神の創造

創世記1章1 -2節 (旧1頁) ヨハネによる福音書1章1-4節(新163頁) 前置き 創世記を読みながら、私たちが必ず捕らえるべき点は、キリスト者の持つべき神中心的な世界観です。創造、堕落、贖いとった聖書の大きなテーマは、すべてのものが神のご計画の中に成し遂げられることを前提とします。もちろん、人間の堕落は、神の創造ではありませんが、そのような変数さえも、予測し、偉大な計画のもとで、救いを成し遂げていかれる神が、この世界のすべての物事を力強く支配しておられることが、創世記の主な内容であります。それを中心として、今日の話しを分かち合いたいと思います。 1.造り主なる神。 「初めに、神は天地を創造された。」(1) 聖書は、この世界が偶然に造られたわけではなく、神という絶対者によって創造されたと証します。この世界のすべてのものは神と呼ばれる唯一無二の存在により、設計、計画されて造られたのです。この言葉には、非常に深い意味があります。偶然に造られたものではなく、正確な計画によって、造られたので、その存在理由が明らかであるということです。虫の蚊、バクテリア、津波までも存在する理由があります。まして、神の創造の完成である人間にそれ以上の大事な存在理由があるということは明らかです。神の創造は、何から何まで、正確な計画と必要性を持っているのです。 今日の旧約の本文に「初めに」という言葉があります。この「初めに」という言葉は、一つ目に、文字通り「世界が初めて造られる、その瞬間」という意味です。「被造物が造られる前に、神のほか、何も存在しない時」という意味です。その意味から、私たちが分かるのは「無から有を創り出される神」への知識です。命も光もなく、ただの虚しさだけがある、何もない状態から、新しい命、光、世界を造り出される造り主、神についての知識を得ることができます。神は無から有をお造りになる方ですので、すべてのものの支配権を持っておられます。造り主は、すべてのものの主である神です。したがって、神は創造された私たち人間の所有者でもあります。ですので、神を知ること、神を信じることとは、この世の中に自分一人だけではなく、自分の始まりと終わりを知っておられる創造主が自分と共におられるということを意味します。 二つ目に「初めに」という言葉は、解釈によって「人が神の創造に初めて気付いた瞬間」という意味でもあります。神を全く知らなかった人が、御言葉によって、初めて神への認識を持つようになると、以前には無かった神への知識を持つようになります。その知識を通して、信仰が生まれ、神を真の造り主と信じるようになる際に、神は人の中に「神という存在を中心とする新しい世界」を造ってくださいます。つまり、神中心的な世界観という新しい秩序を与えてくださるという意味です。したがって、「初めに、神は天地を創造された。」という言葉は、「人が神に初めて出会ったとき、その人の中に神の世界が造られた。」という意味でもあるでしょう。神は世界を創造されたとき、無から有を造り出し、無秩序に秩序を与えてくださいました。ところで、そのような神の創造の御働きが、人が御言葉を通じて、神を信じようとする時、その人の中にも起きるのです。信仰の無い心に信仰が生まれ、秩序の無い人生に神を中心とする秩序が生まれるのです。 2.支配しておられる神。 したがって、創造は信者、未信者、自然を問わず、すべての存在に適用できる概念です。神は目に見える物理的な世界だけでなく、目に見えない霊的な世界をも造り、それらに神を中心とする秩序を与えられた方です。この秩序は、神を知らない人々が、どんなに否定しようとしても、否定できない明らかな事実です。また、神は、神を信じる人の中に、神を中心とする世界観、すなわち、キリスト者らしく世界を見る目と、神の支配を信じる心をくださり、神の秩序の中で生きようとする意志をくださいます。私たちは、これを「信仰」と言います。したがって、主なる神は神を知らないこの世と神を知る教会、両者すべてを治められる方です。神の支配は信者、未信者を区切りません。今日の聖書の本文である創世記は、このように造り主としての神の絶対主権を最も前に置き、聖書を始めます。このような神の絶対主権は、聖書66巻が終わる黙示録まで終わらないでしょう。神は天地万物を支配しておられる唯一の神です。そして、その神を崇める私たちはその支配を認め、その支配を世に広めなければならないキリスト者なのです。 2節の言葉をもう一度お読みします。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(2) ある人たちは、「神の創造が始まってもいないのに、どうして地があり、混沌と闇があり、深淵と水があり得るだろうか。」と問い掛けてきます。確かに創造の前には何もなかったのに、一体どうしたのでしょうか?私たちは、聖書を読む際に、単なる歴史的な感覚で、ただの事実の記録だと思ってはなりません。聖書は歴史というより聖書記録者の信仰告白の記録であるからです。だから、信仰告白の側面から、聖書を読む必要があります。もちろん、聖書に歴史的な事実も含まれているのは、変わらない事実でしょう。しかし、聖書は、古代の文学形式に応じて書かれた記録ですので、文字、そのままではなく、文字に含まれている意味を読み取る必要があります。混沌、闇、深淵、水などは「神が世界を造られる前に、この世に秩序も、何もなかった。」という文学的な表現です。当時の人々が持っていた漠然とした不安と虚しさの表現が、この「混沌、闇、深淵、水」なのです。 アブラハムの故郷、ウルは古代の代表的な都市でした。そこは異邦の神に仕える巨大宗教都市でした。当時、ウルには大きい川があり、時々、大きい雨が降れば、水が増えて洪水になりました。この洪水は田んぼ、畑、建物、生物を問わず、すべてのものを呑み込む恐ろしい存在でした。古代に、洪水、すなわち、水は、命と直結するものでした。ですが、また、水による洪水に覆われ、友人、家族、財産を失ってしまいました。水は生と死を司る絶対的な存在でした。ところが、このような洪水でさえ、最終的にはアラビア海に流れました。なので、古代世界で海というのは、洪水も支配する恐るべき存在だったのです。今日の本文の混沌、闇、深淵、水などは、全部、洪水、海などと関わりがあるのです。ところが、そのような混沌、闇、深淵を象徴する水の面を動いておられる神、それらに秩序を与え、新しいものを生み出される神という存在がおられるというのは、神の絶対性を端的に表現することでした。今日の創世記の言葉は世界を造られた神が、死と虚しさも支配しておられる方であることを宣言しているのです。つまり、主なる神が生と死、秩序と無秩序、すべての物事を支配しておられる絶対者であることを明らかにしているのです。 締め括り 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音1:1) ヨハネによる福音書は、初めに世界を造られ、秩序を与えてくださった神が、他のものではなく、神の御言葉を通して、その創造を成し遂げられたと示しています。ここで「神の言」とは、神の御意志、御心、御計画などを意味します。神の創造は、ただの気まぐれ、または無秩序な行為ではなく、徹底的に神の計画と意志によって行われたものです。したがって、神はこの創造を通して、神の意志を世界に示されたのです。ただし、人間の罪のゆえに創造の世界に大きな汚れが生じてしまいましたが、真の神の言葉、すなわち世界への神の善い御心そのものである「イエス・キリスト」によって、罪の問題はすでに解決され、終わりの日の神の裁きだけが残っているのです。ですから、私たちは世界を創造し、秩序を与えてくださる神、最後まで支配される神を待ち望み、その主なる神の御心に適う生活を続けるべきでしょう。神の創造とは、すでにこの世界のすべてのものが神の導きの中にあることを意味するものであり、最後まで私たちが付き従っていかなければならない絶対的な価値であります。このような創造の本当の意味を覚えつつ、キリストにあって、神の御心に聞き従う私たち志免教会であることを願います。

主に望みをおく人

イザヤ書40章27~31節(旧1125頁) フィリピの信徒への手紙4章11~13節(新366頁) 前置き あけましておめでとうございます。新しい一年を始める時期になりました。新年をお許しくださった主なる神に感謝いたします。皆さんも主の恵みのもとに心身ともにお元気に過ごされますよう祈ります。今年の志免教会の主題聖句は「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ40:31)です。昨年、私たちは本当に大変な時期を過ごしました。今年になってもさまざまな理由で、辛い時を過ごす方もおられると思います。しかし、主は私たちが喜ぶ時も悲しむ時もいつも私たちと共におられ、一人ぼっちに放っておかれず、助けてくださる方です。どんな苦境があっても、私たちと共におられ、慰めてくださる主を憶えつつ今年を生きていきたいと思います。 1. 神の時間と人の時間 数年前、時間を意味するギリシャ語、クロノスとカイロスについて話したことがあります。クロノスは客観的な時間のことで、例えば、「主日礼拝は午前10時15分に始まる。教会から家までの距離は車で10分くらいかかる。」のように誰にでも与えられる客観的で物理的な時間を意味します。また、カイロスは意味を持つ主観的で抽象的な時間のことで、例えば「あなたと私の大事なひと時。その時間は思い出になった。」のような時空間を超える意味ある時間を意味します。永遠を司っておられる主なる神は、クロノスもカイロスも支配しておられる方です。主は昨日と今日と明日、1時間、2時間、3時間といったクロノスの中でも働いておられる方ですが、主によって意味を持ったカイロスの時間の中でも働いておられる方です。キリスト者である私たちにとって代表的なカイロスの出来事は何でしょうか? それはキリストの十字架の救いの出来事です。2000年前、エルサレムで起こった主イエスの十字架での時間は、その後すべての時間に影響を及ぼす唯一無二で移り変わりのない「意味ある時間」になりました。主はその意味ある「十字架の救いの出来事」を通して、2000年経った今でも罪人を救ってくださいます。つまり、主は過去の意味ある時間(カイロス)を用いられ、現在の物理的な時間(クロノス)の中でも働かれるのです。 つまり、主なる神は時間にとらわれないということです。神は物理的な現在の時間の中で、2000年前の意味ある時間である十字架の救いの出来事を道具として使われます。したがって、クロノスに束縛され、カイロスはただ過去の思い出や良い記憶としてしか使えない私たちは、二つの時間を超える主なる神の御心と御業を完全に理解することが出来ない限界を持っています。そのため、主は今日の旧約本文で、このように語られたのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」(イザヤ40:27-28) 昔、イスラエルは偶像崇拝の罪を犯し、神に逆らってアッシリアとバビロンといった巨大帝国に次々滅ぼされました。時間が経ち、主はイスラエルの回復を約束されたが、彼らの子孫は民族と国を早く回復させてくださらない主に向かって疑いを抱えるようになりました。なぜ自分たちを早く助けてくださらないのかと思ったわけです。クロノスを生きる彼らは、祈りに答えがなく、民族の衰退にも、助けてくださらないような神に疑問を表しました。そのために「わたしの道は主に隠されている。わたしの裁きは神に忘れられた。」と言ったわけです。 しかし、主なる神は言われました。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」クロノスに束縛されない主なる神、すべての上におられる創造主なる神は、絶えず賢くすべての物事を成し遂げていかれると語られます。つまり、神の時間の中で、主は変わらず働き導いておられますが、限界のあるイスラエルはそれに気付くことができず絶望しているという意味でした。そのような人間の愚かさにもかかわらず、主なる神は限界ある人間が無能であっても、彼らを助け導いていくと言われました。今年の志免教会の主題聖句は、それらの背景知識を持って読む必要があります。主なる神に願いをかければ、無条件、すべてがうまくいくという意味ではありません。神の時間は人の時間と違います。だから、私たちの立場からは苦しくて大変である時でも、主なる神は変わらず働いておられるということを信じ、主の御心に常に希望を置いて生きるべきということです。そのように主を待ち望んで生きれば、主が必ず力を与え助けてくださるということです。したがって、私たちは自分の短い時間に束縛されず、すべてを支配しておられ、導いてくださる、主なる神の長い時間を憶え、主への信頼と信仰によって一日一日を生きていかなければなりません。 2. わたしを強めてくださる方のお陰で だから、私たちの祈りに早い答えがなく、さらに私たちの願いが主に受け入れられないと思われる時、落胆しないようにしましょう。時々、私たちは主にあまりにも当たり前のように答えを求めているかもしれません。主のご計画と御心があるにもかかわらず、自分の必要だけに心を奪われ、早く答えてくださらないとがっかりしてしまい、信仰が弱くなる場合もしばしばあります。まるで、神に自分の願いと答えを預けておいたのに、神が返してくださらないかのように行動するのです。しかし、主なる神は私たちの祈りにプレゼントとして答えるサンタクロースではありません。神は私たちの真の父であり、真の主です。父親に当たり前に何かを要求するのは、成人した人にふさわしくない行動です。今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13) 多くのキリスト者が「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」というこの言葉だけを覚えているかもしれません。「私に力をくださる主によって私は何でもできる。」と肯定的な信仰で生きようとする人々にインスピレーションを与える言葉であるかもしれません。しかし、私たちは聖書を読むとき、一行の文章だけを取り上げて文脈なく利用してはなりません。少なくとも一つの段落を確認しながら全体的な意味を読み取らなければなりません。今日の新約本文の文章を解き明かすと、次のようになるでしょう。「私はどんな状況におかれても満足することを習い覚えました。貧しい時も豊かな時も私に大きい変化はありません。貧しさにも豊かさにも揺るがないすべを主に教えていただいたからです。私を強めてくださる方のお陰で、私はそれが出来るようになったのです。」つまり、主が答えてくださっても、されなくても、自分のことがうまくいっても、いかなくても、そのすべてを超えて主を信じる力をいただいたから、著者はすべてのことが可能であるという意味なのです。神の時間は、人の時間と違います。だから、私たちの願う時間に神の答えが届かない可能性もあります。けれども、主のお導きに信頼すること、主の御心を待ち望むこと、それらこそが主に望みをおく人のあり方ではないでしょうか。 締め括り 昨年、志免教会において、さまざまな試練がありました。まだ試練の中にいる方々もおられるでしょう。苦しみや悲しみの時間を過ごす方々がおられるでしょう。しかし、その時間さえも主なる神のお導きの中にあることを忘れてはならないでしょう。私たちは、主である神の時間の中に属した存在です。ですから、自分が望む時間に願いが叶わない時もあるかもしれません。キリストによって救われた私たちは、むしろ主が自分の願いを叶えてくださっても、くださらなくても、早く答えがあっても、答えが遅くなっても、主なる神という存在自体に希望を置いて信仰と忍耐とで生きるべきでしょう。主は私たちがそのように信仰と忍耐によって生きることができるように、いつも言葉を通じて力を与え、励まし、共にいてくださる方です。今年も主なる神への変わらない信仰と忍耐と感謝で、主の民に相応しく生きる私たちでありますよう祈り願います。

喜びと祈りと感謝の生活。

イザヤ書41章10節(旧1126頁) テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節(新379頁) 前置き 今年、志免教会は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (1テサロニケ5:16-18)を主題聖句としました。主のもとで、いつも喜び、祈り、感謝する日々を生きる志免教会であったらとの思いで、この言葉を決めたのですが、むしろ今年は喜びと感謝で生きづらい、さまざまなことがありました。そこで、今年の主題聖句を、これにしたため「主に試みられているだろうか、私のミスだろうか」と後悔する時もありました。ところが、改めて考えてみると、喜ぶことも、感謝することも難しい一年ではあったが、それによって祈るようになったと気づくことになりました。私たちのことがうまくいけばいくほど、喜びと感謝はしやすいが、切な祈りは減っていくと思います。しかし、つらければつらいほど、祈りにもっと力を注ぐようになります。そんな理由で、今年いろいろ大変なことがありましたが、私たちは祈りに力を注ぎながら今まで歩んできました。もしかしたら、今年の主題聖句の喜びと感謝を実践しつつ生きることは難しかったもしれませんが、少なくとも、神への祈りという大事な一つは教えていただいたのかもしれません。 1. イエスを信じているのにつらいことが起きる理由。 人によって信仰の経験がそれぞれ異なると思いますが、非常に強烈な霊的経験をする人もしばしないます。夢でイエスに会ったり、祈り中に主の声を聞いたり、大きな交通事故に遭ったが全く怪我をしなかったり、邪悪な霊的存在と祈りで闘ったり、極上の喜びを経験したりするなど、不思議なことを経験する人も世の中にはきっといるでしょう。私も回心したばかりの時、そのような経験がありましたが、イエスによって極上の喜びを感じることでした。数年間さまよい、30歳に主のもとに立ち帰り、回心し、主の民として生きようと誓ったころでした。その2年後に神学校に入学したので、その経験で牧師の道を歩むようになったのかもしれません。とにかく、その当時は今後何の心配もなく、すべてがうまくいき、永遠に幸せに生きるだろうと思いました。主がが私の憂いと悲しみと苦しみをすべて除去してくださると思ったからです。しかし、その経験は一ヶ月も続かず、霊的な興奮はおさまりました。その後、神学校入学のために毎日公共図書館に通いながら聖書と教理書を読みました。一年間聖書を10読もしました。そして母教会の青年礼拝と祈祷会にも毎週出席し、教会生活に頑張りました。その1年後、自分自身を振り返った時、私はまた心配の中に生活していました。1年前の喜びに満ちた私の姿はどこにもありませんでした。 その時、私には一つの疑問がありました。イエスを信じるのに、なぜまた心配しているだろうか? イエスを信じるのに、ことがうまくいかない人はなぜだろうか? イエスを信じるのに、苦しい人がいる理由はなぜだろうか? 母教会の青年たちの中には誠実に信仰生活するにもかかわらず、心配に満ちた人、すべてがうまくいかない人、さまざまな事情で苦しんでいる人がいたからです。なぜ、私たちはイエスを信じているのに、悲しみと苦しみと挫折を経験するのでしょうか? 初代教会にもこんな悩みを抱えている人たちがいたようです。今日の新約本文の背景である古代テサロニケ教会には、いわゆる千年王国がすでに臨んでいるので、主なる神を信じる者には平和と安定だけがあり、迫害と苦難の中にいる者は主を正しく信じず、間違った信仰を持っていると主張する偽りの教師たちがいたようです。そのような理由で、テサロニケ教会の人々の中には、自分の信仰が果たして正しいかどうかと疑い、彼らの主張に心を奪われる人もいたようです。イエスを信じているにもかかわらず、依然として心配と苦しみを感じる私たちのように、その時の人々にも同様の悩みがあったわけです。 2. 苦難は祈りをもたらす。 しかし、私たちが知っておくべきことは、イエスを信じるからといって、この地上での私たちの憂いと悲しみと苦しみが完全に消えるわけではないということです。多くの人々が主イエスが自分のすべての憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださるだろうと誤解します。しかし、現実は違います。なぜ、主は私たちの憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださらないのでしょうか? 一つ、主なる神は人間の感情に無理やりに立ち入り、まるで操り人形のように操る方ではないからです。もちろん、神は私たちの真の親なので、ご自分の民が憂いと悲しみと苦しみで悩んでいることを放っておかれる方ではありません。しかし、喜怒哀楽は人間を人間らしくする人間の一部です。何の感情もなくただ喜びばかりであるなら、それは麻薬と同じなのでしょう。二つ、主の民は、この世と反対の価値観の存在だからです。魚は川や海の水の中に生きなければなりません。魚が水の外に出てくると、苦しみは当たり前でしょう。私たちは御国に属した存在ですが、世の権勢が支配する地上で生きています。御国の民である私たちは、この世を生きながら盲目的に喜びと幸せだけで生きることができません。キリスト者なら、この世と異なる価値観によって苦しむのが正常です。 三つ、人間の罪は、憂いと悲しみと苦しみをもたらします。私たちが生きるこの世は、創造の時のエデンの園ではありません。初めての人間が神に逆らう罪を犯した結果は残酷でした。長男が次男を殺し、子孫たちは代々憎しみあい、対立しました。男は苦労して働かなければならず、女は出産の苦通を経験しなければならないという創世記の言葉で、聖書は人間の罪によって憂いと悲しみと苦しみの種が生まれたことを示しています。人間の罪がある限り、この世を生きるすべての存在は、憂いと悲しみと苦しみから完全に自由になることは出来ません。最後に憂いと悲しみと苦しみがあるからこそ、主なる神を探し求めるようになります。立派な親は、子供の要求をすべて聞いてくれるわけではありません。許可する時もありますが、断る時の方がさらに多いです。無条件の許可は子供の教育に良くないからです。時々、主は私たちの生活に憂いと悲しみと苦しみを許され、早く解決してくださらない時もあります。しかし、信仰のある人ならその状況でしばらくは戸惑うかもしれませんが、結局は祈るようになります。主なる神に力がないので、私たちの憂いと悲しみと苦しみを放っておかれるわけではありません。逆境の中で祈り、主を求め、信仰が成長するようにしてくださるために主は憂いと悲しみと苦しみを用いられるのです。 3. にもかかわらず、喜びと感謝とで生きる理由 私たちは主の救いによって永遠という人間がはかり知ることのできない恵みの中に入っています。イエス·キリストの救いによって永遠の命が与えられているからです。つまり、この地上での人生が私たちのすべてではないということです。私たちは主と共に時空間を超越する神のご統治の中で永遠の命の中に生きるようになるでしょう。この地上での憂いと悲しみと苦しみも同じです。青年時代の労苦が老年には思い出になると同じように、この地上での憂いと悲しみと苦しみも永遠の中では極めて小さなことと記憶されるでしょう。キリスト者はその永遠の命を信じて生きる存在です。すでに永遠に入っている私たち、それでも私たちはこの世を去る時まで、ここで生き続けなければなりません。そのため、この世で経験する憂いと悲しみと苦しみは、私たちがこの世を去るまで私たちについてくるでしょう。その都度、私たちは挫折するのでしょうか? 主は私たちがすべての憂いと悲しみと苦しみの中でも私たちを絶対に見捨てられない御恵みを憶え、信仰によって生きることを望んでおられます。だから、キリスト者はいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きるべきです。聖書はそれこそが私たちへの主の御心であると語っているのです。この世の苦しみとは比べ物にならない真の喜びと平和が、主によって私たちの永遠の中にすでに与えられているからです。 締め括り 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)私は、今年の牧会は完全に失敗だと思いました。皆さんにも無力な姿を度々お見せして申し訳なく思います。皆さんにとっても2024年は厳しい1年だったと思います。しかし、私たちは今もなおここで主なる神に礼拝を捧げています。喜びと感謝は例年よりは少なかったかもしれませんが、私たちは祈り続けてきました。そして、私たちの憂いと悲しみと苦しみの中でも移り変わりのない主が私たちと共にあゆんでくださいました。主は私たちといつも共におられ、永遠に一緒に生きておられるでしょう。新年を迎えている今、私たち共におられ、支えてくださる主を憶え、喜びと祈りと感謝とで生きる私たちでありますように祈り願います。

天には栄光、地には平和。

ルカによる福音書2章8~14節(新103 頁) 前置き 今年も無事に今まで過ごし、クリスマスを迎えています。今日は主イエスのご誕生と再臨を待ち望むアドベント(待降節)の第4主日であり、主イエスのご誕生をお祝いするクリスマス記念主礼拝の日でもあります。クリスマスが近づいてくると、近場のイオンモールや博多駅、天神の街には、華やかな飾り付けがいっぱいになります。日本ではクリスマスが祝日ではありませんが、多くの人々がクリスマス気分を満喫するために家族、恋人、友人と一緒に時間を過ごします。コンビニではクリスマスケーキの注文を受け付けており、あるチキン専門店では「クリスマスはフライドチキンを食べる日」と宣伝しています。しかし、キリスト者である私たちは、クリスマスがただ人々の楽しみのための日ではなく、人類の罪を赦し、永遠の死から救うためにこの地上に来られたイエス・キリストのご誕生を記念する日であるということを忘れてはなりません。今日はルカによる福音書の御言葉「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」を通じてクリスマスの意味について考えてみたいと思います。 1. 主イエスのご誕生の夜 ローマの皇帝アウグストゥスが支配していた時代、皇帝はローマ帝国と植民地のすべての住民に戸籍を登録せよと命じました。イスラエルの昔の王ダビデの子孫だったイエスの両親は戸籍登録のためにダビデの村である「ベツレヘム」へ足を運びました。イエスの母親は臨月の体でイエスが生まれるのを待っていました。その頃、ベツレヘム地域の羊飼いたちが、夜、外で羊を守っていました。ベツレヘムは山地なので、かなり寒いところでした。その夜、羊飼いたちは忽然と現れた主なる神の天使を見るようになりました。彼らが恐れると、天使は言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ福音2:10-11) その時、さらに多くの天使の大軍が加わり、いと高き神とその日お生まれになった御子を賛美しました。天使たちが消えると、羊飼いたちは赤ん坊として生まれた救い主(メシア)イエスのご誕生を見るためにベツレヘムに向かいました。 多くの人々が戸籍登録のためにベツレヘムに来ていたので、イエスの両親は泊りを見つけることができませんでした。それでやっと普通の家の馬小屋で一晩を泊まることとなりました。そういうわけで、神の子は寒い冬の夜、王宮ではなく家畜が寒さを避ける馬小屋にお生まれになったのです。なぜ、イエスは華やかなエルサレムの王宮ではなく、小さな村ベツレヘムのみすぼらしい馬小屋に生まれられたでしょうか? 羊飼いたちに現れた天使が言ったように「民全体に与えられる大きな喜び」つまり、救いの福音を伝えてくださるためでした。イエスはお金持ち、権力者、身分の高い者が中心となるこの世の中で、貧しい者、弱い者、病んでいる者にも慰めと愛の良い知らせを伝えてくださるために、最も高いところから、最も低いところに来られたのです。そんな理由で、主なる神の天使たちも貴族や権力者ではなく、当時のイスラエル地域で最も身分の低い階層だった羊飼いたちに一番先に現れたのかもしれません。イエスは人生の思い煩いと疲れの中で苦しんでいるこの世のすべての人々のために最も低いところに来られたわけです。そして、主なる神の栄光と人々の平和のためにご自分のすべてをささげられたのです。クリスマスは、このイエスのご誕生を憶え、記念する日です。主イエスは、私たちと隣人とすべての人々を愛しておられるため、寒くてみすぼらしくて低いところに喜んで来られたのです。 2. 天には栄光 イエスは天には栄光を、地には平和を与えるために来られました。本文には「いと高きところ」と記してありますが、天に解釈しても問題ありません。古代イスラエルの世界観において、天とは、人間が至ることのできない偉大な神の領域を意味しました。天使も、悪魔も、人も、天に至ることは絶対に許されていなかったのです。つまり、天は、主なる神の権勢を意味し、神の存在そのものを意味すると言える象徴だったのです。ところで、主イエスは、その天の神に栄光を帰すためにこの世に来られました。「栄光」とは何でしょうか? 私たちは栄光という漢字語を目にすると、明るく輝く何かを思い起こしやすいです。実際にも、そういうイメージの漢字語です。しかし、聖書が語る栄光はそれとは少し異なります。聖書が語る「栄光」とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味します。例えば、生徒なら、学校で熱心に勉強し、友達と仲良く生活し、自分の未来のために準備することが光栄です。教師なら、生徒を愛し、誠実に教え、指導することが光栄です。牧師なら、聖書の御言葉をありのままに研究して説教を作り、伝え、誠実に牧会することが光栄です。キリスト者なら、イエスを堅く信じて主なる神の御心に聞き従って生きることが光栄です。聖書における栄光とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味する言葉なのです。 それでは、「神の栄光」とは何でしょうか。創造主である神が、この世のすべての被造物に絶対者として讃美と礼拝を受けられることです。その方おひとりだけが真の主だからです。しかし、この世は罪によって創造主から離れてしまいました。特に人間は本能的に主の支配のもとにいるのを嫌い、自ら主のようになろうとする性質を持っています。このような世の中で神がこの世の人々から讃美と礼拝をされ、絶対者として崇められるのはあり得ないことです。しかし、主イエスのご到来とその方の救いを伝える福音により、罪人たちも「創造主」神の存在が認識できるようになりました。そして、主の恵みによって特別に選ばれた者たちは、神を信じる信仰が与えられ、その方の民として生きるようになります。このような神の民によって人々は神について聞くようになり、神を信じる人々がさらに増えていきます。その中で最初の教会も打ち立てられたわけでしょう。主イエスの存在によって神と完全に遠ざかってしまったこの世の人々は、神に近づくようになります。そして、主イエスはご自分の犠牲と恵みとで罪人の罪を赦してくださいます。したがって、神と人をつないでくださる主イエスの存在のため、神が神として主の民に賛美と礼拝され、神らしくおられるようになります。 3. 地には平和。 このイエスは、また地には平和を与えてくださる方です。聖書の御言葉に基づいて正確に言えば「地上にいる御心に適う人への平和」です。先に申し上げたように、古代イスラエルの世界観において、地は人間の領域を意味します。神の創造通りの罪ない人間ではなく、罪によって堕落した罪人としての人間が生きるところです。そのため、地は憎しみと妬み、対立と葛藤、競争と戦争が絶えないところです。「PAX ROMANA」という言葉があります。「ローマの平和」を意味するラテン語です。このローマの平和は、みんなの平和ではありませんでした。ローマが平和であるためには、周辺の国々を征服して植民地にしなければなりませんでした。沖縄はもともと琉球王国で、日本に属する地域ではありませんでした。しかし、日本の平和のために薩摩藩が征伐し、日本に編入してしまいました。今でも日本国内の米軍部隊の8割が沖縄県内に集中しているそうです。日本の平和のために、沖縄は軍事基地化されているのです。誰かの平和のために誰かが犠牲になるのは、真の平和ではありません。それは戦争と競争の結果による弱肉強食の発露です。この世は平和を望んでいません。誰もが平和であれば、権力者は自分の利権を享受できないからです。そのため、権力者は口先では平和を語りながら、実際には平和を望んでいないのです。 しかし、主イエスは違います。この世は既得権者のために弱者を犠牲にし、偽りの平和を語ります。しかし、この世のすべてのものの主であるイエスは、むしろ弱い者のためにご自分を犠牲にされました。「敵を愛しなさい、隣人を愛しなさい。罪人の救いのために私は死ぬ。」自分の欲望ではなく、他者の平和のために、主イエスは喜んで十字架で死んでくださったのです。このような主イエスの生き方が、その方の民である私たちにも求められています。人はもともと神と敵として生まれます。しかし、神の敵には永遠の裁きが与えられるだけです。しかし、イエスは罪人を救い、神の敵ではなく子供であり民であるように身分を変えてくださいました。そのために主イエスは、私たちの罪を担い、私たちに代わって十字架で死んでくださったのです。イエスがこの世に来られ、人間の罪を完全に赦し、神の敵という身分を完全に抹消してくださるのです。イエスによって神と私たちの間に平和が生まれたのです。そのため、私たちはこの神の民としてキリストが伝えてくださった真の平和を世の中に伝えながら生きるべきです。神と隣人を愛し、力ある何人かの平和ではなく、皆の平和のために生きていかなければなりません。神はこの世のすべての人がご自分の御心に適う者になることを望んでおられます。世のすべての人がそうなりますように主イエスは今でも執り成しておられます。 締め括り クリスマスの本当の主人公はイエス·キリストです。クリスマスという言葉そのものも、キリストを礼拝するという意味のラテン語に由来しました。神の真の栄光のために、そして、この世のすべての人々の真の平和のために主イエスはお生まれになりました。クリスマスを通じて、家族、親戚、友人と幸せな時を過ごされますように祈ります。しかし、何よりも大事なこと、主イエスこそが私たちの罪を赦し、救ってくださるために、この世のすべての人々を愛し、慰めてくださるために、神と罪人の間の真の和解のために来られたことを憶えつつ、このクリスマスを迎えましょう。

良い実を結ぶ木。

イザヤ書5章1~7節(旧1067頁) ルカによる福音書3章7~18節(新105 頁) 前置き 今日は、アドベントの第3主日です。そして、次の週は、アドベントの第4主日で、クリスマス記念礼拝の日です。志免教会では、アドベントが始まると、各主日に一本ずつろうそくを灯します。この伝統は初代教会から始まったわけではなく、中世時代のヨーロッパの一部の地域で家庭礼拝や夕食、夕方の祈りの際にろうそくに火をつけたことに由来すると言われます。このように4本のろうそくにそれぞれ火をつける行為によって、希望、愛、喜び、平和を祈ったそうです。そういう意味として、1本目のろうそくは希望を、2本目のろうそくは愛を、3本目のろうそくは喜びを、4本目のろうそくは平和を象徴すると言われます。したがって、今日、灯したこの3本目のろうそくは、キリストによる真の喜びを祈るろうそくであります。喜び、本当の喜びとは何でしょうか? 主イエスのご降臨によって私たちは何を喜ぶべきでしょうか。今日はキリスト者の真の喜び、そして神が喜ばれる教会のあり方について考えてみたいと思います。 1. 喜びについて深く考える。 先ほど、3本目のろうそくはキリストによる真の喜びを象徴するものだとお話ししました。それでは、ここで言う喜びとは何でしょうか? 人は本能的に幸せと喜びを追い求める存在です。適切な経済的な豊かさ、家族との仲良し、職場での安定、穏やかな日常、病気なく元気に生活することなど。私たちは波風のない人生を追求し、それを私たちの喜びと思いがちです。そういう意味で、キリストによる喜びについて、私たちはどのように理解していますでしょうか? イエスを信じることによって得る、この世での安らぎと幸せだと考えているのではないでしょうか? 例えば、主が経済的に満たしてくださること、主が自分と家族を守ってくださること、自分が職場で認められるように主が助けてくれること、主が私たちの心配と苦難をすべて消してくださること。それらが主による喜びなのでしょうか? しかし、私たちの人生に試練と苦難があまりにも多いのではないでしょうか。主が真の喜びを与えてくださると聖書は語りますが、私たちの人生においては、喜びよりは悲しみのほうが、さらに多いかもしれません。つまり、私たちが考える喜びと主による喜びは、別の種類の喜びであるかもしれないということです。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ福音5:11-12) 聖書は、キリスト者の喜びと幸いについて、この世の価値観のように語っていません。もちろん、主なる神も主の民が、この地上での喜びと幸いを享受しながら生きることを望んでおられるでしょう。子供が苦しみの中で生きることを望む親はいないからです。しかし、キリスト者だといっても、この世において苦難と悲しみにあうことはあり得ます。主を信じるからといって、一生を喜びと幸せばかりに生きるわけではないからです。特に信仰を守りながら生きるなら、信仰を守れば守るほど、この世の価値観とぶつかるキリストの価値観によって世に嫌われることも多いです。したがって、私たちは聖書が語る喜び、キリストによる喜びという言葉が、世の人々が考える漠然とした喜び、幸せとは異なるということを認識し、深く考えて生きるべきです。 2. 神の到来に備えているか? キリスト教では、年に2回、レントとアドベントという期間を定め、大事に守っています。レントはイースター(復活節)前の約40日間、キリストの苦難を憶え、謹んで悔い改めながら過ごす期間です。アドベントは、クリスマス前の 4 週間、主のご到来を喜びつつ待ち望む期間です。そのため、レントは「自分の罪に対する悲しみと悔い改め」で過ごす多少重い雰囲気の期間、アドベントは「主イエスのご誕生と再臨を喜びと感謝」で過ごす明るい雰囲気の期間と考えがちです。しかし、中世の、ある時期にはアドベントもかなり重い雰囲気の期間として守られたそうです。その理由はアドベントがイエスの誕生のみならず再臨も憶える期間だったからです。主イエスが再臨されるということは「この世への主の審判」がやってくるという意味を持ちます。イエスが再び来られると、善人と悪人、生者と死者を問わず、あの世とこの世のすべての存在が、主の御前に立ち、裁かれるでしょう。それは、神を信じる存在もイエスによって裁かれるという意味です。もちろん、すでに救われた主の民は、その審判にあたって、むしろ主の民であることを認められ、永遠の生命に入ることになるでしょうが、とにかくすべての存在はキリストの審判の下に置かれることになるのです。 だから、キリストが再臨されるということは本当に喜びばかりのことなのか? キリストを信じていると言いながらも、実は主の民として認められていないのではないか? 自分は主の再臨の時、本当に認められるだろうかという自らを反省する思いが広がり、そのため、アドベント期間を重い雰囲気で過ごしたわけではないかと思います。もちろん、その後の時代は、再びキリストのご誕生を記念する明るい期間に変わったと言われますが、主の再臨と救いという点においては、今を生きる私たちも一度考えてみる必要があると思います。私たちはアドベント期間を過ごしながら、二つのことを記憶すべきです。一、救い主イエス・キリストが人間として生まれ、私たちの間に来られたことへの感謝。二、審判者イエスがこの世に再び来られ、世のすべての存在を裁かれることへの畏れ。私たちはイエスの再臨を信じていますが、その方の再臨については非常に遠い未来のことだと思っているかもしれません。そいうことで、今の私たちの生活に正しくない部分があっても「いつかは良くなるだろう」という安逸な心で生きやすいです。しかし、聖書を語ります。「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」(ヨハネの黙示録16:15) だから、アドベントはただ喜びばかりで過ごせる期間ではないと思います。再臨の主の御前の私たちの人生は本当に大丈夫でしょうか? 私たちは主のご到来を本当に喜ぶことができますでしょうか? 3. 主が喜ばれる実を結ぶ人生。 今日の旧約本文と新約本文には「木と実」という繋がりがあります。旧約本文は、神の民イスラエルをブドウ畑に比喩します。良い実を結んで神の喜びになるために呼び出されたブドウ畑のようなイスラエルが、むしろ神を裏切って偶像を崇拝し、悪行を犯す悪い実を結ぶことになります。これによって神の民にふさわしくない生き方をとり、神に糾弾される場面です。そして、新約本文は洗礼者ヨハネが旧約本文を一部引用してイエス当時のイスラエルの民に悔い改めの実を結びなさいと力強く勧める場面です。つまり、主の民が悔い改めにふさわしい実を結び、主の民らしく生きることが神にとって、喜びであるということでしょう。もちろん、罪人に生まれ、イエスによって救われた私たちが、自力で完全な神の喜びになることはあり得ないことですが、主イエスの救いと聖霊の導きのもとに教会を成していく私たちの悔い改めと正しい生き方を、主なる神は喜びとして見なしてくださるのではないでしょうか? そして、その主の喜びを私たちの喜びとして生きることが、私たちに与えられるキリストによる真の喜びではないでしょうか? このアドベント期間を通して、私たちは自分の信仰をもう一度顧み、悔い改めるべきことは悔い改め、感謝すべきことは感謝しながら、良い実を結ぶ人生について深く考えて過ごしたいと思います。特にアドベント3主日目は「キリストによる真の喜び」を象徴する3本目のろうそくに火をつけますが、今週がキリスト者である私たちにとって「真の喜び」とは何かを考える時間であったらと思います。私たちの救いのために来られた救い主イエスのご到来を喜び、その方の救いを感謝し、その方によって悔い改め、主の民にふさわしい人生を生きることこそが、主なる神の喜びであり、そして、その神の喜びのために主の御心のままに生きようとするのが私たちの喜びになるべきではないでしょうか。 それが私たちに与えられる「本当の喜び」ではないかと思います。主の喜びを自分の喜びにするために、私たちは主が喜ばれる生き方で生活し、そのような人生の中で真の喜びを見つけなければなりません。主の御言葉通りに生きるために力を尽くし、私たちの罪を毎日悔い改め、より良い生き方のために努力し、隣人を愛し、善を行いつつ生きる人生。それこそが実を結ぶ人生であり、そのような実を結ぶ人生そのものが神と私たちの喜びになることを祈ります。 締め括り イエスのご誕生と再臨を記念するアドベントの期間。私たちを救ってくださるためにお生まれになったイエス・キリストを喜び感謝し、いつか世のすべての存在を裁かれるために、再び来られるイエス・キリストを畏れ、待ち望みながら、この時期を過ごすことを願います。私たちの人生を通して、主なる神が喜ばれ、その主なる神の喜びによって、私たちもまた喜ぶことができるように。真の喜びのアドベントでありますように祈り願います。

我が民を慰めよ。

イザヤ書40章1~11節(旧1123頁) マルコによる福音書1章1~8節(新61頁) 前置き この世は病んでいます。こんにちにも世の中には戦争が絶えず、人と人の間の憎みあいが絶えず、社会には不条理がはびこっています。この世の多くの人々が苦しみと不安の中に生きています。なぜ、この世はこんなに良くないもので満ちているのでしょうか? 聖書は、これらすべての不幸が人間の罪から生まれたと語っています。そして、その罪の解決から真の回復と慰めが与えられると語ります。このような世の中を見守っておられる主なる神は、今日もこの世の罪を赦し、すべての人々が神の救いをいただき、真の平和と慰めのある人生を生きることを望んでおられます。私たちが主とあがめるイエス•キリストは、この世を傷つける罪の問題を解決し、神の真の赦しと慰めの成就のために、この世においでになりました。キリストによる罪の赦しと回復。神は自分の力で罪の問題を解決できない、病んでいるこの世を慰め、回復させてくださるために、ご自分のひとり子を遣わしてくださったのです。 1. 喜んで赦してくださる主。 イザヤ書40章は、かつて主なる神への背反、つまり偶像崇拝の罪のために、神の裁きを受け、滅びてしまった旧約のイスラエル民族の回復を宣言する言葉です。神は国々の中でイスラエルを聖別され、神の栄光をあらわす祭司の国として打ち立ててくださいました。しかし、時間が経つにつれて、イスラエルは主の御旨に背き、自分たちの欲望に従って主の御言葉を無視し、他の神々に仕え、主を離れてしまいました。主なる神は彼らに悔い改め、立ち返りを呼びかけられましたが、彼らは変わらず、自分の欲望を神とし、主の御心に逆らってしまいました。その結果、アッシリアとバビロンといった大帝国に侵略され、イスラエル王国は滅びてしまったのです。しかし、その滅びはイスラエルへの神の無慈悲な仕返しとしての滅びではなく、イスラエルを悔い改めさせ、主に立ち帰らせる戒めとしての滅びでした。そのため、神は約70年後にイスラエルを再び回復させ、故郷に帰らせることを決心されました。今日の旧約の本文は、そのイスラエルへの神の赦しと慰めと回復を宣言する言葉なのです。 「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イサヤ40:1-2)主なる神は、ご自分の民を愛してくださる方です。彼らがたとえ神を裏切る罪を犯したとしても、神はご自分の民イスラエルを完全には見捨てられず、再び回復させ、神のふところに抱いてくださることを望んでおらえる方です。だから、神は、さながら親が子供を戒めるかのように、イスラエルを戒め、彼らを完全に滅ぼされず、悔い改めへと導いてくださいます。主なる神は破滅と審判より、赦しと慰めをさらに望まれる方です。主の民が罪によって堕落したとしても、主は彼らを見守り、赦し、愛をもって正してくださることを望まれる方です。主は民が罪を悔い改め、立ち返るなら、必ず彼らを受け入れてくださる方です。神の民が悔い改めつつ、神の御前に出てくる時、主なる神はわたしの民よと喜んで呼ばれ、赦してくださる方なのです。 2.主なる神の移り変わりのないご意志。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(40:3-5) 神はご自分の民イスラエルが滅びと捕囚の状態から回復し、再び彼らの故郷であるイスラエルに帰還すると預言されます。そして、その嬉しい便りを公に宣言されます。主がご自分の民イスラエルを回復させる時、荒れ野には神の道が備わり、谷と山、丘、険しい道は平らになるという比喩によって、誰も神の民の回復を妨げることができないと宣言されたのです。 そして、その民と共に歩んでくださる神の御業を「主の栄光」であると語ります。神は誰よりもご自分の民の回復を喜び、望まれる方です。主はその民の回復のためのご自分の御業がすなわち主の栄光であると公に言い現わされたのです。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:6-8) 神は世の中のすべての肉なる者は草と花のように枯れてしまうが、イスラエルを必ず回復させるという神の言葉だけは永遠に変わらないという言葉を通して、ご自分の民の回復への神のご意志(御言葉)は、世のすべてが変わっても絶対に変わらず、成し遂げられると宣言されました。イスラエルは滅びて無力な存在となったのですが、主は必ずご自分の民を回復させ、新たにするという希望の約束をくださったのです。一度失敗した存在を見捨てず、起こして新たにするという神の希望のメッセージ。これは罪人をあきらめられない主なる神の積極的な愛を表します。「あなたたち罪人は失敗の存在だが、わたしはあなたたちを決してあきらめない。」この主のご意志が罪人たちへの救いにまでつながるのです。 そして、そのような神のご意志は新約時代に入ってイエス•キリストという救い主の登場につながります。 3. キリストの到来の意味。 今日の新約の本文は、イエスの公生涯(イエスの地上での御業3年)の始まりを告げ知らせる言葉です。そして、その言葉には今日の旧約本文イザヤ40章の言葉が引用されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:1-3)、このようなマルコ福音書とイザヤ書の言葉の関りを通して、ご自分の民を回復へと導かれる主の御業(栄光)が、まさにこのイエス•キリストの到来を意味するものであり、このイエスによって、神のお赦しとお慰めが、この世に伝わり、罪によって苦しむ存在が赦され癒されることが推測できます。世の中のすべての肉なる者は、草と花のように枯れてしまうが、神の御言葉と呼ばれるイエス•キリストのご恩寵は絶対に妨げられず、必ず成就することを今日の新約と旧約の本文を通して知ることができるのです。 神は旧約で罪によって堕落し、滅びてしまったイスラエルの回復と救いを宣言されました。しかし、神は、新約聖書を通しては、メシア、イエス•キリストを遣わされ、イスラエルに限られた回復と救いではなく、全人類が罪から赦される究極的な回復と救いを宣言されたのです。イザヤ書を通して伝わった主の民のための神の慰めはキリストによって、さらに拡大し、全人類を対象に広がっていくことになったのです。イエス・キリストがこの地上に来られたということは、神の慰めと救いの恵みがイスラエルという一民族を超えて、人類という世界中のすべての民族に広げられたということを意味します。この世は、罪によって依然として病んでおり、戦争も絶えず起こっていますが、そのすべての痛みと苦しみを主なる神は知っておられ、キリストを通して、共に痛がっておられます。 そして、いつか主はイエス•キリストを通して、その罪の痛みと苦しみから主の民を回復させ、慰めてくださるでしょう。 締め括り クリスマスのシーズンになると、街はクリスマスの飾りで輝き、大勢の人々はクリスマスケーキやお酒などを飲み食いしながら、クリスマスを楽しみます。しかし、多くの人はクリスマスの本当の意味も分からず、ただ雰囲気に流されて楽しむようになる場合が多いです。そんな時こそ、私たちキリスト者は罪を赦し、真の慰めを与え、回復と救いを与えるために来られた主イエス・キリストのご到来を記念し、憶えなければなりません。キリストが来られたということは、この世への神の愛と慰めが、近くに来ていることを意味します。このような神の愛を記憶し、アドベントの期間とクリスマスを過ごしていきたいと思います。

真の王を待ち望んで。

詩編132編8~12節(旧974頁) / ヨハネの黙示録1章4~8節(新452頁) 前置き 今日からアドベントが始まります。アドベントは、メシア、イエス・キリストのご誕生(初臨)と再びの到来(再臨)を憶える待降節を意味する言葉です。その語源は「到着」を意味するラテン語「アドベントゥス」に由来します。毎年、アドベントになると、私たちは主なる神が、この世の唯一の救い主としてお遣わしくださったイエス·キリストの降臨(到着)を喜びたたえます。罪によって永遠に死ぬしかない罪人たちを憐れんでくださり、ご自分の子供にしてくださるために、父なる神は 独り子イエス·キリストをこの地上に遣わしてくださいました。そんな理由で、イエスは真の神であるにも関わらず、また真の人間になって、この世に到着されたのです。そして、罪に束縛された人間を赦し救ってくださるために、ご自分の命を贖いの献げ物としてささげ、罪人に代わって死んでくださいました。このように人間のために死に、その後、主なる神の力によって復活されたイエスは、父なる神のご計画に従い、教会と世の真の王になられたのです。したがって、アドベントは赤ちゃんイエスを待ち望むとともに、今や私たちの真の王になられ、私たちの救いを完成してくださった再臨の王なるイエスを待ち望む期間でもあります。今年も恵みに満ちたアドベントの期間を過ごし、私たちの王でおられるキリストを憶え、感謝と平和のクリスマスを過ごしたいと思います。 1.最もつらい時に共におられる王。 西暦1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスが治めていた時代、イスラエルはローマ帝国の植民地でした。ローマ帝国では、キリスト教への誤解が悪意的な噂となり、皇帝をはじめ、多くの人々がキリスト教を嫌い、迫害するようになりました。イエスの弟子である使徒ヨハネは、そのような迫害の中で、牧会していたエフェソ地域から追い出され、パトモスという小さな離島に流刑されることになりました。パトモス島は険しい山地と強制労働のための採石場のある荒れ果てている島でした。福音書に登場するヨハネはまだ若い青年として描かれていますが、この時期のヨハネは、すでに高齢となっており、一日一日が大変で特に信仰の兄弟姉妹との連絡も途絶えてしまった孤独な生活を暮らさなければなりませんでした。そんな絶望に落ちてしまうような、ある日、ヨハネのところに、主なる神の聖霊が臨まれました。そして、その聖霊を通じて主イエス·キリストがヨハネに語り始められました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)教会への世の帝国の迫害、肉体の衰退、同僚たちとの別れ。何の希望も喜びもなく、人生の中で最も絶望的で苦しい一日一日を過ごしていたヨハネに、真の神であるイエス·キリストの御言葉が臨んだわけです。 今年、わたしはキリスト教会の教師になってから13年目を迎えました。その中、今年のように、苦しくて悲しい年はなかったです。体も心も疲れ、この道が本当に自分の道なのかと何度も悩んだ記憶があります。年初から、いつも元気だった義理の父がすい臓がんにかかり、心の病によって関係が崩れた姉妹もいました。志免教会員の中にも病気で苦しんでいる方がおられ、教会から離れた方々もおられます。志免教会は伝道所への変更を計画していますし、中会の規模もどんどん小さくなっており、先輩の牧師たちも高齢によって引退を考慮しています。将来を考えると真っ暗で、一寸先も見えません。毎日毎日が心配で、祈っても心が平和にならない一年でした。ところで、おそらく使徒ヨハネは今年の私よりも、100倍以上、大変で苦しく、絶望の時を過ごしたでしょう。教会の存続が不透明な時代だったからです。しかし、変わらない事実がありました。それはヨハネがどんな状況に置かれていても、主イエス・キリストは常に彼を見守っておられ、彼の人生と共におられることでした。そして、主が王の中の王であることには何の変わりもないということを教えてくださいました。おそらく日本キリスト教会の牧師として生きる限り、今の状況から改善される可能性は低いかもしれません。しかし、最もつらい時にもかかわらず、主イエスが私の王として見守り、助けておられることは変わらないでしょう。 最もつらい時に、私の王であるイエスは私と共におられるでしょう。 2.主なる神がお遣わしになった真の王。 私たちが喜びの中にいても、悲しみの中にいても、変わらない事実。それは主イエス·キリストが私たちの王として共におられるということです。今日のヨハネの黙示録の本文は、イエス·キリストを「地上の王たちの支配者」と語っています。王たちの支配者とは、言い換えると「王の中の王」であり、これは結局、植民地や属州の王を征服し、その上に立っている「皇帝」を意味する言葉です。実は「王たちの支配者、王の中の王」は、当時の中東地域の帝国やローマ帝国などの皇帝を意味する表現として使われたそうです。したがって、王たちの支配者は結局、皇帝、つまり真の王を意味する表現です。私たちは「王」と言われる時、征服して支配する存在を思い浮かびがちです。あるいは、暴力的で権威的な存在を思い出すかもしれません。実際、この世の国々の王たちには、そんな者が多かったのです。しかし、主なる神が私たちにくださった真の王イエスは、暴力と権威ではなく、愛と恵みによって、ご自分の民を治められる方です。以前にもお話ししたと覚えていますが、旧約聖書の創世記にはこんな言葉があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27-28) ここに書いてある「支配する」という言葉は、ややもすると「権力で抑えつけて治める」と理解される可能性があります。しかし、現代の神学者たちは、この言葉を単に「暴力的に支配する」という意味として理解してはならないと言います。むしろ、支配される被造物、民を正しく導き、面倒を見るという意味として理解した方が文脈的に正しいと主張します。そのような意味で、私たちを支配し、導いてくださる真の王イエスは、主の民を正しい道に導き、愛によって面倒を見てくださる方だと理解できるでしょう。世の中の王たちは自分の権力と安らぎのために民を死に追いやります。この世の多くの王、皇帝、指導者たちが自分の権力のために戦争を起こし、何も知らない民を戦争の弾除けに死なせたのです。そして、彼らは言いました 「これは国家と民族(実は支配者の権力)のための意味ある死だ。」しかし、真の王であるイエスは、ご自分の民の命のためにご自分の命を惜しげもなく捧げました。主イエスはこう言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ福音10:11) 主イエスは「王」の概念を権力のための支配者ではなく、愚かで弱い民を最後まで守る、良い羊飼いのような存在だと言われたのです。主なる神が私たちに主イエスを遣わされ、愛をもって正しい道に導いてくださった理由は、主イエスという真の王を私たちにくださるためでした。 3.私たちの真の王である主イエスが来られる。 クリスマスは、その真の王であるイエスのご到来を喜びながら記念する日であり、アドベントはそのクリスマスまでの4週間、主イエスの「初臨」と「再臨」を憶え、教会が大事に記念する期間です。主イエスは私たちを押さえつけ、思いのままに利用する邪悪な王ではなく、私たちを贖い、愛をもって守ってくださるために来られた良い羊飼いとしての王です。時には、この世での苦しみと悲しみによって全てをあきらめたい時がやって来るかもしれませんが、主イエスはそのような弱い私たちのそばにおられ、私たちが試練を乗り越えて主に従い、真の平和と喜びで生きるように勇気と力をくださる方です。私たちは毎年、このイエスのご到来を憶え、感謝し、アドベントの時期を過ごします。神は、この真の王であるイエスが、永遠に私たちと一緒におられ、助けてくださることを望んでおられます。そのため、神は旧約聖書を通じてご自分が遣わしてくださる真の王の永遠な王位についてこのように言われたのです。「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約と、わたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる。」(詩篇132:11-12) 締め括り 試練の連続で、終わりそうになかった今年も、もう12月に入ります。来年も新しい心配事が志免教会を襲ってくるかもしれません。けれども、絶対に忘れてはならないことがあります。それは私たちの王であるイエス・キリストが、私たちを離れられず、いつも一緒におられるという事実です。天の王座を捨てて地の馬小屋に来られたイエス。天の栄光を捨てて、地の貧しさを選ばれたイエス。全世界の真の王であるイエスが貧しい大工の息子としてお生まれになった理由。それはこの地で苦しみ、悲しんでいる数多くの主の民と重荷を担い、慰めてくださるためです。クリスマスまで約4週間。私たちの真の王である主イエスが、私たちと一緒に歩んでおられることを憶え、苦しい時も悲しい時も主に頼りつつ真の平和を祈る12月になることを願います。 主の御誕生を喜びながら、このアドベントの時を過ごしてまいりましょう。

あなたを探し求めている神

詩編139編1~10節 / ルカ福音書19章1~10節 はじめに ルカによる福音書19章に記されたザアカイのお話は、聖書の中でも大変よく知られたものです。日曜学校の小さな子供たちも、喜んで聞いてくれるお話しです。 といっても、聖書は、譬えるなら海のような書物です。浅瀬もあって幼子もそこで遊ぶことができますが、また広大無限な広さ深さもあって、知恵ある大人も極めつくすことのできません。ですから、今日の箇所も何度読んでも新しい発見があります。 今朝は、「あなたを探し求めている神」という主題で、改めてザアカイのお話しから神様のみ旨を聞いて参りたいと思います。 ザアカイという人物 さて、ザアカイという人物については、まず2節で「徴税人の頭で金持ちであった」と紹介されています。その彼が、理由ははっきりと書いてありませんが、3節、「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。けれども彼は「背が低かったので、群集に遮られて」しまいます。ところが、彼はそんなことで挫けません。4節、彼は「先回り」して群集を出し抜き、してやったとばかり木に登ります。7節には、人々はこんな彼を毛嫌いして、「罪深い男」と言いあっていました。ところが、9節、主イエスは「この人もアブラハムの子」だとお呼びになったというのです。 アブラハムとはユダヤ民族のご先祖の名前です。旧約聖書創世記12章に記されるように、神様は人類の中からこのアブラハムを特別に選び、その歩みを通して、「すべての民は、あなたによって祝福される。あなたは祝福の基である」と約束されました。従って、「アブラハムの子」とは、単に民族としてのダヤ人というだけではなく、人類の祝福のために特別に選ばれ、神様の祝福を周りの方々に持ち運ぶ人のことです。 ところが、その彼がやがて「罪深い男」と呼ばれるようになっていきました。それは、彼が徴税人であったということと関係があります。徴税人が罪深いと言われると、今日、税務関係の方々はお困りになるでしょうが、現在の税務署員とこの当時の徴税人とは、まったく違っていました。その間の事情はこうです。 当時、ユダヤの国はかのローマ帝国によって支配されていました。ローマは、当然、支配した国々や民族から税金を取り立てました。しかし、「支配の天才」と呼ばれたローマは、税金問題が被占領地域の不安定化に繋がることをよく承知していました。そこで、ユダヤ人にはある程度の自治権を認めるふりをして、背後から統率する支配方法をとりました。王様もユダヤ人から立てました。そして税金も、ユダヤ人自身が徴収するようにさせました。すると、人々の憎しみの感情は自然とその背後にいる当のローマ人そのものよりも、彼らの手先として働く目の前の徴税人のような同胞に向けられるようになります。 しかも、徴税人が事のほか憎まれた理由がまだありました。それは彼らの税金の集め方からきます。徴税人は、ローマから割り当てられたある一定額を納めさえすれば、後は自分たちの腕次第。ローマ権力を後ろ盾にいくらでも人々からお金を巻き上げることができたのです。ザアカイが金持ちであったというのは、まさに人々の憎しみを代償として、しかもあまりほめられない手段で成りあがった地位ということでした。 ザアカイの歪み それにしても、なぜザアカイは敵国ローマの手先となってまで、お金に執着したのでしょうか。ある人たちは、ザアカイが「背が低かった」と肉体に関することがわざわざ書いてあるところに、何らかの暗示を読み取ります。彼の生来もっている劣等感、コンプレックスを予想するのです。確かにコンプレックスが心理的に反転して人間の諸活動のエネルギーとなるというのは事実でしょう。しかし、それがなぜザアカイを徴税人としたかまではわかりません。そこで、あえて行間を読むと、こうなります。 実は、ザアカイという名前は、正義や純粋と関連した言葉です。私たちでいうと、正さんとか清さんとか純さんという名前となるでしょう。どのような名前も両親やその社会の人間観を反映しています。きっと、ザアカイという名前も、神様の子供として、信仰深く清く正しく純真な人間に育ってほしいとの願いでつけられたものであったでしょう。しかし、清く正しく純真な心を持って生き続けることは難しいのです。特に、子ども時代はともかく、成人するころには、この世の醜さや矛盾を、だれもが嫌というほど知るようになります。実際、当時のユダヤの民は、神様の民と言われながら、現実には外国に支配されて大変惨めな生活を強いられていました。どこに神様さまがおられるのか、と人々は問うたにちがいありません。では、苦しい中、せめて神様の民同士は互いに助け合い、慰めあっていたかというと、これがそうでもありませんでした。この国では少数の貴族と大商人が土地の大部分を所有し、残りは貧しい民衆で占められていました。 当時、「雨は災い」という言葉があったそうです。なぜなら、雨が降ると土地が潤い、豊作になります。すると人々の生活が楽になる。それだと貴族や商人たちは困るのです。かえって雨も降らず不作だと、商人たちはわずかの収穫物を倉庫に隠し、人々がもっと飢えたころあいを見計らって高値で売りに出す、すると儲かるのです。人間が人間に対して狼となるような、そういう弱肉強食の厳しい時代と社会の中で、このザアカイも育ったのです。 どこに神様がおられるのか、どこに神様の民の愛があるのか、まじめに神様さまを信じ、同胞のために生きようとすれば、自分一人だけ損ばかりする世の中です。一層のこと、ローマの手先となっても、被害者から加害者へ、搾取されるものから搾取するものになった方が良い、そう彼は思ったのではあいでしょうか。以前、久留米出身のIT長者が話題になりました。彼はマスコミにこう言い放ちました。「世の中には2種類の人間しかいない。勝ち組と負け組。どうせならだれもが勝ち組になって、お金持ちになりたいだろう」と、そううそぶいたのです。世の中には、彼のように人生や社会の問題を非常に単純化し、弱肉強食の競争原理をそのまま人間の本能や社会の発展に合致するものとして受け入れ、世の中の流れにうまく棹差しながら生きる人たちがいるのです。ザアカイも、確かにその一人でした。 心の空虚さ ただ問題は、それでザアカイは本当に満足したかということです。彼はお金持ちとなりましたが、決して幸福ではありませんでした。お金も権力も手に入れたザアカイも、一方で自分が無くしたものに気付くだけの正直さはありました。それは、自分が本来そのように創られた神様の子どもとしての歩みであり、神様の祝福を人々にもたらすという、もう一つの人生でした。 人間はただ生存していれば良いという存在ではないのです。美味しいものが食べられ、他の人よりもお金も権力もある勝ち組になれば満ち足りる、というような単純な存在ではないのです。命の根源にある神様の祝福を感謝し、神の子どもとしての使命を果たさないと、すべては空しいのです。 もちろんザアカイは、神様の祝福などはどうでもよい、と思って生きてきたのです。でも、そうは思っても、心の底にポッカリと空いているその空虚さを無視することはできませんでした。 心の空虚さ 17世紀フランスの数学者、物理学者であり、キリスト教思想家であったブレーズ・スカルという人は、人間の心の奥底につきまとう不思議な空虚さについて、とても面白いことを言っています。いわく、人間の心には大きな穴が空いている。その穴を埋めるために、人は色々なものを追い求めて、埋めようとする。この世の栄光、お金、異性、そして権力・・。しかし、そのようなものでは心の穴は埋めることができない。なぜなら、その穴は神様様の形をしているのだから。神様様以外の何ものをもってしても、人間の心にぽっかりと空いた穴を埋めることは出来ない、と。 みなさまは、ジクソーパズルをご存知でしょう。私も、小さな頃、1000ピースのジクソーパズルに挑戦したことがあります。何日もかかって999ピースを完成させました。ところが、肝心の最後の1ピースが見つからないのです。そのときのことを思い起こすのです。999まで埋め尽くしたのだから、一つくらい欠けていても完成と同じではないか、と自分に言い聞かせても、納得いかないのです。むしろ、逆なのです。最後の一つが欠けているから、せっかく苦労して完成させた他の999ピースが、かえって不完全で醜く見えて、どうしようもないのです。 私がその経験から学んだことはこうです。人間の心理、人間存在の不思議さは、実は自分が今現在もっているものをすべてを集めた総量によってではなく、むしろそれによって全体が統合され調和していくような、究極的なある一つの何かによって、決定されていくということです。主イエスの言葉でいうと、「なくてならないものは多くはない。いや、むしろ一つである」ということです。ですから、その肝心要となる究極的な一つのものがなければ、その他どんなに多くのものをもっていても、人間は決して満足しないのです。 アウグスティヌスという古代教会の有名な先生が、「神様、あなたは私たちをあなたご自身に向けてお造りになりました。それゆえ、私たちはあなたのもとに憩うまでは安きをえません」と祈られましたが、正にこれが、ザアカイの空虚で平安のない状態だったと思うのです。 ただ、その彼が本当に幸いであったのは、主イエスのことを聞いたことです。同じ徴税人仲間のマタイという人がお弟子となったことも、心引かれたでしょう。こうして、3節、彼は「イエスがどんな人か見ようとした」のです。直訳すると、「イエスがどんな人か見ることを切に求めた」となります。何とかしてイエスに会いたい、なぜなのか自分でもはっきりとはわからないのだけれども、しかし心の底から沸き起こる「内的な促し」があって、苦しいほどにキリストを「切に求め」るのです。 決心 そのザアカイの決心は、相当なものでした。3節に、「群集にさえぎられた」とありますが、これは群集が嫌われ者ザアカイに意地悪をして妨害した、と読めます。それでも、ザアカイはくじけませんでした。 聖書には、ザアカイをはじめとして、いろいろな困難や妨害を乗り越えてキリストに出会う人たちのお話しが出てきます。礼拝一つ守るためにも色んな差し障りがあります。家族の反対、仕事上の問題、自分の中で疑い、迷いも起こるでしょう。しかし主イエスはおっしゃいました。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見出す。門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえる」。だれでも真剣に求めるなら、与えられ、見出し、道は開かれて行くのです。何か本当のものを求めたいと思っても、人々の目を気にしたり、世間に縛られて身動きできない人はたくさんいます。こうして、今日の決意が明日になり、明日があさってになり、一生を終える時に後悔して苦しむ人もいます。その中で、ザアカイは自分の心の促しに正直に、思いきって一歩を踏み出すことのできた勇気ある人でした。 救いの逆転 しかし、次の5節以下に記されていることは驚きです。というのも、木に登ったザアカイに、何と主イエスの方から彼に声をおかけになった、とあるからです。つまり、ここまでは心の中の空しさに突き動かされる形で、ザアカイが必死になってイエス様を求めていたという話でした。ところが、ここで話しが急に転回して、神様こそがご自分の独り子イエス・キリストにおいて、ザアカイを探し求めておられた、という風に変わっていくのです。 そして、ここにキリスト教信仰の大事な点があります。私たちが神様を求め見いだす前に、実は私たちを探し求める神様のお働きがあって、それが私たちを本当の意味で神様に向かわせ、神様のところに救い、立ち帰らせていくのです。 世間では、宗教信仰とは私たちが神様に近づくために、心を入れ替えたり、熱心に修行もしたりして、神様に相応しいあれこれの諸条件を満たしたら、神様がやっと重い腰をあげて、私たちに恵みを与えてくださる、そう考えられています。しかし、よくお考えください。それならばまるで商取引です。私は、しばしば「自動販売機の神様」という言い方をします。自動販売機とは、こちらが始めに100円をさし出すと、それに少しプラス・アルファした分のご利益が返ってくるものです。もし、それと同様に、こちらがこれだけのことをしたから、神様がそれに見合う祝福を与えてくださるというのなら、それはまさに人間と神様との商取引ではありませんか。かつて日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれましたが、宗教まで経済的な交換様式にしてはいけないのです。 聖書の信仰は、ギヴ・アンド・テイクではないのです。神様は天の高みにいて、高く上ることの出きる立派な人だけを迎えて、恵みをたれるというような神様ではないのです。10節をご覧ください。キリストはおっしゃっています。人の子、これはキリストのことですが、人の子は失われたものを探して救うために来たのである、と。クリスマスの時、神様の子主イエスがまずはじめに身を低くして、罪人たちの悲惨な世界においでくださいました。そして、このザアカイを探し求めてくださったのです。 神様の信実 5節の「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」という主イエスのお言葉は、大変興味深い言い方です。ザアカイのこれまでの人生は、コンプレックスにしろ、何にしろ、ともかく人を押しのけ、人よりも高いところに上ろうとした人生でした。キリストにお会いするためにも、自分の才覚で高いところに上らねばならないと思っていたのです。しかし、今や、主イエスは言われるのです。「急いで、降りてきなさい」。急いで、とは時間概念というよりは、回心を迫る言葉です。あなたの今までのモノの考え方や歩み方とはきっぱりと手を切りなさい、ということです。逆に言うと、あなたはもう無理して高いところに上る生き方はしなくてよい、むしろ地面に足をつけて、ありのままのあなたでいて良いのだ、そのありのままのあなたと、私は出会うのだと主イエスはおっしゃっているのです。 しかも、その時、主イエスはザアカイの名前を読んで、そうおっしゃったと言われています。名前を呼ぶ、それは何でもないことのようですが、人格的な関係を表します。もう少し言うと、愛の関係を表します。考えてみると、人々はザアカイを憎んでいましたから、彼の名前を呼ばずに、「あの罪深い男」、「あの汚れた奴」、「あんな奴」、という風に言っていたのです。しかし、主イエスはザアカイの名を呼ばれるのです。これを言い換えると、主イエスはザアカイを、みんなが見るように強欲で罪深い守銭奴としては見ておられなかったということです。むしろ、ザアカイの本来の姿、神様によって創造され、人々への祝福の担い手として歩むべき神様の子としての本来の姿を、ずっと見続けておられたということです。 こうして、「あなたの家に泊まることにしている」、とおっしゃったのです。この言葉も、実は神様御自身の先行的なみ業を表します。神様がそうするようにあらかじめ決めている、これは神様のみ心なのだ、というニュアンスの言葉です。人々はこれを非難して、主イエスが罪人の仲間となったといいましたが、主イエスはザアカイを神様の子として迎え入れられたのです。 神様の信仰 この一連の主イエスとザアカイの出来事を、一言で言い直すと、主イエスがザアカイの本来の姿、神様様から創造された神様の子としてのザアカイをどんなに信じつづけていてくださったか、ということに尽きます。ザアカイがどれほど神様の民としての道を踏み外し、落ちるところまで落ちても、そして他の人々はそのようなザアカイをやれ駄目な奴とか罪深い男だとか言って断罪し、批判し、背を向けたとしても、主イエスだけはザアカイの本来の姿をじっと心に持ち続けながら、彼を信じ続け、神様の子としての歩みへと導くことをおやめにならなかったのです。この神様の独り子イエス・キリストにおけるザアカイを信じ抜く揺るがぬ信仰と、そのためにザアカイに対して変わることなく注がれる愛の真実こそが、キリスト教の救いなのです。 今、「神様の、キリストにおけるザアカイへの信仰」と申しました。これは不思議な言い方かもしれません。信仰と言ったら、私たち人間が神様様やイエス様に持つ信仰と思っています。もちろん、それは間違ってはいませんが、しかしその私たち人間の持つ信仰に先立って、実は神様がキリストにあって、私たちに対する信仰をお持ちになっているのです。 新約聖書の中でキリスト教信仰について語られる時、しばしば「キリストへの信仰」、「キリストを信じる信仰」という風に訳されます。これは、ガラテヤ書やローマ書のような、福音の核心を語る重要な箇所で用いられている言い方ですが、原文を直訳すると、「キリストの信仰」となります。この言葉を、宗教改革者ルター以来、伝統的に私たちは「キリストの」という属格(所有格)を、目的格的属格と理解して、信仰とはキリストに対する私たち人間がもつ信仰ということで、私たちが「キリストを信じること」私たちの「キリストへの信仰」という風に訳してきました。しかし、このような翻訳では、聖書がいうところの「信仰」の全体を捉えきれないのではないかと思われるのです。 そこで、実は一番新しい聖書の翻訳である『聖書協会共同訳』では、ルター以来500年に渡ってそうなされてきた「キリストを信じる私たちの信仰」という翻訳から、「キリストの信仰」という風に訳するようになりました。キリストの信仰、あるいは、信仰という言葉は真実という意味ですから、「キリストの真実」「キリストが私たちに示し続ける神のご真実」と翻訳するようになったのです。これは画期的な翻訳と言われますが、しかし本来のキリストの救いの原点に立ち戻ったような翻訳なのです。 実際、たとえば、「神様の愛」と聖書が言う時、それは第一義的に「神様が私たちを愛する愛」という風に捉えますでしょう。その神様の愛をいただいているから、私たちも神様様を愛することができるのです。同様に、信仰もまずはキリストが私たちを信じていてくださるという、キリストの私たちに対する信仰と真実をいただくゆえに、私たちもまた神様様やキリストに対する信仰や真実を持つことができるようになるのです。 私たちが信仰を得たのも、まさに私たちが信じる前に、キリストにおいて神様が私たちを信じて、どこまでも真実を尽くしてくださったからです。私たちはキリストにおいて神様から信じられているのです。たとえ今、私自身、あるいは、人々が私をどのように見ていようと、キリストだけは私を神様の子として信じ抜いてくださるのです。それに感動しない人はいるでしょうか。その感動が、キリスト教信仰の中心にあるのです。そして、この感動には今まで味わったことがない喜びが付きまといました。ザアカイは、もちろんこれまで色々な喜びを経験しました。うまいこと人をだまし、たんまりと税金をむしり取ってお金がたまっていく喜び。ローマ政府の権力を傘にして特別待遇を受ける喜び。人々を出し抜いて優越感に浸る喜び。しかし、神様の信実に包まれ、神様と隣人と共に歩む喜びだけは知りませんでした。ザアカイは、生まれて初めて、命の喜びに満たされたのでした。 今日この家に救いが来た 最後に、今日、救いがこの家にやってきた、という言葉に注目して終わります。ルカ福音書やその続巻とも言うべき使徒言行録では、特に家ごとの救いということが強調されています。これは、心に残る神様の救いの出来事です。一人の人がキリストと出会い、救われる、それは決してその人一人の救いにとどまらないのです。家全体の救いがそこに始まっているのだ、といわれるのです。 この礼拝にも、家族から切り離されるように一人でお見えの方もおられるでしょう。自分の残してきたその家族を思いながら、時にはその救いをあきらめる思いにも捕らえられることがおありでしょう。しかし、主イエスは、「あなたは救われたが、あなたの家族は救いにはほど遠い」とおっしゃったのではないのです。そうではなく、「あなたの救いと共に、今日、あなたの家に救いが訪れた」、と宣言してくださったのです。それは、キリストの救いと共に、私にだけでなく、私たちの家族にも救いが訪れたという宣言です。私の家族が、神様の大きな命の祝福に包まれていくのです。 ですから、私たちはたとえ今は信仰をもたない家族のことでも喜びを失わない。希望を失わない。そして、どんな時でも、家族にも与えられているこのキリストにおける神様の祝福を担いながら家族と共に生きていくのです。願わくは、神様の救いが目に見える形でも家族の中に現れていくように、祈り、仕えていくのです。それが、神様の子どもたち、神様の祝福を担う者たちの歩みなのです。 主イエス・キリストの父なる神様 私たちは、罪のゆえに、あなたのことも、隣人のことも後回しにして、自分一人の幸福だけを追い求めながらも、心に平安を得ることができず、常に迷い、魂のさすらいを続けているような者たちです。しかし、そのような私たちを憐れみ、あなたはあなたの独り子、イエス・キリストをクリスマスの時に、この世に遣わしてくださいました。そして、救い主キリストにおいて私たち一人一人を探し求め、神様の子どもたちとして回復してくださいますことを、心より感謝申し上げます。 失われた神様の子どもたちを探し求めるあなたの驚くべき愛と恵みのみ業は、今も続けられています。私たちの周りにも、あなたのことを知らず、まるでかつてのザアカイのように世の中の流れに掉さし、あなたから離れ、隣人も失って、自己中心的な歩みをしておられる方々がたくさんおられます。どうか、そのような方々が、主イエス・キリストにおいて、まことの神様であるあなたと出会い、まことの悔い改めと、新しい命の歩みを始めて行けるように、お導きください。願わくは、先に救われた私たちが、キリストにおけるあなたの驚くべき愛と恵みの救いに共に与る者たちとして、その方達の命の道しるべとなり、証し人となって、神様の驚くべき大きな祝福へと立ち帰ることができるように、お仕えすることができるようにお導きください。 尽きせぬ感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。

使徒信条(5)聖霊による聖徒の交わり。

ヨハネによる福音書14章16-26節(新197頁) 、16章13-14節(新200頁) 前置き ここ数回の説教を通じて、使徒信条が記された理由と使徒信条が持つ意味について考えてみました。私たちが信じる主なる神という存在は、被造物である人間が完全に理解できる対象ではありません。聖書に記された神についての知識も、神という存在のごく一部だけを教えているので、私たちは神について完全に理解することができません。しかし、少なくとも、聖書に記された神という存在とその方の本質については正しく知って信じなければならないと思います。使徒信条は、私たちに、神という存在への極めて限られた知識ではありますが、聖書に記された神について教えているのです。今日、私たちは残りの使徒信条「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」について学びます。これを通じて、聖霊なる神について、教会との関係について考えてみましょう。 1.聖霊なる神を信じる。 毎年「ペンテコステ」になると、教会では聖霊なる神について語ります。神は三位一体「御父と御子と聖霊」として存在するというのが伝統的な教会の教えであり、聖書にも、これを裏付ける言葉がたくさんあります。しかし、御父や御子に比べて聖霊はその比重が低く感じられる傾向があると思います。使徒信条でも非常に短く書いてあるだけです。しかし、聖霊なる神の御業は、御父、御子に負けないほど重要です。なぜなら、現在、この地上で教会を導きながら、御父と御子の業を成し遂げていかれる方が、この聖霊なる神であるからです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ福音14:16~17) イエスは完全な神でありながら完全な人間である方です。つまり、神の権威と権能を持っておられますが、また人間でもあるため、肉体を持っておられます。そういうわけで、物理的に私たちといつも一緒におられることはできません。聖書によると、イエスの肉体は、御父の右におられるからです。そのため、イエスは宇宙のどこにでも存在することが出来る聖霊のお働きを通して私たちと一緒にいてくださいます。 そんな理由で、イエスはヨハネによる福音書14章を通して、別の「弁護者(助け主)」聖霊を遣わしてくださると言われたのです。 一つの肉体を持っておられるイエスは、その肉体を通して、人間の代表になってくださいます。神であるにもかかわらず「肉体を持つ」とご自分で制限を加えられたのです。ご自身が絶対的な神だから体を複数にし、自然の摂理も無視して何でもするのではなく、主が定められた人間という範囲内で自らを完全な一人の人間とされたのです。それは、完全に人間の代表になってくださるための主のご意志なのです。だから、一つの肉体を持っておられるイエスは、多数の場所におられません。そのため、イエスはすべての所におられる聖霊の御業を通して、今もご自分の御業を全世界において果たしておられるのです。イエスは肉体を持っておられるため、一つの場所、父なる神の右におられますが、宇宙のどこにでもいることが出来る聖霊によって、すべての所で主の民を助けてくださるのです。聖霊は一ヶ所にだけいるイエスに代わって、この地上のどこでもイエスの御業を成し遂げていかれます。聖霊を軽んじてはならない理由は、御父と御子と同じ権威と権能を持って御父と御子の業をしておられるからです。したがって、私たちは聖霊への堅い信仰を持って信仰生活をしなければなりません。三位一体なる神は、お互いに協力しあって神の御業を成し遂げられます。父、子だけが重要なのではなく、父と子と共に働かれる聖霊も、私たちの信仰の対象として崇められるべき方です。 2. 聖なる公同の教会を導いてくださる聖霊。 「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」私たちが信じるこの聖霊なる神は、御父と御子の業を成し遂げられる方です。キリスト教の重要な信条の一つである「ニカイア·コンスタンティノポリス信条」は、聖霊についてこう教えています。「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。」聖霊は、御父と御子から出て、共に礼拝と栄光を受けるべき神だということです。ところで、聖霊は「予言者を通して」語られました。御父と御子の言葉を預言者を通して宣べ伝えられた方が、聖霊なる神だということです。そんな意味として、神の御言葉を語る説教の言葉も、その根源は聖霊によるのです。もちろん、歴史的に牧師や司祭が説教を用いて自分の思想や知識を主張する誤った場合も少なからずあったのですが、ひとえに御言葉の本義だけが伝えられ、その御言葉によって三位一体なる神の恵みが現れ、教会に役に立つ説教が語られるのであれば、それはきっと聖霊が語らせてくださった正しい説教なのでしょう。御言葉が伝えられるということは、そこに教会が建てられたということであり、そういう意味として教会は聖霊のお導きによって建てられるとも言えるでしょう。ですから、聖霊は教会を建てられる方です。 父なる神の計画、御子の贖い、聖霊の働きによって、教会は建てられるのです。教会の頭であるイエスは聖霊の働きを通して、教会を見守って導いてくださいます。このような一つの聖霊によって建てられたこの世のすべての教会は「一つの公同の教会」です。頭なるイエス·キリストがおひとりで、世の中のどこにもおられるおひとりの聖霊が導いてくださるキリストの体なる一つの教会なのです。聖霊のお導きによってイエス·キリストの体となった一つの公同の教会は、国家、民族、文化、風習、思想を乗り越え、イエス·キリストによって教えられた「使徒的な教え(使徒信条)」という一つの最も重要な価値によって連結される普遍的な教会であるのです。ですから、教派が違っても同じ使徒的な教えを追求するなら、仲良く交わるのが正しいでしょう。 聖霊によって導かれ、キリストの体となったこの教会は「聖なる公同体」です。使徒信条は、これを「聖徒の交わり」と語ります。聖なるという言葉の意味は「特別に区別された存在」という意味です。教会自体が善を行い、正しい行動をしたから、聖なる存在となったという意味ではなく、御父の計画と御子の贖いと聖霊の導きによって、主の民として、この世と区別され、キリストの民として生きる存在となったという意味です。頭であるキリストが聖なる方なので、その体である教会も聖なる者と見なされたのです。このような教会を建てて導かれる方が聖霊なのです。 3. 信仰を与えてくださる聖霊。 このように聖霊のお導きのもとに主イエスの体として区別された教会は、聖霊がキリストの御言葉によってくださる「信仰」にあって生きるようになります。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ福音16:13~14) 聖霊なる神は、御父と御子と同一本質で、同じ権能を持っておられますが、いつも謙虚に父と子の御言葉に従って神の御業を果たしていかれます。そのため、聖霊が私たちと一緒におられるならば、私たちは何よりも御父と御子の言葉に集中して生きるようになります。「聖霊は、自分から語るのではなく、聞いたことを語られる。」すなわち、聖霊は聖書にあるキリストの御言葉を通じて主の民に語られます。新しい何かではなく、以前からずっと存在してきた、主なる神の御言葉のみが伝えられるように導かれます。そして、その御言葉によって語らせてくださいます。したがって、健全な教会なら、神の御言葉が記してある聖書を中心として御言葉を宣べ伝えることに努めます。「異言、予言、啓示」これらも時には教会の活動に必要ですが、最も重要なことは私たちに与えられた聖書の御言葉によって、使徒的で普遍的な教えが宣べ伝えられることです。 そして、その使徒的で普遍的な教えによって、教会は保たれていかなければなりません。毎週の説教はいつも変わりなく、時には退屈であるかもしれません。説教者の立場からも、説教のテーマはほとんど変わりがありません。何年前にした説教と大きい変わりのない説教が今年また語られる場合もあります。しかし、新しい内容の説教ではないけれど、常に大事に伝えられなければならない、繰り返しの説教の中で、聖霊なる神は働かれます。繰り返しで退屈な説教を通して、聖霊はご自分の言葉を語られるのではなく、謙虚に御父と御子の言葉を語らせてくださいます。この聖霊の謙虚さによって、私たちは主の御言葉に少しずつ染まっていき、その御言葉から小さな信仰の芽が生えてくるのです。その信仰によって私たちは「父の計画とイエスの贖いによって、私たちの罪が赦されたこと、イエスの復活によって私たちも復活し、永遠に生きること」を知り、信じるようになるのです。聖霊の謙虚さが私たちの正しい信仰の養分になってくるということです。 締め括り 聖霊は三位一体のおひとりの神です。父と子に比べてあまり語られない理由は、聖霊が御言葉を通して、父と子のことを伝えておられるからです。つまり、ご自分のことはあまり語られないということでしょう。だから、聖霊は謙虚な方です。この聖霊は教会を建てて導かれる方です。世の中のすべての所におられる聖霊のお働きによって、父の右におられるイエス·キリストはご自分の御業をすべて果たしていかれます。したがって、私たちも御父、御子と共にこの謙虚によって教会を導いていかれる聖霊なる神を憶えて生きていきたいと思います。長い使徒信条の説教が終わりました。私たちがほぼ毎週告白するこの使徒信条を憶え、私たちが誰を信じ、何を追い求めければならないのか、もう一度顧みる時間であれば幸いです。正しい信仰の告白の中に正しい信仰生活が生まれることを憶えて生きていきたいと思います。

繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁) ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、ひどい飢饉に襲われ、それを避けてエジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹と騙さなければならない命の危機にあいました。その後、主のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、次は相続人と思っていた甥ロトと財産の問題で別れることになり、神に約束された息子の誕生は兆しが無かったです。側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子は神に相続人と認められませんででした。「主の民」という呼び名が形だけのものと思われるほど、アブラハムの人生はつらかったのです。しかし、そのようなアブラハムの人生にあって、絶対変わらないのがありましたが、それは主なる神の存在でした。神はアブラハムと結ばれた契約にあってアブラハムの罪を赦され、いつも共にいてくださいました。聖書において最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に共におられるということです。私たちは今日、アブラハムの失敗を見ます。しかし、それと共に、決してアブラハムを見捨てられない主なる神の愛をも見るようになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」などの表現があるほど、キリスト教信仰において、存在感の大きい人物です。しかし、このアブラハムという人は、私たちの思いほど、偉大な人でないかもしれません。その理由は、今日の本文のためです。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹と騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てる失敗を再び犯し、まったく成長していない姿を見せてしまいます。 創世記12章でアブラハムは神に何も尋ねず、飢饉を避けて勝手にエジプトに行きました。そして神にも、妻にも大きい無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返して失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。なのに、アブラハムは、長年の信仰生活にもかかわらず、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯したのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれた大事な人物でした。約束の相続人イサクの母になる妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破る裏切りだったのです。このアブラハムの姿を見て、「これが人間の本質なのか?」と思わされます。私たちは戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代に信仰生活をしています。しかし、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じる状況になったら、私たちは果たして信仰を守ることが出来ますでしょうか。ひょっとしたら、繰り返すアブラハムの失敗は、私たちを映す鏡であるかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、私たちはアブラハムと異なる選びが出来ますでしょうか。 現代を生きる私たちは、創世記が一人が書いたか、長い間、何人かが書いたか分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、主なる神が深く関わり、導いてくださったこと、主の御言葉として、この創世記をくださったことは分かります。なので、私たちは創世記 12章と 20章で繰り返すアブラハムの失敗と主のお赦しの物語を通して、主が私たちに示してくださる教訓があるということを考えなければなりません。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験し、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵でなければ、絶対に信仰を続けることができないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の意義ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3)神は創世記12章でファラオを戒められたように、今回はアビメレク戒をも戒められ、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは、罪による繰り返す失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを赦してくださったのです。いくら信仰があるといっても、人は自分の信仰を完全に守ることができません。民と共におられる主の恵みによってのみ、人は信仰を守ることが出来るのです。私たちはアブラハムの繰り返す失敗にがっかりするより、それでも、アブラハムを見守ってくださる神の愛に感謝すべきです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムであることが分かります。古代に一つの勢力が拠点を移す際に、他勢力の暴力を避けるために、家族を人質として差し出す場合もあったのですが、当時のアブラハムはカナンで権力も財力もある有名人で、妻サラはすでに90歳近くの老人でした。ある学者は、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈しましたが、説得力は低いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的に若かったので、命を救うために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力もあるアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父にふさわしくなく、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきです。主はアブラハムを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父にふさわしく行動する時も、そうでない時も、変わることなく「主の民、神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約をご覧になったからです。これはキリストの福音と非常に似ています。キリスト者は、自分の功績によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰で、時には不信仰で生きます。いや信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも、神は私たちを救ってくださったキリストの義によって、私たちをご自分の民と認めてくださったのです。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は彼が繰り返して罪を犯しても、変わりなく彼を赦し、正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、私たちを主の道へと導いてくださるでしょう。繰り返す罪の中でも、主は満ち溢れる恵みで主の民を憐れんでくださるのです。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身はぶどうの木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ、実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として聖書に記録されています。アブラハムが偉大な人物として描かれた理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずにつながっていたからです。神はキリストにつながっている者をも守っておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道へと導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れる必要はありません。失敗したら悔い改め、赦してくださる神を最後まで信じていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるからです。繰り返す失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を憶え、神のもとにいる者として生きていきましょう。