大祭司の祈り

民数記6章24~26節 (旧221頁) ヨハネによる福音書 17章1~26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書17章は「大祭司の祈り」と呼ばれる箇所です。祈っておられる主イエスを通じて、いと高き主なる神と罪に汚された人間の間に立ち、神の怒りをしずめ、主の民を清める旧約の大祭司の姿が重なって見えてくるからです。特に主イエスは3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節主イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを父なる神にささげておられます。今日は本文の言葉を通して、主イエス・キリストが私たちをいかに愛しておられるのか、主イエスが私たちにとって、どのようなお方なのかについて話したいと思います。 1.主ご自身のための祈り。 主イエスは、主の民と人類のために祈る前に、まずご自身のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ他人ではなく、先にご自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、主イエスが御父にご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、この栄光を誤解してはなりません。これは自分の欲望を満たす世俗的な意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書での栄光は「御子の本質」のことです。主イエスの栄光は「主イエスの本質」つまり、主イエスが存在する理由にあります。主イエスは、罪に汚され、死ぬに決まっているご自分の民を救われるために来られました。つまり、主イエスの栄光は救いのための十字架での死でした。その過酷で、屈辱的な苦難が主イエスの「自分らしくいる様」つまり栄光だったのです。ところで、主イエスは天地創造の前から、すでにその栄光を持っておられたようです。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。」(ヨハネ17:5) ここで、私たちは創造の前から民を罪から救うために御子の犠牲が定まっていたというのが分かります。御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが、創造の前からの御子の栄光であるという意味です。主イエスは、このような栄光という名の苦難を乗り切るために、まず父なる神に祈られたのです。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」(ヨハネ17:2) 主イエスは、この苦難の終わりにご自分の民に与えられる永遠の命のために世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせられた主イエスを復活させられ、主イエスの栄光を完成してくださるでしょう。主イエスのご自身のための祈りは、父なる神の栄光、ご自分の栄光、そして、民の救いのための祈りだったのです。 2.弟子たちのための祈り 辞書を引いてみると弟子という言葉について「先生に教えを受ける人」と書いてあります。つまり、教育を受ける人です。教育とは、心と体の知識を得るため、すなわち知るための行為です。弟子は「知るために」先生に従う人です。それでは、主イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:3) 使徒ヨハネは真の神と主イエスを知るべきだと語りました。ところで、この「知る」ことによって、何が得られますでしょうか。聖書は永遠の命を得ると教えます。主イエスのお教えを受けた者は、神がどなたなのか、主イエスがどんな方なのか、知ることになります。そして、それを知る結果は永遠の命です。これは主イエスの弟子だけが得られる恵みです。十二弟子だけが主イエスの弟子ではありません。主を信じ、その方を知る人みんなが主の弟子になるのです。 ヨハネ17:3での「知ること」は、単純な知識のことではありません。聖書において「知ること」は、夫婦関係のように密接な関係を結ぶことを意味します。神との関係を結び、信頼するのが、神を知ることです。「神を知ること」とは、すなわち「神を信じる」と言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神と、神から遣わされたイエス・キリストを信じることです。そのために、主イエスは2番目に弟子の信仰のために祈られたのです。「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」(ヨハネ17:8)「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11) 主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。 3.全人類のための祈り また、主はご自分の民だけでなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21) 主イエスは、主を信じない人をみんな地獄に投げられ、主を信じる人だけを憐れむ方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主イエスの夢だといっても過言ではないでしょう。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々が主イエスを信じる潜在性を持っているからです。神がお選びくださらなかったら、誰がキリスト者になれたでしょうか。主なる神が信仰をくださったので、私たちが主イエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、神を知ることになったことを忘れてはならないでしょう。主なる神は、世界のすべての人々が主イエスを信じることを望んでおられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して、全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭として、教会を通して福音を宣べ伝えさせておられます。 締め括り 今日の旧約本文に、大祭司アロンが神の代わりにイスラエルの民に祝福を伝える場面が出てきます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」(民数記6:24~26) アロンと比べられない真の大祭司である主イエスは、今でも父なる神にご自分の民のために祈ってくださいます。神と人間の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に大事な存在です。主なる神はイエス・キリストを通して私たちに祝福をくださいます。そのような神の御心をイエス・キリストが知っておられ、御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。イエス・キリストは私たちの大祭司です。主は今現在も御父の右から大祭司としてお祈りくださるでしょう。その恵みに感謝する志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

万物の支配者。

詩編104編1~9節(旧941頁) 使徒言行録17章24~25節(新248頁) 前置き 今年に入って宮崎県の海域で大小の地震が起きているそうです。国内では割と静かですが、周辺国では、日本での7月の大地震説が取りざたされています。たつき諒という漫画家の著書である「私が見た未来」という本に、2025年7月5日、日本で大きい地震が起こり、大勢の人々が苦しむと予言されたからです。(作家は予知夢をよく見る人のようです。)この本はかつて神戸大震災、3·11福島大震災、コロナ流行などを予言しました。そのため、一部の人々は、作家の別の予言、つまり今年7月、日本で大地震が起こるのではないかと恐れているわけです。 実際、今年の6月から宮崎のトカラ列島沖で大小の地震が後を絶たない状態です。地元の人々の中には、鹿児島市に避難した人たちもいるとニュースに出ました。外国では日本旅行を取り消す人もいるそうです。果たして、実際に大地震が起きるのでしょうか? 明らかなことは地震が起きる可能性も、起きない可能性もあるということです。誰かの予言でなくても、日本ではすでに多くの地震が起きてきたからです。このような状況の中で、キリスト者の持つべき心構えは何でしょうか。 1.天災地変への人間の恐怖 人類の歴史が始まって以来、人類は数多くの災害にさらされてきました。世の中に起きる災害は人によってもたらされる人災(戦争、放火による火災、安全事故、建築物の崩壊など)と自然に発生する天災(地震、津波、異常気温、自然発火による山火災、山崩れなど)に分けられます。人々は外交を通して出来るだけ戦争を避け、法律を強め、安全意識を固めて、人によってもたらされる人災をあらかじめ防ごうと努力してきました。しかし、自然からの災害は人の努力ではどうしても解決できない恐ろしいものでした。というわけで、昔から人間は自然現象を神の怒りや啓示などと認識してきました。特に、その影響を多く受けたのが日本の神道思想ともいえるでしょう。日本の原始宗教観は世の中のすべてに神が宿っているという汎神論的な思想を基盤にしているからです。このように、人々は自然の急変を恐れ、そこから信仰を生み出してきました。しかし、聖書は、自然は神ではなく、主なる神の支配の下にある被造物にすぎないと明確に述べています。 今日の新約の本文を読んでみましょう。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17:24-25) 使徒パウロは主なる神が、世のすべてを造られ、今でも導いておられると力強く証しました。自然への恐怖は人間だけでなく、この世のすべての生き物が感じる共通の本能です。ですから、自然災害のうわさが広がる時、「何も心配するな。何も起こらない。不安は愚かなことだ。」と人間の本能に逆らって楽観的に考え、心配する人々を非難することは望ましくないでしょう。 特に日本は地震発生が非常に多い国ですから、あらかじめ注意しておいて悪いことはないでしょう。しかし、キリスト者である私たちは、主なる神が世界のすべてのことをコントロールしておられるということを信じ、主を知らない世の中の人々と同じように、不安と心配に包まれ、何の基準もなく振舞ってはならないでしょう。 2.天災地変に対するキリスト者の心構え 私たちは、主なる神を信じればすべてがうまくいくだろうと漠然と思いがちです。しかし、実際にすべてがうまくいくとは断言できません。主を信じても、うまくいかない場合もあります。当たり前なことです。主は、私自身一人だけの神ではなく、全宇宙の神だからです。宇宙には、人間だけでなく他の動物、植物、海、空、大陸、月、星、太陽、銀河系などすべてが含まれます。そのすべてが神の被造物だと聖書は証言します。そのため、主なる神は、御手によって創造された秩序を用いて、この宇宙を支配しておられます。一人二人の人間だけのために、主の秩序をあきらめられたら、神の創造の摂理と秩序は乱れてしまい、宇宙にはさらに大きな混乱が来てしまうでしょう。以前にも、説教で何度か申し上げたことがありますが、創造は無から有を創造することだけに限りません。創造のもう一つの重要な特徴は、無秩序に秩序を与えることです。そのため、人間の立場からの天災地変は、主なる神の立場からでは宇宙を保たせる秩序が働く中で生じるやむを得ないトラブルの一つであるかもしれません。 日本に地震が多発する理由は、その地域のためです。日本が位置している地域は、環太平洋造山帯と呼ばれる地殻と地殻が向き合う接点です。南米のチリから北米西海岸、アレスカ、千島列島、日本列島、フィリピン、インドネシア、ニュージーランドまで続く太平洋を包む火山帯です。そのため、この地域の国々では地震が多発するのです。地球の表層はいくつかの地殻でできており、すごくのろいですが、動いています。このとき、地殻同士が押し合い、摩擦して巨大な揺れが起こります。それがまさに地震として現れるのです。もし、地殻が動かなくなって地震が起きなかったらどうでしょうか? それは生きている地球ではなく死んだ地球の姿であり、そうなれば私たち人間もこれ以上地球で生存できなくなるでしょう。地震が怖くて、なかったらいいかもしれませんが、皮肉なことにその地震がないということは地球が死んだということになり、私たちもその死んだ地球ではもう生きることが出来ないでしょう。 神の被造物である自然は、それなりの秩序によって働いているのです。そして、地震は、その自然の一部なのです。 だからといって、主なる神がわざと地震を起こし、人類には秩序だから仕方ない、文句言うなとおっしゃる方であるわけではありません。 地震で人類が苦しむのは、主も御心を痛めることでしょう。ですから、人間に知識と技術の発展を許され、災害の中でも再び起き上がれるように導いてくださるのではないでしょうか? 自然災害は恐ろしいものですが、地球が生きているためにはやむを得ず起き続けるしかない必然的なものです。そして、それは主なる神の自然の秩序に属する事柄です。したがって、キリスト者は地震という自然災害を漠然と恐れる前に地球が生きているという証拠であり、主が地震で苦しむ人々を憐れんでおられることを忘れてはならないでしょう。誰でも人生を生きながら天災地変に遭いうるでしょう。もし私たちが住んでいる福岡県に地震が起きるとしたら、恐ろしさの中でも主の秩序を思い出し、政府の指導に従って被害を最小にし、地震によって恐れ苦しむ隣人を助け仕えることで、無秩序の中に秩序を作り出すキリスト者になることを願います。そして、迷信による世の恐怖を超え、主なる神がすべてをコントロールしておられることを堅く信じ、苦難を乗り越える信仰を持つべきではないかと思います。 3.万物の支配者 「わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り、天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り、さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた。」(詩篇104:1-9) 詩篇は、主なる神が、世界の万物の支配者であることを唱えています。この世のすべての自然現象も結局は主の支配のもとにあります。しかし、自然現象によって苦しむ人が生じる時もあります。私たちは自然現象を防ぐことができません。全体的な大きな秩序の一部であるため、防いでもいけません。ただ、その自然よりも大きい主の権能と慰めと導きを信じ、自然災害に恐れる人々を慰め、助けて生きるべきだと思います。それが万物の支配者である主なる神の存在を知る人と知らない人の違いではないでしょうか? 締め括り 日本では、そんなに話題になっていないかもしれませんが、周辺国では7月の大地震のうわさで日本への訪問を心配していると言われます。昨年の能登半島地震、南海トラフなどが話題になったときから、さらに深まっています。しかし、日本列島は地球ができたときから地震の脅威から一度も避けたことがありません。今更、恐れるより、今までのように注意を持って過ごせばよいと思います。主なる神が日本を守ってくださることを望みます。誰も地震によって苦しむことなく犠牲にもならないことを祈ります。主の教会は地震も結局、主の支配下にあることを信じ、恐れ、不安に思う隣人を慰めながら助けなければならないでしょう。 主を信じる私たちは、世の中の他の人々とは違う視座から自然災害に対応して生きるべきでしょう。それも信仰の領域にある生き方だからです。

兄弟姉妹の助け合い

詩編133編1~3節(旧975頁) エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) 前置き ソウル文化村教会からの兄弟姉妹の皆さんを歓迎します。志免教会は皆さんの訪問をお許しくださった主なる神に心から感謝申し上げます。一緒にささげる礼拝による聖霊のみもとでの美しい交わりを喜びます。今日一緒に守る、この礼拝を通して、二つの教会のアイデンティティを確認し、主にあってお互いに助け合い、愛し合う関係であることを憶える時間になることを願います。両教会の上に主なる神の限りない祝福と恵みとが与えられますよう祈ります。 1. キリストにおいて兄弟姉妹となる。 教会用語の中で、最も美しい言葉の一つは「主において兄弟姉妹となる」ではないかと思います。国が異なり、言葉と文化が違っても、主の民はイエス·キリストというおひとりを中心として一つとなった存在ですから、それらの相違の超える同じアイデンティティを持っているのです。この世の政治も、いかなる価値観も、主が結び付けてくださった「主において兄弟姉妹となる」という私たちのアイデンティティより先立つことはできません。志免教会は日本人だけでなく、韓国人、中国人、ニュージーランド人が一緒に集い、主イエスにおいて、同じ神を礼拝し、同じ聖書の言葉で主の福音を学んできました。そして、今日は韓国ソウルからの兄弟姉妹たちとも一緒に同じ主に礼拝しています。聖書は語ります。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェソ2章中) 父なる神は、罪によって主を離れてしまったご自分の民を召し出してくださるためにイエス·キリストという救い主を、この地に遣わされました。主イエスは、主の民を救ってくださるために、この地上に来られ、彼らと共に過ごしながら、癒し、教え、福音を伝えてくださいました。以後、主イエスは罪人の贖いと救いを成し遂げるために十字架にかけられ死に、三日後に復活されました。復活されたイエスは、ご自分の血潮という身代金によって罪人を償い、神と人を遮る壁を崩し、主なる神の子供に召してくださいました。その時、私たちひとり一人を遮る壁をも共に崩してくださったのです。私たちがお互いに兄弟姉妹と呼ぶのが出来る理由は、そのような主イエスの恵みに基づきます。私たち自身が、自分の意志で兄弟姉妹と呼ぼうとしても、この世の価値観と自分の利益を考えるなら、口先では兄弟姉妹だと言っても心では違う考えを持ちやすいです。しかし、主イエスの贖いと救いによって、主において一つとなった私たちは、主イエスのかけがえのない恵み(主イエスというおひとりの主を崇める一つの存在となる)を根拠として、お互いを兄弟よ、姉妹よと呼べるようになったのです。 したがって、主イエスが永遠の方であれば、私たちの兄弟姉妹という関係も永遠であるのです。たとえ民族と言葉と文化が違うとしても、私たちにはイエス·キリストという永遠に移り変わりのない、たったお一人の主がおられるからです。 2. 日韓長老教会の歴史 私たちは、こうして主において一つとなり、兄弟姉妹の関係を結んでいます。それでは、お互いの関係について、歴史を通して考えてみたいと思います。日本と韓国という他国の教会どうしなので、遠くの人々、言葉も通じなく、考え方も違う相手と思われがちですが、日本と韓国の長老教会は意外と近い間柄です。日本キリスト教会と大韓イエス教長老会(合同派)は、いずれも長老派の教会です。日本の長老教会は、1859年、医療宣教師として来日したジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)が、横浜港に入国することから始まります。彼はアメリカの北長老教会の派遣により、医療宣教とともにヘボン塾(現明治学院大学の前身)などを通して、近代日本の教育にも影響を及ぼしました。彼の活躍により、日本の三大キリスト教バンド(横浜、熊本、札幌を中心に形成されたプロテスタント教勢)の一つである横浜バンドが基盤を固め、その中心に日本キリスト教会の前身である日本キリスト公会がありました。韓国の長老教会は、1889年、朝鮮に入国したホレイス・グラント・アンダーウッド(Horace Grant Underwood)です。彼も日本のヘボン宣教師のようにアメリカの北長老教会の宣教師です。彼は朝鮮の広恵院という韓国最初の西洋式病院で物理学と化学を教え、その後、キリスト教系の学校を設立して教育活動を繰り広げました。彼の活動で韓国でのプロテスタント教会の影響力が広がっていき、韓国の長老教会も基盤を固めるようになりました。 このように日本と韓国の長老教会はアメリカの北長老教会という同じルーツから福音を受け入れ、改革教会という同じ神学と信仰を共有する関係です。日本と韓国という他民族、言語、文化の違いにもかかわらず、同じ教会から派遣された宣教師たちによって、そのすべての乗り越えるイエス·キリストの同じ福音が伝わってきたのです。この福音を伝えるために、ヘボンとアンダーウッドといった宣教師たちが自分の若さを主に捧げました。ですから、今日、私たちはお互いに初めて会いますが、遠くにいる関係ではありません。言語の違いは、言語が通じる人の通訳によって解決できます。それよりさらに重要なことは、同じ信仰と心を持った主イエスの同じ民であるということです。私たちは、キリストという同じ頭を中心に一つとなったキリストの肢です。ですから、志免教会の皆さん、今日、訪問してくださった韓国の青年たちをこれからも憶えてください。彼らの一生のために祈ってください。文化村教会の青年の皆さんも、ここにいる信仰の先輩たちを憶え、祈ってください。文化村教会の青年たちは、信仰が冷やかされる時代に自分の信仰を守りながら生きています。志免教会の先輩たちもキリスト教の教勢が弱い日本で、長年、信仰を守ってきました。 お互いを憶え合い、住む所は違うが、一心で助け合う私たちであることを望みます。 3. 価値観と政治観を飛び越て 私たちが、日本キリスト教会に加入するために来福したのは、2018年の秋でした。そして、2019年4月、志免教会の協力宣教師として赴任することになりました。ところが、ちょうどその頃から日本と韓国の関係が悪化するようになりました。いわゆる「ノージャパン運動」とも呼ばれる日韓対立の出来事だったのです。当時、私と妻はすごいストレスを受けました。まだ、志免教会の皆さんと十分に親しくなってもおらず、出掛ける時は妻となるべく会話を控えました。韓国語が聞こえると見つめる人たちがいたからです。やはり政治が問題でした。日本の安倍元首相は韓国が嫌いで、韓国の文元大統領は日本が嫌いでした。 互いに自分が正しいと主張しました。しかし、彼らは相手の国に住む自国民の心を配慮しませんでした。指導者どうしの政治的な異見により、日本の韓国人と韓国の日本人が苦しむようになりました。日本と韓国は歴史的な遺憾が山ほど積もっている隣国です。そういうわけで、「一番近いが、一番遠い国」という言葉もあります。人間の世界はそうです。対立と憎しみが根底にあるからです。 しかし、その時、私たちを支え、慰めてくれた人は志免教会の兄弟姉妹たちでした。一度も政治的な話題で、私たちを冷たく扱わず、むしろノージャパン時代とコロナ時代を経て、日本人、韓国人という違いよりもクリスチャンとしての同じさを、さらに大切に思ってくださいました。価値観と政治観がキリスト者というアイデンティティを損ねることが出来なかったのです。そのすべてが、同じ主であるイエス·キリストの肢であるという信仰で乗り越えた結果なのです。今日の旧約本文はこう述べています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のようにシオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された祝福と、とこしえの命を。」(詩篇113編) 兄弟が「共に座っている」という言葉は一心を持って一緒に助け合いつつ生きることを意味します。古代の遊牧民族は、一族全員が一つの群れとして生きたと言われます。それを原文で「共に座る」と表現したようです。主なる神のみもとに、兄弟姉妹が共に座ることは正しいことであり、主が喜ばれる生き方ということでしょう。そのように共に座る人生の道のりで、憎しみと対立は消えて行くからです。そこに主の祝福ととこしえの命があると聖書は証しています。 締め括り 今日、私たちは初めて会いました。しかし、すでにキリストにおいて、一緒に座っており、神の国で再会するべきとこしえの教会姉妹です。 もちろん、その前にまた会う機会があるかもしれません。私たちは、お互いに外国人だと思わず、それよりもっと大事なキリストによる家族という信仰で助け合い、愛し合うべき関係です。この世での人生は短いです。100年を超えて生きる人は珍しいです。しかし、神の国での私たちは、主と共に永遠に生きるでしょう。100年にもならない時間の中で憎しみと対立を造らず、永遠な主の国での「共に座る」存在として仲良く過ごしていきたいと思います。 主なる神が、私たちの交わりを喜ばれ、祝福をしてくださるよう祈り願います。

主に賛美せよ。

詩編113編1~3節(旧954頁) エフェソの信徒への手紙1章3~6節(新352頁) 前置き 賛美とはどういうものでしょうか? 私たちは礼拝の際、何度も讃美歌を歌います。讃詠を皮切りに聖書朗読前の讃美歌、説教前の讃美歌、説教後の讃美歌、聖餐式の讃美歌、礼拝が終わる時の頌栄を歌います。教会によっては、礼拝開始の前に讃美歌を歌うか、礼拝の後に讃美歌を練習する場合もあります。大きい教会では、イースター、クリスマスなどの記念日に合わせて賛美のコンサートを開くところもあります。そのため、私たちは無意識に「賛美は歌である」と受け止めがちです。しかし、賛美は果たして歌だけに限るものなのでしょうか? 今日は聖書に現れる賛美について学び、その意味を、あらためて心に留める時間を持ちたいと思います。 1.聖書に現れる賛美 聖書の言語であるヘブライ語とギリシャ語には、数多くの賛美にかかわる言葉があります。日本語では「讃美、賛美」あるいは「ほめたたえ」くらいですが、聖書の言語では数多くの表現があるのです。そのすべてを一々取り上げて説明することは、かなり時間がかかりますので、今日の本文に出てくる四つの表現(ヘブライ語ハラルとギリシャ語翻訳エパイノスとヘブライ語バラクとギリシャ語翻訳エヴロゲオー)について考えてみたいと思います。まず、今日の旧約本文を読んでみましょう。「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美(ハラル)せよ。主の御名を賛美(ハラル)せよ。今よりとこしえに、主の御名がたたえられる(バラク)ように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美(ハラル)されるように。」(詩篇113:1-3)詩篇113編はイスラエルの民が過越祭のような大事な祭りに歌った賛美として知られています。 詩篇113編だけでなく114編から118編までも、そのような歌でしたが、それらは「ハレルの詩」と呼ばれました。このハレルという名称は、これから探ってみる「ハラル」に由来します。今日の旧約本文で主なる神への賛美、その一つ目のヘブライ語は「ハラル」です。 ハラルには、さまざまな意味がありますが、基本的に「明らかになる。輝く。」のイメージを持っています。そして、そのイメージから「賛美する。褒める。誇る。」などの表現が派生しました。主なる神が成し遂げられたすべてのことが「闇を退け、秩序をもたらす最も明らかで輝かしい御業」であるため、天地万物が主なる神を「ほめたたえ、誇りにする」のです。また、このハラルはギリシャ語では「エパイノス」と訳されますが「エパイノス」はそのままで「~に賛美する」という意味です。 賛美にかかわる、その二つ目のヘブライ語は「バラク」です。この表現のイメージは「ひざまずく」です。そして、もう少し意味を拡張して「主の御前にひざまずいて謙虚に屈服する。」と解き明かすことが出来ます。主なる神の偉大な御業に感謝し、謙虚にひれ伏し、主の偉大さをほめたたえるという意味です。この表現はギリシャ語ではエウロゲオ-と訳されますが、エウは「良い、立派な」を意味し「ロゲオー」は言葉、思想、理屈を意味する「ロゴス」の動詞形です。主なる神に一番良い言葉と思いをささげるという意味でしょう。賛美は狭い意味では礼拝の時に歌う「歌」として定義することが出来るでしょう。しかし、より広い意味としては「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」とも言えるでしょう。したがって、賛美はただの歌だけを意味するものではありません。私たちの人生のすべての姿が、私たちの賛美そのものになるのです。教会党に出席し、讃美歌を歌うだけで賛美を尽くしたと思ってはなりません。教会でも、家庭でも、社会でも、主の御言葉と御心に聞き従って正しい信仰の人生を生きること、それこそが私たちの真の賛美なのです。 2.主の明らかで輝かしい御業 それでは、主なる神が成し遂げられた明らかで輝かしい御業とは果たして何でしょうか? 今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえ(エウロゲオ-)られますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえる(エパイノス)ためです。」(エフェソ1:3-6) 今日の旧約本文に出てきた賛美を意味する「ハラルとバラク」が、今日の新約本文でもギリシャ語(エパイノスとエウロゲオ-)に訳されて出てきています。使徒パウロは主なる神が成し遂げられた偉大な御業をハラル(エパイノス)とバラク(エウロゲオ-)という言葉を用いてたたえているのです。主の明らかで輝かしい御業を被造物の人間に過ぎない私たちが、すべて見抜くことは不可能です。しかし、私たちは新約本文に記録された言葉を通じて主の御業の一部を覗き見ることができます。 一、主なる神は、天のあらゆる霊的な祝福で私たちを満たしてくださいました。罪によって見捨てられた罪人をイエス·キリストの十字架の贖いよって救い、さらに霊的な祝福をくださったのです。(3節) 二、主なる神の救いは、偶然や即興的な救いではなく、天地創造の前から計画された永遠の愛に基づいています。(4節) 三、私たちは主なる神の御心のままに前もって定められ、キリストにおいて主の子供とされました。(5節) 四、これらによって、主なる神はキリストによって主の子供に召された私たちに、主の輝かしい恵みを賛美する資格を与えてくださいました。(6節) 主はすべての光の源であり、すべての正義と秩序の主です。主がなさるすべてのことが明らかで輝かしい御業です。聖書は、その中でも特にイエス·キリストによって主の民を選び、救い、主と共に生きるようにしてくださったことを最も偉大な御業であると証しています。私たちはイエス·キリストにあって、私たちの救いを成し遂げてくださった主なる神の明らかで輝かしい御業に感謝し、その方に私たちのすべてを捧げ、従順に聞き従う人生を生きるべきです。そして、そのような生き方そのものが、主なる神への私たちの賛美になるのです。素晴らしい歌唱力、美しい音色、きれいな奏楽も良い賛美です。しかし、最も根本的で基礎的な賛美は、断然主の民にふさわしく信仰にあって主と共に歩む私たちの日常の生活ではないでしょうか? 3。賛美について思いめぐらす逸話 アメリカの黒人解放期、黒人の人権のために尽力した女性作家がいました。   彼女は「アンクル・トムの小屋」という小説で有名な「ハリエット•ビーチャー•ストウ」でした。長老教会の牧師の娘に生まれ、神学を勉強した彼女は、黒人の悲惨な生活を目撃し、奴隷制度に反対する作品「アンクル・トムの小屋」を書いたのです。彼女の小説はアメリカ社会に大きな波紋を投げました。ある日、彼女はアメリカの南北戦争を勝利に導き、黒人奴隷解放を宣言したアブラハム・リンカーン大統領に会うことになりました。「ストウさんにお会いできてとても嬉しく思います。小説を読んだ後、作家が軍人あるいは政治家だろうと思いましたが、こんなに小さなご婦人であるとは思いませんでした。私はあなたの小説を読んで大きな感動を受けました。そんなに素晴らしい小説をどう書かれたのでしょうか。」ストウは答えました。「とんでもございません。それは私が受けるべき褒め言葉ではございません。主なる神にに才能をいただいたのですから、ひとえに主だけに栄光を捧げるだけです。それよりも、多くの黒人を悲惨な奴隷制度から解放された閣下の業績こそ、永く輝くでしょう。」するとリンカーンは謙虚に答えました。「いいえ、こちらこそ、とんでもございません。私はただ主のしもべに過ぎません。私自身には何の力もありません。すべてが、主のご命令に従った結果なのです。だから、すべての栄誉は主に帰すだけです。」黒人解放の主役である2人は自分の業績を自慢せず、そのすべてが主なる神の恵みであるとほめたたえました。 締め括り 上記の物語は、真偽のほどは定かではありませんが、少なくとも、思いめぐらせるところはあると思います。リンカーンとストウの会話を読みながら、これこそ真の賛美のあり方ではないかと思いました。毎週教会に出席して讃美歌を歌っているが、職場では冷たくて薄情な上司ではないか。毎週教会で奏楽しているが、学校では真面目でない生徒ではないか。毎週教会で奉仕をしているが、家庭では配偶者との関係は悪くないか。いろいろなケースがあるでしょう。そのような人々が歌う讃美歌は果たして主なる神に喜ばれる賛美になれるのでしょうか。今日学んだ賛美の意味についてもう一度復習して説教を終わりたいと思います。「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」それこそが私たちの生活に現れる真の賛美ではないでしょうか?

神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き 私たちが主日ごとに教会に出席し、説教を聴く理由は聖書に記してある主なる神の御言葉を説教を通じて教えていただくためです。説教は説教者個人の知識の自慢でも、思想を広める手立てでもありません。説教は聖書に記してある主なる神の御言葉を現代の聞き手が理解できる言葉で解き明かし、数千年前の主の御心を教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要のため、御言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、また、聴いているだけに神の御言葉が歪曲される可能性がないとはいえません。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書のまことの解釈者になってくださり、説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は聖霊によって生命を得、今でも働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話しましょう。 1. この世の言葉とは異なる神の言葉。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55:6-8) 今日の旧約本文は、悪行と偶像崇拝の罪のため、罰を受け、滅ぼされたイスラエルの民を赦し、あらためて機会を与えようとする主の御心が書いてある箇所です。イスラエルは、神の祭司の王国と呼ばれる聖別された民族でした。他の国々のように武力で他国を征服したり、富で他国を圧倒したりするのではなく、ひとえに神の御救いの言葉を伝えるために生まれた、祭司長のような国として神に選ばれた民族でした。しかし、彼らは他の国々のように武力と富を求めました。その結果、イスラエル民族は真っ二つに分かれてしまい、その後にも、子孫の悪行と偶像崇拝のため、主なる神に用いられたアッシリアとバビロンといった帝国よって滅ぼされたのです。今日の旧約本文は、その滅びてしまったイスラエルへの主のお赦しと回復を呼びかける言葉です。 ご自分の民が失敗し、どうすれば良いか到底分からない時、主なる神は迷わずに主に帰ってきなさいと呼びかけられる方です。聖書を通して主は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。」世の常識によれば、罪を犯した人は、赦されにくくなります。犯罪者が釈放されても、再出発しにくい理由も、社会が一度失敗した人を簡単に許さないからです。しかし、主なる神は、この世の常識とは異なる御心によって、罪人を扱っておられることが、今日の旧約本文から分かります。主の御言葉(思い)は、この世の常識とは全く違います。失敗して二度と起きられないような絶望の時にも、主の御言葉は「新しい始まりが出来る」と語ります。この世は失敗した者を蔑んでも、主は世の思いとは違って新しい始まりを語られます。私たちがこの世の言葉ではなく、主の御言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。世の言葉は押さえつけて殺す言葉です。しかし、主の御言葉は立て直して生かす言葉です。世はもう終わりだと語っても、主の言葉はこれから始まりだと語ります。孤独で厳しい現代社会を生きる私たちに神の御言葉が必要な理由です。 2. 神の言葉は生きている。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)「言葉」は、ギリシア語で「ロゴス」です。この「ロゴス」は言葉を意味するとともに「考え、思い、理屈、思想、意見、説明」などの多い意味を持ちます。つまり、主の言葉としてのロゴスは、主なる神の「思い、理屈」とも言えるでしょう。ですから、先ほどの説教で主の言葉を主の思いとも言い換えることが出来るでしょう。ということで、新約聖書ヨハネによる福音書は、こう語っているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) つまり、御言葉が肉となって、私たちに来られた神の子イエス•キリストは、主なる神の思いと理屈を人間に完全に伝える主のロゴスとして私たちの間に来られたということです。だから、説教の時、主なる神の思いと理屈を完全に表されるイエス・キリストとその御言葉をありのままに伝えなければなりません。説教という道具によって伝えられる主の御言葉が人間に正しい生き方を示す主の道具だからです。 日ごろ、私たちは、主の御言葉の働きを敏感に感じながら生きるのが難しいです。聖書を読んでもその意味が分かりにくく、毎日御言葉を黙想しても圧倒されるほどの生活の変化を経験するのは難しいです。しかし、毎日の御言葉からの小さい教えによって、私たちの人生は少しずつ主の御心に気づき、その御心に従って生きるようになります。隣人を愛しなさいという繰り返す主の御言葉は、私たちの生活において隣人への配慮を思い出させます。常に祈りなさいという御言葉は、心の中に「祈らないと」という望ましい負担感を与えます。御言葉に隠れている主の思いと理屈は、私たちの生活でいっぺんに大きな変化を起こすことはなくても、小さな変化を起こし続ける、変化の呼び水になることはできます。そして、その小さな変化が溜まっていき、ある瞬間(神の時が来れば)、私たちの人生に力強く働き始めます。神の御言葉は生きており、力を発揮して働くからです。今すぐはかすかに感じられても、決定的な瞬間、私たちの人生に強く働いて著しい変化をもたらすのです。その時になれば、するどい両刃の剣のように、私たちの心と良心と思いを刺し通し、主の御前に悔い改めさせ、神の御心を推し量らせ、人生の変化にまでつながるようになるのです。 3。だからこそ、聴かなければならない。 そういうわけで、使徒パウロはこう語ったのではないでしょうか? 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) 私たちは御言葉を聴かなければなりません。御言葉が聞き取れるか、聞き取れないかを問わず、私たちは常に御言葉に耳を傾けなければなりません。今日、聞いた御言葉が、すぐに私たちの生活にあって働かないかもしれませんが、すぐに働かないといっても、御言葉の小さな一片一片が集まって、自分の人生を変える津波になって戻ってくるということを常に心に留めて生きていきたいと思います。御言葉は喜びのない者と絶望に陥っている者に、主なる神の思いが世の思いと違うということを、諦めたい者に新しい道が開かれているということを知らせる希望の道具です。今すぐ変化がなくても、いつか神の時になれば、大きな変化を起こす、主なる神の大事な道具なのです。御言葉は生きています。聖霊なる神が御言葉を用いられ、私たちの人生を美しく導いていかれるからです。ですから、私たちは、毎日、主の御言葉を読み、その御言葉に聞き従い、主の思いを待ち望みながら生きていかなければなりません。生きている神の言葉は、今日も私たちと共にあり、私たちの人生を正しい道へと導きながら生きています。

聖霊と教会

ハガイ書2章1-9節(旧1477頁) エフェソの信徒への手紙2章14-22節(新354頁) 前置き キリスト教会は、御父、御子、聖霊の三位一体なる神を信じます。すべてを計画される父なる神と、神と人を執り成してくださる御子イエス・キリストと、教会と世界を導いていかれる聖霊、三位が一つになって三位一体の神である方です。しかし、私たちには、おもに父なる神と御子にだけ集中する傾向があって、聖霊に対しては見過ごしがちではないかと思うようになります。私たちは普段、聖霊について、どんな認識を持っていますでしょうか。実際、御父や御子に比べて、聖霊への認識は薄くありませんか。毎年聖霊降臨節(ペンテコステ)を記念していますが、私たちの日常生活において、聖霊はどのように位置づけられていますか。聖霊なる神と、そのご降臨について話してみたいと思います。 1.聖霊のご降臨 主イエスは、十字架で救いを成し遂げられた後、3日目、復活されました。復活された主は40日間、12弟子と主の人々に現われ、ご自分の復活を証明され、福音の伝道を命じられ、昇天されました。それにより、弟子たちは主イエスが本当に復活の主であることを信じるようになりました。弟子たちは主の不在を恐れながらも、御言葉に従い、命令通りに行いました。その命令とは、主の約束つまり聖霊の降臨を待つことでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4-5) 生前の主イエスは、繰り返し聖霊の降臨を予告してくださいました。 使徒言行録によると、聖霊が来られれば、主の民が神に力をいただき、地の果てに至るまで主の証人になると記されています。そして、その結果、聖霊によって主の教会が打ち立てられました。 主の昇天後の10日間、弟子たちは主の約束、聖霊の降臨を待ちながら力を尽くして祈りました。ペンテコステの日、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らがいる家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で語り始めました。聖霊に満たされたペトロは、前のような恐れではなく、確信に満ちてイエス・キリストとその福音を堂々と宣べ伝えました。そして、その日、彼の伝道によって3000人がイエスを信じるようになりました。主の教会はこのように聖霊の降臨から始まりました。主イエスが繰り返して予告された聖霊の登場は弱い信仰を強め、不信を信仰に変え、また、主の福音を地の果てまで伝える原動力となりました。そのすべては、聖霊の降臨からはじめて実現したのでした。 2.聖霊の正体 聖霊はどのようなお方なのでしょうか。聖霊はヘブライ語では「ルーアッハ」ギリシャ語では「プニュマ」と言います。いずれも「風、息」を意味します。主なる神の霊である聖霊は、人間が触れることも、見ることもできない超越的な存在です。しかし、風が見えなくても存在するのと同じように、聖霊は主の民と共におられる方です。聖霊はまるで風のように人間のコントロールを超える方です。時には、そよ風のように優しい方で、時には嵐のように力強く働かれる方です。聖霊は創造の前から御父、御子と共におられた神で、創世記1章でも現れる方です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(倉1:2)また、聖霊は息のような方です。生き物が呼吸して生命をつないでいくように、聖霊はキリスト者に主による御言葉と信仰、生命を与えてくださる方です。聖霊を通じて生命の主であるキリストを知るようになり、信じるようになり、日常生活において主の御言葉に聞き従って生きるように導いてくださいます。 初めの混沌と暗闇と無秩序の世界に秩序と生命を与えてくださったように、聖霊は地上のキリスト者に信仰と生命と秩序を与えてくださる生命の息のような方なのです。聖霊は教会と切っても切りはなせない方です。御父と御子がなさる、すべての働きが聖霊によって成就します。イエスは頭、教会は体という教会のあり方も、主イエスと私たちを一つに結び付けてくださる聖霊のおかげで成立するのです。私たちの聖書も各時代の預言者たちが、聖霊の導きによって書き残された御言葉の記録なのです。聖書を読む時の悟りも、説教も聖霊によるものです。国籍が異なる人々が、一つの心を持って礼拝する理由も、聖霊によって一つになったからです。もし、聖霊の降臨が無かったら、2000年前に打ち立てられたキリスト教会は100年も経たないうちに消えてしまったでしょう。しかし、御父と御子から遣わされた聖霊のお導きによって、教会は2000年の歴史でも健在に続いてきたのです。 3.教会を保たせてくださる聖霊 今日の旧約本文は、この聖霊なる神が旧約時代にも主の民と共におられ、働かれた方であることを示しています。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:4-5) 聖霊は初めからおられ、旧約時代の神の民とも常にいてくださった方です。イスラエルという国が滅び、主がいらっしゃらないように感じられた時も、聖霊は移り変わりなくいつも民と共におられました。それでは、このように旧約時代から存在しておられた聖霊が、なぜペンテコステに再び臨まれたのでしょうか。これは、これまで不在だった聖霊が、新しく臨まれたという意味ではなく、常におられた聖霊がキリストの新約の教会を打ち立ててくださるために、改めて働き始められたと理解するのが正しいでしょう。初めから常におられた聖霊が、主イエスの十字架での贖いと復活によって建てられた主の教会を支え、保たせてくださることを示すために降臨という出来事を起こしてくださったということでしょう。 このように、新約の民、すなわちキリスト者に臨まれた聖霊は、聖書を通じて現れる主の御言葉を私たちに教えてくださる方です。また、キリスト者に「御心に聞き従おう」とする聖なる熱望をくださる方です。聖霊はキリストへの信仰をくださり、神と隣人への愛を起こしてくださる方です。このように主の教会がキリストを中心にし、しっかりと建てられるように、聖霊は教会を助けてくださる方です。そういうわけで、主イエスはヨハネによる福音書を通じて「助け主」聖霊が来られると力強く予告してくださったわけです。聖霊なる神は、時空間を越えて、いつまでも、キリストの民である教会と共にいてくださるでしょう。したがって、主イエスの教会がある場所には、かならず聖霊が一緒におられます。「(教会は)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) 締め括り 聖霊なる神は絶対に遠くにおられる方ではありません。聖霊は常に私たちの中におられ、私たちが感じるにしろ、感じられないにしろ、私たちを導いてくださいます。ペンテコステ(聖霊降臨節)を迎え、私たちの間におられる聖霊なる神を憶え、御父、御子だけでなく、聖霊まで、三位一体なる神が私たちの主であり、私たちを守ってくださる方であることを信じ、感謝をささげる志免教会になることを祈り願います。

主に栄光を帰す生活

歴代誌上16章28-29節 (旧651頁) ローマの信徒への手紙11章34-36節(新291頁) 前置き 聖書には、主に栄光を帰すという言葉がよく出てきます。日本ではほとんどないかもしれませんが、アメリカや韓国のようなキリスト者の多い国では、年末の授賞式などで「この栄光を主に帰します。」というふうの感想を言うキリスト者の俳優や歌手もいます。私たちもキリスト者として生きながら、一度以上、主に栄光を帰すという言葉を口にしたことがあるでしょう。主に栄光を帰すというのはいったいどういう意味でしょうか。そして、主に栄光を帰す生活とは、どんなものなのでしょうか。今日は「主に栄光を帰す」という言葉の意味とその生き方について話してみたいと思います。 1. 栄光を帰すという言葉の意味 「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて御前に近づき、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」(歴代誌上16:28-29) 若いころの数多くの逆境と苦難を乗り越え、堂々とイスラエルの王になったダビデは、自分の宮殿を建てた後、一番最初に主なる神の幕屋と掟の箱を置く場所をもうけました。彼は主の掟の箱を自分の宮殿に運びながら、心から喜び踊りました。その時、ダビデは先ほどの讃美を歌いました。「主に栄光を帰せよ」と繰り返し歌いました。今までの危険の中で自分の歩みを守ってくださり、イスラエルの王に立たせるという約束を守ってくださった主なる神に最高の賛美をささげようとしたダビデの真心をこめた歌だったのです。ヘブライ語で栄光の語源は「重い」に由来しました。 漢字語のように栄誉ある光を意味するより、軽くなく厳粛で威厳のある価値により近い表現です。当時、ヘブライ文化では鉄のような重い金属が大きな価値を持っていたと言われます。その重さによって、その価値がさらに上がったそうです。ですから、「重いものは価値あるもの」という認識が一般的だったようです。そういうわけで主なる神の栄光も重いものではないかと思ったわけです。この世で一番重くて価値あるものが、主なる神の栄光であると思ったのです。 主なる神の栄光は、ひとえに主だけのものです。主はその栄光を誰とも分けられない方です。いや、分けようとしても、その栄光を受けて自分のものにすることができる存在は、この宇宙に存在しません。したがって、この主の栄光は、唯一主なる神だけが持つことができる栄誉なのです。主だけが持つことの出来るものを主に返すという言葉、罪によって汚され堕落したこの世の中で、数多くの偶像と自らを神とする数多くの罪人の間で、ただ、聖なる神だけを主と崇め、その方だけを万物の主として認めること、それこそが主に栄光を帰す人生のあり方ではないでしょうか。したがって、私たちの人生において、主に栄光を帰すということは、主なる神が主として完全におられるように、自分の人生のすべてを主中心に生きることを意味します。この世は、主なる神を軽んじます。主を無視し、認めようとしません。特にキリスト教の影響が著しく貧弱なこの日本ではなおさらです。しかし、私たちは主イエスのお導きと恵みによって、主の言葉を聞くようになり、御言葉によって主なる神という存在を認識し、信じるようになりました。それによって、私たちは主だけが私たちの真の主であり、父であり、私たちのすべてであることを知るようになりました。その主なる神の御言葉に従って御心のままに生きること。「主に栄光を帰しながら生きる人生」は、その主の御言葉に従順に聞き従うことから始まるのです。 2. 主に栄光を帰す生活 したがって、主の栄光は「主なる神が主らしくおられること」とも言えるでしょう。主なる神が主らしくおられることは、この世のすべての被造物が創造主である神を主に認め、ほめたたえることでしょう。自分の人生において、主なる神だけを唯一の主として認め、ほめたたえ、御言葉に従順に聞き従うことは、最も現実的な栄光の帰し方でしょう。マタイ福音書には、このように記されています。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16) 主の御言葉に従順に従う私たちの生活が、世の人々に光のように映る時、主なる神を知らない人々が  私たちの生活を見て、主の存在に気づき、認め、栄光を帰すようになるでしょう。御父は創造主として、御子は救い主として、聖霊は助け主として認められ、ほめたたえられなければなりません。私たちは全生涯を通して、三位一体なる神を自分の主に認め、その方の御言葉に従い、主の御心通りに生きなければなりません。そして、そのような私たちの人生に現れる良い影響によって、私たちの隣人も主の存在に気付き、認めるようになるでしょう。私たちにできる「主に帰す最高の栄光」は、まさにそのような人生からではないでしょうか? しかし、ある人々は自分が何かを情熱に行い、良い結果を出し、他人より優れた者になることによって、主に栄光を帰せると誤解します。ですが、主は人間に栄光を帰してくれと、栄光を要求する方ではありません。主は被造物がなくても、彼らの助けや献身がなくても、十分主自らの栄光によって満ちておらえる方です。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:33-36) 今日の新約聖書の言葉のように、いかなる被造物も主を助けることが出来ません。したがって、私たちは自分の努力と行為を通して、主に栄光を帰そうと思ってはなりません。私たちは、ただ主にいただいた自分の人生を主の御言葉のもとに、謙虚に生きていくだけです。だから、主に栄光を帰そうという熱心と努力が、主に栄光を帰す手立てになるわけではありません。自分に託された人生を忠実に生き、主にあって感謝と喜びに生きる時、その平凡な日常がすなわち主に栄光を帰す人生になるのです。最も平凡な信仰の生き方が、最も望ましい、主に栄光を帰す人生になるということです。 締め括り 仕える者の心構え この説教の後、長老と執事の任職式があります。長老と執事になるのに負担を感じる方もおられるかもしれません。長老や執事になると、何か他人より優れた者にならないととか、他人よりもっと仕えるべきではとかの気持ちで、長老や執事になるのをためらう方々もおられるでしょう。しかし、今日、お話ししましたように、私たちの行為や努力によって主が栄光をお受けになるわけではありません。教会に仕える者は、いつもの通りに、主への愛と感謝とで、安らかに自分に託された務めを素朴に果たすことで充分です。もっと頑張らなければ、もっと優れていなければという気持ちのため、自分を責めたり、苦しめたりしないようにしましょう。いったい誰が完璧に教会に仕え、主に仕えることが出来ますでしょうか? ただ、自分に任されたことを自分に出来る範囲で、最善を尽くすことで、主なる神は喜ばれるでしょう。だから、すべてを主に委ね、一日一日を喜びに生きる長老、執事になってください。そして、長老、執事でない方々も、同じく主を愛し、御言葉に従う人生を送り、感謝と喜びの人生を生きましょう。牧師、長老、執事、一般信徒を問わず、信仰生活に臨む心構えは同じだからです。重要なのは務めではなく、信仰の心です。主の御言葉に従い、主を愛し、兄弟姉妹と隣人を愛する人生こそ、主が望まれる真の栄光を帰す人生です。 そのような人生を生きる兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

バベルの塔を考える

創世記11章1-9節 (旧13頁) 使徒言行録2章1-4節(新214頁) 1.バベルとは何か? 私たちは聖書を読みながら、バベルという言葉をよく目にします。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅ぼしたバビロン、ローマ帝国の首都ローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録では神に逆らう悪の勢力と、その支配をバビロン比喩します。(バビロンとバベルは語源が同じ) バベルは古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく、神々の家という意味のように古代人は、強力な神々の加護のもとで繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたでしょう。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混乱」を意味します。アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混乱」という意味に変わったのでしょうか?今日の本文を通じて、その理由についてのぞき見ることができます。「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9) バベルが混乱と呼ばれるようになった理由は、主なる神がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混乱にさせ、散らされたからです。 大昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれてもない時から、中東の国々には、神々を拝むための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国を打ち立てました。彼らは神の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちが主導する世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がり、神のみ旨に適って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、主なる神に背き、自分たちが中心となり、他者を支配する巨大な帝国を作ろうとしました。彼らはバベルという名前のように、神々の家という意味の神殿に異邦の神々を閉じ込め、自分たちの必要に合わせて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を建てた彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることをたくらんでいたのです。つまり、バベルとは、主なる神から積極的に離れ、自分が神のようになろうとする、神に逆らう人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混乱を与えられ、バラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう存在の代名詞、神の反対側に立つ悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、巨大な塔を意味するものです。多くの人がこれを古代中東の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名のもとに、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4) 彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積み上げました。創世記4章を読むと、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。旧約聖書において神の名を呼ぶということは「神に礼拝を捧げる。」という意味です。ということで、推測できるのは、今日の本文に出てくる「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になりたがっていたという意味なのでしょう。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせて塔を築き、自分たちも神のように崇拝される神のような存在になることを望んでいたということでしょう。彼らは神を仕えるべき対象と思わず、ただ自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を建て上げるということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界をゴムまりのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行く陰府があり、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建て上げて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って、世界の外の神々のところに入ろうとした願いが秘められています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かるのは、人間には神のようになり、自分勝手に生きていこうとする本能があるということです。人間には他人の上に君臨しようとする望ましくない性質があります。金持ちは貧乏な者を、権力者は弱者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そんな本能がないでしょうか?自分より弱い者たちをおとしめ、自分よりも強い者には屈服する姿が、もしかしたら、私たちの心の中にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示しているのです。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すことなのです。 3.バベルの塔の結果 主なる神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神が初めのアダムと洪水後のノアに「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由が、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいという意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を新約聖書で見つけることができます。 「イエスは近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられた主イエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。今まで人類が罪のため、成し遂げられなかった全世界に広がって神を伝える人生を、主イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」という約束によってはじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったのです。しかし、バベルの人間たちは、広がり、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていたわけです。 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受け、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は、神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きい違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見守っておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積み上げる者は、昔のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、私たちは自分を高めるエゴという塔を建て上げるより、神を高め、伝え、隣人を助け、互いに愛しあうために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれた主イエスを思い起こします。主は神そのものでおられましたが、地上の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。(フィリピ1:5-11) バベルの罪人たちは塔を建て上げ、天を欲した反面、神であるキリストは、むしろ地上の人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低くし、誰よりも低いところから愛を実践されました。その結果、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録には、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記してあります。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々が言葉の混雑を経験したことと反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。私たちの心の中に、傲慢なバベルのような性質はないか、自分のことを顧みて、主の御前に謙虚に生きる民になることを願います。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

あなたの父と母を敬え

出エジプト記 20章12節(旧126頁) エフェソの信徒への手紙 6 章1-4節(新359頁) 前置き 去る5月11日は母の日でした。もともと先週の主日、この説教をしたかったのですが、私の留守のため、今日することになりました。約一ヶ月後の6月15日は父の日でもありますので、今がこの説教にちょうど良い時期ではないかと思います。今日は十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」とエフェソの信徒への手紙の言葉を通じて、親を敬うことについて話したいと思います。 1. 約束を伴う最初の掟 「父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができるという約束です。」(エベソ6:2-3) 使徒パウロはエフェソ教会に手紙を書きながら、末尾にキリスト者の望ましい生き方について語りました。その中に、子供たちのあり方についても助言しました。それは「父と母を敬え」でした。使徒パウロは旧約聖書の十戒の言葉を引用して両親を敬わなければならないと言いましたが、それは約束を伴う最初の掟であると定義しました。今日の旧約本文は出エジプト記20章(十戒)の12節だけですが、十戒の全文を読み切ると、唯一第五戒のみに「そうすれば」という言葉がついているのが分かります。主なる神がこの第五戒だけに「この戒めを守れば、あなたに祝福を与える。」と条件をつけられたということです。残りの戒め全てが重要ですが、神は第五戒を特に大事にされたようです。神が最初造られた共同体は、アダムとエヴァという最初の家族でした。残念なことに、彼らは罪を犯してしまいましたが、それでも神は二人に子供をくださり、家族を成させてくださいました。神は家族という共同体を人類のもっとも基礎的な単位として立ててくださったのです。 この「家族」という共同体は神が初めの人類にくださった神を礼拝する「最初の教会」です。そして、神は主の教会に秩序をくださり、それを求められる方です。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」(第一コリント14:33,40) 私たちが父と母を敬わなければならない理由は、単に礼儀作法や慣習のためだけではありません。主なる神は無秩序に秩序を与えられる方です。創造は無から有を創り出すことでもありますが、無秩序に秩序を与えることでもあります。したがって、主なる神の最初の教会である家族は、神が造られた秩序によって支えられなければなりません。つまり、父母を敬うことは神の秩序に聞き従うことと同然です。親への敬いは、神の摂理に積極的に従うことです。ですから、親を敬うことは神を敬愛することの一部であるとも言えるでしょう。十戒において、神は公に神の秩序と摂理に従う者、すなわち父母を敬う者には、ご自分による美しい地での豊かな長生きを約束されたのです。人が親を敬うことは神の祝福を得る最高の道であることを、聖書は私たちに教えてくれるのです。 2. 父母を敬うのとともに考えたいこと – 子どもへの愛 ところが、ここで問題があります。今、この説教を聞いておられる皆さんの中には、ずっと前に両親を亡くされた方々が多いはずです。すでに亡くなった両親を生き返らせて敬うことは出来ません。それでは、今の皆さんにおいて「あなたの父母を敬え」という戒めは、どのように守ることができますでしょうか。最も基本的に敬うべき対象は、すべてのものを造られた、万物の造り主です。そして、私たちは、その造り主なる存在が三位一体なる神であることを知っています。「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4:6) ここで「父」とありますが、それは男性の父親のことではありません。神は男でも女でもない方です。神は真の父であると同時に真の母でもある方です。要すると父と母という性別を超えた真の親ということです。私たち皆のことを誰よりもよく知っておられ、ご計画どおりに造られた方です。私たちの真の親であり、万物の造り主である方です。ですから、すでに両親を亡くし、70代,80代になった皆さんも親を敬うことができます。それは神を愛し、御言葉に聞き従うことを望んで生きることです。 「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソ6:4) 新約の本文は、もう一つの父母を敬うに並べる教えを語ります。すでに両親が亡くなった方々は、神を愛し聞き従うことと共に「神がしつけ諭されるように、子供を育てること(正しい養い)」で両親を敬うのに代わることができるでしょう。子供を正しく養い愛することは社会的なマナーを身に付けさせ、良質の教育をすることでもありますが、キリスト者においては何よりも御言葉によって、造り主なる神とキリストの贖いと救いと聖霊のお導きとを教えること、つまり、神へ信仰を教えつつ養うことです。しかし、すでに子供が成人して信仰の養いが出来ない場合、子供への日ごろのやさしい応対や言動によって「キリスト者である両親は私を尊重し愛してくれる。私の両親を通じて神という存在を感じる。」のように、キリストの香りを漂わしながら生きることによって、子供を愛することが出来ます。本文に「子供を怒らせてはならない」とありますが「怒る」のギリシャ語の意味は「一緒に怒りあう。激怒させる。」です。子供が親のため、怒りを感じたり、親が子供の心配になったりすることを意味します。このように「親を敬うこと」のまた一つの形は、子供への信仰の養いと尊重、そして愛とも言えるでしょう。 3. 神と隣人への愛 十戒の前半の四つの戒めは、神に対する民の生き方についての教えです。また、後半の五つの戒めは、隣人に対する民の生き方についての教えです。真ん中の第五戒めは、神と隣人を包括する民の生き方についての教えです。主イエスは十戒全体の精神について、このように言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37-39) この言葉は十戒の大命題である神への愛と隣人への愛について語っています。そして、第五戒は、真の親である神を愛し、最初の隣人である自分の父母を愛しなさいと力強く教えています。したがって、第五戒は神と隣人への愛を共に訴えている十戒のかなめ石のような戒めであるでしょう。そういうわけで、神は第五戒を祝福の約束を伴ってまで大事になさったわけではないでしょうか? キリスト教会の中でも保守的な教会と進歩的な教会が分かれます。前者には神への礼拝と教会の維持を優先にする傾向があります。後者には隣人への愛の実践のため、社会運動を優先にする傾向があります。しかし、私たちは神と隣人への愛をバランスよく調節し、信仰生活に臨むべきです。それが第五戒が私たちに教える教訓ではないでしょうか? 前置き 赤ちゃんが生まれ、最初に愛するようになる相手は断然母親でしょう。しかし、その子が育ち、人生を生きながら最も親密に、時には軽んじやすく思う存在も母親でしょう。母は自分と一番近くて気楽な存在だからです。しかし、その母もいつかはこの世を去ることになるでしょう。自分のそばにいるときは、気づかなかったが、遠く離れたのをしみじみと感じてはじめて、母の大事さに痛感するでしょう。先週の主日は母の日でした。母という存在、その大事さについて顧みる有意義な日だと思いました。主なる神は親を敬うことを何よりも大切な人間の価値として立ててくださいました。目に見える親への愛によって、目に見えない真の親である神への愛をお確かめになるでしょう。親への愛を憶えつつ、神と隣人へ愛をも顧みることを願います。

私もあなたを罪に定めない。

ヨハネによる福音書 8章1-11節(新180頁) 旧約聖書を読むと、イスラエルには、3つの祭りがあったと言われます。除酵祭、七週祭、仮庵祭がそれらです。それらの祭りはエジプト帝国の抑圧からイスラエルを解放し、長い荒野生活で守ってくださった主なる神を記念する特別な日でした。イスラエルの男は、それらの祭りを守るためにエルサレムの神殿に訪問し、生け贄を捧げました。イスラエルの民は、それらの祭りを通して、主なる神についての知識を得、記念しながら、主の御心について学びました。今日の新約聖書の背景は、それらの中の仮庵祭に起こった出来事です。 1.仮庵祭の二つの行事 今日の新約本文の背景は仮庵祭の終わりごろでした。ユダヤ人の文献によると、この仮庵祭の間には、2つの特別な行事があったそうです。一つ目は、祭司の庭で行われた水の祭りでした。祭司の庭とは、焼き尽くす献げ物の祭壇のある神殿の前庭のことです。水の祭りの際、人々はシュロの木の枝、ヤナギの枝などを振りながら、主なる神のお赦しを喜びたたえました。また、シロアムの池から汲みあげた水でいけにえの祭壇を洗い清めました。これは雨乞いの祭りとしての機能も兼ねていました。当時のユダヤ人は、このような祭りによって罪を洗い流し、命を与えてくださる主なる神のお赦しを憶えました。 二つ目は、祭司の庭の隣にある女の庭で行われた火の祭りでした。先の水の祭りが終わると場所を移し、女の庭の燭台に火を灯し、闇に光を照らす火の祭りを行いました。老若男女が集まって火をつけ、神の御前で踊ったり歌ったりしながら、この世の光でおられる神を讃美したのです。「若いときの罪を赦される者には福あり、かつて罪を犯したが、今、赦される者には福あり」ラビの指導に従って、詩編の歌を歌いつつ、暁となって鶏の鳴き声が聞こえてくると、自分の罪を赦してくださった神に感謝の祈りを捧げたと言われます。これらの行事によって、イスラエルの民はの仮庵祭を過ごし、主の赦しを感謝しました。 2.人を赦さない罪 ユダヤ人は、この仮庵祭の水と火の祭りを通して、水のように罪を清めてくださる神、火のように闇に光を照らしてくださる神を憶えました。仮庵祭の一週間、祭司の庭で行なった水の祭りと女の庭で行なった火の祭りを通して、人々神の愛と恵みを改めて確かめたのです。かつて、主なる神に逆らった罪のため、バビロンに滅ぼされてしまったイスラエルは、奴隷に過ぎない民族になってしまいました。しかし、彼らが最も弱くなっていた時、神は彼らを再び呼び出してくださいました。イスラエルは神の赦しと愛とによって、自由を得、イスラエルに帰ることが出来ました。その後、イスラエルの指導者たちは人々に、先祖の罪について、イスラエルを救ってくださった神の愛について、罪を赦し、新しい命をくださった主について絶えず教えました。 しかし、今日の本文では、夜どおし、神に感謝し、主の恵みをほめたたえた人々が、突然変わることが起こります。「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(ヨハネ8:3-5)宗教指導者たちが姦淫の罪を犯した女を捕らえてきたとき、人々は彼女を打ち殺そうとしました。数時間前まで、神の命の水と恵みの火を喜び、神の愛と赦しに感動していた彼らが、罪人については、赦しも、愛もなく、ただ、彼女を殺すために憤っていたのです。神が仮庵祭を通して、彼らに赦しと愛を教えてくださったのに、彼らは自分への赦しだけに感謝し、他者への赦しと愛という最も大事な教えは見落としてしまったのです。神の赦しが姦淫した女性には適用されないと考えたからです。 3.赦してくださるイエス・キリスト。 その朝、主イエスが神殿に来られました。その時、宗教指導者たちは姦淫した女を連れて殺気立った群衆とともにイエスのもとに来ました。神殿での一週間、仮庵祭によって神の赦しと愛を憶え、喜んでいた彼らが姦淫した女性に対しては、いかなる哀れみもなく、ただ彼女を殺すためにイエスの前に来たのです。仮庵祭の祭りは彼らの心に一体何を残したのでしょうか?確かに姦淫した女は罪を犯しました。しかし、その日は神の恵みを感謝し、神と人への愛を誓った祭りの最後の日でした。仮庵祭そのものが荒野で民を導き生かしてくださった神を記念する祭りです。彼らは自分の罪の赦しを感謝しながらも、他者の罪は赦していなかったのです。イエス・キリストは一言で仮庵祭の精神を示されました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7) 私はイエスが言われた一言「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」の前に、このような長い言葉が隠れていると思います。「私は、去る一週間、仮庵祭を過ごしながら、あなたがたに赦しの喜びを与えたあなたがたの神、主である。私は昔からあなたがたの罪を赦してきた。だから、私はまた、この女の罪をも赦すのだ。私はこの女を罪に定めない。この女も私に赦されるべき私の民であるから。それにもかかわらず、この女を殺したくなら」「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」仮庵祭の水と火の祭りを通して民への赦しを教えてくださった神は、御子イエス・キリストの言葉を通じて、姦淫した女を赦してくださいました。主の御言葉を聞いた人々は、良心に責め苛まれ、女を責めることが出来ませんでした。そして、彼らはみんないなくなりました。 締め括り 仮庵祭、イエスはイスラエルの祭りに隠れている真の律法の精神を教えてくださいました。それは、罪赦されて喜ぶことだけに満足してはならないという教えでした。主イエスは姦淫した女にも同じように教えてくださいました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」出エジプト後、40年間、荒野で民を守ってくださった主に感謝するなら、命の水の源、世の光として、罪を赦してくださった主を愛するなら、律法をよく守って生きたいなら、自分が神に赦されたことを忘れず、同じく他人の罪をも赦し、愛を実践しながら生きなさいということです。今日の物語は赦しと愛こそが、主なる神を崇める者が持つべき精神であることを教えています。