わたしはブドウの木である。

ヨハネによる福音書15章1~17節(新354頁) 1.私は··· である。 新約聖書のヨハネによる福音書には、イエス・キリストの7つの自己宣言があります。それらは「私は···である」という表現を基本にします。ヨハネによる福音書でイエスは6章から15章にかけて「①私は命のパンである。(6:35) ②私は世の光である。(8:12) ③私は羊の門である。(10:7,9) ④私は良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は復活であり、命である。(11:25) ⑥私は道であり、真理であり、命である。(14:6) ⑦私はまことのブドウの木である。(15:1,5)」と宣言されました。ここで「私は···である」という表現の意味について考えてみたいと思います。私たちは自分という存在を定義する時、「私は誰である。」と言います。「私は日本人だ。私は会社員だ。私はキリスト者だ。」などで自分という存在を表します。「私は···である」という表現によって、自分を知らなかった人々が知るようになり、自分自身も自らへのアイデンティティを確立するようになるのです。ですから、自分が誰なのかを言うことは「自分」という存在を明らかにする、とても重要な意味を持ちます。旧約聖書の創世記3章で、主なる神はエジプト帝国の奴隷だったイスラエル民族を、神が示してくださる乳と蜜の流れる土地に導かれるために指導者をお選びになりました。彼がモーセでした。モーセが初めて神に出会い「あなたはどなたですか?(あなたの名は何ですか。)」と問うた時、主は言われました。「私はある。私はあるという者だ。」主なる神もご自身を紹介される時、「私は···である。」と言われたのです。 ところで、私たち人間が言う「私は···である」と神が言われる「私は···である」には大きな違いがあります。私たちは家族の影響や社会での地位(位置)によって「私は···である」と成り立たせられてきました。しかし、神は、この世の、どんな存在からも影響を受けることなく、自らを「私は···である」と定義されたのです。私たちの名前は家族につけてもらい、私たちの地位は日本という社会の中で成り立ってきました。しかし、神は誰からの助けも影響もなく、自らご自分の存在をお定めになったのです。「私はある。 私はあるという者だ。」という多少文法に合わないような表現は、意訳すると「私は私自身である。あるいは、私は自ら存在する者である」と言えます。これはヘブライ語では「エフエ・アシェル・エフエ」ギリシャ語では「エゴ·エイミー」を翻訳した表現です。神は自らご自身のことを定義された方です。他者の影響を決して受けておられない方です。神がご自身のことを自ら定義されるということは、神が世の中のすべてのものが出来る前からおられた存在という意味です。つまり、神は創り主であるという意味です。また、神がご自身のことを自ら定義されたということは、他者の影響なしで自ら判断される方、つまり、審判者であるということです。神が言われた「私は···である」とは、神こそが全ての上に立っておられる「絶対者である」ということを明らかに示す神的な宣言なのです。 だから神が「私は···である」と言われたのは「創り主、審判者、絶対者」であるという意味になるのです。今日の本文で、イエス・キリストは、この「私は···である。」という意味のギリシャ語「エゴ·エイミー」を用いて「私は(まことのブドウの木)である」と言われたのです。主イエスがご自身のことを神として定義されたということです。先ほど申し上げましたが、イエスはヨハネによる福音書で、7回ご自分について宣言されました。神であるイエスが「私は···である」つまり「エゴ·エイミー」と宣言されたのです。 ①私は神、生命のパンである。(6:35) ②私は神、世の光である。(8:12) ③私は神、羊の門である。(10:7,9) ④私は神、良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は神、復活であり、生命である。(11:25) ⑥私は神、道であり、真理であり、生命である。(14:6) ⑦私は神、まことのブドウの木である。(15:1,5)」ですので、私たちはこの7つの宣言の言葉を通じて、イエス·キリストがすなわち神であり、創り主であり、審判者であり、絶対者であり、また、私たちを愛して救ってくださる救い主であることが分かるようになるのです。 2.ブドウの木であるイエス。 そのイエスが、今日の本文で私たちに言われます。「私はまことのブドウの木である。」聖書においてブドウとは豊かさと神の祝福の象徴としてよく用いられる重要な果物です。そのため、新旧約聖書を問わず、さまざまな箇所で、ブドウが言及されたりします。ブドウの木は神に選ばれた民の象徴(ホセア10)、ブドウ畑はイスラエルを象徴する比喩(詩篇80)としてよく使われます。旧約聖書では、乳と蜜の流れる祝福の地をブドウに比喩する場合もあります。また、ブドウは実際にイスラエルの経済において、とても重要な資源でした。当時のブドウ農業は、新鮮な食糧を提供し、ブドウ酒を作る食材を生産し、人々には鉄分と必須ミネラルの供給する重要な農作物だったのです。というわけで、ブドウの木は代々栽培され、大事な財産としての割合を占めていたのです。それだけに、ブドウは神の祝福と密接な関りのある果物だったのです。そして、今日の本文は、この世に遣わされたメシア•イエスこそ、そのブドウに例えられる祝福の源であることを証しているのです。「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネ福音15:5) 先ほど「私は···である」という自己宣言で自らを神として示されたイエスは、また、ご自身をブドウの木であるとも言われました。神の祝福と恵みの象徴であるブドウの根源であるブドウの木を通じて、イエスが神の祝福と恵みをもたらす祝福の源であることを示されたわけです。そして、そのブドウの木であるイエスに従う主の民は、主にあって実を結ぶブドウの木の枝のような存在であることをも教えてくださったのです。ですが、今日の本文には、恐ろしい言葉もあります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ福音15:2) もし、イエスというブドウの木につながったにも関わらず、実を結ばないならば、農夫である父なる神によって取り除かれるという話です。ということで、私たちはこのようにも考えうると思います。「実を結ばないと、自分の救いは取り消されるだろうか?」結論を言えば、そのような恐れでこの言葉を理解する必要はないということです。木につながっている枝が実を結へないのは「土地の養分が少ないか、木そのものに病気があるか、枝がつながっていないか」の中のどちらかです。父なる神が農夫であり、木はイエス·キリストであるなら、最も理想的な農場の姿ではないでしょうか? それなら実を結ばずにはいられないでしょう。枝が木につながっているならば、自然に実を結ぶようになるということです。 実を結ばないというのは、ブドウの木である「キリスト」につながっていないため、つまり主を信じておらず、御言葉に聞き従わないと言えるでしょう。主イエスを自分の希望とし、信頼して生きるならば、必ず主は実を結ばせてくださるでしょう。それでは、実とはどういうものなのでしょうか? それについては、ガラテヤ書の5章22-23節を通して探ってみることができます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」私たちは、主の民として生きながら聖霊のお導きによって「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を教わっていきます。この9つの実については次の機会に詳しく話してみたいと思います。その中でも今日の本文は「愛」をとても大切な「実」として話しています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ福音15:8,9,12)「私は•••である。」という言葉をもって、神であるご自分を証言されたイエスは、自らをブドウの木と示し、主の民が、そのブドウの木につながっている枝だと言われました。「私は自ら存在する者だ」という言葉で世のすべての被造物とご自身を区別された神ですが、イエス•キリストの「私はブドウの木である」という言葉によって、神はすべての被造物と区別されながらも、主の民と一つになって実を結ばせてくださる愛の神であることを教えてくださったのです。 締め括り 私たちは、今日の言葉を通じて、イエス·キリストが私たちにとって、どんなお方であるかを、もう一度学ぶことができます。イエスは、被造物と区別される、偉大な神でおられますが、遠くにおられる方ではなく、私たちとつながっている方であるということです。主イエスはブドウの木、主の民である教会は、ブドウの木の枝、そしてブドウの木を耕してくださる方は父なる神、実を結ばせてくださるは聖霊なる神です。このように、三位一体なる神が、イエス·キリストという仲保者を通して、常に教会と共におられながら、教会を見守っておられるということを今日の言葉を通じて憶えたいと思います。だから聖書はイエス·キリストを私たち教会の頭であると語っているのです。被造物があえて近づくことのできない絶対者である神ですが、イエス·キリストを通して、私たちと近くおられる主になってくださいました。朽ちた枝のような罪人であった私たちが、キリストによってまことのブドウの木の元気な枝になったのです。実を結ぶことができない弱い私たちがキリストによって実を鈴なりに結ぶことができるようになったのです。主イエスは神ですが、私たちの主であり、私たちを導いていかれる方です。私たちの頭であり、聖霊によって私たちに実を結ばせてくださるイエス·キリスト。今日の言葉を通じて、主の愛を憶えて生きる私たちでありますよう祈ります。

ここが神の住まい。

佐賀めぐみ教会 海東強 伝道師 イザヤ書57章19節(旧1156頁)  エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) アメリカの西部開拓時代。一人のならず者の男が聖書を開きながら、主イエスの信仰に篤い男性に語り掛けます。 「聖書を読んだことがあるか?俺は一度読んだ。8歳の時だ。俺の父はウイスキーの飲みすぎで死んだ。母親はある日、駅で「この本を読みなさい」と聖書をくれた。母親は列車のチケットを買いに行くといった。俺は母親の言うとおりにした。一生懸命聖書を駅のベンチに座り端から端まで読んだ。読み終わるまでに3日間かかった。母親は帰ってこなかった。家族とはそれっきりだ」 先日、アメリカの聖書学者であり映画研究家のアデル・ラインハルツが綴った「ハリウッド映画と聖書」という本を読んで知った一本の西部劇があります。2007年の『3時10分、決断のとき』という作品です。鑑賞し強い衝撃を受けました。今日の聖書箇所が語るメッセージに関わりがあるので、少し触れさせていただきたいと思います。 19世紀。南北戦争が終わったばかりで、まだまだ無法者がはびこるアメリカのアリゾナ州で、強盗と殺人を繰り返した、伝説の早打ちの名手でもある凶悪犯ウェイドが逮捕されます。一方で、体が不自由ながら小さい牧場を経営する敬虔なキリスト者のエヴァンスは、牧場を維持する金を稼ぐため、悪党ウェイドを護送する一員として旅をします。悪党ウェイドは旧約聖書の箴言をはじめ、聖書の一説を引用しながら人々の心を掴み信用させます。 手っ取り早く、人のものを奪えば簡単に金は稼げるのに、なぜそうしないか?悪党ウェイドが、エヴァンスに尋ねます。「俺は神に背を向けず生きる。この生き方を子どもたちにも伝えるためだ」といいます。「俺を逃がせば、約束の二倍の報酬を現金で渡すぞ」と悪党ウェイドから買収を持ちかけられても、エヴァンスは応じません。クライマックス、彼らが最後に豪華な宿に宿泊し、そこに置かれていた聖書を開きながら、悪党ウェイドが自らの過去をはじめて語る台詞が冒頭のものです。 幼い頃、自分を捨てた親から渡された唯一の財産が聖書だった悪人。最も信頼していた親に見捨てられ、それ以降誰も信じられず、その信じられない人々が信じる聖書を利用しながら、悪党ウェイドは幼い頃から世の中を一人きり生き抜いてきました。聖書を用いれば善人とみなされ、神の国の住人として受け入れられる手段を彼は知り、利用します。彼に信仰はないはずでした。聖書はただ無常なこの世を渡るための道具でした。 しかし、聖書を、主イエスの教えを生きようとするエヴァンスの姿を通じ、悪党ウェイドの中に変化を与えていきます。映画の最後の最後、過去や生い立ちから切り離された、彼なりの神を前にした悔い改めと、正義が行われることになります。 今日与えられた聖書箇所には、私達が今までたとえ神も希望をも知らなかったとしても、キリストに招かれ、主にあって一つとなることが解かれます。信仰とは何か、赦しとは何か、平和とは何か、神のすまいはどこにあるのか?…など様々な神学的テーマが語られます。主にとらえられ、導かれる人々は、地上の人間における厳しい裏切りや競争の世界にあったとしても、あらゆる壁を越え、隔てを打ち破り、真の平和に向かう人物に変えられていきます。冒頭で語った映画と同様、この聖書箇所はそのことを私達に教えてくれます。ぜひ皆さんと味わっていきたいと思います。 今日の11節には異邦人について書かれます。「あなた方は以前には肉によれば異邦人であり」とあります。この手紙の著者がユダヤ人キリスト者であって、読者が主に異邦人キリスト者であったことを示していると思われます。改めて語る必要はありませんが、この教会にいる私達も異邦人キリスト者の一人です。ユダヤ信仰の中にある限り、ユダヤ人でない異邦人の私達は、決して神の救いに入ることはありませんでした。12節にあるように、私達はこの世の中で希望も持たず、神を知ることなく生きていた…と表現されるのです。 ユダヤ民族以外は神の救いに漏れているという考えがあることで、ユダヤ民族とそれ以外の民族で対立のきっかけは生まれます。私は、今日の箇所でユダヤ教のように、キリストを知らなければ決して人は救いも希望もない…ということを言いたいのではありません。ただ、キリストに招かれ救われ、一つにされた私達にとって、キリストを知らずに生きていた時は、確かに望みも神もなかったと、いえるのではないか?とここから語りたいのです。主イエスへの信仰を告白したのが、たとえ数日前、数年前、数十年前だったとしても、私達は主を信じるまでは、まるでユダヤ教の人たちが自分たちの民族とそれ以外の異邦人としてとらえていた時代と同じ程度の違いがあることを、この箇所は私達に呼び起こしてくれるのです。 ユダヤ教とそれ以外。その垣根を、私達は主イエスを知らなかった時と知ってからの喜びに、率直に省みることができるのです。また14節には「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」とあります。信仰を隔てていたのは、神を信じるか否かだけではなく、イスラエルの民の持つ律法が隔ての明らかな一つであったことを意味します。ここでパウロは律法そのものが廃棄されなければならないこと、律法があるために遠い者と近い者という隔てが生れていたと考えるのです。そこにこそ、敵意があったのでした。だからこそ、14節のはじめにある、キリストはわたしたちの平和であります…というように、キリストの十字架によってユダヤ人も異邦人も、割礼がある人もない人も、律法を持つ人も持たない人も、一つのからだとして神と和解し、平和の福音を告げ知らされることになったのでした。 17節で、キリストがおいでになり、遠くに離れていても、近くにいても、平和の福音を告げ知らせられた…とあります。キリストご自身が伝えてくださらなかったら、私達は福音を知らず、私達は福音をこの地上の現実に生きることはできなかったことでしょう。主イエスによって福音が、隔てを打ち破る平和が教えられなかったら、今も私達は世界の中で異邦人、よそ者としての敵意の中で怒りを抱えて生きていたのかもしれません。しかしもはや、聖なる国の住民として、敵意は砕かれ、共に神に近づく者とされました。そのさらなる証といえる言葉が18節に含まれます。隔てを越えてキリストにより招かれた人々が一つの霊に結ばれます。そして「御父に近づくことができるのです」と書かれます。ここには近づける対象を神とは記しません。御父、お父さんと書かれています。神を父に例えるほどに近い存在として表現し、近づく自由が与えられているのです。 ところで、今日の聖書箇所には教会との言葉は出てきません。しかし主イエスのもとに集められた、この送り先のエフェソの教会での信者に対して、19節から激励のメッセージがあります。有名な「要石はキリスト・イエス」という表現です。教会での説教者を表現するとも思われる使徒や預言者の土台の上に建てられる、信仰を持つ神の家族。その最も下で揺らぐことなく支え、決定的な方向付けをする存在こそ、隅のかしら石、要石なるイエス・キリストなのです。 この要石に支えられ組み合わされた建物は、成長する、と書かれます。もう地上の私達が住むためだけの家とは異なり、主における聖なる神殿は、まさに私達と同じ“からだ”そのもともいえます。つまり教会とは、建物であって、キリストのからだでもあります。 教会における様々なイメージとして最後に書かれるのが、「霊の働きによって神の住まいとなる」との表現です。神の住まいとは、唯一、霊の働きによって、主において実現されるものです。つまり教会とは、主と聖霊の働きにあって、はじめて神の住まわれるところとなる、神が生きておられる存在となることを伝えます。へだたり打ち破られ、二つのものが一つになり、敵意が消えて、真の平和を共に生きる。これは教会堂そのものであることと同様に、私達の内側、私達のからだそのものに求められるものともいえます。 真の平和について…。確かに目に見える紛争や戦争、命を奪い合う対立が止むことこそが平和です。祈り求めないわけではありません。しかし常に私達は地上での気忙しさ、様々なかたちの要求を自分自身に与え、苦しみを重ねます。苦しみを増し加える中で、私達は神の前での罪を知ります。私達はその罪を認めなければなりません。そうあってこそ、私達に平和を教え、そして与えてくださいとの主への祈りが切実になると思えるのです。 本当の平和とは何か?創世記4章に現れる、人類のはじめての殺人とされる、兄カインが神から愛された弟アベルの命を奪う物語。アベルから流れた血は土の中から神に向かって呪いを叫びます。それはまさにカインへの報復への呪いでした。世界の紛争の中に、報復と呪いは充満しています。しかし主イエスが地上に現れ、自ら十字架で流した血をもって私達の罪を贖い、救いをもたらしてくれました。だからこそ私達は今、真の平和への祈りを合わせることができます。しかし弱い私達は常に報復への思いに駆り立てられるようです。 先日、著述家である河野義行さんの本『命ある限り』を読みました。ご存じのように、河野さんは1994年(平成6年)6月に発生した、オウム真理教による、松本サリン事件の被害者です。サリンにより奥様は意識不明の重体に陥り、2008年に60歳で亡くなりました。河野さんは松本サリン事件に際して事件の第一通報者で、河野さん宅に農薬があったことなどから事件への関与が疑われます。地元の長野の地方紙、全国紙を含め、多くのメディアが河野さんを犯人と決め付けます。その後山梨県のオウム真理教施設周辺で不審物が発見され、1995年3月20日の地下鉄サリン事件により、松本サリン事件もオウムの犯行と明らかになり、河野さんへの疑いは解消されます。 河野さんについて知りたいと思った最大の原因は、河野さんが許しの中に生きるためでした。河野さんは松本サリン事件で、サリンを噴霧した車を制作したとして懲役十年の刑期を満了した、オウム信者Fさんと2006年に出会います。Fさんはオウムの後継団体アレフの信者として謝罪のために河野さん宅を訪れます。河野さんの奥さんが重篤な後遺症を患う中で、謝罪をするFさんは、ただただいたたまれない様子だったといいます。当時について河野さんは「私がすることは、妻の回復を願うことだけだった。彼のやったことに対して恨みはなかった。第一彼は刑期を務めてきているのだ。社会的制裁を彼はすでに受けている」と振り返ります。 Fさんはテロ計画はもとよりサリンの噴霧車とは知らず、溶接の作業に手伝ったことだけで、懲役十年を刑に処されます。 河野さんにすれば、Fさんのそれはまったく推定有罪に縛られた自分の苦しみでした。Fさんは受刑中に、植木の選定作業を覚えたといい、河野さんは「それならうちの庭の剪定もやってよ」とお願いします。Fさんは河野さんの家を訪れる庭師となり、家族とも交流を持ち、河野さんと釣りに共に行く友人となります。その後、Fさんのオウムをめぐる信仰から脱却していったといいます。 なぜ河野さんは、妻が死の時まで後遺症に苦しませ、それまでの日常生活を奪ったオウム真理教の一人Fさんを許せたのでしょうか?河野さんはこう語ります。「社会、メディアが私に期待しているのは教祖麻原に対する血を吐く恨みの言葉なのだろう。しかし私も家族もこんなにひどい思いをした上に、さらに事件の首謀者を恨み続けて、人生を無駄はしたくない。人を恨むことは限りある自分の人生をつまらなくしてしまう。さらにその行為はとてもエネルギーがいることだ。それだけのエネルギーを使うなら、妻の介護も含め、もっと別なより有意義なことに使いたい。それが私の本音なのである。」 河野さんが信仰を持つからこそ、恨みの空しさを語り、未来へのエネルギーに変えていこうとできるのでしょうか?決して信仰によるものだけではないのかもしれません。また信仰なくしては険しい地上での道を生きられないオウムの人々への共感があったからこそ、河野さんはこういった許しへの境地に至れたのかもしれません。逆に河野さんのような生き方をしたいと、河野さんを偶像化するような人々も現れるのかもしれませんが、河野さんはそれを避けるように奥様の死去の後は長野から鹿児島に移住し、今年74歳。釣り三昧の悠々自適な生活をされます。 私は決して河野さんを偶像化しようとはしません。河野さんがどのような信仰心を持つかも知りません。ただ私達キリスト者は河野さんの中にキリストの教えが生きていることに気づきます。カルトとして暴走する教団の中、考えることを止め、信仰ではなく組織の掟に従ってしまったFさんら有名・無名の信徒たち。松本サリン事件における第一通報者の河野さんを最も逮捕に近い容疑者として推定有罪として報道したマスコミ。そしてその報道を信じた私達国民一人ひとり。全員が予想もつかない事件の中で、疑心暗鬼に内なる闇を膨らませ、正義とは何か?見失っていきます。私達は常に大きな組織の力、時代の流れに揺さぶられます。その無力さを、河野さんは当事者の一人として、痛みと共に最も実感した一人でした。人一倍、人間の無力と罪に向き合わされた方でした。だからこそ、巨大な力の暴走に抗えずまきこまれたFさんらを許すにいたったのではないでしょうか。 私達は2000年前、主イエスを十字架につけてしまった、見過ごしてしまった私達の罪を知っています。そして復活して天に上り、私達を今、迎えてくれている主イエスの尽きることのない御国に生きることを信じています。 私達は罪を知っています。だからこそ呪いや恨みを叫ぶことより、罪を贖ってくれた主イエスの赦しを、希望を生きようとします。赦してこそ、私達は初めて本当の平和を祈り求めることができるのかもしれません。その祈りの場こそ、神が住み、霊の働きが充満する、キリストのからだであるこの教会であります。また同時に、ここで霊を注がれ、神が住むのは私達一人ひとりの内側であるともいえるのではないでしょうか。神が住むのは、建物にすぎない教会堂ではありません。神を信じる私達が集うこの場所であってこそ、はじめて神の住む教会は成り立ちます。 気づいていても、気づいていなくても、主に導かれて、霊を注がれ生きる人たち。その一人が河野さんかもしれません。私達はそのような人たちを通じ、隔たりを壊して、二つを一つにする存在の源、主イエスの偉大さに改めて気づかされます。これは大きな幸いであります。なぜなら、私達は迷っても、流されそうになっても立ち返る存在を、場所を与えられているからです。これからも皆さんと共に、隔たりを、敵意を越える、私達の中にたてる教会を共に生きたいと願います。 それでは祈ります。

安息日の神学

申命記5章12~15節(旧289頁)  ルカによる福音書6章6~11節(新112頁) 前置き 現代イスラエルの安息日は金曜日の日暮れから土曜日の日暮れまでとなっています。安息日には国家機関だけでなく、スーパー、レストランなどの営利目的のお店までも休止します。その理由は旧約聖書の十戒に安息日を堅く守れとの戒めがあるからです。それと違って新約の教会は日曜日である主日に礼拝を守ります。そして、その原型は旧約の安息日にあります。イエス・キリストの復活によって、その意味はけっこう変わったのですが、主を記念する日という意味としては、安息日と主日の共通点は明らかです。今日は安息とは何か、そして、今の私たちにとって安息日と似ている主日とはどういう何かについて考えてみたいと思います。 1.古代中東においての安息の意味 旧約聖書には安息日についての記録が30ヶ所以上もあります。その中で最も有名な箇所は出エジプト記の十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出20:8) 」だと思います。律法は安息日にどんな形の労働もせず、休めと命じます。それを犯すものは人だろうが、家畜だろうが、必ず死ぬと厳しく警告しています。それでは、安息日、特に旧約時代の安息には、どんな意味があるのでしょうか?聖書のどこを読んでも、安息日を厳守しなければならない理由は、はっきり記されていません。ただ「主が聖別されたから」のように、手短に記されているだけです。しかし、明らかに大事な理由があるから、主なる神が十戒の一つとして命じられたでしょう。そこで、旧約聖書ではなく、その時代の他の資料から、安息の意味を探ってみて、聖書においての安息の意味も考えてみたいと思います。古代イスラエルの周辺にはいくつかの文明がありました。特にメソポタミア文明が有名でした。メソポタミア文明の神話にも、創世記のような人間創造の説話がありますが、エヌマエリシュ(その時、高い所に)という文献に記されていました。 それによると、安息は神々の中で、一番偉大な神だけが楽しめる誉でした。大昔、人間を創造した創造神と彼に敵対する混沌神がいました。ある日、混沌神は他の神々に敵対して、世界を滅ぼそうとしました。創造神は混沌神の計画を見抜き、彼と戦いました。壮絶な戦いのすえ、創造神は混沌神を倒し、勝利を勝ち取りました。そして、創造神は勝利者として、安息を楽しみました。メソポタミア神話の安息は人間のためではなく、創造神と下の神々のためのものでした。神だけのものなので、人間が安息を楽しむのはあり得いことでした。人間はひたすら神々のために苦労する奴隷だったのです。そもそも、メソポタミア神話の創造神が人間を造った理由は、自分と下の神々の安息のためにこき使うためでした。古代の中東世界においての人間の存在理由は神の道具に過ぎなかったのです。神々の顕現と呼ばれる王族や貴族でない限り、人間はただ使い捨てられる惨めな存在だったのです。十戒が記された時代の安息という概念は人間のものではありませんでした。そして、それは古代世界の共通的な安息についての認識だったのです。 2.旧約の安息。 現代を生きる私たちの認識にあって、人間が奴隷として造られたというのはとんでもない話でしょう。しかし、人間の命が今のように尊重されるのは、わずか数十年前からの話です。たった100年前までも、世界のあちこちに奴隷制があり、第二次世界大戦時も人間の命は軽視されていました。戦争を引き起こした帝国主義の根源には他民族を奴隷にしようとする暴力的なイデオロギーが潜んでいたからです。ましてや、数戦年も前の古代世界では言うまでもない話でしょう。人間の命が極めて軽く扱われたのが十戒が記された時代の現実だったのです。しかし、主なる神の創造においての人間の存在理由はメソポタミアの神話とは根本から違いました。メソポタミア神話が語る人間創造の理由は、神々の奴隷にするためでしたが、イスラエルの神が人間を造られた理由は、人間を神の子供とし、真の安息をくださるためでした。主なる神が創世記1章の混沌と闇を打ち破られ、乱れた初めの世界に秩序をくださった理由は、ご自分の被造物のためでした。神はその秩序の中で、混沌への勝利の安息を人間と被造物にお与えくださったのです。だから、詩編は歌います。「神に僅かに劣る者として人を造り、なお、栄光と威光を冠として、頂かせ。(詩編8:6)」 安息とは、混沌から秩序をもたらされた主なる神の賜物です。そして、神はこの賜物を被造物の頭である人間にくださったのです。とういう訳で、主なる神の安息を記念する安息日は神が主人公であり、また、主によって真の自由をいただいた人間が第二の主人公であるのです。「あなたは、かつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして、あなたを導き出された事を思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである.(申命記5:15) 」エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルは何年以上も、何の安息もないまま、死と労苦の下苦しんできました。しかし、神はご自分の御業によって、エジプトを滅ぼされ、死の象徴である、紅海を分け、ご自分の民を渡らせ、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったのです。荒れ野の暑い昼は雲の柱で、寒い夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、神の山で十戒を通して安息日を与えてくださったのです。エジプトの奴隷だったイスラエルが主の民として安息を楽しむようになったのです。休日である安息日はエジプトの奴隷であったイスラエルに自由人としての勝利の安息を与える日でした。 3.安息についての主イエスの教え。 今日の新約本文、ルカによる福音書6章にも、安息日の話が出てきます。神の律法を教える会堂で、ある手の萎えた人がイエスに癒される物語です。その時、律法を教える律法学者たちと律法に徹底して従うファリサイ派の人々が、訴える口実を見つけるために、イエスのお働きに注目していました。聖書において手や腕は力の象徴として使われる傾向があります。手の萎えた人は最小限の生活を支える力もない弱い者で、ユダヤ人の宗教指導者たちの中に囲まれています。ユダヤ人たちは、誰一人も彼に興味がないように見えます。彼らは、もっぱら主に反対するために、その働きに注目しているだけです。これが律法を取り扱うユダヤのエリートたちの安息日の状態でした。彼らには主の御心に適う憐れみなどありませんでした。主イエスは、そんな中で手の萎えた人を癒してくださったわけです。主は力のない人に力を、病んでいる人に癒しを与えてくださいました。今まで、話した内容をまとめてみると、今日のルカによる福音書の出来事の意味がはっきり分かるようになります。主イエスは安息日に病んでいる人を癒し、弱い者を助けてくださいました。主が安息日を犯すように見えるまで、彼らを助けてくださった理由は、律法と安息日の意味を誤解し、自由と秩序でなく、束縛と混沌の社会をもたらしていたユダヤ人の社会に、創造の秩序を通して自由と解放を与えてくださった主なる神の御心と、神がくださった安息日の真の意味を再び教えてくださるためでした。 安息日は被造物のために真の自由と解放をくださった主なる神を記念する日であり、主の創造の摂理を思い起こさせる日でした。ということで、イエスは安息日なのに病人を癒してくださったわけです。そして、その安息を完成してくださるために、十字架で死んでくださったのです。それにも関わらず、主なる神の御心に気づくことが出来なかったユダヤ人たちは、安息日の意味を知ろうともせず、最後まで愚かであったのです。いかに悲劇的なことでしょうか。自由と解放の安息日に彼らは規律というまた違う束縛に人々を追い込んでいるとは。安息日は、ただ宗教的な規律のための日ではありません。混沌を秩序に変える癒しの日なのです。そして、この秩序にあって、人間が人間らしく生きることが出来るようにする恵みの日なのです。こんにちのキリスト教会では、ユダヤ教の安息日は守っていません。主イエスによって律法は更新されたからです。しかし、その安息日の意味を受け継ぐ主日があります。主なる神は創造を通して、人間と被造物に安息と秩序をくださいました。それを思い起こさせるのが安息日でした。そして、主イエス・キリストの復活によって、その安息を完成されました。そのイエスを記念する日が、今、私たちが守る主日なのです。そういうわけで、安息日を受け継いだ主日はただの休日でなく、神からの解放と安息、愛と贖いを祝う恵みの日として、感謝し、礼拝すべきなのです。 締め括り 時々、年に1,2度くらい、主日に家族や親戚、友達との用があって礼拝を休ませてもらいたいと願われることがあります。牧師としては、できる限り、主日礼拝を守っていただきたいと思いますが、家族、親戚、友達との時間を礼拝のように大事にしてくださいと言いながら承諾します。今日の説教でお話ししました理由のためです。主なる神が自由と解放のためにくださった安息の日、キリストによって私たちにも与えられた聖なる日、自分のためではなく、愛する人々ために、隣の人々のために、その日を過していただいたらと思って行かせるのです。旧約聖書で安息日を犯す者が殺された理由は、主なる神が残酷な方だからではありません。その日を自分の悪い欲望のためにみだりに扱おうとしたからです。隣人を助けるために、家族を大事にするために、働くのは安息日の意味に当てはまる大事なことだと思います。そのような心を持って主日を過ごしたいと思います。そこに安息日の神学は生き生きとよみがえってくるのではないでしょうか。

偶像崇拝

コヘレトの言葉3章11節(旧1037頁)  使徒言行録1章12~26節(新213頁) 前置き 最近、水曜祈祷会では小信仰問答の学び会と使徒言行録の読み会を隔週にしています。小信仰問答は十戒のうち第一戒「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。」を学び、使徒言行録は第1章を読んで、その内容について話しました。ところで、偶然にも十戒の第1戒と使徒言行録の第1章には、偶像崇拝について考えさせられる部分があります。今日は、その中で使徒言行録第1章12節から26節の言葉を通じて、いくつかの教訓を学び、特に現代を生きる私たちにおいて偶像崇拝とはどういうものかについて考えてみたいと思います。 1. 教会は主の御言葉によって建てられていく。 復活された主イエスは、地上に40日にわたって主の人々とおられ、神の国について教え、昇天後に聖霊なる神を遣わさしてくださると約束されました。主はその約束を最後に、オリーブ山から御父のところに昇られました。その後、弟子たちは、ある部屋に集まって祈り、イエスが約束してくださった聖霊を待ちました。聖霊の臨在前のある日、ペトロが兄弟姉妹の中に立ってこう言いました。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをした、あのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。詩編にはこう書いてあります。その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。また、その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。」(使徒行伝1:16、20、詩篇69:25、109:8引用) その内容はイエスを背反したイスカリオテのユダについての話でした。結論を言えば、12弟子の一人だったユダがイエスを裏切った後、自殺し、弟子の数が11人になっているので、新しい一人を選ばなければならないとのことでした。使徒ペトロはイエスの一番弟子と呼ばれるほど、初代教会において影響力のある存在でした。イエスはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)と言われるほど、ペトロを初代教会の指導者として認めてくださったのです。 (このような理由でカトリック教会はペトロを初代教皇だと思いました。)つまり、ペトロには自他共に認めるイエスの一番弟子という権威があったのです。しかし、今日の本文を読むと、そんな彼であるにも関わらず、自分の権威で勝手に教会のことを決めません。主の御言葉(詩編)の権威に従い、自殺で亡くなったユダに代わる新しい使徒の選出を提案します。それも自分が人を選ぶわけではなく、神にすべてをお委ねするという心構えで、祈りと共に「くじ引き」をします。旧約時代には権力のある一人の思いではなく、主なる神がその御心によって、すべてを導いてくださるという意味で、よく「くじ引き」をしたと言われます。このような「くじ引き」のもう一つの形として、今日の長老教会では個教会の長老、執事を選出する時、あるいは大会や中会の役員を選ぶ時に投票をしたりしています。神の教会は主の御言葉を通じて、聖霊のお導きによって建てられていきます。すべての権威は、ある一人の発言ではなく「神の御言葉」によって立てられます。教会には多数の指導者がいます。時々、牧師や長老といった指導者たちの声がかりで動かれる教会もたまに見かけます。しかし、教会を導いていくのは一人の人間ではなく、主なる神の御言葉です。志免教会も人の思いではなく、主の御言葉によって建てられていく教会であるよう祈ります。 2. 裏切者ユダについて。 次は「裏切者、イスカリオテのユダ」(以下、ユダ)について話しましょう。皆さんもご存知のように、ユダはイエスを裏切って主を反対する者たちに引き渡してしまいました。彼はなぜ、イエスを銀貨30枚で売ってしまったのでしょうか? イエスはユダを憎んだり、差別したりされたことがありません。ペトロを一番弟子と呼ぶとはいえ、ペトロだけを偏愛されたわけでもありません。誰かは必ず初代教会を率いる指導者にならなければならなかったので、主はペトロを適任者と判断され、よく一緒におられるだけでした。牧師や長老だからといって主にさらに愛されるわけでないことと同じように、一番弟子ペトロだと、さらに愛されていたわけではありません。イエスの愛はすべての人々に公平だからです。おそらく、ユダもイエスに愛される弟子だったでしょう。彼が裏切者であることをすでに知っておられたにも関わらず、主は彼をも愛されたでしょう。ユダという人は、政治的なメシアを待ち望んだ、ある意味で、イスラエル民族の独立運動家だったと思われます。ただ、そのやり方が非暴力平和主義ではなかったと思います。イエスが福音伝道を始められた頃、「イエスはダビデの子孫だ。」という噂を聞いたユダは、このイエスこそがローマ帝国からイスラエルを独立させ、昔のダビデ王国の栄光を取り戻す民族のメシアだと思ったのです。 つまり、ユダはイエスという方の活動を誤解し、自分勝手に思ってしまったのです。神に遣わされた、全人類の罪を贖うメシアではなく、自分の民族と国の指導者という狭い思いの中でイスラエルの独立と民族の繁栄だけのためのメシアと考えてしまったのです。そのため、時間が経てば経つほど、イエスの伝道活動が気に入らず、ますます不満が重なっていったでしょう。早く人々を煽り立て、軍隊を集め、兵器を備えてローマとの戦争を準備しなければならないのに、イエスは敵への愛を語り、罪人の救いを語り、神の国を語られるだけでした。結局、彼はイエスという存在からは民族の救いがないと判断し、その結果、イエスを告発して引き渡し、自分はイエスと関係を絶とうと企てたでしょう。最初からユダはイエスを贖い主、救い主、民族と国家、歴史と時代を越え、創り主なる神の御心を成し遂げられる真のメシアとして信じていなかったでしょう。自分の理想であるイスラエルの独立、独立以後の報い、世俗権力者として力を持った自分の未来だけを期待してイエスに近寄ってきたでしょう。そのため、ユダはイエスの歩みが自分の理想と合わないという理由で裏切ってしまったでしょう。私たちは福音書を読む時、このようなユダの姿を愚かだと考えがちです。しかし、私たちはこのユダより純粋だと言い切ることが出来ますでしょうか。 3. 自分という偶像を信じる罪 私たちはイエス・キリストへの信仰のゆえに教会に通っています。だから、キリスト教はキリストを信じる宗教なのです。世の中には数多くの宗教があります。日本人にとって、宗教より文化に近く感じられる神道を始め、大昔から日本人の価値観に影響を及ぼしてきた仏教、日本で生まれ、他国にも伝えられた天理教、創価学会などの宗教もあります。その他にもキリスト教系の異端やカルト宗教、イスラム教みたいななじみのない宗教など、数多くの宗教が日本にあります。日本は信教の自由がある国なので、どんな宗教を持っていても、誰にもそれを非難する資格はないと思います。だから、教会でも他宗教者を偶像崇拝者だと盲目的にののしってはいけないと思います。しかし、人間がなぜ、宗教を持って様々な神々を崇拝するのかについては考える必要があります。旧約聖書にはこんな言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3:11) 神は人間に「永遠を思う心」を与えてくださいました。永遠を思う心とは、簡単に言えば、絶対者を追求する心のことです。そんな人間が罪によって唯一の神から離れてしまい、絶対者への知識は消えたが、絶対者を追求する心は残って、真の神ではない他の存在を信仰するようになったのです。こうした永遠を思う心から宗教は始まりました。 しかし、こうした人々の心は変質し、宗教を自分の欲望、必要、満足のための道具として使うようになりました。多くの人が自分の必要のために神社で祈ったり、お寺で祈ったりします。天理教や創価学会なども立派な教理を持っていますが、信徒一人一人の信仰活動の結局は自分の欲望、必要、満足につながるでしょう。信仰の対象である神々への追求ではなく、その神々を満足させることから来る自分の満足が信仰の理由になるということです。宗教と信仰が自分が仕える神々への崇拝ではなく、その後ろに隠れている「自分自身」に仕えるための道具となったというわけです。結局、信仰も宗教もその裏には「自分自身の満足」という自分自身の欲望を崇拝する状態に至ります。現代社会の本当の偶像崇拝は、他宗教の神々を信じることに限りません。その後ろに潜んでいる自分自身という、また違う神を拝むのが、本当の偶像崇拝なのです。イスカリオテのユダは、自分自身を神とする者でした。イエスという有名なラビを利用して、自分が望んでいた民族の独立とそれについてくる名誉と権力という彼の欲望が、ユダ自身を神のように作ってしまいました。そして、その欲望が叶えなくなると、ユダは自分が「主」と呼んでいたイエスを銀貨30枚で売ってしまったのです。ユダの最も大きな問題は裏切りではありませんでした。自分自身の欲望を神とし、真の神であるイエスを捨ててしまう自己崇拝にありました。 締め括り 皆さんによく話すことがあります。「私たちはなぜイエスを信じ、教会に通っているのか?」です。その理由が「死後、天国に行くために、神に祝福されるために、心の平和のために、幸せになるために」という単純に「自分の000ために」ならば、「ひょっとして私たちも自分の満足のためにイエスを信じているのではないか?」と疑ってみなければならないと思います。キリスト教信仰は自分の満足のための信仰ではありません。キリスト教の主人公は徹底的に三位一体なる神であり、私たちはその方の民として召し出された存在です。自分の欲望ではなく、ひとえに主なる神の御心に聞き従うという純粋な信仰で生きなければ、私たちはいつか神に大きく失望するようになるかもしれません。私たちが神からいただく祝福は、神を満足させてもらうご褒美みたいなものではありません。純粋に自分の造り主である神だけに仕え、神の御心に聞き従って生きる時、自然に与えられる恵みなのです。自分が神の座を奪い取り、神を自分の必要のために利用しようとする姿は、けっしてあってはならない罪なのでしょう。主従関係を確実に理解し、純粋な信仰で神の民として生きることこそがキリスト者のあり方でしょう。神だけに仕える純粋な信仰者として生きるのか? 自分自身に仕える偶像崇拝者として生きるのか? 私たちは常にこの分かれ道に立っています。

律法の行いではなく、信仰による義。

創世記15章6節(旧19頁)  ガラテヤの信徒への手紙2章11~21節(新344頁) 前置き キリスト教の最も中心的な教えは「キリストのみによる救い」ではないかと思います。新旧約をひっくるめて数多くの言葉がありますが、そのすべては「自分の努力では自分の罪が解決できず、たったイエス·キリストによってのみ人の罪を解決することができる。」に帰結されるからです。したがって、キリストとその方の貢献による救いは、いくら繰り返し、強調すると言っても過言ではない最も重要な聖書の真理なのです。6月2日の主日、私はガラテヤ書の1章を通して「イエス·キリストの救い」を説教しました。その内容は「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる」でした。今日は、ガラテヤ書2章の言葉を通じて、当時の教会に悪影響を及ぼした「ユダヤ主義」について学び「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる。」という言葉の意味を、もう一度考えてみたいと思います。 1. ユダヤ主義。 ガラテヤ書の背景について手短に話してみましょう。イエス時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人社会がありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教の区別が薄かったため、キリスト者たちもユダヤ教の会堂で集会を催すことが多かったです。その時、イスラエルから訪問したユダヤ人たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したりしたようです。そのようなユダヤ人の中には、意図的に初代教会に近寄り、信徒たちの福音への理解を歪曲させるユダヤ主義者たちもいたようです。例えば「皆さんはただイエス•キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法を読んでください。行わなければ救いはありません。イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わずに、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストのみによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行をも加えて救われるべきだと偽りの教えを伝える人々がいたのです。ということで、ガラテヤ書は、そのような福音を歪曲するユダヤ主義を警告しているのです。 ところで、なぜ、ユダヤ主義者たちはイエスを信じて得る救いを否定したのでしょうか? 基本的にユダヤ主義はイエスを反対するための思想ではなく、律法の厳守を極端に主張する主義だったのです。旧約の律法を堅く守ることそのものは良いことだと思いますが、ここで言う「律法の厳守」はそんな意味ではありませんでした。旧約聖書の純粋な律法を守るという意味ではなく、その律法を解釈した昔の人々が書き残したユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え、マタイ15:2)を堅く守るという意味でした。つまり、その始まりは旧約聖書の律法解釈にあったのでしょうが、時間が経つにつれてユダヤ民族中心的な解釈が加わり、結局、人が作った偏狭なユダヤ民族むけの言い伝えが律法のように取り扱われたわけでした。ユダヤ人は長い間、その伝統を守ることによって神に義と認められると信じてきたと思われます。なのに、突然現れたイエスという人と彼を主として崇める人々が「ただイエスによってのみ救われる。」と主張していたので、ユダヤ主義者たちは、自分たちの伝統が損なわれると思ったのでしょう。そこから出た反応が「イエスを信じるだけでは物足りない」という主張でした。 2. 初代教会の中のユダヤ主義 それでは、このユダヤ主義の影響はどうだったでしょうか? 今日の新約本文の序盤にはこう書いてあります。「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」(ガラテヤ2:11-13) 私たちの思い以上、ユダヤ主義の影響は教会の中に据えてあったようです。ここでケファは使徒ペトロのアラム語式名前です。つまり、パウロがペトロを非難したわけです。パウロはもともとキリスト者を迫害する過激なユダヤ主義者でした。他方、ペトロは最初からイエスに従った弟子だったのです。一歩遅れて回心した元ユダヤ主義者の「後輩」パウロが、最初からキリスト者だった「先輩」ペトロをとがめたということです。なぜパウロはペトロをとがめたのでしょうか? それは、ペトロからユダヤ主義の痕跡が見えたからです。今日の本文によると、ペトロはヤコブのもとから来た人々(エルサレムのユダヤ人キリスト者たち)がアンティオキア(異邦地域)を訪問した時、異邦人キリスト者との食事の席を避けたと書いてあります。 そして、パウロと一緒に活動していたバルナバのような他のユダヤ人キリスト者だちもペトロと一緒に異邦人キリスト者たちと距離を置いたと書いてあります。ペトロとバルナバと他のユダヤ人キリスト者たちがそう振舞った理由は、律法を装うユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え)が異邦人との交わりを「望ましくない行為」と規定していたからです。『使徒行伝』にはこんな言葉があります。「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(10:28) つまり、パウロとペトロが活動していた時期にも「純血ユダヤ人のキリスト者たち」の中には異邦人への偏見と差別を抱いている人がいたということです。ペトロはエルサレムから来た「純血ユダヤ人キリスト者たち」との葛藤を避けるために「異邦人キリスト者たち」との食事を避けたわけです。依然としてユダヤ人キリスト者たちは「昔の人の言い伝え」から完全に自由ではなかったということです。このように初代教会の中にもユダヤ主義の影響が残っていました。その結果、アンティオキア教会の異邦人キリスト者たちはいかに傷ついたでしょうか。それで、パウロはペトロをとがめたわけです。「しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(ガラテヤ2:14) 3. 信仰のみによる義 おそらく、ペトロは自分がキリストによって完全に新たになったと思っていたでしょう。初代教会の指導者としての使命感と誇りもあったはずです。それによってアンティオキアという異邦地域に来た時、異邦人キリスト者たちと一緒に食事もし、昔の人の言い伝えという足かせから抜け出して生活したでしょう。しかし、エルサレムからユダヤ人キリスト者たちが来ると彼は恐れ、再び「昔の人の言い伝え」に束縛されてしまいました。このようなペトロの姿を見て、異邦人キリスト者たちは「私たちも純血ユダヤ人キリスト者のようにユダヤ人の伝統を守らなければならないのか?」と誤解し「キリストのみによる救い」に疑いを抱いたかもしれません。パウロはそのようなペトロの行いがもたらす多くのキリスト者の誤解を残念に思い「私たちがたとえユダヤ人だとしても、私たちを新たにするのは律法を歪曲したユダヤの伝統ではなく、ただイエス·キリストの救いのみにかかっている。それは民族と思想を超える。」とペトロに力強く語ったわけです。伝統は大切なものです。しかし、その伝統が神の御心を歪め、妨げるなら、私たちはその伝統を改善していかなければなりません。 日本キリスト教会の中に、他教派を好ましくないと思う方々もいるかもしれません。私が最初日本キリスト教会に来た頃、韓国から多くの宣教師たち(長老派)が来日しました。その時「外国から宣教師を呼ぶのが心配だ」と言われる他中会の方々もいました。「日本人ではない。教派が違う。伝統が損なわれるかもしれない。」などの理由でした。その方々には申し訳ないと思いますが、もしかしたら、そういうのが現代版の「ユダヤ主義、ユダヤの伝統、昔の人の言い伝え」であるかもしれません。日本キリスト教会の歴史と伝統を大切にしたあまり、民族と国とすべての違いを乗り越えたキリストの体なる一つの教会という大命題を忘れられたかもしれません。幸い、九州中会の多くの方々はペトロではなく、パウロのように宣教師たちを受け入れてくださったので、今のようになっていますが、当時はとても辛い気持ちでした。キリストによって義とされたということは、私たちの義において「キリストへの信仰」以外に何も要らないということを意味します。自分がどんな罪を犯した人間だっても、自分がどんな民族、国、背景の出身だっても、主イエスのもとですべてが赦され、新たになるということです。主なる神がイエス・キリストを遣わされた理由はまさにこれです。男であれ、女であれ、裕福であれ、貧乏であれ、どんな壁も崩し、ただイエス·キリストのみの救いによって皆が神の子供として認められるということです。 締め括り パウロは新約本文の結論部にこう語ります。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) 私たちはどんな行いによっても、どんな資格によっても、義と認められることが出来ない罪人です。ひとえにイエス・キリストへの信仰によってのみ義と認められることが出来る不完全な存在です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:16) 創世記のアブラハムが、ただ「信仰」によって義とみなされたことと同じように、私たちはキリストへの信仰によってのみ義と認められるのです。ですから、主への信仰以外に、何によっても他人を判断したり差別したりしないようにしましょう。教派、民族、性別、すべてを越えて、ただ主への信仰だけで一つになっていく私たちであるよう祈ります。

主の御声を聞く。

ヨブ記38章1~7節(旧826頁)  マタイによる福音書26章39節(新53頁) 前置き 私たちは、主なる神が私たちとお話しくださる人格的な存在であると信じています。だから、私たちも自分が理解する言葉で、神に祈りをささげるわけではないでしょうか。もし、神が人格的な神でなければ、私たちはまるで人と人が会話するかのように神に祈ることができないでしょう。他宗教のように意味も分からずにお経を読んだり、おまじないのような宗教行為をしたりしたかもしれません。このようにキリスト教は、神と自分という人格と人格の交わりをとても大切にする宗教なのです。しかし、ひとつ疑問が浮かびます。私たちは、主なる神を人格的な存在だと信じ、私たちの言葉で祈りを捧げるのですが、なぜ、主なる神は私たちの耳に聞こえる声で直接お答えくださらないのでしょうか? 私たちはひたすら聖書の言葉、あるいは聖書に基づいた説教を通じてのみ、神が私たちにくださった御言葉を主の御声だと信じて生きています。つまり、主なる神は私たちの耳に聞こえる肉声では言われないということです。それでは、果たして、私たちは聖書や説教以外に主なる神の御声を聞くことができますでしょうか?今日は神の御声(御心、お答え)について考えてみたいと思います。 1.主の御声が聞こえない理由。 聖書を読むと、旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブのような人物は、まるで神と対面して話しているかように見えます。例えば、アブラハムは、創世記12章、13章、15章、17章で神と話します。創世記12章から17章までは、1時間も経たないうちに読むことが出来るくらいですので、聖書を読む私たちは、主なる神とアブラハムが頻繁にコミュニケーションしたと受け止めやすいです。しかし、実はそうではありません。聖書学者たちは創世記12章でアブラハムが初めて神に出会った時の年齢を75歳くらいだと予想しました。そして、17章にはアブラハムの年齢が99歳だと記されています。神とアブラハムの4回の会話は、約25年という長い時間の中で行われた珍しい出来事だったのです。つまり、創世記の中心的な人物だったアブラハムでさえ、25年の長い間、神の声をたった4回しか聞けなかったということです。 アブラハムの息子、イサクはどうだったしょうか? 彼はアブラハムよりも神の御声を聞く機会が少なかったのです。創世記25章で妻リベカが双子を身ごもった時、イサクは神に祈り、神は一度イサクに御声を聞かせてくださいました。イサクの息子ヤコブは故郷を離れた時に夢で一度、そして再び故郷に帰る時に主の御使いを通じて一度、間接的に神の御声を聞きます。そして、創世記35章で、やっと直接的に主の御声を聞くことが出来たのです。 このように創世記を代表するアブラハム、イサク、ヤコブのような人物も、主の御声を毎日聴いたたわけではありません。神の一人子イエス・キリストも、この地上におられた時、父なる神のお答えを聞けない場合があったほどです。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ福音26:39) だから、主の御声が聞こえないことに、がっかりしないでください。それは聖書の人物にとっても珍しい経験でした。主の御声は私たち自身の便宜のためのものではありません。主の御声は神の厳重な御心を民に伝えるもの、つまり啓示ともいえるものでしょう。それは主が望まれる時に民に聞かせてくださるものです。民が望むからといって言われ、望まないからといって言わない軽いものではありません。長い祈りにも主の御声が聞こえない場合が多いです。そんな時は主が私たちの祈りを聞いておられるが、最も良いお答えの時を待っておられると理解し、忍耐強く待つ必要があります。 2.ヨブの物語 しかし、それにもかかわらず主の御声(御心、お答)が聞こえてこないことにより、不安になりやすいのが私たち人間の弱さだと思います。特に苦難の時はなおさらです。神が今、自分の苦難に対してどう考えておられるだろうか、自分はこれからどうすれば良いだろうか悩むようになります。そんな時は、主なる神が一日も早く自分が聞ける御声でお答えくださったらと思いがちです。そのような早速の答えを望む私たちに、今日、旧約本文であるヨブ記は、神のお答についてのヒントをくれます。アブラハムの時代、「ヨブ」という信心深い人が「ウツ」というところに住んでいました。彼はアブラハムの親戚でも、子孫でもなかったのですが、主なる神を崇める主の民でした。神は彼をとても愛しておられました。ある日、神が主の使いたちを呼び出されました。ところで、その時、神に逆う者であるサタンも、その集まりに出てきました。神はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。」とヨブの信仰を褒められました。だったら、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。主が彼にたくさんの祝福をくださったから、信じるわけではありませんか。」と言いました。主なる神はヨブの信仰を試みられるためにサタンを用いられ、ヨブに試練を許されました。(最後には二倍報いてくださる。) それによって、豊だったヨブの家は一晩にしてつぶれてしまいました。財産も消えてしまい、病気にかかり、子供たちも亡くなり、妻も離れていきました。彼に残されたのは皮膚病にかかった体だけでした。彼は嘆きました。その時、ヨブの3人の友が彼を訪ねてきました。ここまでがヨブ記3章までの内容で、4章から37章まではヨブと友達との論争が続きます。論争の主な内容は「主は正義の方であり、正しくない者に罰を下される。」「ヨブは罰を受けたから正しくない。」「ヨブは悔い改めなければならない。」という友達の主張と、「自分は罪を犯したことがない。」「主が直接、今の状況について説明してほしい。」というヨブの主張に分かれます。ところで、彼らには共通の過ちがありました。それは主なる神の摂理と経綸を人間である自分の知識において判断しようとしたということでした。「罪を犯したから罰を受けなければならない。」「罪を犯したことがないから罪がない。」のように、人間のみすぼらしい知識に主の御心を合わせようとしたわけです。結局、主なる神が直接現れ、戒めはじめられるのが、まさに今日の旧約本文である38章の言葉なのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」(ヨブ記38:2) そして、神は引き続き言われました。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」(ヨブ記38:4~6) 3. 主の御声(お答)を求める。 主は自分たちのみすぼらしい知識で、神の摂理と経綸を判断し、互いに論争しつづけるヨブと友達に、主の御業は彼らの知識と経験をはるかに超える宇宙的なものであることを教えてくださいます。つまり、人の小さな知識で、主なる神の御声を完全に聞き、理解することはできないということです。ここで、私たちは主の御声またはお答えが聞きにくい理由を推し量ってみることが出来ます。私たちは、ヨブと3人の友達のように非常に小さな存在です。現代という時代的な状況、日本という文化と地域の状況、自分個人の状況に束縛され、一日一日をかろうじて生きる存在なのです。このような私たちが全宇宙を創造し、毎日その宇宙を保たせておられる偉大な神の御心をまともに理解することが出来ますでしょうか? 主なる神の御声が私たちの耳に聞こえてくるでしょうか? もし聞こえるといっても、その意味が分かりますでしょうか? 神はイエス•キリストを通して私たちのところに来てくださったのですが、だからといって神も私たちのように小さな存在になったわけではありません。神は変わらず、この世の創り主、支配者として存在しておられるので、今でもその方の御心と御声を、私たちが完全に理解することはできません。 神が聖書をくださった理由もそのためです。人間が宇宙を支配される主なる神の御旨を知り、理解することができないので、最小限の理解のための道具として聖書という人間の言葉で記された書をくださったわけです。 人生を生きながら、神の御心が理解できない時があまりにも多いです。なぜ、独裁者と戦争を許されるのか? なぜ、無実な者の死を許されるのか? なぜ、日本の教会はこんなに小さく伝道が難しいのか? なぜ、貧しくて弱い人たちがさらに不幸であるのか? なぜ、長年祈ったのに答えがないのか? 私たちの人生において神はどんな意味なのか? さまざまな疑問や疑いが心の中に浮かんできます。しかし、そんな時、今日の本文の言葉を思い起こしたらと思います。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」神は私たちの思いより、はるかに偉大な存在であり、私たちにはその方の御声を完全に聞きとれる耳がないということを私たちは心に留めなければなりません。 しかし、主なる神は(ヨブ記の最後にヨブにしてくださったように)ご自身が望まれる時には、必ず主の民が聞きとれる方式でお答えくださるということを憶えつつ一日一日を信仰によって生きていきたいと思います。 締め括り 主の御声は、必ずしも耳だけで聞けるものではありません。自分の耳にはっきりと聞こえてくる肉声だとも誤解してはなりません。主の御声は主ご自身が望まれる時に聖書の御言葉によって私たちの心の中に聞こえてくる主の御旨だからです。世の人々のすべての声は肉声だけで耳に聞こえてくるわけではありません。母が家族のために食事の支度をする時のまな板の音や父が歌を口ずさんで庭でほうきで掃く音から家族と子供たちのための愛の声が聞こえてきます。赤ちゃんの笑い声、子供たちの跳ね回る遊び声から未来への希望の声が聞こえてきます。愛や希望を口で言わなくても、私たちは、世に響くさまざまな音や声から意味を見つけます。主の御声もそうです。必ずしも、私たちの耳に聞こえてくるのが主の御声ではありません。聖書を通じて分かるようになる人類への主の救いの計画、四季が変わりながら生まれる自然の豊かさにも、この世を愛する神の御声が潜んでいるのです。長い祈り、お答えへの渇望の中で、主の御声が聞こえず、疲れている方がおられるかもしれません。しかし、主が今でも私たちと一緒におられ、今すぐには御声を聴かせてくださいませんが、お答えになる時を待っておられるということを憶えて生きたいと思います。 主の時が来れば、主は必ずご自分の御声を聴かせてくださるでしょう。主の御声、お答えを待ち望みつつ、主に信頼して生きるのは私たちの信仰のあり方ではないでしょうか。

謙遜と信仰

詩編22編23-29節(旧853頁)  マルコによる福音書7章24-30節(新75頁) 1.シリアのフェニキア人。 今日の本文で、主と出会った女はフェニキア出身のギリシャ人でした。シリア・フェニキア人は、シリア地域のフェニキア民族の人という意味で、イスラエルの北海岸地域にある、とても古い民族でした。(紀元前40世紀にもあったと知られている。)フェニキアはアルファベットで有名ですが、大昔からフェニキア人は地中海を掌握し、貿易を通して令名をはせてきました。そのため、早くから文字、数学、航海術が発達していました。フェニキア文字の影響でギリシャ語も発展し、またそのギリシャ語の影響で、ラテン語、ヨーロッパの諸言語、英語も発展していきました。だけでなく、ヘブライ語やアラビア語も、その影響下にありました。また、フェニキアは軍事的にも強い民族でした。紀元前3世紀から2世紀頃、ローマが本格的に大帝国になる前、ローマの海の向こうにはカルタゴという海洋民族がありました。彼らは地中海の支配権をめぐってローマと雌雄を争いました。西洋史で有名なポエニ戦争が、このカルタゴとローマの戦争です。ここでカルタゴはフェニキア民族に由来した国です。このようにフェニキアは、文化的、経済的、軍事的に非常に由緒ある民族だったのです。 というのは、フェニキア人には文化的、経済的にユダヤ人より優れたというプライドがあったということです。これが当時のシリア・フェニキア人、つまり本文で、主に出会ったティルスの人々(フェニキア人)の認識でした。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(24) しかし、そのような歴史と文化へのプライドのあるフェニキア人の中にも貧しい人々はいました。その貧しい人々の中には、助けを求めてイエスのところに来る人もいたようです。彼らはどんな病気でも治し、どんな悪霊でも追い出し、5000人でも腹一杯食べ物をくださった「奇跡の男」イエスに会うために押し寄せて来ました。今日、登場するシリア・フェニキアの女も、そういう人たちの中の一人だったのです。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(25) 2.イエスの試み。 しかし、イエスを訪ねてきたからといって、皆がイエスに対して真の信仰を持っているとは言えませんでした。ある人は本当の信仰で、ある人は好奇心で、また、ある人は欲望で、各々の意図をもって訪ねてきました。その代表的な人物が12弟子の1人であったイスカリオテのユダではありませんか。彼はイエスを政治的なメシアだと思い、従ったのですが、自分の思い通りにならないのを見て、結局、裏切ってしまいました。ここで一つ考えたいことがあります。私たちは、なぜ、イエスを信じているのでしょうか? 私たちは、なぜキリスト者と名乗り、教会に通っているでしょうか? 主への本当の信仰のためか、それとも、他の理由のためか、私たちの信仰を顧みたいと思います。「わたしに向かって、主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)私たちはこの言葉に耳を傾けなければならないと思います。多くの群衆の中でイエスを訪れた女は、果たしてどんな心でイエスのところに来たのでしょうか? 「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」(26) シリア・フェニキアの女の娘は、悪霊に取り付かれていました。新約聖書で「悪霊に取り付かれた。」という言葉には、実際に悪霊に取り付かれたという意味もありますが、「神に逆らう、汚れた世の邪悪な支配のもとで苦しんでいる。」という意味でもあります。おそらく、この女は占い師、医師、宗教家など、多くの人々に娘のために頼んだはずです。しかし、誰ひとり、この世の支配から娘を自由にすることが出来ませんでした。結局、彼らもこの世の支配に属していたからです。ひとえにこの世の悪の支配を退けられる方、世の支配の反対におられる主イエスだけが、その苦しみから女の娘を自由にすることが出来るのです。ユダヤ人も、ギリシャ人も、主イエスによってのみ世の悪の支配から自由になることが出来るのです。ところで、女がイエスに声をかけた時、イエスのお答えは、私たちの予想とは全く違うものでした。「イエスは言われた。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27)イエスが女を小犬に比喩されたからです。当時のユダヤ人は自分たちは神の子どもであり、異邦人は「犬」のように扱っていました。滅ぼされるべき存在であるという意味で、非常に侮辱的な言葉だったのです。つまり、イエスがこの異邦の女を侮辱したも同然の状況でした。 先ほど、私はフェニキア民族の由来について話しました。彼らは長い歴史、伝統、優越な文化を持っていました。当時のフェニキア地域はローマ帝国の植民地の一つとなっていましたが、ローマの文化がフェニキア文明から大きく影響を受けたことは否定できない事実でした。また、本文の女は、ギリシャ人と呼ばれました。つまり文化人だったのです。当時のギリシャ人は野蛮人でない人という意味であったため、女の民族的、文化的なプライドは高かったはずです。しかし、主は彼女を「犬のような人間」のように扱われました。数多くの人々がイエスを訪ねましたが、その中に真の信仰を持っている人は何人だったでしょうか。イエスの弟子たちでさえ、不信心の時があるほどでした。つまり、イエスはこの女の信仰を試みられたのです。本当に信仰を持ってきただろうか、それとも他の人々と同じように好奇心や欲望だけできただろうかをお測りになるためだったでしょう。しかし、彼女は驚くべき深さの信仰で、イエスに答えました。「女は答えて言った。主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28) つまり、言い換えれば、こういう意味でしょう。「もし、あなたが私を犬と呼ばれるなら、私は犬のように扱われても良いです。しかし、犬のような私でも、あなただけが私を助けてくださる方であることを信じています。」彼女はまるでこのような返事をするかのように、主に反応したわけです。 3.謙遜と信仰 「そこで、イエスは言われた。それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(29-30)もちろん、イエスは心から彼女を犬だとは思っておられたわけではないでしょう。主は全人類の主であり, その愛は人種を選り分けません。主は彼女の信仰を試そうとされたわけでしょう。そして彼女は見事にその試みを乗り越えました。民族、文化、歴史的な優越感ではなく、イエスというお方と自分自身という一人の人間の間にある、あらゆる妨げを乗り越えて、主との関係のみに集中する、その立派な信心を、シリア・フェニキアの女は証明したのです。そして、その証明の根源は彼女の謙遜にありました。「貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩編22:27)今日の旧約本文の27節には「貧しい者」という表現が出てきます。この「貧しい」の原文は「アナブ」というヘブライ語で、解釈次第で「謙遜である」という意味にもなります。つまり、27節は「謙遜な心を持って主を追い求める者は豊かに恵まれる」という意味でしょう。優れた文化と伝統のフェニキア人、しかもギリシャ人と呼ばれていたシリア・フェニキアの女。彼女はみすぼらしい人間の姿で来られた神の神である主イエスを謙遜な心によって見つけたのでした。主は謙遜を通してご自分の姿を表されます。今日の本文は、その点を大事にしているのです。 締め括り 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)今日、本文の原文に照らすと、あの有名な山上の垂訓の、この言葉も再解釈できると思います。つまり、「謙遜な者は幸いである、御国は彼らのものである。」ともいえるでしょう。我々の信仰の基礎は謙遜にあります。「自分ではなく、主の貢献によってのみ救われる。私ではなく、神の力によってのみ祝福が与えられる。」という信仰自体が謙遜に基づくものでしょう。このようにキリスト者の信仰にあって謙遜とは、美徳ではなく、本質なのです。その謙遜を貫いて生きる時、主はますます私たちを祝福してくださるでしょう。我が教会が謙遜に生きていきる主の民でありますように祈ります。

イエス·キリスト。

ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(新342頁) 前置き 今日の本文であるガラテヤの信徒への手紙は、宗教改革で有名な人物である「マーティン・ルーサー」がローマ書と共に最も愛した聖書として知られています。中世カトリック教会は、イエスへの信仰と共に人の善行も救いのための必要条件であると理解していましたが、そのような中世カトリックの救い認識に反発したマーティン・ルーサーが「ひとえに主イエスの十字架の貢献のみによる救い」を強調するローマ書とガラテヤ書から大きい霊感を得たからです。私たちが属している日本キリスト教会は長老派の教会であり、長老派の教会は「イエスによってのみ救いを得ることができる」という教えを何よりも重要に思います。「唯一イエス·キリストのお赦し」だけが、人間に真の救いを与える、たった一つの鍵だからです。今日はガラテヤの信徒への手紙1章を通して、イエスおひとりだけによる真の救いについて話してみたいと思います。 1.人間の罪と義認 「義認」という神学用語を聞いたことがありますか? 文字通りに「義(正しい)と認められる。」という意味です。もっと詳しく言えば「神から遣わされた唯一の救い主イエス·キリストのお赦しによって義と認められる。」という言葉です。この「義認」には前提がありますが、それは、この義認の対象となる人間という存在は、生まれつき正しくない存在ということです。旧約聖書の偉大な王ダビデは、詩編51編を通してこう語りました。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51:7) 古代中国の思想家「荀子」は人間は悪の本性を持って生まれるという「性悪説」を主張しました。詳細な意味は少し違うかもしれませんが、旧約聖書も「人間は生まれつき罪人である」と述べています。生まれたばかりの赤ちゃんは何の悪いことも犯してないはずなのに、なぜ聖書はすべての人が生まれつき、正しくないと語るのでしょうか? その理由について日本キリスト教会大信仰問答は、このように説明しています。「問44:どうして、人間はこのようなもの(罪による悲惨な存在)になってしまったのでしょうか。答:始祖アダムが罪に堕ちた結果、その裔であるすべての人間も真の自由を失い、その全人格が神のかたちを全く損ない、破れたすがたにおいて残されているだけです。」 すべての人が罪を持って生まれた理由は、アダムという初めの人(人間を代表する)の原罪の影響下にあるからということです。その罪の影響が子孫である全人類に残され、罪に束縛された悲惨な状態になっているということです。生まれたばかりの赤ん坊は、泣きながら自分の意思を表すと言われます。しかし、それはコミュニケーションというよりもイライラすることに近いです。つまり、怒っているということです。保育園に入った子供たちは、些細なことで友達と喧嘩し始めます。「いじめ」という言葉があるほど、幼い生徒たちが友達をいじめることもあります。村八分、部落民といった根深い社会問題も、偏見によって他人を蔑視しやすくなる人間の罪の本性に由来します。つまり、人間は基本的に罪と悪を持って生まれるのです。聖書はその理由を最初の人であるアダムの原罪の影響から示しているのです。アダムの堕落によって、神にいただいた、人間の善と正しさが歪んでしまったということです。 だから、聖書は力強く語ります。「生まれつき罪を持っている人間は、決して自らの手で神の基準を満たすことができない。」人間は、絶対に自分の力で自分の救いを成し遂げることができません。人間はみんな生まれつき罪と悪を持っているからです。 2.おひとりイエスによってのみ。 使徒パウロは、このような生まれつき、罪を持っている人間が、自らの力だけでは、決して救いを得られないことを力強く主張しました。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12) そして、これが初代教会時代の正統的な福音の教えでした。「人間は罪を持っているので、自分だけでは義とされることができず、自らを救うこともできない。ひとえに神が遣わされた救い主、イエス·キリストのお赦しによってのみ、人間は義と認められ、救いを得ることができる。」このように、ただイエス·キリストによってのみ、人間は罪赦され、神の救いを得ることができると証しする聖書の一つが、今日私たちが学ぶガラテヤ書なのです。冒頭に申し上げた、義認の教えは、これです。「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」ところで、使徒パウロは、なぜ、このガラテヤ書を書き残したのでしょうか? それは、その当時のガラテヤ地域に「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」という福音の基礎を否定する人々がいたからです。 イエスの時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人のコミュニティがありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教という区別がなかったため、キリスト者たちも会堂で集会を催すことがあったようです。その時、イスラエルから来たユダヤ主義者たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したと思われます。そのようなユダヤ主義者たち、あるいは意図的に近寄ってきたユダヤ主義者たちが、初代教会の信徒たちの福音への理解を歪曲させたようです。例えば「皆さんはただイエス·キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法をご覧ください。行いを大事にしていませんか? イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わなければ、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストだけによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行も加えて救われるべきだと偽りの教えを伝えたのです。そして意外とそんな偽りの教えを真剣に受け止め、イエスだけによる救いを信じない人が多く生じたようです。 3.行いではなくキリストによって。 そのため、パウロは今日、本文の言葉を通して、そのような偽りによる福音の歪曲を警告したのです。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:7-9) 私たちは、キリストの十字架での尊い血潮によって、永遠の贖いの恵みをいただき、救われました。キリストは私たちの罪を赦してくださり、父なる神はそのすべてをご計画くださり、聖霊なる神はキリストの救いの力を私たちの中に働かせてくださったのです。私たちの救いは三位一体なる神の協力による恵みです。救いは神のものであるため、どんな良い行いを果たしても、人間は自分の行為によって救いを得ることが出来ません。私たちの宗教的な行い、例えば、祈り、言葉の黙想、献金などの宗教行為が私たちを救うわけではありません。おひとりイエス·キリストが、私たちを救いの道へと導いてくださるという信仰。つまり、主イエスへの信仰を通してのみ、私たちは救いを得ることができるのです。誰かが私たちにキリスト以外の何かで救いを得ることができると誘惑するなら、私たちは絶対にその誘惑にそそのかされてはなりません。 締め括り 今日の本文の御言葉が、私たちに強調しているのは、「イエス・キリストの救いの唯一性です。」世の中には、イエス以外の他のものから救いを探そうとする試みがあまりにも多いです。世の中の数多くの異端やカルト宗教は、その試みから生まれる場合が多いです。時には、政治がそのような試みをすることもあります。日本の場合、日本帝国時代に天皇を神とし、アジア全体の救い主が日本帝国であるという名目で戦争を引き起こすこともありました。当時の日本の教会はそのような政府に屈し、自分だけでなく、植民地の教会にも神社参拝を強要してしまいました。植民地教会の中にも、自ら神社参拝に加担する者がおり、多くのキリスト者が主イエスの救いを裏切ってしまったのです。現在、私たちの生活の中にも、イエス以外の何かから平和と満足を探そうとする試みがあるかもしれません。しかし、私たちは忘れてはなりません。真の救いは、ひとえにイエス·キリストによってのみ、私たちに与えられるものです。キリスト者である私たちは、その事実を絶対に忘れてはなりません。使徒言行録で使徒ペトロが言ったこの言葉が思い起こされます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録 4:12)

三位一体なる神

イザヤ書6章1~8節(旧1069頁) コリントの信徒への手紙二13章13節(新341頁) 前置き 先週の主日は、ペンテコステ(聖霊降臨節)でした。キリスト教会にはクリスマス、イースター、ペンテコステなど、多くの記念主日があります。ところで、教会は、どんな基準で、その記念主日を決めるのでしょうか? それらは「日本キリスト教会」が、自分で決定した記念主日ではなく「教会暦」という、古くからの教会の伝統に由来するものです。教会暦とは古代のカトリック教会時代からイエス·キリストの生涯を中心にして作られた教会のカレンダーのようなものでした。それが、宗教改革後に、プロテスタント教会にも伝わり、プロテスタント的に変更され、現在の教会も使っているのです。教会暦においての一年の始まりは、各教派ごとにやや違いはありますが、一般的に1月1日ではなく、クリスマスを迎える「アドベント」の初日から始まります。ですので、今年の教会歴は去年のアドベントの初日だった、2023年12月3日からだと言えます。今日、説教の始めから教会暦の話を持ちかけた理由は、教会暦上、ペンテコステの翌週の主日が「三位一体主日」であるからです。つまり、今日は教会暦上、三位一体主日なのです。私たちはよく三位一体の神を口にしますが、その意味についてはあまり詳細でないかもしれません。今日も、一部ではあると思いますが、少しでも三位一体について語り、私たちにとって三位一体とは、どういう意味を持つのか考えてみたいと思います。 1. 誰が我々に代わって行くだろうか。 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」(イザヤ6:8) 今日の旧約本文は、主なる神と預言者イザヤとの出会いが記されている、イザヤ書で特に意味深い箇所です。ここで、私たちは神がご自身のことを「我々」と呼ばれることが分かります。現代神学では、神のこの「我々」という複数表現が、三位一体を意味するのではなく、神の偉大さを強調する表現だと主張する人もいますが、教会は歴史的に「我々」という表現が、御父、御子、御霊の三位一体を意味するものだと信じてきました。今日の本文を含め、旧約聖書には神がご自身のことを「我々」と呼ばれる箇所が、いくつか出てきていますが、このような理由で、教会は神が「我々」という形で存在しておられる方だと思いました。おひとりですが、おひとりではない方だと理解したわけです。そういうわけで、近現代に入っては、三位一体への色々な解釈が出てきました。「三葉のクローバーのように根本は同じだが、父、子、霊に分かれる存在」あるいは「父、母、子のように相互別人だが、結局は一つの家族」という解釈など、いろいろな解釈がはびこりました。しかし、三位一体の存在の仕方は、人間の知性では理解できない神秘なので、上記のように無理な解釈は控えるべきだと思います。 ただ、私たちは聖書が証するように、神は「御父、御子、御霊」として存在しておられるが、一つの存在であるという理解で考えを止めるべきです。「三つにいまして、一つなる。」という讃美歌の歌詞を憶えましょう。旧約聖書のあちこちで、万物の父である神について語ります。また、詩編などでは子なる神について語ります。そして預言書などでは神の霊である聖霊について語ります。新約では、今日の新約本文のように「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(第二コリント13:13)と三位一体なる神を直接示します。私たちが信じる神はおひとりの神です。しかし、聖書はその方が三つの位格として存在されると証します。この三位一体なる神はお互いに協力し合い、ご自分の御業を成し遂げていかれます。世界の創造も、罪人の救いも、教会と世への導きも、三位一体なる神は、一位格が独断的に主導されず、お互いに謙虚に愛しあい、仕えあい、すべてを協力しあって治めていかれるのです。今日の本文は、この三位一体なる神が、預言者イザヤを召され、罪を赦され、主の預言者として働く栄光を与えてくださる場面です。そのイザヤへの神の召しのように、神は主の教会を一つの位格が独断的に召されたわけではありません。父なる神の計画、御子キリストの救い、聖霊なる神の導き、三位一体がお互いに協力しあって教会を召され、主の民として生きる機会を与えてくださったのです。 2. 三位一体が教会に与える有益。 三位一体なる神の「お互いに協力しあって創造し、救い、導いておられる姿」は教会に教訓と有益を与えます。イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音13:34)イエスは弟子たちが互いに愛しあうことを命じられました。この世は、愛するより憎みやすい所です。人と人が、地域と地域が、国と国が、民族と民族が憎み合いやすいです。他人が自分に大きくやさしくしてくれたことよりは、自分に小さく誤ったことを赦さず返そうとするのが普通です。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」(ルカ福音6:32-35) このような憎しみに満ちた世界で、それにもかかわらず、イエスはご自分によって父なる神に赦されたキリスト者たちが、愛して生きることを命じておられるのです。それでは、そのイエスの愛は、どこに由来するものなのでしょうか? それは、三位一体なる神のお互いの愛からです。イエスが洗礼者ヨハネに洗礼を受けられた時、父なる神はこのように言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ福音3:17) 御父は御子を愛し、また御子は御父を愛しておられます。神の霊である聖霊も父と子を愛し、父と子も聖霊を愛しておられます。だから、聖書はこう語ります。「神は愛です。」(第一ヨハネ4:16) そのような三位一体の愛によって、イエスは主の民である教会にも愛を与えてくださいます。そのような三位一体の愛にならって、教会も愛を分かち合い、それを通して教会の肢である兄弟姉妹がお互いに愛しあうようになるのです。父なる神が三位一体の頭になり、共に三位一体を成される御子と御霊が愛の中で一つになられたように、イエス·キリストが頭となる神の教会も、この三位一体の愛にならって、互いに愛しあいながら生きるのです。ここに三位一体が持つ有益があります。 愛するのは決して簡単なことではありません。愛についての説教を頻繁に続けてきた私でさえ、正直、兄弟姉妹や隣人を自分自身のように愛することができない現実を痛感します。時々、人間は愛よりも憎しみの方が気楽な存在ではないかと思われるほどです。けれども、私たちが憎しみやすい存在であっても、私たちの主、三位一体なる神は、お互いに愛し合っておられるという事実が、憎みやすい私たち自身を振り返らせる理由になると思います。「私たちは完全な愛ができないかもしれないが、私たちが崇める三位一体なる神は、お互いに完全な愛をされ、また、その愛をこの世に与えてくださった。だから、私たちも三位一体なる神にならって愛を追い求めなければならない。」このように三位一体の存在は、私たちをその方の愛に招き、また私たちも他人を愛しながら生きるようにするのです。もう一つ重要なことは、この愛の中で三位一体の神がお互いに協力し合われるということです。これは教会にも見習うべき大事なあり方になります。愛するからこそ、お互いに協力し合うことができるのです。志免教会もお互いに愛しあい、お互いに感謝しあう心で、協力しつつ生きていきたいと思います。御父、御子、御霊が協力しあってこの世を造られ、罪人を救われ、教会を導かれるように、私たちも愛の中で互いに協力しあって教会を成し、仕え、立てていきたいと思います。 締め括り 三位一体は、人間の認識では、簡単に理解できない、難しくて神秘な神の存在し方です。しかし、聖書は明らかに神が三位一体として存在しておられると語っています。難解で神秘なので、理解するのは難しいかもしれませんが、少なくとも私たちは神がそのように存在しておられるという聖書の証を認め、信じるべきではないかと思います。何よりも大事なのは、三位一体という神の形より、その三位一体なる神が、お互いに愛しておられること、そして、愛によって協力しておられることなのです。この三位一体主日を通して、三位一体なる神について学び、三位一体に倣って互いに愛し協力しながら生きる志免教会であることを祈ります。

聖霊なる神によって。

ヨエル書3章1~2節(旧1425頁) ヨハネによる福音書15章26~27節(新199頁) 前置き 今日は、聖霊なる神の降臨を記念する「聖霊降臨節」です。日本の教会では「ペンテコステ」とよく呼ばれていますが、その意味は数字の「50」です。初代教会の聖霊降臨の背景となる時期である、「ユダヤ教の過越祭後の初日から7週目になる日」(七週祭)、つまり過越祭から50日目となる日だったので、ギリシャ語の50を意味する「ペンテコステ」と呼んでいるのです。ちなみに、この「ペンテコステ」はイエスの復活から50日目になる日でもあります。ところで、教会は、なぜ聖霊の降臨を記念するのでしょうか? 聖霊の降臨が持つ意味は何でしょうか? 今日は、聖霊降臨の意味について話し、聖霊降臨節、つまりペンテコステを記念する理由について考えてみたいと思います。 1.聖霊降臨の約束。 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1-2) 今日の旧約本文は「その後」という言葉から始まり、主なる神が主のしもべたちに主の霊(聖霊)を注いでくださると書いてあります。ここで「その後」とはどういう意味でしょうか。何の後に聖霊をくださるということでしょうか? その内容はヨエル書2章で確かめることができます。ヨエル書2章1節には「主の日が来る」と記してありますが、その日は主なる神の「裁き」の日であり、誰も主の裁きから自由ではないことを警告しています。ヨエル書は「主の日」が来る時に主の民が主なる神の御前で悔い改め、赦されることを呼びかけています。民が悔い改め、神が赦してくださるその日、主の民は真の喜びをいただき、二度と恥を受けないと預言しています。新約時代を生きる私たちは、この「主の日」をどのように解釈すべきでしょうか? 神は主イエスを救い主として遣わしてくださり、世のすべての人々に主イエスによる悔い改めの機会を与えてくださいました。いつか主なる神は必ずこの世を裁かれ、主に逆らうすべての者は、その裁きを受けることになるでしょう。神はその日のために主イエスという救い主を遣わされ、その方によって悔い改める者たちに主の裁きを避ける救いの道を与えてくださいました。 したがって、ヨエル書が語る「主の日」は「主の裁きの日」でありながら「主の救いの日」でもあります。キリストを知らない者にとって「主の日」は滅びの日となりますが、キリストを知る者にとって「主の日」は救いの日になるということでしょう。だから、今日の本文の「その後」という表現は、イエス·キリストによる救いの日の後のことでしょう。私たちはイエス·キリストが人類の罪を赦してくださるために十字架にかかられ、犠牲になったことを知っています。また、三日目に復活され、罪人への真の救いを完成してくださったことも知っています。また、私たちはキリストが、私たちにすでにご自分の恵みによる救いを与えてくださったことをも知っています。したがって、私たちはイエス·キリストによってすでに「救いの日」を経験し、その救いの中で生きている存在です。この救いの日を生きている私たちに、神は「聖霊を注いでくださる」と約束されたのです。ですので、聖霊降臨は主イエスによって救われた者たちなら、必ず与えられるに決まっている神の恵みです。この世に希望がなく、悲しみと苦しみが多くても、主が約束された聖霊は、私たちと一緒におられ、必ず私たちの人生を導いてくださるでしょう。それが神の約束だからです。 2. 聖霊はキリストを証する。 それなら、私たちは、すでに聖霊を受けた者として、ここに集っていると結論を下すことができます。しかし、神に聖霊を遣わしていただいたと自負できる人は少ないでしょう。聖霊が自分に来られた記憶がないからです。聖霊降臨というのはどういう意味でしょうか? まず知っておくべきことは、聖霊は遣り取りする物ではないということです。聖霊は三位一体の一位格の神です。「注ぐ」という表現のため、まるで聖霊がオリーブ油やぶどう酒のような旧約聖書に出てくる液体と感じられますが、「聖霊を注ぐ」という表現は比喩として理解すべきです。旧約時代には、主なる神が、王、預言者、祭司を選ばれる時、彼らの頭に香油を注げと命じられました。油が注がれる時、神の霊が彼らに臨まれ、主の御心通りに導かれました。「聖霊を注ぐ」という表現は、ここに由来したのです。したがって、聖霊は生ける神なのです。旧約において油を注ぐということは、聖霊なる神のご臨在を意味するものです。したがって、私たちは「聖霊なる神」を御父や御子より劣る存在だと考えてはなりません。キリストの御救いによって、私たちに聖霊が注がれたということは、旧約時代に香油を注ぎ、イスラエルの王、預言者、祭司を任命したように、新約時代には、主キリストによって、聖霊なる神が直接私たちに臨まれたということを意味します。そのような意味として、私たちにすでに聖霊が臨んだこの時代には、私たちは旧約の王、預言者、祭司のような特別な存在として召されているのです。 私たちは聖霊の降臨という表現を誤解しがちだと思います。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1-4)、このような使徒言行録の言葉のため、聖霊は私たちの日常に画期的な変化を引き起こすだろうと誤解しやすいです。もちろん、主の御心に応じて、このような目立つ大きな変化が起こる可能性もあります。しかし、すべての人に、そのような出来事があるとは言えません。聖霊の降臨を経験した人の最大の特徴は次の言葉から覗き見ることが出来ます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ福音15:26) 聖霊降臨の最も大きな特徴はイエス·キリストを証しすることです。聖霊が人に臨まれると、イエスを主と告白しなかった人が、イエスが主だと告白するようになります。神の御心に興味がなかった人が、神の御心とは何か、知りたくなります。聖霊の最も重要なお働きは、激しい風や炎のような舌みたいな、特別な霊的現象ではなく、イエス·キリストという方を信じさせ、証しさせることです。 締め括り だから、その聖霊なる神が、私たちに臨まれると、私たちも自然にイエス・キリストを知り、証しするようになります。私たちは皆、生まれつき、イエスを知らない状態に生まれます。しかし、キリストが私たちを選び、救ってくださる時、私たちに聖霊が臨まれ、イエスを主と告白し、信じることになります。そして、イエスの御言葉を、「私たちに与えられた主の御心」として認め、聖書の御言葉を大切にするようになります。したがって、今日も聖書と説教を通じて、感謝して主の御言葉にあずかり、そのために礼拝に出席した私たちは、聖霊のともに生きる存在であるのです。特別な奇跡を経験しなくても大丈夫です。絶対的な霊的体験がなくても問題ありません。その影響はそんなに長く続かないからです。最も大事な聖霊臨在の経験は、イエスへの信仰が生まれたことだと言っても過言ではありません。私たちに主イエスへの信仰があり、主を自分の救い主と認め、その方と共に歩もうとするならば、私たちには、すでに聖霊が臨んでおられると信じても良いです。聖霊降臨節の主日、このペンテコステに私たちが必ず憶えなければならないことは、このイエス·キリストを証しする聖霊が私たちに臨んでおられるということです。そして、その聖霊の御心に従ってイエス·キリストを憶え、その方の御言葉に従順に聞き従いつつ生きようと努力することが、聖霊が私たちに臨まれた、第一の証拠であると信じます。聖霊と一緒に生きる志免教会の兄弟姉妹であるように祈ります。