メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

日本キリスト教会所属の志免教会
日曜礼拝メッセージ​

担当:金東佑

主イエスの祈り(完)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今日は、マタイによる福音書の山上の垂訓の中で、主イエスが教えてくださった祈りについての最後の説教をしたいと思います。私たちは、今までの説教を通して、他人に自分の信仰を見せつけるための祈りではなく、ひとえに「神と自分」という両者の真の対話として祈らなければならないということを学びました。つまり、主なる神に人格として接し「素直、淡白、明確」に祈ることが何よりも大事であるということでした。その後は主イエスが、ご自身で「主の祈り」を通して、どのような祈りが望ましいのかについて教えてくださいました。「神へのほめたたえと栄光を帰す祈り」「主の御心にあって私たちの必要を求める祈り」を通じて、キリスト者なら、神の御旨にかなう祈りを追い求めなければならないということが分かりました。今日は「主イエスの祈り」その最後の時間です。主イエスが教えてくださった祈りによって、私たちも主に倣って祈ることができれば幸いです。 1.こころみ(誘惑)にあわせず。 神へのほめたたえと栄光を帰す祈りの後、主イエスは「日用の糧をあたえたまえ」という、主の民の必要についての祈りも教えてくださいました。(前回の説教のあらすじ)しかし、その糧を求める祈りは極めて短かったです。「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という割と長い、讃美の祈りの後に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」という、たった一言くらいの私たち自身の必要のための祈りが記されているだけです。もちろん、人には、この世を生きるための最低限の必要があります。そのために、人はお金を稼ぎ、それが度を越えて欲張るようになってしまいます。しかし、主はその必要というのを重く考えておられないようです。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペトロ3:10)いつか、この世の富は、主の裁きによって全て意味を失ってしまうという終末的なキリスト教のことわりのためではないかと思います。ですから、イエスは物質的な必要より霊的な必要のほうが、さらに大事であると考えてくださったわけでしょう?

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主イエスの祈り(4)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 前回の説教の復習をしてから始めましょう。イエスは祈り方について、人々に見せつけとしての祈りではなく、ひとえに父なる神との対面としての祈りをすべきだと教えてくださいました。また主なる神に人格的に接し「素直、淡白、明確」に祈りなさいとも命じられました。イエスは、そのような祈りとはどういうものなのかの見本として「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは神に栄光を帰す序盤の祈りと、私たち自身の願を求める中盤の祈り、最後に、またもう一度、主なる神に栄光を帰す終盤の祈りに分かれます。前回の説教で、私たちは序盤の祈りである「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」(マタイ6:9-10)について学びました。それによって、私たちはまず神を褒めたたえる祈り、つまり、神に栄光を帰す祈りが何よりも優先であることが分かりました。私たちの祈りが、もっぱら自分の必要だけを求める祈りではなく、まず神に栄光を帰す祈りになることを願います。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)の言葉を憶えたいと思います。今日は主の祈りの中盤である私たちのための祈りについて話してみたいと思います。 1. 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

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悔い改めの実を結ぶ。

ルカによる福音書3章1~20節(新105頁) 前置き 私たちは今、イエス·キリストの苦難と復活を記念するレント(四旬節)の期間を過ごしています。レントはイエス・キリストの苦難を記憶するために「灰」(イスラエルの文化で、灰は涙と悔い改めのイメージを持っている。)を額に塗って祈る「灰の水曜日」(2月14日)からイエスの復活を記念する「復活節(イースター)」(3月31日)までの約40日間を意味します。この期間は大昔から代々の教会がイエスの苦難と復活とを失念しないで、記念するために守ってきたキリスト教の長い歴史の伝統であります。もちろん、聖書に記録された、神の命令ではありませんが、代々の信仰者たちは主の苦難と復活を黙想し、自分を顧みる機会として守ってきた大切な伝統なのです。今日は「主イエスの祈り」の連続説教を休んで、レント期間にふさわしい説教によって聖書の言葉を話してみたいと思います。私たちの罪を振り返り、信仰を堅くするレントになることを祈ります。 1。希望のない時代にも主の御言葉は与えられる。 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:1-2)

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主イエスの祈り。(3)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 私たちは前回の説教で、主の祈りの最初の部分について取り上げて話しました。まず、私たちは父なる神が天におられる方であり、その天とは被造物が近づくことのできない神の権能を意味するものであると学びました。さらに感謝すべきことは、被造物が近づくことのできない、天におられる権能の神が、イエス·キリストによって私たちの真の父になってくださったということでした。また、私たちはその神の御名を聖別して崇めるべきであるとも学びました。聖書において「名前」とは、ある存在そのものをあらわす大事なものです。神の御名が崇められるということは、神が聖別された存在で、尊敬と尊重をささげられるべき方であるということを意味します。私たちは全能と権能の神を父としている主なる神の民です。私たちはこの世がしない、また、できない神への尊敬と尊重を通して神の民にふさわしく生きなければなりません。イエスは主の祈りを通して、私たちの欲望と願いだけを望むわけではなく、そのすべてのことに先立って神に栄光を帰すことを優先的にすることを教えてくださいました。主の祈りを通じて教えていただいたイエスの祈り方によって、私たちの祈りにも良い変化がありますように祈ります。 1. 御国を来たらせたまえ。

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主イエスの祈り(完)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今日は、マタイによる福音書の山上の垂訓の中で、主イエスが教えてくださった祈りについての最後の説教をしたいと思います。私たちは、今までの説教を通して、他人に自分の信仰を見せつけるための祈りではなく、ひとえに「神と自分」という両者の真の対話として祈らなければならないということを学びました。つまり、主なる神に人格として接し「素直、淡白、明確」に祈ることが何よりも大事であるということでした。その後は主イエスが、ご自身で「主の祈り」を通して、どのような祈りが望ましいのかについて教えてくださいました。「神へのほめたたえと栄光を帰す祈り」「主の御心にあって私たちの必要を求める祈り」を通じて、キリスト者なら、神の御旨にかなう祈りを追い求めなければならないということが分かりました。今日は「主イエスの祈り」その最後の時間です。主イエスが教えてくださった祈りによって、私たちも主に倣って祈ることができれば幸いです。 1.こころみ(誘惑)にあわせず。 神へのほめたたえと栄光を帰す祈りの後、主イエスは「日用の糧をあたえたまえ」という、主の民の必要についての祈りも教えてくださいました。(前回の説教のあらすじ)しかし、その糧を求める祈りは極めて短かったです。「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という割と長い、讃美の祈りの後に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」という、たった一言くらいの私たち自身の必要のための祈りが記されているだけです。もちろん、人には、この世を生きるための最低限の必要があります。そのために、人はお金を稼ぎ、それが度を越えて欲張るようになってしまいます。しかし、主はその必要というのを重く考えておられないようです。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペトロ3:10)いつか、この世の富は、主の裁きによって全て意味を失ってしまうという終末的なキリスト教のことわりのためではないかと思います。ですから、イエスは物質的な必要より霊的な必要のほうが、さらに大事であると考えてくださったわけでしょう?

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主イエスの祈り(4)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 前回の説教の復習をしてから始めましょう。イエスは祈り方について、人々に見せつけとしての祈りではなく、ひとえに父なる神との対面としての祈りをすべきだと教えてくださいました。また主なる神に人格的に接し「素直、淡白、明確」に祈りなさいとも命じられました。イエスは、そのような祈りとはどういうものなのかの見本として「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは神に栄光を帰す序盤の祈りと、私たち自身の願を求める中盤の祈り、最後に、またもう一度、主なる神に栄光を帰す終盤の祈りに分かれます。前回の説教で、私たちは序盤の祈りである「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」(マタイ6:9-10)について学びました。それによって、私たちはまず神を褒めたたえる祈り、つまり、神に栄光を帰す祈りが何よりも優先であることが分かりました。私たちの祈りが、もっぱら自分の必要だけを求める祈りではなく、まず神に栄光を帰す祈りになることを願います。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)の言葉を憶えたいと思います。今日は主の祈りの中盤である私たちのための祈りについて話してみたいと思います。 1. 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

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悔い改めの実を結ぶ。

ルカによる福音書3章1~20節(新105頁) 前置き 私たちは今、イエス·キリストの苦難と復活を記念するレント(四旬節)の期間を過ごしています。レントはイエス・キリストの苦難を記憶するために「灰」(イスラエルの文化で、灰は涙と悔い改めのイメージを持っている。)を額に塗って祈る「灰の水曜日」(2月14日)からイエスの復活を記念する「復活節(イースター)」(3月31日)までの約40日間を意味します。この期間は大昔から代々の教会がイエスの苦難と復活とを失念しないで、記念するために守ってきたキリスト教の長い歴史の伝統であります。もちろん、聖書に記録された、神の命令ではありませんが、代々の信仰者たちは主の苦難と復活を黙想し、自分を顧みる機会として守ってきた大切な伝統なのです。今日は「主イエスの祈り」の連続説教を休んで、レント期間にふさわしい説教によって聖書の言葉を話してみたいと思います。私たちの罪を振り返り、信仰を堅くするレントになることを祈ります。 1。希望のない時代にも主の御言葉は与えられる。 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:1-2)

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