ヨセフがエジプトの総理になる。

創世記41章32~44節 (旧72頁) ルカによる福音書9章23節 (新112頁) 前置き ヨセフは父親の愛を独り占めした大事な息子でした。神もヨセフに幼い頃から啓示の夢を見せてくださるなど、特別な人に成長させられるように見えました。しかし、神はある日突然、彼に不幸を許されました。ヨセフは身内の兄弟たちによってエジプトに売られ、10年以上奴隷生活をし、最後は無実に投獄され、囚人になってしまいました。大事な息子だったヨセフは、最も低くむさ苦しいところで卑しい人生を生きなければなりませんでした。しかし、ヨセフの不幸には理由がありました。神はこのヨセフを最も低いところで苦労させ、人の常識を超える方法によって彼を訓練させられたのです。年寄り子で物心もついていなかったヨセフは「苦難」という神の訓練を受け、立派な信仰の人物となり、謙遜を身につけるようになりました。信仰と謙遜の人物となったヨセフは、もはや自分ではなく神だけを高めつつ生きる真の信仰者になっていました。そして彼が神の御前に完全にひれ伏すようになった時、神はヨセフを、最も高い地位にまで引き上げてくださいました。今までのヨセフの苦難と経験は、彼が誰よりも聡明で知恵のある大帝国の総理になり、ものすごくひどい飢饉の中から大勢の命を救うようにする養分になったのです。ヨセフ一人の苦難が、大勢の命の救う結果となったということです。 1.主おひとりだけが、この世の真の統治者である。 長い間、苦難という訓練の人生を生きてきたヨセフは、もうこれ以上、幼い頃のように偉そうにする未熟な人物ではありませんでした。「ファラオはヨセフに言った。『わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。』ヨセフはファラオに答えた。『わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。』」(創世記41:15-16) ファラオがヨセフを煽てたが、ヨセフは威張らずに、まず、主なる神のことから語りはじめました。ヨセフは神の訓練によって、自己中心的な人間から神中心的な人間に変わったのです。以後、今日の本文で読まなかった17節から24節を通してファラオはヨセフに自分の2つの夢について話します。その内容は「醜くやせた雌牛が、肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。」「実の入っていない穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。」でした。それに対し、25節から32節を通してヨセフはその二つの夢の意味についてファラオに解き明かしました。その内容は「7年間の大豊作の後、7年間の大飢饉が訪れ、エジプトが滅びることになる。夢を二度も重ねて見たのは、主なる神が既に決定しておられるからだ。」でした。古代エジプトの皇帝ファラオは「大きな家」という意味の名称でした。古代人はおそらくファラオがエジプトの神々が宿る特別な存在だと信じていたでしょう。 つまり、ファラオは神の代理者であり、神と同等の現人神として崇められたということです。エジプトでファラオは全知全能の神のような存在だったのです。今日の本文でもそのような表現が見つかります。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。」(創世記41:44) このように皇帝を神のように扱う模様は古代の帝国ではよくあることでした。古代人にとって王や皇帝は普通の人間ではなく、とても特別な存在だったのです。古代だけでなく19、20世紀の日本でも天皇を現人神と呼んだのですから、人間の世界で王や皇帝を神のように崇めることは珍しくないと思います。ところで、その全知全能の現人神であるファラオが、高が自分の悪夢一つも解釈できず不安に怯えていたのです。そして、その夢は小さな遊牧民族であるイスラエルの神から与えられたものであり、権力者でもない一介の奴隷囚人であるヨセフが神の知恵をいただいて解釈してしまったのです。私たちはこれを通じて、大帝国の皇帝のような権力者も結局、主の支配から自由ではなく、ひとえに主の御心によってのみ、真の救いを得ることができるという創世記の思想をかいま見ることができます。創世記から黙示録まで、聖書は常に私たちに力強く語っています。「真の王はただ主なる神だけだ。」「世の中のすべてのものは神のご統治の下にある。」私たちは主だけがこの世の真の主であることを忘れてはなりません。 2.聡明で知恵のある者を遣わしてくださる主。 「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、」(創世記41:33) ファラオの難解な夢を解き明かしたヨセフはファラオに忠言をしました。聡明で知恵のある人物を登用し、今後の状況を切り開いていく必要があるとのことでした。ここで聡明と知恵について考えてみたいと思います。聡明はヘブライ語の「ビナ」という表現です。「考慮、識別、知識、理屈、注意」などの意味を持っています。知恵は「ホクマー」という表現で、言葉通りに「知恵、または賢明」を意味します。つまり、聡明で知恵のある人物とは、どちらが正しいのかを分別し、常に注意し、賢く自分に託されたことをやり遂げる人という意味です。しかし、世の中には神の民でなくても、分別があり、賢い人が数え切れないほど多いです。間違いなくファラオの魔術師たちも「聡明で知恵」のある人々だったでしょう。それでも、ヨセフは「聡明で知恵のある人物」を言いました。つまり、この「聡明で知恵のある」という表現には、一般的な意味とはひと味違う意味が含まれているということです。そして、私たちは次の言葉から真の「聡明で知恵のある人物」が、どのような意味なのかが分かります。「ファラオは家来たちに、『このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか』と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。『神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。』」(41:38-39) おそらく、ファラオが言った神の霊は「イスラエルの神の聖霊」を意味するものではないでしょう。彼は私たちが信じる神の存在もあり方も知らなかったからです。しかし、ファラオは知らないうちに神の存在について語ったのです。彼の言葉どおり「聡明で知恵のある人」は、まさに「神の霊が宿っている人」つまり、「聖霊なる神に導かれて生きる人」なのです。「その上に主の霊がとどまる。知恵(ホクマー)と識別(ビナ)の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」(イザヤ11:2)そしてこれは神が遣わされるメシアを意味する表現でもあります。つまり、ヨセフは神に遣わされた「メシア」の旧約のモデルなのです。もちろん、ヨセフは真のメシアではありません。ただ、神の御子「イエス·キリスト」だけが真のメシアなのです。しかし、ヨセフは少なくとも、創世記に限っては神の約束である「アブラハムは祝福の源になる。」という神の契約を成し遂げたメシアのような存在でした。この世の悪が勝手に流れていくように見えても、すぐに世が滅びそうに見えても、神は主のメシア、聡明と知恵と聖霊に満ちたキリストを遣わして、この世を常に見守り、今もキリストの聖霊によってご統治なさる方なのです。また、必ず私たち一人一人の人生にもキリストを遣わしてくださる方です。いや、私たちはすでにキリストに出会い、導かれて生きる人なのです。神のメシア主イエス·キリストは、私たちの人生に常に一緒におられ、真の命の道を教えてくださる方です。 3。キリスト者の苦難は祝福の準備段階。 「ファラオはヨセフに向かって『見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、『アブレク(敬礼)』と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。『わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。』」(創世記41:41-44) ヨセフはついに大帝国エジプトの総理になりました。印章の指輪と第二の車をもらったということは、皇帝のほかに、誰もヨセフをぞんざいに扱うことが出来ないほどの権力者になったという意味です。まるで、神であるキリストが人となられ、人間の弱さと苦しみと悲しみを全て経験し、最後には十字架で壮絶に亡くなられた後、復活して世界中を支配する真の王になられたような驚くべき変化でした。だから、聖書学者たちはヨセフが旧約に登場する「キリストのモデル」であると話しているというわけです。しかし、私たちは忘れてはなりません。ヨセフが何もせず、たまたま高い者となったのではないということです。10年以上最も低く苦しんで生きてきたヨセフは、それでも、苦難の中で神への信仰を諦めず、神だけを頼りとしました。そして、その信仰が実を結ぶ時に、彼は大帝国の総理になったのです。ヨセフが栄光を得る前に、苦難の時を過ごし、主にあって乗り越えてきたということを、私たちは絶対に覚えておくべきです。 説教を始めるとき、私はこう言いました。「しかし、神はある日突然、ヨセフに不幸を許されました。」この言葉は本当に恐ろしい言葉です。人間には、宗教を通して幸いだけを願う傾向があると思います。幸せになるために、慰められるために、平安を得るために、つまり自分の満足のために宗教を持とうとするのです。それが悪いとは言えません。それは本能だからです。しかし、私たちの主はそういう満足のための信仰の対象ではありません。自分の満足のためではなく、神の御心に聞き従って生きるために私たちは主を信じているのです。主イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23) 主を信じる者には、十字架が伴います。主イエスが公に言われたのです。自分の十字架とは、神への信仰を守るために遭う苦難のことです。骨身を削る痛さです。笑えず、喜べず、安らぎもなく、幸せでもない道です。人生最悪の不幸が訪れるかもしれません。同じ苦難がニ度、三度も来るかもしれません。信仰をやめたい状況が来るかもしれません。しかし、その苦難が自分に与えられた「十字架」であると信じ、絶えず神だけに頼り、いかなる苦難に遭っても神に信頼し、涙の中でも主だけを愛していく時に、主なる神は苦難を乗り切った民を復活されたキリストのように、総理となったヨセフのように高く持ち上げてくださるでしょう。苦難のない栄光はありません。 締め括り 今日は三つの点について説教しました。一つ目、神だけがこの世の真の支配者であり、主はご自分の民を通してお働きになる方。二つ目、神は聡明と知恵のある人であるイエス·キリストを通して、ご自分の御業を成し遂げていかれる方。三つ目、苦難なしには祝福もない。神は苦難を通してご自分の民を成長させ、最終的に必ず祝福してくださる方。神を信じるというのは本当に難しいことです。自分が自分の人生の主人ではなく、神が自分の人生の主人であることを認めるのが信仰の基礎です。主による人生なので、自分の思い通りに生きることはできないからです。ある意味で神を信じるということは損であるかもしれません。しかし、主なる神は必ず、主がご統治なさる、この世で私たちと共に歩んでくださるでしょう。私たちに苦難が迫ってきても、主は聡明と知恵に満ちたキリストを通して、私たちを導き、勝利するように助けてくださるでしょう。ただ神おひとりだけに信頼し、今週も生きていくことを願います。神の祝福が志免教会に連なる兄弟姉妹の上に豊に注がれますように。 父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

生きている者の神。

創世記41章37~57節 (旧72頁) ヨハネの黙示録11章15節 (新465頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教で、主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。主のこのお答えは一見「この世とも、宗教とも、妥協して生きなさい」という中途半端な言葉のように感じられるかもしれません。しかし、実際、この言葉の本当の意味は「やむを得ず、この世の王に支配される現実にいても、しかし、あなたたちは真の王である神を追い求めて生きなさい。」でした。私たちは自分の信仰とは全く異なる世の中を生きています。しかし、私たちは自分自身が神に属している存在であることを忘れてはなりません。たとえ、この世に生きているといっても、私たちは神の所有です。私たちの一歩一歩が神のご統治の中にあるということを憶え、キリスト者らしさとは何かを自ら問いつつ生きる志免教会であることを望みます。 1.復活を信じない世。 今日の本文には、イエスのところにサドカイ派の人々が訪問する場面が出てきます。サドカイ派とは、ギリシャ語「サッドゥカイオス」をカタカナで表現したものですが、その語源はヘブライ語の「ツァドク(義)」です。ところで、ツァドクは義という意味ですが、ダビデの時代の祭司長の名前(サムエル記下8章)でもあります。ということで、サドカイ派は、その祭司長「ツァドク」の子孫祭司たちか、ツァドク家に追従する集団だった可能性が高いです。その起源が何であれ、彼らは名称の語源「義」とは違って、神殿を掌握した変質した集団でした。サドカイ派の人々は旧約聖書の中でも、もっぱらモーセ五書だけを聖書と認め、聖書の奥義を無視し、ただ文字的にだけ理解しようとしました。これは今日の本文とも関わりがあります。モーセ五書には「人が生き返る。」という復活の概念が記録されていませんが、おそらく、そのような理由からサドカイ派の人々は復活を信じなかったのでしょう。(旧約聖書には猫や猿の記録もありません。だからといって、この世に猫と猿がいないと言えないでしょう?) しかし、もしかしたら、モーセ五書に復活がないとのことで、復活を信じないというのは言い訳ではないでしょうか。サドカイ派の人々は非常に政治的で、世俗的で、現実的な集団だったと言われます。彼らはイスラエルの神殿を占め、宗教税の徴収を独占し、世俗的な政治権力への関心も多かったと言われます。もし、彼らが復活を信じる信仰的な存在として生きようとするなら、彼らはすべての既得権を諦めなければならなかったかもしれません。 もしかしたら、彼らは「復活を信じない。」ではなく、「復活を信じることを拒む。」だったのかもしれません。復活の精神を信じれば、自分たちの不浄な富と名誉を捨てなければならないからでしょう。今日、サドカイ派の人々がイエスのところに来て、「7人の兄弟と1人の兄嫁」が復活の時にどのようになるのかと質問したのは、基本的に復活を信じないという自分たちの思いを前提にして、イエスの復活観を嘲弄するための意地悪な挑発でした。「イエス、あなたは死者の復活を主張している。ならば、こういう場合にはどうなる?」という歪んだ心で、とんでもない質問をしたわけです。私たちは、このサドカイ派の人々の物語を通じて、信仰のない宗教人が、どこまで変質してしまうのかを知ることができます。キリスト教の復活が持つ概念は、ただ単純に「死んだ者が肉体的に生き返る。」という文字的な意味だけではありません。聖書が語る復活は基本的に「罪によって堕落した人が、神の救いによって新たにされる。」という意味を持っています。もちろん、私たちは死者の肉体的な復活という聖書の教義も信じています。しかし、聖書でいう生まれ変わり、つまり以前とは異なる、神がくださった新しい価値観によって生きる人生も復活の一側面でもあります。そのため、イエスを信じ、救われて神と隣人を愛することを誓った私たちも、すでに復活した存在であると言えるでしょう。しかし、この世の常識は復活なんてないから、ただ自分自身だけのために生きなさいと語っています。まるで、サドカイ派の人々のように、ただ、この地上での自分の安楽だけを追い求め、復活を否定して生きることを訴えているのです。 2.生きている者の神。 このように復活を信じないサドカイ派の人々に、イエスは復活の真の意味について語られました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」(マルコ12:24) サドカイ派の人々は祭司の集団です。当然、モーセ五書に限っては、詳しく知っているはずです。しかし、主は彼らが聖書をよく知らないと指摘されました。聖書に含まれている真の意味は無視し、ただ文字的な内容だけに捉われて聖書の教えを誤解していたからです。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(25)「めとったり、嫁いだりする。」という表現は、当時ユダヤの慣用句で、世の中に非常に執着する様を意味する言葉だったと言われます。(結婚自体を否定する意味ではない。) そういうわけで、主は他の福音書で次のように語られたのです。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」(ルカ17:27) つまり「めとったり、嫁いだりする。」という表現は、まるで、サドカイ派の人々のように神の救いと復活には無関心で、ひたすらこの地上のものだけに目を注いで生きるという意味として理解できるでしょう。しかし、復活した者はそういう地上の価値観から完全に自由になることを意味します。主イエスが再臨なさる日、私たちは真の復活を経験するでしょう。その日、私たちは、この地上での辛さと束縛と価値観から自由になり、創造の時に神にいただいた、最も健康で美しく、望ましい姿で主なる神の御前に立つことになるでしょう。 復活の時、私たちはまるで天使のように、いや天使よりも優れた存在として、罪もなく、死もなく、呪いもなく、神の傍らで至福を享受することになるでしょう。世俗的なサドカイ派の人々は、神が与えてくださる復活と御救いさえも自分たちのレベルに合わせて、世俗的に理解していたのです。その後、主はサドカイ派の人々たちを指摘され、彼らが最も自信を持っているモーセ五書の出エジプト記の言葉を取り上げて言われました。「死者が復活することについては、モーセの書の柴の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(26-27) 神は命を与えてくださる方です。創造の時にすべての被造物に命を与え、冬が終わり春が始まるたびに命を与えてくださいます。皆さんと私が生まれた時も命をくださいました。主なる神はすべての命の源です。そして、主はご自分によって救われた民の命をも永遠に保たせてくださる方です。したがって、主の民においては体は死んでも、その魂は常に主と共に生きているのです。そして、イエスが再臨なさる最後の日に、ホコリのように腐って無くなってしまった私たちの肉体が新しく復活し、神と共にいる魂と再び合わせられ、完全な復活を成し遂げることになるでしょう。だからキリスト者は死んでも生きている存在なのです。 主はあえて千年以上の前に亡くなったアブラハムとイサクとヤコブを言及されました。そして、彼らは生きている存在だと言われ、神の民は死んでも生きている者であることを教えてくださったのです。イエスを主と崇める私たちキリスト者は、この世に住んではいますが、この世に属していない聖別された存在です。この世に属する者であるなら、死ねばすべてが終わるかもしれませんが、キリスト者にとって死は終わりではなく、新しい始まり、永遠の命の始まりなのです。まるで母親の胎内で10ヶ月を過ごした赤ちゃんが、外の世界に何があるのか分からないことと同じように、私たちは死後に何があるのか分かりません。しかし、聖書は明らかに命の主が私たちを待っておられることを証言しています。この命の主は、先に話しましたように、イエスが再臨なさる日、最も完全な復活を私たちに与えてくださるでしょう。私たちはそれを待ち望みつつ生きる存在です。ですから、この地上の世俗的な価値観に心を奪われないようにしましょう。必要だけの富と名誉に満足し、それを用いて神と隣人に仕えながら生きていきましょう。 一日が千年のようで、千年が一日のような神の時間観念の前で、私たちは百年も生き延びられない小さな存在です。したがって、サドカイ派の人々のようにこの地上に束縛されて生きるのではなく、永遠の命の主の懐を待ち望んで生きていくことを願います。 3.すべての呪いを退けられる命の主。 ここで一つ話したいことがあります。それでは、命の主は、死後にだけ、私たちを助けてくださる方なのでしょうか。違います。私たちの現実の生活でも命の主は一緒におられ、助けてくださる方です。この度、丙午(ひのえうま)という迷信について聞きました。その年に生まれた女性は気性が激しく夫の命を縮めるという話でした。しかし、それはこの地上の世俗的な束縛による迷信に過ぎません。まるで、サドカイ派のように世の価値観に執着した昔の人々が作り出したとんでもないでたらめに過ぎないのです。命と復活の主を信じる私は断言します。神の命をいただいて生きる主の民に、この世の迷信は何の影響も及ぼすことができません。神社やお寺のお守りもいりません。吉日、凶日を気にして引越を延ばす必要もありません。キリスト者である私の親は、吉日凶日を一切気にせず、引越をしました。むしろ凶日は引越代が安くなってお得でした。そして、今まで何の呪いも、災いもなく暮らしています。これが神の命とキリストの復活の力なのです。キリストを信じて、すでに復活した命の存在となった私たちは、神の命の祝福の下に生きる存在です。主イエス・キリストが十字架ですべての呪いを打ち砕かれたからです。この世での毎日がキリストの贖いによって吉日となり、どの年に生まれたとしても復活の主に属した私たちは、この上ない祝福をいただいた存在です。私たちは主の命によってこの世の束縛から自由になった幸いな存在なのです。 締め括り 「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3章5-6節) 神はモーセに「足から履物を脱ぎなさい。」と言われました。この世への執着と束縛を捨て、素直に神の御前に出てきなさいという意味です。また、この世ではなく神に属した聖別された存在としていなさいという意味です。イエス·キリストは私たちの履物を脱がせてくださる方です。主が成就された命の復活によって私たちをこの世の執着と束縛から自由にしてくださったのです。この世のすべては死によって終わります。しかし、主の民は命によって始まります。アブラハム、イサク、ヤコブは、肉体は死にましたが、彼らは生きている者として認められました。神の命と主の復活を求めて生きる私たちは、今日の御言葉のように生きている者、神の所有として永遠に主と共に歩んでいく者となるでしょう。このような命の主を頼りにして生きる私たちであることを願います。主の恵みが命の主に属している皆さんの上に豊かに注がれますように。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

祝福をもたらす者。

創世記41章1~16節 (旧70頁) ガラテヤの信徒への手紙3章29節 (新347頁) 前置き 理想的なキリスト者のあり方とはどういうものでしょうか。一国の首相になって権力を振るう人になることでしょうか。大企業の社長になって財力と名誉を享受すして生きることでしょうか。偉大な学者になってノーベル賞を受賞することでしょうか。キリスト者が首相、社長、学者のような偉い人になることには何の問題もありません。しかし、それらがキリスト者の理想的なあり方であるとは言えないでしょう。キリスト者は文字通り、キリストによる者です。イエスの御言葉と生き方にならい、主の御心を追求しながら生きることこそが、キリスト者の真のあり方ではないでしょうか。そういう意味で、今日の本文に出てくるヨセフの人生は真のキリスト者のあり方につながっていると思います。昔の彼は自己中心的で他人を配慮しない愚かな姿でしたが、主は苦難と孤独の中で彼と共におられ、神中心的で他人に仕える者として養ってくださいました。そして、ヨセフが神と共に歩み、神によって立派な信仰者になった時、彼の人生に、ファラオに続くエジプトの首相という権力と財力と名誉がついてきました。重要なのは、首相、社長、学者など、偉い人間になることではありません。まず、主と歩み、神と隣人への愛と信仰を身につけた信仰者になること、それこそが最も大事なことなのです。 1.神の秘密を知る人。 前回と今日の本文に共通して出てくるのは夢です。前回の説教には、二人の高官の夢が、今日はエジプトの王ファラオの夢が登場します。もう少し前の創世記37章には、ヨセフの夢が登場し、28章にもヤコブの夢が登場しています。このように創世記にはいくつかの夢の物語がありますが、上記の夢の物語の共通点は、すべて、夢を見た人や周辺の未来のことを示しているということです。ヨセフの時代には聖書がありませんでした。ユダヤ人の律法であるモーセ五書も、ヨセフから約400年後に記されたものです。つまり、旧約の神は夢を通してご自分の民に主の計画や啓示を見せてくださいました。 「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。」(民数記12:6) ところで、ファラオや2人の高官は、神の民ではなかったのに、なぜ主は彼らにも夢による啓示をくださったのでしょうか? 実は彼らが特別だからではありません。その夢の啓示を解き明かす人が、まさに神の民であるヨセフだったからです。だからといって、現代にも夢が神の啓示の手立てであるとは言えません。なぜならば、決定的に神は真の神の言であるキリストをすでに遣わしてくださり、旧約と新約という聖書を与えてくださり、聖書を悟らせてくださる聖霊なる神を送ってくださり、牧師や長老という聖書の教師を立ててくださったからです。ですから、不思議な夢を見て、神の啓示を受けたと、勝手に信じ込んだり、しゃべったりすることは、キリスト者として控えるべき姿です。 また、上記の4つの夢の物語にはもう一つの共通点があります。それは、夢を見た人が、その夢の意味をまったく解き明かせなかったということです。神の御言葉は、誰もが解釈できるものではありません。神と共に歩み、真の信仰者として生まれ変わった人だけが、神の御言葉の秘義を知るようになるのです。牧師だけが優越で、普通の信徒は劣等だという意味ではありません。牧師も罪人なので、神の御言葉に精通することは出来ません。誰一人も、キリストの御恵みと聖霊のお導きがなければ、主の御言葉の秘義を悟ることができません。神の御言葉は秘義、つまり秘密なのです。神の御言葉は、あえて人間が聞き取れるものではありません。耳に聞こえるという意味ではありません。神の御心とご計画、お赦しと御救いを含んだ福音の御言葉を意味するのです。今、街に出て、通りすがりの人にイエスの救いと恵み、すなわち福音について話せば、おそらく 9割は私たちを変な人間だと思ってしまうかもしれません。いくら「主があなたを愛しておられます。」と言っても、人々は悟れないでしょう。なぜかというと主の御言葉を聞く耳がないからです。皆さん、主の御言葉を聞き、反応が出来るということは、至高の恵みなのです。毎週の説教を聞いて、心に動きが生じるということは、神がご自分の秘密を皆さんには隠されなかったという意味です。誰もが神の御言葉の秘密をいただけるわけではありません。たったキリストによって救われた者、主によって選ばれた者だけに、主は御言葉の秘密、福音の意味を悟らせてくださるのです。主の御言葉は、主の真の民だけに与えられる秘密なのです。 2.自分ではなく、神が。 ファラオと二人の高官が見た夢は、誰もが解き明かせない神の秘密の啓示でした。そして、その秘密はただ一人、神に選ばれた者ヤコブだけが解くことができるものでした。「そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。」(創41:12-13) ある日、ファラオは恐ろしい夢を見ました。夢の内容は本文のままですので省略しましょう。正直、今日の説教で夢の内容は重要ではありません。その夢が何であれ、ヨセフには夢の解き明かしが出来る能力があったというのが重要です。「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。(創41:14)」ファラオが恐ろしい夢に思い煩った時、前回の本文でヨセフの解き明かしを聞いて生き残った給仕役長が、2年間すっかり忘れていたヨセフを思い起すようになりました。(彼がヨセフを忘れていたのは、エジプトの動乱の時代にヤコブを守るための神の導きであったという前回の説教の内容を覚えてください。) そして彼の話を聞いたファラオは急いで監獄のヨセフを呼びました。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」(創41:15) 永い苦境に苦しめられてきたヤコブが、突然エジプトの君主であるファラオと出会うことになったのです。 ヨセフを呼び出したファラオは、自分の恐ろしい夢のため、相当、思い煩っている状態でしたので、ヨセフを手厚く扱いました。13年間最悪の生活を続けてきたヨセフは一夜にして帝国の最高権力者の前に立つことになったのです。そして、その最高権力者がヨセフに助けを求める様になっていました。例えば、皆さんが最悪の状況で13年間を過ごしてきたのに、ある日、突然アメリカの大統領が、この世の中で皆さん一人だけができる、あることを頼むために、皆さんを呼び出して「何々さん、どうか助けてくださいませんか。」と言ったら、皆さんはどんな気持ちになりますでしょうか? 「13年間、何一つ上手くいかなかったのに、私だけが出来ると?」と意気揚々になるのではないでしょうか? しかし、ヨセフの答えは違いました。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」(創41:16) ヨセフはまず自分自身ではなく神のことを前面に出しました。「私ではなく神がなさるのです。」と自分を低め、神を高めて謙遜に対応したのです。これは謙遜なふりをしているわけではなく、本当に「神だけがお出来になる。」という確信に満ちた一種の「信仰の告白」でした。私たちがヨセフを偉大な信仰の人物と評価する理由は、まさにこのヨセフの信仰のためです。彼がエジプトの首相になったからではなく、彼にひたすら神だけを頼りにする信仰があったからです。私たちにも、このような信仰の告白があることを願います。「自分」ではなく「神」だけを高め、頼りとする信仰であることを祈ります。 3.祝福をもたらす者。 その後、ヨセフはファラオの夢を完璧に解き明かし、これによってエジプトの首相に推戴されることになりました。まるで、13年間の苦境がなかったかのように、一瞬にしてエジプトの最高権力者になりました。彼を推薦した給仕役長よりも高い身分になったのです。エジプトの奴隷であり、囚人だった彼が、エジプトの全国民を治めるファラオに次ぐ人物になったわけです。そして、エジプトは、ヨセフによって深刻な飢饉を徹底して備え、飢餓から自由になる祝福を得ました。エジプトだけでなくエジプト周辺の他の民族もヨセフの知恵によって蓄えた穀物を買い取ることが出来たのです。神が創世記12章でアブラハムに約束された「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」という御言葉が、アブラハムのひ孫であるヨセフによって一次的に成し遂げられることになったのです。(最終的にはイエス•キリストによって) いわば、ヨセフは祝福の源になったということです。私たちは前回の説教でヨセフが兄たちによってエジプトに売られた後、エジプトの侍従長ポティファルの家で約10年、そして無実に濡れ衣を着せられて監獄で約3年を過ごしたの話を聞きました。この約13年という年月の間、ヨセフは主人に主の祝福をもたらす人になりました。 「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(創39:2-3) また、彼は無実に投獄されたにもかかわらず、牢獄でさえ周りの人々に祝福がもたらされるようにしました。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(39:21-23) 神が共におられるという祝福を得たヨセフは、その祝福を自分一人だけで占めることではなく、周辺の人々にまで流し出しました。文字通り「祝福の源」となったのです。そして結局、このヨセフはエジプト全国と周辺民族にまで、神の祝福をもたらす祝福そのものとなりました。私たちはこのヨセフの物語によって示された祝福の人という概念を、私たちの主イエス•キリストを通じて、もう一度確かめることができます。主イエスは神の独り子ですが、罪人の死と苦難を見過ごされませんでした。自ら人間になられ、人間の罪と苦しみ、悲しみを背負ってくださいました。そして、人間の代わりに死に、復活して、罪人が救われる道を完成してくださいました。キリストこそが人間の根本的な問題である死と罪を打ち砕き、罪人が正しい人に生まれ変わって救いを得ることが出来る、真の祝福をもたらしてくださったのです。また、主の体なる私たち教会も、主によって神と隣人を愛し、周辺の人々に祝福を流し出す祝福の人として呼び集められたのです。この話を聞くとふとこの新約の言葉が思い起こされます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」 締め括り 今日は3つの点について学びました。一つ目に、神の御言葉は誰にでも与えられるものではなく、徹底的に隠されている秘密であるということです。しかし、キリストの民には、その秘密が明るみに出ているということです。二つ目に、キリスト者なら、自分のことではなく、神のことをまず誇りとするべきということです。真の信仰者になっていけばいくほど、「私」ではなく「神」を最優先にする人になっていかなければなりません。最後に、ヨセフが祝福をもたらす人になったように、私たちもまた、そのような人になって行きたいということです。私たちの主イエス·キリストが真の祝福をもたらす祝福の人としておいでになったので、主の体となった私たち教会も祝福の人としてのアイデンティティを持って生きるべきです。今日の本文を通じて学んだいくつかの教訓を憶えつつ、今週も恵みにあって過ごしていきましょう。父と子と聖霊によって、アーメン。

カエサルのもの、神のもの。

レビ記19章1~2節 (旧191頁) マルコによる福音書12章13~17節 (新86頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教で取り上げた、主な話は「真の権威とは何か?」でした。宗教指導者たちがエルサレム神殿の境内でイエスに会った時、彼らはイエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と問い詰めました。これは「お前はどの団体の所属か?」という意味としての 世俗的な質問でした。宗教指導者たちは人による権威、つまり人の基準によって所属のないイエスを判断し、彼ら自身の権威がイエスよりも優れていると威張るために、こういう質問をしたのです。しかし、イエスは全く予想外の返事をされました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」イエスは、この質問を通して、彼らのような、人による基準ではなく、神による基準を通して権威についてお話しになりました。人は目に見える基準で自分の地位や権威を前面に出そうとする傾向があります。しかし、主は外なる人ではなく、内なる人をご覧になり、その信仰の純粋さをお試みになります。真の権威とは、神のみ旨に適う人に与えられる主の賜物です。この世の権威は、社会的な地位、学閥、財産の有無から生まれるかもしれませんが、神からの権威は神と隣人への愛、神の御言葉への従順さ、真の信仰で、神から民に与えられるものです。 1.人の言葉について。 「人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(マルコ12:13)前回の本文で、自分たちの権威を前面に出し、イエスとの論争で優位を占めようとした宗教指導者たちは、イエスのこの言葉に何の答えもできず、顔が潰れることになりました。 しかし、彼らはあきらめず、別の計略を編み出しました。それはファリサイ派とヘロデ派の人々を同時に送り、主に困った質問をさせることでした。ファリサイ派の人々は旧約聖書の専門家でした。つまり、彼らは宗教と法律の専門家だったということです。(旧約聖書にはユダヤ人の宗教法と刑法、民法があまねく含まれている。) そしてヘロデ派の人々はヘロデ王を熱烈に支持する政治的な人々でした。この両者は、普段互いに仲が良くなかったのですが、ユダヤの伝統を大事にするファリサイ派と異邦出身の王の権力にしがみついたヘロデ派が仲が良いわけにはいかなかったからです。しかし、彼らは自分たちの不条理を指摘されるイエスを共同の敵として狙ったため、宗教指導者たちの要請に応じてイエスを困らせるために協力したわけです。イエスのところに来た彼らは言い出しました。 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(マルコ12:14)彼らはイエスのところへ来るやいなや、きれいな言葉でイエスをたたえました。しかし、その言葉は真心をこめた言葉ではありませんでした。イエスを苦境に陥れるために試し、さらに自分たちの必要を満たすための偽善でした。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12:15) しかし、イエスは彼らの偽りを全て知っておられました。言葉は実に大事なものです。「時宜にかなって語られる言葉は銀細工に付けられた金のりんご。」(箴言25:11) 旧約聖書の箴言にもこのような言葉があるほどです。しかし、主は話し手の心を何よりも大切に思われる方です。私たちがいくら立派な言い方、丁寧な言葉遣い、綺麗な言葉で祈るといっても、真心がこもっていなければ、その祈りは神に拒まれ、無駄になるでしょう。言葉で人を騙し、心と言葉が違う生き方に注意しましょう。いつも神が私たちの言葉と心を見ておられることを憶えていきましょう。 2。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。 「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。彼らがそれを持って来ると、イエスは、これは、だれの肖像と銘かと言われた。彼らが、皇帝のものですと言うと」(マルコ12:15-16) 宗教指導者たちに送られたファリサイ派とヘロデ派の人々は、丁寧な言葉遣いとは反対にイエスを困らせようとしました。「ローマ皇帝であるカエサルに税金を払うのは律法に適いますか。」との質問でした。つまり、ユダヤ人としてローマ皇帝に税金を払うべきかどうかのことでした。デナリオン銀貨は当時ローマ帝国の貨幣で、労働者の一日分の労賃でした。ユダヤ人は、このデナリオンに2つの反発心を持っていたと言われます。一つ目は祖国を侵略して支配する異邦のローマ帝国への政治的な反発心、二つ目はデナリオンに刻まれたローマ皇帝の肖像を偶像と見なした宗教的な反発心でした。ファリサイ派とヘロデ派の人々が税金について質問した理由は簡単でした。税金を払うべきと言えば政治、宗教的にユダヤ人を背くことになり、税金を払ってはいけないと言えばローマ帝国を反対する政治犯として指し示されることになるからです。 しかし、主はローマの法律を破らない範囲で、ユダヤの律法をも犯さないお答えを言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」しかし、この答えは、かなり曖昧な言い方であるかもしれません。聞き方によっては「皇帝に税金を払いなさい。そして、神にも捧げるべきものを捧げなさい。」という優柔不断な言葉に聞こえる可能性もあります。しかし、本文では「彼らは、イエスの答えに驚き入った。」と記録されています。この言葉は驚き入るくらいですか。現代人である私たちにはそう感じられないと思います。しかし、当時の人々は私たちとは違う反応をしました。なぜでしょうか?その理由は日本語聖書には翻訳されていない「しかし」という表現にあると思います。日本語聖書には記録されていませんが、ギリシャ語原文の解釈は、こうなります。「カエサルのものはカエサルに返せ、しかし、デオのものはデオに返せ。」(マルコ12:17) つまり、この言葉は「皇帝にも税金を払い、そして神にも献金を捧げなさい」という優柔不断な言葉ではなく「皇帝に義務を果たしなさい。 しかし、神へのあなたたちのとるべき在り方を忘れないようにしなさい。」という表現とも解釈できるからです。つまり、この主のお答には、主の質問が含まれているのです。 主は、神を信じているが、仕方なく皇帝の支配の下で生きていかなければならない当時のユダヤの人々に「このような状況の中で、あなたがたは、どのように生きており、どのように生きていくべきなのか。」と質問をされたのです。イエスを困らせるための意地悪な質問が、イエスのお答えによって、質問した者たちと周辺の群衆への質問となって返されたのです。皇帝のものが別にあり、神のものが別にあるのですか? 律法は、この世のすべてが神のものであると述べています。しかし、ユダヤ人は世の中の権力に屈し、神の民らしい人生を生きていませんでした。律法は大事だと思ってはいましたが、まともに律法に適う生き方をとることができず、宗教と社会の不条理を見てもあえて指摘することをしなかったのです。「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」イエスの、この言葉はローマ帝国の支配を否定しない範囲で、神に仕えるユダヤ人の在り方について問うているのです。これはまた、私たちキリスト者にも、この世での生き方についての質問をしているのです。 3.政治をどのように理解すべきなのか? 私たちは、主イエスの民である教会ですが、世俗的な世の中に生きています。そして、私たちの考えとは異なる指導者を迎えなければならない場合が多いです。特に日本は議院内閣制国家であるため、一般市民による直接選挙ではなく、国会議員の中から選出された与党第一党の代表が「内閣総理大臣」となる方式の政治システムをとっています。つまり、もしかしたら、私たちは自分の意向とは、まったく異なる政治状況の下で生きているのかもしれません。そういえば、私たちは、ローマ帝国の支配下に生きていたユダヤ人の状況と似たような状況であるかもしれません。日本に住んでいますが、自分の意向とは違う指導者の下にいる可能性があるからです。しかし、このような状況も、主がお許しになったものであることを認め、このような政治の下でも、キリスト者なら、どのように神の民らしく生きていくべきか、この社会の中でどのようにして、神を表わしつつ生きることが出来るだろうかを常に考えながら生きていくべきでしょう。 私たちは「皇帝」の世界に生きる「神」の民です。そして、イエスは今日の言葉を通して、私たちにご質問なさいます。「この日本の社会に生きている我が民よ、しかし、あなたたちは神のものを神に返して生きているのか。」 締め括り 「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」というイエスの御言葉を、常に念頭に置いて生きていきたいです。世の中の政治と状況に流されないで、にもかかわらず、キリスト者である私たちが、どのように生きていけば、神に神のものを返すことができるだろうか、私たちの在り方について常に思い巡らしながら生きていきましょう。 明らかなのは、この世のすべては神のものであるということです。世の中の権力と政治はキリストが再臨され、この世の終わりの日に全て消えてしまうでしょう。しかし、神は永遠におられるでしょう。私たちは、この世の価値観を超越する神の価値観を追い求めながら生きなければなりません。皆さんは日本人、ニュージーランド人、そして韓国人という国籍を持っておられますが、皆さんの本質は天国、つまり神の国の民なのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ19:2) 聖なるもの、すなわち神によって区別された存在、私たちはまさにこの区別された神の民というアイデンティティを持った存在であります。私たちのこのような本質を、ぜひ憶えてください。皇帝の世界の中に生きていますが、神に従う人生を過ごす志免教会になりましょう。