メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

日本キリスト教会所属の志免教会
日曜礼拝メッセージ​

担当:金東佑

主が涙をぬぐい取ってくださる。

詩編27編1節(旧867頁) ヨハネの黙示録21章1-8節(新477頁) 前置き 先週の木曜日の夜、宣教師派遣元の釜山の告白教会から至急の祈りを願うメールが届きました。告白教会の設立から物心両面仕えてきた、ある姉妹が脳出血で入院したとのことでした。釜山の告白教会の団体メールがありますが、3時間前までも明るいメッセージを載せた方でした。その3時間後に脳出血で倒れたわけでした。素早く搬送装置したため、しっかりと治療を受け、また元気になるだろうと思っていたのに、火曜日の夕方、逝去したとの知らを聞きました。里帰り中の妻が葬儀場に行き、遺族を訪問しました。死というのは本当に突然近づいてくるものです。いつも明るい笑顔で私を励んでくれた姉妹でしたが、逝去は一瞬でした。しかし、私はまた会える希望を持っているので、落ちこんではいません。聖書は語ります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3-4) 私たちは、いつか主に召され、亡くなるでしょう。しかし、主を信じる私たちは、それが終わりではないということを知っています。キリスト者にとって死は、この世のすべての憂いと悲しみを全て払い落とし、主のふところで慰められる至福の始まりだと思います。私たちは必ず天国でまた逢うでしょう。今日はキリスト者の死について考えてみたいと思います。

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神のお招き

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは聖書の言葉の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブを継承した彼らの霊的な子孫(霊的なイスラエル)が、キリストの体なる教会であると証しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して主の民が追い求めるべき掟である律法とキリストによる全人類を救う良いお知らせ、つまり福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神に選ばれた民を教会と名づけてくださったのです。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話だけでなく、その霊的な子孫、教会についての話しでもあります。今日の本文を通して、教会への神のお招きについて話してみたいと思います。

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信じる。走る。 語る。

ヨハネによる福音書20章1~18節(新209頁) 前置き イエス·キリストの復活を讃美します。世のすべてを無意味にする死にご勝利なさった主イエスが復活されました。天地万物が凍りつく冬が終わり、暖かい春が訪れてくるように主イエスは死から帰ってこられたのです。復活節は何の希望も許さない死に勝利され、新しい始まりを与えてくださった主イエスの復活を記念する日です。世の人々はこの日をイースターと呼んでいますが、イースターはアングロサクソン族の春の女神の名前に由来する呼び方です。初期の教会が異教徒の祝日をなくし、キリスト教の復活節に振り替えることで生まれた異教徒の祝日の残滓に過ぎません。ですから、この世が「イースター」と呼んでも、私たちはこの日をイエス·キリストの「復活節」とはっきり言い、記念すべきだと思います。今日はヨハネによる福音書20章の物語を通じて、主イエスが復活された日の朝の出来事について話したいと思います。2000年前のイエス物語を通して、2000年経った今を生きる私たちにとって、主イエスの復活とは、どういう意味なのかを考えてみたいと思います。 1.イエスの復活とイエスの人々の反応 今日の本文の朝は、イエスの人々にとってそれほど愉快な時ではありませんでした。その理由は、3年前に突然登場し、偉大なラビと呼ばれ、神の御言葉を宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせることで、ローマ帝国と悪い権力者たちの暴挙に苦しんでいるイスラエルに希望を与えた「イエス」という存在が3日前に十字架の上で最期を迎え、今や墓の中にいたからです。同時に世の人々はもうイエスの時代は終わり、おそらく、彼が人々の記から消えていくはずだと思っていました。ただ、彼に従った人々は最後までイエスに仕えようと心を籠めていました。その朝、マグダラのマリアという女は死んだイエスを記念するために朝早くイエスの墓に訪れました。ところが、墓に着いた彼女は驚愕してしまいました。大人の男性でも開けにくい重い石の門が取り除けてあり、イエスの遺体は見えなかったからです。もしかしたら、イエスに反対していた者たちが悪意を抱いて遺体を隠した可能性もありました。戸惑った彼女は、すぐに主の弟子たちに行き、イエスの遺体がなくなったと告げ(原文として語り)ました。その言葉を聞いてペトロと他の弟子(おそらく、弟子ヨハネ)は、急いでイエスの墓に向かって走りました。案の定、イエスの遺体はありませんでした。ただ、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるだけでした。その時になって彼らはイエスの遺体がなくなったことを信じ、絶望して家に帰っていきました。そして、マグダラのマリアは、すべてを失った人のように、墓の前に立って泣きばかりしていました。

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主が涙をぬぐい取ってくださる。

詩編27編1節(旧867頁) ヨハネの黙示録21章1-8節(新477頁) 前置き 先週の木曜日の夜、宣教師派遣元の釜山の告白教会から至急の祈りを願うメールが届きました。告白教会の設立から物心両面仕えてきた、ある姉妹が脳出血で入院したとのことでした。釜山の告白教会の団体メールがありますが、3時間前までも明るいメッセージを載せた方でした。その3時間後に脳出血で倒れたわけでした。素早く搬送装置したため、しっかりと治療を受け、また元気になるだろうと思っていたのに、火曜日の夕方、逝去したとの知らを聞きました。里帰り中の妻が葬儀場に行き、遺族を訪問しました。死というのは本当に突然近づいてくるものです。いつも明るい笑顔で私を励んでくれた姉妹でしたが、逝去は一瞬でした。しかし、私はまた会える希望を持っているので、落ちこんではいません。聖書は語ります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3-4) 私たちは、いつか主に召され、亡くなるでしょう。しかし、主を信じる私たちは、それが終わりではないということを知っています。キリスト者にとって死は、この世のすべての憂いと悲しみを全て払い落とし、主のふところで慰められる至福の始まりだと思います。私たちは必ず天国でまた逢うでしょう。今日はキリスト者の死について考えてみたいと思います。

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神のお招き

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは聖書の言葉の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブを継承した彼らの霊的な子孫(霊的なイスラエル)が、キリストの体なる教会であると証しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して主の民が追い求めるべき掟である律法とキリストによる全人類を救う良いお知らせ、つまり福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神に選ばれた民を教会と名づけてくださったのです。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話だけでなく、その霊的な子孫、教会についての話しでもあります。今日の本文を通して、教会への神のお招きについて話してみたいと思います。

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