ピラトとイエス。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 19章1-16節(新206頁) 前置き レント5週間目の主日を迎えました。過去5週間、私たちは、救い主、イエスが誰なのか、なぜ来られたのか、どんなことをされたのかについて分かち合いました。特に、先週は、神の子イエスが人の子、つまり罪人のために、イエス自らが罪人の立場に降って来られ、逆に罪人を神の子の位置まで引き上げてくださったことについて、お話しました。神の子であり、神そのものであるイエスは人の子、罪人の救いと贖いのために、自らを低めてくださったのです。このように低くなられたイエスは、罪人が受けるべき苦難を代わりに受けてくださいました。古今東西のキリスト者が、1000年以上の長い間に告白してきた使徒信条には、このような文章があります。『ピラトのもとで苦しみを受け、(十字架につけられ、)死んで葬られ。』主は人々の罪のために代わりに死んでくださいました。それにも拘わらず、主は生前、人々に否定されました。そして、使徒信条の告白のように、ピラトのもとで苦しみ受け、死ななければなりませんでした。キリストは、まるで苦難を受けるために来られたように、最後まで苦しみを受けられました。そして最後に、その苦しみがピラトという人を通じて死にまで繋がりました。今日はキリストが受けた苦難。特に、ピラトとの関わりを中心として、今日の本文のことについて話してみたいと思います。 1.ピラトに苦しみを受け。 キリスト者なら誰でも使徒信条を通して、ピラトという名前を聞くことになります。自分がキリスト者であると自負している人なら、ピラトによってイエス・キリストが殺されたという事実を知らざるを得ないと思います。しかし、ピラトについて詳細に説明してみようとすれば、言葉に詰まるのが現実だと思います。ローマ帝国のイスラエル総督、イエスを裁判した人、おそらく、ここまでが私たちが持っている一般的な知識でしょう。ピラトは西暦26年から約10年間、イスラエルを治めた総督でした。彼は、聖書での優柔不断なイメージとは違い、非常に残酷な人だったと言われます。『何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜたことをイエスに告げた』(ルカ13:1)当時、イスラエルは大敵パルティアとの最前線に近かっただけに、常に軍事的緊張が強い地域でしたので、治めるに容易な所ではありませんでした。特に、イスラエル地域は民衆の反乱が頻繁に起こる傾向があったので、宥和的な支配が難しい植民地でした。そのため皇帝はユダヤ人に対して強腰だったピラトを派遣したそうです。ピラトは、イスラエル民族に決して友好的な人物ではありませんでした。ユダヤ人の祭り、過越祭に偶像のように扱われてきたローマ皇帝の肖像画をエルサレム城内に入れたり、ユダヤ人の宗教的伝統を無視したり、無断で神殿の資金を使って水路を建設したりしました。そして、そのようなピラトへの糾弾集会を流血鎮圧したこともあったと言われます。 それでも、今日の本文でのピラトは、イエスを殺そうとはしていません。 『祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、十字架につけろ。十字架につけろと叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』(19: 6)ヨハネによる福音書だけでなく、他の福音書でも、イエスを生かそうとした部分が出てきます。また、ピラトの妻は、イエスに友好的な人でもありました。『ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。』(マタイ27:19)確かに、ピラトはローマ人でしたので、ユダヤ人にも、イエスにも友好的ではありませんでした。また、ユダヤ人とイエスの関係についても、深く考えなかったのです。しかし、イスカリオテのユダのように悪意を持って、イエスを売り渡した裏切り者でもないし、ペテロのようにイエスを否定したキリスト者でもありませんでした。それにも拘わらず、なぜまだ私たちは、まるでピラトによってイエスが苦しみを受け、殺されたという風に、彼を決めつけているのでしょうか? これには、2つの見解があります。第一に、初期のキリスト者が、イエスの受難が、ピラトの支配下で起きた本当のことだったということを強調するためでした。主イエスの十字架での出来事が、誰かによって作られた仮想の話ではなく、実際のことであると強調するための初期キリスト者たちの証であるというわけです。使徒信条の形成から1800年も経った今では、ピラトが伝説の人物のように感じられるかも知れませんが、当時はそんなに遠くない時代の人物だったからです。実際、ローマの有名な歴史家タキトゥスは自分の文章に『ティベリウス皇帝時代、イエスという人が総督ピラトに処刑を受け、殺された。』という記録を残したと言われます。第二に、公的で法律的な死であることを明らかにするためでした。ピラトによるキリストの死は、人間による世の権力が下した法律的な死でした。彼はユダヤ人によって神聖冒涜罪として告発されましたが、最終的にはピラトによってローマ帝国への反逆罪と判決を受けました。全能なる神はそのような世の権力の判決を用いて、神の律法に合致する死にまで、拡張されました。『キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです。』(3:13)当時のユダヤ人たちは、イエスを木にかけて殺すことが出来ませんでした。ユダヤ人には死刑執行権がなかったからです。しかし、主が律法どおりの死に至るためには、木に掛けられて死ぬ必要がありました。そんな時に、神様はローマの権力を用いて、イエス・キリストを木にかけられる死、つまり、十字架へ導かれたのです。 この世でも、神の国でも、イエスの死は、知る人ぞ知る、私的で密かな死ではありませんでした。これは、この世でも、すべての人々に明らかに証明された公の死であり、霊的にも、神様に認められた死でした。大祭司カイアファの言葉のように『皆を生かすための一人の死』であり、ヘブライ人への手紙の言葉のように『完全な贖いの生け贄のための霊的な大祭司の死』でした。これによって、イエス・キリストの死は、世界のすべての存在に適用できる公の死になったのです。このような公の死によって、イエス・キリストを信じる人の救いも公的な救いになりました。私たちの救いは、この世界でも、神の国でも、しっかり認められた救いなんです。ピラトは、当時のイスラエル地域の最高権力者でした。また、彼はローマ帝国を象徴する人物、すなわち彼はこの世を代表する人物でした。そんな彼に判決を受けたイエス・キリストは、それにより、歴史的にも、法律的にも認められる死を経験なさいました。また、そのピラトの判決を用いられた神は、神の霊的な法律。律法を満足させる死をキリストに下してくださいました。ある意味で、ピラトは、キリストを実際に嫌がっていた人殺しではないかもしれません。しかし、彼には法律的な責任がありました。そのような公の権限は、イエスの死を単なる説話や一方的な主張ではなく、法的効力のある公の死として認められるようにするための手段となりました。 2.ピラトとイエス。 だからといって、ピラトに責任がないとは言えません。彼はイエス・キリストにどんな罪もないことを知っていたからです。彼には、イエスの処刑を求めるユダヤ人に対して拒否出来る力がありました。しかし、彼はユダヤ人のこの言葉に揺らいでしまいました。『ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』(19:12)イエスには罪がありませんでしたが、ピラトは、自分の権力のために、自分の地位を保つために、罪のない人に有罪の判決を告げてしまいました。本文の友という言葉は、ギリシャ語で二つの意味を持っています。一般的に、「友」という意味とローマ帝国の「信頼すべき臣下」という意味です。当時、『神の子』という名称は、ローマ帝国では、ローマ皇帝にのみ、使える言葉でした。そして、ユダヤの王という言葉は、ローマ帝国の支配を否定する反逆の言葉でした。自ら神の子、ユダヤの王と認めるイエス・キリストを釈放することは、ローマ帝国皇帝の存在を否定することに当たる意味でした。ユダヤ人たちは、これを狙ったのです。ピラトがイエスを釈放すれば、それはローマ皇帝の友、すなわち信頼すべき臣下として不適切な行為だったという意味です。ピラトは『自分の権力を保つか?罪のない者を釈放するか?』という絶体絶命の分かれ目の前に立ちました。結局、ピラトはイエス・キリストに十字架型を許し、不当な判決を下しました。そして、これは自分の前におられる真の神の子を否定する大きな罪になりました。 ピラトは自分なりに努めました。たとえ茨の冠、みすぼらしい紫の服であっても、イエスに着けさせた冠と紫の服は王を象徴するものでした。彼はこれをイエスに与えることによって『君たちが、自称王であり、反逆者であると告発する、その人は、何の力もない存在に過ぎない。彼には罪がない。』ということを示すために、わざわざイエスにそのような装いを身に着けさせたのです。それでも、ユダヤ人は満足していませんでした。イエスが自ら『神の子である。』という言葉を言うことにより、ユダヤ人の律法を破り、自分たちが崇める神の神聖を冒涜したという理由のためでした。これらのことを通して、ピラトはイエスについて、様々な知識を持つようになりました。神の子、ユダヤの王。そして彼の言動などを通じ、イエスが普通の人ではないということを悟るようになったのです。明らかに、ピラトも彼に尋常ではない力があることも感じたことでしょう。しかし、ピラトは、そのような悟りとは反対側に向かいました。イエス・キリストから漂ってくる真理を無視し、この地上での誉れ、権力、地位を、さらに追い求めてしまいました。それなりに努力した彼ですが、最終的に彼は、イエス・キリストを棄ててしまいました。神様から与えられる最後のチャンスさえも逃してしまったのです。そのため、彼は永遠にキリストを殺した罪人として世に記憶されることになりました。 2000年も経った今でも、福岡県の片隅でさえ、彼の仕業が記憶されています。『ピラトのもとで苦しみを受け。』 『ピラトは、お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 そこで、ピラトは言った。わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』(19:9-10)それでもピラトは、自分がイエス・キリストより上にある者だと思いました。イエス・キリストが神の子であるという話を聞いて、恐怖を感じた彼ですが、彼は目に見えない権威ではなく、目に見える権力を選んだのです。そのため、ピラトは権限について話したわけです。ここでの権限という表現は「エクスシア」というギリシャ語ですが、これは「皇帝の権威による権限」を意味します。ピラトはローマ皇帝に権限を委任された、イスラエルにあるローマ皇帝の分身のような存在でした。彼は自分がその地域で最も地位の高い者であること知っていました。彼はそれが自分の拠り所だと思ったわけです。しかし、主は言われました。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。』(19:11)しかし、主は、それより上にある方、目に見える世界と目に見えない世界を支配される『真の皇帝』神様をご覧になりました。神はすべての権威の上におられる権威です。ピラトは一介の人間に過ぎないローマ皇帝の権威に頼って権限を話しました。しかし、イエスは、そのより上にある真の権限を持っておられる神様を見上げられました。 結局、ピラトはローマ皇帝の権限を自分の砦にし、イエスを裁判の席に連れ出しました。『ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。』(19:13)一見、力のないイエスが、権力者ピラトの前に来て裁判を受けるように見えます。人間の目には、イエスは既に終わったことも同然でした。ところで、私たちはここで一つの表現に焦点を当てる必要があります。これはギリシャ語の『エカディセン・エフィ・べマトス』という言葉です。不思議なことに、この言葉には二つの意味があります。解釈の仕方次第で『ピラトは裁判の席に座った』。という意味にもなり、『イエスが裁判の席に座った。』という意味にもなるからです。もちろん、自然な解釈は、『イエスを裁判の席に着かせた。』ですが、ヨハネによる福音書の著者はわざわざこのような二重のイメージを含ませることを図ったのです。 『正しくないピラトは罪人として、裁判官であるイエスの前に立った。』ということでしょう。世の権力を自分の拠り所としたピラトは表面上では、イエスを裁きましたが、実に彼は神の正義の前でイエス・キリストに裁かれる存在になってしまいました。そのためか、キリスト教の伝説には、このような話が伝わってきます。 『ピラトは晩年にカリグラ皇帝によって、平民に降格され、流刑になった。結局、自ら命を絶った。』主の真理ではなく、この世のものだけを求めた彼は、今でも、イエス・キリストを殺した罪人として、多くのキリスト者たちに記憶されています。 締め括り レントの最後の主日です。私たちは、ピラトという不幸な罪人を通して、真の権力と偽の権力が区別できなかった彼の愚かさを学びました。キリスト者は、世界の視点とは異なる方向に進む者です。神の子キリストは、人の子である私たちの罪のために来られました。そして、私たちを神の子にしてくださいました。このように、キリストに出会った私たちは、どのような人生を生きて行くべきでしょうか?世の中の目に見えるものは、あまりにも派手で見事です。しかし、主の真理は私たちの目に簡単に見えません。キリストに従うべきか?ピラトに従っていくべきか?今日の聖書は、私たちに真剣に問うています。来週は受難週です。ここ数週間の説教を振り返って、私たちが進むべき道はどっちなのか、どのように生きていくべきなのか、考える一日一日になることを願います。一週間の生活の中で、主の恵みが豊かにありますように祈り願います。

神の子、人の子。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 18章28-40節(新205頁) 前置き ただ、イエスだけが人の罪を贖ってくださる神から遣わされた真の大祭司でいらっしゃいます。『キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(ヘブライ9:10-11)聖書はヘブライ書を通して、イエス・キリストが神から遣わされた、真の大祭司であることを明らかにしました。しかし、主は神ではなく、人の手によって立てられた偽の大祭司たちに苦しみを受けました。イエスは、この世の権力を追い求めた偽の大祭司たちを通して、この世に否定されました。 『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(ヨハネ18:17)また、イエスの一番弟子であると、自他共に認めたペトロさえ、イエスを否定しました。主はペトロと代表される、教会からさえも、否定されたわけです。イエスは、この世だけでなく、ご自分の身内にも、否定されることによって、すべての人に拒まれました。なぜ、イエスは、世からも、教会からも否定されたのでしょうか?『彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。』(イザヤ53:5)それはまさに、主が否定される代わりに、罪人が認められ、彼が苦しみを受けことによって、不義な人類に癒しをくださるためでした。イエスは、すなわち、不義な罪人のために、代わりに否定と苦難を受けられたのです。 1.バラバ、人の子。 このように、主は、大切なご自分の命を捧げて、罪人を救ってくださいました。ご自身が滅ぼされるべき罪人の立場に降っていかれ、罪人をご自分の栄光の立場に引っ張り上げられたということでしょう。これは、特に今日の本文の最後の言葉で明らかに示されています。『過越祭には、誰か一人をあなたたちに釈放するのが、慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。すると、彼らは、その男ではない。バラバを。と大声で言い返した。バラバは強盗であった。』(ヨハネ18:39-40)今日の最後の言葉を始めから取り上げる理由は、このバラバという名前の示唆するところが大きいからです。『ピラトは、人々が集まって来たときに言った。どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。』(マタイ27:17)ヨハネ福音書ではバラバという名前だけで書かれていますが、マタイ福音書では、フル・ネームのバラバ・イエスと記されていることが分かります。イエスという名前は、私たちが信じている主の名前です。ところが、偶然にも、この強盗死刑囚の名前も、イエスでした。 イエスは旧約聖書に登場するイスラエルの指導者、ヨシュアをギリシャ語に読んだものです。ヨシュアは『主は救いである。』という意味です。イエスも、そのような意味の名前でした。ある本で読んだ話しですが、昔の日本では、太郎や花子のような名前が多かったそうです。イエスの時代のイスラエルでイエスという名前は、まるで太郎や花子のようにかなり一般的な名前だったようです。名前の内容も神を賛美するものであり、旧約聖書のヨシュアという人も、偉大な信仰の人物だったので、多くの人に愛用されたことでしょう。しかし、そのような一般的な名前だからといっても、キリスト・イエスとバラバ・イエスとの間には雲泥の差があります。この時代のイスラエルでは、ヘブライ語ではなく、アラム語というヘブライ語に近い言語を主に使用していました。バビロン捕囚の時代を経て言語が、かなり変わったわけです。アラム語で『バル』は息子という意味です。そして、『アッパ』は父という意味です。つまり、バルにアッパを加えた『バルアッパ』バラバは『父の子』という意味です。 私たちは、『天にまします私たちの父よ。』という言葉をもって祈りを始めたりします。そのため、このバラバという名前のアッパ、すなわち、父が神様を意味すると考えるかもしれません。バラバ、父なる神の子、本当に格好いいのではないでしょうか?しかし、我々が必ず知るべきことは、イエスが来られる前には、人が神を父と呼ぶことが許されなかったということです。不従順と罪の歴史を持っている、私たち人間は、あえて神に父と呼ぶことが出来ない、資格のない存在でした。しかし、イエス・キリストの贖いによって、やっと人間は神を父と呼ぶことが出来るようになったのです。その前には、神を信じるといっても、神のしもべに過ぎなかったのでしょう。つまり、バラバとは神の子という意味ではありません。バラバは父の子、自分の罪のために苦しまなければならない人間の息子。すなわち、人の子を意味するものです。 2.人の子たちの愚かさ。 人の子。どこか、たくさん聞いた言葉ではないでしょうか?『人の子が、仕えられるためではなく 仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと、同じように。』(マタイ20:28)イエスは、福音書でご自分を指す時に、「人の子」という言葉をよく用いられました。これを通して、イエスが自らをバラバと言われたといっても過言ではないだろうと思います。神の御子イエス・キリストが自らを人の子であると示されたというのは、果たしてどのような意味なのでしょうか?もちろん、主は自らを謙虚に低めるために人の子という別称を用いられたかも知れません。しかし、それだけでなく、さらに罪によって死ぬしかない罪人の立場に、ご自分が身をもって立ち、罪人に仕えるために、自分自身のことを人の子であるとなさったことではないでしょうか?イエスは神の子でいらっしゃいました​​が、自らが人の子、バラバになり、罪人の苦しみと悲しみ、罪による死のところに行かれたということではないでしょうか?今日の本文の最後の言葉は、このようなイメージを私たちに示しています。『神の子が、人の子の立場に行かれた。それによって人の子は、死から救われて、代わりに神の子とされた。』これが今日の言葉が、私たちに示している主の恵みだと思います。 しかし、人々はこのように人の子を愛してくださった主イエスの心が分かりませんでした。誰よりも、神の御心をよく知り、従うべきであった大祭司は、神のご計画も分からないまま、ただ自分の利益のために、キリストの死を望んだ者です。『一人の人間が、民の代わりに、死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。』(18:14)神はこのような邪悪な者の口を借りて、お一人、キリストの死によって、多くの命が救われるようになると教えてくださいました。しかし、そのようなことを告げたことにも拘わらず、大祭司は、ただ自分の利益のために、一人のキリストが死ななければならないと思っただけです。つまり、彼は自分が何を言ったのかも、知らなかったわけです。『ペトロは打ち消して、違うと言った。』(25)教会を代表する使徒たちの中でも、イエスの一番弟子であったペトロは、失望と不安の中で、イエス・キリストを否定しました。彼はイエス・キリストを完全に信じていなかったかも知れません。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』(ルカ9:22)イエスが明らかにご自分が復活されると教えてくださったことにも拘わらず、ペトロは権力者イエスの片腕になろうとしていた自分の考えと野心に陥って、主の御心を正しく知らず、誤解していたわけです。 イスラエルの群衆は、邪悪な大祭司やファリサイ派の人などによって煽られて、一週間前にホサナを叫んで歓迎していた姿とは違って、イエスを十字架につけろと叫びました。イエスが自分たちが願っていた権力者ではないことに気が付いたからです。彼らが追求したのは、イエスによる神の国ではなかったかもしれません。彼らは帝国の皇帝としてのイエスを期待したかも知れません。『祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、十字架につけろ。十字架につけろと叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない。』(19: 6)ローマ帝国の総督であったピラトは、いかがでしょうか?キリストから罪が見つからなかったことにも拘わらず、イスラエルの多数がせがんできて、イエスを十字架に押し込んでしまいました。罪人である人の子、バラバの代わりに、神の子、イエスを捨てたのです。『地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』(詩篇2:2)の言葉のように、人々は神の油注がれた者、神の子イエス・キリストに逆らい、殺そうとしました。このすべての愚かな人々、皆が人の子であり、誰もが、バラバだったのです。しかし、イエス・キリストは、自分自身を迫害する、このすべての人の罪のために、自ら人の子バラバになってくださいました。そして、父なる神の御心に聞き従い、十字架の道に進んで行かれました。 3.イエス・キリストが証する真理‐神の国。 ピラトはローマ帝国から派遣された、イスラエルの本当の権力者でした。イスラエルで彼に反抗する人はいませんでした。イスラエルの王であったヘロデも、権力者であった大祭司も彼に逆らうことが出来ませんでした。彼は、イスラエルの王のような人物でした。しかし、実は彼も人の子に過ぎなかったのです。彼も結局、バラバの立場にあるべき一介の人間だったということです。『ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、お前がユダヤ人の王なのかと言った。』(ヨハネ18:33)そのようなピラトが、真のイスラエルの王であるキリストにお前がユダヤ人の王なのかと尋ねてきたのです。皮肉なことに、罪人の王が、義人の王に『本当の王なのか』と尋ねる愚かを犯したということです。『イエスはお答えになった。私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。 』(36)そんな彼に、主は『私が王であることは、確かである。しかし、私の国はこの世のものではない』とお答になりました。 神の子である主が、人の子らに苦しめられ、死まで至ることになりましたが、彼らを憎まず、愛してくださった理由は、イエス・キリストの御心が人の思いよりも遥かに高くにあったからです。人の子は、ただ自分の目に見えるもの、自分たちの測りうるものだけを見ようとします。すなわち、この地にある自分の有益だけに心を尽すということです。これは、ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、すべての人に同じ事柄です。そして、これは私たちにも該当するものなのです。しかし、主は、ご自分の有益ではなく、ご自分の苦難によって成就される、人の子らの救いと神の御国の成立を眺められたのです。神の子において、人の子の立場に来なければならないという、義務はありません。罪を犯し、神から離れたのは人間のほうだったからです。神様は何の理由もなく、人間を捨てられたことではありません。人間が先に神様に不従順したからです。人々が罪のため滅ぼされても、神には何の被害も及ぼされません。それにもかかわらず、むしろ、神は最後まで人間への責任を負い、ご自分の被造物である人間を生かそうとなさいました。しかも、御子イエスを捨ててまでです。神はこれらのすべての罪人が赦しを受けて、キリストを中心として一つになる真の平和と愛の国を望まれました。イエス・キリストはこのような神の国を望んでおられたのです。 『そこでピラトが、それでは、やはり王なのかと言うと、イエスはお答えになった。私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。』(37)キリストが、この世に王として来られた理由は、権力者になって君臨するためではありません。彼が来られた理由は、真理について証しをするためでした。ピラトはイエスに『真理とは何なのか?』と問いました。これは私たちもすべき質問でもあります。過去、私はローマ2章の説教をしながら、真理の意味について、お話しました。聖書が語る真理とは、『表だけに見られる現象ではなく、ある物事の背後に隠れている本当のことを意味する。』と言いました。イエス・キリストがこの世の王として来られたのは、目に見える大帝国(表)を立てるためではありません。それより、目に見えない神の国(真理)を立てるために来られたのです。この世のことしか、知らなかったピラトは、イエス・キリストが夢見た本当のこと、即ち、真理とは何か、分かることが出来ませんでした。ここでの主イエスが証しした真理とは神の国の成立です。世の帝国より、はるかに大いなる神様が、手ずから治められる、神の国がイエスによって成し遂げられることです。これこそが本当の真理まのです。すべての罪人が罪による死の恐怖から抜け出し、神の子として、互いに愛しあい、神のご意志を成し遂げていく神の国。それこそが、神の国、イエス・キリストが仰る真理なのです。そこは神に許された人だけが享受できる国です。その国は神の子という身分がある時だけ、堂々と入ることができる所です。この世の人類、すべての罪人が持っているバラバ・イエス、人の子という身分としては許されません。しかし、キリスト・イエスによって神の子という身分にされた人は、罪人ではなく、義人として、神の国に入ることになります。『人の子であるあなたは、私によって、神の子となりなさい。そして、神の国に入りなさい。』イエス様が伝えようとした真理は、これなのです。 結論。 イエスは神の子です。神の子という言葉は、神の被造物という言葉ではなく、父なる神と同等の立場にたっているという意味です。須恵町の信徒たち、志免町の信徒たち、韓国からの牧師夫婦。私たちは、故郷、家柄、状況は異なりますが、人間という点では同じです。イエスは御子と呼ばれますが、父よりも劣る存在ではありません。つまり、彼も偉大な神様であるということです。この神様自らが人となられ、人間にご自分の特権を分けてくださいました。そのため、私たちは神の子となることが出来るのです。神の子になったので、私たちは恐怖と不安を追い払い、神の子と認められ、神の国に入ることができます。ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、そして、私たちまで、すべての人は、この世の目に見えるものだけを追い求めていました。しかし、イエスは、すべての罪人を赦し、神に至る道を開いてくださいました。我々は皆、バラバなのです。我々は皆、人の子です。しかし、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、もはや人の子ではなく、神の子として生きていくことができます。このために、主が私たちに来てくださったのです。この一週間、神の子として召された私たちの在り方を省み、主の喜びとなる人生を生きていきましょう。皆様の上に主の恵みがありますように祈り願います。

否定されるイエス。

聖書朗読  イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 18章12-27節(新204頁) 前置き イエス・キリストはご自分を信じる者に神との和解の道を開いてくださいました。神の子であり、神ご自身である主が自分の特権を棄て、この地上に来られ、多くの人々にご自分の特権を分けてくださいました。 『自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』(ヨハネ1:12)その特権は、まさに神に捨てられた罪人が主への信仰によって、神の子となる特権です。主を信じる者は、キリストのお蔭で、神の子となる資格を得ることになります。そして、その資格によって、罪人が神に禁じられた神の国の民になることが出来ます。 『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』(ヨハネ1:4)主を信じる者は、罪と死のために道に迷っている真っ暗な人生から抜け出し、暗闇を照らす真の光を得ることができます。主イエスは、このように苦しんでいる民を救ってくださるために喜んで、皆の救い主として来られました。しかし、今日の本文では、ご自分の民も、この世も、イエス・キリストを打ち消し、拒みました。なぜ、イエス・キリストは御愛と御救いとを持って来られたにも拘わらず、打ち消されたのでしょう?そして、そのように否定されたイエス・キリストを、私たちはどう思うべきでしょうか?今日は否定されるイエスという題で皆さんと一緒に御言葉を分かち合いたいと思います。 1.ご自分の民に否定されるイエス 先週イエスは、自分を捕まえるためにやって来たローマの兵士とユダヤ人たちにわざわざ捕らわれてくださり、代わりに弟子たちを生かしてくださいました。主は力なく逮捕されたのではなく、弟子たちを救うためにわざわざ逮捕されたのです。これは、主の民のために、ご自分が代わりに死んでくださることを予め示す出来事でもありました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(18:8)しかし、主のこのような姿とは違って、弟子たちは皆、主を捨てて逃げてしまいました。これと繋がる有名な場面が、ペトロがイエスを三度も打ち消した話です。『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(18:17)15節の言葉を読むと、主に従った、ある弟子の一人が大祭司の知り合いであったと記されています。おそらく、この人はヨハネによる福音書の著者である使徒ヨハネだと思います。どんなわけで、一介のガリラヤの漁師であった使徒ヨハネが大祭司の知り合いだったのでしょうか?ある聖書学者たちによれば、案外にヨハネの家は裕福だったそうです。つまり、ヨハネ、本人ではなく、彼の父ゼベダイの方が大祭司とも会ったことのあるほどの金持ちだったということです。だから、門番の女中は、このヨハネに無礼に振舞うことができない立場だったということでしょう。従って、彼の知り合いであるペトロにも失礼な態度を取ることができないはずでした。 ギリシャ語のニュアンスどおりに翻訳すると、彼女は、かなり丁寧にペトロに尋ねたことが分かります。 17節をもっと詳しく翻訳してみましょう。 「あなたがイエスの弟子である、あのヨハネさんと一緒にいるのを見れば、あなたもイエスの弟子ですよね?そうではありませんか?」この言葉には、どんな脅かそうとする意図も、追い詰めようとする姿勢もありませんでした。しかし、ペトロはきっぱりと否定しました。 「違う。」時間が経ち、今度は周りの人たちから『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』(25)と聞いてもらいました。今度は、前の女中とは違って、少し強圧的な質問でした。ペトロは再び否定しました。するとそばにいた大祭司の僕の一人が『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』(26)と明らかに目撃した人として追い詰め、ペトロに問い質しました。しかし、最後まで、ペトロは口を極めて否定しました。その時、主の言葉どおり、鶏が鳴きました。ペテロは、柔らかな質問から、鋭い問い質しまで、全面的に主を否定したのです。ペテロは、いつも主の一番弟子という自負を持っていました。なので、自分は、いつも主と共におり、共に死ぬだろうと言い放ちました。しかし、その一番弟子という自負は、果たして純粋なものだったのでしょうか?彼は神の子と呼ばれるイエスが、この世の価値に相応しい偉大な存在、つまり、王のような権力者になると思っていました。 もちろん、その心にかすかな信仰もあったと思います。しかし、マルコの福音書10章でヤコブとヨハネの兄弟が『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』と願った時、ペテロも、その言葉を聞いて、他の弟子たちと一緒に腹を立てました。このように、彼の主な関心は、イエスによる世の権力にあったのではないでしょうか?また、ペテロは主が御自分の死を予告されたとき、主の死を否み、主が逮捕されたとき、剣を振るって、主を守ろうとしました。果たして、これは本当に主を守ろうとする振舞いだったのでしょうか?自分の野望を守ろうとしたことではないでしょうか?主はペテロの裏切りを既に知っておられました。『ペトロが、たとえ、皆が躓いても、わたしは躓きませんと言った。 イエスは言われた。はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度、わたしのことを知らないと言うだろう。』(マルコ14:29-30)ここで、私たちは『自分だけは、決して主を離れない。』と誓ったペテロから、私たちの姿を見つけなければなりません。私たちが、イエスを信じる理由は何でしょうか?イエスが私たちを楽園に導いてくださるからでしょうか?この地上で私たちと家族を幸せにするために守ってくださるからでしょうか?あるいは、教会に来ると心安らかになるためなのでしょうか?それとも、毎週、祝福の祈りを受けることができるからでしょうか?米国や欧州、韓国のように、キリスト教の規模が大きな国では、政治家たちが自分の評判や選挙のために信仰なく、教会に通う場合があると言われます。私たちは、いかがでしょうか?もし、主が自分に役に立たなくても、私たちは主を主だと認められるでしょうか? イエスの弟子たちは、使徒と呼ばれ、教会を創り上げる大事な役割を務めました。ペテロはその中でも、イエスの弟子たちを代表する大切な人物です。カトリック教会では、ペテロを一代の法王であると考えています。イエス様もペテロを特別に扱われました。ところが、このようなペテロがイエスを否定しました。力のないイエス、弱いイエスに失望したのかも知れません。イエスのせいで被害を受けることを恐れたのかも知れません。重要なのは、教会を代表する人物がイエスを否定したということです。教会はイエスの体と呼ばれる共同体です。しかし、教会も、イエスを捨てることがありえます。自分の欲望を満たしてくれないイエス、自分の助けにならないイエス、自分の願いを叶えてくれないイエスに気づいたとき、ひょっとすると、私たちも今日のペテロのように、主を断固否定するかもしれません。私たちの信仰はいかがでしょうか?私たちは、どんなことがあろうとも、イエスを否定しないで、主と一緒に苦しみを受けることが出来るでしょうか?私たちのイエス・キリストへの信仰が、どのような躓きの石も乗り越える純粋な信仰であることを望みます。鶏が鳴き、後悔したペテロのようになる前に、どのようなことがあっても、主を認めて従う私たちになることを願います。 2.世に否定されるイエス 逮捕されたイエスは、イスラエルの権力者たちに連行されました。当時、イスラエルの大祭司は、カイアファでした。しかし、イエスは、まずカイアファのしゅうとであるアンナスのところに連行されます。『まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファの舅だったからである。』(13)アンナスは当時の大祭司ではなく、大祭司の舅というだけなのに、なぜ、イエスは彼のところに、 まず、連れられたのでしょうか?その時、イスラエルはローマの支配を受ける植民地でした。ローマは、出来るだけユダヤ人の信仰と伝統を認めて支配しましたが、それでも、植民地であったため、民族主義的な権力が生じることを懸念しました。そのため、もともと、終生職であるべき大祭司がローマ総督の指示の下で、数年ごとに変わりました。アンナスも、そのような過去の大祭司の一人でした。しかし、このアンナスの権力は強大でした。今日の本文の時の大祭司が彼の義理の息子であり、アンナスの5人の息子は、皆、歴代の大祭司として権力者になりました。つまり、アンナスは大祭司を左右することが出来るほどの目に見えない本当の権力者でした。主はこのような権力の頂点に立っている者のところに、まず連行されたのです。 続いて、イエスはアンナスの娘婿であり、当時の大祭司であるカイアファのところに連行されました。イスラエルの大祭司は、イスラエルで最高の権力者の一人でした。この時、イスラエルには、サンヘドリン公会という機関がありました。それはイスラエルがバビロンの捕囚から解き放された後、イスラエルの自治のために生まれた組織です。サンヘドリンは大祭司、ファリサイ派、サドカイ派、総計71人が集まり、まるで、今の国会、裁判所のように、イスラエルを治めました。後、ローマ総督は、この組織を操るために、直接、大祭司を任命しました。つまり、大祭司はそのサンヘドリン公会の代表であり、親ローマ派の者でした。したがって、大祭司は、単に宗教指導者を超えて、政治的にも多くの影響を持つ者でした。宗教権力も、世俗権力も、両方握っているものだったという意味でしょう。しかし、アンナスもカイアファも最終的にはローマ帝国の操り人形に近かったのです。彼らは神の御心によって選ばれた大祭司ではなく、世の権力によって立てられた大祭司でした。彼らは人間が立てた偽りの大祭司であり、律法に認められない偽者でした。彼らは神の律法より、ローマ帝国の権力に近い世の権力に属していたのです。彼らの興味は神の意志よりも、世の権力にあったからです。 大祭司たちの仕業の例を取り上げてみましょう。イスラエルの成人男性は過越祭、七週祭、仮庵祭の3大祭りにエルサレムの神殿に上り、神様に献げ物を捧げる義務を持っていました。『男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。 あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。』(申命記16:16-17)そのため、民は自分が心を込めて育てた生け贄の動物を、エルサレムまで連れて行って捧げました。しかし、傷のある物は捧げてはならないという律法の命令ため、行く途中、傷が生じたりすれば、その動物は使えないようになりました。大祭司は、それらのことを悪用し、神殿で商売をしました。傷のある動物を安く買い取って、その動物を綺麗だと騙し、高く売却した。ローマの銅貨には、皇帝の顔が描かれていて、偶像のものだという口実を設けて、イスラエルのお金に両替させました。このような正しくない方法によって、大祭司は莫大なお金を稼ぎました。イエス・キリストが神殿の商人たちを追い払われた出来事は、このような背景から理解する必要があると思います。神殿でのイエスの行為は、大祭司が聖であると認めた神殿商売の腐敗した面を暴き立てることでした。そのため、大祭司はイエスを目の敵にしたはずでしょう。 イエスは神の御心に逆らう、大祭司たちの悪行を指摘し、治そうとなさいました。その反面、大祭司は人を生き返らせ、イスラエルの悪い習わしを治し、人々を癒すことによって、人気を得たイエスを憎みました。自分らの立場が揺らぐと思ったわけです。『大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。』(19)大祭司はイエスを排除しなければ、自分の権力が危ないと思いました。そのため、イエスの教えを尋ねたわけです。彼は、すでにイスラエルの大祭司という名目から外れ、神の外にいる存在でした。彼はこの世の空中に勢力を持つ者の手下のような存在でした。 『イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるかと言って、イエスを平手で打った。』(2​​2)正しいことを教え、正しい道を示されたイエスは、大祭司の悪により、苦しみを受けることになりました。この世の偽りの大祭司が、神から遣わされた真の大祭司を否み、裁いたのです。世の権力者たちは、自分たちの利益のために、不正や悪行を犯したりします。そのような人々に正義を貫くキリストの福音は迫害を受けます。教会が主の言葉に徹底的に聞き従い、正しく変えようとするなら、迫害を受けることは決まっているでしょう。それでも、教会は、主に従って正しいことを行いつつ、生きるべきでしょう。この世の方式に妥協する瞬間、私たち教会は、偽りの大祭司のようになり、主さえも認めることが出来ないようになるでしょう。 締め括り 孤独なイエス イエス・キリストは弟子たち、すなわち教会に否定されました。そして、イスラエルの権力、すなわち世にも否定されました。皆が自分の野望と欲望のために、真の神の声を否みました。この世に救いと命を与えるために来られた主は、ご自分に従っている者、ご自分を憎んでいる者、両方から拒まれ、否定され、十字架につけられました。主イエスは、この世のすべてのものに徹底的に否定されたのです。キリストは、なぜ、そのように皆に否定されて、孤独に死んでいかれたのでしょう? 『わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。』(イザヤ53:6)教会も、世も、自分の罪を自ら赦すことができません。旧約の生け贄にも、傷のある羊は生け贄に使えませんでした。ただ罪がなく、傷のない生け贄だけが、人の罪を代わりに背負うことが出来ました。罪のないキリストだけが、人の罪を代わりに背負うことが出来るという意味でしょう。罪を背負うことにおいては、他の誰の哀れみも助けも要りません。ただ、私たちの罪を背負ったイエス・キリストと罪を裁かれる神様との問題なのです。主が徹底的に苦しんで捨てられたのは、もともと私たちのものでした。主が感じられた孤独は、私たちが感じるべき孤独でした。苦しみを受けるイエス・キリストは、皆に否定され、一人でご自分の道を歩んで行かれました。しかし、主は、最終的に復活され、世の罪を赦してくださるでしょう。そして、ご自分が受けてくださった、私たちが経験すべき否定と孤独の代わりに煌びやかな喜びを私たちに与えてくださるでしょう。否定されたキリストによって、私たちは神様に認められました。私たちは、主を否定しましたが、主は私たちを認めてくださったのです。否定されるキリストを覚えつつ、主の愛を覚え、私たちが受けるべき苦難を代わりに受けてくださったイエス・キリストに賛美と感謝をささげる一週間なるように祈り願います。

父から与えられた杯。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書18章1‐11節(新203頁) 前置き 去る2月26日はレントの始まりを知らせる灰の水曜日でした。なぜ、灰の水曜日と呼ぶかというと、昔のキリスト者たちは、イエスの苦難を意味する灰を額に塗り、主の犠牲と愛を覚えつつ断食と祈りでレントに臨んだからだそうです。今でも、これを記念し、そのような伝統を受け継いでいる教派があるそうです。主の苦難を忘れず、覚え、参加しようとした信仰の先輩たちの心が、しみじみと感じられます。先週、私たちは罪人アダムの子孫という立場から、正しいキリストの民の立場に変えさせてくださる主の愛について、考えてみました。そのすべての恵みは、主イエス・キリストの苦難と愛によるものです。昨年の後半には、ヨハネによる福音書を学び続けましたが、今年のレントと受難週、イースターに分かち合うために、しばらくお休みし、ローマの信徒への手紙に取り組んでまいりました。今日からイースターまでは、残りのヨハネによる福音書を再び分かち合いながら、主がご自分の民のために、どのようなことをしてくださったのかを話していきたいと思います。主の苦難と復活を考えるとき、私たちは必ず考えざるを得ないことがあります。主の死は、私の罪の死であり、主の復活は、キリストの命による、新しい人としての私の復活だということです。主の死と復活は、すなわち私たち自身と密接な関係を結んでいるものです。これらの関係を黙想しながら、レントの期間、主の苦難と復活を記念して過ごして行きたいと思います。 1.園の中に入って行く。 『こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』(1)イエス様は受難の一週間前に、エルサレムに入って行かれました。ヨハネによる福音書は、その後、すぐに聖晩餐に背景を移しますが、他の福音書を見ると、その間に多くのことがあったことが分かります。主は神殿に入り、商人を追い出されました。清くなった神殿で教え、神殿の向こう側であるオリブ山でも説教をなさいました。腐敗したユダヤ人の指導者との論争もありました。そして、神に聞き従わないイスラエルの民を見て、お嘆きになりました。このような、忙しい一週間を過ごし、十字架の苦難を前にして、過越しの晩餐を準備させ、弟子たちと一緒に時間を過ごされました。主は弟子たちの足を洗い、『仕える王』というキリストの本質を示してくださいました。また、キリストを通して、聖霊が来られること、聖霊を通してイエスが弟子たちと永遠に共におられることを教えてくださいました。最後に、主を信じる者と全人類のために、切に執り成しの祈りをしてくださいました。 1節に出てくる『こう話し終えると』での『こう話す』というのは、まさに主が救い主であること、弟子たちを守ってくださること、聖霊を送ってくださることの予告と神と人間の間でなさった、慰めと和解の執り成しの祈りを意味することです。 その後、主は弟子たちを連れて、キドロンの谷の向こうへ行かれました。キドロンの谷は、エルサレムとオリブ山を横切る低い地域です。そこを20分ほど通り過ぎると、イエス様がしばしばお祈りになったゲッセマネの園が出てきます。今日の1節で取り上げられている園は、まさにこのゲッセマネの園のことだそうです。ところで、なぜヨハネによる福音書は、詳細地名を省略し、向こう側の園と話しているのでしょうか?これはヨハネによる福音書の特徴であるからです。ヨハネによる福音書は、イエスが旧約の神であるということを示すために、多くの旧約聖書のイメージを借りて使用しました。例えば、ヨハネ1章1節『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』という言葉は、神の言葉と呼ばれるイエス・キリストが旧約の造り主であったということを『初めの言』と象徴的に表しているのです。今日の言葉に出てくる『園』という表現も、このような象徴的意味を持っています。聖書の中で一番最初に園の話が出てくる箇所は創世記です。 『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。』(創世記2:8)初めの園は、神の平和と秩序に満たされていた美しい所でした。園のどの場所においても、何ものも害を加えず、滅ぼすこともありませんでした。しかし、神を裏切る罪を犯した初めの人は、主の呪いを受けて、その場所から追い出されることになりました。それ以来、神の園は人間が入ることを許されない、失われた楽園になりました。その園の門は神だけが開くことが出来ます。つまり、神に招かれた人だけが入ることが出来る所だということでしょう。この園というのは、神の国、御国を意味する象徴物なのです。 園は人間に許された空間ではありません。罪人である人間は、自力では決して入ることができません。『そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』もちろん、本文に登場する、この園はエデンの園ではありません。しかし、ヨハネによる福音書は、創世記の園というイメージを借り、象徴的に用いて、イエスと一緒にいると、禁じられた園に入ることが出来るというニュアンスを漂わせています。ここで私たちが分かることは、イエス様によって、人間は初めの人のように神の園に入ることを許されるということです。十字架の苦難は、イエスの弟子たち、すなわち主を信じる者を、失われた神の園に招くための最初の段階となります。イエス様は苦難を受けられましたが、その苦難のお蔭で、主を信じる者は、園というイメージで表現される神の統治と愛に入ることができるのです。主がこの世に来られた理由、苦難を受けられた理由は、神に捨てられた罪人を新たにし、神の民としてくださるためです。人間に許されない園でしたが、イエス様と一緒なら、入ることが出来るように、私たちはイエス様を通して神の民となることが出来、神の国に入ることができるのです。今日、園の物語を通して、私達を神に導いてくださるイエス様の愛と恵みを悟り、感謝すべきだと思います。ひたすら、イエスと一緒なら、私たちは神に向かって堂々と進むことが出来ます。主イエスは、このために、私たちの間に来てくださったのです。 2.世の光である主と松明と灯火を持つ人々。 ヨハネによる福音書には、イエス様がご自分のアイデンティティを定義づけてくださる部分が7ヶ所で出てきます。 『私は…命のパンである。世の光である。羊の門である。良い羊飼いである。復活であり、命である。道であり、真理であり、命である。まことの葡萄の木である。』この中で今日の本文と関わりのあることは『わたしは世の光である。』という言葉です。イエス・キリストはご自分を世の光であると宣言されました。世の光という言葉は、旧約聖書イザヤ書では、この世の中に臨むメシアを指す言葉です。 『先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。』(イザヤ8:24-9:1)エルサレムと比べると、弱者が多く住んでいたガリラヤは、イエス様の主な活動地域でした。ゼブルンとナフタリはガリラヤ地域を意味します。特に主が育たれたナザレはゼブルン地域にあるガリラヤの代表的な町でした。旧約聖書で神のご関心は、主に貧しくてみすぼらしい人々に向かいました。金持ちも貧しい人も、皆同じ人間ですがが、憐れみ深い神様は、神がいなくても関係なく、豊かに生きる金持ちよりも、目先の食べ物もなく、苦しみで呻いている貧しい人々に特に心を遣ってくださいました。 そのために、神が肉体を持って、イエス・キリストという名前で、この地上に来られた時、主にガリラヤ地域で活動し、その人々に癒しと愛を与えてくださったのです。イエス・キリストは、イザヤ書の言葉のように、ガリラヤの弱者たちの面倒を見、彼らに希望を与えてくださる世の光でした。そのため、主は自らが弱者の側に立ち、堂々とナザレのイエスと言われたのです。主は暗闇の中で呻いている民に光を照らされ、慰めと希望を与えてくださるの光の源でした。 『それで、ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯し火や武器を手にしていた。』(3)しかし、イエス様を裏切ったユダがローマの兵士とユダヤ人を引き連れて、世の光であるイエス・キリストのおられるところにやって来ました。過越しの夕方、真っ暗になって、何も見えない夜、裏切り者ユダの手引きによって、人々はみすぼらしい灯火を持ってイエスを逮捕するために来たのです。ここで、今日の2番目のイメージを見つけることが出来ます。松明と灯火と表現される人間の光です。神の光、永遠に消えない光、暗闇を明るく照らす無限の光というイメージを持っていたイエス様と比べると、人々が持ってきた松明と灯火は、いつでも消え得る有限の光でした。 『イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。』(4-5)主は、彼らが、なぜやって来たのかを知っておられました。主を信じる者を神の園に導いてくださる主、無限に輝く世の光である主が、小さな光に頼ってきた人々と対面されたのです。『イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。』(6)主のこの言葉を聞いた人々は、後ずさりして、地に倒れました。有限な光を持った人間が、無限の光である主の前に立った時、神の御前での被造物の本来の姿である『地に倒れる。』ようになったのです。神と人間の間にある無限の違いを示すものです。人間は富、権力、名誉などの、かすかな光を持って、まるでそれが絶対的な光ででもあるかのように、生きていきます。しかし、そのようなものは全て、永遠に消えない世の光であるイエスの御前では、何の力も持つことが出来ません。むしろ『後ずさりして、地に倒れる。』だけです。イエスは自ら死を決意し、彼らに捕らわれるようになさいましたが、彼らはイエスの前では後ずさりして、地に倒れるしかない、微々たる存在に過ぎませんでした。私たちは、この松明と灯火というイメージを通して、全能なる主と人間の弱さを比較して見ることが出来ます。実に人間は主の御前で何の光もない弱い存在に過ぎません。 3.父から与えられた杯。 園というイメージに見られる神の永遠の支配、人間の有限の光というイメージと相反する主の無限の光。これらのイメージは、イエス・キリストの特別さを示すヨハネによる福音書の特別な装置であります。主は、私たちを神に導いてくださる神の園の門番であり、人々には絶対に許されない、まことの光をお持ちになる方です。罪人がこのような主の御前で、せいぜい出来るのは、倒れることしかありません。人間は、それほど主の御前に弱い存在です。松明と灯火を持ってゲッセマネの園にやってきたローマの兵士たちとユダヤ人たちは、このように主に触れることも、害を加えることもできない存在でした。しかし、主は彼らにわざわざ捕まえられてくださいました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(8)主が彼らに逮捕された理由は、主の民を生かしてくださるためでした。『父が与えてくださった人を一人も失いません。』と言われたイエスの言葉が実現するためでした。なので、イエスは弟子達を生かすために、ご自分が捕らわれたのです。これから、主は十字架につけられ、死んでくださるでしょう。人々に引き連れられて、死ぬわけではなく、自ら死を選ばれるのです。なぜならば、イエスを信じる人々を死から自由にしてくださるためです。偉大な力と権威を持っておられる主でしたが、主はご自分の民を救ってくださるために自ら死を選ばれたのです。 『シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。』(10)時々、キリスト者は教会の大きさ、この世での影響力を前面に出し、教勢を通して、神様を示したがる傾向があります。しかし、主は人に頼らない御方です。主はいつも、自らの力でご自分の御心を成し遂げられます。ペトロは主を救おうとして、剣を使いましたが、主はむしろ、その力を止めさせ、自らを死に追い込まれました。ペトロのこのような行為は、主に何の影響も与えることが出来ませんでした。結局、ペトロのこのような行為も、人々が持ってきた松明と灯火のように微々たるものでした。 『イエスはペトロに言われた。剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』(11)イエスは救い主であり、世の光であります。しかし、主はそのような偉大さを後にして、父なる神の御心に聞き従われました。すべてが神の御心どおりでした。今日の本文に出てくる杯とは『神から与えられた苦難』を意味します。神である主は、自らが苦しみを受けることによって、微々たる弱い人間の手ではなく、偉大な神、ご自身の御手によって、救いと恵みの道を開いてくださいました。イエスは父なる神が与えてくださる杯を受けることによって、神と人との間にある壁を崩し、すべての人間が救われる道を開いてくださいました。そして復活した後に、真の神の園である御国に入ることができる道、神の永遠の光を享受する道を開いてくださいました。このすべてが、御父が与えてくださる苦難の杯を主イエスお一人がお受けになり、完全に神のご意思を成し遂げてくださったことによるのです。 締め括り 父なる神からいただいた杯を、御子のイエス・キリストが受けられました。これは、最初から最後まで完全に神様の事柄でした。この救いの御業に人の行いは全く役に立ちませんでした。私たちの救いは、ひとえに永遠の神によって叶えられたものです。レントを過ごしながら、私たちは、主の苦難を覚えています。しかし、主は弱いから、苦しめられたわけではありません。仕方なく苦難を受けられたことでもありません。主は全能なる方ですので、自らが苦しみを計画し、成し遂げられたのです。したがって、主の苦難による私たちの救いは、永遠に変わることのない偉大な御救いです。ですから、私たちは、主の苦難に涙を流すのではなく、その苦難の後、死に勝ち、復活された主の勝利に喜ぶべきことでしょう。イエス・キリストは、私たちを神の園に導いてくださる方です。イエス・キリストは、私たちに真の光を与えてくださる世の光です。このイエスが成し遂げられた完全な救いを喜びつつ、レントの終わりに復活される主を賛美する一週間を過ごしてまいりましょう。主が命をかけ、許してくださった救いを感謝し、賛美する一週間になりますよう祈り願います。

二つの人類

ホセア書 6章1-3節 (旧1409頁) / ローマ信徒への手紙 5章1‐21節(新279頁)  パウロは1-4章の言葉を通して世界のすべての人は罪と不義に束縛されている罪人であることを明らかにしました。これから逃れられる人はおらず、神に選ばれたと言われるユダヤ人でさえ、例外ではないということを教えました。しかし、神はご自分の計画を通じ、罪人が義とされる道を開いてくださり、その道がイエス・キリストへの信仰であるということを明らかにしました。キリスト・イエスの中ではユダヤ人も、異邦人も、主を信じる信仰によって差別なく、神に赦しを得、真の神の民となることが出来るのです。人は宗教的な行い、物事、象徴などではなく、ひたすら、ご自分の義を通して罪と死の力を打ち破られたイエス・キリストの義を拠り所にし、神に進んでいくことが出来ます。だから、イエス・キリストを信じる者は、老若男女貧富国籍を問わず、キリストの功績によって、神の御前で正しいと認められるのです。今日(きょう)、5章の言葉は、このイエスを信じる者たちは、どのような人生を生きるようになるのか、そして、イエスを信じる人が、信じない人と、どのように違うのか話しています。 1.神との間に平和と希望を得る。 今日の1-11節の言葉は、イエスを信じる者が神にいただく、平和と希望について話しています。イエス・キリストを信じて神に義と認められることの第一の賜物は、『神との間に平和を得る。』ということです。ここでの『得る。』という意味は、『神様と平和を共有する。』という意味です。もともと、初めの人は神と被造物とを執り成す被造物の代表でした。彼は神と被造物の平和のために生きる存在であり、神との平和が崩れれば、その存在の意味を失ってしまう神の分身のような存在でした。つまり、神との平和というのは、人間の存在理由だったということです。しかし、人間はエデンの園にいっぱい満たされていた神の平和を崩してしまいました。神から与えられた『知識の木の実』を貪ってしまったからです。神様が初めにエデンの園に置かれた『知識の木の実』は、特別な効果を持つものではありませんでした。それは、神が立てられた平和と秩序を意味する象徴物に過ぎませんでした。人は自らが神のようになり、神から分離独立することを企んで、『知識の木の実』を貪り犯してしまったのです。人間が『知識の木の実』に触ったということは、神との平和を拒んだという意味と同じなのです。それから、神と人との間には、平和が無くなってしまいました。神との和平を失った人間は捨てられ、彼を待っていたのは、罪と不義と死でした。聖書は、この初めの人をアダムと語っています。 『わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており。』(1)ローマ書が読み手に強調しているのは、そのような人間の不義による不和の中で、神が遣わしてくださった新しい仲保者によって、アダムの子孫が神と平和を共有するようになったということです。この新しい仲保者は、神に認められた完全な義人で、彼を信じる者に、自分の義を分けてくださり、自分のように神に正しいと認められるように執り成してくださる方です。 『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。』(2)また、彼を信じる者は、ひたすら、彼によって神の恵みの統治に入ることが出来るようになり、初めのアダムの罪のため、神から遠ざかった罪人という軛を脱ぎ捨て、神の怒りから自由になることが出来ます。さらに彼を信じる者は皆、彼の執り成しによって、神の怒りから自由になるだけでなく、むしろ、神の側に立ち、あえて人間が触れることが出来ない、神の栄光を自分の誇りにする特権も得られます。このすべてが、神から遣わされた仲保者を信じ、義と認められる時に可能になるのです。パウロが絶えず強調している、この仲保者がまさに主イエス・キリストなのです。 また、私たちは、この仲保者を通して第二の賜物を得ることが出来ます。それは、『信じる者の希望』です。『そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』(3-4)キリストによる神の救いは、ただ一度だけで完成されるものです。私たちが、基準を満たせば、救いが保たれ、基準を満たさなければ、救いが消えるということではありません。神はすでに救ってくださった者から、その救いを決して奪い取られません。つまり、神の救いとは、一度に完成されるものです。まるで親子が、いくら連絡をしていなくても、戸籍から名前を消しても、精神的、肉体的に親子の縁が切れないように、救いは、神と救われた民を最後まで繋ぐ、永遠の関係になります。かつては、私たちに怒りを発せられた審判者の神様が、キリストを通して私たちの希望になってくださるということです。つまり、私たちの身分が完全に変わるということです。聖書はこれを恵みと言いました。 だから、本当に信じる者は、キリスト者は、以降どのような苦難に遭っても、簡単に絶望しません。聖書は『苦難をも誇りとします。』と語っているのです。これが神様の裁きではないことを知っているからです。むしろ、このような苦難はキリストによる希望への忍耐を生み出します。忍耐が生じるということは、神様から与えられた信仰が、この苦難を通り過ぎて、ますます強くなっていくということです。苦難への忍耐が続けば、続くほど、信者は信仰の練達を受け、その練達によって神への信仰は、さらに大きくなっていきます。なぜなら、そのような苦難と忍耐と練達の道で、私たちを救い、再び捨てられない神様が永遠に共にいてくださるからです。つまり、神から与えられた希望は、いかなる悪にも邪魔されない、健やかな信仰をもたらします。私たちを一気に完全に救い、それ以来決して変わらない神への希望は、私たちの信仰をさらに強くし、神のもとへ行く終わりの日まで、私たちを守ってくれるでしょう。イエス・キリストを通しての神の平和と希望は、主を信じる者と、いつまでも共にあり、私たちの人生を神に導くことでしょう。 2.アダムの道、キリストの道。 今日、ローマ書は、平和の中で希望を誇りとすることが出来る理由は、キリストを通して私たちに与えられた、聖霊の導きがあるからだと教えてくれます。『希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』(5)神の平和と主への希望が、私たちに生じたといっても、それを私たちの自力で保たなければならないなら、それは中途半端な希望になるでしょう。しかし、主は三位一体の聖霊を私たちに送ってくださり、我々の人生の道を、私たちだけでなく、神様も一緒に歩んでくださることを保証してくださって、私たちに大きな慰めと力を与えてくださいます。この聖霊は、父なる神様と御子イエス・キリストから来られる御方です、私たちの弱さを助けてくださる助け主でいらっしゃいます。この助け主は父と息子の心を持って、私たちに仕え、愛してくださる方です。『実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。』(6)聖霊は、このようなキリストの心を持って、私たちが強いときにしろ、弱い時にしろ、相変わらず、私たちの道を導き、神の平和と希望を誇りとするようにしてくださいます。 このように、キリストを信じて救われた者たちは、聖霊の恵みのもとで、三位一体なる神と共に歩むことになります。それがイエスを否定する不義の罪人との違いです。今日の説教の題が『2つの人類』である理由もここにあります。聖霊のお導きを通して神との平和、神様が与えられる希望を誇りとして生きる、私たちキリスト者は、初めに神を離れて怒りの中で生きるようになったアダムの道から逃れた者だからです。私たちは、キリストを通して新しく示された平和と希望の道に立っている『新人類』であり、キリストを否定する者は、まだ裁きと怒りの下にある『アダムの道』に立っている旧人類です。『しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。』(14)最初の人アダムは罪人と表現される旧人類の代表として、最後のアダム、イエス・キリストは、義人と表現される新人類の代表として、両方、神の御前に立っています。アダムがイエス・キリストの『来るべき方を前もって表す者』だという言葉は、イエスが、アダムの代わりに、神に認められる新しい代表になってくださるという意味です。イエス・キリストを信じる者は、彼の義によって旧人類から新人類に生まれ変わる者なのです。 『一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。』(17)ローマ書は、人類がアダムという一人の罪を通して、罪に支配され、その罪によって、アダムとして代表される、多くの人が死ぬことになったと語っています。つまり、死が王のように君臨するということでしょう。また、イエス・キリストという新しいアダムを通して、彼を代表とする全ての信じる者らは、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けて、むしろ、イエスを信じる者、そのものが王のように支配すると語っています。ヘブライ書7章10節には、このような表現があります。 『メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいた。』(ヘブライ7:10)アブラハムが神の真の祭司メルキゼデクに出会ったとき、イスラエル民族の祭司となるレビ族はアブラハムの腰にあったということでしょう。この『腰にいた』という表現は、本当に腰にいたという意味ではなく、イスラエル民族に属している祭司の家系として、イスラエル民族の代表アブラハムがメルキゼデクに会ったとき、アブラハムによってレビ族もメルキゼデクに会ったかのように認められたという意味です。 アダムの子孫という言葉も、これに似ています。人類は直接『知識の木の実』を取り、食べる罪を犯したわけではありません。しかし、人間の代表アダムが、そのような罪を犯したということを通して、レビがアブラハムに属していたように、アダムに属している人類も、アダムと同じ罪に置かれるようになったということでしょう。つまり、アダムの犯罪は、人間の罪の性質を示す象徴的な部分でもあるでしょう。アダムという存在が旧人類の代表ということから、キリストによって義とされたことのない者は、依然としてアダムの道に立ち、罪の中にいるのです。しかし、キリストを通して義とされた者は、新人類として、キリストの側に立っています。罪と死に勝利した代表キリストに属しているので、彼を信じる者も、また罪と死に勝利した存在と認められるのです。このように、アダムの道から逃れ、キリストの道に立っている私たちは、先に説教したように、『神との平和、キリストによる希望』に一日一日を生きていくことが出来ます。この世の中には、二つの人類があります。アダムの旧人類と、キリストの新人類です。私たちは、主イエス・キリストによって、新しい人類として、この地上で生きていきます。私たちは、過去の罪人というアイデンティティから抜け出し、神の恵みと祝福の中で、罪と死に勝利した主イエスのように生きていく存在になりました。パウロは、ローマ書を通して、新人類に生まれ変わったキリスト者の幸せについて話したのです。これはただイエス・キリストの中でのみ、得ることが出来る空前絶後の神の恵みです。 結論 今日、旧約聖書はこう語っています。『さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。』(ホセア6:1)かつて、神様はイスラエルを自分の栄光にお呼びになり、ご自分の民としてくださいました。しかし、彼らは神を裏切ってしまいました。これは、特に選ばれたイスラエル民族も、人間の本性である罪から自由になることが出来ないという意味でしょう。聖書はそのようなイスラエル民族に『主のもとに帰ろう、主は我々を癒してくださる。』としました。これは、イスラエルだけでなく、すべての人類に同じように適用されるものです。アダムと同じ罪を持っている、すべての人類に神は御自分の栄光に招いておられます。『私に帰れ、私があなたを治す。』 主はイエス・キリストと呼ばれる新しいアダムをお遣わしになることによって、世界のすべての人類が神の御前に来て、恵みの内に生きる道を与えてくださいました。このキリストによる神の御招きは、今もなお有効なのです。私たちは主イエス・キリスト、お1人だけが、私たちを癒し、救ってくださることを信じ、その信仰によってイエス・キリストと共に進むべきです。その時、私たちは、『神との和平、信者の希望』を享受して生きることが出来ます。神は今日も私たちを招いておられます。キリストと共に神の御前に堂々と行き、平和と希望を持って生きていく一週間になることを祈り願います。