主イエスの祈り。(3)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 私たちは前回の説教で、主の祈りの最初の部分について取り上げて話しました。まず、私たちは父なる神が天におられる方であり、その天とは被造物が近づくことのできない神の権能を意味するものであると学びました。さらに感謝すべきことは、被造物が近づくことのできない、天におられる権能の神が、イエス·キリストによって私たちの真の父になってくださったということでした。また、私たちはその神の御名を聖別して崇めるべきであるとも学びました。聖書において「名前」とは、ある存在そのものをあらわす大事なものです。神の御名が崇められるということは、神が聖別された存在で、尊敬と尊重をささげられるべき方であるということを意味します。私たちは全能と権能の神を父としている主なる神の民です。私たちはこの世がしない、また、できない神への尊敬と尊重を通して神の民にふさわしく生きなければなりません。イエスは主の祈りを通して、私たちの欲望と願いだけを望むわけではなく、そのすべてのことに先立って神に栄光を帰すことを優先的にすることを教えてくださいました。主の祈りを通じて教えていただいたイエスの祈り方によって、私たちの祈りにも良い変化がありますように祈ります。 1. 御国を来たらせたまえ。 その次、イエスは「御国」が到来することを祈ります。「御国(神の国)」私たちは天国や楽園を考えがちです。実際、御国には天国や楽園の意味も含まれています。しかし、より明確に言えば、「御国」とは、神のご支配が完全に成し遂げられるすべての状況と場所を意味します。前の説教で「御国すなわち神の国」は場所ではなく概念であると申し上げたことを覚えています。どこかに行ったら「御国」があるということではなく「神の御心が成し遂げられるすべての状況と場所」がすなわち神の国、御国になるのです。しかし、何度も申し上げましたように、この世は、主なる神に逆らい、神を無視するところです。全人類が神を知り、神を信じ、互いに愛しあい、協力しあい、助け合い、いつも喜び、絶えず祈り、すべてにおいて感謝して生きることが神の御心に含まれている人のあり方ですが、この世は反対に神を冒涜し、人間互いに憎み合い、争い合い、破壊しあい、悲しみと苦しみを作り上げていく、感謝のないところです。この世は神の国(御国)と全く逆の方向に向かっているのです。 このような世が神によって変わり、神の御心にふさわしい場所になっていくことが神の民、教会の祈りの課題にならなければなりません。そして、その神の御心を完璧には出来ないが、何とか役に立つようにと努力して生きる教会の生き方が、御国の到来を願う私たちのあり方ではないかと考えるようになります。まことに御国が来ることを願います。みんなが喜び、悩みもなく、悲しみもなく、幸いと幸せに満ちた、そのような世になることを祈ります。すべての人々が神を知り、信じ、頼って生きる主なる神の王国になることを祈ります。しかし、現実はそうでないため、私たちは御国が一日も早く到来するように神に祈り求めて生きなければならないでしょう。まことの神の国はイエス·キリストが再び来られる再臨の日に完成すると言われます。しかし、私たちは、その時がいつなのか分かりません。聖書には、ただ「父だけがご存じである。」と書いてあるだけです。しかし、その日は盗人のように不意にやってくるでしょう。その日が来れば、私たち皆が真の平安と幸せを享受することが出来るでしょう。その日を待ち望みつつ祈り、現在を生きていきたいと思います。 2. 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。 イエスは、その次に神の御心が天において成し遂げられたように、地においても成し遂げられることを祈られます。「御心が天において成し遂げられる。」とは、どういう意味でしょうか? ここでの「天」は、先ほどと違って御国を意味する表現です。(しかし、同じく神の権能と関りがある。)「御国」と「御心」は非常に密接な関りを結んでいます。私は神の国がある特定を場所を意味するのではなく「神のご支配が成し遂げられるすべての状況と場所である」と話しました。「神のご支配が成し遂げられる」とは、言い換えれば「神の御心が成し遂げられる」になるのです。したがって「御国」は神の御心の成就を意味します。神の御心が何か、私たちは明らかにはわかりませんが、少なくともすべてが神のご計画通りに成し遂げられることであるのは分かります。そんな意味として、キリストが遣わされ、この世のすべての罪の問題を解決し、「救い主」になった時、神の御心はすでおおかた成し遂げられたと言えるでしょう。というわけで、イエスは十字架の上で「成し遂げられた。」と言われたわけでしょう。(ヨハネ福音19:30)イエスは罪人の過去、現在、未来のすべての罪を解決し、罪と死の権勢に永遠に勝利することで、神の御心を成し遂げられました。これを「御心が天において成し遂げられた。」と表現することが出来るでしょう。 ただし、神のご計画によって、まだ私たちが生きている、この世では神の御心が成し遂げられていないように見える時もあります。まだ戦争があり、憎しみがあり、悲しみがあります。しかし、それらすべては神のコントロールのもとにあります。神はすでに罪と死の権勢に勝利されました。また、神は、ご計画に従ってイエス·キリストを通して、この世から悪を処断し、神の完全なご支配を完成していかれるでしょう。御国と御心はすでに成し遂げられていますが、私たちが生きているこの世では、まだ、その姿を完全に現わしていないだけです。天において成し遂げられた主の御心は、いつか、私たちが生きる地においても必ず成し遂げられるでしょう。したがって、私たちは「すでに」と「まだ」の間に生きている存在です。神はこの地にあって、すでに成し遂げられた御国と御心を、その民である教会が現わして生きることを望んでおられます。神がこの世を愛されたように、教会もこの世の回復のために仕え、神がこの世を憐れんでおられるように、教会もこの世に支えて生きるべきなのです。イエスは神が天において、すでに成し遂げられた御心を、主の民である教会によって、地(この世)においても、成し遂げられることを望んでおられるのです。ですので、教会は神の御心を大事にし、祈りと実践によって生きるべきであります。 3.教会は御国と御心の成就を待ち望む共同体。 先週の水曜日、私たちの大事な姉妹が精神的、肉体的な痛みを訴えて入院することになりました。姉妹が信仰によって成長することを願い、熟慮して会計の奉仕をお願いしたのですが、むしろ、それが姉妹に大きなストレスになってしまったようです。姉妹の状態にあらかじめ気づいていなかったこと、配慮しなかったことに大きな責任を感じます。姉妹にとって、志免教会が御国と御心を伝える共同体になれなかったと思わされ、すごく心が痛いです。しかし、私たちはそれにもかかわらず、主なる神が志免教会と姉妹の人生を憐れんでくださり、今までと同じように、これからも見守ってくださることを信じます。 そして、いつか主によって姉妹が回復し、笑顔でまた再会することを信じます。今はたとえ挫折し、絶望しようとも、変わらず神が主の御心を成し遂げ、御国を来たらせてくださると信じます。それが志免教会の唯一の希望だと思います。だから、私たちは今日も主イエスのように祈らなければなりません。「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」その信仰によって祈る時、御国と御心の成就を待ち望んで生きる時、神は主イエス•キリストによって私たちに答えてくださると信じます。 締め括り 先週の説教と今日の説教に取り上げた主の祈りの部分をもう一度読んでみます。「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」このように主イエスの祈りは神への讃美と栄光を帰す言葉から始まります。その後はじめて「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」と私たちのための祈りを始めるのです。私たちは普段「ご在天の父なる神様、主の御名を讃美します。」のような、慣用句的な表現を語り、すぐに自分の願いを言い出す場合が多いです。私たちはただ主の栄光だけを思って、長く祈ったことがありますでしょうか? 私自身も会心して、神のもとに戻ってきた時以外はほとんど、そのような祈りはしていないような気がします。私たちの祈りの半分を神への讃美と感謝だけで祈ることができる信仰を願います。もちろん教会での公の祈りの時は無理かもしれませんが、少なくとも一人で祈る時は、時々そのような祈り方が出来たら幸いです。それが私たちの主イエス・キリストの祈り方だったからです。主の祈りの方法を見習って神への讃美と感謝と栄光を帰す祈りをしていく志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。

主イエスの祈り(2)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 祈りは、キリスト教において、最も重要な信仰の行為の 1 つです。しかし「信仰」より「行為」のほうに集中したあまり、立派な文章の祈りをしなければならないという強迫観念にとらわれやすいと思います。しかし、イエスは言われました。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」祈りは人に見せるための行為ではなく「神と私」という両者の対話なのです。静かに祈っても、奥まった部屋で声をあげて祈っても、歩きながら祈っても、体調不良の時は横になって祈っても、どんな形で祈っても大丈夫です。形式ではなく、祈る時の真心が大事です。祈りは明確かつ人格的にする必要があります。祈りは呪文でも、お経でもありません。祈りは神との対話です。神に「率直、淡白、明確」に祈り、聖書や説教を通じて、主の御心が何かを注意深考え、お答えを求めるべきです。「人の真心の祈りと聖書と説教による神のお答え。」それが祈りによって神と対話する祈り方です。以上が前回の説教で皆さんと分かち合った内容でした。今日は、その祈りの最も完璧な見本である主の祈りについて考えてみましょう。 1. 天におられる私の父よ。 主の祈りは「天におられる私の父よ」という文章から始まります。神は天におられる方です。しかし、天は空を意味する言葉ではありません。聖書にも空ではなく、天と記されています。聖書での天は人間が生きる、この世をはるかに越える絶対的な神の権能を意味する場合が多いです。つまり、天の神は人間が近づくことのできない権能を持っておられる絶対的な存在という意味です。ところで、主の祈りは、すぐその後に「私の父よ」と語ります。人間が絶対に近づくことのできない絶対的な存在が、誰でもない「私たちの父である」ということです。皆さん。父なる神は、私たちのお父さんです。イエスはヨハネによる福音書20章17節でこのように言われました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」私たちを救ってくださったイエス·キリストがご自分で、主イエスの父なる神が、すなわち主の民の父でもあると言われたわけです。私たちがイエス·キリストを私たちの救い主と呼ぶことが出来る理由は、罪によって父と呼ぶことが出来ないイエス·キリストの父なる神を、キリストの救いによって「私の父よ」と呼べるようになったからです。 祈りは「父なる神」にするものです。時々、私たちはイエスや聖霊、あるいは神という言葉で区別なしに祈ったりします。しかし、基本的に祈りは「父なる神」にするものです。私たちの「素直、淡白、明確」な祈りを「聖霊なる神のお導きに従って、イエス·キリストの御名によって、父なる神に」するのです。この世の創造を計画し、御子と聖霊と共に創造を成し遂げられた父なる神にするのです。罪人の救いを計画し、御子の十字架の贖いと聖霊のお導きを通して御救いを成し遂げられた父なる神にするのです。すべてを計画される方に神とこの世を執りなしてくださる御子イエス·キリストの御名のみによって、聖霊のお助けによってするということです。もちろん、イエスや聖霊に祈っても問題はないでしょう。まとめて神に祈っても良いでしょう。そのような祈りも父なる神が聞いてくださるでしょう。しかし、イエスは父なる神に祈りなさいと言われました。三位一体のどの位格に祈っても、父なる神への祈りが基本である事実は覚えて祈りましょう。私たちは全能の神を父と呼ぶ存在です。私たちは一人ぼっちではなく、偉大な神の子供として生きているのです。だから、堂々と父なる神に祈りながらこの世を生きることができるのです。 2. 御名が崇められますように。 聖書の背景となる古代中東世界において「名前」は現代人が考える以上の重い意味を持っていました。もちろん、現代の私たちの名前も両親や家族が大事な意味を込めて付けてくれたでしょう。しかし、昔の新旧約時代の名前はそれ以上の意味を持っていたと言われます。その中でも、神の御名は、さらに特別で、律法学者たちは旧約聖書を書き写す時、その御名を一字一字記録する度に体をきれいに洗ったり、その名前を呼ぶことを控え、音なく口だけぱくぱくしたりしたと言われます。神の御名を呼ぶことを大きな失礼だと思い「アドナイ(私の主、ヘブライ語)」という別の表現を使ったりもしました。神の御名は神の存在そのものとされていたからです。したがって、神の御名が崇められるということは、ひとえに神だけがこの世のすべての上におられ、最も神聖な存在として確実に聖別されることを望むということです。私たちの祈りにおいて、自分の願いを求める前に、神をほめたたえ、礼拝し、特別に聖別して、神に栄光を帰すことを先に祈るべきということです。 この世界は、三位一体なる神によって創造されました。しかし、この世界は神を尊重することも、尊敬することも、信じることもしていません。もともと「神」という表現は、この世を創造された三位一体なる神にのみ使えるべき聖別された名称ですが、どこの文化圏に行っても「神」と呼ばれる偶像は存在しています。そして、多くの人はその偽物の神を本物の神として拝んで生きています。あるいは、他のどんな存在でもなく、自分自身が神のようになって自己中心的に生きる人もいます。したがって、この世は「イスラエルの神、三位一体なる神、真の神」を無視し、冒涜し、神を認めないつつあるのです。キリスト者は、このような世にあって「真の神」を憶え、その方の御名だけを聖別し、讃美と礼拝をささげることを求めて祈らなければなりません。神を自分より優先にし、自分の必要はその後にして、私たちの祈りの優先順位が「自分の欲望」ではなく「神の栄光」になるように、祈る時、気をつけるべきです。御名が崇められるよう祈るということは、神を最優先する信仰を表すものです。私たちの祈りはどうなっているでしょうか。神の御名が先に崇めれらる信仰であるように祈ります。 締め括り イエスは主の祈りを通して、まずは、神の栄光のために祈られました。今、自分の状況がどうであれ、まず神の栄光のために祈るべきであると教えてくださったのです。私たちは、祈りを神に何かを頼んだり求めたりするものだと思いがちです。だから「何かをしてください」というふうに言ってしまいます。もちろん、私たちは神の子供なので、真の父である神に必要なことを求めるのが当たり前だと思います。しかし、時には神に「感謝と讃美と栄光を帰す祈り」もささげたいと思います。両親に「お菓子買ってくれ、買ってくれないと泣いちゃうよ」と甘えばかりしていた子供が立派に育ち「お母さん、お父さん、いつも元気でいてくれ。幸せに生きてくれ。私頑張るから」と言うと、両親はどれほど大喜びで幸せになるでしょうか? 神にも「主なる神の栄光のために、御心が成し遂げられるように、御国が到来するように」と、立派に成長した信仰者としての祈りを捧げることができればどれほど神に喜ばれるでしょうか?毎週唱える主の祈りの時に、その意味を深く考えて私たちの祈りの見本として祈っていくことを願います。

主イエスの祈り(1)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今年の志免教会の主題聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16₋18)にしました。私たちは普段、神の御心(神の望んでおられること)という言葉をよく口にしていますが、案外と神の御心が何か全く分からない場合が多いです。しかし、神の御心が分からないのは、当然のことだと思います。家族の心も分からない私たちが、神の御心を分かるなんてとんでもないからです。ところが、聖書には明確に神の御心であると記してある箇所がありますが、それが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」なのです。神の御心が全く分からないといっても、少なくとも「喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい。」といった三つのことは、確実に私たちへの様の御心として与えられているということです。今日はその中で「祈り」について、マタイによる福音書の言葉に照らして話してみたいと思います。 1. 祈りは神と私たちの対話 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:5-6) 当時のユダヤ人社会には、1日に3回の祈りの時間(午前9時、正午12時、午後3時)が定まっており、その時間になると家でも、市場でも、神殿でも、どこでも祈りを始めたようです。旧約聖書のダニエルも1日に何度も、時間を決めて祈ったと書いてありますから、ずいぶん前からそういう慣習があったようです。さて、今日の本文では、その祈りにおいてイエス・キリストが問題を提起しておられる場面が描かれています。祈りは紛れもなく望ましい信仰の行為ですが、その祈りという手立てを利用して、大勢の人々が見ているところで、見事な祈りをする人々の宗教的な偽善を警告されるのです。イエスはそのような人々が「偽善者」であり、彼らはすでに自分の報いを受けていると言われます。「自分の報いを受けている」とは、神に受けるべき信仰の報いの代わりに、他人に自分の宗教的な行為を自慢することで、神からは祝福されず、虚しくて無意味な優越感だけを得ることを意味します。それを避けるために主イエスは奥まった部屋で密かに神に祈ることを命じられます。他人に表すことなく、静かに神おひとりだけに集中して祈りなさいということです。 イエスの時代のユダヤの宗教指導者たちの中には、市場の道端や神殿のような目立つ場所で、あらゆる美辞麗句を使って見事な祈りをする人が多かったようです。普通の人は路上の隅でしばらく止まり、静かに祈り、再び足を早めたのに、彼らは他人に見せようとするかのように、難しくて素敵な言葉の祈りを長い時間唱えたわけです。自分の優れた宗教の熱心を自慢し、誇るためだったからでしょう。しかし、その祈りは神への純粋な祈りだったでしょうか? それとも、祈りにかこつけて自分を高める空威張りにすぎなかったでしょうか? イエスは彼らから純粋でないことを見つけられたのです。現代の教会にも、素敵な祈りの人と祈りに苦手な人がいます。もちろん、志免教会では、祈りの上手な方も、祈りの苦手な方も、ユダヤの宗教指導者たちと違って、純粋な心から祈りをしておられると信じます。時には礼拝のための祈りや献金のための祈りなどの公の祈りが必要な場合もあります。しかし、基本的に、祈りは他人に自分の信仰を表すための道具になってはなりません。とりわけ日本キリスト教会の場合、水曜祈祷会の時に一人ずつ順番に祈りますので、祈る人の考えや祈りのスタイルが赤裸々に表れます。ですから、私たちは祈る時に自分の信仰を自慢する道具にならないように祈りに気を付ける必要があります。 主イエスが提示しておられる祈り方は、奥まった部屋で密かに祈ることです。もちろん、これは本当に奥まった部屋で一人で祈りなさいという意味ではありません。他人に自分の信仰を自慢するためではなく、自分の欲望を叶えるために神を利用することでもなく「神と自分自身」という2人の人格が素直な対話と交わりにあって会う時間としての祈りをすべきだということです。祈りの言い方が立派でなくても大丈夫です。道を歩きながら心の中で小さく祈ってもいいです。他人が分からないような口ずさみの祈りも、誰もいない部屋で大声を叫ぶ祈りも結構です。時には悲しみに耐えられず黙って涙を流すだけの祈りも、喜びにあふれて感謝という言葉ばかり繰り返す祈りも良いです。大事なのは「神が自分のすべての事情を知り、祈りを聞いておられるから、ただ神にだけ自分の心を吐き出す。」という信頼で神に集中して祈ることです。祈りは「神と自分自身」という両者が対面して語り合う時間です。「神が私を創造され、私を救われ、私と一緒におられる方なので、ただ、その方だけに私の心の中のすべてを吐き出して声をかけること」なのです。祈りは、私たちの信仰と美辞麗句の誇りのための道具ではありません。言葉よりは心がさらに大事で、ただ神だけが聴いてくだされば良いという信仰で純粋さを失わないことが大事です。祈りは神と私二人きりの対話だからです。 2. 言葉ではない心。 「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:7-8) イエスは祈る時の心構えについてもお話しになります。イエスは父なる神が、すでにキリスト者の必要をすべて知っておられるという前提を立てて祈る方法について言われましたが、 「くどくどと述べるな」がそれです。くどくどと述べる祈りとは何でしょうか? この表現に使われたギリシャ語の翻訳は「口ごもる。つまらなくしゃべりまくる。意味なく繰り返す」という言葉でした。仕方なくどもる障害の人もいますが、普通の人が口ごもる時は、明確な思考や確信がなく、何でも意味なくしゃべりまくって言葉に詰まってしまう結果としての場合が多いです。つまり、神の前で集中せず、長く祈れば聞いてくださるだろうという発想で全心を尽くさないイメージが「くどくどと述べる」なのです。私たちは「くどくどと述べる」祈りと、そうでない祈りをどのように見分けることができますでしょうか? 旧約聖書の列王記上18章には、預言者エリヤとバアルとアシェラ(イスラエルの偶像)の崇拝者たちの対立が描かれています。 預言者エリヤが偶像崇拝者850人と、各々の神から先に答えられる側が勝利する対決をしています。 850人もいる偶像崇拝者は、朝から夕方まで自分らの神バアルに叫び、答えを求めますが、そもそも存在しない神なので何も起こりません。しかし、エリヤがただ一度の短い祈りをした時、イスラエルの神はお答えくださり、天から神の火を降らせ、焼き尽くす献げ物を燃え上がらせてくださいます。神は本当におられる人格を持ったお方です。そのため、私たちの祈りを明確に聞いておられるのです。祈りは、呪文やお経のようなものではありません。祈りは、神へのキリスト者の明確なコミュニケーションです。ですから、意味なく話しまくるよりは、たった1分を祈っても明確な自分の心を込めることが大事です。神は生命も感覚もない虚しい偶像ではありません。今も生きておられ、私たちを見守って、私たちの祈りを聞いて答える準備をしておられる、確かに生ける人格的な存在です。だけでなく、神はすでに私たちの事情と必要を知っておられ、私たちが何を祈ろうとしているのかも知っておられます。神がお定めになった時が来れば、私たちの祈りに答えて私たちに真の満足と喜びをくださることを望んでおられる方です。したがって、私たちの祈りは簡潔で明確でなければなりません。多くの言葉ではなく、明確な心を込めて祈る時、主なる神は必ず聞いて私たちにお答えくださるでしょう。 締め括り 今日の本文を通じて考えてみた主イエスが望んでおられる祈り方は、3つの特徴で言えると思います。「素直、淡白、明確」神はくどくどと述べずに、はっきりとした祈りを望んでおられると言い換えることができるでしょう。もちろん、祈りを短くして終わらせるべきという意味ではありません。時間は関係ないのです。短くても長くても構いませんので、他人に見せようとする祈り、意味なく長く続ける祈りではなく、神に信頼して人格的で明確な祈りをしなさいということです。ですから、主イエスは今日の御言葉の後に「主の祈り」という、この世界で一番素直で淡泊で明確な祈りを教えてくださるのです。私たちの祈る時の姿はいかがでしょうか? 今日の本文を通じて私たちの祈り方について考える機会になれば幸いです。来週は「主の祈り」を通じてイエスはどんな祈りをされたのかを話してみたいと思います。素直で淡泊で明確な祈りをして、神と対話しつつ生きる私たちであることを願います。

幸いである。(4)

イザヤ書32章17節 (旧1112頁) マタイによる福音書5章3~12節(新6頁) 前置き 今日は「幸いである。」の最後の説教を話してみましょう。 私たちはここ 4 週間「幸い」について学んでいます。日本語の聖書には「幸い」と書いてありますが、中国語や韓国語の聖書を見ると、この幸いが「福」と書いてあります。原文に近い表現は「幸い」より「福」のほうが正しいと思います。私たちは、この「福」という漢字語を見ながら、どんなイメージが思い浮かんでくるでしょうか? 幸福、祝福など「幸せ」としての意味が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。しかし、前の3回の説教を通して神がくださる福は、単純にこの世での幸せだけを意味するものではないということが分かりました。私は山上の垂訓でイエスが語られた幸いが「神が私たちを離れならないで永遠に共におられ、私たちを導いてくださること」だとお話ししました。神の幸いは、世の幸いとは異なります。この世だけでなく、来るべき新しい世(天の国、再臨の日)でも、神が私たちの主になってくださり、私たちと共におられ、守ってくださるのです。財力でも、権力でも、死でも切ることのできない、神と私たちの永遠の関係、イエス·キリストが語られた幸いとは、私たちがいつどこにいても私たちに与えられる、主なる神との永遠な付き合いと歩みの幸いであるのです。 1. 平和を実現する者は幸いである 七つ目の幸いは、平和を実現する者に与えられる幸いです。私たちは戦争と破壊、葛藤と対立の世界を生きています。日本も約80年前は戦争をしていました。戦争と破壊は依然として私たちの近場にあり、大勢の人々が苦しんでいます。このような世の中で私たちは真の平和を念願するようになります。ところで、平和とは何でしょうか? 明らかなことは、平和とは、単純に戦争と破壊、葛藤と対立がない状態だけを意味するものではないということです。ヘブライ語で平和を意味する「シャローム」は「安全である。満ちている。完全である」などを意味する『サラーム』に由来した言葉です。私はそれらの中で最も大事な言葉が「完全である」だと思います。完全な時にはじめて、安全になり、満たされることができるからです。それでは、完全さとは何でしょうか。私は、その原型を、神の創造から見つけたいと思います。真の完全さ「シャローム」は、神の創造世界が、まだ人間の罪によって汚されていない創造直後の姿に現れます。しかし、人間の罪が世の中に入ってき、それによって神の創造の世界に戦争と破壊、葛藤と対立とが生まれました。 神が世界の創造を終えられた時、この世をご覧になって「極めて良かった」(創1:31)と喜ばれました。すべてが完全であり、苦しみも悲しみも戦いも嘆きもない、この上ない完全な世界だったのです。神はその完全な世界を治めさせるために人間を造られました。人間は創造の世界で、神との平和(シャローム)の内に生きるだけで結構だったのです。しかし、人間はその平和に満足せず、神の玉座を貪ってしまいました。結局、人間は神の命令に逆らって、自ら神になろうとしました。その背反が人間の罪となり、その罪によって、完全な創造の世界に罪が入ってくるようになりました。そうして始まった人間の罪は葛藤と対立をもたらし、それによってこの世には戦争と破壊が満ち溢れるようになったのです。誰も戦わず、憎まず、殺さなくても、みんなが幸せに生きられるはずの神の創造の世界は、人間の罪によって平和が消え去り、阿鼻叫喚の世界になってしまったのです。真の平和とは、単に戦わずに仲良く過ごすことだけを意味するものではありません。神が創造を終えられた、その時の神による完全さ、恵みに満ちている状態、神のみ言葉通りにすべてが成し遂げられる状態こそが、真の平和の状態なのです。そんな状態では、戦争、苦しみ、悲しみがありえないからです。 平和を実現する者とは、神の創造の摂理がありのままに成し遂げられることを望む人を意味します。神が創世記で「極めて良かった」と言われた堕落していない人間の姿のように、罪を拒否し、神と隣人を愛し、神の御言葉に従い、神の御心が成し遂げられることを望みつつ生きる生き方から、私たち平和は始まるのです。主イエスが敵をも愛しなさいと言われたように、自分の嫌いな人でさえ、愛し、主が互いに助けあいなさいと言われたように、互に力になりあって生き、主が忍耐しなさいと言われたように、怒らず忍耐し、相手を理解しようとする生き方から、私たちの小さな平和は始まるのです。キリスト者一人一人の小さい平和の実践から、世界が変わっていくのです。聖書は、イエスこそ平和であると語っています。なぜなら、イエスは神の御言葉に反抗せず、完全に聞き従い、神の御心が成し遂げられることを願い、ご自分のすべてを捧げたからです。そのイエスの犠牲により、互いに赦しあわせる聖霊の導きがもたらされたからです。そのような主イエスの生き方にならおうとする時に、私たちにも小さな平和が生まれてくるでしょう。今日の本文は、平和を実現する者が、神の子と呼ばれるだろうと語っています。私たちが本当に神の子と呼ばれる存在なら、私たちは、まず神の御言葉に従うことで、私たちの中にキリスト・イエスによってよみがえった創造の完全さが生き生きと動いていることを証明すべきです。 2. 義のために迫害される者は幸いである。 「幸いである」の2回目の説教で、私はすでに6節の「義に飢え渇く者は幸いである」について話しました。その時、私は聖書が語る「義、正しさ」について、このように定義しました。「神が約束されたことを忠実に成し遂げてくださること。」つまり、聖書が語る義とは「神の約束どおりにご自分の御心を成し遂げていかれること」を意味します。聖書が語る義は、神という主語によって生まれるものです。神の義でなければ、この世に本当の「義」はないということです。今日の本文の言葉は、このように言い換えることができると思います。「神がご自分の約束どおりに主の御心を成し遂げられることのために迫害を受ける者は幸いである。」神はアブラハムの子孫を通して、この世に救いをくださると約束されました。そして、私たちはその子孫がイエス・キリストであると信じています。この世は罪に満ちており、神に逆らう人々が大多数の状態です。そんな世界であるにも関わらず、聖書に記録された主の言葉(約束)が、主の御心のままに成し遂げられることを願って、主イエスを愛し、主イエスだけに仕えながら生きて迫害を受けようとする者たちは幸いであるということです。朝鮮が日本帝国の植民地だった時代、韓国には「チュ·ギチョル」という牧師がいました。彼は朝鮮長老派の牧師で、日本帝国の弾圧にも屈せず、最後まで神社参拝に反対し、イエス・キリストへの信仰を堅く守ることで、投獄され、殉教しました。 彼は、神の約束の実現である「救い主イエス」だけが自分の王であると告白し、絶対に神社参拝をしませんでした。神の約束を信じたため、迫害の中でも自分の信仰を捨てなかったわけです。そして、その結果は、獄中の殉教でした。残念なことは、その時代に日本と朝鮮に神社参拝に加担して主を裏切った牧師たちがあまりにも多かったということです。ところが、その当時の牧師たちが悪かったと悪口する必要はありません。彼らではなく、私たち自身を顧みるべきです。そんな時代を生きていたら、自分自身は神社参拝に反対して殉教することが出来るだろうかと考えてみましょう。正直に言って、私は簡単に自信があるとは言えません。皆さんはいかがでしょうか? 神との約束の実現、イエス·キリストへの信仰のために、皆さんは自分の命をあきらめることができますでしょうか? 私たちに与えられた最も大事な「義」とは、まさにイエス·キリストを自分の主として何があっても信じることです。そして、私たちに求められる迫害への対応は、イエスのために自分自身の生命をも惜しまないことです。世の人々がローマ皇帝を、天皇を王としても、私たちだけは主への信仰により「私の唯一の王はただおひとりイエス·キリストだけだ。」と死ななければならないのなら、死ぬ覚悟で主に従うのです。それが義のために迫害を受ける者のあり方なのです。 私たちの信仰が銃と剣に屈して、倒れやすい砂の上に建てられた家のようなものでないことを願います。キリスト・イエスという岩の上に建てられた家のように、神への信仰を堅く守っていくことを願います。今日の本文は、そのような人が「天の国を所有する」と語っています。そして、天の国とは、前の説教でも申し上げたように、私たちがどこにいようとも、主が私たちと永遠に歩んでくださり、私たちを助けて導いてくださることです。(場所ではなく、状態)私たちは果たして義のために迫害を受ける人生を生きているでしょうか? 近所の人の目が気になって、キリスト者であることを隠したり、家族の顔色をうかがって消極的に信仰生活をしているのではないでしょうか? もちろん、伝道を強いることは控えた方が良いと思います。しかし、自分の信仰を恥じ、隠すことは望ましくありません。神もそんな者を喜ばれないからです。志免教会の兄弟姉妹が、主イエス·キリストへの恥じのない信仰により、義のために受ける迫害を恐れない方々であることを願います。そのような者たちが幸いな者であり、天の国を所有する者であると本文は教えています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(11-12) 締め括り 今日は、八つの幸いの中の最後の二つの幸い、平和を実現する者、義のために迫害を受ける者の幸いについて、お話しました。平和と義は非常に密接な関係です。イザヤ書にこんな言葉があります。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ32:17) 神の義が守られなければ、真の平和も到来しないとのことです。平和と義が八つの幸いの最後に一緒に書いてある理由は、平和と義との密接な関係を表すためだと思います。神の義でおられるイエス·キリストを堅く信じる時、真の平和が私たちにもたらされることを信じて生きることを願います。今日で八つの幸いの説教は終わりです。ご帰宅なさって、お時間のよろしい時に、八つの幸いの言葉をお一人で静かに読んでいただければ幸いです。 キリストにならい、神に幸いをいただく志免教会であることを祈り願います。