとヤコブへの神の約束は出エジプト記で一部成就します。そして、主の御言葉通りに、アブラハムとイサクとヤコブの子孫は空の星のように、海の砂のように繁盛します。また、新約時代になってはイエス•キリストを通じてもう一度その約束が完全に成就します。罪に支配される霊的なエジプトである、この世の中で、神はまるで出エジプト記のモーセのようなイエス•キリストを通して罪の支配下で、奴隷のようになった私たちを救ってくださいました。そして、乳と蜜の流れるカナンのような神の国の国民として私たちを召されたのです。私たちの教会は、その神の国の影のようなものです。今後とも、その神の約束は変わりません。これに対して使徒パウロはローマ書で、こう言いました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ書8:35) 神がアブラハムとイサクとヤコブになさった、いつまでも共におられるという約束は、イエス•キリストによって私たちにも適用されます。今日、ヤコブは罪を象徴するエジプトに入ります。私たちも罪が支配するこの世に生きています。しかし、主はその約束に基づいてヤコブとその子孫を守り、また、その霊的な子孫である私たちも守ってくださるでしょう。それを信じる私たち志免教会であることを祈り願います。

まことの信仰。

サムエル記上15章22節 (旧452頁) マルコによる福音書12章35-44節 (新87頁) 前置き 久しぶりにマルコによる福音書を説教することになりました。約1ヶ月半ぶりです。それで、説教を始める前に前回の説教について手短に触れてから、今日の本文に入りたいと思います。11章12章の本文の主な内容はユダヤの宗教指導者たちの挑発的な質問に対する主イエスのお答えでした。権威についての論争、ローマ皇帝に税金を払うべきかどうかについての論争、復活についての論争、最も重要な掟は何かについての質問など。当時のユダヤの宗教指導者たちがどれほど聖書と信仰を誤解していたのか、現実を赤裸々に明かす内容でした。今日の本文も、そのような宗教指導者の間違いを告発する内容です。今日の本文を通して、主は私たちに何を教えてくださるでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1.主の御言葉への理解 今日の本文に入る前に、まず知っておくべきことは、35から44節までの言葉が互いにつながっているということです。一見、ダビデとメシアについての話、律法学者の間違いへの糾弾、貧しいやもめの献金へのイエスの好評など、別々に分けられた関係のない話のように見えるかもしれませんが、それらは一つの主題のためにつながる話で、当時の宗教指導者たちの間違った信仰が、ユダヤ社会にどのような悪い影響を及ぼしたのかを示す、いわば告発なのです。11章で主イエスが十字架のためにエルサレムに到着し、一番最初になさったのは、ユダヤ社会の中心地である神殿への訪問でした。主が神殿に訪問された理由は、イエスの時代のユダヤが果たして神の御言葉に従順に従い、主の民らしく生きているのかをお確かめになるためでした。つまり、神殿はユダヤの信仰状態を現す象徴だったのです。しかし、皆さんもご存知のように当時の神殿は本来の機能を失い、まるで「強盗の巣」のように、宗教指導者の懐を満たす所になっていました。そういうわけで、主は神殿から商人たちを追い出されたのです。(マルコ11:15-17) 堕落した宗教指導者たちが治めるユダヤは、神の御言葉を正しく理解していませんでした。宗教指導者たちは熱心に宗教行為を行っていましたが、それは主の御心とは関係ない虚しい熱心でした。今日の本文35-37節も宗教指導者たちが、いかに旧約の言葉に無知だったのかを示す主の指摘だと言えます。 「どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまでと。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(マルコ12:35-37)当時のユダヤには「昔の人の言伝」と呼ばれる伝統が旧約聖書に次ぐほど、大事にされたと言われます。これは旧約聖書を解釈した「タルムード」の中で「ミシュナ」という解釈集であると推定されます。人による聖書の解釈が聖書と同じくらいに大事にされたということです。ところが、「ミシュナ」を現代神学の観点から見ると、とんでもないでたらめのような場合が多いです。例えば、「安息日に働いてはならないから、くぼみに落ちた隣人の牛を救ってはならない。」「妻が(隣の妻よりきれいでない、料理がおいしくない)気に入らなかったら離婚状を書いて離婚しろ。」といった、愚にも付かぬことが聖書くらいに大事にされたということです。ユダヤ人が、この「昔の人の言伝」を大事にすることによって生まれた最も大きな問題は、聖書を本来の意味と全く違うように理解してしまうことでした。というわけで、今日の本文に書いてあるように、ダビデの子、つまり、かつて隆盛したユダヤ王朝の子孫ということで、メシアをダビデ王を受け継ぐ政治的、あるいは世俗的な人物として認識する風潮がユダヤに広がっていたようです。 したがって、今日の本文を通して、当時のユダヤ社会がどれほど主の御言葉に無理解だったのかが分かります。「メシアはダビデ王の子孫なので、政治的な自由をもたらす軍事的な指導者として来るだろう。だから、ダビデの時、征服した昔のイスラエルを再建し、ローマ帝国から解放し、ユダヤ民族に富と力を与えるだろう。」と誤解していたわけです。聖書が語るメシアのあり方は、主の民を罪から救い、神と和解させ、全人類を束縛から解放する、使命を持っている救い主です。しかし、ユダヤの指導者たちは聖書への無理解で、メシアをダビデ王の子孫、ユダヤ民族だけのための救い主という、小さな箱の中に閉じ込めてしまったのです。35-37節はダビデのメシア詩である、詩篇110編の言葉を引用した言葉です。メシアの先祖であるダビデ王自らがメシアを主として崇めているのです。主がこのダビデの詩篇を引用してメシアがダビデ王より優れた存在だと教えてくださった理由は、ユダヤの宗教指導者たちから始まったメシアへの無理解を、御言葉に基づいて正されたものと思われます。現代の教会にも御言葉の本来の意味とは関係ない、人の価値基準が、御言葉の座を脅かしているかもしれません。教会の伝統という名目に落ち込まれて、御言葉と関係ない基準で教会を運営している場合があるかもしれません。御言葉の本来の意味を正しく学び、まともに従っているかどうか、常に御言葉を通して顧みるべきだと思います。 2.御言葉による正しい信仰のために。 私たちは以上の35-37節の理解をもとにして後に出てくる38-44節の言葉を理解しなければなりません。主は前の言葉を通してユダヤ社会、特に宗教指導者たちが御言葉に無理解であることを指摘されました。続いて、主は具体的な二つの出来事でそれを教えてくださいます。「イエスは教えの中でこう言われた。律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(38-40) 主はまず、最も代表的なユダヤの宗教指導者である律法学者について指摘されます。律法学者は文字通りに、旧約の律法、つまりモーセ五書を研究し、教える務めを持っています。彼らは聖書への優れた知識を備え、民に御言葉を正しく教えなければならない人々でした。しかし、誰よりも優れた信仰を持つべきだった彼らの生き方はどうだったでしょうか? 「長い衣」は宗教指導者が着ていた、普通の人には許されなかった高価な服だったと言われます。自分は他人とは違うと威張り、虚栄心が強かったと解釈できるでしょう。「歩き回る」は他の人々に注目され、特権層と付き合うためだったと解釈できるでしょう。「広場で挨拶されること、会堂で上席、宴会で上座」は宗教を利用して自らを高めることと解釈できるでしょう。 つまり、旧約聖書を研究する使命を持っていた、当時の宗教指導者たちが、民の魂には興味がなく、自分の名誉と富のために動いていたことを証言するのです。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」律法によると、寄留者、孤児、寡婦はユダヤ社会において積極的に守られるべき存在でした。律法学者は、それを民に教え、民が寄留者、孤児、寡婦を守る社会を作っていくように導かなければならない者だったのです。そんな彼らがやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをして、律法を悪用していたということです。これが当時のユダヤ社会の宗教指導者たちの現実だったのです。それらは正しい信仰のあり方ではありません。神の御言葉を間違って理解した程度ではなく、御言葉を悪用して神の民を貶める積極的な悪だったのです。次は寡婦についての主の御言葉です。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」(41-42) 時々、この本文を、「乏しい中から自分の持っている物のすべてを献金した寡婦の信仰」と説教する場合があります。この本文だけを別に置いて見たら、そのような解釈も問題ないかもしれません。しかし、文脈的に考えれば、この本文は献金についての教えではありません。 なぜ、貧しい寡婦が自分のすべてを持って、辛うじて献金が出来たのかを、私たちは考えてみる必要があります。ここでクァドランスとは、ローマ帝国の貨幣の最小単位で、現在でいうと「100円」程度の価値でした。レプトン銅貨はギリシャの貨幣だったと言われます。「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(43-44)つまり、どれだけ、ユダヤの社会がこの寡婦の世話をしていなかったのか、わずか100円だけが彼女のすべての所有だったのか、考えてみるべきです。人々は有り余りの中で宗教行為として神殿に献金しましたが、100円しかない寡婦のために何をしていたのでしょうか? ユダヤの律法学者たちは、神の御言葉を教え、ユダヤ社会が寡婦のために救済させなければならなかったにもかかわらず、むしろ彼らは寡婦のへの世話を教えるより、自分の名誉と富だけに気を遣い、彼らに指導されるべきだったユダヤの社会は無知によって堕落し、100円が全財産であった寡婦を傍観していたわけです。イエスは、彼女が乏しい中で献金をしたことをお褒めになったわけではなく、その困難の中でも主への信仰をあきらめなかった寡婦を慰められたわけではないでしょうか。 締め括り 皆さん、一体、まことの信仰とは何でしょうか? 教会に出席して、礼拝に参加し、説教を週一度聴くのが信仰なのでしょうか? 教会で行う徹底した宗教儀式が私たちの信仰なのでしょうか。真の信仰について私はこう言いたいと思います。「神の御言葉を正しく学び、それを信じ、聞き従い、実践して生きること。」旧約の預言者サムエルは、こう言いました。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22) 預言者ホセアはこう言いました。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:6) 間違った信仰の理解によって汚されたユダヤの社会、そして御言葉に背いた民たち。それらがまさにイエスの時代のユダヤの現実でした。私たちは今日の本文を通して自分自身を顧みる必要があると思います。私たちは御言葉を正しく学んでいるでしょうか? そのような意味として、今日の説教は皆さんより、牧師にさらに厳重な教訓ではないかと思います。志免教会が真の信仰の共同体であることを祈ります。主の御言葉を正しく学び、従順に聞き従い、実践しつつ生きていきたいと思います。主がユダヤの社会と宗教指導者たちに言われた警告の言葉を、今の私たちは自分自身に適用し、常に心に留めていくべきだと思います。主なる神のお導きを求めます。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

神が先にお遣わしになった。

創世記45章3-13節 (旧81頁) ローマの信徒への手紙8章28節 (新285頁) 前置き 前回の説教は、約1ヶ月半前でしたので、復習としてヨセフの人生をもう一度話し、今日の本文に入りたいと思います。主はヨセフの幼い頃から、神の啓示の夢を見せてくださいました。それはヨセフが父親にも、兄弟にもひれ伏される偉大な人物になる夢でした。しかし、まだ物心のついていないヨセフは、父親と兄弟を配慮せずにその夢を話し、彼らの怒りを買ってしまいました。結局、ヨセフは兄たちに裏切られ、エジプトの奴隷として売られることになりました。エジプトに運ばれたヨセフは、長年、奴隷として暮らし、濡れ衣で投獄されました。しかし、そのような辛い状況の中でも、聖書は神がヨセフと共におられたと述べています。ヨセフは自分に迫った不幸の中でも、自分と共におられる神への信仰を育てていきました。そして、彼は最終的に神の絶対的な導きによって、エジプトの総理になりました。毎日が苦しみと悔しさの連続だったかもしれませんが、それでも、ヨセフは自分と共におられる神に信頼し、神はご自分のみ旨に最も適う時に、昔、ヨセフにくださった啓示の夢のように、彼を偉大な人物にしてくださいました。ヨセフの人生の苦難は彼を成長させる、主なる神の恵みの道具だったのです。 1.総理になったヨセフ、しかし創世記が終わらない理由。 前回の説教で、ヨセフはエジプト帝国の総理になり、家族ができ、ファラオと民に愛される偉い存在になりました。人間の基準では、この上ないハッピーエンドではないでしょうか。しかし、創世記はまだ終わっていません。ヨセフの人生がこんなにうまくいくことになったのに、なぜ創世記は終わらないのでしょうか? まず、創世記37章2節を読んでみましょう。「ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。」聖書は「ヤコブの家族の由来(系図)は次のとおりである。」と語ったのに、その次の内容は「ヨセフは17歳…」でした。ヤコブの物語が急にヨセフの物語に変わります。旧約聖書で系図と言えば「誰が誰をもうけた。」というのが普通ですが、ここでは由来(系図)と言ってから、すぐにヨセフの話しを始めているのです。今まで私たちが話してきたヨセフの物語は、実はヨセフ一人の生涯ではありません。長いヨセフの人生の物語を通して、以後ヤコブの人生がどうなるかを話すための土台だったのです。つまり、ヨセフの物語はヤコブの物語の一部であり、その物語の結論はヤコブの家族(イスラエル)が飢饉を避けてエジプトに入ることで終わります。そういうわけで、創世記はヨセフの立身出世で終わりません。ヨセフの物語の本当の主人公は、ヨセフの父ヤコブ(イスラエル)だったからです。 2.創世記42、43、44章のあらすじ。 したがって、今日の説教はヨセフの物語からヤコブの物語に創世記の流れが移る重要な岐路です。前回の本文は41章でしたが、今日の本文は創世記45章です。42-44章の本文は45章のための長い背景作りの物語ですので、詳しい説教は省略します。けれども、42-44章の重要なあらすじだけは手短に話してみたいと思います。「ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。」(創世記41:54、57)創世記41章で総理になったヨセフは、神からの知恵によって、大飢饉を徹底して備えました。その結果、エジプトには他国の人たちにも販売できるほどの食料が十分にあったのです。「ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに…エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。…と言った。…そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。」(創世記42:1-4一部)ヤコブはエジプトの食糧の噂を聞き、息子たちにエジプトの食糧を買ってこいと指示しました。しかし、末息子のベニャミンだけは送りませんでした。ベニャミンもヨセフのように害を受けるか恐れたからです。 「ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した」(創世記42:6)ヨセフの兄弟たちがエジプトに来て穀物を買うために総理ヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフは彼らが自分の兄弟であることを一目でわかりましたが、兄弟たちはヤコブに気づきませんでした。ヨセフは彼らに、家族事項などを詳しく問い、弟が一緒に来ていないことに気づきました。そして、ヨセフは彼らをそのまま送らず、回し者だと追い詰めるふりをして、兄弟の中一人を人質に取り、彼が自由になるためには末の弟を連れて来なければならないと脅しをかけました。しかし、それは自分の家族をエジプトに連れてくるためのヨセフの計略でした。ヨセフの兄弟たちは総理の正体が分からなかったので、すごく戸惑って互いに、昔、弟ヨセフを苦しめたことへの報いだと嘆きました。その話を盗み聞きした総理ヨセフは心が痛くなり、遠ざかって泣きました。結局、シメオンが人質に取られ、他の兄弟は送り返されました。 しかし、ヨセフは彼らの穀物袋に穀物の値段を戻しました。 帰り道で、これを見つけた兄弟たちは恐怖に震えました。そしてヤコブに戻ってエジプトでの出来事を詳しく告げました。末っ子のベニャミンを連れてくるようにという総理の話を伝えた時、ヤコブは絶望して絶対に送れないと言いました。 「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」(創世記43:9) すると、ユダは自分の命をかけて弟を守ると誓い、父親を安心させました。多くの学者が、このユダの行動を、以後彼の子孫から出られる、民のために命をかけられたキリストのモデルだと見なしています。「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」(創世記43:14) それに対してヤコブは神の御心を信じ、ベニヤミンを送ることを決心します。ベニヤミンを連れてヨセフのところに戻った兄弟たちは、懸念していたのとは違って、手厚いもてなしを受けました。人質だったシメオンも自由になったのです。ヨセフは弟のベニヤミンへの弟懐かしさで急いで席を外し、泣きました。後、ヨセフは兄弟たちと食事をしながら楽しい時間を過ごしました。しかし、兄弟たちは、まだまだ、ヨセフに全く気づいていませんでした。時間が経ち、兄弟たちが帰る時になると、ヨセフは彼らをそのまま送ることができず、こっそりとベニヤミンの穀物の袋に銀の杯と銀を入れておき、彼らに泥棒扱いをし、逮捕しました。兄弟たちは故郷で父親のヤコブが待っており、ベニヤミンを連れて行かなければ、父親が死んでしまうかもしれないと嘆願しながら44章も終わります。 3。神が先にお遣わしになった。 「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」(創世記43:33-34)、もう一度ユダは父との約束のために、自分の命をかけて弟を守ろうとします。そして父親への心をヨセフに打ち明けます。ここでも私たちはユダの行動を通じて、御父の御心を成し遂げるためにご自分の命を捧げ、民を救おうとなさったキリストのモデルをもう一度見つけることができます。イエスがユダの子孫として来られた理由を、この言葉でわかるような気がします。「ヨセフは、…もはや平静を装っていることができなくなり…兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。」(創世記45:1-2一部) ユダの嘆願を聞いていたヨセフは結局、自分の心を抑えられず、号泣することになりました。そして、ついに自分の正体を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」(創世記45:3)兄弟たちはエジプトの総理が自分たちに売られた弟ヨセフであることを知り、衝撃を受けたに違いありません。しかし、ヨセフの次の一言によって、彼らは救われたでしょう。 「…わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。…神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。…」(創世記45:5-8) 過去の人生、苦しみと悲しさの中に生きてきたはずのヨセフは、神への信仰によって、そのすべての恨を振り払い、むしろ、その苦難の年月が父と家族を救うための神のご恩寵であったことを告白しました。その後、兄弟たちと和解した彼はファラオにすべてを告げました。すると、ファラオは大喜びし、素晴らしい馬車を送り、ヤコブとその家族全員をエジプトに呼び入れました。それによってヤコブの家族、つまりイスラエルは神の恵みのもとで大飢饉から抜け出し、エジプトに入ることになったのです。今日の説教は説教というより聖書の物語だったかもしれません。しかし、その結論は説教以上に明確です。「神がご自分の民の命を救われるために、一人を先にお遣わしになった。」ということです。そして、それはお独りの救い主、イエス・キリストのことを思い起こさせます。もしヨセフが信仰者でなかったら、その兄弟たちはヨセフの報復によって、ひどい目にあい、ヤコブも悲しさの中で死んでしまったかもしれません。しかし、神の摂理と導きを信じたヨセフは復讐の心を愛の心に変え、赦し、むしろ命の道を作り出しました。イエス·キリストの罪人を赦し、愛してくださった姿が今日のヨセフの姿を通じて重なって見えてきます。 締め括り 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:28) 今までヨセフは耐え難い苦難の年月を生きてきました。幼い頃、自分の分別のない行動への兄たちの報いは苛酷であり、エジプトでの経験は大きな傷だったでしょう。しかし、真の信仰を持ったヨセフは、そのすべてを神のご計画であり、ご恩寵だったと告白しました。兄弟を赦したことは言うまでもありません。ヨセフは信仰者の全生涯においての喜怒哀楽が、結局は一つになって神の恵みになることを信じたのです。ヨセフが苦難を経験している間、兄弟たちも変わりました。特に、兄弟の中で最もずるがしこいユダは、自分の命をかけて兄弟を助けようとする信仰者になっていました。あまりにも苦しくて惨めだった経験が、神のご計画を成し遂げる養分となったのです。その結果、ヤコブの家族は飢饉を乗り越え、さらにイスラエルという民族を打ち立てることになったのです。これがまさに信仰の結果ではないでしょうか。今の私たちの状況に絶望してあきらめてしまうと、奇跡は起こりません。神が私たちの裏で、万事が益となるように導いておられるということを信じ任せること、その結果は私たちが思いがけなかった大きな喜びと感謝として戻ってくるしょう。すべては主の御心とお導きのもとにあります。ヨセフのようにそれを信じ、神に信頼して生きる私たち、志免教会であるを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

キリストにおいて一つとなる。

申命記7章6-8節 (旧292頁) エフェソの信徒への手紙2章11-22節 (新354頁) 前置き 2023年が明けました。2022年にも、志免教会を守ってくださった神に感謝します。一年間、志免教会に仕えてくださった兄弟姉妹の皆さんにも感謝いたします。今年も主の恵みと平和と愛の志免教会であることを祈ります。今年の中心聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)です。この言葉はキリストの教会のあり方についての代表的な言葉です。今日は新年を迎え、教会という存在について、そして教会を成すキリスト者のあり方について話してみたいと思います。 1.神がご自分の民をお選びになった理由。 今日の旧約の本文は、出エジプト以後40年間、荒野をさまよっていたイスラエルの民が、長い旅を終え、カナンに入る直前、イスラエルの指導者であるモーセを通して語られた神の御言葉です。そして、この言葉は旧約の民だけでなく、現在を生きる新約の民にも適用できる言葉でもあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7:6) 主の民(旧約のイスラエル、新約の教会)は主ご自身に選ばれた宝物のような存在です。主の教会である私たちは、それぞれ生まれは違いますが、この志免教会に集まってキリストにおいて一つとなった主の大切な民です。それぞれ異なる背景と人生を経てきましたが、主の時に呼び出され、今は主の教会の一員となった主のものなのです。しかし、主は偶然私たちを選ばれたわけではありません。主は、生まれる前から私たちを知っておられ、私たちの喜怒哀楽の中に共におられ、ここ志免教会に導かれ、一つにしてくださったのです。したがって、私たちは自分の意志によって神の民となった存在ではありません。主なる神が主権的にキリストの福音を聴かせ、信じさせ、聖霊によって信仰を与え、主のご意志に従って、私たちをご自分の民、志免教会にしてくださったのです。 それでは、主はなぜ私たちを選んでくださったのでしょうか? 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:7) 主は私たちが偉い存在だから、選ばれたわけではありません。むしろ、歴史上、主の民、つまり教会は貧弱な場合がもっと多かったのです。主は私たちを強弱に従って選ばれたわけではありません。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し…救い出されたのである。」(申命記7:8) 主は誰かとの約束を守るために私たちをお選びになったのです。旧約のイスラエルは先祖であるアブラハムとイサクとヤコブとの契約を、新約の教会は救い主イエスとの契約を守るためにお選びになったのです。神は主イエスを信じる者を必ず救ってくださるとの契約によって、罪人を愛し、ご自分の民とし、宝物のような大切な存在としてお選びくださったのです。 2。 教会のアイデンティティ。 それが私たち、志免教会のアイデンティティです。 私たちはこの日本で誰よりも弱い存在であるかもしれませんが、誰よりも偉大な神に愛される共同体です。キリストが十字架でご自分の命をかけて、私たちを救い、主の教会として呼び出してくださいました。父なる神は最愛の独り子の命を身代金とし、私たちをご自分の所有とされました。ですから、神は御子イエスの教会を、御子のように愛しておられます。これが教会のアイデンティティなのです。教会は親睦団体でも、営利団体でも、欲望を実現するための団体でもありません。教会はご自分の血潮によって主ご自身が選ばれたキリストの体です。神はキリストを教会の頭にし、教会はキリストを頭として一つになった主の民の集まりなのです。今日の新約の本文を読んでみましょう。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々(ユダヤ人)からは、割礼のない者と呼ばれていました。」(エフェソ2:11-12) 私たちは皆、もともと神と何の関係もない異邦人でした。クリスチャンホーム出身といっても、結局ユダヤ人ではないので、その根本は異邦人です。旧約のユダヤ人は、異邦人を地獄の炎の焚き物と扱っていました。異邦人はいつ滅びても構わない見捨てられた存在だったのです。 しかし、神はその異邦人さえもキリストの御救いによって、ご自分の民と受け入れてくださいました。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:13-14) 神はキリストの血によってユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り壊してくださいました。イエスの中ですべての人種と民族と国の違いが意味を失いました。キリストの中にいるなら、誰でも神の民になり、神の子供になるからです。志免教会には日本人、外国人の区別がありません。ただキリスト者がいるだけです。言葉、文化、思想が多少違っても構いません。キリストだけが自分の主であり、自分はキリストの民であり、神の聖なる民であることを信じるなら、私たちは一つなのです。主が私たちの和平であるからです。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:16) また、キリストの十字架の恵みによって、私たちは神と和解しました。私たちは神の御前で罪人としての重荷から自由になったのです。これらすべてがキリストが教会の頭になってくださった恵みによるものです。 3.教会を考える。 以上の旧約と新約の言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、神はキリストとの契約によって、私たちを愛し、呼び出され、主の民、志免教会にしてくださいました。二つ、神はキリストを志免教会の頭としてくださり、私たちと和解し、平和を与え、私たちをキリストの体と呼び、一つにしてくださいました。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」(エフェソ2:19) だから、エフェソの信徒への手紙は、私たちが外国人でも、寄留者でもない、神の国の民であり、神の家族だと証言しているのです。それでは、主の教会として召された私たちは、どのような心構えで生きるべきでしょうか。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エヴェソ2:20-22)、私たちは使徒たちと預言者たちという土台、すなわち主の御言葉の上に建てられた存在です。私たちは主の御言葉を私たちの基準にして生きなければなりません。自分の考えや思想ではなく、主の御言葉が指し示す方向に進まなければなりません。主の御言葉を謙遜にいただき、それを私たちの羅針盤として生きていかなければなりません。 また、私たちは主を教会のかなめ石として生きるべきです。つまり、教会の頭であるキリストの御心に従って生きるべきです。主の御心は世の中の常識とは全く違います。この地上で主がどのように生きられたか、主が何を追い求められたか、私たちは常に主のみ言葉によって、主の御心に耳を傾けて生きるべきです。かなめ石は、一つの建物が倒れないようにする支えの石です。どのようなかなめ石かによって、その建物の価値が変わるのです。つまり、かなめ石は基礎なのです。教会のかなめ石であるイエスは神への愛と隣人への愛という最も基礎的な生き方を私たちに教えてくださいました。教会もまた、そのような最も基礎的なキリストの教えに従って生きる義務を持っています。教会は主の体だからです。私たちは個人の思想、個人の意思、個人のやり方ではなく、主の御望みを追い求め、主の御心をわきまえつつ、教会を健全に建てていく義務を持っています。最も低いところに来られたイエスのように最も低いところを追求し、お互いに愛しあいなさいとおっしゃったように愛し合って生きるべきです。そのような主の御心の中で、教会の一人一人がお互いに赦しあい、愛しあい、助けあいながら生きていくべきです。ヨハネによる福音書で主は言われました。「イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハネ2:19,21) 私たちはかなめ石イエスの御救いによって真の神殿となった共同体です。一緒に組み合わされていく存在です。主の教会はキリスト・イエスにおいて一つとなり、一緒に建てられていく、新約時代の神殿そのものだからです。 締め括り 今年は教会とは何かについて深く学んでいきたいと思います。教会はこの世にありますが、この世とは区別された存在です。私たちの思いではなく、主の御心によって建てられていくべき存在です。それこそが健全な教会のあり方なのです。この一年、志免教会の主であるキリストを、そして、キリストが私たちに求めておられることとは何かについて深く考えつつ生きていきたいと思います。主の言葉を常に身近に置き、祈りの生活を続けていきましょう。神と隣人を愛して過ごしましょう。どんな困難があっても、ひとえに主イエスだけを頼りにして生きていきましょう。私たちが誰なのかを主の言葉によって自覚して生きていきましょう。2023年は教会について深く悟り、志免教会という主の体に、どのように仕えていくべきだろうかと思いながら生きたいと思います。これからの一年、主なる神が志免教会に豊かな祝福を与えてくださることを祈り願います。父と子と聖霊によって。アーメン。