神様の栄光、私達の栄光

創世記1章1-3節(旧1頁)・コリント人への手紙2 4章5‐6節(新329頁) 前置き いつか、栄光という言葉が、ふだん、日本で、どのように使われているのか、気になってきて、インターネットのGoogleジャパンと、yahooジャパンとに検索して見た事があります。すると、ハリウッド映画のタイトル、ある野球選手の人間勝利の物語、戦後日本の回復ストーリー等、色んな記事の中に栄光という言葉が書かれていました。私はこの切っ掛けによって、日本で使われている栄光という表現も韓国の使い方と、そんなに違わない事に気付いたのです。 この平凡な言葉、栄光。古今東西を問わず、人々はこの栄光という言葉をよく使います。 この栄光というのは、 特にキリスト者によって、 神様の栄光、主の栄光などの表現として、使われる場合が少なくないと思います。でも、神様の栄光という言葉が完璧に理解できる事は人間にとっては、中々、容易くないかもしれません。 日本語の辞書を引いて見ると栄光とは『 1.輝かしい 誉れ。2.幸先のよい光 。』 と記されていました。でも、聖書に記されている栄光とは、元々日本語の意味とは少し違います。単に人間が感じる栄光という意味ではなく、いっそう、神様中心的な表現です。栄光の原文『ドクサ』はギリシャ語の『ドケオー』に基づいた表現です。この『ドケオー』は『~に見える。』『~に思われる。』 などの意味を持っています。これを原文によって、考えて見れば、栄光とは人間が辿り着く事が出来ない神様という超越的な存在を『~に見える。』『~に思われる。』のように間接的に理解させる物である。という事が出来ます。 まるで、ヒマワリが、いくら花弁を伸ばしても、太陽に触れる事が出来ないように、私達は神様に自分の力では、捜し求める事が出来ません。人間は自ら、神様に触る事も、見る事も、感じる事さえも、出来る力がありません。神様は私達がご自身を、直接に理解する事を許されませんでした。それにも関わらず、神様の御業によって、私達が神様に理解できるように、ご自身を見せてくだいました。見る事が出来ない神が、自らご自身を見せてくださる。こういう訳で人間が神様に気付く事が出来る。これこそが正に神から人間に照らされる恵みの光、神の栄光ではないかと思います。そう言えば、神の栄光とは神様だけの物だという事が分かります。今日の本文は、そういう、神の栄光が、どう私達に知らせるようになるのかを教えてくれます。 1.人間と被造物とにとって、神の栄光とは。 神様はこの世を造られた時、『光、あれ。』と命じられました。この光は神様の本質に似ている物ました。最初の世界、闇の内、水で満たされていた状態。闇と水は 虚しさと死の象徴でした。この虚しさと死を打ち破った最初の被造物が、この光でした。光は神様の秩序の始まりでした。無秩序と死を追い出し、造り主の初被造物となり、始めの秩序の第一歩となったのが、この光でした。光は被造物への神様の栄光の象徴でした。『 良い贈り物、 完全な賜物は みな、上から、光の源である 御父から 来るのです。 御父には,移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません.(ヤコブ1章17節) 』ヤコブは神様が光の源であると告げました。父なる神様を光の源だと呼んだのはヤコブが悟った創造への意味深い告白だと思います。このヤコブが告げた光は、今日の本文にある程度、関係があります。今日の本文の6節の2ヶ所に光が出ています。『 闇から 光が 輝き 出よと 命じられた 神は、 私達 の 心の 内に 輝いて、 イエス • キリスト の 御顔に 輝く 神の 栄光を 悟る 光を 与えてくださいました.(コリント2 4:5-6)』原文を見ると、前の『闇から光が輝き出よと』の光と、後の『神の栄光を悟る光』の光との単語の形が両方違います。前の光はギリシャ語のフォースと呼ばれます。このフォースは自ら光を照らす、光源の事です。言葉通り、光の源です。後の光はフォースによって照らされた光、映し出された光のフォーティスモスと呼ばれます。このフォーティスモスは暫く後で、お話します。 今日の旧約聖書の創世記1章の光もフォースで、ヤコブ書の1章17節の光もフォースです。即ち、今日の本文の、前の光、フォースと、今日読みました、創世記、ヤコブ書の光は全部、同じ意味として、フォースと使われているのです。このフォースは自ら、輝く光です。神様は自ら、光を照らされるお方です。他の存在から、照らされる方ではありません。他者を照らされる神様は、輝かす光、フォースの源であられます。この光は神の本質、被造物が敢えて見る事が出来ない神の栄光の象徴です。神様のこのフォースによって照らされた存在は、映し出された光を現すものです。フォースにはフォーティスモスが、必ずついて来るためです。神様に造られた被造物は、このフォーティスモスを持って生きるものです。被造物は神のようには、決して、なる事が出来ませんが、神のフォースに伴うフォーティスモスによって、生きて行くべき存在です。神様のように他者、他の被造物を愛しながら、神様のお望みの事を従っていく、生き方が、全ての被造物の造られた理屈です。 この創造のルールは被造物の頭である人間にとっては、当たり前な話だと思います。このようにフォーティスモスを持っている初めの人は神様の形にそっくり、似ている存在でした。神様のフォースに照らされた初めの人は神様のように、他者を愛し、仕える者でした。他者を愛し、仕える事が出来る、この力が神の形にそっくり、似ている人間の本来の形でした。神様がお望みになった通り、生きる事が出来た人間、エデンの園で他の被造物を助けながら、神に礼拝する事が出来た人間。これが、神様が計画された人間の本当の姿です。この人間がご計画によって、造られた通り、生きるのが、人間が元々持っていたフォーティスモスの生き方、人間の真の栄光への道でした。神様から与えられた人間の栄光は、このフォースから生ずるフォーティスモスであったという事を、忘れない私達になりたいと思います。さて、ある日、この人間に問題が起こってしまいました。 2. 人間の問題を取り戻される主。 初めの人は神様に従って生きる事、この生き方に対して、心に疑いを差し挟む事になりました。神様からだけ、発される栄光を人間が奪おうとした訳です。これについては色々の神学的な見解がありますが、一つだけ、例えば、一番有名で、代表的な理論は、アウグスティヌスという神学者が主張した原罪論です。原罪というのは、原始から、祖先と子孫に繋がって来る罪の原因に関する理論です。祖先アダムが犯した最初の罪が今まで、人間を罪人として、生まれさせるという理論です。この罪への見解の真ん中にある事は、神の栄光を貪った最初の人間の話です。私はアウグスティヌスが、こういう原罪論という、主張を繰り広げた主な理由が、フォースとフォーティスモスとの繋がりのルールが破れてしまった訳だと思います。神様に頼って生きるべき人が、自ら自分の力に頼り、神の栄光を奪おうとし、神の下から、離れようとした、この野望がフォースのないフォーティスモス、源のない光、神の栄光のない人間、結局、死んでしまう者となった第一の原因だと思います。 人間は、このつまらなくて、虚しい野望のため、死の下に陥ってしまったのです。人間が栄光を得る事が出来る唯一の方法は、ただ、神の栄光の下に、ある事だけです。このように神様から、離れてしまった人間に、今日の本文は驚くべき事を教えてくれます。『闇から光が輝き出よと、命じられた神は、私達の心の内に輝いて、イエス • キリストの御顔に輝く、神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(コリント人への手紙2 4:6) 』神様から、離れて死ぬ事になった人間、ロマ3:23のように『人は 皆、罪を犯して…

目を覚まさせる主イエス・キリスト-あなたは遣わされた者。

今日は個人的な証をもって説教を始めたいと思います。皆さんが既に知っておられると思いますが、私は父と名字が異なります。義父だからです。実の父は私が生まれる、わずか数ヶ月前に船舶事故によって、今の私よりも若い時、生涯を終えました。突然の事故で夫を失った母は毎晩、涙でした。そして、そんな中で私を産みました。一人親としての苦しみも辛かったと思います。そのように苦しんでいる母を理解出来なかった私は、自分だけが苦しいと思っていました。なぜ、自分を生んだのか、母を恨みました。きっと、その恨みの中に神様への恨みもあったのでしょう。一般的に子供は、父親を通して世界を見るそうです。子供にとっては、素晴らしい父親は世界を見通す良い眼鏡になってくれるからです。子供は父を通して世界を学び、世界を見る目が成長していくそうです。父という眼鏡がなかった私は、自ら盲人だと思いました。義父は本当に優しい人でしたが、その時の私は拒みました。そういうわけで、私の子供の頃や学生時代は、自信の無い、劣等感の強い、被害意識と心の傷いっぱいの時代でした。これらの傷は、刺(とげ)となり、隣人と家族にも酷い傷を残しました。 ところが、今の自分を顧みれば、心にそんなに大きな傷がないということに気が付きます。誰かへの恨みも持っていません。物事に感謝して生きようとしています。何か起きた場合、他者よりは、自分に過ちを見つけようとしています。一体、過去の私と今の私との間に何が起こったのでしょうか?それはイエス・キリストとの出会いという出来事でした。神学校に入る、約1年半前、夏の日、好奇心で読み始めたローマの信徒への手紙を通して、自身の罪に気付き、悔い改めることがありました。涙が止まらず、神様の御前でこれまで思いも寄らなかった悔い改めを絶えずしました。どれほど悔い改めたのか分からないほどでした。私はその時、初めて目覚めました。そして、イエス・キリストが自分を愛しておられること、神様が自分を地上に遣わされた理由、自分が計り知れないほどに祝福された人であることを悟るようになりました。このような出来事を通じて、イエス様は私に『私が正に、この世が正しく見えるように導くあなたの眼鏡である。』という悟りを与えてくださいました。 1.盲人のような人間。 イエス・キリストは眼鏡です。罪のため、歪んだ世界を正しく眺めさせる、人の本質をありのままに見ることが出来ようにする非常に良い眼鏡です。ところで、大事なのは、このイエス・キリストが、特別な人だけの眼鏡ではないということです。彼は神の御子であり、神の御言葉であり、神ご自身です。この世のすべてのものの主でいらっしゃいます。そのため、キリストは、世界のすべての人々の眼鏡になることが出来る御方です。このイエスを通して世界を見てみると、世の中が持っている、ありのままの本質を見ることが出来ます。自分の罪も、他者の痛みも、人間を愛しておられる神様をも見ることが出来ます。 今日の新約本文には生まれつきの盲人が登場します。この盲人は幼い頃から家族、親戚、近所の人に世話になり、生きてきた障害者でした。今も同じだと思いますが、イエスの時代では、特に、障害者という存在は、多くの偏見と不自由に甘んじて生きなければならない存在でした。古代人は障害者が不正をもたらす者だと信じていました。スパルタでは障碍者が生まれたら打ち捨て、死なせたそうです。ギリシャの哲学者プラトンは『障害者は完全な世界を妨げる存在だ』と主張しました。イエス様がおられたイスラエルも、これらと大きな違いがありませんでした。障害者は、神に呪われた存在、全く役に立たない存在、罰せられた存在という認識がはびこっていました。おそらく、今日の本文の盲人も、そのような偏見と差別の中で生きていたのでしょう。親も彼を知らないふりしたかも知れません。自らも自分が何の価値もない者だと思ったかも知れません。 私は子供の頃、聖書を読む際に、この盲人の話しが私の話だと思いました。彼が生まれつきの盲人であるように、私も生まれた時から父がいなかったので、体は健やかだけど、心は障害者かも知れないと思ったのです。多分、世の中には私だけではなく、多くの人々が、このような考えを持って生きた経験があるのではないでしょうか。自分の心の傷、不満、痛みにより、自分が何の価値もない者だと考えながら生きてきた人がいるかも知れません。生まれなければ良かったと自己批判した人もいるかも知れません。おそらく、ほぼ全ての人が生きてゆきながら、『私はなぜ生きているんだろう?死んだ方が良いんじゃないか?』と思った経験があるでしょう。そのような経験、思いがある人は多分、今日の本文の盲人のように、自分は非常にみすぼらしい者だという気持ちを感じたからでしょう。しかし、その時、彼らの目には良い眼鏡がなかったのだと思います。その人々は、自分の曇った目を通して世界を見て、自分の状況を判断したんだと思います。自分が背負うには、あまりにも重い荷物のような大きな世界の前で、限りなく小さな自分を眺めると、人間は自分自身が無価値な存在だと思うからです。 2.目を覚まさせる主イエス・キリスト しかし、主が盲人のような人を訪ねて来られれば、話しは違います。今日の本文で、イエス様は一生、光もなく、力もなく生きてきた、ある盲人を通りすがられました。その時、弟子たちが主に尋ねました。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』(ヨハネ9:2)盲人は何の罪も犯さず、ただ物乞いしながら、辛うじて生きてきたのに、世の偏見は再び彼を罪人に仕立て上げました。その時、主は世の偏見、先入観とは正反対の話しをされます。 『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』(ヨハネ9:3)人々が、歪んだ世界を見ている時、主は世界の本質をご覧になったのです。イエス・キリストは世界を正確にご覧になるからです。私たちが自分自身を歪めて見る時、世が私たちを歪めて見る時、主は私たちをありのままに見てくださいます。私たちが、弱くて疲れた時、誰にも自分の事情を話すことが出来ない時、私たちは主だけには、そのまま打ち明けても大丈夫です。主は間違うことなく、私たちの事情の本質を見て理解されるからです。 そのため、神様はイエス・キリストを遣わされたのです。『わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。』(ヨハネ9:4-5)イエス・キリストは、この世界の光です。最も暗いところに落ちている者の痛みに、最も明るい光を持って照らしてくださる方です。それ故、私たちは、イエスを信じることが出来るのです。イエス様は闇の中にいる盲人の光になってくださいました。この光は、ただ、目だけに見える光ではありません。この光は、魂の光でした。主は、その光を盲人の心に照らしてくださったのです。主は彼が盲人として生まれたのが、罪への罰ではなく、神の証人として呼ばれるための訓練だったということを教えてくださいました。盲人は人々に無視され、排除される存在でしたが、イエス・キリストに出会い、神の恵みと愛の証人として生まれ変わりました。彼の障害は、イエス・キリストを通して強力に臨む神の慈しみと愛の道となりました。 イエスは唾で土を捏ねて、彼の目にお塗りになりました。そして、シロアムの池に行って洗いなさいと命じられました。唾で捏ねた土と言えば、汚いと思われるかも知れませんが、これには意味があります。まるで、初めに神様が土を捏ねて人を造られたように、イエス・キリストも土を捏ねて彼の目に塗り、新しい命を吹き入れたという意味です。そして、『遣わされた。』という意味のシロアム池に送って、一生、目を覆っていた闇を洗い流すように命じられました。一生、盲人として苦しんで生きていた彼は、新しい目を得て、光を見るようになりました。罪によって呪われたと思われていた彼は、イエス・キリストのお助けにより、光を得たのです。そして、自分が呪われた存在ではなく、自分の障害を通して、主の恵みを示すために遣わされた人であることを悟るようになりました。彼は人々の前で自分を救われたイエス・キリストについて告白し、伝えました。最も暗くて低いところで唸りを発していた彼は、イエス様に出会い、光と喜びを得、イエス様の栄光を伝える遣わされた者となったのです。 3.キリストを宣べ伝える。 『主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。』(詩篇27:1)今日の本文、詩編27編の詩人が歌ったように、主は私たちの光です。私たちが、暗闇の中で迷っている時、主は、私たちの傍で、私たちが誰なのか、私たちがどこへ行くべきなのかを教えてくださる光になってくださいます。その光によって私たちは私達の行くべき道を明らかに知るようになります。だから、私たちは、私達の人生の力になってくださる神への信仰により、もはや恐れず、大胆に進むことが出来ます。今の私たちの弱さと苦しみと悲しみは、私たちの不幸ではありません。当面は辛いかも、厳しいかも知れませんが、イエス様に用いられるならば、最終的に、神様は私たちの困難を通して、さらに明るくて美しい未来をくださると信じます。 イエス様に癒され、見られるようになった盲人は、自分のアイデンティティをしっかり悟ることになりました。彼はもうこれ以上、不幸な人ではありませんでした。もうこれ以上、自分の不幸に閉じ込められている人ではありませんでした。彼はイエスを見るようになり、知るようになったからです。彼はイエス様を通して自分の不幸より、自分の環境よりも、大いなる神に出会うようになりました。かえって彼は目を開いていても、イエス様が神であることに気付かない宗教指導者たちを発見しました。彼らは、身体も健やかで、聖書もよく分かっていて、目もしっかり見えていましたが、隣人を愛しておらず、却って憎み、まったく神を知らない人たちでした。ついに目が見えるようになった盲人はしみじみと悟ったことでしょう。『本物の盲人は私ではなく、彼らだったかも。』イエス様もこのように言われました。 『見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』(ヨハネ9:39) 盲人は、結局、イエス・キリストに、この世を正しく見る目を頂きました。そして、誰が真の神様なのか、イエス様とは、どなたなのか認識しました。それから、彼はイエスを伝える証人としての人生を生きるようになりました。光を得た盲人はイエス様に遣わされた者となりました。優れた知識や能力を持っている宗教指導者たちが遣わされた者ではなく、イエス様に出会い、信じる者が遣わされた者となったのです。イエス・キリストを通して、自分の痛みと弱さを治された者は、本当に目が開かれた人です。それから、自分の環境や状況に制限されず、その上におられる偉大な主を信じるようになった人です。そして、そのような経験をした人は、イエス・キリストに用いられ、主の福音を伝えざるを得なくなります。私たちは、このイエスに出会った人々でしょうか?私たちの生活の中に主イエスの足跡があるでしょうか?もし、そうならば、私たちは、イエス・キリストに遣わされた者として生きる義務を持っている人です。私たちは、このイエスを伝えて生きなければなりません。それはイエス・キリストを通して光を見た人が、生きて行くべき、当たり前の道であるからです 。   締め括り 今日の旧約本文である詩篇27篇を読みながら、私たちは自分の民を愛して見守り、助けることを喜ばれる神様を見つけることが出来ます。誰も自分を助けてくれない時、自分を見捨てる時、自分を憎む時、誰よりも自分を愛し、助けてくださる神の手を発見した詩人。その詩編の詩人の神様は、私達の神様でもあります。神様は、いつも御自分の民を愛し、助けることを喜ばれます。神様は簡単に誰かを呪われる方ではありません。誰かを悪意を持って苦しめる方でもありません。むしろ、私たちが、苦難の中にいる時、神様はその後の回復と成長を備えてくださる方です。人生の道のりで痛みと悲しみに苦しむ時、主を呼びましょう。その主は、私たちの苦しみを知らないふりされる方ではありません。主は喜んで助けてくださると信じます。私たちの痛みは彼を通して、喜びに変わるものであり、いつの日か、私たちの人生の良い栄養素のような経験になるでしょう。一生、盲人だった人が、イエス・キリストを通して目が開け、魂まで光を得たように、目を開けてくださるイエス様を信じて生きましょう。そして、私達の隣人も主イエスに目を開くことが出来るように主を宣べ伝え、主に遣わされた者として生きていきましょう。一週間の生活の中に主の恵みが豊かにありますように祈ります。

私もあなたを罪に定めない。

イザヤ書 42章1-4節(旧1128頁) ヨハネによる福音書 8章1-11節(新180頁)  前置き イエス・キリストは、律法を全うした方です。イエス様は『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。』(マタイ5:17)と言われました。イエス様の到来により、旧約の律法は完成されたのです。もはや律法は旧約の生け贄を捧げる行為のような儀式を守るための教えではなく、律法が持っている愛と真理を行うための教えになったという意味です。『まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』(ヨハネ4:23-24) イエス様は、新約の礼拝が神様に霊と真理を持って行うものだと言われました。だから、イエスを信じる私たちは、もはや神殿という特定の場所で、旧約の祭りのような儀式や行為を伴う礼拝は捧げておりません。私たちはイエス・キリストの中で、聖霊と御言葉を通して礼拝します。人間の手によって建てられた神殿ではなく、神様が手ずから建てられたイエス・キリストという神殿によって、いつでもどこでも礼拝することが出来ます。新約時代はそういう時代であるからです。したがって、今や旧約の祭りの外的な行為、エルサレムでの形式的な儀式だけを保つことは、何の意味もありません。私たちは、今や、旧約の行為の中に隠れていた神様への感謝と隣人への愛を、神殿ではなく私たちの生活の中で行い、律法の真の精神を守っていくことにより、自分の生活を神様に喜ばれる聖なる生ける生け贄として献げなければなりません。聖日の礼拝は、そのような礼拝の始まりです。今日の礼拝を終えて教会堂を出る私たちは一週間の生活の中で、真の礼拝を捧げ、生きるべきです。 1.神の愛と赦し。 今日の本文は、そのような視点から読まなければ本当の答えを得ることが出来ない箇所です。旧約聖書を読むと、イスラエルには、3つの祭りがあったそうです。除酵祭、七週祭、仮庵祭です。この祭りは、出エジプトを通して、イスラエルを解放させ、守ってくださった神様に感謝する記念の祭りです。イスラエルの男性は、この祭りを守るためにエルサレムの神殿で生け贄を捧げました。イスラエルの祭りについては複雑ですので、今日は詳しい説明を省略したいと思います。ですが、この除酵祭、七週祭、仮庵祭という祭りを通して神様はイスラエルに崇められました。この祭りを通して、イスラエルの民は、神についての知識を得たり、主を記念したり、神の御心とは何かについて学んだりしました。今日は祭りが持っている、その機能に集中したいと思います。 ヨハネによる福音書7章の2節を見ると、ユダヤ人の祭りである仮庵祭が近づいていたと記されています。今日の物語が、仮庵祭の間にあったということです。この仮庵祭という旧約の祭りは神の御心を学ぶ期間でした。ユダヤ人の文献によれば、この仮庵祭の間には、2つの特別な行事があったそうです。1つ目は司祭の庭で行われた水の祭りです。この祭司の庭とは焼き尽くす献げ物の祭壇があった神殿の前庭です。その時、人々はシュロの木の枝、ヤナギの枝などを振りながら神様のお赦しを喜びました。加えて祭壇右手にヤナギの枝を立てて祈祷文を朗読しました。また、シロアムの池から汲み運んだ水で祭壇を洗う清めの祭りをしました。この祭りは、雨を求める雨乞いの祭りとしての役割も兼ねていました。当時のユダヤ人たちは、このような祭りを通して罪を洗い流し、命を与えてくださる神様を記念したのです。 2つ目は、祭司の庭の外側にある女の庭で行われた祭りでした。先にお話しました祭司の庭の祭りが終わると場所を移り、女の庭に行って四隅に立てられている燭台に火を灯し、夜を明かす祭りを行ったそうです。このように火をつけておき、老若男女が集まって、神の御前で踊ったり歌ったりしながら、この世の光となってくださる神を記念する祭りでした。『若いときの罪を赦される者には福あり、かつて罪を犯したが、今、赦される者には福あり。』ラビの導きに沿って、このような歌を声を限りに歌いつつ、暁になって鶏の鳴き声が聞こえてくれば、自分らの罪を赦してくださった神様に感謝の祈りを捧げたそうです。これらの盛大な祭りを繰り広げながら、イスラエルの仮庵祭は終わったのです。神様は仮庵祭のこのような祭りを通して、ご自分が民の罪を赦してくださる、真の神であることを示されました。人々は、これらの神の赦しに感謝しました。 2.他者への赦しのない人間の本質。 ユダヤ人は、これらの水と光の祭りを通して、水のように清めてくださる神、光のように闇を明かしてくださる神様を思い描きました。仮庵祭の一週間、祭司の庭で行なった水の祭りと女の庭で行なった光の祭りを通して、人々は乾いた地を潤し、洗い清めてくださる命の水のような神様の愛と、暗い世の中を照らす光のような神の偉大さを改めて確信したのです。この祭りは、人々の心を集中させ、出エジプト後、荒野で彼らを救ってくださった神様の赦しへの感謝として昇華させたのです。 神様に逆らった罪によりバビロンに滅ぼされてしまったイスラエルは、二度と国を成すことが出来ない奴隷に過ぎない民族でした。しかし、彼らが最も弱くなっている時、神様は彼らを再度、呼ばれました。イスラエルは、神様の赦しと愛によって、新たに自由を得、また自分の所に戻ることが出来ました。その後、イスラエルの指導者たちは、イスラエル民族に、自分たちの罪について、自分たちを救われた神様の愛について、彼らの罪を洗い流し、未来を明かしてくださった主について絶えず教えました。そのため、彼らは、これらの祭りを通して神の赦しと愛を再確認し、神の恵みに感謝したのです。 しかし、今日の本文を見ると、夜もすがら神様に感謝し、主の恵みを喜んだ人々が、突然変わることが起こります。『律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』(ヨハネ8:3-5)宗教指導者たちが姦淫の罪を犯した女性を捕らえて来たとき、人々は彼女を打ち殺そうとしました。数時間前まで、神の命の水と神の光を記念する祭りを通して神の愛と赦しに感動していた彼らは、他の罪人については、何の赦しも、愛もなく、ただ石を取って彼女を打ち殺すことを考えるだけだったのです。神様は仮庵祭を通して、彼らに赦しと愛を教えてくださったのに、彼らは自分の罪が無くなり、自分が赦されたことだけを感謝し、他者への赦しと愛という最も大事な教えは、見落としてしまいました。姦淫した女性はいまにも、石に打たれ、殺されようとしています。神の赦しが自分たちのためには感謝すべきことだったけれど、姦淫した女性には適用されないと考えたからです。 3.赦してくださるイエス・キリスト。 その騒ぎの中、イエス様は、彼らの間におられました。朝になって再び神殿に戻って来られたイエス様は、人々に神の言葉を教えておられました。その時、宗教指導者たちは姦淫した女を連れてイエス様のもとに来ました。罪を犯した女を殺せと殺気立った群衆も一緒に来ました。神殿での一週間の間、水と光の祭りを行い、神の赦しと愛を記念し、最も喜びに満ちているべきだった群衆が姦淫した女性に対しては、如何なる哀れみも、愛もなく、ただ彼女を殺そうとして、イエスの前に来たということです。主の恵みを求め、愛を求め、赦しを求めた群衆の中でも、誰よりも聖書に詳しいと言われる、律法を堅く守る律法学者たちやファリサイ派の人々が群衆を煽って、その女性を連行して来たのです。そして彼女を殺そうとしました。仮庵祭は、彼らの心に、一体何を残したのでしょうか?熱心に礼拝だけを守ったからといって、キリスト者になるわけではありません。礼拝を通して神の御心が自分の心に残って、その言葉によって、自分を省み、変わる時こそ、私たちは真のキリスト者になるのです。 姦淫した女性は明らかに罪を犯しました。律法に照らして見れば死に値する人です。私も姦淫した女は罪人だと思います。しかし、群衆がこの女を捕らえて来た日は、神の恵みに感謝し、また、神に罪を赦され、隣人を愛しようと誓った祭りの最後の日でした。仮庵祭自体が荒野で民を導き生かしてくださった神様に感謝する祭りです。彼らは自分の罪の赦しを感謝しながらも、他者の罪は赦していませんでした。イエス・キリストは短い一言で仮庵祭の精神を示されました。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』(ヨハネ8:7)祭りにより感謝と喜びに満ちたユダヤ人たちは、罪を犯した女の前では、瞬く間に殺気に満たされました。彼らに感謝と喜びをくださった神様。その神様自体であるイエスが彼らをご覧になる時、どのようなお気持ちだったでしょうか? 私はイエス様が言われた一言『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』の前に、このような長い言葉が含まれていると思います。『「私は、過ぐる一週間、仮庵祭を過ごしながら、あなたがたに赦しの喜びと罪の赦しを再び与えた、あなたがたの神、主である。私は昔から、あなたがたの罪を赦してきた。だから、私はまた、この女の罪をも赦すのだ。私はこの女を罪に定めない。私はこの女を哀れみ、愛する。この女も私に赦されるべき私の民である。それにもかかわらず、あなたがたを赦した私に不満があるなら。』『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』仮庵祭の水と光の祭りを通して民を赦された神様は、御子イエス・キリストの言葉を通して姦淫した女性を赦して下さいました。主ご自身の赦しを直接見た人々は、良心に責め苛まれて、もはや女を責められませんでした。そして、彼らは1人、2人、自分の所に帰って行ってしまいました。イエス様は神の真の赦しを示してくださったのです。今日、神様の赦しと愛を記念する私たちの姿が、平日の生活で、どのように現れるか御言葉を通して顧みるべきだと思います。 締め括り 真の命の水と光である主イエス・キリスト。 イエスは仮庵祭に神殿で、イスラエルの祭りに隠れている真の精神を教えてくださいました。それは単に罪を赦されて喜ぶことだけで終わってはならないという教えでした。イエス様は姦淫した女にも同じように教えてくださいました。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』出エジプト後、40年の間、荒野で民を守ってくださった神様に感謝するなら、命の水の源、世の光として、罪を赦してくださった神様を愛するなら、律法をよく守って生きたいなら、自分が神様に赦されたことを覚え、そのように他者の罪をも赦し、愛の人生を生きなさいということです。今日の物語は赦しと愛こそが、まさにこの祭りの真の精神であることを教えています。 『 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』(ヨハネ7:37-38)『 イエスは再び言われた。わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』(ヨハネ8:12)  イエス様は、ご自分が命の水の川であり、世の光であると言われました。そして、主イエスは姦淫した女の罪をもお赦し下さり、救いの光を照らしてくださる、真の命の水と光になってくださいました。今日の物語を通して、私たちは赦してくださる主について学び、また、私たちも主の民として赦しを実践する者になるべきだと思います。来たる1週間の生活に真の赦しのある私達、志免教会になることを祈ります。私たちを通して命の水の源、世の光であるイエス・キリストの豊かな恵みが、この志免町に施されますように願います。

生かす言葉、死なせる言葉。

前置き インターネットでの論争。 今日は少し残念な話から始まります。約10年前にインターネットにエンジョイジャパン、エンジョイコリアというホームページがありました。最初は日本と韓国が互いに友好的に良い交わりを分かち合おうという意図によって作られたホームページでした。しかし、意図は非常に良かったけれど、インターネットというメディア特有の匿名性や無規律性により、むしろ互いに攻め合う投稿をしたり、激昂した言葉で貶す場合が多くなりました。良い会話をしたり、良い文章を載せる両国の人たちも少なくなかったと思いますが、あまりにも対立的に非難する人が多くなってしまって、最終的に、このホームページは閉鎖されてしまいました。互いの考えから出てくる深刻な非難と敵意を濾過(ろか)する装置がなかったため、最終的に閉鎖されたのです。私は当時、そのホームページを通じて日本人と穏やかな話をしましたし、それなりに良い思いを分かち合う人もいましたので、そのホームページがなくなったのが、本当に残念だと思いました。しかし、そのエンジョイジャパン、コリアを通じて、むしろ、互いに偏見と憎しみを持つようになっていたことがより多かったかも知れないと、今も複雑な思いを持っています。 1.言葉とは? 今日、始めから、このように残念な例え話を挙げた理由は、当時、そのホームページで、日本と韓国の人々が相手を攻撃していた道具が、この言葉だったからです。皆さん、言葉には力があります。互いに嫌ったり、愛したりすることは人の言葉から最初に表れるからです。言葉というのは、単に口から出てくる言語以上の何かです。その言語を成り立たせる意図、考え、心の中から始まるもの、全てが結局言葉であると言えます。もし、互いに良い心を持って、良い言葉を使ったら、前の出来事のような残念なことは起きなかったかも知れません?言葉は人の思いを含んでいる器です。ある人がどのような言葉を使うのかによって、その人の正体がばれるのです。人が言葉を使うように、言葉も人を用いるからです。言葉は人の思想を含んでいる器だからです。 神様が人間に「言葉」を与えられた理由は、この言葉を通して人と人が通じ合い、心と心を分かち合わせるためでした。人に言葉がなければ、どういうふうに隣人と心を分かち合い、通じることが出来るのでしょうか?そういう意味で、言葉は確かに重要な道具です。しかし、また、この言葉というのを誤って用いれば、人と人の間に障壁を建て、誤解をもたらす道具にもなります。ドイツの実存主義の哲学者であるハイデガーは、このような言葉を残しました。 『言葉とは人間の存在が現れる場所である。』言葉は目に見えないけれど、その言葉を吐き出した人が立っているところを示すということです。愛の言葉を使うか、憎しみの言葉を使うかに応じて、話し手の立場は変わります。人がどのような言葉を使うのかによって、その人の存在は変わるという意味です。人を生かす人になったりし、人を殺す人になったりします。神様は人類に言葉をくださいました。その言葉の使用次第で、人の存在が決まります。 ギリシャ語で言葉をあらわす単語は「ロゴス」です。このロゴスとは主に「言葉」を意味します。しかし、ロゴスは、より多くて深い意味を持っています。「理屈、法則、秩序、真理」など、より哲学的、宗教的な意味を持っている単語です。このロゴスをヘブライ語に翻訳すれば「ダバル」となります。この「ダバル」という言葉は、神様が天地を創造するときに言われた、その言葉です。「ダバル」は爆発的なエネルギーを抱いている言葉です。神様が「ダバル」されると光が造られました。神様が「ダバル」されると太陽と月が造られました。神様が「ダバル」された時、全世界が創造されました。神様が「ダバル」される際に、「理屈、法則、秩序、真理」が生じました。神様が「ダバル」された時に全ての良いものが生まれたのです。神様は、その「ダバル」を人にも与えてくださいました。人がその「ダバル」をどう使うかによって、この世は変わります。良く変えることも、悪く変えることも。神様から与えられた「ダバル」を使う人間次第です。 2.憎しみの言葉に満ちている世界。 日本と韓国は歴史上多くの関係を結び合って歩んできました。学者たちは、朝鮮半島を経由して仏教のような文化や、中国から始まった服飾文化などが流れ込んできたと語ります。また、日本から朝鮮半島に鳥銃のような西洋文物が入ってきた場合もあったそうです。特に、薩摩芋、唐辛子のような韓国の食文化に非常に大きな影響を及ぼしたものが、日本から入ったという学説は、ほぼ事実だそうです。正直、日本と韓国は、真心を込めて協力すれば、どこの国よりも互いに助け合う国になることが出来ると思います。私は今まで、約20カ国を旅行したり、数ヶ月暮らしたりしたことがあります。その中に日本と韓国のように文化的に、言語的に似ている国は見たことがありません。まるで兄弟のような両国だと思います。日韓両国は、最も仲良くなることが出来る国だと思います。 しかし、今の日本と韓国はそれが容易ではないようです。連日、互いに醜い心と言葉をメディアを通して吐き出しています。韓国社会では反日という言葉を聞くことは難しくないと思います。そして日本でも、本屋に嫌韓論コーナーが、別にあるほどです。一部の人々は、相手の国が滅びることを願うという言葉を躊躇(ためら)いなく話しています。しかし、私たちは、より広く眺める必要があると思います。日本も韓国も、結局は神の被造物です。先祖の先祖まで遡れば、最終的に一人の祖先、そして、彼の造り主、神様につながるのでしょう。日本と韓国は兄弟です。ところが、今の日本政府と韓国政府は、まるで敵のように相手を憎んでいます。何と悲劇的な現実なのでしょうか?互いに愛し合って生きるにも時間が足りないのに、なぜ、このように憎まなければならないのでしょうか。 私は創世記に登場する蛇に変わった悪魔の名前が、ひょっとしたら、仲たがいの原因ではないかと考えたことがあります。悪魔が神と人、人と人との間に仲たがいの種を植えたのではないかということです。もちろん、神様は仲たがいさせられる方ではありません。しかし、弱い人間は、簡単に仲が引き裂かれてしまうのです。結局、アダムは神様を憎むようになり、人間の間にも不和が生じたのです。例えば、アダムは神様と妻を責めました。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』そして、アダムの長男カインは弟のアベルを酷くも殺してしまった後、さらに神様に無礼に振舞います。『主はカインに言われた。お前の弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』 初めの、神様の愛の言葉に満たされた世に、人間の罪に伴って嫌悪が入って来ました。そして、そのような嫌悪の言葉は、今まで残って、この世界に、日本と韓国の間に、そして私たちの中に影響を与え、相手を憎み、対立するようにさせていると思います。 3.言葉を変えなければなりません。 神様は愛の言葉によって世界を創造されました。神様は御自分の言葉に肉体をくださり、世界に遣わされ、人間を救われました。神様はご自分の言葉を悟らせる聖霊を送られ、今も私たちと一緒におられます。神の御言葉は、愛の言葉です。その言葉によって、私たちは今日も神の愛の中に生きていきます。しかし、世は神様とは異なります。絶えず憎しみの言葉を吐いています。時には口から出る言葉では褒めていても、本当の心では憎しみに満ちている場合も多いです。箴言はこう示しています。『死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。』(箴言18:21)イエス様はこう言われました。 『あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』(マタイ12:37)そして、ヤコブはこう語りました。『舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。』(ヤコブの手紙3:6)聖書は、常に人の言葉について警告しています。神様の民である私たちは、どのような言葉を使って生きるべきでしょうか? この世界は今、憎しみと恨みに満たされています。人の面前ではニコニコしますが、背後では睨みつける偽善者も多い世界です。このような世の中で私たち、主イエス・キリストを信じる者は、他と同じではいけないと思います。言葉と心を一致させるべきだと思います。言葉を通して人を殺す世界で、私たちは言葉を通して人を生かすべきです。言葉を通して暴力を振るう世界で、私たちは言葉を通して神の愛と赦しを伝えるべきでしょう。イエス様ははっきりと言われたのです。『善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。』(マタイ12:35)私たちは、善い人ですか?悪い人ですか?私たちの言葉が私達を証明しています。私たちの言葉が神様に喜ばれることを祈ります。 言葉には力があります。韓国の諺に「一言で千両の借金を返す。」という話があります。良い言葉が持っている影響力を力説する表現です。なにげなく、口から出てくるひとことの言葉、時には誰かの人生を変える復活の言葉になったり、時には誰かの心を崩す死の言葉になることもあります。しかし、私たちは毎日、言いますので、その重さを見落としている場合が少なくなくあります。良い言葉が良い関係を作り、良い言葉が美しい世界をもたらします。最近、日韓関係を眺めながら良い言葉、良い心が、両国の間に、どれだけ必要なのかをしみじみと感じています。神様が日韓の両国の間に良い言葉と、良い関係を結ぶことができる心をくださるように祈ります。良い言葉が持っている強力な力が神様を通して現れるように切に祈ります。そして、私たち志免教会も愛の言葉、生かす言葉を通して、始めに神様から与えられた美しい言葉をきちんと使いながら生きていく共同体になることを望みます。

王か?パンか?

「私はどのような人生を生きるべきか?」この問いは、古今東西を問わず、すべての人が一度は考える問いだと思います。「私はどのように生きて行かなければならないのか?」忙しい現代人、皆と同じ方向に向かって行きながらも、そのような自分の人生について自ら真剣に問い掛けるべき設問。「私は何のために生きていくのか?」皆さんは、こういう質問への答えを出したことがありますか?アメリカの16代大統領であるアブラハム・リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つべきだ。」という言葉を残しました。 多分、私はリンカーンが「人は40歳を過ぎると、自分が何のために生きるべきかを弁(わきま)えなければならない。」という意味で、この話を残したのだと思います。もちろん、個人差があるので、早めに気付く場合も、遅く気付く場合もあると思います。私の場合は、聖書のある言葉によって40歳になる前に、何のために生まれたのかについて悟ることができました。その言葉が、まさに今日の旧約本文の言葉です。『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』 今日は『キリスト者としての私達はなぜ、生まれたのか?どう生きるべきなのか?』について話してみたいと思います。 1.パンへの人間の本性 – ヘロデ王 今日の新約の言葉は5つのパンと2匹の魚の奇跡と呼ばれる非常に有名な物語です。 4つの福音書に、全部登場するほど、多くの深い意味を持っている箇所です。ところで、ヨハネによる福音書を除く3つの福音書では、この5つのパンと2匹の魚の奇跡の物語が出る直前にヘロデ王がバプテスマのヨハネを処刑したという話が出てきます。なぜ、5つのパンと2匹の魚の話の直前にヘロデ王の話が出てくるのでしょうか?まさにパンに隠されている意味について話すためです。異民族の血統の王として正当性が弱かった彼は、自分のパン、すなわち自分の力を保つために、イスラエルの血統の女性との結婚を望みました。結局、自分の元妻を捨てて、イスラエルの血統の異母兄弟の元妻と結婚することになります。バプテスマのヨハネは、そのようなヘロデの行為が律法に適わないと、ヘロデとその新しい妻を糾弾します。するとヘロデの新しい妻はヘロデを操ってバプテスマのヨハネを殺させました。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、この物語が出て来ています。 ヘロデがヨハネを殺した理由は、自分の権力のためでした。異民族の血統を受け継いだ王が民族的な正当性を得るために、律法に禁じられた結婚をし、その結婚についてヨハネが糾弾したからです。ヘロデの新しい妻は、そのようなヨハネの非難を防ぐために、彼を無惨に殺しました。聖書が語っているパンは、単に食べることだけに限るものではありません。先月の聖餐礼拝の説教で、私は食べることは、神様が与えられた祝福ですが、自分の欲望だけを満たすためなら、神様の呪いになる可能性があると話しました。ヘロデはパンに象徴される、自分の権力を強めるために、つまり、自分の欲望のために、神の預言者を殺したのです。 人に適度な権力と富と名誉は必要かもしれません。聖書を読むと、神様も権力と富と名誉を許されました。しかし、権力、富、名誉に酔って暴れた者たちは、結局、神様に裁かれました。私は今日、このパンを権力、富、名誉に喩えようとしています。人間は、このパンへの過度な執心をする傾向があると思います。自分のパンのために、他者に害を及ぼし、他者を憎み、ひどい場合は、他者の命を奪うこともあります。結局、このパンへの欲望が更に大きくなり、他者を踏みにじる権力として象徴される王への欲を出し、そのため、より多くの罪を犯してしまいます。パンへの欲望は、他者のパンを奪い、他者に苦しみを与える暴力になります。このようなヘロデの行為は、イスラエルの民に大きな痛みと悲しみを与えました。私たちの心の中にあるパンは、どのようなパンでしょうか?もしかしたら、それは自分の欲を満たすためのパンではないでしょうか? 2.パンに対するイエスの御心。 ところで、真の権力者である神の独り子、神の御言葉、主イエス・キリストは、このパンについてヘロデとは違う姿を示されます。『イエスはお答えになった。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。』(マタイ4:4)イエス様は、人はパンだけで生きるものではなく、神様がくださる言葉をもっと大事にして、生きるべきだと言われました。パンだけを求める者は、神の言葉から遠ざかってしまいます。自分の欲望だけを求める者は、神の言葉が持っている正義、公平、愛から離れてしまいます。神の言葉を守って生きては、自分の欲望を満たすことが出来ないからです。イエス様は徹底的に人間のパンより、神の御言葉に従って生きて行かれました。むしろ、イエスは、より多くのパンを持つことが出来る立場から自ら抜け出し、より少ないパンも分け合おうとされました。自分の欲望ではなく、神の御言葉を、より大事に思われたからです。 イエスは、病んでいる、飢えている民を憐れんでおられました。ですので病気を治され、御言葉を聞かせてくださいました。そして、5つのパンと2匹の魚をもって大勢の人々を食べさせてくださいました。イエス様はパンだけを下さったのではなく、まず治してくださり、御言葉を聞かせてくださり、最後にパンをくださったのです。弱い者を慰められ、御言葉を教えられ、その次に食べ物を与えられたのです。イエスは人間の欲望のために、満足感のために、奇跡を起こされたわけではありません。イエス様は神の慰めと、教えの結果として食べ物を与えられたのです。ヘロデ王が自分のパンを得るために他者に害を及ぼし、痛みを与えたとは違って、イエス様は、他者に仕え、癒しと慰めを与えるために、ご自分のパンを分けてくださったのです。 イエス・キリストは、いつもご自分の権力と富と名誉よりは、人々の痛みと苦しみと悲しみに眼差しを注がれました。そして、ご自分の愛と御心が、この世で成し遂げられることを望まれました。主イエスはそのような主の御心が、主を信じる者たちに共有されることを望んでおられたのです。ですので、主は弟子たちに『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』と命じられました。弟子たちは、力が足りなくて、子供の5つのパンと2匹の魚を借りて主イエスに差し上げることしか出来ませんでしたが、主はその弟子たちの小さな努力を受け入れられました。その日、主イエスは男だけでも、5000人にもなる多くの人々を満足させるほど、豊かな食べ物を施されました。王としての権力のために、罪のない人を殺したヘロデとは違って、民のためにパンを分かち合った主は、まるでマナと鶉を通して、イスラエルを食べさせてくださった神様を象徴するように、民を助け、生かしてくださいました。 3.我々は、どっちのパンを選んで生きていくべきか? 人間は常に二つの心を抱いて生きていくと思います。自分の欲望を追いかける心、他者への愛を追い求める心。この二つの心が一塊になり、ある時は善を行なったり、ある時は悪を行なったりする時もあります。神様は今日も私たちの目の前に、二つのパンを置かれ、我々がどっちのパンを選ぶか見ておられると思います。私たちが選ぶべきパンは、ヘロデが願っていたパンでしょうか?それとも、イエス様が分けてくださったパンでしょうか?今、私達、皆が追い求めているパンは、どっちの方でしょうか? ヨハネによる福音書ではイエス・キリストを従っていた、弟子たちと群衆が登場します。イエスは飢えた群衆に食べさせるパンのために弟子たちを試み、彼らがどのように群衆を助けるかを見詰められました。弟子たちは、お金では済まない問題だと考えて、弱気になりましたが、それでも5つのパンと2匹の魚を持ってきて、主に差し上げました。彼らの力は弱かったのですけれども、彼らは信仰を持って、主イエスに行きました。そして、イエス様はその信仰に呼応して、多くの群衆を食べさせました。弟子たちは、自分の欲望を満たすパンより、イエス・キリストの御心を成し遂げるパンを求めたのです。そして、そのパンを喜んで主に捧げました。私たちが持っているひとかけらのパン、小さな力、小さな財力、小さな名誉を用いても、イエス様を信じ、彼の御言葉に聞き従うならば、私たちを通して神様の偉大な御業が表されると信じます。 今日の本文の群衆は弱くて病んでいる群れでした。自分たちが食べるパンさえも、用意できない貧しい群れでした。彼らにはパンが必要でした。そこで、イエス様は、かれらを哀れみ、喜んでお助けになりました。しかし、満腹した群衆は、イエスの御心に気付かず、続いて、食べ物を与える王としてイエス・キリストを無理やりに自分らの王にしようとしました。『人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』(ヨハネ6:14-15)主は貧しい人を愛しておられますが、貧しい人だからと言って、皆が神の御心を知ることは出来ません。彼らは貧しさの中、急におなかが満たされたあまり、主の本当の御心を理解できませんでした。主のパンを食べた彼らは、自分の所に帰って行き、主がいかに自分らを助けてくださったのかを宣べ伝え、彼らも他者のためにパンのような存在として生きて行くべきだったのです。ですが、彼らは、ただパンだけに満足して、自分の在り方は何かについて、悟れませんでした。主はそのような彼らから離れ、退かれました。 王か?パンか? イエス・キリストは王です。ヘロデのように自分のことだけを考える王ではなく、民を愛しておられる王です。イエス・キリストはパンです。ご自分の権力、富、名誉だけのためにパンを求める王ではなく、自らパンになられ、人々に愛と慰めのパンを与えてくださる生命のパンであります。このイエスを信じる人は、ヘロデの道のりではなく、イエスの道のりを歩むべきでしょう。自分だけのためにパンを持とうとする人は、王になろうとする人です。このように生きていく人は、自分の真の王であるイエス・キリストを見違えるようになってしまいます。つまり、主の御言葉の教えを悟ることが出来ないようになってしまいます。群衆がパンだけに満足し、イエスを無理やり王にしようとしたのは、イエスが本当の王であると思ったわけではありません。イエスを通して、自分たちのパン、隠れていた欲望を満たすことが出来るということを悟ったからです。これは王になろうとする、ヘロデのような人間の欲望と、非常に似ている本能です。 主の御言葉に聞き従い、自分のパンを分かち合おうとする人は、自ら、イエスに従い、パンになろうする人です。彼らは真の王であるイエスを認め、そのイエスのように自分自身を犠牲にして、他者を生かす者、つまり、主イエスの御手に用いられるパンになることが出来ます。イエスは、この小さなパンを用いて、自分の御心を成し遂げられ、多くの人々に命を施してくださいます。 「私」という小さな存在が、ひとかけらのパンになり、主の御手によって用いられる時、私たちは隣人に希望と喜びを与える者になるでしょう。そして、隣人と分け合うパンと共に伝わる主の御言葉は、真の魂の糧となり、隣人を福音と救いの道に招くでしょう。今日も私たちは、王になろうとするヘロデの道と命のパンになろうとするキリストの道の分かれ道で生きています。私たちは、いくつかの道を行くのですか?5匹の魚の奇跡を読むとき、私たちは果たして、どっちの道に赴くべきでしょうか?王か?パンか?主に喜ばれる道を選ぶ賢い民として、この1週間を過ごしたいと思います。主の豊かな愛と恵みが皆さんとご家族の上にありますように。