イサクとイシュマエル

創世記21章9-13節(旧29頁)         ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節(新348頁) 前置き 前回の説教では、神の約束通りに成し遂げられた、アブラハムの相続人の誕生についてお話しました。神とアブラハムが初めて出会った時、神は「アブラハムが祝福の源となり、彼を通して生まれる相続人が神の祝福の民になるだろう。」と約束してくださいました。アブラハムは、その約束を信じ、神は彼の信仰をご覧になり、義としてくださいました。それから、アブラハムは25年間、神による相続人の約束の成就を信じ、待ち望んで生きて来ました。その間、アブラハムの不信仰によって様々な紆余曲折がありましたが、それでも神は彼と同道されつつ、彼の信仰を保たせて、アブラハムとの約束を準備して行かれました。そのおかげでアブラハムも主のお導きの下に神への信仰を諦めずに暮すことが出来ました。その結果、神は子供が持てないほどに老いてしまった100歳のアブラハムと90歳の妻サラを通して、真の信仰の子孫であるイサクを与えられました。このように、イサクは神の約束と、その方へのアブラハムの信仰がもたらした神からのお贈り物でした。このすべては、神の語られた約束どおり、その約束された時に、正確に成就されました。 1.イシュマエルがイサクをからかう。 「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」前回の創世記の説教の本文である8節には、イサクの乳離れと、それを祝うためにアブラハムが開いた宴に関する物語が出ていました。アブラハムは、なぜイサクの乳離れを記念して盛大な祝宴を開いたのでしょうか。現代には赤ちゃん向けの粉ミルクなどが、ちゃんと備えられているので、比較的早めに乳離れをする場合が多いと知っています。世界保健機関は、まる2歳までは母乳を勧めていますが、最近は普通1歳になる前に粉ミルクなどに変える場合が多いでしょう。それでは、アブラハムが生きていた紀元前18世紀頃は、どうだったでしょうか。創世記の解説書を参考にすると、学者たちは3~4歳ぐらいに乳離れしたと考えてきたようです。おそらく現代と違って赤ん坊のための食物が豊かでなかったわけでしょう。そのように3~4年が経ち、乳離れすると、家族はそれを祝って宴を開いたことでしょう。たぶん、古代には乳児の生存率が非常に低かった故であると推測されます。古代の資料が無くて、西暦1350年代の中世イギリスの乳児死亡率を確かめてみたところ、生まれて1年足らずで亡くなる赤ん坊の割合、すなわち乳児死亡率が約22%に達していました。(イギリス 2015年 0%)出生後1年の内に10人に2人が亡くなったということです。それからすると、古代の乳児死亡率は1350年より高かったはずで、低くはなかったはずでしょう。 そういうわけで、古代人は赤ん坊が3-4歳まで生き残り、乳離れしたことを良い兆しと考えていたことでしょう。特にイサクの場合は、年寄の親から生まれ、元気に育ち、無事に乳離れまでしたので、めでたいことだったでしょう。でも、家族の中には、そんなに喜ばしくない人もいたようです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。」(9-10)アブラハムの長男イシュマエルがイサクをからかう出来事が起こったからです。なぜイシュマエルはイサクをからかったのでしょうか。ただ、子供たちのいたずらではないかと思いがちですが、たぶん、それよりはイシュマエルの嫉妬によることではなかったのかと思われます。イサクより14歳も年上のイシュマエルは、すでに成人式を終えた年だったはずです。今やっと3-4歳になった弟とは、いたずらをする年ではなかったでしょう。もし弟さえいなかったら、父アブラハムの相続人は自分になるはずだったのに弟が生まれたわけです。そうじゃなくても、本妻の息子イサクは、側女の息子であるイシュマエルにとっては目の上のこぶのような存在だったでしょう。イシュマエルの行為を目撃したサラは憤り、アブラハムにイシュマエルと、その母親ハガルを追い出すことを要求しました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(10)結局、イサクをからかったイシュマエルは母ハガルと共に追い出されてしまいました。 2.肉によって生まれた者と約束の子。 今日の説教では、本妻サラとイサク、側女ハガルとイシュマエルという2つの親子の違いを通して、キリスト教の重要な教理について語ってみたいと思います。それで、かわいそうにも追い出されたハガルとイシュマエルの物語は思い切って省きたいと思います。(創世記21章13-21節参照要望)「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。(11-12)私たちは今日の出来事を通して、ハガルとイシュマエルを追い出したサラにがっかりするかもしれません。強く妬んでおり、非人道的に見えるからです。しかし、サラの行為は当時の法律に基づく行為でした。当時、カルデアには「リピト·イシュタル」という法典がありましたが、その中には、このような条項がありました。「男性が妻と結婚し、彼女が彼に子供を産み、それらの子供が生きていて、奴隷も彼女の主人のために子供を産んだが、父親が奴隷と彼女の子供たちに自由を与えた場合、奴隷の子供たちは元主人の子供たちと財産を分割してはならない。」また、サラは妬み半分であるかも知れないが、主の御言葉に基づいた主張もしています。「あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」 もちろん、サラの肩を持とうとするわけではありません。確かにサラは人間としてしてはならないことをしています。しかし、彼女の主張は当時の法律上問題無いことであり、ある程度、神の御旨にも合致することでした。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記17:19)神は、なぜイシュマエルとハガルが追い出されるように放っておかれたのでしょうか? それは神の約束の相続人は、ひたすらイサクだけだったからです。イシュマエルはアブラハム夫婦が、神との約束を疎かにし、自分たちの独断で女奴隷に産ませた子です。神ははっきりと相続人を約束してくださいましたが、その御言葉を信頼せず、自分たちのやり方で生んだ、いわば約束の外の子でした。その反面、イサクは神の約束によって一方的な恵みで生まれた約束の成就の子だったのです。すでに生殖機能を失った年寄の夫婦に、すべての障害を乗り越えさせてくださった神との約束の子なのです。これについて、今日の新約本文はこのように語っています。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。」(ガラテヤ4:22-23)もちろん、イシュマエルとハガルの立場は、とても気の毒だと思います。サラも薄情すぎです。それにもかかわらず、神はひとえにサラから生まれたイサクという約束の子だけを通して、神の約束を成し遂げようとなさったのです。 3.行いと信仰の結果 一見、現代人の感覚からすると、今日の出来事はとても理不尽に感じられます。サラもアブラハムも神さえも、あまりにも薄情に感じられます。イシュマエルとハガルを追い出すことを許された神を見て、「神は本当に愛の神なのか?」という懐疑が感じられるほどです。しかし、今日の本文は人間の倫理道徳のために記録されたものではありません。以後、神がイシュマエルとハガルを見捨てられず、導いてくださり、二人の人生のために確実に責任を負ってくださったことを見落としてはならないでしょう。したがって、今日の本文については、現代的な感覚の倫理道徳にではなく、本文に含まれている教理的な意味に集中して解釈すべきです。今日の本文の教理的な解釈は、新約本文のガラテヤの信徒への手紙4章を通して見ることが出来ます。「私に答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」(ガラテヤ4:21)ガラテヤとは、現代のトルコ中部内陸地方を意味します。そこには多くの教会があったと言われますが、当時の教会でも、こんにちのように「キリストへの信仰によってのみ救われる。」という教理が通用していました。ところで、いつからか「キリストへの信仰だけじゃ物足りなく律法の行いが加わってからこそ真の救いに至る。」と言う律法主義者たちが教会に入ってきて間違った教理を教え始めました。そのため使徒パウロは、彼らを偽りの教師と呼びつつ、ガラテヤの教会に対して、律法の行いではなく、もっぱらキリストへの信仰によってのみ救われることを力強く教えるために、ガラテヤ信徒への手紙を書いたわけです。 「こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤ3:24)ここで養育係とは、ローマ時代の貴族の子供たちが学校に入るまで養育を担当する家庭教師奴隷のことです。つまり、パウロは「律法とはキリストを紹介する補助にすぎない。」と思っていたわけです。旧約の律法は神が、民たちにくださった生活の指針でした。しかし、それは人間が守りきれないものでした。律法には613の条項がありましたが、もし誰かが612の条項をすべて守っても、一つを守れなかったら、すべてが無駄になるシステムでした。つまり、神は人間が律法をすべて守ることではなく、律法を通して自分の不完全さに気付き、キリストを信じて救いに至ることを望んでおられたのです。なのに、ガラテヤの偽りの教師たちは、この律法の行いで救われると教えていたわけです。パウロはアブラハムとサラが、神の約束を無視し、自分たちの判断でハガルを通してイシュマエルを産ませたことを行いの結果、つまり律法主義に似ていると見なしていました。「約束への信仰ではなく、自分の力でやってみよう。」と思った結果だったということです。以後、生殖機能が尽きた二人が、すべてを諦め、神への信仰だけで生きた時、はじめて神の約束どおりにイサクが生まれたことを信仰の結果だと見なしていました。ひたすらキリストへの信仰によってのみ救われる福音に似ていると考えたわけです。サラがイシュマエルとハガルを追い出したことは本当に気の毒です。しかし、私たちはその出来事を通して、神が人間の行いではなく、ひとえに神の約束と、それに対するアブラハムの信仰によって生まれたイサクだけを真の信仰による結果として認めてくださったことを覚えるべきです。そして、このことを通して、現在の私たちも自分の行いではなく、キリストへの信仰によってのみ、自分に救いがもたらされるということを信じるべきでしょう。 締め括り 「しかし、聖書に何と書いてありますか。女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからであると書いてあります。」(ガラテヤ4:30)イシュマエルはアブラハムとサラの独断のもとで、女奴隷によって生まれた結果です。彼らが神との約束を破り、独断で振舞ったことは行いによって救われるという律法主義と似ています。しかし、行いによる救いは決して神に認められません。しかし、先が見えない真っ暗な時に神だけを信じることでもうけたイサクは信仰の結果でした。ただキリストを信じて救いを得るという信仰による救いと非常に似ています。行いの結果である女奴隷の子は追い出され、信仰の結果である自由な身の女から生まれた子は真の相続人となりました。繰り返しますが、ハガルとイシュマエルの事情は本当に残念です。しかし、彼らのことを憐れむだけでは、到底、今日本文の結論を下すことが出来ません。つまり、今日の本文は結局、教理の側面から見るべきでしょう。律法の行いによって救いを追求すべきか。それとも、キリストへの信仰によって救いを追求すべきか。私たちはイシュマエルの側に立っているのか、イサクの側に立っているのか、考える機会になると幸いです。神の約束への信頼だけが、また、キリストへの信仰だけが、私たちを真の救いへと導きます。その点を改めて考えつつ生きる志免教会になることを願います。

異邦のための宣教。

イザヤ書61章1-4節(旧1162頁)       マルコによる福音書5章1-20節(新69頁) 前置き イエスはマルコ福音書1章で弟子たちをお呼び出しになった後、ガリラヤのカファルナウムという村にて本格的にお働きを始められました。イエスはガリラヤ全域からご自身を訪ねてくる、あらゆる哀れな民を拒絶なさらず、彼らを癒し、教え、宣教してくださいました。身と心をお尽くしになったイエスの御業を通して、ガリラヤの哀れな民は癒しと慰め、そして自由を得、自分たちを変わらず愛してくださる神を発見しました。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ8:23後‐9:1)旧約のイザヤ書は、このように罪によって神に見捨てられ、辱めを受けるガリラヤ(旧約時代のゼブルンとナフタリ族の地。)の哀れな民たちが、真の栄光を受けるだろうと予言しています。主がエルサレムの指導者やローマの支配者ではなく、このガリラヤ地域に先に臨まれ、貧しい民からお訪ねになった理由は、まさに、このような旧約の予言がイエスによって成就されていることを示してくださるためでした。貧しいガリラヤの民は、まるで異邦人のような扱いと差別の中に生きてきました。しかし、主は彼らに一番先に仕えてくださることで、差別なく人間を愛することを示してくださったのです。そして主のその愛は、本日の言葉を通して本当の異邦にまで広がり始めます。 1.宣教とは何か? まずは宣教について話してみましょう。日本最初のキリスト教宣教師はスペインのカトリック教会の司祭であったフランシスコ·ザビエルでした。彼はこんにちのマレーシアで偶然出会った弥次郎という日本人から日本について聞き、1549年に鹿児島に上陸し、日本での宣教を始めました。その後、戦国時代が終わり、江戸幕府が立つと、日本のカトリック教会は激しい迫害を受けて、ほとんど無くなりましたが、残された者たちはカクレキリシタンという名で、その命脈を保ちました。最初のキリスト教宣教師ザビエルの上陸から約300年後、1858年の日米修好通商条約によって日本は開港し、その翌年からアメリカからの宣教師たちが日本に上陸することになりました。それから日本でのプロテスタント教会の宣教が始まり、今に至っています。カトリックのザビエル、プロテスタントの宣教師たち、彼らは出身地も、所属教派も、時代も異なりましたが、そのすべてを超える共通の教えを持っていました。それは「イエス·キリストは救い主である。」という唯一無二の神の福音でした。ところで、新約聖書はいろいろな箇所で、このような福音を伝える行為を「ケリュソ」というギリシャ語で表現しています。「ケリュソ」には、「王のご命令を公布する。」という意味があり、創り主でいらっしゃる神の厳重なご命令を世に宣べ伝えるという、強力な神の権威を含む表現です。 私は前のマルコ福音説教でイエスが、この地上に来られ、おもに行われた御業が「癒し、教え、宣教」の三つだったと申し上げました。主は神の厳重なご命令に聞き従い、癒しと教えと宣教を通して哀れな民を神に導いてくださいましたが、まさにそれが「ケリュソ(宣教)」だったのです。ここで重要なことは癒しと教えと宣教が、それぞれ別のものではなく、そのすべてが一つになって宣教を成すということです。宣教とは、神の厳重なご命令を宣べ伝える行為です。「イエス・キリストは救い主である。」という創り主、神の最も重要な御言葉を信者の口の言葉と生活での実践を通して、世に宣べ伝える行為なのです。イエスは御言葉だけを宣べ伝えた方ではありません。民の癒しのために眠れず、福音の教えのために食事も忘れ、宣教のために十字架に自らを犠牲になられた方です。主は神のご命令に従い、民の救いを成し遂げられるために身と心とを進んで捧げられた方なのです。そういう意味で、イエスは真の最初の宣教師でした。そして復活されたイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マ28:18-20)という新しい命令を下されることで、「ケリュソ(宣教)」の務めを私たち教会にもお委ねになってくださいました。したがって、我々は自分が宣教師であることを自覚し、隣人に仕え、福音を伝える人生を生きるべきです。ザビエルと明治時代の宣教師たちだけが宣教師ではなく、私たち皆が共通の福音にあずかっている主に遣わされた宣教師であることを忘れてはなりません。 2.悪霊に取り付かれた者を癒されるイエス。 「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。」(1-2)ガリラヤでの宣教に一段落つけられたイエスは、湖の向こう岸のゲラサ人の地域に足を運ばれました。主はそこで悪霊に取り付かれたある人に出会われました。マルコ福音書1章でイエスが初めてガリラヤでの御業に取り掛かられた時、主は会堂にいた悪霊に取り付かれた人を一番先に直してくださいました。ところで、湖の向こう岸でも一番先に悪霊に取り付かれた人と出会われたというわけです。これは偶然の一致でしょうか? 「悪霊に取り付かれた。」という表現は、単に「ある人が悪霊の故に狂ってしまった。」という個人的な事項だけの意味ではありません。確かにその人は、実際に悪霊に取り付かれ、苦しんでいたはずでしょう。ですが、マルコ福音書は彼のことを通じて両義的に当時の異常な状況を私たちに教えているのです。イエスが到着された場所が神の正しい統治ではなく、悪霊に表現される邪悪な世の支配の下にあるという、当時の社会的な状況を示しているのです。正義と愛ではなく、不正と憎しみが溢れる病んでいる社会を表現することです。つまり、ガリラヤ全域と国境地域が、このような状況下にあったことを表しているのです。したがって、イエスが悪霊を追い払われたということは、神の統治のない場所に神の統治をもたらす、イエスの霊的な癒しを意味する表現しています。救い主イエスのおいでになる場所では不正がなくなり、膨大な罪の影響が力を失うからです。 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。イエスが、汚れた霊、この人から出て行けと言われたからである。」(6-8)まるで悪霊に取り付かれたような、この世はイエス・キリストの権能によってのみ癒されるものです。世界を支配している悪は、主の権威の下では、如何なる反抗もできません。私たちはこれをはっきりと認識するべきです。世の巨大な悪に跪くことなく、主がそれより、はるかに大きな方であり、十分にこの世の悪を裁かれる方であることを信じなければなりません。「そこで、イエスが、名は何というのかとお尋ねになると、名はレギオン。大勢だからと言った。」(9) 悪霊に取り付かれた者に付いていた汚れた霊は軍団を意味するレギオンという名の存在でした。当時のローマ軍の一つの軍団が約6000人だったことに照らすと、その人を苦しめていた悪霊が如何に強かったのかが分かります。主イエスは一言でこの悪霊どもを豚の大群に送り込んで裁かれました。ユダヤ教の代表的な不正な獣の一つであった豚に、悪霊が追い出されたことから、この世を支配する悪の勢力の性質がはっきり示されます。このように主は御言葉を持って強力な悪を裁かれ、悪霊に取り付かれた哀れな者を救ってくださることで、異邦への宣教をお始めになりました。 3.疎外される者への主の宣教。 ゲラサ人の地方は当時のイスラエルとデカポリスの国境地域でした。デカとは10、ポリスとは町を意味しており、ローマ以前のギリシャ帝国時代に建てられたイスラエルの東側の10の町のことでした。ゲラサはその一つの町だったそうです。当時のイスラエル民族は徹底した民族主義を唱え、異邦人を否定的に考えていました。ユダヤ人のある記録によると、異邦人は「神に裁かれるべき地獄の焚き物」と思われていたそうです。このように、ゲラサ地域はユダヤ人に嫌がれる所でした。しかし、主はそこを素通りされずお訪ねになったのです。神は最も疎外される所、最も不正な所を決して見落とされる方ではありません。そんな所こそ、主の愛と癒しを最も切実に必要とする所だからです。極東の島国、地の果てにあった日本に、主の御言葉を持ってきたザビエル、厳しい鎖国の江戸時代を経て、何とかキリストの福音を持ってきた宣教師たち、主はご自分の僕たちを通して、この国に福音を届けてくださいました。しかし、相変わらず日本は福音が必要な国です。日本に来た最初宣教師から500年経っています。プロテスタントの伝道開始から160年経っています。ですが、日本の福音率はごくわずかで、悪の支配は相変わらず健在です。しかし、神様は移り変わりなく、この日本という国を愛しておられます。 数日前、コロナに感染したある妊婦が入院できず、自宅出産のあげく、子どもを亡くした事件がありました。数多くの市民たちが病床がなくて自宅で療養中だそうです。朝日、東京新聞などの比較的に進歩的なマスコミによると、政治的関係によって、無理やりにオリンピックを開催し、また、そのための緩いコロナ対策によって、日本の弱い市民たちが苦しんでいると評価していました。また、相次ぐ緊急事態宣言により、多くの自営業者たちが廃業などに苦しんでいるそうです。しかし、政治家たちは自分たちの権力のために、今でも自分たちの安全だけを考えています。これはただ日本だけの問題ではありません。アメリカ、中国、韓国、ヨーロッパなど、全世界がまるで汚れた霊に取り付かれているかのように、権力者に操られ、弱い一般市民が真っ先に苦しんでいます。神の御目は、まさにそこを向いています。彼らと共に歩むこと、彼らのために祈ること、彼らの苦しみを分かち合うこと、それが神が望んでおられる、また違う意味としての宣教ではないでしょうか?このような状況の中での教会の役目は何でしょうか。イエスはこの世を、どう考えておられるでしょうか。世の中の理不尽をじっと眺めると、この世が依然として悪霊に取り付かれていることが分かります。本当の意味での宣教、教会はそのために何をしていくべきでしょうか? 結論 私は主の身体なる教会の外にいる、すべての人が、私たちが仕えるべき異邦だと思います。日本には0.4%のキリスト教系の人口がいると言われています。プロテスタント、カトリック、異端を含めて、その程度だそうです。もしかしたら、この日本の99.9%の人口がイエス様には異邦人に見えるかもしれません。しかし、神は彼らを変わらず愛しておられ、彼らに主の福音を宣べ伝える宣教を望んでおられます。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)旧約イザヤ書にはメシアの到来時の、その役目について予言されています。メシア主イエスはこのように良い知らせをお伝えになるために真の宣教師として来られました。そして、その役目をご自分の身体なる教会の私たちにも分け与えてくださいました。まるで汚れた霊に取り付かれているかような、この世を眺めながら、我が教会の在り方について思い巡らしていくべきだと思います。主は主の肢である教会を通して宣教をなさいます。私たちは志免教会という共同体の中で、自分だけの救いに満足しているのではないでしょうか? 私たちの助けを求めている隣人のために何が出来るだろうかという悩んでいるでしょうか?確かに私たちは小さな群れで、社会的な影響力も弱いです。しかし、だからこそ、もっと教会の外の異邦の隣人のために祈り、仕え、私たちの在り方について思い悩んでいくべきです。その中に主の宣教が始まるのです。私たち志免教会にそういう正しい悩みがありますように祈ります。

主が約束された通り。

創世記21章1-8節(旧29頁)         ヘブライ人への手紙11章11-12節(新415頁) 前置き カルデアのウル地域を離れ、今のトルコ地域のハランに住んでいたアブラハムに主が現れ、彼を主の民とされてから25年が経ちました。長いといえば長く、短いといえば短い25年という年月の間、神はアブラハムに相続人をくださるという約束、アブラハムとその子孫をご自分の民にされ土地を与えるという約束を通して、彼と一緒にいてくださいました。アブラハムは、何度も挫折と絶望、失敗を経験し続けていましたが、それでも彼は神の約束を覚え、常に主に付き従っていました。アブラハムは、「自分はできないが、主はお出来になる。」という神への信仰を持って、最後まで主、神の約束を待ち望んでいたのです。それで神はアブラハムに不十分さと弱さがあるにもかかわらず、彼の信仰をご覧になり、約束を果たしてくださいました。結局、神の約束通りにアブラハムの相続人イサクが生まれたのです。まさに今日の本文のことです。25年の間成し遂げられないまま、続いてきた約束、相続人を与えるという約束がついに成就されたわけです。 1.主の御言葉のとおりに。 2019年インドで74歳のお婆さんが双子を産んだとのニュースがありました。夫は80代のお爺さんだったそうです。正常な方法ではなく、他人の卵子寄贈を受けて人工授精を行い、帝王切開で出産しましたが、赤ちゃんは無事に生まれたと言われています。現在、彼女は歴史上の最高齢の産婦として記録されているそうです。このように科学が発達した現代でも、70代の女性が子供を産んだら、人々はとても驚きます。ところで、今日の創世記ではアブラハムの妻サラが90歳で子どもを産んだという物語が出てきます。このサラは人工授精でも、帝王切開でもなく自然に子供を産んだのです。しかも今から約3500年前の話です。そのように子供を産んだことについて、今日本文はこのように語っています。「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創21:1-2)現代の未信者たちは創世記の話を神話だと思っているかも知れませんが、私たちはこのイサクの誕生を本当の出来事として信じています。 何故なら、神がそうおっしゃったからです。 信仰とは「神の御言葉どおりに成し遂げられると信じること」です。「神が私の思いのままに叶えてくださること」ではなく、「神の御言葉が神の御心のままに必ず成し遂げられること」を信じることが、真の信仰なのです。伝道師時代、私は子供会を担当していました。その時、子供達によくこのように問われました。「神様におもちゃが欲しいと祈っても聞いてくれないの。」それで、私はこう言い返したのです。「神様が本当におもちゃをくださると言われたの?」と聞いたら「いいえ」と照れ笑いして言っていました。もし、私たちが神の御言葉によるのではなく、自分の欲望によって、神を利用しようとするかのように祈ったら、私たちの祈りはまるで子供会の子供たちのおもちゃをせがむ祈りのように決して叶わないことでしょう。私たちは「神の御言葉」に基づいて祈らなければなりません。今日の本文では「主が約束されたとおり、さきに語られたとおり、神が約束されていた時期」という表現が登場しています。これらをヘブライ語風に翻訳すると、「神の御言葉どおりに」という一つの表現になります。神はご自身がおっしゃった御言葉どおりに成し遂げられる方です。そして、その御言葉による約束は、どんなことがあってもお守りになる方なのです。その神の御言葉を信じ込んだアブラハムとサラは、老年になって相続人を儲けることになったのです。 2.サラを顧みてくださった神。 サラはつらい人生を生きた女でした。かつてアブラハムと結婚しましたが、彼女には長年子供がいませんでした。現代は子どもがいないからといって、そんなに問題化するとは思えません。子供の有無よりも、夫婦が仲良く過ごすことが、より大切な時代になっているからです。しかし、アブラハムの時代の女性において、子どもがいないということは、死亡宣告のようなものでした。当時の女性は幼い時は父、結婚してからは夫、夫の死後は息子に頼って暮らすのが一般的でした。神が旧約の律法を通して「孤児と寡婦のために」と何度も言われた理由も頼れる男のいない子供たちや女性たちのための最小限度の社会的な配慮を促されるご命令だったからです。このように子どものいないサラは、生きていても生きた心地がしない状況でした。そんなある日、神が夫のアブラハムから生まれる息子を授けると約束してくださいました。その話を聞いた時、サラは小さな希望を見つけたかも知れません。しかし、神は直ぐにはその約束を果たしてはくださいませんでした。待ちくたびれたサラは自分の女奴隷を夫の側女にしました。相続人が夫から生まれると言われたから、自分の身でなくても構わないと思ったわけです。しかし、その結果、返ってきたのは、側女の反抗と蔑視でした。 それから、10年以上経って神がまた現われて今度はサラ自身を通して子供をくださると約束されました。「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創17:16)しかし、サラはすでにかなり老いている状態でした。初めて神に出会った時のサラは65歳でした。その時、身ごもっても、産めるかどうかの状態だったのに、25年が過ぎた90歳に神が子供をくださると言われたわけです。サラはそれが信じられませんでした。しかし、しばらくして神は再び主の御使いを送って、確とお知らせになりました。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創18:14)そして結局、神は今日の御言葉通りにサラとの約束を守ってくださったのです。神の約束は特別な存在にのみ、与えられるものではありません。神はアブラハムだけに主役を与えられたことでもありません。神は年寄、弱者、女性のサラにも、神の御救いの歴史を成し遂げる主人公としての役割を与えてくださいました。確かにアブラハムとサラは完全無欠な信仰者ではありませんでした。創世記には彼らの数多くの失敗が記されています。しかし、神は一方的なご恩寵を通して、不完全な二人を導いてくださいました。弱くて老いた女性、子どもへの希望が見えなかったサラは、最終的に神の一方的な恵みによって神の栄光に満ちた存在として生まれ変わりました。 3.変わらない神の約束と成就。 私たちの信仰は、私たち自身の行いにかかっているものではありません。もちろん、私たちも自分なりの信仰の熱情を持って生きるべきであることは確かです。毎日御言葉に耳を傾け、毎日信仰を持って祈り、毎日主の御旨に頼って待ち望んで生きるべきです。しかし、本当に神が望んでおられることは信徒自身の努力、行為ではなく、神の御言葉、つまり主の約束通りに成し遂げられる神への信徒の信頼と愛なのです。ご自分の民の信頼と愛の中で、神はご自身の御業を、主の御言葉に基づいて完全に成し遂げられ、主が成就なさった、その栄光を民に分け与えてくださるのです。神の約束、すなわちアブラハムとサラを通して相続人を与え、その相続人から生まれたイスラエルの民に土地を与えるという旧約の約束は、キリストを通して神の国を建て、この世を救ってくださるという新約の約束の第一歩なのです。アブラハムにイサクをくださったことは、このアブラハムとイサク、そして彼の息子ヤコブの子孫を通して私たちのところに来られる、救い主イエス·キリストの到来の予告であり、約束なのです。そして神はそのキリストを通して、この世を罪から救ってくださるのです。 神は聖書の御言葉を通して、私たちに仰せになります。神と隣人への愛という最も基本的な御言葉からはじめ、いろいろな約束をくださいます。私たちはその御言葉に基づいて神の約束の成就を期待しつつ生きるべきでしょう。しかし、その約束が私たち自身の望む時点に成されるとは言えません。神の時と人間の時は違うからです。私が志免教会に赴任したばかりのある日、どなたかにこう言われました。「先生、心配しないでください。志免教会には何度も危機がありましたが、神様はその度に志免教会を守ってくださいました。」私はその話を聞いて大きな感動を受けました。それは神への一点非の打ち所のない完璧な信仰告白だったからです。神は私たちが教師を必要としていた時には待っておられました。そして、私達がもうダメかと思った時、教師を送ってくださいました。もちろん他国からの宣教師ですので文化的に、言語的に多少の違いはあるでしょうが、少なくとも主は教会を守り、御言葉を分かち合う道を開いてくださいました。そして、その宣教師の伝道を通して、立派な日本人の牧師を立ち上がらせてくださるかも知れないでしょう。人間の時と神の時は違います。神はご自分の教会を最後まで守り、導いてくださるという約束の言葉をくださいました。私たちは信頼、愛、そして忍耐で、その御言葉の成就を待ち望むべきです。主の御言葉ですので、主が必ず成し遂げてくださるでしょう。 締め括り 「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11:11)アブラハムの年齢100歳、これには数字としての意味と共に「ほぼ死んだ者」としての意味もあります。90歳の女性サラも同じです。しかし、神は御言葉に基づいてほぼ死んだ者から息子を産ませてくださいました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(創21:6)何の希望もない中でも、神は希望をくださる方です。イサクという息子の名前は「彼が笑うだろう」という意味です。ほぼ死んだ者であったアブラハムとサラは神への信仰によって力を得、神の約束を信頼し、終わりに笑う人になりました。神は今日も私たちに信仰を求めておられます。「私はできないが、私の主は約束に基づいて成し遂げてくださるだろう。」という信仰を持って生きていきましょう。神は約束の言葉を必ず成し遂げてくださる方です。その神を堅く信じ、感謝と喜びで生きる志免教会になることを祈り願います。

神の国の主権者キリスト。

出エジプト記14章13-14節(旧116頁)マルコによる福音書4章35-41節(新68頁) 前置き マルコ福音書でイエス・キリストが最初に言われた言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。イエスはこの地上に神の国を成し遂げるためにおいでになった方です。初めの人の過ちによって生まれた罪は、この世を堕落させました。その堕落によって、人は自分だけのために生き、他人を憎み、殺し、苦しめる存在となりました。そして、その人の罪によって、この世の他の被造物も苦しむことになりました。イエスが罪によって堕落した、この世に神の国を成し遂げるということは、罪によって汚れている世を、神の愛と恵みを通して回復させる、新しい創造の意味を持っています。つまり、初めに世界を創造された三位一体なる神ご自身でいらっしゃるキリストが、十字架での贖いを通して、この世に創造の時の純粋さを取り戻させるために来られたわけです。マルコ福音書でイエスが悪霊を追い払い、病人を治し、貧しい者を助けられた理由は、まさにこの神の国の到来がご自身を通して成就することを示されるためでした。我々はマルコ福音書を読むとき、イエスの全ての御業の根拠が、この神の国の成就にあることに留意しつつ読むべきです。 1.神の国とは何か? 先々週の大信仰問答の学びでは「神の国」について考えてみました。「問8、神の国とはどういうものですか? 答 、神の国とは、神が世界と、その中のすべてのものを、御心のままに現に支配しておられる秩序と、終わりの日に成就される約束の国とを含めていうのです。」神の国とは、終わりの日のイエスの再臨に伴って完全に成し遂げられる新しい天と地を意味することです。また、それと共に、まだ完全ではないが、主の秩序によって治められる、地上のすべての物事を意味するものでもあります。なので、改革教会では、神の国が「すでに」と「まだ」の間にあると言われています。まだ、イエスの再臨の前なので、 神の国が完全に成就されていないが、主イエスに遣わされた聖霊が、すでに教会と共におられるので、この世に神の国が成し遂げられていく状況という意味です。だから、イエスを信じ、その御言葉に従順に生きる私たちキリスト者は、すでに神の国を生きている存在です。私たちは、時には苦しみや悲しみを感じたりします。この世での人生が天国どころか地獄のように感じられる時もあるはずです。しかし、神は私たちの状況を常に見守っておられ、私たちの人生の中において共に歩まれ、その苦しみと悲しみを共に担ってくださる方です。我々が神の国に生きているという意味は、まさにそういうことです。私たちと永遠に一緒におられるという御言葉を確信する限り、私たちは神の国の民としてこの世を生きていけるのです。 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(4:11-12)ところで、主はこの神の国についての秘密を、この世のすべての人に与えたわけではないと言われました。前回のマルコ福音書の説教で主が「種をまく人の喩え」を言われた時、人々はその意味がまったく分かりませんでした。そこで、弟子たちは、主にその意味について尋ねました。その時、主は誰もが「神の国の秘密」を聞けるわけではないことを教え、弟子たちに本当の意味を教えてくださいました。その後、また他の喩えを聞かせてくださりながら(4:21-34)神の国の秘密は「聞く耳のある者だけが聞く」と言われました。ここで「聞く耳がある者」とは、誰を意味するのでしょうか?単刀直入に言うとアラン·コールという神学者は、自分のマルコ福音書の解説書を通して、「主の御言葉を聞き、受け入れ、実践する人」と語りました。つまり、主の御言葉を信じ、生活を通して真剣に答える者を意味するのです。このような人々は、いかなる苦難や逆境があっても、主の御言葉をしっかりと握り、最後まで主に付き従うことでしょう。そして、神の国はこのような者に許されるのでしょう。それではこのような神の国の性質を覚えつつ、今日の本文について取り上げてみましょう。 2.突風の中の主と弟子たち。 「その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(35-36)1章から4章まで、イエスは引き続き、カファルナウムにて、病人を癒し、悪霊を追い払い、福音を教えておられました。いよいよカファルナウムでの活動が終わった主は、船に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと言われました。5章によると、その向こう岸にはゲラサという地域があったそうです。ゲラサには異邦人が住んでいました。それからイエスが向こう岸に行かれた理由が異邦人にも癒しと教えと宣教をくださるためであるということが分かります。ところで、イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い終わるやいなや、弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。私達はここで「乗せたまま」という表現に注目する必要があります。確かに渡ろうと言われた方はイエスでしたが、イエスを乗せたまま、動いているのは弟子たちでした。この語句での主語がイエスではなく、弟子たちであることが気にかかります。ところで、しばらくして北の方から風が吹き出しました。ガリラヤ湖は普段は穏やかなほうですが、時々、北のヘルモン山から下りてくる冷たい空気と昼間に暖められた湖の暖かい空気が会い、2M超えの波が打つほどの大きな突風を起こしたりします。ところで、よりによって、イエスと弟子たちが乗った船が、その激しい風に巻き込まれてしまいました。 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、先生、私たちが溺れても構わないのですかと言った。」(4:37-38)36節で主体的に行動していた弟子たちが、突然の突風に恐怖を感じ、イエスを探しました。その時、主は艫の方で眠っておられました。艫の方とは船の後尾との意味ですが、弟子たちが船首におり、主は後ろに静かにおられる様を描いている表現です。弟子たちは主を「乗せたまま」、まるで自分たちがイエスを連れていくかのように行動していました。しかし、突風が起こると、イエスを連れていくかのように振舞っていた弟子たちは、みんな怖がり、急いで艫で静かに眠っておられるイエスを起こしました。自分たちが死ぬようになったと言い、助けを求めて叫んだのです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、黙れ。静まれと言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。(4:39-40)その時、イエスは目を覚まして、風と湖を叱り、突風を静めてくださいました。そして、イエスと一緒にいるにもかかわらず、主を信じず、恐れていた弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と叱られました。それを見た弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とイエスの権能に驚きました。 3.神の国の主権者イエス·キリスト 我々は今日の本文のことを単純に自然までも治めるイエスの武勇談とだけ見てはならないでしょう。先ほどお話ししました神の国という概念に基づいて理解すべきでしょう。神がご計画なさった堕落したこの世の回復、すなわち神の国の到来は徹底的にイエス・キリストを中心とする神の権能によってのみ現われるものです。「神の国」とは人間の能力、財力、手腕によって成されるものではなく、御父の計画と聖霊のお導き、とりわけ御子の権能によって成されるものです。今日、主と弟子たちが乗った船は、いわば教会の象徴のようなものです。神が計画され、お創りになった、この世は本来、突風のない穏やかな海のようなところであるべきです。しかし、人間の罪によって生まれた堕落は、この世をまるで突風の海のように無秩序で破壊的に作ってしまいました。イエスはこのような世の中に一筋の光を下さるために、ご自分の教会を打ち立てられたのです。しかし、この世の中で今日の本文の弟子たちのように自分が船、つまり教会を動かそうとすれば、結局、その教会は突風の海のようなこの世の激しさに堪えられず、滅びてしまうでしょう。また、これは教会に限ったことではありません。この突風の海のような世を静める方は、ひとえにイエスお独りです。しかし、イエスでない別の存在が世を静めようとするならば、結局、その存在は堕落した世という突風の海に巻き込まれ、滅びてしまうでしょう。 文明が生まれて以来、人間はいつも自ら世を導こうとしてきました。ところで、皮肉なことは、その度に戦乱があったということです。人間が自ら歴史を導こうとする時には、必ず戦争が起きて、多くの人が亡くなりました。かつて日本帝国は「大東亜共栄圏」という合言葉を掲げ、アジアの解放という口実で戦争を引き起こしました。しかし、その戦争で日本人だけで300万人、アジアでは数千万人が亡くなりました。アメリカ合衆国は、こうした日本を退けて平和をもたらすためにという名目で歴史上初めて核兵器を落としました。その結果、25万人余りが死に至りました。さて、歴史上の教会はどうだったでしょうか。教会が起こした十字軍戦争は200年にわたって数多くの虐殺をもたらしました。旧教と新教の戦争で多くの人が死んだこともあります。このすべてが人間がこの世や教会を導こうと起こしたことでした。真の繁栄と平和の神の国のような世界は人間の手では成し遂げられないものです。ひたすら主イエスの御言葉を信じ、聞き従って生きる時に、主が私たちの中で成し遂げてくださるものです。いつか、この世に真の平和の神の国が訪れるでしょう。突風が静まった穏やかな海のような真の神の国が臨むことでしょう。しかし、それはイエスが再臨されて完全にこの世を裁かれ、治められる日にはじめて成就されることなのです。その日まで私たちに出来ることは、イエスを待ち望むことと、その御言葉に従順に聞き従って生きることでしょう。そのような人生を通して私たちは主と共に「すでに」と「まだ」の間の神の国を味わいつつ生きていくことでしょう。 締め括り 今日の旧約本文は出エジプトの時、ファラオの騎兵たちがイスラエルを追い掛ける時のことでした。目の前には海が立ちはだかっており、後ろからは怒った騎兵たちが戦車に乗って迫ってきています。まるで、今日のガリラヤ湖の突風の中の弟子たちのように、危機一髪の状況でした。その時、神の御言葉をいただいたモーセは次のように叫びました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:13-14)イスラエルは死を目の前にしていましたが、そこには神がいました。目の前には海、背後には騎兵たちがいましたが、イスラエル民族には主の御守りがあったのです。神の御言葉に従った結果、彼らは無事に死から逃れることができました。真の神の国とは、主だけが成し遂げられます。私たちはただ、その主の御言葉を信じ、聞き従えばいいのです。毎日の人生の中に不可能なことがたくさん見えてきます。そして、それに我々は恐れを感じます。しかし、主権者キリストは、神の約束のように我々と共におられます。そして、その不可能に勝たせてくださいます。この主イエスの権能の中に生きることこそ、神の国を生きるあり方ではないでしょうか。主が私たちの人生を穏やかな湖のようにし、完全な神の国が成し遂げられるまで私たちを導いてくださると信じましょう。神の国の主は神の国を生きる私たちを決して諦めることなく、共に歩んでくださるでしょう。

繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁)ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、酷い飢饉に襲われ、飢饉を避けてエジプトに下りました。エジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹だと騙さなければならない命の危機に遭いました。以降、神のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、また、自分の相続人だと思っていた甥のロトと財産の問題で別れることになりました。その後、離れていた甥を救うために命をかけて、大きな戦いに参戦することにもなりました。神に約束された息子の誕生は時間が経っても兆し無しで、神のご意思とは関係なく迎えた側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子も神に約束された相続人ではなかったのです。「神の民」という呼び名が形だけのものに思えるほど、アブラハムの人生は波乱万丈そのものでした。しかし、そのようなアブラハムの人生の中でも、全く変わりのなかったのは、神がアブラハムを見捨てられず、常に共に歩んでくださることでした。神はアブラハムと契約を結ばれ、その契約関係の中でアブラハムの間違いを罰されず、その間違いさえ抱え込み、彼の人生の道に、いつも一緒にいてくださいました。キリスト教信仰の最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に一緒に歩んでくださるということです。私たちは今日の本文を通して、アブラハムの失敗を再び目撃することになるでしょう。しかし、それと共に、決してアブラハムのことをお見捨てにならない神の愛をも再び目撃することになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人と評価される人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」という表現があるほど、聖書を基盤とするキリスト教信仰において、彼の存在感は非常に大きいです。それだけに聖書を神の御言葉だと信じているキリスト者にとっても、旧約のアブラハムという人の影響は、新約でのイエスに肩を並べるほど非常に大きいです。しかし、かつて私は、このアブラハムという人が非常に気に食わなかったです。その理由は、まさに今日の本文のことのためでした。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹だと騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てるといった失敗を再び仕出かしてしまい、まったく成長していない様子を見せているのです。12章とあまり変わりのないアブラハムの繰り返される信仰の失敗に失望感を覚えた私は、彼を「妻を二度捨てた情けない人間だ。」と思うようになりました。そのため、アブラハムのことが気に入らなかったわけです。 創世記12章でアブラハムは神に何も問わず、飢饉を避けて身勝手にエジプトへ下りました。そして神にも、妻にも大変な無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返し失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。しかし、アブラハムは、長年の信仰の成長を経験してきたにもかかわらず、今日の本文に至って、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯してしまったのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれたアブラハムと肩を並べるほどの大事な人物でした。約束の相続人イサクを産む妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破ってしまう大きな裏切りでした。しかし、アブラハムが同じ間違いを犯す今日の本文を見ながら、「これが人間の本質なのか?」という気がしてきました。我々は信仰を持って以来、戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代を生きてきました。個人的な苦難はあったはずでしょうが、わりと平和な世の中で信仰生活をしてきたのです。ところで、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じるほどの状況だったら、果たして私たちは信仰を守り抜くことが出来たのでしょうか。ひょっとしたら繰り返されるアブラハムの失敗は、私たちの姿を映す鏡のようなものなのかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、我々はアブラハムと違う姿をとることが出来るでしょうか。 2.なぜ同じ話が繰り返されるのか? ところで、アブラハムは、なぜ同じ失敗を繰り返したのでしょうか? 過去、旧約学を勉強していた時、今日の本文についての面白い主張を読んだことがあります。それは、創世記12章と20章が、ひとつの言伝えから枝分かれされた物語だということでした。つまり、12章の「エジプトのファラオ」と20章の「ゲラルのアビメレク」が登場する、似ている物語が、地名と人名だけ違い、アブラハムが妻を妹だと騙したこと、神が現れてアブラハムを危機から救ってくださったことなど、同じ言伝えから派生したものだということでした。この主張は、かつて旧約学界に大きな響きを与えた「文書仮説」という学説によるものです。昔、創世記が記される、ずっと前から、アブラハムに関する断片的な、いくつかの物語はイスラエル民族の口から口に伝わり、こうした数多くの言伝えが数人の無名の記録者たちによってまとめ記されたという学説です。また、その学説の中には、長い時間、編集されてきた聖書に、その記録者たちが自分の神学に合わせて、似たような物語を意図的に加えた可能性もあるという主張もありました。つまり、もともとアブラハムが妻を捨てた話は、一度だけのことですが、以後、聖書を編集した記録者たちが、似たような物語を別の出来事のように追加し、それが創世記20章になったという仮説なのです。しかし、このような文書仮説は、あくまでも仮説ですので、定説として受け入れてはなりません。非常に注意すべき主張なのです。しかし、それでも私は文書仮説が主張する「意図的に加えた。」という文章を通して、小さいヒントを得ることが出来ました。12章と20章に繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語が、ひょっとしたら、神がご自分の移り変わりのない愛を示されるための意図的なしるしではないかということでした。創世記に記されているアブラハムの最初の罪と最後の罪が、仕組まれたように「妻を捨てる。」という非常に似た出来事だったからです。 現代の私たちは、創世記が一人によって記された書なのか、長い間、多くの人によって記された書なのかは分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、神が深く介入され、導いてくださったということ、そして、我々に主の御言葉として、この創世記をくださったということは否定できない事実なのです。なので、私たちは創世記 12章と 20章の繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語を通して、神が私たちに示しておられるしるしが、確かにあるということは信じるべきでしょう。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験することがあり、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵がなければ、絶対に一人で立てないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の真の意味ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3) 神は創世記12章でファラオを罰されたように、今回はアビメレクにご警告なさり、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは繰り返される罪による失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを救ってくださったのです。神の民にいくら信仰があるといっても、その自分の信仰だけで完全に立つことはできません。民と共におられる主の存在によってのみ、民の信仰は輝くものなのです。私たちはアブラハムの繰り返される失敗に失望するより、それでも絶対に諦められない神の愛への感謝を持つべきでしょう。もしかしたら、このアブラハムの失敗へのお赦しが、私たちの失敗へのお赦しを意味する鏡であるかもしれないからです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)正直、今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムのように見えます。古代に、一つの勢力が拠点を移す際に、他の勢力の暴力的な牽制を避けるために、家族を人質として差し出すという話もありますが、当時のアブラハムはカナンで力も、富もある結構有名な人で、妻サラはすでに100歳近くの年寄でした。ある学者たちは、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈したりもしましたが、説得力は弱いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的若かったので、命のために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力も持っていたアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父と呼ばれるに恥ずかしいほどの、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきことです。まさにアブラハムのことを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父に相応しく行動していた時も、情けない信仰の失敗者のように振舞っていた時も、変わることなく「主の民」「神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約を見ておられたからです。これはキリストの福音に非常に似ています。私たちキリスト者は、自分自身の義によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰に生きたり、時には不信仰に生きたりします。いや、むしろ信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも神は、私たちを救ってくださったキリストの義をご覧になり、私たちをご自分の民として認めてくださいます。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初に犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は最初の罪から最後の罪まで、いつも同じように彼を守ってくださいました。正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、我々を神への道に導いてくださるでしょう。繰り返される罪の中でも、主は満ち溢れる恵みを持って私たちの人生を導いてくださるでしょう。その主をほめたたえます。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。葡萄の枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身は葡萄の木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として私たちの記憶に刻まれています。アブラハムが偉大な人物に覚えられる理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずつながっていたからです。我々キリスト者も依然として、とるに足りない存在です。しかし、神はキリストにつながっている私たちを見ておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道に導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れないようにしましょう。失敗したら悔い改め、お赦しの神を最後まで信じ抜いていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるでしょう。繰り返される失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を覚え、神のもとにいる者として生きていきましょう。