失敗した者のための恵み

列王記上19章1-8節(旧565頁) ヨハネによる福音書21章1-14節(新209頁) 前置き 復活節後の最初の主日を迎えました。今日は復活された主イエスのお歩みの中でガリラヤ湖畔でペトロと弟子たちに現れ、慰め、力をつけてくださった物語について話したいと思います。主イエスの生前、一番弟子と呼ばれたペトロは主イエスを絶対に裏切らないという約束を守れず「鶏が鳴く前に三度」イエスのことを知らないと言ってしまいました。(マタイ26:33-35) ペトロだけでなく、他の弟子たちもイエスが逮捕されると、皆見捨てて逃げました。そんな彼らはイエスが復活された時、どんな気持ちだったでしょうか?復活されたイエスを喜びで歓迎することができましたでしょうか? もしかしたら、弟子たちは自分が裏切り者であり、失敗者であると自責していたかもしれません。今日の新約本文では、そのような弟子たちに再び現れ、慰め、力をつけてくださったイエスの愛を覗き見ることができます。 1. ガリラヤ湖畔でご自分を現わされたイエス 「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。」(ヨハネ福音21:1)「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ福音21:14)今日の本文の始まりと終わりには「イエスが··· 現わされた。現れた。」という言葉があります。ここで「現わす。現れる。」は、ギリシャ語の「ファネロー」を訳した表現です。この言葉は「明白に現れる」という基本的な意味を持っていますが、単純に「隠れた何かが現れる。」みたいな物理的に現れることではなく、より深い意味を持っています。例えば、ローマ書1章19節「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」(ローマ書1:19) この言葉の中で「明らかだ」「示された」という表現が記されていますが、日本語の聖書には「現れる」「明らかだ」「示される」など、それぞれ異なる表現で書いてありますが、ギリシャ語では全て同じ「ファネロー」をベースにしています。このように「ファネロー」は神の啓示や御業を示すニュアンスの言葉として使われます。主イエスが現れられたのは、ご自分を裏切った弟子たちへの罰のためではなく、主の福音を世に宣べ伝え、主のための人生を生きる、新たな機会をくださるために、啓示のような意味としての行動だったのです。 私たちは主イエスに直接会い、目で見て、手で触って、口で話してから信じるようになったわけではありません。しかし、私たちはイエスが御言葉によって、ご自分のことを明白に示されたということを信じています。主がご自分のことを示してくださったから、私たちはイエスを主と認め、主を中心に教会を成すことができるのです。聖書は語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) 聖書は神の子イエス•キリストがすなわち神の御言そのものであると証します。ここで御言を意味するギリシャ語「ロゴス」は神の御心とも言えます。神は主の御言、主の御心そのものである御子イエス•キリストに肉体を与え、人々の間に遣わしてくださいました。だから、イエスが私たちに現れてくださったのは、神の「啓示」だとも言えるのです。この神の啓示は世のすべての人々に当たり前に示されるものではありません。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(ヨハネ福音書1:10) ひとえに主に選ばれた者だけにご自分を現わされ、啓示を知ように導いてくださるのです。復活されたイエスは失敗した弟子たちの前に「現れました」。そして、もう一度、主の弟子として生きるように特別な恩寵をくださいました。それは弟子たちを使徒らしく生まれ変わらせる主の啓示そのものだったのです。 2. ガリラヤに訪れたイエス 「イエスはティベリアス湖畔で」引き続き、ヨハネ福音21章1節の言葉を見ると、ティベリアス湖という言葉がありますが、これはガリラヤ湖の別の名です。(ガリラヤ湖の北西のティベリアスという町に影響を受けた。)イスラエルがアッシリアとバビロンに滅ぼされた後、イスラエル北部地域では異邦人との混血が生じたため、捕囚から帰ってきた純血ユダヤ人に認められない地域でした。ということで、ガリラヤ地域の人々は差別されていました。エルサレムがメージャーなら、ガリラヤはマイナでした。ところで、なぜ、エルサレムでイエスと一緒にいたペトロと弟子たちは、ガリラヤに帰ってしまったのでしょうか? イエスは彼らにご自分のこと、すなわち福音伝道の使命を与えてくださるために、3年間苦楽を共にしながら教えてくださったのにでしょう。エルサレムにそのまま残って、主のお働きを受け継いで活動すべきだったのではないでしょうか? もしかしたら、ペトロはイエスを裏切ったという罪悪感のため、すべてをあきらめてガリラヤに帰ってきたのであるかもしれません。ということで、私はエルサレムからガリラヤへの帰郷に、ペトロの挫折と悲しみが潜んでいるのではないかと思いました。「イエスを裏切ったのにどうして主の弟子として生きられるのか?」というペトロの挫折と悲しみでしょう。 イスラエル社会のメジャーであるエルサレムを離れ、マイナーであるガリラヤに帰ったということから、ペトロの気持ちをかいま見ます。しかし、主イエスはペトロと弟子たちを探してガリラヤに来られました。主なる神はメジャーだけを好まれる方ではなく、ご自分の民のためなら喜んでマイナーに向かって行かれる方です。罪人の救いために栄光の天の玉座を捨て、みじめな地上にまで来られたことからも分かります「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(ヨハネ福音21:9) 主はペトロと弟子たちに「パンと魚」の朝食を準備され、ペトロが罪悪感から自由になるよう慰めてくださいました。聖書学者の中には「パンと魚」が聖餐を意味すると解釈する人々もいます。聖餐を通して、キリスト者は自分がイエスに属する存在であることを確認します。もしかしたら、ペトロはその日の朝、「パンと魚」による聖餐を通して、自分が誰に属している存在なのかを再確認したかもしれません。イエスは赦してくださる方です。それによって、もう一度再出発する機会と力を与えてくださる方です。 3. 失敗した者を助け起こされるイエス イスラエルの神の預言者であるエリヤは偶像を崇拝する北イスラエルのバアルとアセラの預言者たちと対決して勝ち、彼らを皆殺しました。それは主なる神の恐ろしい裁きでした。ところが、北イスラエルの王アハブと王妃イゼベルは、神の裁き恐れずに、エリヤを絶対に殺すと警告します。そのため、エリヤは神も恐れず、自分を殺そうとする彼らを避けて荒野に逃げました。そして、彼はそこで死のうとしました。自分が失敗したと思ったからです。しかし、神は御使いを遣わされ、彼を慰めてくださいました。「彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。起きて食べよ。見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだと言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」(列王記上19:5-8) 私は今日の新約本文から、この旧約の本文を思い出しました。 私たちは、主なる神についてどう理解していますでしょうか? 毎週、教会に出席し、長年、説教を聴いていますが、本当に主が自分と近い方、自分を愛しておられる方という認識を持っているでしょうか? 罪を犯すと怒り、悔い改めなければ罰を下される怖い方、近寄りがたい方と思ってはいませんか。しかし、基本的に主が私たちを愛し、私たちが幸せに生きることを望んでおられる方だという信仰を持って生きるべきです。もちろん、主は正義の方ですので、罪を憎み、悪を嫌い、悔い改めない者を裁かれる方です。しかし、キリストによって救われた者たちには、もう一度悔い改めさせ、再び始めさせて、長い忍耐と愛とで待ってくださる方でもあります。改革派神学にはカルバン主義5大箇条というものがありますが(これについては次の機会に取り上げたいと思いますが) その中に「聖徒の堅忍」という項目があります。これは、主なる神は変わらない忍耐で主の民が人生を終えるまで、繰り返し罪を赦し、力を与えて導いてくださるということです。主は失敗した者を、決して見捨てられず、最後まで共に歩み、主のみもと暮らせるように助けてくれる方だからです。 締め括り 今日の新約本文のように、主のお赦しを受けたペトロは、主イエスの昇天後、初代教会の指導者として立派に福音を伝えました。そして、晩年には逆さまの十字架にかけられ、殉教します。彼は、死ぬまで決してイエスを裏切る人生を送っていませんでした。かえって、死を覚悟して主と教会に仕えながら生きました。彼の人生の変化に、赦し、慰め、力づけの主イエスの恵みがあったからではないでしょうか? 父なる神は主イエス・キリストを通して、今日も私たちの人生を見守っておられます。そして、私たちが失敗した時に叱らず、再び立ち上がることができるように助け、待ってくださいます。この失敗者に恵みを与えてくださる神のご恩寵を憶えながら生きる私たちでありますように祈り願います。

主イエスの復活

コリントの信徒への手紙一15章20-24節(新321頁) 前置き 主イエス•キリストの復活を喜びたたえます。この世のすべてを病ませ、滅ぼす死の権能に打ち勝ち、真の生命と永遠の喜びを与えてくださるために復活された主イエス•キリストの愛に感謝します。今日、主の復活を記念するために、ここに集っておられる皆さんに復活のキリストによる神の永遠の愛と恵みが豊かに注がれますように祈り願います。 1.復活の初穂 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(1コリント15:20) 今日の本文はイエスが眠りについた人たち、すなわち死者の初めての実になってくださったと語ります。ここで初穂という言葉が出てきますが、イエスの復活のみが有意義な本当の復活であるという比喩としての表現です。おそらく、これは、主イエスが十字架で亡くなられる何日前、弟子たちに言い残された言葉に由来するものだと思います。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24) イエスの死はこの世のすべての人が体験しなければならない終わりとしての死ではありませんでした。すべての人の生涯は、死によって終わります。死後、誰も二度と愛する人たちに会うことができず、誰も自分がどこに行くのかが分からず、誰も死を飛び越えて帰ってくることができません。そのため、人は死を恐れ、できるだけ長生きすることを願います。しかし、イエスの死は、そのようなただの終わりではありませんでした。むしろ、イエスは死に呑み込まれず、父なる神の御恵みによって、死を乗り越え、復活されました。さらにイエスはご自分ひとりだけ、再び生き返られるのではなく、主を信じるすべての民にご自分の永遠な生命を分け与えてくださる生命の主として復活されたのです。 古代のイスラエル人は、種の芽生える過程を科学的に理解していませんでした。 彼らは種が地面に撒かれると死ぬと考えました。しかし、その種の死によって、数多くの新しい実が結ばれると思うだけでした。主イエスは数多くの実を結ぶために、進んで地面に落ちて死ぬ一粒の種のように、より多くの人に真の生命を与えてくださるために十字架にかけられ亡くなりました。しかし、イエスはそのまま死に消えてしまったわけではなく、復活してご自分を信じる者たちをまた別の実として復活するように招き、生命を与え、民にしてくださいました。この主イエスを信じて自分の主にした人はイエスによって2番目の実として呼び出された者なのです。主イエスを知る前は、ただ死を恐れていましたが、今では、その死が終わりではなく、新しい始まりのための死であることを知っています。私たちにおいて、一度の死は絶対に訪れてきます。しかし、それによって私たちのすべてが終わりになってしまうわけではありません。イエス•キリストが復活され、その方が生きておられるかぎり、その方の2番目の実として招かれた私たちは、永遠の生命の中におり、イエスがこの地に再び来られる終わりの日になれば、私たちはその方がくださった生命によって新しく復活するようになるでしょう。 2.アダムによる死、イエスによる生命 「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:21-22) 本文はアダムとイエスを比べることによって、なぜ、私たちにイエス•キリストが必要なのかを簡潔に説明しています。今日の本文には、突然、アダムという旧約の人物が出てきます。なぜ、いきなり、何の関係もなさそうなアダムが登場するのでしょうか? 新約聖書ローマ書はこう述べています。「しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ローマ5:14) ローマ書はこの世に死が入ってきた経緯が初めての人間だったアダムの罪のためだと語っています。そして、彼の罪によって、アダムの子孫にも罪の影響が及ぼされ、この世のすべての人間が生まれつき罪人となり、また、その罪によって絶対に死ぬしかない存在となったと証しているのです。ところで、初めての人間アダムの罪と私自分の死には、何のかかわりがあるでしょうか? 聖書は「罪が支払う報酬は死である。」つまり、罪の結果は死だと語っています。私たち人間は罪人アダムの子孫として生まれたため、その罪に縛られているということです。悔しいが、聖書はアダムから始まった罪の影響が、相変わらず私たちの人生を支配しており、そのため、私たちも結局罪人として生まれ、罪人として死ぬしかない運命だと話しているのです。 ライオンは生まれた時からライオンです。いくら草を食って生きようといっても、ライオンは草を食っては生きることが出来ません。リンゴの木は種の時からリンゴの木です。リンゴの木にブドウが結ぶことはあり得ません。罪人アダムの子孫である私たち人間は生まれつき罪人であります。したがって、人間自らが「自分はアダムの子孫でもなく罪人でもない。」と言っても、人間が最初からアダムの子孫として罪を持って生まれたという事実は変わりません。だから、人間は、精一杯努力しても人間として生まれた以上、自分にある罪の痕跡を消すことができず、その罪のため、知らず知らずのうちに罪を犯してしまう惨めな存在なのです。それは自力ではどうにもならない呪いのようなものです。しかし、今日の本文は述べています。「アダムによって罪人となり、死ななければならない私たちでも、キリストによって贖われれば、永遠の生命を得、復活するようになるだろう。」アダムを罪人とお定めになった神(御子)は、そのアダムの罪を赦してくださるために自ら人間になられました。そして、その罪の償いのために自ら十字架の上で命を捨てました。しかし、主は死に負けず、新しい生命のために死に打ち勝ち、復活されました。神が人になって罪人のために亡くなった理由は、自ら人になってまで罪人を愛してくださったからです。初めての人間アダムの失敗を自ら人間になられ、成功にまで導かれた神の愛、イエスの復活はアダムの失敗を成功に変え、どんなことがあっても罪人を救おうとされた神の愛の極みなのです。 したがって、復活は罪人を新たにして正しい人に認めてくださる神の愛の象徴です。もちろん、文字通りにイエスを信じる者たちは、後々、死を乗り越えて完全な姿で復活するでしょう。しかし、復活は遠い将来の出来事だけの意味ではありません。私たちは罪人として生まれたが、私たちが信じる復活したイエスによって正しい人と見なされています。私たちは罪から完全に自由ではない状態で生きていますが、私たちの主イエスはすでに罪から完全に自由になったお方ですので、その方の民になった私たちも罪赦され、毎日、新しく始める機会を今でも得ています。そのため、キリスト者は毎日復活しています。毎日悔い改め、贖われることができるからです。だから、キリスト者は、すでに復活の中に生きる存在です。この地での私たちは罪から完全に自由ではありませんが、神はキリストによってすでに私たちを罪から自由になった存在だと見なしておられます。ということで、キリスト者は、もうこれ以上死を恐れる必要がありません。復活に生きる私たちは、主イエスの再臨の日、必ず主のみもとで復活するようになるでしょう。その日が来れば、復活した私たちは悲しみと苦しみから永遠に解放され、主と共に生きるでしょう。これが私たちキリスト者が持っている希望、まさに復活の信仰であるのです。 締め括り 年に一度、私たちはイースター礼拝を通して、主イエスの復活を記念します。しかし、今日だけがイースター(復活節)だと思わないでください。キリストのみもとにいる私たちは、毎日を復活の日として生きている存在です。今日、罪を犯してもキリストの恵みによって赦され、再び新しい明日を始めることができます。今日失敗しても、明日はキリストによって墓からよみがえった人のように新しい人生を始めることができるのです。だから、毎日毎日、主イエスの恵みを憶え、感謝し、新しい人生を生きるように希望を持って歩んでいきましょう。私たちはすでに復活のもとにいる存在です。その信仰によってイエス•キリストに倣って生きていきたいと思います。

十字架のイエスを仰ぎ見る。

イザヤ書53章1-7節(旧1149頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節(新345頁) 前置き 今日から受難週が始まります。多くのキリスト者が、この受難週を過ごしながら、キリストの苦難を憶え、自分の罪を悔い改め、主イエスの栄光の復活を記念します。ところで、私たちは主の苦難を記念してはいるものの、その苦難について、どれほど理解していますでしょうか。それは、人間が想像することも、言葉で言い表すことも、計り知ることもできない、深くて広い意味を持っています。それでも、私たちは主の苦難を理解できる範囲で学び、記念しければなりません。私たちが主の苦難をすべて理解できないこととは別に、その苦難の理由は、誰でもない私自身という罪人の救いのためだからです。今日の言葉を通じて、主の苦難を学び、心に留めて過ごす一週間であることを願います。 1.主イエスの苦難について 主イエスは、なぜ苦難を受けられなければならなかったでしょうか。初めに神が天地を創造された時、神はその完成を極めて喜ばれました。また、ご自分にかたどって人間を創り、何よりも満足されました。しかし、人は自分の欲望のために神を裏切る罪を犯し、その罪の結果、神との関係が絶えるようになってしまいました。永遠の命である神と断絶することになった人間に訪れたのは永遠の死であり、その永遠の死から人間の苦難は始まったのです。神と一緒に生きるために創造された人間が、神から離れることになったため、人間の苦難は必然的なものでした。けれども、神は苦難のもとにある人間を見捨てられず、人間を赦してくださるために自ら人間の姿で来られました。私たちはその方を私たちの主イエス•キリストと信じています。イエスは罪人を苦しめる永遠の死による苦難、つまり神との断絶という苦難をご自身の体で代わりに背負って、罪人を救うためにこの世に来られたのです。 そういうわけで、キリストは罪人が担うべき苦難と侮辱と断絶を代わりに担当してくださいました。三位一体なる神は、三つにおられるが一つなる神です。御父、御子、聖霊は、最初から最後まで、一つであり、お互いに絶対断絶できない関係でおられます。しかし、肉となって来られた神、御子イエスが人間の担うべき苦難を、代わりに背負い、十字架で死んでくださった時、神は人間の救いのために三位一体の関係から御子を断ち切って地獄のような苦難に投げかけられました。「陰府に下り」という使徒信条の告白は、このような神とキリストの断絶による苦難を言い表す表現であります。私たちもこの世を生きつつ、苦難に遭う時があります。しかし、私たちの苦難と主イエスの苦難は、質的に異なるものです。神は私たちの苦難に対しては、イエス•キリストという仲保者をくださり、私たちと一緒にいて守ってくださいますが、イエスの苦難に対しては、徹底的に背を向けて死へと導かれました。つまり、主イエスはすべての苦しみと痛みを徹底的におひとりで経験されたという意味です。 ここで、私たちが誤解してはならないことがあります。イエス•キリストの苦難を、ただの肉体の苦難として受け止めることです。イエスの苦難は聖晩餐の後、オリーブ山でローマ兵士に逮捕された時点から始まったものではありません。キリストの苦難は、御父がキリストをこの世に遣わそうと計画された時から、始まったのです。神が人間になるという発想そのものが、神にあり得ないことだからです。それだけに主は罪人を愛し、進んで苦難を受け、惜しげもなくご自身の命を捨てられたのです。したがって、主イエスの苦難は、私が受けるべき苦難であり、主イエスが神に見捨てられたことは、私の代わりに見捨てられたということを、私たちは絶対に忘れてはなりません。そして、そのすべての苦難を乗り切って復活された主イエス•キリストは永遠に変わらない私たちの仲保者として、過去にも、現在にも、未来にも私たちと一緒におられる方なのです。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6) 2.十字架-苦難が栄光になった象徴 キリストが、このように私たちの代わりに苦難を受けられたことにより、もはや私たちの苦難は、私たちを滅ぼす死の脅威としての苦難ではなく、キリストの御守りと御愛の中で乗り越えることが出来る苦難となりました。新約聖書では、こういう苦難(キリスト者として受ける苦難)を栄光のための必須要素としてまで描いているほどです。キリストはすでに死の苦難に打ち勝ち、主の恵みのもとで私たちと一緒におられます。だから、私たちの苦難は私たち自身を成長させる訓練にはなるものの、私たちを滅ぼす死の道具にはなりえません。主イエスが苦難の意味を変えてくださったからです。私たちはこれを十字架から学ぶことが出来ます。元々十字架はローマ帝国の処刑道具だったと言われます。 特に、ローマ皇帝や政権を脅かす政治犯や、ローマ市民を殺そうとしていた奴隷に下された残酷な刑罰で、長い時間、苦痛を与えつつ最大限に死なないようにし、人間の精神と肉体の限界まで追い詰めた後殺す、最もひどい刑罰でした。十字架刑に処せられる死刑囚は、気絶するまで厳しくムチに打たれました。 ムチ打ちのため、すでにぼろぼろとなった死刑囚は、18-50Kgの横型の大きな木の棒を担いで刑場まで歩いていきました。その時も、ムチ打ちは休まず続きました。刑場に到着した死刑囚は、5-7インチの金釘に手首とかかとが刺されました。背負っていた木の棒は、その後、さらに大きな縦型の棒に固定され、死刑囚は十字架につけられることになります。すると、死刑囚は体重を支えるために体を動かし、激しい苦痛がして死刑囚が気絶することもあると言われます。そんな状態で、死刑囚は死ぬまでパレスチナの乾燥した気候にさらされ、徐々に枯れていくかのように死んでしまいます。これが実際にローマ時代に行われた十字架刑でした。何の罪もない主イエスは、罪人の救いのためにこういう十字架に処せられ、死んでくださったのです。 ところで、この十字架刑は旧約の焼き尽くす献げ物に非常によく似ています。イスラエルの民が焼き尽くす献げ物のため神殿に上る際、傷のない献げ物(雄牛、雄羊、雄山羊、鳩)を持ってくると、祭司は彼の手を生け贄の頭に乗せ、彼の罪を犠牲に転嫁し屠らせました。そして、犠牲の血をとった祭司は、その血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出し、肉は完全に焼き尽くして神に捧げました。それは民の変わりに犠牲を屠り、民の罪を贖う意味を持っていたのです。主イエスもご自分の民の贖いのために、ご自分の血を流し、十字架につき、まるで燃え尽くされるようにパレスチナの乾燥した気候の中で死んでいったのです。もともと十字架は呪いと恥の象徴でしたが、主イエスはこの十字架の上で人類のすべての罪を担われたのです。その後、時が経ち、キリスト教はローマ帝国の国教となり、十字架も処刑道具からキリストの贖いと恵みの象徴と変わったのです。つまり、イエスは十字架で罪人の代わりに苦難を受け、焼き尽くす献げ物のように死んでくださいました。この意味が変わった十字架のように、主はご自分の苦難を通して、私たちの苦難を主の栄光に変えてくださったのです。 締め括り 「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) キリストは、私たちの救いのために苦難を受けて死に、私たちの平和のために復活されました。そして、キリストは私たちを主の苦難と十字架にお招きくださいました。キリストはすでに十字架で苦難を受け、救いを成し遂げられましたので、もはや我々の苦難は死に至る苦難ではありません。そして、十字架はもはや恥と死の十字架ではありません。私たちは主の苦難と十字架を黙想し、主の苦難から学び、主と共に生きていきます。私たちが苦難に遭った時、主はその苦難の中におられ、私たちが十字架を仰ぎ見る時、一緒にその十字架を背負ってくださるでしょう。主の苦難が私たちを正しい道へと導き、主の十字架は私たちの義を証明するでしょう。今年も受難週が始まりました。私たちはこの一週間をどう生きていくべきでしょうか。今日の本文を憶えて、苦難と十字架の主を謙遜と愛をもって従って生きたいと思います。

主イエスの栄光

詩編57編6節 (旧890頁) ヨハネによる福音書12章20~26節 (新192頁) 前置き 今、私たちは、レントの5週間目を過ごしています。12日後には主イエスの苦難を記念する受難節の聖金曜日を迎え、2週間後には主の復活を記念するイースター礼拝を守るようになります。罪人の救いのために贖いを成し遂げ、罪によって汚されたこの世を新たにしてくださるために、ご自分の貴い命を惜しげもなくささげられた主イエスの恵みを憶え、残りのレントを慎み深く、謙虚に過ごしてまいりたいと思います。 1.栄光を追い求める者たち 「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、お願いです。イエスにお目にかかりたいのですと頼んだ。」(ヨハネ福音12:20-21) ヨハネによる福音書12章は、イエスが十字架にかけられる約一週間前の物語です。12章以前、主イエスはイスラエルの各地を巡回されながら、福音を宣べ伝え、弱い者たちを癒し助け、御言葉を教えてくださいました。そのような活動の中に、病人が癒され、死者がよみがえるなど、特別な奇跡もありました。それらによって、多くの人々がイエスの活動と奇跡のため、主イエスには特別な何かがあると思うようになりました。主イエスは純粋な心で、そして、神の御心に従って、弱者を助け、御言葉を伝えられましたが、ある人々はそのイエスの活動について行き、イエスと一緒なら割り前をもらえるだろうと思ったかもしれません。実際、主の弟子の中にもそのような思いで加わった人もいました。主イエスの御心とは関係なく、イエスを通じて利益と名誉と権力を握ることができると思う人々がいたわけです。奇跡を行い、他人と違う特別さを持っておられたイエスが、もうすぐ大きな影響力を振るう人になり、イエスに従う自分たちにも特別な権力と名誉、そして財物がついてくると誤解したわけです。 ところで、イエスの奇跡と活躍が噂となってイスラエル全域に広がったためか、イエスがエルサレムに入られる時、数多くの人々がなつめやしの枝を持って歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ福音書12:13) 今日の本文によると、イスラエル人だけでなく遠くのギリシャから来た人々もイエスに会うことを願って訪ねてきたようです。彼らは異邦人ですが、ユダヤ教に改宗した人々でした。彼らはイエスを旧約聖書に記してあるメシアではないかと思って会おうとしたでしょう。ユダヤ人、異邦人を問わず、多くの人々がイエスの奇跡と活動によって、栄光のメシアを期待して、主に近づいてきたのではないかと思います。人々はイエスのこのような奇跡と活躍による人気が、イエスの栄光だと思いました。そして、いつか、イエスがイスラエルの王になると思っていました。ローマ帝国から自由になり、再びダビデの王国のような強力な国を打ち立てるだろうと誤解したわけでしょう。人々が思う栄光とは、輝かしくて美しい何かです。イエスの栄光によって、自分も栄光を受けるためにイエスに従う人も多かったでしょう。何かを得るためにイエスを信じることは望ましくありません。イエスを用いて栄光を得ようとすることはなおさらです。私たちはイエスを通して何か良いものを得るために信じているのではないでしょうか? 2.キリストの栄光 しかし、私たちは、主イエスが十字架にかけられ死んでくださったことをすでに知っています。イエスは決して人々が思う栄光をすぐには得られないでしょう。主は必ず十字架で死ぬことになるでしょう。それが、父なる神がお定めになった救いの計画なのです。主イエスが十字架で死んでからこそ真の贖いが成し遂げられ、それによって父なる神の御心が成就し、次の段階(罪人とこの世の救い)に進むことができるからです。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:23-24) 多くの人々が栄光のイエスに会うためにイエスをほめたたえました。遠いギリシャから来た改宗した異邦人たちもイエスの栄光を見ようと会うことを望んでいました。しかし、イエスは彼らの心とは全く違うことを言われました。以上の本文を意訳するとこうなります。「私は一粒の麦のように死ぬだろう。しかし、私の死によって数多くの実が結ぶようになるだろう。それがわたしの栄光である。」人々がイエスの輝かしい栄光を期待した時、イエスはご自分の栄光は死ぬことだと宣言されたのです。しかし、ただ死ぬのではなく、その死によって、より多くの罪人が救われる有意義な死でした。つまり、イエスの栄光は十字架での死にあったのです。 主イエスの栄光は、逆説的な栄光です。生き延びるとしての栄光ではなく、すすんで死ぬ栄光です。高くあげられる栄光ではなく、低い底に向かう栄光です。キリストの栄光が持つ意味は、誰かに君臨して高まる輝かしい何かではありません。以前、皆さんに話したことがありますが、聖書が語る栄光は「輝かしい何か」ではありません。「ある存在が最もその存在らしい姿であること」が聖書的な光栄です。創造主である神は被造物に礼拝される時に栄光を受けます。神はすべての被造物に礼拝されるために創造を成し遂げられた方だからです。主イエスが受肉された理由は、十字架で贖いの死を成し遂げ、罪を赦し、悪の権勢を打ち砕いて新しい天と新しい地をもたらしてくださるためです。ということで、イエスの死はイエスの栄光になります。十字架の死のために聖肉された方だからです。だから、逆説的な光栄なのです。その死によって主イエスのお務めを全うされた時、父なる神は主イエスを復活させられ、その後イエスにこの世を統治する王としての真の栄光を与えてくださいました。 3.私たちの栄光 それでは、私たちが求めるべき栄光は何でしょうか? 私たちの栄光についてのヒントは、今日の本文の25,26節に書いてあります。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ福音12:25-26) イエスのおかげで輝かしい何かを得ることが、私たちの栄光ではないと聖書は語ります。上記の本文に書いてある言葉をよく考えてみましょう。「自分の命を憎む者」もちろん、これは自分の命を本当に憎めという意味ではありません。ここで言う命は否定的なニュアンスを持っています。自分の欲望、自分の有益だけを追い求める姿を意味すると言えます。 私たちは主なる神の御心をわきまえて、自分の欲望を盲目的に追求してはなりません。「主に仕えようとする者」 主に仕えるということは、その方の生き方に倣って主に聞き従って生きることです。具体的に言うと、神と隣人を愛することであり、主イエスの御言葉に従って生きることを意味します。つまり、自分の欲望を節制し、主イエスの生き方に倣い、聞き従って生きることこそ、キリスト者の真の栄光です。聖書は、そのような人生を生きる者を父なる神が大切にしてくださると語っているのです。 締め括り 先ほど、私は聖書が語る栄光の意味について「ある存在が最もその存在らしい姿であること」と言いました。キリストの贖いと救いによって、主の民となった私たちは、もはや、自分自身の奴隷ではなく主イエスの民と生まれ変わったことを常に憶えて生きていくべきです。主イエスの民にとっての栄光は「主イエスの民として、主の御言葉に聞き従い、主の御心をわきまえて、神と隣人を愛して生きること」です。それが主なる神が望んでおられる私たちのあり方であり、それこそが、この世を生きる私たちが求めるべき栄光の実体なのです。レントの期間がもうすぐ終わります。私たちは自分の栄光とは何であるか、顧みながら、この時を過ごすべきです。主イエスが教えてくださった私たちの栄光を心に留め、主の御言葉に聞き従い、主に倣って生きる私たちでありますように祈り願います。