良い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節(旧1352頁) ヨハネによる福音書 10章1‐21節(新186頁) 前置き キリスト教は、御子イエス・キリストを頭として打ち立てられた宗教です。この世の誰もキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神に遣わされた唯一のメシアとして崇められる宗教なのです。父なる神が、このキリストだけを、唯一の世界の統治者として立ててくださり、いつか、世の終わりの日に、このキリストは戦争に勝利した王の姿で、善と悪を審判するために来られるでしょう。つまり、主イエスは私たちの思いより、さらに威厳と権能を携えた畏れるべき方であるということです。これが伝統的な終末のキリストのイメージなのです。しかし、新約聖書は、変わらずキリストを、羊を愛し守る穏やかな良い羊飼いとして想起させ、私たちに慰めと平和を与えてくれます。イエス・キリストは、世の誰よりも強力で偉大な方ですが、しかし、誰よりも良い羊飼いであることを忘れないように思い起こさせるのです。今日は、良い羊飼いについて考えてみましょう。 1.良い羊飼いイエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い羊飼いです。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導き、青草の原に休ませてくださる愛に満ちた良い羊飼いです。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分だけのために生き、自分のためなら他者が死んでも気にしない邪悪な世で、ご自分の命をかけて、羊を愛してくださる真の羊飼いです。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11) ところで、このイエスはご自身が羊飼いになってくださると同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな羊飼いとしての務めを与えられます。今日の旧約本文に羊飼いとありますが、これは、イスラエルを治める王や貴族を指し示す言葉です。彼らは民を愛さず、自分の欲望だけを追い求めました。主はそんな彼らに滅びを言われました。良い羊飼いイエスは、ご自分の命を捨ててまで、民を愛されましたが、イスラエルの指導者たちは、自分の名誉、権威、富だけを重んじ、貧しい民には何の興味もなかったのです。神は、ご自分の民の髪の毛までも数えられるほど、民を愛される方です。だから、苦しんでいる民のうめき声と涙に深い関心を持っておられます。そのような神の御心を理解しようともせず、かえって民を放っておいた指導者たちの罪で、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまったのです。羊を愛さず、打ち捨てた指導者たちは、心深く羊を愛された主によって裁かれ、滅びてしまいました。 私たちの教会は、イエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、口となって、イエスが愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、口として生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者にとって、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない何よりも大事な務めです。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。真の羊飼いであるキリストの教会を成す全ての者は、イエス・キリストに羊飼いとしての務めを与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない私たちの隣人も、失われた羊と思い、福音を伝え、愛をもって仕えるべきです。ただイエスを信じて、祝福されて、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの指導者たちと違いがないでしょう。真の羊飼いイエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私たちの心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか考えてみるべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはただお独りイエス・キリストだけです。この世の数多くの教会には、時々、こんな人たちが見られます。「自分は羊飼いとして選ばれた。」口先だけでは、牧師あるいは長老と言いますが、まるで、自分が教会の所有者となっているかのように振舞う人々がいるということです。しかし、厳密に言って、牧師も長老も、羊の群れの中で、説教や奉仕の務めを預かっている、また違う羊にすぎないのです。つまり、牧師も、長老も、執事も、平信徒も、皆、主の羊でありながら、兄弟姉妹に仕える小さな羊飼いであると考えるのが正しいでしょう。ただ、牧師は、神学、聖書について専門的に勉強したため、説教の時は尊重されるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊でしょう。だから、牧師も、主の羊として、主なる神の声を謙虚に伺わなければなりません。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それは、「イエス・キリスト」による聖書の言葉でしょう。聖書を引用しても主と関係ない教えは多いです。イエスが排除されたまま、聞こえてくる全ての愛の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意すべきです。統一教会、エホバの証人など、唯一の救い主なるイエスを軽んじて、自分らの教理を教える全ての聖書の教えは、偽りです。彼らは盗人であり、強盗です。これは私たちだけが真実だという独断ではなく、彼らが正しい救いの道から離れ、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。「はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞こうとします。 「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 」(ヨハネ福音10:10)私たちは主の羊として主の御言葉を聞き分け、主イエスだけによって神に接しなければなりません。イエスのない言葉は人間の言葉にすぎないからです。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個プロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが戦前の日本のキリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という牧師でした。彼は旧日本キリスト教会の統理であり、東京神学校の理事長を歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は日本帝国の軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であると言いました。また、彼の強要により、日本の教会は神社参拝を承認しました。それだけではなく、植民地の教会も彼の主張に屈し、神社参拝に加担しました。富田満は、戦後、教会の命運のために仕方がなかったと言い訳するだけで、まともな懺悔と謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師、神学教授として働き、1961年に亡くなります。今、彼を尊敬する人は日本の教会にいますでしょうか。 一方、韓国ソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。曾田嘉伊智という伝道者の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で孤児院を設立し、面倒を見た人です。彼は朝鮮の独立と朝鮮人のために奉仕した人ですが、朝鮮人には侵略者として、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰によって、強く忍耐し、全ての誤解を乗り越え、朝鮮人の愛を受けた人です。彼は真の平和を望み、朝鮮を助け、日本を宣教しようという一念で生きました。朝鮮人たちは、彼に感動し、信用しました。日本の敗北後、北朝鮮地域から引き揚げようとする日本人たちが、ロシア軍に攻撃される事件ありました。当時、近く教会で伝道師として働いていた曾田嘉伊智は教会堂に信者、迷信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は民族を問わず、主の御言葉のように人を愛したのです。戦後、彼は日本に帰り、伝道活動をして、後韓国に戻って1962年主に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。二人は主の裁判所で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは主なる神の領域ですので評価はしませんが、聖霊なる神が私たちの心に答えておられるでしょう。今日の旧約本文の「羊を養う」の「養う」の原文は「面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。」などの意味を持っています。私たちは主イエスの羊です。真の羊飼い、主イエスは、私たちを養ってくださる方です。だから、主は、私たちを守り、愛する友たちにしてくださいます。その主に愛される私たちは、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして生きなければなりません。主から愛された私たちは、今や、他者を助け、愛する友たちになる義務を持っています。主の羊であり、小さな羊飼いである私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちに祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、主に導かれる私たちでありますように。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなく与えられますように祈り願います。

使徒信条(3) 人となって苦しんだ神の子

イザヤ書53章5節 (旧1149頁) ヘブライ人への手紙13章12節 (新419頁) 前置き 最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の基準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで、苦しみを受け、十字架につけられ」今日は、御子イエスの誕生、苦難について考えてみましょう。 1. 女(乙女マリア)から生まれた神の子 「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ」日本キリスト教会の大信仰問答は、イエス•キリストを「真の神にして、真の人である方」と定義しています。これは宗教改革の遺産を受け継いだ改革教会なら、どこの教会でも共通して告白する「イエスのアイデンティティー」です。改革神学は語ります。「イエスは完全な神である。また、イエスは完全な人である。」古代ギリシャ神話のように、神と人間が半分半分混じった存在、神でもなく人間でもない「半神」ではなく、完全な神でありながら、また完全な人でもある存在ということです。そういう理由で、イエスは、神の御心を誰よりもよく知っておられると同時に、人間の状況をも誰よりもよく知っておられるのです。イエスが神と人の間の仲保者となられた理由は、このように神でありながら人であるからです。今日、私たちが告白した「処女マリアから生まれ」という告白は、このような完全な神でありながら、完全な人でもあるイエスを定義する最も重要な条件の一つです。 私たちはイエスが、ある日突然、人間になりたがって人間になることを決められた方ではなく、普通の子供たちのように人間の母親から生まれ、育ち、働いて、人間の喜怒哀楽をことごとく経験しつつ生き、時が来て公生涯を始められたことを忘れてはなりません。 ただし、イエスは普通の人間のように罪を持った方ではありませんので、特別な方式でお生まれになりました。代々、罪の影響から自由ではなかったアダムの子孫ではなく、創造の時の罪のない人間の姿そのままに生まれるために人間の種ではなく、聖霊の特別な恵みによってお生まれになったのです。ですから、罪もなく、欠点もない全く新しい人間、つまり新しいアダムとして、この世に来られたのです。「女から生まれた」という言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、先に申し上げたように、イエスは母親の胎から世の中に生まれ、人間の感情と罪と弱さを知り、自ら人間を代表する存在になるために人間そのものへの完全な理解をお持ちになったということ。だから、イエスは私たちの弱さを責める方ではなく、憐れんで助けてくださる方だということです。二つ、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15) いわゆる原始福音と呼ばれる女の子孫が悪魔の権勢を打ち砕くだろうという、はるか遠い昔からの神の約束が、処女から生まれたイエスの出来事で成就したということです。神の救いはいくら時間かかっても、必ず成し遂げられることがわかります。 2. 苦難を受ける。 そして、もう一つ重要なことは、イエスが苦難をお受けになったという事実です。 イエスは真の神ですが、肉体を持って人間として来られるようになりました。なぜ、神であるイエスが肉体を持たなければならなかったのでしょうか? 「神は霊である。」という有名なヨハネによる福音書の御言葉がありますが、この御言葉のように神は霊であります。「霊」とは人間のような限界と弱さのない、超越的な存在のことでしょう。しかし、御子なる神イエスは、自ら肉体を持って神であるにもかかわらず、人間として来られました。それは人間の弱さと苦しみを共有できるようになったということでしょう。イエスが人間になって人間のところに来られた理由は、罪によって堕落した人間が受けるべき神の厳しい裁きと刑罰を代わりに担うことができる条件を満たされるためです。つまり、御子が人になった理由は、神でありながら人間であって、人間を代表すると同時に罪人が受けるべき死の裁きを、肉体を持ったイエスが代わりに受けてくださるためです。もし、イエスが肉体を持たれなかったら、霊である神、御子は人間に代わって十字架の刑罰を受けることはできなかったでしょう。それなら人間の救いは絶対に成し遂げられなかったでしょう。人間の弱さを直接経験されたイエスが、ご自分の体を苦難に投げつけ、人間に代わって刑罰を受け、その償いによって人間を救うことができるようになったのです。 しかし、私たちは「肉体の痛みや苦しみ」だけをイエスの苦難だと考えてはなりません。すべてを超越する存在である神が、明らかな限界の人間の姿で、この世に来られたという自体が苦難の始まりなのです。神の国で父と子と聖霊が、お互いに尊重し愛しあう完全なお交わりの中から、御子が被造物の姿、すなわち人間になって、この世に来られ、その御子なる神を罪人たちに代わる贖罪の犠牲にするために、この世に人として生まれさせた、その始まりからが、すでに三位一体、何よりもイエスの苦難の始まりであることを憶えるべきです。そして、罪によって汚された世界は、神を愛していません。使徒信条はそんな世の有様を「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という言葉で表現しました。ポンティオ・ピラトという特定の人だけがイエスを苦しめたという意味ではなく、ポンティオ・ピラトと象徴されるこの世を支配する悪がイエスを嫌い、反対するということです。神の国で毎瞬間、ほめたたえられた御子なる神は、この世に来られてからは、憎しみと敵対の中で生きなければならないようになりました。したがって、イエスが神を憎む、この世に来られたこと自体が、すでに苦難の始まりだということを憶えましょう。 締め括り 愛するから十字架に。 それでは、イエスが肉体を持って、ご自身を憎むこの世に来られた、いちばん大事な理由は何でしょうか? 「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。」(ヘブライ13:12) それは人間になった神、イエスの犠牲により、罪に苦しんでいる罪人たちを赦され、救ってくださる限りのない愛のゆえです。創世記で神がアダムとエヴァをエデンの園から追い出された時、私たちは神の裁きだけを見受けやすいです。しかし、神は被造物の真の父であることを忘れてはなりません。人間に罰を下された時、神も悲しまれたのではないでしょうか? 何があっても、神の最高の被造物である人間を救うという、主の救いの計画から神の御心が伝わってきます。父なる神は人間を愛し、ご自分の独り子を十字架の犠牲へと導かれました。イエスは、その父なる神の愛を誰よりも深く知っておられ、イエスもまた人間を愛し、ご自分の命をかけられました。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) イエスが人間になられたこと、苦難を受けて亡くなられたこと。そのすべては、まさに罪によって滅ぼされるべき人間を憐れんでくださった神の限りのない愛に基づきます。私たちはその神の愛と御子の贖いを忘れてはなりません。

使徒信条(2) – 神の子を信じる。

詩編2編7〜9節 (旧835頁) ヨハネによる福音書3章16節 (新167頁) 前置き 私たちは、ほぼ毎週の日曜礼拝の時、使徒信条を告白します。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティを守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちは、この使徒信条を通じて、神とはどなたなのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、使徒信条その2回の時間で、神の子であり、私たちの信仰の源であるイエス·キリストへの告白を学びたいと思います。 1. 神の独り子 「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 詩篇2篇は、詩篇の中でも代表的な「メシアの詩」と言われます。メシアとは「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、旧約時代のイスラエル王国にあって、王、預言者、祭司が油に注がれて働きはじめる代表的な務めでした。その中でも特にイスラエルを治める「王」が、メシアとしての象徴性を強く持っていたようです。そんな意味として、詩編2編はイスラエルの王への詩でもあります。しかし、学者たちはこの詩編2編をメシアや王への詩だけに限らず、未来に到来する真のメシア・イエスを予告する、予言の特徴も持っていると解釈します。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」(黙示録11:15) そしてキリスト者は、以上のような、いくつかの新約の言葉に基づき、イエス·キリストこそ、神が選ばれた真の王とメシアであると告白します。ですので、私たちはイエスが真の王、メシア(ギリシャ語でキリスト)であると信じています。 私たちが信じるイエス・キリストは、今日の旧約本文の言葉のように、偉大で唯一の真の神の子です。キリストは神の子ですが、実はキリストご自身も神であります。私たちが信じる、主なる神という存在は、御父、御子、聖霊として存在しておられます。そして、この世は、この父、子、聖霊で存在する神を三位一体の神と呼びます。前回は、その中から「父なる神」への告白について学びました。そして、今日は「子なる神」への告白について学びます。私たちは、キリストを父なる神の 独り子として信じています。イエス·キリストは私たち教会の頭であり、教会は主の体であります。イエス·キリストはご自分を主と告白する者たちに聖霊によって訪れられ、信仰を与えてくださり、神の子供になるように助けてくださり、今でも神の右におられ、彼ら一人一人の信仰のために祈ってくださる方です。もともと、人間は罪によって神と完全に離れてしまった滅びるべき存在です。しかし、神の子イエス·キリストは、滅びるべき罪人たちを、ご自分の体のように愛し、ご自分の御名を保証として、彼らの罪を赦し、神と和解するように導いてくださいます。したがって、私たちが神の子イエス·キリストを信じるということは、キリストによって、神に赦され、和解して子供となったという意味です。 2. 主イエス·キリスト ところで、気になることがあります。「メシア、主、イエス、キリスト」神の子には、多くの名称がありますが、これらはどういう意味でしょうか。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」ルカによる福音書1章30‐31節は、神が御使いを通して、マリアが身ごもった子の名前を教えてくださる記録があります。イエスはヘブライ語で「神の救い」という意味です。旧約聖書の「ヨシュア記」に出てくる「ヨシュア」が、神の救いを意味するより原文に近い発音ですが、文化圏や国によって呼び方も多様です。ギリシャは「イスス」日本は「イエス」韓国は「イェスゥ」中国は「イェシュウ」米国、英国は「ジーザス」、イタリアは「ジェス」、ドイツは「イェスス」など。しかし、発音が違っても「イエス」という名前は「神の救い」という明確な意味を持っています。イエスの使命が、その名前に、ありのまま現れているのです。また、私たちはイエスを「主」とも呼びます。「主」は、古代イスラエル人が神の御名を直接呼ぶことを恐れ、御名の代わりに呼んだ表現で、ヘブライ語「アドナイ」を訳したものです。中世時代の明、清(中国)や朝鮮では「王」の名前を、むやみに呼ぶことが許されなかったと言われます。古代のイスラエルでも、神の御名を口で呼ぶと大きな罪だと思って「アドナイ」と呼び、それが「主」と訳されたわけです。もちろん漢字語の意味のままに「私の主人」という意味もあります。 最後に「キリスト」とは、どういう意味でしょうか? 聖書はこの言葉を「メシア」をギリシャ語に訳したものだと語ります。新約聖書はギリシャ語で記録されたため、ヘブライ語の「メシア」をギリシャ語の「キリスト」に訳したのです。ところで、このキリストという概念はローマ帝国にとっては「皇帝」を意味する表現でもあります。皇帝そのものをキリストとは呼ばなかったでしょうが「神々の子、ローマを救った者」という意味で、ローマの皇帝はイエス時代のもう一つのキリストのような存在でした。そのため、当時のローマ帝国の各地に散らばっていたキリスト者たちは「ローマ皇帝をキリストとして崇めるべきか? 「主イエスをキリストとして崇めるべきか?」という分かれ道の前に立っていました。迫害を恐れてローマ皇帝をキリストとした者たちは、すぐにイエスと教会を裏切って自分の道に離れました。しかし、イエスだけをキリストとした者たちは、残酷な弾圧と迫害の中で命をかけなければなりませんでした。私たちにとってメシアは誰ですか? 私たちにとって救い主は誰ですか? 私たちにとってキリストは誰ですか? 現代の日本は宗教的な圧迫から自由な国家ですが、太平洋戦争の時には、教会はイエスと天皇の中で誰を上にするべきかとの現実的な悩みがありました。私たち教会はメシア、主イエス·キリストを信じています。使徒信条はイエスだけが真のキリストであると告白しているのです。 3. 神と人間をつなぐたった一つの道。 使徒信条を観察してみると、父なる神と聖霊なる神に比べて、御子イエスへの告白がより長いことが分かります。そのため、あと2回ほどキリストとかかわる使徒信条の説教が残っています。「キリスト教」であるだけに、この新約時代には、三位一体の中、キリストへの比重がより多く与えられていると言えます。もちろん、だからといってキリストが御父や聖霊より権能があるという意味ではありません。他の信条である「ニカイア信条」には、御子は御父と同一本質を持っていると記してあります。つまり、三位一体なる神のどっちのほうがより偉大だとは言えないということです。しかし、父なる神は、新約時代においては「キリスト」に支配権を与えられました。そして、その支配権はイエス·キリストが再臨して救いと裁きを完全に成就される時に父なる神に返されるでしょう。神はこのイエス·キリストを通して、神と世の中の繋がりを造られました。神と人間は絶対に会うことも、共通点を持つことも、付き合うこともできない全く違う格の両者です。神にとっての人間(罪人)は、人間にとってのアリよりも取るに足らない存在です。しかし、イエスはご自分の十字架での贖いによって、みすぼらしい人間と全宇宙の創造主である神とをつなげてくださいました。だから、私たちが主とあがめるキリストは、偉大な神と小さな人間をつなぐたった一つの道なのです。 締め括り 私たちは、イエス·キリストをあまりにも便利に信じているかもしれません。キリスト教会に通うのが馴染んでない日本社会ではありますが、誰も教会に通うからといって迫害しません。また、長年の信仰生活のために教会に通う人たちも習慣的になっているかもしれません。しかし、初代教会の状況は今とはまったく異なっていました。ローマ帝国の皇帝が、この世のキリストとして世界を支配しており、周辺には教会の正統的な教えを歪曲する異端が多かったのです。このような苦しい状況の中で、三位一体なる神への正しい信仰告白と異端の教えに闘うために、イエス·キリストの教えを継承した使徒たちの信仰を命のように守ろうとする者がいました。私たちが告白する、この使徒信条を単なる教会の儀式くらいに考えてはならないでしょう。私たちの信仰の根となり、骨となる信仰告白を正しく守り、その信仰にあって生きる私たちであることを祈り願います。

使徒信条(1)‐父なる神を信じる

詩編89編27〜30節 (旧927頁) ヨハネによる福音書20章17節 (新209頁) 前置き 信仰者は「神を信じ仰ぐ者」です。他宗教者も「誰かを信じる」という心で宗教生活をしているでしょうが、キリスト教の「信仰」はそれとは少し異なります。他宗教の信仰が「自分自身が信じるという意志を決めて誰かを信じる。」ことであれば、キリスト教の信仰は「御父の計画、御子の救い、聖霊の働きによって、人に信仰が与えられ、その三位一体のお導きによって神を信じる。」ということになります。つまり、他宗教とキリスト教の信仰の違いは「その信仰の主体が誰なのか?」にあります。言うまでもなく、キリスト教における信仰の主体は三位一体なる神です。「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主であるとは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3) 私たちはあたかも自分が教会に来て、自分の意志で神を信じるようになったと考えがちですが、聖書は明らかに信仰は、聖霊(神)によって私たちに与えられたと語っています。そして、教会は歴史的に、その神への信仰について非常に大事に考えてきました。そのように、各地の古代の教会が神への共通した信仰を告白し、それが整えられつつ生まれたのが「信仰告白」なのです。今日はその信仰告白の中でも最も有名で一般的な信条である「使徒信条」について話してみましょう。 1. 使徒信条に関する知識 私たちは、ほぼ毎週の礼拝の時に「使徒信条」によって信仰を告白します。使徒信条は、私たちの信仰の対象についての告白なので、非常に重要な教会の伝統だと言えます。ところで、教会のもう一つの伝統である「主の祈り」は、新約聖書にも記されており、イエスご自身が教えてくださった祈りなので、当たり前に大事に扱うべきでしょうが、使徒信条は聖書にも記されてもいないのに、なぜ、私たちは使徒信条を大事に告白しているのでしょうか? その理由は「イエスに直接教えられた使徒たちの信仰を継承した告白」だからです。イエスが12弟子を召し出された理由は、主の福音を、この世に宣べ伝え、主の教会を建てていく指導者を養われるためでした。使徒信条と書いてあるので、使徒たちが自分で作ったという説もありますが、現代の学者たちは、そんな可能性は低いと推測しています。でも、こういう伝説的な物語が伝わっていますので、聞いてみましょう。「ある日、各地で情熱に伝道していたイエスの弟子たち(12使徒)が一ヶ所に集まった。使徒たちは、教会が信じ、伝えるべき神はどのような方なのか、互いに語り合った。その時、12使徒が神について一言ずつ告白して語り、それらを集めると立派な信仰告白が出来た。それで、人々は、それを使徒たちが告白したと言い、使徒信条と呼ばれるようになった。」 本当に素晴らしい物語だと思いますが、実際に使徒信条は、このように作られたわけではありません。初代教会当時には、数多くのカルトや異端が生まれましたが、彼らの偽った教えを拒否し、使徒から継承した三位一体なる神への正しい信仰を共有し、公に告白するために使徒信条が生まれたのです。使徒信条は、主イエスが使徒たちに教えてくださった、聖書の御言葉に基づいて書かれ、古代の教会によって公に認められたものです。キリスト教では使徒信条の他にも、いくつかの信条があります。信条とは、ラテン語の「私は信じる」を意味するCREDOという言葉に由来し、自分が誰を信じるのかを人前で公に告白する信念を意味します。したがって、私たちは使徒信条を通して、イエスご自身に教えられ、その意志を受け継いだ使徒の信仰を継承し、その信仰の対象である三位一体なる神への信仰を公に告白するのです。使徒信条の他にも、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を始め、カルケドン信条、アタナシウス信条、エフェソ信条、その他に多くの信条があり、三位一体またはイエスの神聖を告白します。そして、近くには日本キリスト教会の信仰告白もあります。私たちは主に召される終わりの日まで、使徒信条によって、私たちが誰を信じているのかを告白します。今まで習慣的に使徒信条を唱えてきたなら、これからは、その意味を吟味しつつ自分の信仰として告白していきたいと思います。 2. 全能な創造主 使徒信条はまず、全能の創造主なる神について告白します。「わたしは天地の造り全能の父なる神を信じます。」聖書の一番最初の言葉に当たる創世記1章1節には、こう書いてあります。「初めに、神は天地を創造された。」聖書の一番最初の言葉に創造についての内容が出てくる理由は、この世界の根源と支配権について説明するためです。この世の学問は、世界が偶然の宇宙的な爆発(ビッグバン)によって作られたと主張します。宇宙も、太陽も、月も、星も、地球も、動物も、植物も、人間までも、偶然の宇宙的な出来事によって生まれたということです。そのため、この世は万物の霊長である人間が世界の支配者だと大げさに言います。人間は自力でこの世界を開拓し支配する存在だと言うのです。しかし、聖書ははっきり語ります。「神こそがこの世界の主である」この世のすべてのものの源は神であり、その神こそ全能な方であり、この世界の統治者であると言うのです。創造は、ただ作って放っておくことを意味するものではありません。無から有を創り上げることから始め、無秩序に秩序を与えて被造物が生きられるように治めること、この世の救いと裁きの権能を持った絶対者が、この世界を導くこと。それがまさに創造の持つ意味なのです。したがって、創造主という言葉は唯一無二の絶対者という意味でもあります。 全能という言葉は文字的には「全てが可能である」という意味になりますが、神の全能については、すべてが可能であるという意味とは違います。実は神にもできないことがあります。例えば、神はご自分の力を超える被造物を創ることができません。神は嘘をつくことができません。神は悔い改めない悪人を救うことができません。神は罪を犯すことができません。神はまた別の神を求めることができません。等々、神の全能は、私たちが考える「何でも秩序を無視して全てが可能である。」という意味ではありません。それでは、神の全能とはどういう意味でしょうか? それは主なる神ご自身が造られた創造の秩序に逆らわない範囲で、主がご計画なさった、すべての善い計画を差支えなく、成し遂げていかれるという意味です。力ある者が自分の力をコントロールすることこそ真の力なのです。神は創造の時にご自分が造られた世界の秩序を尊重し、その中で被造物を導き、何よりも創世記で約束された罪人の救いを、主イエス·キリストを通して、間違いなく成し遂げていかれるでしょう。主なる神が、ご計画なさった善い計画を必ず成し遂げていかれること、その計画の中にある私たちの救い、罪人の救い、この世の救いは、全能なる神の御業によって必ず成就するでしょう。私たちはこの全能なる神を主として信じます。 3. 父なる神 使徒信条は、この「全能なる創造主」が私たちの父であると語ります。父の一般的なイメージは、私たちを生んだ存在、養う存在、守る存在と言えるでしょう。しかし、すべての人がそう思うわけではないでしょう。誰かには立派な父がいるかもしれませんが、別の誰かにとっては、父は家庭を破壊する存在であるかもしれません。また、誰かにとっては、あまりにも早く亡くなってしまい、親しく感じられないかもしれません。また、誰かにとっては、父が一生の重荷のような存在であるかもしれません。しかし、聖書が語る父なる神という存在は、造り、守り、導き、救いの主体となる完全で善良なイメージの方です。だから、私たちは父なる神に肉体の父のイメージを投影してはなりません。この完全で善良な父なる神は、被造物と徹底的に区別される存在です。神には罪も、弱さも、足りなさもありません。このような欠点のない神が欠点だらけの人間の父になるというのはありえないことです。 しかし、新約聖書のヨハネによる福音書は、こう述べています。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(ヨハネ福音20:17) この父なる神は、もともと私たちの実の父ではありません。もちろん、私たちに命を与え、生まれさせてくださった方は、確かに神ですが、罪によって神を父と呼べないのが、みじめな人間のありさまです。しかし、この父なる神の独り子であるイエス·キリストが私たちを呼び出され、ご自分の命を身代金とし、私たちを神の子に変えてくださいました。だから、父なる神は、「イエスの父である神」を意味する言葉です。しかし、私たちはイエスの償いによって、私たちもイエスのように、神を父だと呼ぶことができるようになりました。ヘブライ語の旧約聖書には父という単語が1200回余り出てきます。しかし、神を父として描いたケースは、たった15回しかありません。イエスは、その神を私たちの父であると宣言してくださいました。私たちと徹底的に区別された全能の造り主、父なる神、その神がキリストによって私たちの父になってくださったのです。 締め括り 私たちは、この全能の創造主、父なる神を信じています。これは聖書の御言葉に基づいた変わらない真理です。人には、この世に自分一人だけ残されたかように感じられる時があります。家族がおり、友達がいるにもかかわらず、根源的な孤独を感じるということです。しかし、その度に私たちは自分を創造して生まれさせてくださった父なる神がおられることを憶え、自分は一人ではないという信仰で生きていくべきです。詩編には、このような言葉があります。「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩と。わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る。わたしは彼の子孫を永遠に支え、彼の王座を天の続く限り支える。」(詩篇89:27-30) この言葉はダビデ王にくださった主からの言葉ですが、今の新約教会にも有効な言葉だと思います。私たちはこの父なる神を信じています。使徒信条は、この父なる神が私たちの父であると告白しているのです。

混乱の時

ヨシュア記1章6〜8節 (旧340頁) ヨハネによる福音書14章26節〜27節 (新197頁) 前置き 私たちの人生が毎日幸せと喜びであれば最も良いでしょうが、事実、この世での人生には喜びよりは悲しみの方が多いかもしれません。人々の一般的な人生を考えてみると、物心つく頃は祖父母が亡くなります。結婚して子供が育ち、いよいよ大人になったなと思ったら親が亡くなります。その間に知人や友人が先に亡くなる場合もあり、不幸な場合は、まだ若い両親や配偶者、子供が先に亡くなることもあります。そして、最終的には自分も亡くなることになります。悲しみの基準を死にした理由は、人生の最も悲しい経験が身近な人の死だと思うからです。そして一生をかけて、その死の間に数多くの辛いことがクモの巣のように絡み合っているからです。大変で辛い出来事の間にほんの少しの喜び(結婚、出生、成功など)がありますが、もしかしたら、人生の多くの部分は悲しみと苦しみに占められているかもしれません。そんな私たち人間は必然的に混乱と苦しみを経験しながら生きていきます。 1. 混乱の中を生きる人生 「全世界の上位1%の金持ちの財産が、残りの99%より2倍多い」というタイトルの記事を読んだことがあります。「少なくとも17億人の労働者が物価が賃金を超える地域に住んでおり、全世界の人口1割に近い約8億2千万人は飢餓の状態である。」という文章が特に記憶に残ります。この記事は世界の経済的な不条理を告発する記事でした。また、2022年に起きたウクライナ・ロシア戦争は、100万人以上の死者が出ました。イスラエルとイスラム諸国の紛争も数十年にわたって続いてきています。これらの戦争により、今でも大勢の命が失われつつあります。比較的に平和な日本に住んでいる私たちは、ニュースを通じてこのような悲惨な事実に接してはいますが、その悲惨さを直接に経験するわけではないので、気の毒だと一言を言うだけで終わるのがほとんどです。この世界は私たちの思い以上に混乱であるのです。私たちに直接的な被害はありませんが、明らかに世界は混乱の中にあるのです。 飢餓や戦争の混乱の中にいる人々よりは増しかもしれませんが、私たちにも混乱の時があります。家族が重病にかかったり、近所の人が事故に遭ったり、友人が苦境に立たされたり、自分自身にも思わぬ不幸がやってきたりするなど、私たちも日常において混乱を経験し、心配事を抱えることがあり得るでしょう。人生の代表的な幸せの一つである結婚も、今後どうすれば家族を無事に守れるだろうかとの新しい悩みが生まれ、子供が生まれるのは嬉しいが、子供の健康、将来などへの新しい心配が生まれます。信仰においても同じです。初めて主に出会って信仰者となった時は、この上なく幸せだったんですが、その後、信仰への悩み、教会維持への悩み、牧師の不在への悩み、予算への悩み、数多くの悩みに囲まれて生きるようになるでしょう。私たちの人生の一歩一歩が、このように悩みと心配という混乱に満たされていくのです。イエスの時代も同様だったと思います。祖国イスラエルはローマ帝国の植民地になっており、イスラエルのあちこちで反乱が起こりました。しかし、指導者たちは民の安定より、自分の富と権勢と名誉にもっと関心を持っていました。こんな時代にイエスの弟子たちも辛かったでしょう。社会は混乱であり、すべてを捨てて主に従ったのに、主イエスはまもなくご自分が十字架で亡くなると言われ、何一つ平和で安定したもののない思い煩いの多い人生だったでしょう。 2. 主が与える平和。 しかし、このような混乱の世界を生きる弟子たちに主イエスは言われました。「弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ福音14章26~27節) ヨハネによる福音書14章は、イエスの遺言のような言葉です。13章で弟子たちと最後の晩餐を分かち合われたイエスは、弟子たち全員の足を洗ってくださいました。裏切者のユダは、このイエスを売るために食事の席を離れました。イエスはまもなくローマの兵隊に逮捕され、苦しみを受けて亡くなられるでしょう。先日からご自分が死ぬことになると言われたイエスの普段と違う行動に弟子たちは尋常でない雰囲気を感じ、さらに不安になったでしょう。もしかしたら、その夜はイエスと弟子たちが出会って以来、最も混乱した時間だったかもしれません。しかし、イエスは決然と言われました。「父から助け主なる聖霊が来られる。あの方があなたたちの人生を導いてくださる。だから、あなたたちは心を騒がせ怯えるな。わたしの平和を与える。わたしの平和は、この世の平和のように揺らぎやすいものではない。」 世界は混乱に満ちています。また、私たちの人生にも混乱があります。しかし、主は言われます。「世の中にはない真の平和をあなたに与える。だから不安に囲まれずに、聖霊の導きにあって、わたしに信頼して生きなさい。」罪によって乱れたこの世は不完全による混乱の世界です。こんな世界において、お金でも、権力でも、名誉でも真の平和を買うことはできません。自ら、自分が平和だとマインドコントロールしても、本当の平和にはなりません。だから、この世が言う平和、自分が作る平和は、偽りの平和なのです。しかし、主が与えてくださる平和は違います。真の平和の持ち主である主がくださる平和、混乱と不安があっても、その中でさえ輝く平和、主なる神が生きておられる限り、絶対に変わらない完全な平和です。その平和はイエスの約束によって私たちに与えられる保証された平和です。不完全な世界を生きる私たちは、しばしば混乱と苦しみと不安を経験しやすい存在です。その度、思い煩いに囲まれて悩むが、それでも混乱と苦しみと不安は簡単に立ち去りません。しかし、私たちは主の約束を信じなければなりません。まだ、起きていない未来の心配をやめて、平和の主が約束された真の平和を思い起こさなければなりません。 3. 主の御言葉を基準にする。 そんな人生を生きるためには、御言葉を私たちの人生の基準にしなければなりません。今日の旧約本文をお読みします。「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨホスア1:6∼8)長い間エジプトの奴隷だったイスラエルは、モーセを用いられた主なる神のお導きにより、無事に脱出しました。しかし、彼らの不信心のため、すぐに乳と蜜の流れるカナンの地に入ることはできず、40年間荒れ野をさまようことになりました。モーセは40年間、彼らの指導者としてイスラエルの民と苦楽を共にしました。そして、ついに主なる神の許可をいただき、イスラエルはカナンに入ることになります。しかし、主は指導者モーセをカナンに入る直前に召されました。そして、その代わりにヨシュアをイスラエルの新しい指導者として立ててくださいました。40 年間、モーセの指導を受けてきたヨシュアとイスラエルは驚き混乱していたでしょう。一寸先も見えない真っ暗な状況に非常に戸惑っていたはずです。 今日の本文は、そんなイスラエル民族にくださった主なる神の御言葉です。それは3つに約めて考えることが出来ます。一、強く雄々しくあれ。 二、神の約束に信頼せよ。 三、神の御言葉に従って生きよ。モーセという柱のような指導者が亡くなったにもかかわらず、彼らには変わりなく主なる神が共に歩んでおられるので、その主のお導きに信頼して混乱に陥らずに、たくましく生きていけということでした。そして、この言葉は現在を生きるキリスト者にも大きな意味を示していると思います。どうせ、私たちが生きる、この世は罪によって歪んでいる世界です。主イエスが再臨され、終わりの日が来て、新しい世界にならない限り、人間は、仕方なく、この罪だらけの世を生きていかなければなりません。というのは、混乱と苦しみと悲しみは、世界が終わるまで常に人類を追いかけてくるということです。重要なのは、この混乱と苦しみと悲しみの世界を生きる私たちを、主なる神が選び救われ、今でも私たちと共に歩んでおられるということです。こんな私たちに向かって主は「強く雄々しくあれ。 神の約束に信頼せよ。神の御言葉に従って生きよ。」と語っておられるのです。世の混乱は依然として存在しますが、私たちにはその混乱した世を支配しておられる唯一の神が休まずたゆまず共におられます。それこそが私たちにとって人生の基準になるのです。移り変わりのない主、揺るがな主、永遠に共におられる主、その主なる神の御言葉こそが私たちの人生の基準であるのです。 締め括り 私は2012年に伝道師として働きはじめて以来、一瞬も気楽だったことがありません。いや、もしかしたら回心した瞬間から、未信者なら、しなくても構わない、心配と悩みを抱えて生きてきたかもしれません。しかし、心の中には根源的な平和があります。その理由は混乱したこの人生は短いものであり、そして、この人生の道をいつも共に歩んでくださる主との時間は永遠であることを知っているからです。どんなに難しいことが迫ってきても、戸惑うより主を拠り所とし「強く雄々しくおり、主の約束に信頼し、その方の御言葉に従って生きる」私たちであることを願います。混乱の中でも主なる神は変わらずに私たちと共におられるます。そして、私たちを応援してくださいます。私たちが主に信頼して生き、人生の終わりの日に主の御前に立つ時、主なる神は混乱の中でも忍耐しつつ生きてきた私たちに「よくやった。 私の子よ。」と褒めてくださるでしょう。そんな主の御言葉を基準にして混乱の世を克服して生きていきたいです。そのような志免教会でありますよう祈り願います。

イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが公生涯を始められた時、イスラエルは霊的な無秩序の時代を過ごしていました。ローマ帝国の行政的な支配とユダヤ教の宗教的な儀式はありましたが、現実は弱肉強食の社会で、正義が守られず、不義がはびこる霊的な無秩序の時代だったのです。そんな無秩序の時代に来られた主イエスはご自身が直接民に仕え、愛されることによって、倒れた霊的な秩序を立て直してくださいました。「神と隣人を愛しなさい。」という律法の御言葉が、その秩序の根源となるのです。主イエスは十字架での死を覚悟されてまで、この秩序を回復させるために闘われたのです。そのイエスの御心は主の体であるこんにちの教会にも継承され、主イエスにならった生き方を要求しています。 1.皆に嫌われた徴税人マタイ 貧しいイスラエルの人々を助けてくださるために旅路に就かれたイエスは、ガリラヤ湖のある地域に着かれました。その時、一人の男がイエスの目につきました。「そして、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14) イエスに声かけられた男は徴税人のレビという人でした。新約聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイがいますが、このレビは誰でしょうか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9) マタイによる福音書によると、このレビという人が使徒マタイであることが分かります。主はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどの弟子たちに加え、徴税人のマタイをもご自分の弟子に呼ばれるためにその町に行かれたわけです。ところで、このレビつまりマタイは、なぜそこにいたのでしょうか? ガリラヤの漁師から税金を取り立てるためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争のために莫大な予算が必要でした。そのため、ローマの総督たちは植民地の権力者から前払いで税金を取り上げました。その代わりに彼らに徴税権を与えたのです。それはイスラエルにおいても同様でした。先に話しましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が破れていたので、ローマ帝国に強制的に税金を払わせられた権力者たちは、ローマからの徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが納めた税金より、さらに高い税金を貧しい人々から取り立てたわけです。旧約聖書が強調していた隣人愛が完全に破れていたのです。今日の本文に出てくるイスラエルの徴税人は、そのような権力者のもとで働いていました。彼らは割当量を達成するため、同胞から重い税金を納め、イスラエルお人々は彼らをローマ帝国のため、同胞を苦しめる売国奴のように考えました。だから、当時のイスラエル人は、この徴税人を遊女や泥棒のように「地の人」つまり、神の民ではない者と見なしていたのです。 2.マタイを訪れてくださったイエス。 ところで、マタイは徴税人の仕事に懐疑を抱いていたようです。主がマタイに声かけられた時、ただちに従ってきたからです。当時の徴税人は熱心に徴税すれば、同胞に疎外され、いい加減に徴税すれば、権力者にいじめられる立場でした。けれども、お金を横取りすることができ、豊かになりやすい仕事だったのです。しかし、徴税人マタイはそんなに幸せではなかったようです。明治時代に、こんな出来事がありました。、明治23年に制定された教育勅語が東京第一高等中学校で朗読された時、全員は腰を低めて最敬礼をしました。しかし、教師だった内村鑑三は最敬礼をせずに頭を下げるだけでした。彼はキリスト者だったので、神格化した天皇に最敬礼しなかったわけです。(不敬事件)しかし、当時の官憲は、それによってキリスト教全体を疑うことになりました。そのため、日本の教会は国と民族から疎外されないために自ら慎み、国に協力し、結局は屈してしまいました。国と民族からの疎外が恐ろしかったからです。マタイは民族からの疎外と権力者からの要求の間でさまよい続ける孤独な人でした。 イエスは、そんな彼をあたりかまわず招かれました。「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」民族からの疎外と権力者の要求の間でさまよっていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主に従いはじめました。14節で「従う」のギリシャ語「アコルルデオ」は、「後についていく」という物理的な意味だけではありません。「共にある」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が一つになった言葉です。つまり、「イエス・キリストの道あるいは方向に共に歩むこと」という、より深い意味の言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力者の要求の間で迷っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道に招いてくださいました。当時、一番嫌われる存在、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人と呼ばれていたマタイに、天から来られた神の子イエスがお手を差し伸べてくださったのです。そして、皆に嫌われる彼をご自分の民として受け入れてくださいました。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事をもてなしました。主は決して善良な人や貧しい人たちだけを救われる方ではありません。罪人、裏切り者、不正な者、売春する者、盗人など、どんなに悪人だといっても、彼らが神に真心をこめた悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、喜んで受け入れてくださいます。そして、彼らと同席され、共にいてくださいます。イエスが同席して一緒に食事をしてくださるというのは、相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように認めてくださるという意味です。これは、イエスによって、私たちに示された御父の暖かい御旨なのです。ところで、このように罪人を招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者だったのです。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、権力もある者たちが、罪人と一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自らが「天の民」であり、神を知っていると高ぶっていました。しかし、彼らは真の神であるイエスを目の前にしても、主を見知ることが出来なかったのです。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らにご自分が来られた理由を明らかに教えてくださいました。「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスの価値観は、罪人への裁きではありません。主は罪人を裁きから救ってくださるために来られたのです。罪人への救いこそが本当のイエスの価値観です。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人でも、真の悔い改めと信仰さえあれば、主は誰でもお赦しくださり、お招きくださる方です。むしろ、今日、登場した宗教指導者たちのように、神を知ると言いながらも、自分の信仰的なこだわりに閉じこもって、他人をやたらに判断する者こそ、イエスに裁かれるでしょう。私たちが追い求めるべき価値観は何でしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、傲慢と判断の宗教指導者たちの価値観。神は私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、どっちを選ぶだろうかと見下ろしておられるでしょう。 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の歩みを見下ろしておられます。終わりの日、御前に立つ時、神は私たち人生について、ことごとくお問い掛けになるでしょう。だからこそ、私たちの生き方はイエスに従うべきです。イエスこそ、父なる神に認められる唯一の正しい人だからです。そして、主イエスの生き方こそ、私たちの価値観になるべきです。イエスは愛によって、罪人を赦してくださいました。主の体である私たち、志免教会もお互いに赦しあい、隣人を差別せず、主イエスの愛にならっていくべきではないでしょうか。

永遠の命を語る。

詩編14編1~7節(旧844頁) ヨハネによる福音書17章1~5節(新202頁) 前置き 永遠の命とは何でしょうか? 私たちは永遠の命という言葉を耳にするとき、死なずに長く生きることだと考えがちです。永遠に生きるって、いかに素晴らしいことでしょう。愛する家族との別れもなく、焦りもなく、何事においても楽天的でゆったりと世の中を眺め、死への恐れもないでしょう。しかし、現実、人間には長くても100年前後という限られた時間が与えられています。だから、老いていくのが悲しく、死を恐れることになるのでしょう。そのような人間の思い煩いに対して、聖書は永遠の命を語るから、とても魅力的でしょう。そんな理由のため、キリスト者になった人もいるはずです。しかし、聖書が語る永遠の命は、そう簡単なものではありません。聖書においての永遠の概念は、ただ長い時間を意味しないからです。今日は聖書が語る永遠の命について考えてみましょう。 1.「永遠の命と天国」 永遠の命といえば、真っ先に思い浮かぶのが「天国」のような来世のことではないかと思います。死後、主の救いによって永遠の命を得ていくところが、天国という概念で、すでにキリスト者の世界観に深くすえてあります。そういう意味として、多くのキリスト者は天国に行くために信仰生活をしているのかもしれません。それだけでなく、イスラムや仏教系の宗教にも天国(極楽)の概念があり、世の中のほとんどの宗教が、このような来世観から自由ではないかもしれません。あらゆる宗教を問わず、人間が天国あるいは極楽に行くことを希望するのは、人間に永遠への本能的な憧れがあるからです。永遠でない自分が絶対者の助けによって、永遠を手に入れ、死を乗り越えることを追求するからです。この世の肉体が死んでも、来世の天国では死を経験せずに永遠に生きるだろうと思うからです。だから、人間にとって「永遠の命」そして「天国」は人生最大の目標であるかもしれません。 2.永遠の命とは何か? しかし、私たちは「永遠の命」の意味より「天国」の幸せの方にもっと関心を持っているかもしれません。永遠の命という言葉も漢字語に基づいて、終わりなく生きることと誤解しているかもしれません。 しかし、永遠の命を追求しつつ生きるだけに、私たちは「永遠の命」の意味についてはっきり分かる必要があります。以前にも話したことがありますが、「永遠」の哲学的な意味は時間に限っていません。西洋哲学で、無限の時間を意味する言葉は「永遠」ではなく「不滅」です。むしろ永遠は時間性と無時間性と両方の概念を含める抽象的な言葉です。つまり、永遠は時間の長さだけでなく、その内容と質の問題でもあるのです。何年前、筑紫野教会の水曜祈祷会の奨励の時、永遠の主について話しましたが、祈祷会後に帰宅する直前、ある方にこう言われました。「先生、永遠に生きることはとても嬉しいことですが、永遠に生きると退屈ではないでしょうか?」その方は永遠を時間の概念として理解されたわけです。永遠が時間の長さの概念だけではなく、内容と質の概念も含めているのなら、私たちは永遠についてどのように理解すべきでしょうか? 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:2-3) 神が主イエスを救い主として、この世に遣わされた理由は、神の永遠の命を主を通して、この世の罪人に与えてくださるためでした。つまり、神の永遠の命を、この世の罪人が受けることが「救い」なのです。ところが、永遠の命を「天国で長く生きること」と誤解する場合が多いので、「永遠の命がすなわち天国」という誤解が生まれたのです。しかし、イエスは「永遠の命がすなわち天国」と言われたことがありません。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることだ。」と言われたのです。これは、永遠の命と天国の概念を説明する大事な鍵です。 まず、ヘブライ語とギリシャ語の聖書に記してある永遠の命の原文について考えてみましょう。日本語で「永遠の命」と訳された言葉は、ギリシャ語で「ゾーエ・アイオニオス」です。「ゾーエ」は生命を、「アイオニオス」は「時代の」を意味します。このギリシャ語の表現はヘブライ語を訳したもので、ヘブライ語では「ハイム•アド•オラム」です。「ハイム」は「生命」、「アド」は「~に至る」、「オラム」は「時代」を意味します。 つまり「永遠の命」の本来の意味は「時代に至る生命」なのです。時代に至る生命とは一体どういう意味でしょうか? ヘブライ語の「オラム」つまり「時代」は、「共通点を持った一定の期間」を表す言葉です。例えば、高校時代は身分が高校生である期間を意味します。今、皆さんは高校生ではありませんが、一時は共通して「高校時代」を過ごされました。ところで、皆さんのほとんどが「高校時代」を過ごされた時は「昭和時代」でもありました。ですから、皆さんは「高校時代」を過ごしながら「昭和時代」も過ごされたのです。私も「高校時代」を過ごしました。「高校時代」を過ごしたのは皆さんと同じです。しかし、私の「高校時代」は「平成時代」でした。「高校時代」を過ごしたのは、皆さんと私の共通点ですが、皆さんは昭和時代、私は平成時代であったのが違いです。つまり、聖書が語る時代とは「ある特徴で区分できる一定の期間」を意味し、重なる場合も重ならない場合もあるのです。再び、聖書における「時代」について考えてみましょう。主なる神は世界を創造され、主が秩序と平和にあってすべてを治められる「主が王である時代」、別の言葉では「生命の時代」を始められました。「主が王である時代」は永遠です。主なる神の支配は永遠に続くからです。人間はその主に創造され、「主が王である時代」に属し、絶えず主の生命をいただいて幸せに生きていく祝福された存在でした。 しかし、人間は蛇(悪魔)の誘惑に妥協し、神との約束を破って逆らい、堕落してしまいました。その結果、「主が王である時代」に属していた人間は、「人間が王である時代」、別の言葉では「死の時代」に移ってしまいました。そのように人間が王になった結果、世界は神の摂理から離れ、欲望による無秩序と破壊の歴史を書いていくことになってしまいました。その罪の代価として、人間は死の支配に入ってしまったのです。これを通して、「時代に至る生命」つまり「永遠の命」について説明することができます。ここで「時代」とは、「主が王である時代」を意味するといえます。主なる神が意図された最初の時代だからです。「人間によって生まれた人間が王である時代」は、歪んでしまい、腐敗した偽りの時代です。主なる神は変わりなく「主が王である時代」におられ、人間は依然として「人間が王である時代」を生きています。この二つの時代の隔たりは、人間の力で絶対に崩せない巨大な壁です。しかし、神は、この二つの時代の壁を崩してつなげる道をお許しになりました。その道がすなわち「救い主」イエス•キリストなのです。 永遠の命のヘブライ語が「時代に至る生命」である理由はまさにこのためです。「人間が王である時代」を生きる私たちが唯一の真の神「主が王である時代」をキリストを通じて知ることになり、そのキリストを知る(信じる)ことで神の時代とつながるようになったからです。 3.永遠の命 – 神と共に生きる人生。 永遠の命は時間的に長く生きることだけを意味するものではありません。重要なのは「人間が王である時代」に生まれ、生きている私たちが、主イエス•キリストによって「主が王である時代」の存在に気づき、主イエスによって、その時代に至ることができるようになったということです。聖書はこれを「真の生命」と言うのです。したがって、私たちは「人間が王である時代」に生きる存在ながらも、キリストによって「主が王である時代」に属する存在として生きるのです。 聖書はこれを「救い」と定義します。そして、死後天国に行くことは「人間が王である時代」を離れて「主が王である時代」に完全に入ることであり、この世の終わりの日、キリストの再臨と共に「主が王である時代」は、この地上にも完全に成し遂げられ、その時に私たちも復活するでしょう。これが聖書が語る永遠の命と天国、そして救いの意味なのです。今日、旧約聖書の詩編14章2節と5節は、それぞれこのように語ります。「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(2)「神は従う人々の群れにいます。」(5)天(神が王である時代)におられる主なる神が、地上(人間が王である時代)にいる民をお探しになり、共におられること、これこそが人にに与えられた真の永遠の命なのです。 締め括り ですので、私たちの永遠の命は、すでに始まっています。私たちはキリストによって、すでに「主が王である時代」を知り、その中に生きているからです。というわけで、主イエスはこう言われました。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 天国すなわち神の国は死後にだけあるものではありません。主なる神に出会い、その民として生きている今も、私たちはすでに永遠の命のある人生、天国のある人生を生きているのです。そして、私たちが主に呼ばれる日、私たちは人間が王であるこの時代を離れ、主なる神が王である真の永遠の命に入るでしょう。そして、再臨の日、キリストによってこの地に真の主が王である時代、新天新地が成し遂げられるでしょう。私たちキリスト者は永遠の命という意味について、このような理解を持って生きるべきです。

聖晩餐の意味

ヨハネによる福音書6章47~58節(新176頁) 前置き 日本キリスト教会は、月に一度聖餐式を行います。毎月行われる儀式であるため、私たちは聖餐式の重要性を見過ごしがちかもしれません。しかし、聖餐は主イエスご自身が弟子たちに命じられ、代々の教会が堅く守ってきた最も重要な教会の儀式の一つです。そのため、洗礼とともに聖餐式もキリスト教会を代表する聖礼殿と呼ばれます。今日は、この聖餐式の意味について考えてみたいと思います。月に一度習慣的に行う宗教儀式ではなく、私たちの信仰を成長させる、主の大事なご命令としての聖餐の意味を改めて確認する時間でありますように願います。 1.聖餐の本質は食事である。 まず、私たちが知っておくべきことは、聖晩餐は文字通りに「晩餐」ということです。晩餐の辞書的な意味は「ごちそうの出る夕食。客を招いてもてなす夕食。」です。つまり、聖晩餐は、主イエスが弟子たちにおもてなしくださった夕方の食事だったのです。私たちの聖餐式は昼頃に行われていますが、それでも教会は固有名詞のように聖晩餐という表現を使います。今日、私たちが行う聖餐式の原型はイエスと弟子たちの「最後の晩餐」に由来します。イエスは、ローマ兵隊に逮捕され、十字架で亡くなられる前、弟子たちと一緒に夕食を分かち合われました。イエスは最後の晩餐の時、弟子たちにこう言われました。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ福音26:26‐28)、最初の聖餐式は宗教的な儀式ではありませんでした。イエスと弟子たちの夕食、十字架で亡くなられる前の最後の食事だったのです。 私たちは毎日食事をします。時々一人で食事する時もありますが、基本的に家族、友人、知り合いのような身近な人とする場合が多いです。つまり、関係を結んだ相手と食事するのが一般的です。知らない人と親しく食事することはないでしょう。したがって、食事は関係を結んでいる者たちが共にする行為です。私たちの聖餐は、主イエスを中心に密接に結びついた者たちが共に行う霊的な食事です。教会のために死に復活され、頭になってくださった主イエスの御恵みと聖霊の御導きによって、キリストの体を意味するパン、血を意味する杯を分かち合い、共に主が与えてくださった晩餐を交わす霊的な食事なのです。食事によって力と健康を得て生きていくように、この聖餐を通して、私たちはイエスの恵みと救いの御業を憶え、力をいただき、信仰生活を続けていくのです。互いに関係を結んだ、家族や知り合いが共に食事するように、私たちはこの聖餐を通して主イエスとの関係、教会の兄弟姉妹との関係、神との関係を再確認しつつ生きるのです。人が飲み食いしなければ生きることが出来ないように、私たちは主がくださった、この聖晩餐を飲み食いして、キリスト者としての自覚を確かめつつ生きていくのです。だから聖餐は宗教儀式を超える頭なる主と体なる教会の聖なる食事なのです。 2.聖徒の交わり、聖餐。 そういう意味として、聖なる食事である聖餐は聖徒の交わりだとも言えるでしょう。私たちはほぼ毎週、使徒信条を唱えます。ところで、使徒信条にはこんな表現があります。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」イエスを信じ、教会に出席しはじめると、人々は一番最初に「使徒信条」に接し、自然に覚えるようになります。しかし、その意味について深く考えずに、他の信徒たちが覚えているから自分も覚えようとする場合が多いです。特に「聖徒の交わり」という表現を何気なく唱えていますが、これは果たしてどういう意味でしょうか? 日本語の「聖徒の交わり」はラテン語のCOMMUNIO SANCTORUMを訳した表現です。COMMUNIOは「互いに一つになって何かを分かち合うこと」という意味で「交わり」と訳しています。SANCTORUMは「聖なる者たち」という意味で「聖徒」と訳しています。罪人は自ら聖なる者になることができない存在です。罪人が聖なる者になるためには、聖なるキリストの贖いによってのみ可能です。したがって、COMMUNIO SANCTORUMは、「主イエスのよって清められた者たちが互いに一つになって分かち合いながら生きる共同体」のことでしょう。「交わり」という言葉のため、茶話会や食事会を思い起こしやすいですが、本当の意味は、聖霊のお導きの中で主イエスを中心に一つとなり、教会共同体を成していくこと、つまり教会形成のことなのです。 だから、聖徒の交わりを最も明らかに表すのは、この「聖餐」なのです。教会の頭なるキリストを中心とし、聖霊の導きによってパンと杯を分かち合う時、私たちは教会を形成する兄弟姉妹と共に一つなる共同体という関係を堅めます。お茶を飲んだり、楽しく会話したりすることが聖徒の交わりではなく、キリストの恵みと聖霊の導きによって一つの教会を建てていくことこそが、本当の意味の「聖徒の交わり」なのです。そして、それを行動で告白するのが聖餐です。したがって、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、主イエスが教会の頭であることを行動によって告白する公の信仰告白です。また、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、自分と一緒にパンと杯にあずかる兄弟と姉妹がキリストにあって一つの主の体なる教会であることを行動によって告白する公の告白です。だから、ただの宗教儀式だから、習慣的に聖餐を飲み食いするというわけではありません。聖餐の時に私たちみんなが主イエスの民であることを再確認します。教会員みんなが主の一つの体であることを再確認します。使徒信条を口さきだけで告白するのではなく、目に見える聖晩餐という行動によって証明するのです。 3。聖餐を通して主の永遠の命を憶える。 食べる行為は、主なる神が人間に与えてくださった祝福です。初めに天地を創造された神は、エデンの園のすべての果実を人間の食糧としてくださいました。また、出エジプト記の時代にはマナとウズラを食料としてくださいました。神の幕屋の内部にも、供えのパンという食物が置かれていました。イエスは5000人以上にパンと魚をくださいました。弟子たちに聖晩餐をくださいました。復活してはガリラヤの水辺でペトロに焼いた魚をくださいました。食べる行為は貪欲と関わりやすいので、悪いイメージで描写される場合が多いですが、食べないと生きていけないので、非常に基本的な人間の行為なのです。むしろ神は食べる行為によって、主なる神の栄光のために元気に生きていくように、良い行為として食べる行為をくださいました。食べる行為は、食物から養分を得て命を延ばすことです。食前に「イタダキマス」と言うことも、この食物から養分を得て自分の命にすることへの感謝の意味だと言われます。それと意味は多少違うでしょうが、私たちもイエスの肉と血とを意味する「パンと杯」にあずかり、主にいただいた永遠の生命を憶え、ふさわしい生き方を誓って生きるようになります。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ福音6:54-57) 主イエスはヨハネによる福音書6章を通して、主ご自身が制定してくださる聖餐の意味について、あらかじめ教えてくださいました。主の言われたご自分の肉と血についての教えは、後、聖餐式となり、それが使徒たちと代々の教会の歩みと共に今まで続いてきたのです。聖餐のパンとぶどう酒を飲み食いする時、私たちは主イエスと一つになって主の体なる教会として、主の生命をいただいて生きていきます。父なる神がイエス•キリストを愛されるように、主の体なる私たちも父なる神に愛されるようになるのです。そして父なる神がイエス•キリストを死から復活させてくださったように、主の体なる私たち教会も、父なる神に死に勝つ生命をいただいて生きていくのです。聖晩餐を通じて私たちは主イエスの体であることを確証されます。そして、私たちはその確証にあって、主の永遠の命を豊かにいただいて生きるでしょう。 締め括り 聖餐は、キリスト教会において毎月行われる、馴染み深い聖礼殿です。しかし、その意味は決して軽くありません。私たちがこの聖餐によってキリストと一つになっていること、そして、兄弟姉妹とも主にあって一つになっていることをを告白し、また証明されるからです。つまり、聖餐式はキリストの体という私たち教会のアイデンティティを公に告白する証明の場なのです。したがって毎月行う馴染んだ儀式ではありますが、その意味を心に留めて生きるべきです。私たちは心で主の体となったことを信じ、口でそれを告白し、聖餐の行為によってそれを証します。この聖餐を大切にし、感謝しながら生きる私たちであることを願います。

神殿、主の臨在の所。

歴代誌下6章18~21節(旧677頁) エフェソの信徒への手紙2章14~22節(新354頁)  前置き 好きな詩編があります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84:11) 詩編には美しい信仰の詩が多々あります。その中でも、詩編84編は、信仰者のあり方について考えさせる素晴らしい詩だと思います。「主の庭での一日が、他の所での千日にまさる恵みであり、悪人の天幕で長生きするより、神の家の門番として生きるのがほしい。」この世の財物、名誉、権力より、素朴であっても主の民として主と共に生きたいという信仰の告白なのです。私はその中の「神の家の門番」という表現が好きです。(「門口に立っている」とは原文で門番の意味) たとえ、神の家に入れないとしても、自分は主の近くに生きていきたいという意味ではないでしょうか。ここで神の家について話したいと思います。神の家は聖書によく出てくる幕屋やエルサレムの神殿を意味します。今日は聖書によく出てくる神殿について考えてみたいと思います。 1. 神の家 – 神殿 聖書には神殿という建物がよく出てきます。ソロモン王の前の時代には、幕屋という移動可能なテント形の建物があり、ソロモンの時代からは、聖幕に代わる神殿という固定された建物が建てられました。神殿は、その名称からも分かるように、神のご臨在を意味する非常に象徴的な建物でした。このエルサレムの神殿は、イスラエルのエジプト脱出後、モーセがシナイ山で神にいただいた十戒の石板が入っている掟の箱を置く聖なるところでした。出エジプト記の中盤、シナイ山で主なる神のご命令を受け、移動しながら使用できる幕屋が作られ、それから、何百年の長い時間が経った後、エルサレムに最初の神殿が建てられたのです。ダビデ王の息子であるソロモン王が、この最初の神殿を建てたので、ソロモン神殿とも呼ばれましたが、外部の一部と内部のほぼ全部が、純粋な金で飾られ、神殿の礼拝道具と掟の箱も金箔をかぶせて作ったと言われます。神殿の規模は、長さ約30m、幅約10m、高さ約15mで、そんなに大きくはなかったですが(志免教会堂の4倍くらい)、その華やかさはすごかったと聖書は語ります。最初のエルサレム神殿は、イスラエルがアッシリア、バビロン帝国によって滅ぼされる時まで存在し、その侵略によって破壊されたと言われます。 その70年後、ペルシャ帝国によってイスラエル民族が解放され、エルサレムに帰ってきた時、彼らは第2番目の神殿を建築します。そして、ヘロデ王の時に神殿は増築されたと言われます。しかし、それも西暦70年のローマとユダヤの戦争の時に破壊され、残念なことに今は残っていません。現在、イスラエルの神殿の跡にはイスラム寺院だけが立っており、神殿跡の西側に神殿を支えていた巨大な石壁だけが残り、「嘆きの壁」という名で保存されています。先に申し上げたように、神殿は神の臨在を象徴する建物でした。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(歴代下6:18) 今日の旧約本文のように、この世を創造された神は、世の中の何ものも納められない偉大な方です。そのため、神が神殿という小さな建物に住むのはありえないことです。神が家に住むという概念そのものが古代異邦宗教の認識だったので、神が神殿に住むということは間違いです。つまり主なる神はこの神殿という象徴的な建物を通して、主がご自分の民(当時イスラエル)と常に一緒におられるということを示されたわけです。したがって、私たちは聖書を読みながら神殿を考える時「主が住んでおられるところではなく、主のご臨在の象徴」として理解すべきです。 2.神殿の存在理由 今日の旧約本文、歴代誌下6章は、ソロモン王がエルサレムの神殿を完成した後、落成式を行う場面です。この場面をより意味深く読むためには、前の5章と6章全体を参考にする必要があります。 5章13節と14節にはこんな言葉があります。「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえにと主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」(歴代誌下5:13-14) エルサレム神殿の建築はソロモンの父ダビデ王の晩年の夢でした。エサウの末息子に生まれ、兄たちに負けて羊飼いに生きるようになったダビデでしたが、主はそのダビデを選ばれ、彼をイスラエルの王に立ててくださいました。数多くの危機と逆境の中でも主はダビデを見捨てられず、彼を導いてくださったのです。しかし、ダビデの心にはいつも引っかかることがありました。それは自分は王宮に住んでいるのに、主は数百年前に作られた小さな幕屋におられるということでした。そこで、彼は主のための神殿を建てさせてくださいと主に願いましたが、主はその願いを断られました。(歴代誌上17章) しかし、主は彼の息子であるソロモンによる神殿建築は許可してくださいました。 その後、ソロモンが王になってから、イスラエルは高級な材料を集めてエルサレムのに主なる神の神殿を建て、完成しました。そして、古い聖幕にあった掟の箱を運び、新しい神殿の至聖所に置きました。その時、レビ族の祭司たちは多くの楽器を演奏し、神を賛美しました。その時、主の神殿に雲が満ち、祭司長たちが奉仕を続けられないほどになりました。聖書で雲が持つイメージは、神の栄光と臨在を意味する場合が多いですが、この雲に満ちた神殿によって主なる神の栄光と臨在がイスラエルに与えられたという意味でした。そのように神の栄光と臨在の雲が神殿に満ちた時、ソロモンは主に祈り始めました。その内容が今日の本文である歴代下6章の言葉なのです。この時、ソロモンは大きく二つの祈りを(細かく分けるともっと多くなるが)しました。第一に、神の民のための祈りでした。「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(歴代誌下6:21) 神の民イスラエルの切実な祈りを聞いてくださり、何よりも彼らの悔い改めを聞いて答えてくださいというソロモンの願いでした。 第二に、異邦人のための祈りでした。「更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、大いなる御名、力強い御手、伸ばされた御腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天から耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。」(歴代誌下6:32-33) 異邦人たちも主の神殿に来て祈るなら、憐れんでくださることを祈ります。この落成式の物語を通じて私たちは3つの点を知ることができます。①神殿は天におられる主なる神が、地上のご自分の民といつも共におられることを象徴するご臨在の象徴。②神殿は地上の民が天におられる主なる神に祈り、悔い改め、礼拝するようにする執成しの象徴。③神殿は主なる神の民ではない異邦人も、神を知り、帰ってきて、主の民になれる贖罪の象徴。これらがエルサレムの神殿が持つ主な機能でした。このように、はるかに高い天の神は、地上の罪人たち(イスラエル人、異邦人を問わず)との関係を結んでいかれるために、神殿という象徴的な建物の建設を、この地上に許してくださったのです。 3. 私たちにおいての神殿の意味 ですが、先ほどお話ししたように西暦70年、この神殿という建築物は完全に破壊され、もはや、この地球上に主なる神の神殿は存在しなくなってしまいました。それでは、神殿という建物が無くなった、この時代に、私たちは果たして、どこから神の臨在、執成し、贖罪の象徴である神殿を見つけることが出来ますでしょうか。今日の新約本文は、この時代においての神殿についての大事な手がかりになります。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) イエス・キリストを中心に主の民が一つになる時、その集まりが神のお住まい、つまり、聖なる神殿となると教えているのです。キリストを中心とし、主の民が一つになるというのは、どういう意味なのでしょうか? それは「教会」のことでしょう。したがって、キリストを頭とする教会共同体こそ、主なる神のご臨在のところ、つまり、この時代の神殿であるのです。もちろん、この教会とは、単なる建物のことではないでしょう。 主イエスによって贖われ、主への信仰によって集まり、礼拝し、御言葉を宣べ伝える共同体が、そして、その共同体を成す私たち一人一人が真の意味としての教会であるからです。 締め括り 教会の建物を教会そのものだと誤解する人々も、世の中にはいます。しかし、教会堂はただの建物に過ぎず、教会そのものだとは言えません。教会はキリストを頭として一つとなったキリスト者の共同体だからです。ですから、教会堂を教会そのものだと誤解してはなりません。神殿は神のご臨在、執成し、贖罪を象徴する旧約の存在です。そして、主イエスが十字架で死に、復活してからは、主なる神の臨在、執成し、贖罪は、イエス・キリストによってのみ、この世に伝えられるようになりました。したがって、神の真の神殿のかなめ石は主イエスであり、その方を頭とする教会共同体こそが、この時代の神殿になるのです。だから私たち志免教会も主イエスによって、この時代の神殿となるのです。 私たちと共におられるキリストの恵みによって、主なる神はご臨在なさり、キリストの執成しによって、私たちは、主なる神と交わり、キリストの贖いによって、私たちは赦されるのです。この時代の神殿は、まさに主の教会である私たちです。このような神殿への知識を持ち、主の神殿となる教会として歩んでいきたいと思います。

一死覚悟

イザヤ書55章8~9節(旧1153頁) マタイによる福音書16章24~25節(新32頁) 前置き 先日、大分県竹田市にあるカクレキリシタン遺跡に行ってきました。遺跡を訪問する前に竹田キリシタン資料館で案内人の説明を聞かせてもらいましたが、興味深い話がありました。当時、竹田地域(豊後)の領主がキリシタンだったので、他地域のキリシタンより被害が少なかったということでした。領主の配慮で洞窟礼拝堂といくつかの見張り櫓があって、政府の人々が取り締まりに来たら、素早く対応したとのことでした。その理由か、カクサレタキリシタンという表現も何度か聞きました。しかし、領主の保護がなかった地域のキリシタンは、大勢の人々が信仰を守るために殉教しました。カクレキリシタンの物語は、日本のキリスト教にあって欠かせない重要な殉教の歴史です。なぜ、日本の数多くのキリシタンは命をかけてまで、信仰を守ろうとしたのでしょうか? その歴史を通して、私たちが学ぶべきことは何でしょうか? 1.「フィリポ・カイサリアで」 ある日、イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地域に行かれました。そこで主は尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13) すると弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言う人々がいる。」(14)と答えました。 主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(15)と聞き返されました。その時、ペトロが言いました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16) 主は大喜びで、ペトロをほめられました。ペトロが正しい信仰告白をしたからです。しばらくしてイエスは、弟子たちに「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(21)と打ち明けられました。その時、先ほど、正しい信仰告白でほめられたペトロが、主に叫びました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22) ペトロは、主への思いやりで、そんなに言ったのですが、イエスの反応は衝撃的でした。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23)イエスがペトロをまるでサタンでもあるかのように厳しく叱られたからです。 イエスは、そんなに厳しくペトロを叱らる必要がありましたでしょうか? ペトロはイエスへの純粋な思いで心配しただけでしょう。しかし、その後、主イエスが言われた言葉、すなわち今日の新約本文を通じて、なぜイエスがそんなに厳しくペトロを叱られたのかを推し量ることができます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24-25)(詳しい説明は後で)フィリポ・カイサリア地域は、旧約時代には「バアル・ガド」(ヨシュア11:17,12:7,13:5)と呼ばれました。バアル神崇拝の地域だったのです。また、その後には古代ギリシャの神である「パーン」の神殿があったとも言われます。さらにカイサリアという地名からも分かるように、ローマの皇帝(カエサル)を神格化する意味の場所でもありました。すなわち、フィリポ・カイサリアは唯一の主なる神を否定する偶像と皇帝崇拝にあふれていた「偶像崇拝」の町だったのです。イエスがフィリポ・カイサリア地域で弟子たちに、「わたしを何者だと思うか。」とお尋ねになった理由は、偶像に満ちたこの世にあって、ひとえにイエス·キリストだけが真の神であり、王であり、主であることを今後教会を建てていく弟子たちに確認されるためでした。 2.人の思いと神の御心。 イエスが、罪人の救い主となり、世の真の支配者となられるためには、必須不可欠な前提がありました。それはイエスが十字架にかけられ、人類の贖いと神と世の和解のために死んでくださること、いわば「十字架での犠牲」を成し遂げることでした。真の神であるイエス·キリストが、真の人間としてこの世に受肉された理由も、普通の罪人なら絶対に成し遂げることが出来ない、十字架での犠牲を背負われるためでした。つまり、フィリポ・カイサリアでペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉は、「イエスが必ず十字架での犠牲を成し遂げ、死ななければならない方」になるための前提だったのです。ところが、そんな立派な告白をしたペトロが、しばらく後にイエスへの自分の個人的な思いのため「とんでもないことです。そんなこと(十字架での犠牲)があってはなりません。」と反対したので、前の告白と完全に矛盾になってしまったわけです。ペトロは自分も知らないうちに「この世を救うイエスの十字架での犠牲は決して起きてはならない。」と言ってしまったのです。イエスが怒られた理由は、ペトロの思いが邪悪だったからではありません。主もペトロの思いを知っておられました。しかし、その思いの中に隠されている「イエスが十字架で死んではならない」という思いが、主なる神の御心である「イエスの犠牲によって罪人とこの世を救う。」に逆らうものだったからです。 時々、私たちはこんなに考えるかもしれません。「○○したほうがもっと良いのに、なぜ神は○○されないんだろう。」例えば「神が全日本人の夢に現れてイエスを信じろと一言だけ言われれば、みんなが一晩にしてキリスト者になるはずなのに、なぜ全能の神はそうされないんだろう。」みたいな考えです。全能な神であると聖書も力強く語っているのに、なぜ神は常に、私たちの目に難しい道だけを選ばれるだろうか理解できない時が多いです。しかし、そんな時、私たちは旧約聖書のイザヤ書を憶えなければなりません。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-9) 神がなぜそのように私たちの考えと常識とは違う方法で働かれるのか、私たち人間は、死ぬまで分からないでしょう。しかし、明らかなことは、主なる神には人間の思いをはるかに超える御心があるということ、だから、主なる神の御心が、自分の思いと違うといっても、私たちは、主に信頼して従わなければならないということです。神の御心と人間の思いはまったく違います。時には人間の思いのほうがより効率的で速い道のように見えるかもしれません。しかし、聖書は語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 3. 自分の十字架を背負う闘 – 一死覚悟 信仰の難しいところは、そこにあります。自分の思いがより正しく判断されても、まずは主なる神の御心はどうか聖書から確かめ、その御心と合わないなら、自分の意志をあきらめ、主の御心に従うこと、それが信仰だからです。人間的な見方で、イエスの死を反対したペトロの行動は悪いことではないかもしれません。むしろ、主イエスへの愛の行動でした。しかし、主なる神の見方では、ペトロの行動は神の御心に逆らう悪行でした。主イエスが死ななければ罪人とこの世への救いが成し遂げられず、ここにいる私たちの救いもなかったことになるからです。このような信仰の難しさのため、信仰をあきらめる人も歴史上いたでしょう。だから主イエスは、こんな趣旨で言われたわけです。「あなたの思いという十字架を背負い、わたしにならって自分の思いを捨て、主なる神の御心に聞き従いなさい。」到底理解できない状況、聞き従いたくない時にも、それが主の御心なら信じ従うこと、それがまさに十字架の道であり、信仰の道であるのです。そして聖書は語ります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」主の御心に従うためには、命をかけなければならない時がやってくるかもしれないということです。主の御心への服従のために、命をかける覚悟があるかどうか、聖書は尋ねているのです。 8月ですので、歴史の話しで例をあげたいと思います。1939年、日本帝国は「宗教団体法」を成立し、翌年から日本のプロテスタント教会を統合して政府に協力する教会にしました。その結果、何人かの影響力ある牧師たちの「神社参拝は国家儀礼である。」という主張によって、数多くのキリスト者が妥協し、神社参拝を犯しました。「そうだ。国家儀礼に過ぎない。家族のために、教会のために今は生き残るのが先だ。」死ぬよりは生き残って、後日を約しようと思ったからです。そのためか、日本のプロテスタント教会には目立つ殉教者は見られません。誰かは日本のプロテスタントに殉教者が皆無だと嘆きます。今日の説教題は「一死覚悟」ですが、植民地朝鮮の牧師「チュ·ギチョル」さんの説教題から引用しました。彼は「人間にはただ一度死ぬことが定まっている。(ヘブライ9:27)その一度の死を愛する主のために覚悟する。」という志を立て、拷問の中で死んでいきました。国家儀礼だと思ったら、一度だけ頭を下げたら、老母、妻、二人の息子の家長だった彼は死ななかったでしょう。しかし、カクレキリシタンが「ふみえ」踏まず、命をかけたように、彼は主を裏切らず信仰のために死を選んだのです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(啓示録2:10) 彼は自分の思いではなく、主の御心に聞き従ったのです。 締め括り 私が申し上げたいのは、朝鮮の教会が日本の教会より優れていたということではありません。チュ·ギチョル牧師のような、何人かの朝鮮の殉教者たちは素晴らしかったのですが、その数百倍の朝鮮教会の牧師たちは進んでみそぎばらいをし、宮城遥拝を犯し、チュ·ギチョル牧師は彼らに徹底的に見捨てられたからです。そういう意味として、朝鮮の教会も偶像崇拝の歴史から自由ではありません。しかし、誰かは主の御心を自分の思いより大事にし、自分の命をかけて信仰を守ったのです。それが「一死覚悟」の信仰だったのです。そして、それはカクレキリシタンの信仰でもあったのです。私たちは、なぜ主を信じているのでしょうか? 私たちは果たして自分自身、自分の家族、自分の必要より、主への信仰をさらに大事にし、命をかけてまで守る覚悟をしていますでしょうか? ただ、この志免教会の穏やかな雰囲気、心の安らぎ、あるいは他の理由のために習慣的に教会に通い、信仰生活を続けているのではないでしょうか? いつか自分の思いのために、主への信仰をかるがるに捨ててしまうのではないでしょうか? 何よりも、誰よりも、私たちのために十字架で死んでくださった方への信仰を大切に守り、一死覚悟のあるキリスト者として生きることを願います。歴史の8月、歴史に照らして私たちの信仰を顧み、成長させていきたいと思います。