主の慰め

創世記29章14b-35節(旧47頁)  コリント信徒への手紙二1章3-7節(新325頁) 前置き 兄が受ける長男の祝福を奪ったヤコブは、兄の恨みを避けて700kmも離れていた母の実家へ向かいました。彼は旅路に野宿をすることになったのですが、夢で天と地をつなぐ階段の上におられる神に出会いました。目を覚ました彼は、記念碑を建てて、そこをベテルと名付けました。「兄の祝福を横取りしたヤコブが一番先に経験したことは、世間の言う心身ともに安らかな祝福ではありませんでした。むしろ見知らぬ所での苦難と孤独でした。しかし、その苦難と孤独は神がヤコブを成長させてくださるための一種の訓練でありました。キリスト者はイエスを信じるようになってからも苦難と孤独に遭う場合があります。多くの苦難と孤独はあるものの、ヤコブは成長していきます。そして、彼は最終的にイスラエルという新しい名前を得、神に認められた民となります。今日は、そのヤコブの人生の中で、彼の結婚とその結婚によって苦しめられた一人目の妻、レアについて考えてみたいと思います。 1.ヤコブとラバンの性格 まず、ヤコブとラバンという二人の性格について考えてみましょう。(今日の本文は14節から35節ですが、説教では29章全体の内容を取り上げたいです。)「ヤコブは言った。まだ、こんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。すると、彼らは答えた。そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」(7-8)中東では水の管理が本当に大切です。古代中東では、ある部族が族長を中心にして、乾季には深い地下貯水槽を掘り、雨期には雨水を貯め、その水で1年間を生活したと言われます。つまり地下水の井戸ではなく、雨水を溜めて使ったということです。イスラエルでアブラハムの時代に造られたと言われる貯水槽に入ったことがありますが、深さは20メートルにも達するほど大きな貯水槽でした。そして、大きな岩でその貯水槽の口を塞ぐ、人がただで使えない構造になっていました。「まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。」(3) 3節のすべての羊の群れを集める理由も、そういう事情があるからです。公の物ですので、みんなで一緒に貯水槽の蓋石を運び、水を分配するのです。「ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り、石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。」(10) ところで、前の7~8節で貯水槽を勝手に使ってはいけないという話を聞いたにもかかわらず、10節でのヤコブは何の許可も得ずに貯水槽の蓋を勝手に開けて水を飲ませました。これはヤコブの配慮のある働きだったかも知れませんが、明らかに勝手な振舞いでした。もしヤコブがラバンの甥でなかったら、ヤコブはここで命を失うか、ひどい目にあったのかもしれません。(ラバンはその地域の族長と思われます。) この短い文章を通して、私たちはヤコブという人の性格が間接的に分かるようになります。自分の目標を何としても成し遂げようとする身勝手な振舞い、自分がすべての中心になって自分の欲望のために生きる人間。それが若いヤコブの性格なのです。その後、このヤコブはおじラバンに会い、母の故郷であるハランで暮らすようになります。ところで、このヤコブのおじのラバンも、ただ者ではありませんでした。「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(25-27) ハランにたどり着いたヤコブは、その後、ラバンの次女であったラケルを愛することになりました。ヤコブは、このラケルと結婚することを願うようになりました。ラバンはその点を見逃しませんでした。 「ラバンはヤコブに言った。お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」(15)おそらく、ラバンはヤコブがラケルを愛していることを利用して、意図を持って、このような提案をしたのかもしれません。これに対してヤコブは「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます。」と言い、ラバンは「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」と答えました。ここで「お前に嫁がせる方が良い。」という表現を、あえて日本語的に翻訳すれば「お前の方が他人よりは増しだろう。」という表現になります。 意図を含んだ表現なのです。ラバンはこのように自分の娘を口実に7年間、こき使いました。7年後、ヤコブはラバンにラケルとの結婚を要求しました。しかし、ラバンは、あの欲望としつこさのヤコブを見事に欺きました。 結婚初夜にヤコブの愛するラケルではなく、長女のレアを新婚の部屋に行かせたのです。 2.「レアの悲しみと神の慰め」 このように騙す者ヤコブは、そうして血肉のラバンに騙されてしまったのです。不思議なことにこの世は、こんな人間たちによって牛耳られたりします。 あの有名な『三国志』では、曹操という英雄が登場しますが、人々は彼を「奸雄」と呼びます。ずる賢い英雄という意味です。今回のウクライナとロシアの戦争も、「侵略しない」という過去の約束を破ったロシアによる戦争です。そういう意味でプーチン氏も奸雄と言えるでしょうか。 歴史上、このようなことは数え切れないほどたくさんありました。そして、いつも、そのずる賢い人間たちによって世界は苦しみを受けました。いつか神はそのすべての悪人を必ず厳しく滅ぼされるでしょう。ところで、ヤコブとラバンという二人によって、誰かが苦しむことになりましたが。それはヤコブの1人目の妻であり、ラバンの長女であるレアでした。「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(25-27) この説教を準備する際に、妻とこう話しました。「レアがとてもかわいそうだ。彼女は夫から充分に愛されていない。」この世の中で夫に愛されない妻ほど悲しい人がいるでしょうか? もし、ただの恋人だったら、いつでも別れて終わりですが、夫婦関係なら別れにくいでしょう。現代では、割と「バツイチ」が、そんなに恥じではないと思われるでしょうが、この当時は数千年前の古代です。女なら無条件に、父、夫、息子に依存するしかない時代です。なのに、レアは自分に全く心もない男に、それも抱き合わせ販売のように嫁がせられてしまったのです。実際、レアはヤコブに愛されず、悲しい気持ちで生きていかなければなりませんでした。「ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。」(30)他人を配慮しない人たちが自分だけのために生きていく世の中は、このように誰かを地獄のような痛みの中に落としてしまいます。 こういう様(さま)は神が希望しておられる世界ではありません。 皆さん、我々は自分の欲望に気をつけなければなりません。自分自身の欲望が誰かに拭えない傷になり得ることを忘れてはいけません。私たちは蛇のように賢く、鳩のように素直に生きなければなりません。なぜなら、蛇のように賢い者が、蛇のように生きていくと、誰かが必ず、その毒に苦しんでしまうからです。 「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。」(31) しかし、夫と父の間で苦しんでいたラケルにも一筋の光はありました。それは神の慰めでした。 古代人の認識において子供が多いということは、神の祝福であり、神に愛されている証拠でした。レアは夫の愛を十分受けることはできませんでしたが、神の愛によって多くの子どもを儲けることになりました。レアは全部で6人の息子、つまりイスラエル12部族の祖先の半分を産み、中にはキリストの祖先であるユダもいました。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンが彼らです。ルベンは「神が顧みてくださる」シメオンは「神が聞いてくださる」レビは「結び付いてくださる」ユダは「神を賛美する」イッサカルは「報酬をくださる」ゼブルンは「一緒に暮らす」という意味です。ラケルが2人、レアとラケルの女奴隷らが、それぞれ2人を産んだので、レア1人で3人の女性と同じ数の息子を産んだわけです。夫と父、2人の欲望の強い人によって苦しんでいたレアは、すべてのことを知り、すべてを導いてくださる神の恩寵によって大きな恵みを受けたのです。そして最終的にレアが神に召される時に、ラケルも葬られることが出来なかったアブラハム家の墓に葬られるヤコブの唯一の妻として聖書に記されるようになりました。神が彼女をヤコブの本妻として認めてくださったからです。 締め括り 信頼する父と愛する夫に何の存在価値も認められなかったレアは本当に悲しい女でした。しかし、彼女には神がいらっしゃいました。神はもちろんヤコブの他の妻たちにも子供をくださいましたが、神は誰よりも、この一人の女の痛みをよく分かってくださり, その痛みを慰めてくださいました。私たちは有名でもなく、力も弱く、何も変えることができない群れです。しかし、この世を創造なさった、歴史上、最も有名な方が、我々と共におられ、我々を慰めてくださいます。今日の本文を通じて、私達はこれを必ず心に留めて生きるべきです。誰も私たちの肩を持たない時、神だけは私たちの味方になってくださるということです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」今日の新約本文コリントの信徒への手紙二1章3-5節の御言葉のように、神は私たちを慰めてくださる父なる方です。今日、レアを慰められた神のことを覚え、誰も私たちを認めてくれない時、神お一人だけは覚えてくださることを信じていきましょう。慰めの神の愛が志免教会の上に満ち溢れることを祈り願います。

異邦人に食べ物を与えられたイエス

エゼキエル書34章23-24節(旧1353頁)  マルコによる福音書8章1-10節(新76頁) 前置き イエスは7章のシリア・フェニキアのギリシャ人女の娘を癒してくださって以来、引き続き、異邦人の地域を巡っておられました。イエスは異邦地域に来られ、シリア・フェニキアのギリシア人の女に出会い「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(7:27)と非常に侮辱的な話をされましたが、それは主の本音ではありませんでした。それは異邦人である彼女に救われるに足る信仰があるかどうかを試みる一種の試練でした。それに対してギリシャ人の女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7:28)との答えで、主に自分の謙遜と信仰を示し、彼女の信仰を確認された主は、快く彼女の娘を癒してくださいました。主イエスは異邦人を犬のように扱われる方ではありません。主はユダヤ人、異邦人を問わず、主の愛をお伝えになる方です。今日の出来事も、その差別のないキリストの愛の物語です。今日は、4000人に食べ物を与えられた物語を通して、異邦人を愛される主について学び、教会の在り方について考えてみたいと思います。 1.イエスの差別のない愛。 今日の出来事は、マルコ福音書の6章に出てきた5000人に食べ物を与えられた物語と非常に似ています。前回の6章の説教では、五つのパンと2匹の魚で5000人に食べ物を与えられた出来事について考えてみました。その時、私たちは ヘロデ・アンティパスというガリラヤ地域の邪悪な王とイエスという神から遣わされた善い王を比較し、5000人に食べ物を与えられた出来事を真の王であるキリストの正しい統治と結び付けて説教しました。しかし、その時、言及しなかった内容があります。それは5000人に食べ物を与えられたことが、ユダヤ人のみを対象にする出来事だったということです。ローマの支配層とユダヤ人の有力者だけを相手にして、一般の民には暴政をしいていたヘロデ・アンティパスとは違い、ユダヤ社会に疎外されていたユダヤ人の群衆を哀れみ、食べ物を与えることで、キリストは主流以上に、非主流を愛されるイスラエルの真の王であることを語りました。今日の本文の4000人に食べ物を与えられた出来事は、前に5000人に食べ物を与えられた出来事と非常に似ていますが、その対象が異なります。今日の本文の最後には「弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。」(10)という言葉がありますが、ここで言うダルマヌタ地方はガリラヤ湖の西側、つまりユダヤ人の地域です。それから、主はシリア・フェニキアの女の娘を治してくださって以来、異邦の地域で活動を続けておられたことが分かります。そして、その異邦での活動の終止符として4000人の異邦人たちを食べさせてくださったのです。 5000人に食べ物を与えられた出来事と4000人に食べ物を与えられた出来事は非常に似ている話で、何人かの学者たちは、この二つの物語が同じ言い伝えから派生した可能性があると考えています。現代の聖書学者たちは、聖書が一つの場所で、また一人によって記されたとは思いません。昔のユダヤ人の言い伝えによって伝わってきた話が、誰かによって一つの文章に編集されたと思います。そのため、5000人に食べ物を与えられた出来事と、4000人に食べ物を与えられた出来事が、ある同じ話から派生した可能性があると思ったわけです。確かに二つの話は非常に似ています。ですが、その対象が明らかに異なるゆえに、2つの物語が持つメッセージも異なると思われます。重要なことは、同じ物語から派生したかどうかではなく、2つの物語がそれぞれ何を表しているのかということです。神はユダヤ人、異邦人を問わず、すべての人種を同一に愛し、憐れんでくださる方です。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(2)ここで、イエスがおっしゃった「かわいそうだ。」という表現は5000人に食べ物を与えられた出来事にも言われた言葉ですが、その原文は「スプランクニゾマイ」というギリシャ語です。この表現は「内臓が切れるほど、痛みを感じる」という意味です。つまり、主がかわいそうに思われたことは、他人への同情ではなく、主ご自身の問題とされたということでしょう。ところで、イエスが6章でユダヤ社会から疎外された貧しいユダヤ人たちに感じられた感情を、異邦人たちにも同じく感じられたということです。 旧約聖書において神は、おもにイスラエル民族を対象にし、彼らを選び、成長させ、彼らの罪を裁き、彼らを再び回復させてくださいました。そういうわけでユダヤ人たちは自分たちのみが神に選ばれた特別な民族だと思いました。しかし、旧約聖書には、イスラエルだけでなく、異邦の民族までも愛してくださる神に対する描写が、いくつでも見つかります。ユダヤ人たちは異邦人を無視し、汚れたと考え、差別するだけでなく、ユダヤ人の中でも貧しい者、病んでいる者、失敗した者を差別し、憎んでいました。しかし、真の神の福音を持って来られたイエスは、その全ての差別を打ち砕き、ユダヤ人と異邦人とを区別なく愛してくださる方です。そして、その愛を通してご自分の命を捧げ、ご自分のことを信じる者なら、誰でも救ってくださることを望んでおられる方なのです。今日の言葉は、その差別のないイエスについての重要なエピソードなのです。神はすべての存在の神です。言い換えれば、神はこの世の全ての存在の主でいらっしゃるのです。だから神は教会だけを愛する方ではありません。神は、この世のすべての存在を愛する方です。我々がイエスを信じて救われたからといって、神がイエスを信じない他の人々を憎んでおられるという意味ではありません。むしろ、神はすべての人がイエスを信じて救いに至ることを切に願っておられるのです。 2.私たちの姿はどうでしょうか。 イエスが異邦人に、このような奇跡を起こそうとしておられた時、イエスのユダヤ人の弟子たちは、どのように考えていたでしょうか? 「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。弟子たちは答えた。こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(3-4)イエスが、異邦の群衆の飢えを心配された時に、弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と言いました。この日本語の表現には「どのようにして」という直接的な表現が見えませんが、原文には「果たしてどのようにして異邦人であるこの人たちを食べさせることができるでしょうか。」という表現が隠れています。それは異邦人を食べさせたくないという意味が含まれている表現です。弟子たちは今まで主イエスの数多くの奇跡を目撃し、主の御言葉を聞いて、その方と一緒に生活して来ましたが、ユダヤ人が否定的に取り扱う異邦人までも、愛しておられる主の心を到底納得することができませんでした。「ユダヤ人だけが神の民ではないか?異邦人は神の呪われた存在ではないか?」という思いが彼らの心の中にあったのです。マルコによる福音書の著者は、マルコによる福音書全体を通して弟子たちが、どれほど愚かな存在だったのかをよく示しています。そして、その弟子たちの愚かさを通して、我々には弟子たちのような姿はないか、その都度、顧みさせます。 私たちは時々、自分も知らないうちに自分と異なる存在に壁を築いているのかもしれません。まずは自分から、まずは我が家族から、まずは我が教会から、まずは我が国から、すべてにおいて自分のことを中心にし、自分と異なる何か、誰かに向かって隔てをつけているかも知れません。しかし、我々の主イエスは、内と外、身内と他人を問わず、大切に思い、愛してくださる方です。神の哀れみと愛は差別なく公平です。なぜなら、そのすべてが主がお創りになった主の被造物であり、神はそのすべてを主イエス・キリストに託してくださったからです。 イエスはイスラエルの先住民であるユダヤ人だけでなく、すべての人類を同じく愛しておられる方です。すべてが神のものだからです。キリストはそのすべての存在がご自分を通して救われることを望んでおられます。だからこそ、福音なのです。したがって、主の愛の対象は、今イエスを信じている私たちだけでなく、まだ主を知らないすべての人でもあります。イエスを信じて主のからだとなった私たちは、その主の心に倣い、自分と異なる他人、外の人にも喜んで仕え、愛して生きるべきです。私の主イエスが彼らを愛しておられるからです。 村八分という言葉があります。江戸時代に村落共同体内の規則や秩序を破った者に対して集団が加える制裁行為です。2021年に大分県の宇佐市で元区長ら3人が中心となり、帰村した一人を集団的にいじめる現代版 村八分事件があり、147万円の慰謝料を求める訴訟がありました。依然として日本社会には、こうした外からの人を差別することが時々あるようです。アメリカではコロナ以降、無作為に東洋人にリンチを加えることが、頻繁に起こっていると言われます。世の中には、このようなケースが本当に多いです。「私と違うから、私の気に入らないから、誰かを憎む。」ということです。しかし、イエスは、そのすべてのものを越えて、愛して仕える行為を今日の物語を通して見せてくださいました。「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、7籠になった。」(8) 聖書での3、4、7、12、144、1000、144,000などの数字は完全数だと言われます。主がユダヤ人と異邦人を区別されず、彼らに食べ物をくださった時、その残りは完全数の12籠と7籠でした。私はこれが主の愛がユダヤ人、異邦人を問わず完全であることを示す意味だと思います。神の愛は内と外を区別しません。むしろ神の愛は、誰にでも公平なのです。 締め括り 「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。」(エゼキエル34:23-24)このエゼキエル書の言葉は、明らかにイスラエル民族向けの宣言です。異邦人のための宣言ではありません。しかし、現代のキリスト者たちは、この言葉を自分への御言葉だと信じています。厳密に言うと、日本出身、韓国出身、ニュージーランド出身、中国出身の私たちはみんなユダヤ人ではなく異邦人です。しかし、我々はこのエゼキエルの言葉を自分への言葉だと受け止めています。なぜなら、我々はキリストによって霊的なイスラエルとなったキリスト者だからです。神の御心には差別がありません。すべてがキリストの愛のもとにあります。私たちはこの重要な事実を忘れてはいけません。自分と違う人々を愛し、彼らもまた神から愛される存在であることを忘れないようにしましょう。キリストによる福音は、世のすべての存在に与えられたものだからです。そういう愛を持って生きる時、人々は我々の生活から愛の神を見つけることが出来るでしょう。生き生きとした愛の共同体、志免教会でありますように。

神様とヤコブの出会い。

創世記28章10-22節(旧46頁)  ヨハネによる福音書1章43-51節(新165頁) 前置き 前回の説教の本文である創世記27章には、イサクの次男ヤコブが、父をだまして兄エサウが受けるはずであった長男の祝福を奪う出来事が記してありました。イサクは信仰の父アブラハムの相続人であり、神の民と認められた人でありましたが、彼の家は何か不健全な状態でした。父のイサクは霊的な目が暗くなっているゆえに神の御心が見分けられず、母のリベカは自分の計略を達成するために夫を欺き、長男のエサウは神の祝福を軽んじ、末子のヤコブは自分の欲望のために卑怯な行動をいとわなかったのです。しかし, それにもかかわらず、神は彼らの失敗の中でもご自分の計画を着々と成し遂げていかれました。残念なことに家庭の不和によってヤコブが父の家を去らなければならないようになりましたが、その家庭の不和によって、イサクの家とヤコブへの神のご計画は本格的に始まったのです。実に神は人間の失敗から、神の成功を導き出す方でいらっしゃいます。今日の本文からはヤコブの物語が本格的に展開されます。ヤコブの物語もアブラハムのように長くて波乱万丈です。主はヤコブの歩みをどのように導いてくださるでしょうか。ともに覗いてみましょう。 1.万事が益となるように共に働かせる神 ヤコブは兄が受けるべき長子の祝福を奪ったゆえに、住み慣れていた故郷を離れるようになりました。表向きではカナンの異民族ではなく、同族の娘をめとるための旅のように見えましたが、それは明らかに長子の祝福と権利を奪われたエサウの仕返しを避けるための逃亡でした。父のイサクは霊的に暗んでいる状態でしたが、ヤコブにくだした長子の祝福を翻さず、旅に立つ彼のために、もう一度祝福をしてくれました。「どうか、全能の神がお前を祝福し、アブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」(28:3-4中)たとえ、ヤコブが卑怯にも長子の祝福を奪ったとしても、父のイサクは息子が生まれた時、神が言われた御言葉を思い起こし、祝福を認めたのではないかと思います。そしてヤコブは、いよいよ父の家を後ろにし、親元を離れ、荒々しい世の中に進んでいくことになりました。人生には、常に罪と不条理があり得ます。その結果、本人も他人も苦しみと痛みを味わうことになりがちです。人生にある多くの苦痛の理由の中には、自分や他人の罪によって生じることも多々あります。そして、人間にある罪の性質は、そのような苦痛を絶えず生じさせます。しかし、全能なる神はそのすべての人生の問題までも用いられ、神の善いご計画を成し遂げていかれ、何があっても成就なさる方でいらっしゃいます。 イサクの霊的な暗さ、リベカの偏愛、エサウの憤り、ヤコブの貪欲が生んだ家庭の破綻は、本当に心の痛い出来事でありますが、このような悲劇があったからこそ、神がアブラハムに言われた計画、つまり「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)という神の預言が実現するようになったのではないでしょうか。家を離れたヤコブがパダン・アラムで4人の妻をめとり、12人の息子を儲けるようになったからこそ、一人のアブラハムの子孫が、数万のイスラエルという民族になったのではないでしょうか。また、そのイスラエル民族を通してイエス·キリストという救い主が来られるようになったのではないでしょうか。偉大な神はイサクの家庭の問題を、一介の家庭の問題ではなく、神の聖なるご計画を成し遂げる踏み石として用いられたのです。今現在、自分の人生がうまくいっていないと、暗くて長いトンネルの中に閉じ込められていると、絶望に陥っている必要はありません。神はそのような状況さえも用いられ、一番良い時に一番良い方法で主の御心通りに私たちの人生を導いていかれる方だからです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)実に、このローマ書の言葉のように、我々キリスト者の人生の中で起こるすべての出来事は、神の御手によって主のご計画の成就のための道具として用いられるでしょう。それを信じ、主のお答えを待ち望みつつ、生きることこそがキリスト者の信仰の在り方なのです。 2.孤独と苦しみの中に現われる神。 しかし、不正に長子の祝福と権利を奪ったヤコブが行き当たった現実は、決して美しいものだとは言えませんでした。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」(創28:10-11)現在、ベエル・シェバとハランとして推定している二つの場所の直線距離は約730kmです。志免教会から名古屋までの直線距離が、それくらいですのでかなり遠いのです。ところで、ヤコブはその道のりを歩いて行かなければなりませんでした。しかも石の砂漠でした。創世記の描写によると、一緒に行く僕もいなかったと思われます。何年前か、イスラエルの荒野に行ったことがありますが、昼間は本当に乾燥して、夜になると非常に寒くなる所でした。長子の祝福を横取りしたヤコブでしたが、彼が経験した祝福の始まりは、華麗な何かではなく、むしろ孤独と苦難でした。もし、ヤコブが長子の祝福と権利を欲していなかったら、彼は父の保護の下で、楽に暮らしていたでしょう。ヤコブは貪欲によって兄の祝福を横取りしましたが、その祝福は孤独と苦難として返ってきたのです。私たちは、これを通して神の祝福について、はっきり知っておくべきです。神の祝福とは、ただ身と心が安らかになることを意味しません。神の祝福は、そう簡単な問題ではありません。神の祝福とは、祝福を受けた者が神のお導きに聞き従って生きる時に働き、そのような人生には孤独や苦難が伴うこともありえます。 先週も孤独について言及しましたが、時々、神の民は、神の祝福の中に生きる途中、孤独や苦難にさらされることもあります。古代中東には寄留者歓待法という慣習法があったと言われます。砂漠や荒野で旅人がくたびれないように、彼が誰であっても寄留者を招いて休ませる仕来りです。しかし、ヤコブはそういった寄留者歓待法による助けを受けることもできず、野宿をしなければならないほど、徹底的に孤独と苦しみの道を歩まなければなりませんでした。ですから、神の祝福を甘く考えてはいけません。神が考えておられる祝福と我々が考えている祝福との間には、大きな違いがあることを忘れてはなりません。それにも関わらず、神の御心通りに生きる時、孤独と苦難で始まった辛い祝福は、真の祝福へと変化していくでしょう。明らかなことは神が孤独と苦難だけを与えられる方ではないということです。その孤独と苦難の中で、神は必ずご自分の御手を差し伸べてくださる方だからです。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」(12-13) ヤコブが置かれた孤独、寒さ、恐ろしさの中で、彼が枕にしいた石は、そのような現実で自分を守るための唯一の物でした。非常に粗末な石に頼って眠っていた孤独と苦難の中のヤコブ。彼がすっかり独りぼっちになった時、はじめて神は彼の夢に現われたのです。神は天と地をつなげている階段の上(本文では「傍ら」とあるが、原文では「上」)に立ってヤコブに言われました。「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」ヤコブに与えられた本当の祝福は、ただ心身ともに安らかになる状態ではなく、どんな孤独や苦難があっても、絶対に変わらず共にいてくださる神ご自身だったのです。ヤコブの心には貪欲、罪、愚かさなどがありましたが、神はそのすべてを意に介さず、永遠に彼と共におられ、彼の祖父と父との約束を必ず守ると約束してくださいました。それこそが、まさにヤコブに与えられた神の真の祝福だったのです。「君に罪と問題があっても、私が赦し直してあげる。だから君は私についてきなさい。」とのことです。我々の人生に孤独と苦難が襲ってくる時、絶望しないようにしましょう。差し当たり恐れることは避けられないかもしれませんが、その時こそが神が私たちと共にいてくださる時です。ヤコブの石枕は頼りにもならないほどのみすぼらしい物でしたが、神が現れた時、その石枕は神とヤコブとの関係を証明する記念碑となりました。そしてヤコブは、そこを神の家、すなわちベテルと名付けました。 3.アブラハムとイサクとヤコブの神。 私たちは「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉をよく耳にします。なぜ、神は、ご自分のことを罪人であったアブラハムとイサクとヤコブの神と呼ばれたのでしょうか? それは、神がこの三人と結ばれた契約を必ず守るという約束を記憶しておられるためではないでしょうか? 神はアブラハムとの約束を孫のヤコブの時まで固く守ってくださり、ヤコブとの約束をキリストの時まで固く守ってくださいました。そして、キリストの手柄によってアブラハムとイサクとヤコブの霊的な子孫となったご自分の教会の時まで、その約束を守ってこられました。その約束は現代の教会である私たちにも当たるものです。階段の夢を通してヤコブがいただいた神からの約束は、ヨハネ福音書1章の主イエスの御言葉によって成し遂げられました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)神は、ご自分の約束を必ず守られる方です。その約束が守られる道のりで、民が孤独や苦難を経験する場合も、絶望や悲しみを感じる場合もあるでしょうが、神はその民との約束を必ず守ってくださる方です。神は今日も聖書を通して、自らを「アブラハムとイサクとヤコブの神」と証言されます。 そして、その神はイエス·キリストを通して、「キリストと教会とあなたの神」とご自分のことを証言してくださるのです。 締め括り これから、当分の間、旧約説教はヤコブを中心にすると思います。彼は祖父アブラハム以上に波乱万丈の人生を過ごすことになります。今日の本文の最後の箇所に、このように書いてあります。「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」(20-22) ヤコブはやっと神に出会いましたが、彼は自己中心的に神を取引の対象として扱います。しかし、彼は神と共に歩む年月を経て徐々に神の民に生まれ変わっていきます。「さあ、これからベテルに上ろう。私はその地に、苦難の時、私に答え、旅の間、私と共にいてくださった神のために祭壇を造る。」(35:3) 貪欲と愚かさのヤコブは、どのようにして神の民に変わっていくでしょうか。これから引き続きヤコブの人生と神のお導きについて探り、志免教会が歩むべき道について学んで行きたいと思います。

エッファタ(開け)

イザヤ書6章9-10節(旧1070頁)  マルコによる福音書 7章31-37節(新75頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教では、ティルスという異邦の町でシリア・フェニキア出身のギリシア人女とイエスの間に起きた物語について話しました。古代地中海世界でフェニキア人は歴史的、文化的に由緒ある誇りの高い民族でした。それにもかかわらず、ユダヤ人イエスの前で謙遜に振舞っていたフェニキアの女は、その謙遜な信仰により、悪霊に取り付かれた娘を救うことができました。これによって、私たちは謙遜こそ信仰者に求められる信仰の本質であり、神が謙遜な者をいかに愛されるのかが分かりました。今日は、主が、ある耳が聞こえず舌の回らない人を直してくださる物語です。今日の言葉を通して私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか? 一緒に話してみたいと思います。 1.孤独‐主と私との1対1の時間。 「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」(32-33)今日の本文でイエスのところに群衆が来た時、彼らはある「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れてきて、治してほしいと願いました。ところで、主はその人をその場で治さらず、彼だけを群衆の中から連れ出されました。なぜ、イエスは群衆の中で彼を治してくださらず、その人だけを連れ出されたのでしょうか? 何人かの学者たちは「奇跡を起こすための特別な行為である。」「イエスが自分の奇跡を隠すためにその場を離れた。」「情熱的な取り巻き連中を避けるための措置である。」など、様々な仮説を提示しました。ですが、そのすべてが仮説に過ぎず、私たちには、その明確な理由が分かりません。しかし、確かなことは、この事を通して、その人は自分が属していた群衆を離れ、主イエスと1対1で向き合うようになったということです。人々は一生の間、よく孤独を経験することになると思います。時々、この世に自分一人だけが残されているような孤独の中で、人々は恐怖を感じたり、その状況から抜け出そうとしたりします。この間、インターネットで面白い文章を読んだことがあります。日本のドラマや映画でよく見られる典型的なセリフに関する文でした。それは「タダイマ、オカエリ」でした。 例えばある映画で、恋人同士が長い葛藤を乗り越え、相手を理解するようになった時、男が「タダイマ」と言えば、目頭を熱くしていた女が「オカエリ」と答え、二人が強く抱き合って映画が終わります。両者の対立が終わり、元の状況を回復したということです。このような場面は「和を大事にする日本人にとって、本来の自分の居場所(所属)を取り戻したかのような安定感を与える。」との興味深い文章でした。そういう意味から、もしかしたら私たちは、独りぼっちの孤独を自分の居場所から逸れている異常な状態だと、つい考えてしまうかも知れません。しかし、キリスト教信仰においての孤独は世の感覚とはだいぶ異なります。旧約のヤコブ、モーセ、ダビデ、エリヤ、エレミヤといった信仰の人物は、孤独の中ではじめて、神と向き合うことが出来ました。主イエスも公生涯を始める前に孤独の中で試練を経験されました。この世の感覚においての孤独とは、恐ろしくて苦しいものであるかも知れませんが、キリスト教信仰の感覚においての孤独とは、神と自分という二人の存在が真っ向勝負する場なのです。(比喩です。創世記32章の神の天使とヤコブの格闘を思い起こしましょう。)今日の本文においても耳が聞こえず舌の回らない人は群衆を離れ、主と自分の二人きりの時に、自分を一生苦しめてきた障害から自由になることが出来ました。我々は孤独をどのように理解しているでしょうか。キリスト者にとって孤独は、神と出会える絶好のチャンスです。孤独の中におられる神を見つける時、その時はじめて主は私たちのそばに、いつも共にいおられることを教えてくださいます。 2.イエスの独特な行為 「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」(33)耳が聞こえず舌の回らない人と二人きりの場所を設けられたイエスは、彼の両耳に指を差し入れ、唾をつけてその舌に触れられました。ある人々は、この行為を古代の宗教儀式に見られる呪術的行為だと思いました。しかし、以前のイエスは呪術的な行為なしに、御言葉だけで多くの病者たちを治してくださいました。そして、イエスは迷信のようなまじないをする呪術師ではありません。世界を御言葉によって創造なさった創り主であるからこそ、御言葉で病人を治される方なのです。今回の説教を準備する際に参考にした解説書の著者は、このような行為を「ヘレニズム(ギリシャ文化)的脈絡」に従って行われた行為だと言いました。これはいったいどういう意味でしょうか?事実、マルコによる福音書は、ユダヤ人より異邦人向けとして記された可能性が高い書です。マルコ福音書はローマ帝国の迫害にさらされたキリスト者たちを励ますために書き残された書であると言われています。つまり、主な読者層が異邦人である可能性が高いということです。そして今日、本文の登場人物も異邦人のように描写されています。ですから「ヘレニズム的脈絡」とは当時のギリシャ文化圏の異邦の読者たちが読んで理解できる「ギリシャ文化的背景」を意味するものだと思います。 例えば、イタリア料理の中にスパゲッティとピザがありますが。もし、イタリア人が江戸時代の日本人に、今まで見たことも、食べたこともないスパゲッティとピザを説明しようとしたら、どうすれば効率的な説明が出来るでしょうか? スパゲッティはまぜうどんのような麺料理で、ピザはお好み焼き(起源は安土桃山時代と知られている。)のような料理だと説明すれば、おおまかに理解できるようになるでしょう。このように「ヘレニズム的脈絡」とは、当時のギリシャ文化圏であるローマ帝国に住んでいた異邦人たちが理解できる方式で、ご自分の御業を説明するために、イエスが独特な行為を加えたということを意味します。神はイエスを通して、人間が理解できる方法によって、ご自分のことを教えてくださいます。昨年の大信仰問答の学びでも「神の啓示」について話しました。主イエスは天から来られた神ですが、人間と一緒におられる人間でもあります。主は必要な時に人間が理解できる方法で、人間の目線に合わせて、ご自分のことを示してくださる方です。主イエスは指を両耳に差し入れず、唾をつけて舌に触れられなくても、ただ、命じるだけで彼を治せる方でした。しかし、主は今日の本文に登場する異邦の群衆のために、わざわざ、このような行為をされたと思います。主は弱い人間の目線に合わせて、ご自分のことを見せてくださる、人間を愛する方だからです。 3.エッファタ(開け) 「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、エッファタと言われた。これは「開け」という意味である。」(34-35)「ヘレニズム的脈絡」の行為である「指を両耳に差し入れ、唾をつけて舌に触れる行為」により、ご自分の御業を異邦人の群衆に見せてくださった主は、今度は深く息をついて「エッファタ(アラム語)」と言われました。ここに出てくる「深く息をつく」という表現も「ヘレニズム的脈絡」による行為の一つとして見られます。つまり、古代ギリシャ文化圏にあった「呪術的な治癒行為のための叫び」あるいは「無我の霊的興奮の状態」などと同様な脈絡だということです。異邦人たちは、その行為を見てイエスが治癒のために何かを行っていると理解したわけです。しかし、当然、主はそのような古代の呪術的な行為をする方ではありませんでした。多くの聖書学者たちは、この行為を祈りだと考えました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」(9:29)主は9章でも、祈りの重要性を語られました。私たちは今日の本文を通して、異邦人が認識できるような方式で、イエスが治癒を施されたことが分かります。異邦人の目線に合わせた主イエスのこの行為によって、耳が聞こえず舌の回らない人は癒され、群衆はイエス・キリストという存在について確実に認識することになったのです。 イエスは、私たちが理解できる方式で私たちを呼んでくださった方です。人生の数々の出来事を通して、私たちが認識できる方法で私たちを呼び出されたのです。まるで、今日の本文で独特な行為を通して人々が主を認識できるようにしてくださったように、我々の人生の中でも私たちが理解できる方法で私たちにご自分のことを示してくださったのです。旧約聖書のイザヤ書には、こういう言葉があります。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るなと。」(イザヤ6:9)神が預言者を通して、いくら真理を伝えようとなさっても、人々は自分の罪のゆえに真理、つまり主の御言葉が聞こえない状態です。もし、聞こえるといっても聞こうともしません。人間が持っている罪のためです。この言葉は、そういった人間の罪への糾弾なのです。しかし、神の真のメシアであるイエス・キリストが来られてからは、聞くべき者は聞けるようになり、見るべき者は見られるようになりました。イエス·キリストがおられなかった時の我々は、聞いても聞けず、見ても見られない、まるで今日の本文の耳が聞こえず舌の回らない人のような存在でした。しかし、イエス·キリストのお導きによって我々は聞くことが出来、見ることが出来るようになったのです。主イエスは、今日も神の右に座しておられ、ご自分の民のために祈りつつ、呼び守ってくださり、癒してくださる方です。そして私たちの耳を開き、聞けるように助けてくださる方なのです。主イエスは今日も私たちの間におられ「エッファタ」と命じてくださる方なのです。 締め括り 今日の本文を通して、私たちは自分自身について顧みる機会を持つべきです。我々は、いつも聖書の登場人物の立場に私たち自身を適用する必要があります。私たちは、時には主の弟子たちのような存在であり、時には今日の耳が聞こえず舌の回らない人のような存在であり、また時には主の癒しを目撃した群衆のような存在であるかもしれません。主は今日の本文の出来事を通して、弟子たちにも、耳が聞こえず舌の回らない人にも、群衆にも、神が孤独の中に一緒におられる方であり、人々の目線に合わせてくださる方であり、耳と口を開いてくださる方であることを教えてくださいました。今日も主はエッファタ、つまり「開け」と命じられるのです。今を生きる我々は、何を開いて生きるべきでしょうか? 主の御言葉の前では耳を開いて聞き取り、人々の前では口を開いて主の福音を宣べ伝えて生きるべきではないでしょうか。私たちと一緒におられる主から聞き、喜んで、その方の御言葉を宣べ伝える私たちになりたいです。そのような志免教会の上に主の恵みが豊かに与えられると信じます。この一周間も主なる神の恵みが豊かに注がれますように。