カインとアベルの祭祀

創世記4章1-15節 (旧5頁) ローマの信徒への手紙12章1節(新291頁) 前置き 初めの人は、神のようになるという蛇の誘惑を自ら受け入れ、善悪を知る木の実を食べ、自分も神のようになろうとしました。しかし、人は決して神のようになることが出来ませんでした。むしろ、人は神に対する反逆の罪によって、永遠の命を奪われて死ぬしかない存在となりました。人は神のようになることは出来ませんでしたが、一つ残ったものがありました。それは善と悪を知る知識のことです。「善と悪を知る。」ということは、神の固有の権限である判断を、人もするようになったということです。しかし、これは、人にとって決して良い結果ではありません。人はしょっちゅう揺らぐ存在であるため、その判断が正しくなるわけが、絶対にないからです。正しい判断が出来なくなった人は、それから他人に害を及ぼし、殺し、壊し、戦争する存在となってしまいました。結局、人は自ら善と悪が区別できるという夢想に捕らわれ、自然に罪を犯し、不義の存在となってしまいました。このような人の不義は代を重ねれば重ねるほど、人を罪に縛っておく足かせのようになりました。今日は創世記4章の言葉を通して、罪が、どのように人を神と隣人から遠ざけて、神への礼拝を失敗させるのかについてお話したいと思います。 1.神様が目を留められる祭祀。 エジプトから脱出してカナンに入ったイスラエル民族は、神の恵みによってカナンの地を征服し、神に土地を与えられました。神はそのカナンの地で、ご自分がイスラエルの王になられ、周辺国に神を伝える祭司の国として、イスラエルを導こうとされました。しかし、しばらくして、イスラエルは神に王を求め始めました。預言者サムエルは、イスラエルの真の王は、神だと彼らを説得しましたが、人間の王を求める彼らの要求は止みませんでした。結局、神はイスラエルに王を立ててくださいました。彼はサウル王でした。しかし、サウルは神に聞き従う王ではありませんでした。最初は神を畏れ、イスラエルを立派に治めるように見えましたが、結局、彼は神に従わない王になりました。神の御言葉に逆らい、むしろ自分勝手にイスラエルを導いたサウル王に、サムエルが現れ、このような話しをしました。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物や生け贄であろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことは生け贄にまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル15:22)結局、神に不従順で一貫していたサウルは悲惨な最期を迎えてしまいました。 神は王様でいらっしゃいます。そして、神は王への従順の意味として祭祀をお受けになる方です。しかし、人間はいつも自分が判断することを正しいと思い、自分に従おうとする性質を持っています。このような人間の自らの判断は、神の御判断を守らないようにさせ、時には歪めさせます。結局、このような自分の判断により、人間は神の言葉に聞かないようになり、神に不従順の罪を犯すことになります。今日の本文に登場するカインとアベルの話も、そのような祭祀が持つ本当の意味への誤解から始まる物語です。「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかった。」(創世記4 :3-5)カインとアベルは、最初の人であるアダムとエヴァの息子でした。カインは農業を営んでいる人であり、アベルは牧畜を営んでいる人でした。ある日、彼らは両方、神に献げ物を捧げました。カインは自分が収穫した穀物を持って神にささげ、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って捧げました。しかし、神はアベルの生け贄のみをお受けになり、カインの献げ物は拒否なさいました。 なぜ、神はアベルのものだけを受け入れられ、カインのものはお拒みになったのでしょうか?これに対して、約100年前のドイツの神学者たちの何人かは、神は農夫より羊飼いの方がお好きでいらっしゃるかもしれないという面白い解釈を主張する人もいました。皆さんはいかがでしょうか?果たして神は、本当に菜食より肉食の方をお好みになる方なのでしょうか?旧約聖書の出エジプト記には、このような語句があります。 「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜である牛や羊の初子が雄であるならば、すべて別にしなければならない。」(出エジプト34:19)(この言葉では、家畜についてのみ、記されていますが、実は最初のものは、全部、神のものであるという意味として書かれた箇所です。)カインとアベルの出来事が出エジプト記よりも、はるかに前のことではありますが、ここからアベルの生け贄は受けられ、カインの献げ物は受けられなかったことのヒントが得られると思います。二人の祭祀の違いは何だったのでしょ?カインは自分の土地の実りを持って、神に捧げましたが、アベルは初子を持って、神に捧げました。皆、神に祭祀をささげたのに、果たして何が問題だったのでしょうか?ここには旧約聖書の言語であるヘブライ語の文法的な問題がかかっていますが、複雑ですので、省略して簡単に申し上げます。 カインは自分が献げ物を捧げたいと思ったときに、自分の収穫物の中で、手にしたいずれかを持って来て、神に捧げました。彼の心の中に神への丁寧な心はなかったのです。上辺だけの礼拝をしたということです。しかし、アベルは違いました。日本語の聖書では示されていませんが、アベルの礼拝は定期的で、丁寧でした。アベルは繰り返して神に生け贄をささげ、生け贄として、初めて生まれた家畜の初子を選別して、神に捧げました。彼の祭祀には神への愛と献身が染み込んでいたのです。カインは他人が祭祀をするから自分もどうしようもなく祭祀をするふりしたのです。しかし、アベルは自分のすべての努力と苦労をかけて、繰り返して神にい礼拝したのです。おそらく、アダムは神を祭る方法を2人に教えてくれたでしょう。しかし、カインは、そのような教えを聞き流し、適当に行なったのでしょう。しかし、アベルは愛と心と魂を尽くして、神に生け贄を捧げたのです。これがカインとアベルとの違いでした。神は高くて華麗なものを望んでおられません。神は真実な心を望んでおられる方です。そして、その真実は神に聞き従うことに基づくものです。カインとアベルがささげた祭祀の違いは、そこにありました。 2.祭祀と礼拝への反省。 旧約の祭祀と新約の礼拝の共通点は何でしょうか?従順と真実を持って捧げるということではないかと思います。イエス様もヨハネによる福音書のサマリヤの女に「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)と仰いました。神の御心に聞き従わせる御霊によって、神の真理であるキリストに従って真実に神を礼拝しなさいという意味でしょう。しかし、カインの祭祀はそうではありませんでした。御言葉への従順のない祭祀であり、神への真実の欠けた礼拝でした。神はカインに、そのような従順と真実をお求めになったのです。神の拒絶は、カインへの拒絶ではありませんでした。カインの誤った礼拝方式を拒絶されただけです。カインが自ら省みて新たな気持ちで祭祀を捧げたら、神はきっと、彼の祭祀も受け入れてくださったはずです。しかし、カインは神の御前に悔い改めるどころか、拒否されたことにより、怒りに包まれました。 「カインは激しく怒って顔を伏せた。 主はカインに言われた。どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか」(創世記4:5-6) カインは懺悔するどころか、神に拒まれたため、憤り、正しく祭祀を捧げた弟アベルを殺してしまいました。自分の過ちに対する反省はちっともせず、神に褒められた弟を嫉妬して殺したわけです。真の礼拝をする者は、自らを省み、悔い改めるものです。自分の内面に罪による歪みはないのか?自ら振り返り、直すべき部分はないのか?いつも謙虚に自分のことに対して悩むようになります。他人のせいにせず、自分の過ちを咎めます。しかし、上辺だけ礼拝する者は、礼拝の場に出ることだけに満足します。 「今週は教会に出席して、礼拝に参加したので、宗教的な生活は達成した。」という考えで、何の反省も悩みもせず、一週間を過ごします。同時に、自分の誤りに鈍感で、他人を咎める傾向が少なくありません。礼拝に失敗したカインは悔い改めませんでした。むしろ、神が祭祀の仕方を教えてくださり、間違っている点を指摘してくださり、新たな機会を与えてくださったにも拘わらず、かえって怒りを発し、さらに一人だけの弟を殺してしまったのです。 「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(7)カインがアベルを殺す前に、神は、すでにこのような言葉でカインに教えてくれました。ここで「正しいのなら」という言葉の意味は何でしょうか?イエスの時代に、イスラエルと周辺地域の人々が読んでいた聖書は、当時の公用語であるアラム語で書かれている本でした。神学者たちは、この聖書をタルグム・オンケロスと言います。その聖書を解釈した当時の解釈本には「正しいのなら」という意味を「悔い改める。」という意味で解釈していたそうです。つまり、イエスの時代、当時の人々は創世記4章7節に記された「正しいのなら」という語句を「悔い改める「。」として理解していた可能性が高いということです。もし、カインが神に捧げた、失敗した祭祀を悔い改めて、自分の中から誤りを求めようとしていたなら、アベルが殺されることはなかったでしょう。カインは自分にではなく、他人に過ちを見つけようとしており、最終的には神の言葉にも不従順で、弟も殺してしまう、最悪の罪を犯してしまいました。それこそが失敗した祭祀だったのです。結局、カインは神への愛も、隣人への愛も、失敗した、礼拝の失敗者となってしまいました。 「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(12)、結局、カインは神に呪われ、追い出されてしまいました。不真実な礼拝の結果は、神に追い出されてしまう破綻につながります。しかし、神は、カインを憎んでおられたので、追い出されたわけではありません。 私たちは神様の愛を見落としてはいけません。「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」(15)カインは罪を犯し、神から追い出されましたが、神は彼を完全にはお見捨てになりませんでした。カインが生き残れる道を備えてくださり、彼が再び神に帰ってくることが出来るような機会を与えてくださいました。 「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(16)今日の本文には、16節は出てきませんが、この短い16節で、私たちは、神の配慮を確かめることが出来ます。ヘブライ語で東は実際の東を意味する部分もありますが、「前」という意味をも持っています。神はカインが呪いを受けたにも拘わらず、エデンのすぐ前で生きる機会を与えてくださいました。彼が悔い改め、神の御前に来て正しい礼拝者として生きることを望んでおられたという意味でしょう。神はこのように、罪人をお哀れみくださり、新しい機会を与えてくださる方です。 締め括り カインは正しくない祭祀を捧げ、神に呪いを受けました。また、彼は悔い改めませんでしたので、神に赦される機会さえ、自ら捨ててしまいました。結局、カインは弟を無惨に殺してしまう殺人の罪まで犯しました。祭祀、すなわち、礼拝は、このように重要なものです。私たちの礼拝は、単に集会に参加することを意味することではありません。私たちの礼拝は、日常生活での神への真実な心と従順によって確定されるものです。これは、前に説教したローマ書12章1節の言葉とも通じる部分です。「 兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」そして、それを象徴的に目に見える形で、毎週行うのが、主日の礼拝なのです。今日カインとアベルの話を覚えながら、私たちの礼拝はどうあるべきか省みましょう。数十年の間、習慣的に礼拝に慣れて、日曜日に教会に出席するだけで満足していた時は無かったか顧みてみましょう?一週間の私たちの日常生活の中で、私たちは、どんな気持ちで日常の礼拝に取り組んでいるのでしょうか?カインがささげた虚しい礼拝ではなく、アベルがささげた、正しい礼拝を記憶し、私たちの生活の中でも、そのような礼拝を捧げることを望みます。一週間の生活の中で、真の礼拝を守っていく、私たち志免教会になりますように、祈り願います。

兄弟を裁いてはならない。―お互いに受け入れなさい。―

ローマの信徒への手紙14章1-12節 前置き ローマ書を通して、人間の堕落と神の愛、キリストによる御救いなど、キリスト教の教義への知識を幅広く教えたパウロは、後半に入っては、キリスト者の生きるべき生き方について勧めました。 12章ではキリスト者らしく、この世に倣わず、聖なる生ける生け贄となり、弁えのある生活をすることを勧め、13章では、国と団体の権威へのキリスト者の対応と在り方について述べました。今日の14章では教会の中での生活、とりわけ裁き、いわゆる、判断することについて語っています。前のローマ書2章の説教では、判断は神の固有の権限であり、正しい判断ができない人間は、判断を手控え、判断に謙虚さと慎重さを持つべきだと話しました。また、先週の創世記の説教では、神の固有の権限である判断することを貪った人間が、そのために堕落したとも話しました。判断は自分が正義であるという前提に基づいて始まることです。時々、教会内で信徒同士が自分の信念や判断により、相手を憎んだり、紛争が起こったりする場合があります。パウロはローマ教会の内部でも、このように判断による争いがあるのを知り、14章の言葉を通して判断に対する正しい知識と信徒同士の平和を望みました。今日は、その信徒の判断について話してみたいと思います。 1.ローマ教会の内部の争い。 まずは、ローマ教会があった1世紀のローマ地域の話を分かち合いたいと思います。ローマ教会では、ローマに住んでいるユダヤ人のキリスト者と、異邦人のキリスト者が共存していました。彼らは文化の違いと思想の違いを持っ​​ていましたが、イエス・キリストへの信仰を通して一つになり、教会を形成していました。しかし、当時は今のようにグローバル化された時代ではなかったため、同じ信仰と教会を持っているにもかかわらず、各々の思想の幅を狭めることは、非常に難しい問題でした。世の中がどんなにグローバル化された今でも、それぞれの思想と文化の距離を狭めることは依然として、そう簡単ではない問題です。隣国である日本と韓国の歴史観が異なることはもとより、米国と中国の世界観も全然異なります。東京都民と福岡県民の考え方も異なると思います。志免町民と須恵町民の考え方も異なるかもしれません。ましてや、2000年前の古代社会で、それぞれの思想や文化間にある隔たりは、今よりも遥かに狭めることが難しかったのでしょう。そのような条件の中で葛藤が生じるのは当然の結果だったのです。 ローマ教会の内部にも、そのような問題がありました。ローマ教会の問題については、大凡3つに分けて考えることが出来ます。1つ目は食べることに関する問題です。 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」(2)当時ローマ帝国で流通してい肉は全量皇帝のための生け贄として使用された肉です。当時の皇帝は神のような存在と扱われており、その皇帝のための異邦宗教の供物としての意味が込められていた肉の中で、残ったものを市場で販売していたものです。神様のみを信じようと告白したキリスト者の中で、ある人々は、その生け贄に使用された肉は、偶像への供物なので、食べてはならないと思いました。しかし、あるキリスト者たちは、すべてのものが神によって創造され、神様以外の偶像は存在しない無力なものなので、肉を食べても問題なんかないと信じていました。それで、彼らは互いに持つ考え方の違いにより、互いに非難し、争うことになりました。 二つ目に、日の問題です。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(5)これは、初期キリスト教会でのユダヤ人の安息日とキリスト教の聖日への認識の違いから生まれた問題でした。ユダヤ出身者たちは、安息日は守るべきだと思いました。しかし、異邦人たちは、イエスが復活された日である聖日が、さらに大事だと思いました。結局、礼拝する日への認識の違いによって葛藤が生じたということです。当時の、ある教会では、葛藤を抑えるために安息日と聖日、すなわち土曜日と日曜日の両日に礼拝を守ったとの記録も残っているそうです。三つ目に、ローマ書では出て来ませんが、当時の教会で頭痛の種だったと言われる割礼の問題があります。ユダヤ人は割礼を必ず守らなければならないと考えていましたが、異邦人は、あえて割礼を守る必要があるのかと思いました。実際に、イエス・キリストが受肉を通して律法のすべてを完成された後に、割礼は、あえて、守る必要のない儀式となりました。しかし、一生をユダヤ教の伝統を守りながら、生きてきた人々にそのような伝統を無視することは簡単なことではありませんでした。また、ユダヤ教から来た律法の儀式を強いた偽の教師たちのために、そのような割礼の問題は、教会内に大きな傷をつけるほどの深刻な問題となりました。このように、ローマ教会の中で、異なる考え方が衝突し、教会を分裂させる重大な恐れが生じたのです。 2.本当に大事なこと。 これらの問題は、現代の日本に住んでいる私たちにはあまり重要ではない問題と思われるかもしれません。しかし、現代の教会でも類似の出来事が起こったりします。私は日本に来て、まだ教会内の葛藤や問題を見たことがありませんので、挙げる例え話がありません。なので、私が韓国の教会で働いて経験した話をさせて頂きたいと思います。韓国教会の一部の人は、早天祈り会を大事に守っています。また一部の人は、早天祈り会は行ってもいいし、行かなくても構わないと思っています。誰かは早天祈り会を大切に扱っていますが、誰かは必ずしも守る必要はないものとして扱います。ところで、さてある日、信者の二人が早天祈り会への異見のため、論争しました。そんなことで争う必要があるのかと思われるかも知れませんが、2人には大事な問題だったのです。別の例としては、一部の人はキリスト者は酒を飲んではいけないとし、一部の人は酒を飲んでも構わないとして論争が始まりました。聖書には飲んでも良いというニュアンスと飲んではいけないというニュアンスの両方があるからです。正直、早天祈り会も、飲酒の問題もキリスト教の根本を損ねるほどの重要な事柄ではありません。しかし、それぞれの信仰や信念では、それが重要な問題となることもあり、重要ではない問題となる可能性があります。しかし、問題は皆が自分の主張だけを考え、相手のことを無視したことから生まれたのです。 このように重要ではない教会の問題をギリシャ語で「アディアポラ」と言います。その意味は、「本質的ではない問題」という意味です。やっても良いし、やらなくても構わないこと、つまり、信仰に大きな影響のない非本質的なことを意味します。キリスト教で決して疎かにしてはならない本質的な問題には何があるでしょうか?イエス・キリストは救い主、すべての人は罪人、神が世界を創造されたこと等のように決して変えてはならない重要な教義があります。しかし、他宗教の生け贄を食べてもいいか?どの日に礼拝を捧げるべきなのか?酒とタバコを楽しんでもいいか?等は教義にするに恥ずかしいほど本質的ではない問題です。これらのアディアポラが非常に盛んに行われていた中世カトリックでは、針の先の上に天使が何人まで立つことが出来るのかというとんでもない質問が神学的な問題になったりしたそうです。何の意味もなく、心配する必要もない問題でした。しかし、司祭同士は真剣に論争をしていたという話しを聞き、爆笑した記憶があります。今日、パウロが話しているのは、まさにこれです。 「教会の内に多くの問題が存在するが、それでも教会は、神に召された貴い共同体である。したがって、本質的ではないことのために兄弟姉妹を憎んではいけない、むしろ容認し受け入れなさい。」 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)教会の内には、様々な人々が存在します。一部の人は、アディアポラを超える堅い信頼を、一部の人々は、アディアポラのために躓き、倒れてしまう弱い信仰を持っています。しかし、信仰の強い人にしろ、弱い人にしろ、彼らは皆主に愛される、神の子供なのです。したがって、信仰の強い人は、自分の知識や信念を持って強いて教えようとせず、信仰の弱い人を理解し、受け入れなければなりません。信仰の弱い人は、まだ自分が知らない信仰の考え方があるかも知れないと、謙虚に考える必要があります。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(8)私たち皆は、自分自身の判断と考え方ではなく、ただ、主の御心に従って生きていきます。自分の考えと信念に合致していない物事が、教会の中にあるかも知れません。しかし、自分の気持ちだけを主張する前に、教会と兄弟姉妹の状況を考えなければなりません。キリストは、そのような神の民の平和と調和のために十字架で死に、復活なさったのです。 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9) 私たちが自分の考えだけを貫くために兄弟と争い、憎み、判断すれば、そのすべてのことが、神様の御前で罪となります。そして終わりの日、神の前で、そのような判断の罪に対して厳重に裁かれるのでしょう。 「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(10)私たちは皆、お互いの状況を察し、必要のない紛争が生じないように、自分自身を抑えつけなければなりません。信仰の強い人は、信仰の弱い人たちのために配慮し、信仰の弱い人も、自分の考えに誤りがあることを認め、皆がお互いに理解し合い、受け入れるために力を尽くすべきでしょう。 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(13)、私たちに本当に大事なのは、私の信仰を持って他人を判断するのではなく、すべての弱さを理解し合い、お互いに受け入れ、愛することではないでしょうか? 締め括り 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17)、神の国はどんなところでしょうか?おそらく、そこでは神の中で、皆が一つになり、憎しみも、争いも、妬みもない場所だと思います。また、この地上での生活とは違って、辛さも、惨めさも、悲しみも無い、常に喜びに満ちた所だと思います。そういう意味で、神の国は、私たちの生活の中にも、部分的に存在するということでしょう。皆がお互いに受け入れ合い、愛し合う所は、どこでも神の国になると言えるでしょう。今の世界は戦いに満ちています。日中韓が互いに警戒し、特に日韓は北朝鮮のミサイルを心配しています。日本国内でも与党と野党が政治的な異見で争いをしたりします。このように戦争で満ちている世界で、教会だけは、お互いに仕え合い、人を自分より優れた者と思い、尊重し、愛する生活を営んでいきたいと思います。この地上での神の国は、お互いの理解から始まります。そして、その理解は、キリストの愛に基づきます。人が嫌になったり、その人によって心の中に怒りが込み上げるときは、その人を愛して、彼のために死んで復活されたイエス・キリストを思い起こしましょう。そして、彼を理解し、愛するために祈りましょう。兄弟姉妹を憎まず愛して欲しいという、私たちの心と祈りの中で、神様は、義と平安と喜びで私たちを満たしてくださるでしょう。その時初めて、私たちは愛に満ち、地上での神の国を味わうことが出来るでしょう。愛に満ちて、誰も判断しない志免教会となり、この志免町に神の国を立てていく共同体になることを願います。神の恵みと平和を祈り願います。

人間の堕落と神の救い

前置き 神は天地創造を終えた後、御自分が造られた世界を御覧になり、極めて良かったと満足なさいました。とりわけ、その中で人間の創造は、すべての創造の画竜点睛のような、最も重要な出来事でした。人間が、そのすべての被造物を神に導く代表的な存在だったからです。神は、このような人間に全てのことを自由に選択する自由意志を与えられ、その自由意志をもって神に仕え、愛することをお望みになりました。神は、そのために人間が自由意志を正しく扱うか否かを判断する「善悪を知る木」を造り、人間に「その果実を絶対に食べてはいけない。」という厳重な命令を与えてくださいました。しかし、最初の人間は、神の、その命令を自分の自由意志で破り、その果実を取って食べてしまいました。神だけに仕えるために与えられた人間の自由意志が、人間自身の欲望に仕えるための自由意志となってしまったのです。人間は、そのように神の言葉に逆らってしまいました。それが、まさに人間の堕落なのです。その最初の人間のように、今日を生きる私たちの生活の中にも、常に犯罪と従順という、まるで善悪を知る木のような選択の分れ目が存在しています。先々週の説教では、このような善悪を知る木と私たちの生活の中で、まるで善悪を知る木のように存在している犯罪と従順の分れ目について分かち合いました。今日は創世記3章の残りの箇所を通して、堕落した人間と救われる神について語り合いたいと思います。 1.目が開けるということの意味。 エデンの園に現れた蛇は人間を惑わし、神が禁じられた善悪を知る木の実を食べさせました。ヘビは人間に「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(5)と言いました。人間は拒否することが出来るにもかかわらず、自分の意志で、その実を取って食べてしまいました。おそらく人間は「目が開け、神のようになる。」という言葉に魅力を感じたかもしれません。自分たちも神のように賛美と礼拝を受ける存在になるだろうと考えたのかもしれません。しかし、ここで「目が開ける。」という意味は、そんな意味ではありませんでした。それは「善悪を知るようになる」ということでした。善悪を知るということは、何かを「判断」するという意味です。今年の始めにローマ書を説教しながら、真の判断は神だけがお出来になるものだとお話しました。神は絶対者でいらっしゃいますので、何が善であるのか、何が悪であるのか正確な判断ができるとお話しました。それは、神様は歪みのない真実を知っておられるという意味だったのです。しかし、人間は絶対者ではないため、自分の考えや経験に頼って、何かを判断することになります。そして、その際に必ず歪みを伴います。人間は真実の前で状況や事情によって揺らぐ存在だからです。 自分で判断することになったというのは、神の言葉ではなく、自分の考えで世の中を眺めるようになったという意味です。つまり、人間は、もはや神を必要としなくなったということです。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(7)神は創造を終えて「それを見て極めて良かった。」と言われました。これは当時の人間が裸であっても、神の御前では自然な状態であったということです。創世記3章で言う裸とは、現代のような恥の象徴ではありませんでした。創造の純粋さと、神の前での正々堂々とした状態を意味するものでした。しかし、目が開け、自ら判断できるようになった人間は、神が良しとされたことを、自ら良くないと思ってしまいました。神の御判断を自分の判断で無視してしまったのです。結局、人間は、すぐ枯れて消えるイチジクの葉っぱを綴り合せて着ることにより、神の創造の摂理を無視し、自分たちの判断に従いました。このように、神のようになるために善悪の木の実を貪った人間は、自らを神のように考えようとする歪んだ判断力だけを持つことになってしまいました。そして、その結果、神の言葉に逆らう罪の性質を持つ存在に変わってしまいました。 2.罪の性質 人間の堕落後、神はエデンの園に現れ、人間をお呼びになりました。 「主なる神はアダムを呼ばれた。どこにいるのか。」(9)しかし、人間は、そのような神を避けて園の木の間に隠れてしまいました。ここでの、「呼ぶ。」という言葉は、「カラ」というヘブライ語の表現を翻訳したものです。これは「呼ぶ。言葉をかける。招待する。」などの意味を持っています。旧約聖書で、神は御自分の預言者たちを召し寄せるとき、この「カラ」という言葉を使いました。 「だれだれよ!お前は、どこにいるのか?」 その時、モーセとサムエル等の神の預言者たちは、「私はここにいます。」と答え、そのお召しを承りました。しかし、堕落した最初の人間は、神を避けて隠れてしまいました。ここで一つ目の罪の性質を見つけることが出来ます。罪は神と人間の間の招待と応答を断ち切ります。神の子供のような人間に、神を父と考えず、他人のように感じさせます。それによって当たり前に神の言葉の重要性を見落とさせ、その言葉に聞き従わないようにさせます。罪は神と人間を遠ざけ、関係の破壊をもたらします。預言者イザヤは、罪に対してこう言いました。 「お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:2) 神との関係が破れた人間に見られる二つ目の様子は、「アダムは答えた。あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(12)との言葉から見つけることが出来ます。堕落したアダムは、自分の罪に対して自ら悔い改める姿を見せず、むしろ「あなたが私に与えた女が」「女に与えられたので」のように弁明し、神と隣人を責めることになりました。堕落した人間は、何よりも自分自身のことを最も大切にする性質を持つようになりました。このような姿は、私たちの中にも残っていると思います。自分の過ちより、他人の過ちがさらに大きく見え、他人は傷を受けても、自分だけは傷つきたくない心を持ちがちです。そんな自己中心的な心と行為は、最終的に人と人との関係の破壊をもたらします。人間が自分の罪を悔い改めるために、神の御前でありのままに立つということは、これらの堕落した人間の姿に立ち向かい、「神と隣人に仕える」神様に喜ばれる人間像の回復なのです。 なおまた、三つ目の罪の性質は、罪が移るということです。 「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(6)もし、堕落した一人のみが罪を犯し、それで終わることなら、その結果として、一人だけが滅びるでしょう。しかし、罪には伝染する性質があり、一人だけが滅びることではありません。女は果実を取って食べ、その果実を男にも渡しました。実際に歴史上で指導者の罪が全国民を煽り立て、皆が罪の中に置かれるようになったという話は数え切れないほどあります。ガラテヤ5章9節には、このような言葉があります。 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」これは神の真理に反する小さな誤りを犯せば、その小さな誤りが、ますます大きくなっていくことを警告する言葉です。パウロはそれを防ぐためには、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」という特段の措置まで述べています。人間の堕落後に生じた恐ろしい結果は、この罪が人間の生活の中のあちこちで働き出したということです。罪の伝染を覚えつつ、生活の小さな部分から罪を退ける生き方が必要ではないかと思います。罪はコロナウイルスよりも、恐ろしい魂の感染症だからです。 3.それでも人間をお見捨てにならない神の愛。 その日、神は男と女、そして蛇に将来のことについて仰いました。人間の堕落がもたらした最も大きな影響は、不滅の存在である人間が、必滅の存在に格下げされたということです。 「主なる神は、…アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(24)、神は人間を永遠に生きる存在としてお造りになりましたが、神との約束を打ち破った人間は死ぬことで、その罪を償わなければならない存在となりました。神は命の主です。殺すために創造なさった方ではなく、生かすために創造なさった方なのです。しかし、人間は、自らその命の神を裏切り、離れてしまいました。命の道を捨て去った人間に残ったのは死ぬことに決まっていました。以降、アダムは939歳まで長生きしました。しかし、長生きしたからといって良いとは言えませんでした。 「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(詩篇90:4)どうせ、神の御目に939年は、まるで一晩にもならないような、短い時間に過ぎないからです。 いくら1000年が長いといっても、永遠とは比較できません。神に1000年は一日のような短い時間に過ぎないですが、永遠は神にとっても永遠の時間だからです。結局、人間は永遠から外れ、有限に生きる死の存在となってしまいました。  「神が生かす方であるならば、堕落した人間であっても、生き残らせればよかったのではないだろうか。」と問い掛ける人もいます。しかし、罪なく永遠に生きることと、罪を持って永遠に生きるということは雲泥の差だと思います。罪のない永遠の命は神と永遠に一緒にいることを意味しますが、罪のある永遠の命は、神に見捨てられたままに地獄のように永遠に生きることだからです。おそらく神が人間の死を許され、永遠の命の木を守られた理由も、堕落した人間を救うための意味深い御心ではなかったのでしょうか?神は堕落した人間のために、蛇に呪いを下され、人間の子孫を通して蛇をお裁きになると言われました。たとい堕落した人間であっても、神の御救いは、その堕落した人間への御憐れみから始まりました。神は決して人間を見捨てられずに、最後まで彼らを回復させるためにお働きになることでしょう。また、人間の回復のために、蛇と表現された罪に取り組みつつ、人間を導いて行かれるでしょう。私たちキリスト者は、そのような神の約束を信じ、その約束の結果がイエス・キリストであるということを信じつつ生きています。キリストが罪に勝利されたように、私たちも神の御意志に基づいて、堕落に立ち向かい、罪を打ち破り、神につき従う人生を生きるべきでしょう。 結論 「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(21)罪を犯し、神との関係が切れた人間はイチジクの葉っぱで、辛うじて自分らの恥を覆うしか出来ませんでした。しかし、イチジクの葉はすぐ枯れて消えてしまうはずでした。しかし、主は枯れたり、腐ったりすることのない皮の衣を作って人間の恥を隠してくださいました。そして、いつか蛇に惑わされて堕落した人間が、その蛇に勝利する日を約束してくださいました。神はそのように人間をお見捨てにならず、新しい道に導いてくださったのです。私たち人間は、罪と死の下にいる存在です。生まれた時から死に向かって生きる存在です。しかし、主はキリストをお遣わしくださり、私たちの罪を悟らせてくださり、その罪を解決する道をお示しくださる方でいらっしゃいます。自分の罪に対して自力で、何も出来ない、まるで「イチジクの葉っぱ」を着たような人間に、キリスト・イエスという永遠の罪の解決策をくださり、「皮の衣のような救いの服」を着せてくださる方です。創世記3章の言葉を通して、罪の中に生きていく私たちをお見捨てにならず、むしろ生きる道を教えてくださる神を覚えつつ生きてまいりましょう。自分の罪の前で自らのことを謙虚に弁え、避けるより認め、神の御助けを求める私たちになっていきましょう。神はそのような私たちにキリストを通じた御救いを持って喜んで答えてくださるでしょう。

支配者に対するキリスト者のあり方。

前置き これまでのローマ書の説教では、1章から11章までは福音と救いについての教義的な教えだとお話しました。そして、続く12章から16章まででは、その教義に対する実践に関しての教えだとお話しました。神の御言葉を聞くことだけにとどまらず、聞いた言葉を積極的に行いつつ生きなさいということでした。私たちは自分が正しいから、善を行なうわけではありません。神の正しさによって救われたため、その神の正しさに答える生活として、善を行なって生きるのです。それこそが神の御言葉への私たちの実践の根拠になるのです。今日の言葉は、私たち一人一人の日常生活で行うべき実践を深化し、国と権威、支配者への理解と実践についての言葉です。 『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』(ローマ12:2)この言葉のように、私たちには神によって遣わされた監視者になって、盲目的に世の権威に従うか、手放しで世の権威に抵抗するかではなく、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えて、この世界を導いて行く責任があります。それが権威と政治に対するキリスト者のあり方なのです。私たちは世の権威と政治にどのような姿勢をとって、生きるべきでしょうか?今日はそれについて分かち合いたいと思います。 1.権威とは何か? 今日の本文に出てくる権威という言葉は、ギリシャ語「エクスシア」を翻訳した表現です。これは「力、支配、統制、影響力」などを意味しますが、本文では「支配者、権威者の支配権、権威」などを意味すると理解すれば良いと思います。この世の中には、創造当時から「エクスシア」が存在して来ました。神様が創り主の権威、すなわち神の「エクサスシア」をもって世界をお造りになり、また被造物への支配の権威として人間にも「エクスシア」を与えてくださいました。なぜならば、神は神の秩序をもって世界を創造し、その被造物が権威と位階の中で保たれることを望んでおられたからです。なので、「権威」というのは、創り主である神から自然に生まれた一種の被造物だと理解しても構わないでしょう。つまり、「権威」そのものは悪いものではないということです。むしろ「権威」は、神が世界をお治めになるためには、必ずあるべき概念です。『イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』(マタイ28:18)キリストが十字架に死に、復活して昇天される直前に、父なる神がすべての権威を、すなわち、すべての「エクスシア」をご自分に与えられたと言われました。創造の神は、終末が来るまで、神による権威をもって、この世界を治めていかれるでしょう。権威は神の御支配の道具です。したがって、我々は権威について神のものだという認識を持つべきでしょう。 つまり、私たちは、この「権威」が神のものであるということに基づいて、今日の本文に取り組む必要があります。初めに世界を創造された神は人間に、このような命令を与えられました。 『神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』(創世記1:28 )神は、人間が世界で栄え、世界を導き、治めることをお望みになりました。神は人間に世界を支配する権威を与えてくださいましたが、それは、すなわち人間に与えられた神の「祝福」でした。ただし、人間は、その権威を身勝手に振るうことは出来ません。神は、人間がその権威を用いて、被造物を守り、愛し、正しく治めることをお望みになっただけで、その権威をもって他者を踏みつけ、苦しめ、破壊するために与えられたわけではないからです。そういうわけで、権威は支配者だけのための概念ではなく、支配者の権威を通して被支配者たちも祝福を得る、神の祝福の媒介になるべきです。神に望まれる真の支配者のあり方は自分、自民族、自国だけが、うまくいくのではなく、すべての存在が繁栄する世界を作っていくことです。聖書が提示する支配者はそのような存在です。 2.支配者への服従。 そういうわけで、私たちは、世の支配者たちがどのようなやり方で世界を支配しようとしているのか、警戒心を持つ必要があります。支配者が自分の利益と権力のために権威を扱っているのか、それとも、自分だけでなく、この世界の他の被造物、自由と平和、神の祝福の媒介として権威を扱っているのか、キリスト者なら、必ずその点を気に留めて支配者を判断すべきです。私たちの本当の支配者は、この地上の支配者ではありません。もっぱら、私たちを支配なさる方は、三位一体なる神であり、とりわけ、直接、神から権威を譲り渡されたイエス・キリストだけが、私たちの真の支配者、王でいらっしゃいます。そうであるならば、支配者への我らの服従も、その基は神とキリストへの服従から始まる必要があるのでしょう。もし支配者が自分の野望や権力ではなく、神に喜ばれるべき支配、すなわち世界の平和、自国の国民と世界中の市民の共栄のために権威を扱う場合、私たちはその権威に協力と服従をもって従っていくべきでしょう。しかし、支配者が自国だけの繁栄と自分の力だけのために権威を扱う場合、私たちは、真の王であるキリストの御意志に基づき、そのような邪悪な支配者に抵抗していかなければならないでしょう。 このように権威への服従は盲目的であってはなりません。支配者が神から与えられた、その権威を正しく使用する時にはじめて、私たちは神への服従の意味として、その支配者の権威にも服従するのです。しかし、支配者が自分の権力だけのために権威を利用しようとする場合、我々はそれに対して服従してはならず、服従することも出来ません。支配者の権威はあくまでも神によって与えられたものです。目に見える支配者の権威は、目に見えない神の権威を表す道具に過ぎません。したがって、我々は、支配者の武力と暴力に屈してはいけません。ただ支配者を通じ、神の権威が正しく示される時のみ、我々は彼らの権威を認めて従っていくべきです。私たちは、支配者への監視者の役割を持って世界を生きています。無条件的な国家権力への盲従は正しいあり方ではありません。いつも「私たちの真の支配者は、イエス・キリストだけである。」という基本的な前提をもって国や団体の権威に対応する必要があります。地上の一国家の国民という認識に先だって、神の国の国民という認識を、先にとる必要があるという意味でしょう。ひたすら服従の対象は神様だけであり、主に認められた権威だけが、私たちの服従すべき対象なのです。 3. 20世紀を顧みる。 – 邪悪な権威の世界 – 。 1945年、太平洋戦争の末期、アメリカは8月6日に広島にリトルボーイと、また、8月9日には長崎にはファットマンと呼ばれる核兵器を投下しました。それにより、約15万人から25万人の無辜の命が犠牲になってしまいました。 8月になると、日本では敗戦と、これらの核兵器による犠牲者のために記念式を催したりします。米国には、その多くの犠牲者を出さない選択があったにもかかわらず、支配者たちの誤った判断により、多くの犠牲者を生じさせてしまいました。しかし、当時の米国のほとんどの市民は、このような犠牲を当然だと思い、むしろ喜んでいました。これは明らかに米国の犯罪です。他方、帝国主義日本はアジアの周辺国を武力で征服し、アジアを戦場に追い立ててしまいました。中国では1000万人以上の人々が死亡し、朝鮮人の中にも神風特攻隊や徴用兵として死亡した人が少なくありません。ただし、当時の朝鮮人は日本人として分類されて詳細な人数は不明です。沖縄の無辜の民間人12万人が旧日本軍によって、皇国臣民としての自決を強いられ、あるいは弾除けに死ななければなりませんでした。当時沖縄市民に治療と救護を提供した当事者は、皮肉なことに敵国である米軍だったそうです。日本本土ではいかがでしょうか?戦争による日本人の犠牲者だけで約300万人を上回るのです。その中に日本籍の琉球人、台湾人、朝鮮人も含まれているでしょう。愛知県にお住まいの80代の知人は、戦争で亡くなった父親の顔が、思い出せないと言いました。戦場に3回も出て行かせられ、2回は帰還したものの、最終的には東南アジアで亡くなったそうです。今は靖国神社に合祀されているそうです。 20世紀は、悪魔の時代でした。まるで支配者たちが悪魔のようになり、罪のない者らを死に追いやったのです。その時、日本は国体という名目の下で、為政者の論理を正義としました。米国の支配者たちは、自分らの軍事力を見せつけるために、あえて日本に核兵器を落としました。しかし、日本もアメリカも、自分たちの支配者たちを支持しました。しかし、その支配者の中の誰も神の御心である「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」という御命令に耳を傾けませんでした。既に自らが神のようになっていたからです。当時、日本の教会は、国体の一部として神社参拝をし、軍部に協力しました。悲しいことに、朝鮮の教会も同じく妥協し、偶像崇拝の罪を犯してしまいました。私たち日本と韓国の教会は邪悪な支配者のために、すでに神を裏切った存在です。これからも、絶対に忘れてはいけない我らの共同の悔い改めの課題なのです。もし、このような世が再び到来したら、私たちはどう行動すべきでしょうか?私は神の民として、そのような日が来れば、堂々と死を覚悟するつもりです。私たち教会は再び自分の一身のために邪悪な支配者の権威に服従するべきでしょうか?それとも「愛と平和、変わらない信仰」をお望みになる神の御意志を承り、神の御心のために命をかけるべきでしょうか?「あなたがたは、以前は…この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:1-2)この世の支配者は神に反抗する空中に勢力を持つ者の性質を持っています。彼らは不従順の子になりがちで、不正と罪の存在になる可能性を持っています。このような世の中で、私たちはどのような権威に服従するべきでしょう?私たちは、神の民です。私たちのアイデンティティを深く考えて、命をかけて定めるべきだと思います。 締め括り 申命記16章20節には、支配者の穏当な在り方について教えています。 『ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。』 過ぎし2018年10月に来日して、もうすぐ2年になります。韓国にいる時は、漠然と知っていた日本の政治に少しずつ気付いている最中です。まだ、詳細にではないと思いますが、時々、今の日本の政治は、誰のための政治なのかという気がする時もありました。まるで、政治家は特権層であり、一般国民は彼らとは関係のない存在のように感じられるほど、違和感を感じたりしました。残念なことに韓国もそんなに違いがないと思い、これは万国共通の政治家たちの病気なのかという気持ちもあるほどでした。愛する志免教会の皆さんと、日本の兄弟姉妹たちのためにも、市民を愛し、正義の政治を貫く政治家たちが、特にキリスト者の政治家たちが立ち上がることを祈っています。支配者たちの権威はひたすら神のみから来るのです。支配者たちは、神の正義と愛を、この世に示さなければなりません。その時に初めて、私たちキリスト者は、彼らに完全に従うことができます。私たちは、この世に属している存在ではありません。私たちは、神の国に属している神の民です。したがって、誤った現実のために正しい怒りを発し、神に熱心に祈り、投票などの政治的行動に参加し、さらに正義に満ちた日本と世界になるように動いていきましょう。このような考え方を持って国の支配者と政治家のために祈り、生きていく私たち志免教会になることを祈り願います。

選択すべき分かれ道に立つ人間。

前置き 神様は創造主でいらっしゃいます。神様は、この世に命と秩序をくださり、被造物と歩みを共になさるために、世界をお創りになりました。そして、最後に神の形を象った人間という存在を造り、被造物の代表としてくださいました。人は神様にあずかった被造物を導き、神様に栄光を帰す大事な役割のために造られた存在です。すなわち、人間は神と被造物とをつなぐ仲保者のような存在として、創造されたのです。しかし、人間はたちまち堕落してしまいます。被造物を導いて神に栄光を帰すべき存在が、自分の在り方を忘却し、かえって自分自身が神のようになろうとしたからです。今日の本文は、そのような人間の堕落の始発点になる『善悪の知識の木』をめぐる出来事を取り上げています。今日の言葉を通して、人間の堕落とは何か?私たちの人生で善悪の知識の木はどういう意味を持っているのか?について話してみたいと思います。 1.善悪の知識の木をお造りになった理由 日本語聖書で『善悪の知識の木』と翻訳されたヘブライ語は『ウメエツ・ハッダイト・トブバラ』と発音します。ウメエツは『 木の実 』、ハッダイトは『 知らせる』、トブバラは『善と悪 』という意味です。つまり、日本語聖書の『善悪の知識の木』の原文が持つ、本来の意味は『善と悪を区別させる木の実』という意味です。だから、聖書の他の箇所に記されている『知識の木の実 』は『善悪を知らせる木の実』と言い替えて使っても構わないと思います。それでは、ここでの『善と悪』は何を意味するのでしょうか?旧約聖書が語る善と悪の概念は現代の倫理道徳とは少し異なる意味を持っていました。善良に生きるだけが善ではなく、神様に聞き従うことが善であり、神様に逆らうのは悪であるという意味です。神様は創世記2:17の御言葉を通して、『善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』と明らかにお告げになりました。『善と悪の知識木の実』という境界線を引かれ、『お前たちは全てのことが可能である、ただし、善悪の知識の木の実だけは絶対に食べてはいけない。』と厳重な御命令を下されたのです。神が知識の知識の木をお造りになった理由は、人間が神に絶対的に服従する、善い存在として生きるように基準を立ててくださるためでした。 人間は神の形に象られて生まれた存在であるため、全ての被造物の中で、一番優れた存在です。人間には他の被造物には無い、言語、知識、文化、技術があります。如何なる動物も築くことが出来なかった素晴らしい文明を通して、世界を支配する力を手に入れた存在です。そういうわけで、人間は自らを特別に扱いがちな傾向を持っていると思います。そのような傾向があるため、歴史上大勢の人々が自分も神のようになることが出来ると勘違いしたりしました。遠くは古代ローマ帝国の皇帝たちが自分を神にしたり、近くは昭和天皇も敗戦の直前まで、現人神と呼ばれたりしました。このように人間が自らを神にすることが出来るという思いが、まさに堕落の兆しであり、堕落そのものなのです。自分も神のようになれるという荒唐無稽な思いを持つのです。しかし、その結果、人間は神から遠ざかり、最終的に破滅に繋がります。だから、神様は、そのような勘違いから人間を守ってくださるために『善悪の知識の木』という境界を造られたのです。神様は無限な方なのです。しかし、人間には限界があります。神様は人間を如何なる被造物よりも優れた存在としてお造りになりましたが、それでも、彼らが被造物に過ぎないということを忘れないように、『善悪の知識の木』という制限を置かれたのです。この『善悪の知識の木』に関する、より詳細な話は少し後で話しましょう。 2. 人間を惑わした蛇が持つ意味とは? そんなある日、蛇が現れ、人間に声をかけました。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』実は神様は創世記2:16で『 園のすべての木から取って食べなさい。』と言われました。 善悪の知識の木の実を除く、全ての果実は食べても良いと言われたのです。しかし、蛇は巧みに言葉を変えました。すると、人間は『 わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』神様は『決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』と仰ったのに、人間は『食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから』という、似ているけれど、全く違うことを言いました。ここでの『死んではいけないから。』は『死ぬかもしれない。』と翻訳が出来ます。人間は神の御言葉をありのままではなく 、自分の歪んだ解釈を加えて受け入れたのです。すると蛇は『 決して死ぬことはない。』と嘘をつきました。そして、『 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。』偽りを通して、人間の無駄な思いを煽ったのです。結局、人間は蛇の誘惑に惑わされ、神様が立ててくださった基準を捨て、善悪の知識の木の実を貪ってしまいました。 この物語は、誰でも知っている有名な話です。一般的にこの物語を聞いた人たちは、蛇が人間を誘惑して、人間を堕落させたと思います。なので、蛇を悪魔と同一視したりします。ところが、昔のユダヤ人たちの聖書解釈では、この蛇も悪魔に用いられたと記されています。悪魔が蛇を訪れ、『わたしがお前の口にとどまってもいいのか?』と尋ねると、蛇がそれを許し、その悪魔が蛇の口を用いて人間を惑わしたという話しです。しかし、本当に人間は悪魔に利用された蛇のために堕落したのでしょうか?これを明らかにするために、私たちは、古代イスラエルの文化での『天使と悪魔』について、探ってみる必要があります。私たちが俗に言う『輝く天使』、『真っ黒な悪魔』みたいなイメージは、古代のペルシアの宗教文化に基づいたものです。そして、それが西洋の文化に影響を与えて、こんにちに至っているのです。つまり、バビロン捕囚の以前にイスラエル人が思っていた天使と悪魔のイメージは、現代とは異なっていたという意味でしょう。今日の本文で蛇を操った者と疑われている悪魔は、ヘブライ語で『サタン、シャタン』と言われます。このサタンという言葉は『逆らうもの』という意味です。その反面、天使は『マレク』と呼ばれましたが、それは『メッセンジャー』という意味でした。そして、両方、人間を示す言葉です。つまり、バビロン捕囚前のイスラエルの文化では、悪魔と天使は霊的なイメージよりは、『神に逆らう人』や『神の言葉を言い伝える人』のように人間を示す言葉だったという意味です。 つまり、人がどのような決心をするのかにつれて、その人は天使にも、悪魔にもなれるという意味でしょう。神様が御言葉で禁じられた『善悪の知識の木』の前に立っている人は、その果実を食べたいという『悪魔の意志』と食べてはいけないという『天使の意志』との二つの思いを持つようになります。そして、自分の選びに従って悪魔のようになったり、天使のようになったりします。しかし、神は明らかに『食べてはならない。』という言葉をくださいます。その時、人の心に葛藤が生じます。御言葉への逆らいと従順という別れ目が生じるのです。善悪の知識の木に現れた蛇は確かに悪魔の化身です。しかし、その悪魔はいったい何処から来るのでしょうか?神の言葉に聞き従うことも、逆らうことも、結局、人の心から始まります。私自身の欲望が神の御心を超えてしまったら、その日、私たちは神に不従順するようになります。昔のイスラエル人の考え方としては、神に逆らう人は『サタン』即ち悪魔あるいは蛇のような存在です。しかし、神の御言葉に従う人は、メッセンジャー、 即ち天使のような存在です。だから、創世記3章に現れた蛇は善悪の知識の木の前で、その果実を貪ろうとしていた人間の心の中に潜んでいた強い欲望ではなかったでしょうか?罪に向かう人間の本能を比喩的に表したものではないでしょうか?そうであれば、我ら、人間がどんな選びを決めるのかにつれて、私たちは悪魔にも、天使にもなるのでしょう。今を生きている私たちは悪魔に近い存在でしょうか?天使に近い存在でしょうか?考えてみるべきだと思います。 3.選択すべき分かれ道に立つ人間。 また、善悪の知識の木の話に戻って行きましょう。なぜ、神様は、敢えてそのような樹をお造りになり、人間の堕落と悪魔のようになる可能性を残されたのでしょうか?初めからその木がなかったら、人間は堕落を免れたのではないでしょうか?しかし、そのような思いより、遥かに深い意味が善悪の知識の木に隠れています。神は最も愛する被造物である人間が、自らの意志で神に喜ばれることを選んで生きることを望んでおられました。そのため、神は人形のように意志のない存在ではなく、自分の意志で人生を選んでいく存在として、人間を創造なさったのです。そのために神は人間に自由な意思をお与えになり、自ら選び、開拓していく神を象った存在に創ってくださったのです。しかし、自由意志には、自己抑制が必要です。際限のない自由は、すぐに放縦になってしまうからです。神は人間に自由をくださると同時に、自己抑制の道具として、善悪の知識の木をも造っておかれたのです。そして、『全ての物事をお前の自由に任せる。しかし、善悪の知識の木に限っては制限を置く。その制限を自分の意思で守ることを通して、わたしへの従順を証明しなさい。』という意味で、善悪の知識の木をくださったのです。しかし、残念なことに、初めの人間は、それに失敗してしまいました。神の御心に従うために、与えられた自由意志を、自分の欲望のために使い、従順のための果実を放縦のために犯してしまいました。 このように、初めの人間は、善悪の知識の木という分れ目の前で、神の命令ではなく、自分の欲望を選んでしまいました。聖書は、それが最初の人間の堕落だと語っているのです。実は善悪の知識の木の実に、特別な力があるわけではないと思います。ひょっとしたら、その木はリンゴやブドウのように、珍しくないものだったかも知れません。しかし、その木に掛かっている意味は特別でした。神に従順に生きなさいということです。人間は常に従順と不従順という善悪の知識の木の前での選びを要求される存在なのです。そして、その善悪の知識の木は、現代に生きる私たちにも、依然として選びを促しています。神様は聖書の御言葉を通して、我らに常に語っておられます。従順と不従順の基準を明らかに定めてくださいます。それを『守るか、無視するか』という選びの機会を与えてくださいます。私はこれが、我らの人生の中の善悪の知識の木だと思います。我らの心の中の欲望は蛇のように我らを誘惑します。その欲望に屈して生きれば、私たちは悪魔のような存在になり、その欲望を乗り切れば、私たちは天使のような存在になるのでしょう。我々は、果たしてどちらを選ぶべきでしょうか? 締め括り ローマの信徒への手紙でにはイエス・キリストの従順について、このように記されています。『一人の人の不従順によって、多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって、多くの人が正しい者とされるのです。』(ローマ5:19)新約聖書にはキリストが新しいアダムとして来られたというニュアンスの語句が何ヶ所かあります。アダムとイエスは両方、神様に試みを受けました。アダムは不従順を選び、イエスは死ぬまで従順をお選びになりました。その結果は、人間を悪魔のような罪人に導いたアダムと人間を罪から救い出したイエスに分けられ、罪人と義人の象徴となりました。我々は日常に中で、選択の分かれ道に立ち向かいます。聖書の言葉が勧めることと、禁じることとの間で、苦悩するようになります。そして、我らの欲望は、まるで蛇のように近づき、我々の正しい選びを妨げたりします。だから、私たちは、聖書の言葉に徹底的に聞く必要があります。神様が聖書を通してくださった言葉を通して、我らが当たり前に為すべき生き方を貫き、私たちに与えられた自由意志を持って、神に喜ばれるべきことを行って生きていきましょう。お祈りと言葉に力を尽くし、神と隣人を愛し、キリストの生き方に倣いましょう。来たる一週間、自分の前にある善悪の知識の木とは何か考えつつ、正しいことを選ぶ力をいただくために祈って行きましょう。神の恵みが我々の選びを助けてくれると信じます。主の御恵が志免教会の上に豊かにありますように。