互いに愛し合いなさい。

イザヤ書11章1-10節 (旧1078頁) ヨハネによる福音書13章34-35節 (新196頁) 前置き 今日は、韓国釜山の巨堤(ゴゼ)教会の青年の皆さんが志免教会の礼拝にお越しくださいました。志免教会は青年の皆さんを、心から歓迎します。ありがとうございます。巨堤教会は大韓イエス教長老会高神(ゴシン)派に属した教会です。高神派は、日本統治時代の朝鮮教会において、神社参拝の強要を拒み、喜んで殉教し、投獄された、いわば出獄聖徒たちの跡継ぎです。高神派の先輩たちは、日本帝国の宗教弾圧によって、苦難を受けることになってしまいましたが、だからこそ、その跡継ぎである高神の若者たちは、さらに日本のために祈り、日本の教会を愛し協力していく、大事な根拠を持っていると思います。そして、日本キリスト教会は過去の過ちをことごとく悔い改め、神の御前で、正しい教会として立っていくために、力を尽くす教会です。現在、高神派は日本キリスト教会と直接的な協力関係を結んではいませんが、キリストにあって、同じ一つの体なる教会として、日本キリスト教会と一緒に歩んで行かなければならないと思います。日本の教会の状況を正しく知り、特に日本キリスト教会九州中会と志免教会を憶え、祈っていただくこと、そして、キリストにあって深い霊的な交わりを作っていくことを願います。 1.神の愛について キリスト者なら、聖書を通じて、愛という表現をよく耳にしたり、また口にしたりします。愛、実に美しい言葉です。ところで、私たちが頻繁に聞いたり、語ったりする愛とは、果たしてどういうものなのしょうか? ギリシャ語には、4つの愛の概念があると言われます。一つ、自分のエゴに基づいて快楽と官能を追求するエロスがあります。異性間の愛を意味する場合が多いです。二つ、フィロスです。友愛、師弟の間の愛を意味します。ストルゲーもあります。子供への親の愛、親への子供の愛です。もしかしたら、人間の愛の中で、最も神の愛に似たような愛であるかもしれません。最後にアガペーがあります。アガペーは、神の聖なる愛、無条件的な愛、すなわちイエス·キリストの愛の根源であり、三位一体の相互の愛と言えます。このように、ギリシャの世界には、4種類の愛があると言われますが、私たちが追求すべき愛は、断然キリストご自身が実践されたアガペーだと思います。もちろん、人間はアガペーを完全に行うことはできません。ただ、主のみお出来になる完璧な愛だからです。あくまで、追求なのです。私たちは罪を持った人間としての自分の限界を認めなければならないからです。それでは、4つの愛の中で、神の愛であるアガペーについて考えてみましょう。 先日、連合婦人会閉会祈祷会でも、そして3週間前の水曜祈祷会でもお話しましたが、「神は愛です。」という言葉について、今日も、もう一度お話したいと思います。第一ヨハネの手紙の4章16節には「神は愛です」という言葉があります。なぜ、神を愛と言うのでしょうか? ある意味で、愛は神の被造物です。被造物を神と言うのは偶像作りではないでしょうか。しかし、驚くべきことは、神が聖書を通して「神は愛」という言葉を許してくださったということです。神がご自身のことを愛と認めてくださったわけです。しかし、私たちははっきりする必要があります。「神は愛」という言葉は、可能ですが「愛がすなわち神」という言葉は、成立できないということです。つまり、神ご自身が自らを被造物である愛に比喩され、自らを低くされたということです。この世のすべての被造物より、はるかに大きい神が、愛という小さい概念の被造物に合わせて、ご自分について教えてくださったのです。人間は神を感じることも、触れることも、見ることもできない、小さい存在です。それに対し、神は宇宙よりも大きい方です。しかし、主は愛という人間が理解できる言語によって、ご自身を私たちに表してくださいました。人間にとって、不可解な対象である神が、ご自分がすなわち愛という言葉を通して、私たちにご自分のことを表してくださったわけです。つまり、主は愛によって、人間との交わりをお造りになったということです。 その神の愛の最も決定的な出来事は、断然、イエス·キリストのご到来とご奉仕、死、そして復活です。人間が見ることも、知ることもできない神は、キリストという存在を通して、人間を訪れてくださいました。そして、その方の全生涯による犠牲と愛とで、私たちを救ってくださったのです。大きな神が、小さな被造物である人間の姿でおいでになり、主イエスを信じる者たちの救いのために、自らを犠牲にしてくださったのです。まるで、愛という小さな被造物に、ご自分を合わせてくださったように、イエス·キリストという最も完全な人間として来られた神が、キリストの愛によって私たちにご自分のことを見せてくださったのです。また、神はイエス·キリストという最も完全な神によって、私たちの人生の中に来られ、私たちを救いへと導いてくださったのです。したがって、神の愛、アガペーは見捨てられるべき罪人にご自分を与えてくださるための神の自己卑下なのです。あえて、憐れんでくださらなくても、見捨てられても構わない、罪に満ちた存在のために、自らを犠牲になさった愛なのです。神の愛は、このように意味のない存在を意味のある存在に生まれ変わらせる神の救いの原動力なのです。したがって、私たちが追求すべき愛は、この神の限りのない愛、つまりアガペーの愛なのです。 2.お互いに愛しあいなさい。 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35) 今日の本文は、主イエスが逮捕される夜、最後の晩餐と弟子たちの足洗い後、弟子たちにくださった御言葉です。ここの「愛しあいなさい。」は「アガペー」の動詞形である「アガパオ」です。愚かな弟子たちは、互いにアガペーしあうことのできない存在です。しかし、イエスはご自分の体である教会を形成していく、この弟子たちが、自分の力ではなく、キリストによって、互いにアガペーしあうことをお望みになりました。彼らが互いにアガペーしあう時、彼らによって、キリストが表されることになるからです。教会と教会の愛、信徒と信徒の愛がキリストを表し、主の存在を宣べ伝える力になるからです。ですから、私たちは、誰よりも熱く愛しなければなりません。異性との愛、友との愛、親子の愛を超える神の完全な愛を追い求め、私たちの全生涯を通して、愛しあいつつ生きていかなければなりません。したがって、愛は、教会が存在する理由であり、愛のない教会は死んだものと同じなのです。旧約のイザヤ預言者はこう唱えました。 「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:9) 主のご統治なさる国、神の国では猛獣と草食動物が幼子の手に導かれることになるでしょう。皆が神の愛に満たされ、お互いに大切にしあい、愛し合って生きるようになるでしょう。神の国は、ただ、死後に入る来世のことではありません。主イエスがこの地上に来られ、主なる神のご統治を宣言された時、神の国はすでに、この地上で始まったのです。そして、その地上での神の国を最も明らかに表す存在は、主イエスの教会なのです。ですから、教会は、主のご命令に聴き従い、愛しあって行かなければなりません。キリストの身なる教会の一人一人が主の愛にならって生きていかなければなりません。その愛の中で、神と御国が、この世の人々に明確に現れるからです。日本と韓国は大昔から深い関係を結んできました。時には、良い関係を、時には悪い関係を結んできたのです。昔、朝鮮半島では倭寇(わこう)という海賊に多くの人々が被害を受けました。ところが、朝鮮半島からも、日本の人々を苦しめた新羅寇(しらぎこう)という海賊もいたそうです。モンゴルの日本来襲の際、高麗が攻撃を支えたとの歴史もあり、豊臣秀吉時代には日本が朝鮮を攻撃したこともあります。また、近代になっては日本帝国が朝鮮を侵略し、植民地にした事実もあります。日本と韓国は数多くの遺憾の歴史を作ってきたのです。 だからこそ、日本の教会と韓国の教会の関係はさらに格別です。キリストという一つの頭を崇める一つの教会として、民族と国家とイデオロギーを越え、お互いに愛し合い、協力しあっていくという大事な使命を持っているからです。日本と韓国とを問わず、キリストが私たちを愛によって一つの教会に結んでくださったからです。志免教会の皆さん、巨堤(ゴゼ)教会の青年たちを憶えてください。彼らが政治的に厄介な隣国の人ではなく、キリストにあって私たちの兄弟であり、姉妹であることを忘れないでください。巨堤(ゴゼ)教会の青年の皆さん、志免教会を憶えてください。彼らが歴史的に残念な隣国の人だという政治的な認識から離れ、私たちが愛し、仕えていくべき存在であるという新しい心を持って生きていきましょう。志免教会と巨堤教会が国と民族と言語の溝を乗り越え、キリストにあって愛し合い、一つになる時、この世が私たちを通じて主キリストを知るようになり、神の国が来るのを知るようになるでしょう。今日の礼拝が日本と韓国の教会を一つにする愛の始まりであることを祈ります。私たちの愛の中で、キリストはご自分の栄光を限りなく表してくださることを信じます。 締め括り 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(第一コリント13:1-3) なぜ、使徒パウロがこのように力強く愛を語ったのでしょうか。考えてみたいと思います。愛についての実践的な課題を一つ出させていただきましょうか。教会の中に、いやな人がいれば、その人を愛する心をくださいと祈りましょう。陰口を話したい人はいるならば。心の中に、その人のために「愛しています。」と10回唱えましょう。積極的な愛の実践のために努力しましょう。口先だけではなく、行動によって証明してください。神の国、主の教会の根拠は主の愛から始まります。主の愛が十字架の救いをもたらしたからです。このような主の愛を記憶し、私たちもお互いに愛し合い、主にあって生きていきましょう。ここに集っておられる皆さんの上に神の愛と恵みが豊かでありますよう祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

香油に注がれたイエス

出エジプト記12章12-13節 (旧111頁) マルコによる福音書14章1-11節 (新90頁) 前置き 前回の説教でお話しましたマルコ福音書13章は、神の御心を離れ、裁きをもたらしたエルサレム神殿とユダヤ社会へのイエスの警告でした。私たちは本文を通じて、私たちにとっての神殿の意味と日常生活に適用できる点について話しました。実は今日も神殿への裁きと世の終末について説教する予定でしたが、似たような内容を2度も繰り返せば、説教する私にも、聞いてくださる皆さんにも、疲れがあるかと思い、今度マタイによる福音書の説教の時に、この部分について、また分かち合いたいと思います。しかし、主が13章で教えてくださった最も大事な教えは言及して次に入りたいと思います。今日の本文ではありませんが「気をつけて、目を覚ましていなさい。」(13:33)という言葉です。13章の最後に、イエスは主の再臨についてお話になりました。それが西暦70年のローマ帝国を用いられ、神殿をお裁きになることを象徴的に示されたことなのか、それとも世の終末の時にあるイエスの実際的な再臨を示されたことなのかは分かりませんが、主はご自分の民たちが「主の再臨に備えて、常に気をつけて、目を覚まして生きる」ことを命じられたのです。主の神殿は、主なる神の御手によって崩壊しました。私たちの教会も、もし当時の神殿やユダヤ社会のように、主の御心と御言葉に適わず、この世の風潮に流されて生きていくなら、私たちの思いがけない時に裁き(戒め)の主の御前に立つことになるかもしれません。私たちは常に自分が目を覚ましているかどうか、主の御心にふさわしく生きているかどうか、深く考え、注意と自覚の中で生きていく必要があります。 1.過越祭と除酵祭 13章の主の厳重な警告の言葉に続く14章では、イエスが本格的に死に向かって進んでいかれる姿が描かれます。マルコ1章で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉で地上での公生涯を始められたイエスは、3年の間、ユダヤ人、異邦人を問わず、貧しくて弱い人々を癒し、教えつつ、宣教をされました。そして11章で十字架のいけにえとして、ご自分の命を捧げるためにエルサレムに行かれたイエスは、歪んだ神殿とユダヤの社会を叱られ、裁きを警告されました。以上がマルコの福音書1章から13章までのあらすじです。そして、主は14章で、本格的に十字架の道を進み始められたのです。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」(14:1-2) 現在、説教している創世記が終われば、次は出エジプト記に入る予定ですが、出エジプト記12章には過越祭と除酵祭の起源について記してあります。過越祭は「神の災い(死)が過ぎ越す。」という意味の日で、出エジプトを妨げるエジプトへの主なる神の強力な裁きの日でした。しかし、家の入口の二本の柱と鴨居(以下、入口)に小羊の血を塗ったイスラエルの民は、神の裁きを免れ、生き残ることができました。ユダヤ人が過越祭を記念する理由は、小羊の血を用いられ、イスラエルを死から守ってくださった主の恵の日だからです。 出エジプト記12章には、除酵祭についても記してありますが、最初の過越祭の夕方、イスラエルの民は酵母を入れないパンと苦菜、そして小羊の肉を食べました。この時、神は一週間、酵母を入れないパンを食べることを命じられましたが、それから始まったのが除酵祭だったのです。そのため、過越祭は除酵祭期間の1週間を始める日だったわけです。そして、この期間は出エジプト記のように、神が死からイスラエルを守られ、エジプトの束縛から解放してくださったことを記念する期間でした。ここで大事なのが小羊の血なのです。出エジプト記12章13節を読んでみましょう。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」小羊の血を入口に塗った家は、神の裁きを免れることができました。ユダヤの宗教指導者たちは憎しみでイエスを殺そうとしました。自分たちを戒める主イエスのことを我慢できなかったからです。しかし、彼らの憎しみと復讐心の中でも、神はご自分の御業を着々と準備して行かれました。宗教指導者たちは自分たちがイエスを殺すと思ったでしょうが、実はイエスの死は人間のたくらみではなく、神ご自身が直接ご計画なさったことだったからです。神はまるで出エジプト記の小羊の血のように、神の小羊であるイエスを十字架につけられ、その血潮によって主に選ばれた、ご自分の民を死から救い出してくださったのです。 2.イエスを記念する。 主イエスの十字架での血は、まるで過越祭の小羊の血のようなものでした。入口の小羊の血が、死の災いからイスラエルを守ってくれたように、イエス·キリストの十字架での血は、その方を信じるすべての者たちに、神の裁きと死から主の民を守るしるしになります。私たちがイエス·キリストを信じる理由は、このお方だけが、神の怒りと裁き、そして呪いと死から私たちを守ってくださることが出来るからです。しかし、イエスの弟子たちも、主に従う人々も、このようなイエスの真の使命について、まともに理解していなかったようです。皆が主の癒しだけを願い、政治的なメシアだけを望み、自分の利益のために主を利用することだけを求めていたようです。そのような主の歩みの中に、今日は特別な人が登場します。それはナルドの香油を注ぐ女です。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(14:3) この女が誰なのか、私たちには分かりません。その日も、主はベタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人の家におられました。「11番洞窟神殿文書(11Q Temple Scroll)」という故文書には、神殿の東側3キロ地点にハンセン病人の隔離区域があったと記録されていますが、おそらくベタニア近くではないかと思います。つまり、十字架での死を目の前にしたその日も、主は貧しい病人の世話をしておられたということです。 皆が主の癒しだけを求め、皆が主に憐れみだけを望み、皆が主に必要だけを願った時、高価の香油を持った女は、主に油を注いだわけです。女が主に何かを差しあげたということです。(捧げるという表現より、わざわざ日常用語のあげるという表現を使います。)ナルドという植物はヒマラヤ山脈に育つ草で、非常に貴重なものでした。古代にインドからイスラエルまで来たものですから、どれだけ高かったでしょうか。300デナリオン以上、当時、丈夫な労働者の1年分の労賃以上の価値だったのです。2022年度、日本の平均賃金は400万円前後だったそうです。私たちは果たして400万円以上の油を主の頭に注ぎかけることができるでしょうか?正直、私は自信がないです。そのためか、ある人たちがイエスに油を注いだ女を厳しくとがめる場面も出てきます。新約の学者たちは、イエスに香油を注ぐ行為に 2 つの意味を与えました。第一、油に注がれた者、つまりイエスこそメシアであるという解釈です。イエスは、ただの貧しい者を助ける心優しい青年ではありません。主は香油に注がれた真のメシアとして、ご自分の民のために代わりに死に進んでいかれる方です。第二、イエスのお葬儀の記念という解釈です。イエスがマルコ福音書で3度も予告されたように、まもなく十字架のいけにえになることを記念するということです。古代イスラエルにおいては、遺体に香油を塗る場合もあったと言われますが、そういう意味として、香油を注いだとのことです。とにかく、無名のこの女はイエスを記念しました。 皆がイエスに「ください」と言った時、彼女は名もなく主にすべてを差し上げたのです。 私たちは祈る時、つい「ほしい、ください」とよく言います。神に私たちのものを差し上げるという祈りはあんまりしないと思います。実は「私たちのような罪人たちが主に何ができるの?」と思ってしまうかもしれません。しかし、私たちにも、神に差し上げることができるものがあります。それは「感謝」です。「主よ、私たちと一緒にいてくださって、ありがとうございます。主よ、私たちを選び、救ってくださって、感謝します。」また、讃美です。「主おひとりだけに栄光あれ。主よ、あなたの御名が高く崇められますように。」そして、献金もあります。もちろん献金の金額は重要ではありません。幼子の100円でも、喜んで捧げる心が大事です。「主よ、わずかなものを主に捧げます。」そして、献身もあります。「主よ、宝物はありませんが、私を主のものとしてください。主の栄光のために私を用いてください。」牧師、長老、執事でなくても、自分のありのままを主に捧げて生きるという人生、それが重要なのです。そして、最も重要なことは、私たちの隣人と兄弟、姉妹への愛、目に見える隣人への愛によって、目に見えない神へ愛を差し上げることです。ですから、私たちも主に差し上げることができます。私たちも主に香油のような感謝、讃美、献金、献身、そして愛を差し上げることができます。ですから、私たちは何を差し上げることが出来るだろうか考えてみましょう。いつもくださいと祈るばかりではなく、捧げの祈りもしましょう。それがまさに今日のその女の心ではないでしょうか。 3.倫理、道徳ではなく、福音としての愛。 最後に「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。」(14:4-5)の言葉について考えてみたいと思います。一見、憤慨した人々の言葉が、ともて理性的で合理的に聞こえるかもしれません。実際に400万円の香油をいっぺんに使いきるよりは、それを売ったお金でトルコの被害者や日本の欠食児童を助けるのが良いのではないでしょうか? それがまさに隣人愛ではないでしょうか。しかし、私たちの隣人への愛の根拠は、主への愛でなければなりません。 私たちは、隣人への愛を実践する前に、その愛の根拠はどこからなのかを憶える必要があります。私たちはまず主の愛を憶えなければなりません。主の愛、贖い、導きを憶えなければなりません。そして、主の御業を記念して生きなければなりません。もちろん、実際に300デナリオンの大金を使うのは無理かもしれません。しかし、少なくとも私たちは主の功績を忘れずに、常にその方の御業に感謝し、憶えながら生きるべきです。キリスト教は倫理と道徳だけの宗教ではありません。キリスト教はキリストの愛と救いの宗教です。キリストの愛と救いという大前提から倫理と道徳も生まれるのです。ですから、私たちは隣人への愛に先がけて、神への愛をまず心に刻みながら生きていかなければなりません。 締め括り 今日は、主が十字架にかけられる直前の出来事の中で、一番最初にあった香油に注がれたイエスの物語について考えてみました。主イエスは罪人を神の厳重な裁きと、それに伴う永遠の死から救ってくださるために来られたメシアです。主は出エジプト記の小羊の血のように、私たちから呪いと死が過ぎ越すように守ってくださる方です。また、私たちも主に自分のものを差し上げることができます。大金でなくても、大したものでなくても、私たちの小さなもの、私たちのありのままを、主に差し上げることができます。神は何よりも、私たちの献身を喜ばれる方だからです。最後にキリスト教は倫理と道徳だけの宗教ではありません。私たちが大事にする隣人への愛、倫理、道徳の根拠は、キリストの愛と救い、つまり福音から始まります。ですから、父なる神の愛、キリストの救い、聖霊の導きを憶え、感謝し、記念して、私たちの神を何よりも大事な方として生きていきましょう。今週も主に感謝し、私たち自身を捧げて生きる一週間になりますように祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

ヤコブがファラオを祝福する。

創世記47章1-12節 (旧85頁) エフェソの信徒への手紙1章22-23節 (新353頁) 前置き 長い長い創世記の説教の終わりが近づいています。2020年6月に創世記の1章で説教を始めて以来、もう3年近になっています。その間、私たちは創世記の言葉を通して、神の創造と人類の堕落、人類への主の救い(創世記に現れる部分的な救い、完全な救いはイエス·キリストによって成し遂げられる。)について話してきました。創世記は人類への神の祝福の記録です。神は祝福をもって人類を創造されましたが、人類は自らの罪によって神との関係を失い、呪われた存在となってしまいました。しかし、神は人類をあきらめられず、アブラハムという人を召され、神と人類が和解する道を作り始められました。神はアブラハムと息子イサクと孫ヤコブを用いられ、罪に満ちていた人類に、神の救いの道を伝える、主の民、イスラエル民族(ヤコブ部族)を造られました。そして、そのイスラエル民族を空の星と海の砂のように繁栄させるために、ヤコブの息子ヨセフをエジプトの総理として遣わし、彼を通してヤコブの家族をエジプトに移されました。その結果、出エジプト記になっては、数万人の大民族に栄えます。今日はヤコブの家族がエジプトに到着して経験した出来事について話してみたいと思います。 1.ヤコブとヨセフの再会 「ヨセフはファラオのところへ行き、『わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります』と報告した。」(創世記47:1) 今日の本文が始まると、私たちは一つの地名を聞くことになります。それはゴシェンです。なぜ、ヤコブの家族はゴシェンにいたのでしょうか? まず、今日の本文には含まれていませんが、本文の直前の46章28節から34節にはヤコブとイサクの再会の場面が出てきます。「ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。」(創世記46:29) 過去、息子たちの元気と羊の群れの無事を確認するために送った最愛の息子が、行方不明になって以来、十数年ぶりにエジプトの総理として帰ってきたました。過ぎ去った歳月、神としては、ヤコブの家族を飢饉から救い、大いなる民として繁栄させるために、ヨセフをエジプトに遣わされたわけでしょうが、前後の事情が分かるすべのないヤコブとしては、実に苛酷な試練の時間だったでしょう。毎日、涙とため息で過ごしてきたはずです。しかし、今この瞬間、ヤコブはこの上ない喜びを感じたのでしょう。 とういうことで、ヤコブは言います。 「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(創世記46:30) 神はヤコブの試練の末に、この上ない喜びを与えたのです。 ヤコブの試練は近くから見ると悲劇ですが、遠くから見ると喜劇です。もし、ヨセフが兄たちに売られずに、そのまま、ヤコブと暮らしたとしたら、大飢饉の中でヤコブの家族はどうなったでしょうか? 現代人にとっての飢饉は、それほど大きな問題にならないかもしれません。スーパーに行くと、変わらず米を買うことができ、水も足りないことがありません。しかし、古代人にとっての飢饉は命がけの問題です。今すぐに飲む水も、食べる穀物もなくなるからです。もし、ヨセフがエジプトに売られなかったら、ヤコブはしばらくの幸せだけで、後には飢饉によって滅びてしまったかもしれません。ヨセフがいなくなってから、ヤコブは長い間、悲しみで過ごさなければならなかったが、皮肉なことに、その結果は大飢饉からヤコブの家族が皆救われ、以後、神の御言葉通りに大いなる民族となることでした。私たちの人生の中に到底理解できない試練が近づいてくる場合があります。あまりにも、つらくて神が恨めしい時もあるかもしれません。しかし、私たちは憶えなければなりません。キリスト者の人生において、意味のない苦難はありません。今の苦難は私たちを養われる神の計画の一部です。もちろん自分の過ちによってやって来る苦難は自業自得でしょうが、自分の過ちなしにやって来る苦難は、神の祝福のための準備段階である可能性が高いです。ヤコブとヨセフの再会を目の前にして、私たちはこのような信仰を持つべきではないかと思います。 2.流浪のヤコブ、ゴシェンに住む。 父親との涙ぐましい再会の後、ヨセフは兄たちに、このように頼みます。「ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」(創世記46:33-34)ゴシェンはナイル川河口の東側にある草原地帯と推測されます。今でもグーグルマップを見ると、他の地域は砂漠であるに対し、そこは緑の地域であることが分かります。47章では、ヨセフの頼みのように、兄弟たちがファラオに自分たちは牧畜をする者と言いました。「ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。『お前たちの仕事は何か。』兄弟たちが『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます』と答え」(47:3) 彼らの答えに対し、ファラオは彼らがゴシェンに住むことを許可します。ここで気になる表現があります。46節34節の「羊飼いは、いとうもの」という表現です。ここで、羊飼いとは流浪民のことだと思われます。中世ヨーロッパのジプシー、現代アメリカのヒッピーなど、人々には定着せず、さまよい続ける人々を避ける傾向があります。歴史上、流浪民族が周辺民族を略奪したという記録が残っていますが、おそらく、その影響もあったと思います。詳しい理由はわかりませんが、流浪民族は定着民族に嫌われる傾向がありました。 最初から、ヤコブの家族はカナンの定着民族ではなく、流浪民族でした。その流浪民族がエジプトに入ったわけです。エジプトの人々は、彼らが、もしかすると自分たちに被害を及ぼすのではないかと警戒していたかもしれません。ですから、牧畜に適していて、エジプト人と離れたゴシェンの草原地帯にヤコブ一家がいることが良いと思ったでしょう。流浪民としてエジプトに来たヤコブの家族は、ゴシェンの地でエジプト人と区別されて暮らしていましたが、400年後に再び流浪民として、エジプトから脱出することになります。ここで、私たちはキリスト者のあり方について考えさせられます。キリスト者は昔の流浪民族のように人々に被害を及ぼす存在ではありませんが、しかし、流浪民族のように、この世に定着することもない存在です。なぜなら、エジプトのような、この世はキリスト者の目的地ではないからです。キリスト者は、世の中とは区別されたゴシェンのような存在である教会として生きながら、いつか帰るべき、神の国を待ち望みつつ、人生を歩んでいく存在です。ですから、私たちはこの世に属した存在ではありません。私たちはこの世ではなく、神に属した主の民です。 つまり、私たちの故郷は神のふところなのです。キリスト者はこの世と区別された、この世の人々にいとうものとされる(彼らと違う)存在です。でも大丈夫です。私たちは主に従って神の国に入る、世の中とは区別されたゴシェンのイスラエルの民のような存在だからです。 3.ヤコブがファラオを祝福する。 「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。ファラオが『あなたは何歳におなりですか』とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。『わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。』ヤコブは、別れの挨拶をして、ファラオの前から退出した。」(創世記47:7-10)以後、ヤコブはファラオを謁見しに、彼の前に立ちます。その時、ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べます。私たちは、この世とは区別された存在ですが、この世へ神の祝福を宣べ伝える存在です。祝福は目上の人が目下の人にすることです。神がこの世を祝福なさるのです。ヤコブがファラオを祝福したのは、ヤコブという人間ではなく、神の代理人として、ファラオに治められるこの世に祝福したのです。しかし、ここで、この世とは罪に染まり、悪があふれる世の中を意味するものではありません。罪がより大きくなり、悪がより隆盛するよう祝福するわけではありません。神の創造の摂理によって、この世が神に立ち戻り、神の御心が、この地上で成し遂げられるように祝福するということです。おそらく、ヤコブはファラオがこの世をうまく治め、神の御心にふさわしく生きることを祝福したのではないかと思います。 ヤコブは、今まで生きてきながら、多くの苦難を経験しました。130年という年月、人生の疲れをしみじみと感じてきたでしょう。しかし、その歳月が積もれば積もるほど、ヤコブは神が共におられること、神の恵みを切実に経験してきたでしょう。キリスト者としてこの世を生きるということは、本当に大変なことです。とりわけ、キリスト教が大衆的でない日本ではなおさらでしょう。しかし、主の祝福は大きな教会、小さな教会を問わず、平等に与えられます。そして、私たちはその神の祝福を世の中と分かち合いながら生きていくべきなのです。私たちは罪に満ちた世の中で、神の祝福を所有している存在です。キリストの愛を私たちが伝えなければならないということです。創造主の祝福が教会に託されているということです。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エヴェソ書1:22-23) 教会は万物を満たしている方が、満ちておられる所だからです。つまり、教会の使命は、主の祝福をこの世に伝えることです。私たちの人生において、主の恵みとお導きを通じていただいた、すべての物事を用いて、私たちは世の中に主なる神の祝福を伝える祝福の通り道にならなければなりません。私たちのそのような生き方は、神がアブラハムに約束された「君は祝福の源となる。」という言葉の継承になるでしょう。 締め括り 今日の話しをまとめます。第一、キリスト者の人生に理由のない苦難はありません。苦難は私たちを成長させる神の計画の一部です。私たちはいつか苦難さえも主による祝福の道具だったと感謝することになるでしょう。第二、私たちは世の中と区別された神に属する存在です。私たちの居場所はこの世ではなく、神の国であることを憶え、世の中の価値観に心を奪われないように気をつけて行きましょう。第三、教会は、この世に神の祝福を宣べ伝える祝福の通り道です。世の中と区別されるものの、世の中に絶えず祝福の主を伝える共同体として生きていきましょう。私たちは神に呼び出されたキリストの教会です。私たちのあり方が世の中のそれとは違うということを心に留め、主の御心と御言葉に従順に聞き従う群れとなりますように祈ります。 父と子と聖霊の名のもとに。 アーメン。

エルサレム神殿の崩壊。

アモス書 9章1-4節 (旧1440頁) マルコによる福音書13章1-13節 (新88頁) 前置き 今日の本文で、主は神殿の崩壊を予告されます。これまで、数回の説教を通して、主が神殿で経験された様々なエピソードをお話しましたが、結局、主はエルサレム神殿が本来の機能を失い、ただ、人の欲望だけを満たす有名無実の場所になっているのをご覧になり、裁きと滅びを予告されたわけです。神はなぜ、神殿をくださったのでしょうか。神殿は地上の民が、天の神と会う礼拝の場です。神は神殿の至聖所で大祭司を通して民と会ってくださいました。イザヤ書は、この神殿を祈りの家と呼びました。しかし、実状はどうだったでしょうか。 メシアを歓迎することも、貧しい隣人を愛することもない場所になっていました。そこには宗教的な見掛けが残っているだけで、神への真の信仰と隣人への奉仕が欠けていました。神殿は人間の欲望だけが沸き立つ強盗の巣になっていました。そういうわけで、主は神殿の滅びを予告されたのです。「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない。」(アモス9:1) 主は新約の神殿である教会を甘やかされません。教会の罪を見逃されません。ですから、私たちは常に自分のことを弁え、主の御心に適う教会として建てられていくべきです。 とういうことで、今日は神殿について考えてみたいと思います。 1.神殿の崩壊を予告される主。 まず、エルサレム神殿について話してみましょう。歴史上、社殿は3つの形であったと言われます。一番目は、ソロモン王が父ダビデの遺志を継ぎ、神のお許しをいただいて建てたソロモン神殿で、バビロンの侵略によって崩れました。二番目は偶像崇拝と多くの罪によってバビロンの捕囚となったイスラエルが、以後、ペルシャ帝国の許可を得てユダヤに戻り、再建したゼルバベル(当時総督ユダヤ王族)神殿です。そして、3番目は、ゼルバベル神殿を増築したと言われるイエス時代のヘロデ神殿です。このヘロデ神殿は西暦70年にローマ帝国とユダヤ人の戦争で粉々に崩れてしまいます。先ほど、申し上げたように、神は民との会いの場所として神殿をくださいました。この神殿は祈りと礼拝を通して神に会う聖なるべき場所でした。なのに、ユダヤの指導者たちはローマ帝国、そして商人たちと結託して神殿を商売の場にしてしまいました。また、彼らは神に遣わされたメシアイエスを見分けられず、むしろ迫害し、憎み、結局は殺そうとしたのです。主さえも見違えるほど、暗くなっていた彼らが隣人愛なんてしていたものでしょうか。 つまり、礼拝の場所が裏切りの場所になってしまったということです。だから、主は神殿の必要性がなくなったと判断され、その結果として神殿の崩壊を予告されたわけです。今日の本文1節で弟子たちはエルサレム神殿を見て感心します。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 弟子たちは愚かにも、神殿の問題点を見抜くことができず、ただ素敵なうわべだけに圧倒されていたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」しかし、主は弟子たちの考えとは裏腹に、決然と神殿の崩壊を予告されます。以後、神殿の反対側のオリーブ山に登った時、弟子たちはきまり悪く尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(13:4) 興奮してエルサレム神殿の威容を称えていた弟子たちは、主の御言葉に驚いたわけか、いつ神殿が崩れるのか、その時にどんな徴があるのか尋ねます。それに対して主は5-13節のことばで、神殿の崩壊の徴を言われます。何度も申し上げましたが、新約時代においての神殿とは、教会堂のような建物ではなく、主を頭とする教会共同体を成している私たちです。旧約の神殿が神殿としての機能を果たしていなかった時、主は惜しげもなく神殿の崩壊を宣言されました。主はまた、新約の神殿である教会が教会らしくない時「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と警告される方なのです。人が多くなり、建て替えするからといって素晴らしい教会になるわけではありません。どんなに素晴らしい教会だと言っても、主の御心に適わなければ、その教会はまるで粉々に崩れてしまった旧約の神殿のように主の裁きを受けることになるでしょう。 2.霊的な神殿を崩す惑わす者 文脈を考えずに13章を読むと、その内容がまるで、この世の終末を示しているようです。もしかしたら、ヨハネの黙示録が思い出されるかもしれません。実際、13章の一部である14節以降の言葉は、世の中の終末の時を想定して読んでも構わないと言う学者もいます。しかし、私たちは今日、1節から13節の言葉について話しています。また冒頭に神殿の崩壊という表現もありますので、神殿の崩壊という脈絡で、この言葉を考える必要があります。「イエスは話し始められた。人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(5-6) 主は神殿の崩れの時について明確には言われませんでした。しかし、主の御名を名乗る者が現れる時について言われました。実際、当時のユダヤには、自称メシアが何人かいたと言われます。しかし、最大の自称メシア(キリスト、救い主)は、ローマ帝国の皇帝でした。ユダヤの指導者たちは、自分らの安寧のためにローマ帝国に屈服し、神より人の権力をさらに恐れていました。世の中には、すでに自称キリストが存在し、神殿は崩れる一歩手前の状況だったのです。私たちも、いつも惑わす者に注意しなければなりません。キリスト以外に他の救い主を強要するカルトなどに注意しなければなりません。しかし、最も注意すべきのは、私たち自身の心です。主の言葉より先立つ自己信念、教会の和合を乱す自己欲望に注意しなければなりません。 主イエスの福音ではなく、自分の思想を強要する牧師に注意しなければなりません。互いに対立して教会を分裂させる人にならないように注意しなければなりません。これら、すべてはキリストの御言葉より自分自身の思いを押し立てることによって生じるものです。「惑わす者」とはキリストのみ言葉に逆らい、それを広める者です。英語で「アンチ·キリスト」です。自分自身もアンチ・キリストになりうるということを用心して、常に信仰と生活を顧みて生きるべきです。自分の間違いによって新約の神殿である教会が崩れうるということをいつも心に留めて生きましょう。かつて日本帝国では、今とは比べ物にならないほど民族主義の勢いが強かったです。信徒たちの中にも自分の信念に陥ってしまい、キリストの上に天皇を置くというおかしい状況が起きました。その結果、教会はキリストを礼拝する共同体ではなく、日本帝国のための教会になってしまいました。礼拝の前に宮城遥拝がありました。日本の教会だけではありません。植民地の教会も同じだったのです。教会の指導者たちが教会を守るという名目で教会の頭であるキリストを裏切りました。御言葉の先に人が立ってしまったのです。その結果、主の教会はまるで旧約の神殿のように機能を失ってしまいました。これこそが教会の崩壊なのです。霊的な神殿の崩壊なのです。私たちは過去の先達が犯した間違いを二度と繰り返してはなりません。惑わす者を拒み、キリストのみに服従する教会になることこそ、霊的な神殿である教会を丈夫に建てていく一本道なのです。 3。 「自分」という古い神殿を崩せ。 今までは、神殿を教会のモデルとして適用して話していましたが、これからは見方を変えて、古い自分の信仰という見方から考えてみたいと思います。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(第一コリント3:16) 第一コリントは、信徒が神の霊の住い、神殿であると表現しています。キリストのからだとなった教会を成す私たち一人一人が神が住んでおられる神殿なのです。ところで、新約の神殿の一部となった私たちも、習慣的になった信仰のゆえに、まるでイエス時代のエルサレム神殿のように生気を失った習慣的な信仰者になっているのかもしれません。私が最も懸念している信仰の姿。それは定型化された宗教生活を信仰だと思い違える姿です。もし、私たちにそのような姿があるとすれば、私たちは「自分」という古い神殿を崩さなければなりません。 そして、主の恵みによって新たになった神殿として建てられなければなりません。その時に必要なのが、私たちに与えられる苦難なのです。神は信徒の苦難を用いられ、信徒を新たにしていかれる方からです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」(7-8) 戦争の騒ぎは、戦争そのもの、戦争のうわさは社会的な不安のことでしょう。 地震と飢饉は自然災害のことでしょう。このような恐ろしいことが神殿の崩壊の時に起きると、主は予言されました。実際にエルサレムの神殿が崩れた時の、ユダヤの状況は修羅場だったと言われます。ユダヤとローマの戦争があり、パレスチナの情勢は非常に不安定だったようです。また、地震や飢饉もあったと言われます。これは歴史的な背景です。しかし、 個人の信仰として「自分」という古い神殿が崩れる時も、心の中で、このようなことが起こることもあります。思い煩いと人間関係の試練、生活の困難による心細さ。しかし、このようなことがある時に漠然と恐れるより、自分の信仰を振り返り、神に目を向けるきっかけになれば幸いです。このようなすべての苦難は古い神殿のような私たちの信仰を崩し、新しく建てれた神殿、すなわち神の御前に健全な信仰者として生まれ変わる産みの苦しみ(産痛)の始まりだからです。旧約の神殿の没落は、主の教会を世界中に広める促進剤となりました。宗教の中心がもはやエルサレムではなくイエス·キリストに替わりました。そうして、教会は古い神殿を離れ、新しい神殿に生まれ変わったのです。このように私たちの信仰にも古い神殿の崩壊が必要です。そうしてこそ、主のからだと認められる教会の一員として新しい神殿として建てられるからです。 締め括り 今日は、時間の関係で、本文全体を説教することはできませんでした。残りの箇所は次の説教でまた話しましょう。今日の説教は多少抽象的な説教だったと思います。実際、13章自体が説教するに難しい本文です。しかし、その中でも、私たちの信仰生活に適用できる部分があったと思います。今日の説教で話した内容を、もう一度整理してみましょう。第一、神殿が神殿らしくない時、主は神殿を滅ぼされました。教会が教会らしくない時、教会も裁かれるでしょう。第二、霊的な神殿である教会は、キリストの御言葉より人間の思いを先立てる時に崩れるでしょう。第三、「自分」という古い神殿が崩れてこそ、キリストのからだという新しい神殿、真の教会に生まれ変わることができるでしょう。だから、苦難は私自身を新たにする産みの苦しみの始まりでしょう。私たちは、主のからだ、新約の神殿としてどう生きているでしょうか。今週も私たち自身が神の住い、神殿であることを憶え、神の神殿として正しく生きているかどうか振り返って生きていきたいと思います。主の恵みが志免教会をなす皆さんの上に豊か注がれますように。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。