コロナ騒ぎは神の呪いか?終末の徴(しるし)か?

歴代誌下7章11-16節 (旧679頁) ルカによる福音書 21章7-19節(新151頁) 前置き 去年12月、中国武漢で初めて発生した以降、世界の各地にウイルスによる被害が広がっています。全世界的に感染者の人数が200万人を突破し、日本でも、すでに1万人以上の感染者が出たそうです。徳田安春という学者は23日の毎日新聞とのインタビューで、日本で今まで発表されたものより、12倍を超える感染者がいるだろうという見解を明らかにしました。このような状況を見るたびに、人々は恐怖を感じ、まさか、こんなことが実際に起きるとは想像も出来なかったと思ったりすると思います。特にキリスト者は、なぜ、神様がこんなに、人々がひどい目に遭うことを許されたのかと疑問を抱くかも知れません。ひょっとしたら、聖書に記されているように、こんな状況は神様の呪いによることなのでしょうか?もしかしたら、人類に終末が近づいてきたのではないでしょうか?神様はもうこれ以上、人間を愛しておられないのではないでしょうか?こんな状況に生きていく私たちキリスト者は、どのような考え方を持って生きるべきでしょうか?今日は聖書の御言葉を通して、コロナ19のような感染症に対する私たちの在り方について、話してみたいと思います。そして、一日も早く、今の状況が落ち着いて、前のような自由な交わり、安らかな礼拝の生活になることを、心から切に祈ります。 1.コロナ感染症は神の呪いなのか?‐考えの転換 『主はそこでイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエル人のうち七万人が倒れた。 』(歴代誌上21章14節)、イスラエルのダビデが神の御言葉に聞き従わず、イスラエルの人口調査を実施したとき、神はダビデに呪いをかけられました。ダビデが人口調査をしようとした理由は、イスラエルの力を調べてみるためでした。かつて、神はダビデとイスラエルを守り、諸国より優れた国としてくださいました。しかし、神がイスラエルを優れた国としてくださった理由は、イスラエルを他の国より栄えさせ、周辺国を征服させる意図ではありませんでした。 『今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』(出エジプト19:5-6)むしろ、主はイスラエルが祝福された祭司の王国として、神を世の中に伝えるように導こうとなさるためでした。しかし、ダビデは、そのようなイスラエルのアイデンティティを忘れ去り、自分の力を誇るために人口を数えたのです。 これは神の御前に大きな罪とされました。これによってイスラエルは神に伝染病の呪いを受けることになりました。そのために、イスラエルで何の罪もない7万人の民が死ぬことになりました。以後、神は伝染病をおさめられ、ダビデの高慢を悟らせてくださいました。ダビデは自分の高慢を悟り、悔い改めましたが、その代償はあまりにも、大きくて、その被害は甚だしかったです。この出来事は、歴代誌上21章に登場する話です。このような話は、旧約聖書で少なからず現れます。なので、私たちは伝染病が神の呪いだという思いを持ちやすいと思います。しかし、私たちは、旧約の話を何の解釈もせず、文字通りに受け入れてはいけません。なぜなら、旧約の出来事と現在の私たちの間には、イエス・キリストという強力な仲保者がおられるからです。イエスは助け主、聖霊を遣わされ、今日もご自分の民のために御手を差し伸べられ、導いていらっしゃいます。『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』(ローマ8:26)神は、ご自分の民を助けてくださり、愛してくださる方です。人類への神の呪いは、キリストによって、すでに解決されました。それでは、なぜ、神は私たちにこのような感染症を許されるのでしょうか?この伝染病が神の呪いではなければ、果たして、何なのでしょうか? 私たちは、人間中心的な考え方を変える必要があります。私たち人間は、神が創造された被造物の一つに過ぎません。もちろん、主は人間に被造物の代表という大事な役割を与えてくださいました。だからといって、人間がすべての被造物の中で最も優れた存在だという考えは高慢ではないかと思います。人間も結局、被造物の一つであり、すべてのものは神のものだからです。この言葉は、ウイルスも、最終的には神の被造物だという意味です。創世記によると、初めに神は人間に『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』と命じられました。ここでの『従わせる。支配する。』という意味は、『導く。世話をする。』に近い意味なのです。近代の欧米の人間はこの聖書の原文と翻訳文の違いのため、聖書の教えを間違って受け入れたのです。あれから、東西を問わず、人間は、自分の欲望のために、自然を傷つけたり、地球を汚染させたりしました。しかし、ウイルスは動植物や人間に寄生して、自分の生を生き抜いただけです。そうしたウイルスが人間の無分別な開発、あるいは、不自然な食生活を通して、私たちと出会うようになったのです。私たちは、ウイルスから被害を受けることによって、ウイルスを悪と規定する傾向があります。しかし、過去長い間、人間が神の前に行った悪が、ウイルスのそれより、はるかに大きいと思います。ウイルスを悪と規定するということは、私たち人間は、善良な存在であるという無言の前提を持っているので可能な考えなのです。これは果たして神様の御前で正しい考え方なのでしょうか?私たちも、結局、被造物に過ぎない存在です。私たちは、より謙虚にウイルスを扱う必要があると思います。 ウイルスは神の呪いではありません。私たちは、自分の知らないうちにウイルスから、多くの助けを受けてきました。例えば、ウイルスは細菌(バクテリア)に寄生する場合もあると言われます。かつて、人類を滅亡に追い込むほどの致命的な細菌がウイルスの寄生によって絶滅されたという科学界の話もありますし、ウイルスを用いて、多くのワクチンが開発されたり、自然の多くの部分が保たれたという話しもあります。現在はいかがでしょうか?コロナ19の影響でインドと中国の産業地帯の灰色の空に、再び青さが戻ってきたり、南米のウミガメが海岸に戻って来たというニュースもあります。ウイルスは、相変わらず、神から命じられた自分の生を生きていくだけです。むしろ、自然を害し、地球を痛めたのは人間なのです。神の被造物である、この世界に、より大きな害を及ぼしている存在は私たち人間なのでしょうか?それとも、ウイルスでしょうか?私たちは、このウイルスを通して謙虚さを持って、神の前に進まなければならないと思います。私たちは、神が造られた自然の前で、小さな存在に過ぎません。私たちはこの自然の世話をする神のしもべなのです。ウイルス騒ぎを眺めて、自分自身を謙虚に省みる私たちになって、人間中心的な考えを棄て、さらに神様中心的な考え方を持って生きていきたいと思います。 2.伝染病は終末の試練の徴なのか? – 恐怖を捨て去ること。 今日の新約本文では、ある人々がイエス様にエルサレム神殿の見事な石と飾りについて話しました。彼らはエルサレム神殿がまるで永遠にあるかのように、その規模と姿に惚れて、主の前で感心したのです。実際にイエスの時代の神殿は、ソロモンが建てた神殿より、はるかに大きく、綺麗な見掛けだったと言われます。その際、主はそのような神殿が石の上に石一つも残らず、崩れると言われました。すると、その人たちは主にそのことが起こるときには、どんな徴があるのかと尋ねてきました。これに主は『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』(ルカ21:10-11)と言われました。主は彼らに神殿が崩れる日は、全世界が滅びるかのように恐ろしいことが起こると仰ったのです。 神殿は、実際に西暦70年にローマ帝国によって崩壊しました。そのとき、エルサレムでは、数多くの虐殺があって、イスラエル全域で人々の悲鳴と遺体が絶えませんでした。イスラエル民族にとって神殿が崩れたということは、戦争、地震、飢饉、疫病のように神に捨てられること同然の恐ろしいことでした。また、イスラエルのアイデンティティが壊れるようなことでした。しかし、その時代のユダヤ人たちの感覚のない私たちは、このような恐ろしい徴に関する聖書の言葉を読むたびに、当時のユダヤ人たちの考えとは異なり、漠然と終末の兆しとして受け入れる傾向があると思います。主は、戦争、地震、飢饉、感染症というイメージを通して、神殿が崩れるということが、いかに衝撃的なことなのかを教えてくださいましたが、聖書を読む私たちは文字通りの意味を受け入れ、まるで、これが終末の時にある試練だと考えてしまうかも知れないということです。そのため、一部の人々は、コロナ19のような伝染病が神からくだされた終末の徴だと受け入れたりします。ひょっとしたら、この感染症によって、人々が死に、苦しむとき、キリストが再臨なさるのではないかと、世界が終わるのではないかと恐怖を感じるからです。 しかし、私たちは終末と試練について、漠然と考えてはいけないと思います。私たちは、まず、終末について、正しい概念を明らかにする必要があります。終末とは、『世の終わりに起きる出来事に関する教義』と解釈できます。この終わりというのは漠然と『主が再臨する時、人類が滅びるとき』を意味するものではありません。新約聖書から示される終末論の特徴は、『神の終末へのご計画は、まだ、最終的には完成されていないが、すでにイエス・キリストの中で成し遂げられている。』ということです。したがって、新約の終末論は、一方では、現在的な側面、すなわち『すでに実現されたもの』という側面と、他方では、未来的な側面『まだ、実現されていないもの』という側面を持っています。言葉が複雑になったと思いますが、一体これは何を意味するのでしょうか?まさにイエス様がこの地上に生まれた時、すでに終末は始まったということです。そして、イエスが再び来られる再臨の日に、この終末が完全に終結するという意味でもあります。したがって、イエス以降に生まれた私たちは、すでに終末の世界を生きているのです。この終末は、イエスが再臨される終わりの日に、完全に成し遂げられるでしょう。 20世紀にはすでに世界的に大きな戦争がありました。当時、米軍の空襲によって東京、名古屋などの大きい都市が火の海のようになりました。原爆によって犠牲になった人、戦争による孤児と寡婦がたくさん生まれました。飢えて死んだ人も多かったのです。今はいかがでしょうか?日本のあちこちで、相変わらず、大小の地震が起きます。世の中に依然として、戦争、地震、飢饉、疫病は存在します。にも拘わらず、主の再臨はありませんでした。したがって、私たちは、今のような恐ろしい感染症が流行しているからといって、人類が滅びるのではないかと恐れる必要はありません。これらの試練があるからといって、すぐに終わりが来ると恐怖に怯える必要もありません。私たちは、すでに終末の中に生きているからです。しかし、まだ、終わりではありません。したがって、恐れを捨て去りましょう。いつか、今の状況が終わり、我々は再び集まって礼拝を守り、お交わり出来ると信じます。ただし、私達の出来ることは頑張って行ってまいりましょう。聖書を読み、祈りをし、近所の人を助け、神を愛してまいりましょう。密集、密閉、密接を避け、手をよく洗って、免疫力のために食事もちゃんとして、運動も熱心にしましょう。神が世界を治してくださる、その日を楽しみにしており、健やかな生活を続けていきましょう。そのような生活の中で、主は新しい明日を開いてくださるでしょう。 結論 コロナ19に対する教会の在り方。 ソロモンは神の神殿を完成したときに、神の御前で民を憐れんでくださり、助けてくださることを求めて祈りました。その夜、主はソロモンの夢に現れ、その祈りにお答えになりました。『わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、 もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。』(歴代誌下7:13-14) 主は罰を与えられても、癒してくださる神様であり、見捨てられても、お探しになる方なのです。ましてや、キリストによって、永遠に主の子供とされた私たちを死の中で惨めに放って置かれる方ではないでしょう。主は必ず今の状況を治してくださいます。そのような主の慰めと癒しを期待し、謙虚さと祈りをもって神様を見上げましょう。私たちがキリストの御名を通して、神に切に求めるとき、主は必ず私たちを顧み、守ってくださるのです。根拠のない恐怖を捨て、約束の神を見上げ、試練の中でも、喜びを持って一日一日を過ごす私たち志免教会になりましょう。

私の羊の世話をしなさい。

詩編 23編1-3節 (旧854頁) ヨハネによる福音書 21章15-19節(新211頁) 前置き 私は小学校5年生頃から教会に通ってまいりましたが、約30年間、去るイースター礼拝のような静かな礼拝は初めてでした。主の体なる教会が一つとなって一緒にパンを裂き、賛美をし、み言葉にあずかり、神様を崇める礼拝が、どれだけ、大切なことだったのかを改めて感じられる時間でした。教会をこのように一つにならせてくださったキリストの愛と犠牲、復活についても、もう一度覚え、感謝する時間でした。この状況が過ぎ去り、恐れることなく、礼拝を守り、お交わりできる日が一日も早く来ることを心から願います。思ったより長くなるかも知れない、今のウイルス騒ぎのために祈っていく私たち教会になることをお願いしたいと思います。 1.主の復活が私たちに及ぼす影響。 イエスは復活されました。罪の支払う代償は死であるというローマ書の言葉のように、人間の罪によって死んでいく、この世の中に本当の命を与えてくださるために、主は復活なさいました。人間の罪、それは自分自身だけのために、すべてのものを排除、差別し、憎み、最終的には自分自身まで打ち砕く破滅そのものです。そして、その破滅の終わりは、神との関係が切れてしまう永遠の死なのです。私たち、人間はこのような罪から決して自由になることが出来ません。私たちは、常に神のご命令に完全に聞き従わず、隣人を自分の体のように愛しておらず、いつも自分の欲望の中に生きる傾向のある存在だからです。あるキリスト者はこう言いました。 『罪がすなわち自分であり、自分はすなわち罪そのものである。』それだけに私たちは罪の誘惑と力を振り払うことが難しいです。私たち、キリスト者が主イエスを救い主と信じて、従う理由は主が、このようにあまりにも罪に近くにいる私たちのために、そのすべての罪を背負い、代わりに死んで、罪の力を完全に打ち破り、復活されたからです。 主が、このように罪の力に勝ち、復活なさったことと同時に、罪と、その支払う代償である死は、その力を完全に失ってしまいました。もちろん、人間の心と生に、まだ罪が存在することは確かです。しかし、今の罪は過去の罪とは、根本的に異なる状態です。主が人間の罪を清める救いの道を与えてくださったからです。主が来られる前に、ほとんどの人類が罪によって、神に捨てられ死ぬしかなかったのが、主が来られた今では、罪人がキリストの名によって罪を告白し、神様に赦されることが出来るようになりました。罪と死に勝利した主は、弱い人間の能力ではなく、強力なご自分の力を保証とし、罪人を赦してくださるのです。そのお赦しには死も対抗できないのです。主が成し遂げられた最大の御業は、まさに、そのいかなる罪人をもお赦しくださる資格と力を持って、罪人を救ってくださったということでしょう。主はご自分のその力を通して罪人を召され、罪を告白させ、新しい道に進ませてくださいます。 私たちは、これを悔い改めと言います。悔い改めとは、自分の罪を神の御前でことごとく告白し、その罪の道から完全に向き直ることを意味します。しかし、これは自分の力、意志で、簡単に達成できるものではありません。主が送ってくださる聖霊の御助けによって成し遂げられるものです。だから、いくら悔い改めをしても、なかなか直らないからといって、自分を、あまりに咎める必要はないと思います。もし、繰り返し罪を犯しても、諦めず続けて、キリストに頼り、罪を告白し、少しずつ正しい方向に変わっていこうとすれば、主が喜んで助けてくださるのでしょう。主は旧約と新約の御言葉を通して、このような悔い改めのある人生を促されました。『論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。』(イザヤ1:18)『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。』(ヨハネ1:9)主はこのように、自分の復活を通して、罪人を召され、悔い改めさせることを望んでおられる方なのです。 2.悔い改めさせる主。 先に、この悔い改めについてお話した理由は、今日の本文の主な内容が、ペトロの悔い改めであるからです。よく知っておられるように、主の一番弟子だと自他が認めていたペトロは、主を三度も否定しました。『あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』(マタイ16:18)イエスは生前ペトロに、イエス自身が教会をお建てになり、その教会を通して陰府の力に勝利すると宣言なさいました。もちろん、私たちはこのペトロがカトリック教会のように法王だとは思いません。しかし、主が彼を信頼されたのは否めない事実であります。ペトロは教会を成す弟子たちの象徴でした。つまり、主はペトロと呼ばれる一人の人物を通して、ペトロのように主を信じるすべての弟子たちに教会の成立を宣言なさったのです。そうした彼が主を裏切ってしまいました。信頼される弟子、弟子たちの象徴だった彼が、事実上、ユダのような裏切り者になったということです。 そんなペトロが、再び主に用いられるためには、何をすべきだったのでしょうか?それは『悔い改め』でした。ペトロとユダの同じ点は、両方、主を裏切ったということでした。しかし、両方の違いは、ペトロは悔い改めをしたということです。彼は主を否定した罪のために非常にいじけており、再び許されないという恐れに怯えていたかもしれません。しかし、イエスは彼を訪れてくださいました。そして、悔い改めさせ、もう一度彼に機会を与えてくださいました。『ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか』(15)、このような主の御質問にペトロは、自分の心を告白しました。 『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。』その時、主のお答えは、『私の小羊を飼いなさい』でした。そして、主は同じ質問を2回繰り返し、ペトロもそれに対して『私はあなたを愛しております。』と明らかに答えました。それは、すなわち悔い改めの告白でした。主はそのようなペトロに『私の羊の世話をしなさい。』との答えを通して、ペトロに再び弟子としての人生を許してくださいました。 主が御自分の民を召されるときは、まず、悔い改めをお求めになります。その悔い改めは、キリスト自身が成し遂げられた救いと復活を通して、ご自分が、じかに保証してくださる完全な悔い改めです。主を3回も否定していたペトロは、主の御招きと愛とを通して悔い改めることが出来ました。まるで、3回の否定を、洗ってくださるかのように3回の告白を促され、悔い改めを許してくださるのです。キリストの救いの恵みの下にいる私たちは、いつでも主に悔い改めることが出来ます。誰でも、キリストの名を持って神に進めば、悔い改めることが許されます。新しい生活を始めることが出来るということです。主がペトロにお許しくださった悔い改めは、今を生きていく私たちにも適用されるものです。私たちの生活の中で悔い改めるべきことはありませんか?今でも自分の欲望のために、他人を憎み、神を軽蔑することはないでしょうか?主の赦しの招きに応じたペトロのように、今日も悔い改めと赦しを与えてくださる主の前で、自分の罪を告白する私たちになることを望みます。 3.教会に使命を与えてくださる主。 キリスト者にとって、悔い改めることが出来るようになったということ、主に赦されるようになったということは、ただ、私たちに与えられた救いの結果ではありません。むしろ、救いによって与えられた使命の始まりなのです。主はペトロに『私の羊を飼いなさい、私の羊の世話をしなさい。』と3回も強調されました。単に『主が私を愛してくださり、私も主を愛する。』ということだけで、終わることではありません。救われたキリスト者、つまり、私たちには『主の羊の世話をすること』という役割が残っています。それは、私たち、教会の使命なのです。つまり、主が許された悔い改めと救いは主に受けた私たちの使命のための第一歩にすぎません。私たちは、救われた者として、他人に仕える人生という使命を持っており、この使命は、私たちが主に召される終わりの日まで、私たちに託されている生き方なのです。 今日の本文に出てくる『飼いなさい。』とは、「ボスコ」というギリシャ語の言葉です。これは『餌をやる。飼う。』という意味です。また、『世話をする。』という言葉は、『フォイマイノ』で、『牧者として世話をする。治める。』という言葉です。これは両方、『主の羊を食わせ、養う。』という意味で、似ているニュアンスの表現です。主に赦された者、主に救われた者、主の弟子となった者。すなわち、教会は『主の羊を養い、飼う存在。』という意味です。私たちが、イースター礼拝を通して、主の復活を喜び、その復活による私たちの救いに感謝しているならば、我々は、この主の命令に聞き従う義務があるという意味です。主は大牧者であり、私たちは彼の羊飼いです。ここでの羊とは、被造物の代表である人間、すべての人類に適用される言葉です。私たちが本当に救われたクリスチャたちなら、自分の近所の人を、助け、食べさせ、守るべきです。すなわち愛して生きるべきだということでしょう。これは、主イエス・キリストが直接命じられた厳重な命令であります。しかし、残念なことに我々は主に与えられた、この命令を100%実行する能力がありません。実際に自分一人の人生を正しく保つことも難しいのが事実でしょう。しかし、幸いなことに、主は私たちに完璧を求めてはおられません。 主はペトロに『私を愛しているか。』とお聞きになりました。そのとき、主は『アガペー』というギリシャ語で愛を求められました。すると、ペトロは『アガペー』ではなく『フィロス』という言葉を使って、『私は主を愛しています。』と答えました。2番目も同じようにしました。すると、3番目の質問では、主も『フィロス』という言葉を使用して愛をお聞きになり、ペトロも『フィロス』を使用して答えました。『アガペー』も『フィロス』も愛という意味ですが、『アガペー』の方は神的な愛を意味する傾向があります。これに比べて『フィロス』は、もうちょっと人間的な愛の表現です。主が『アガペー』という言葉を用いられたとき、ペトロは、大胆に神的な愛で応答することが出来ませんでした。彼は神ではないし、背信の経験もあったからです。その時、主は『フィロス』を使用されることによって、弱いペトロに合わせて愛を求められました。私たちは、100%主と同じような完全な愛を実践することが出来ません。しかし、我々が愛しようとする際に、主は私たちの出来る範囲で、私たちのレベルに合わせて求めてくださるでしょう。したがって、我々は、救われた者として、私たちのできる小さなことから、近所の人を愛し、仕えつつ、生きていけばいいでしょう。主は決して私達のできないことをあえて強要なさいません。すでに主が成し遂げられた救いと愛なのです。我々は自分のレベルに合わせて愛して生きていけばいいのです。その時、主はさらに大きな恵みと力を私たちに与えてくださるでしょう。 締め括り 今日の本文はペトロの殉教を仄めかして話しを結びます。主に救われた弟子、主に聞き従う民には使命が与えられます。そして、その使命は、殉教を求めることもあるでしょう。ペトロは十字架に逆さにつけられて殉教したと言われます。しかし、主に赦された後、彼の人生は使命者の生であり、羊を飼い、世話をする生になりました。キリスト教の伝説によると、彼は二度と裏切らず、喜んで殉教に臨んだそうです。キリストの救いと聖霊の助けが彼を勇気のある弟子に導いてくれたのでしょう。私たちの人生も、このようになることを願います。主は昨日も今日も、明日も、私たちの大きな大牧者として、私たちを導いてくださる方です。私たちは、このような主に従って『主は私の羊飼い』と告白して生きていくことになります。このような大牧者キリストに従い、隣人の世話をし、愛する真の羊飼いとして生きていきたいと思います。主の復活と赦しによって、私たちの生活の中でも、そのような決意と勇気があふれますように祈り願います。      

イエスによる真の至聖所。

詩編 28編2節 (旧858頁) ヨハネによる福音書 20章11-18節(新209頁) 前置き 主イエス・キリストの復活を許してくださった父なる神様に栄光と感謝をお捧げいたします。皆さんの心にも復活の喜びが豊かにありますように祈ります。私たちは、去るレントと苦難週を通して、主イエスがご自分の民のために、神の栄光のために苦難と恥、そして死を喜んでお受けになったことが分かりました。神であるイエスが受けなくてもよい苦難を受けられた理由は、神には真の栄光を、人には、真の救いを与えてくださる大きな御業を成し遂げられるためでした。そのため、苦難と死から復活なさったイエスは、神に至る、たった一つの門であり、人間の救いのための、ただ一つの道でいらっしゃいます。今日は復活されたキリストが、私たちにとってどのような存在なのか、主を信じる者は、キリストを通してどんな存在として生きるようになるのか、語り合う時間になることを願います。 1.真の大祭司、イエス。 ヘブライ人への手紙は、神と人の間を執り成されるイエス・キリストを私たちの大祭司と呼んでいます。 『天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。』(ヘブライ3:1)大祭司は神と人とをつなぐ存在です。聖なる神は罪に汚れた人間をそのままでは会ってくださいません。罪人が何の準備もなく神に会ったら、神の神聖によって、滅ぼされるからです。なので、大祭司はこのような神と人との間で仲保者の役割を行います。イエスは、神が遣わされた真の大祭司として、神にも、人間にも繋がっているお方なのです。旧約の大祭司は、年に一度、神に許され、至聖所に入って民の罪を告白してお赦しを受けました。したがって、大祭司は神の赦しを象徴する聖なる存在です。 旧約に登場する人間の大祭司は、イスラエル民族のレビ族の人でした。レビ族の先祖レビは彼の兄弟シメオンと、妹の仇を討つためにヒビ族の人達を虐殺した人物でした。(創世記34:25)つまり、レビ族にも罪人の血が流れているということです。しかし、主は悪を善に変えられ、そのような罪深いレビ族を神の御前で仕える聖なる祭司一族としてくださいました。しかし、ヘブライ書は、私たちの大祭司イエス・キリストは、そのようなレビ族とは始めから全く違う存在であると語ります。 『イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。』(ヘブライ6:20) メルキゼデクは創世記14章に登場する神の真の大祭司です。彼には父も、母も、系図もなく、また、生涯の初めも、命の終わりもない超人間的な存在で、神の子に似ている者でした。ヘブライ書は創世記に登場した、このメルキゼデクが信仰の先祖アブラハムより偉大な真の大祭司であると証明しました。『このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。』(ヘブライ7:1)また、詩編では、将来、真の大祭司として来られる救い主メシアが、レビ族からではなく、このメルキゼデクのように来られると証言しました。『主は誓い、思い返されることはない。わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)』(詩篇110:4)イエス・キリストは人間の罪によって汚れていない神の真の大祭司、メルキゼデクのように真の大祭司として、この地に来られました。そのため、多くの学者たちは、大祭司メルキゼデクを、新約聖書のイエスを象徴する旧約聖書のモデルだと教えています。 つまり、イエス・キリストは、罪によって汚れたことのない、罪のない方です。罪のない方ですので、他の生け贄の血を必要としないのです。ひとえにご自分の聖なる血潮で罪人を赦し、新たにしてくださいます。主は神と私たち人間を完全に一つに和解させてくださる真の仲保者であられます。そして、私たちが罪のために恐れず、いつでも神の御許に進むことが出来るよう、導いてくださる真の大祭司でいらっしゃいます。イエス・キリストの死と復活は、このような真の大祭司として、神の御前にお立ちになるための準備段階だったのです。復活されたイエスは、いつまでも、永遠にご自分の民の罪を贖い、正しい道に導かれる永遠の大祭司として、私たちと一緒に歩んでくださるでしょう。 2.ご自分の民を至聖所に導かれるイエス。 大祭司の存在は、彼が働く至聖所があるということを意味します。至聖所とは、エルサレム神殿の最も奥にある神様のご臨在の場所です。至聖所に入るためにレビ族の大祭司は1年に一度ある贖罪日に、身を清め、亜麻布の長い服を着て、無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として捧げた後、やっと入ることが許されました。当時、イスラエル民族のすべての民のための贖罪の献げ物が無傷の若い雄牛だっただけに、大祭司の至聖所入場が、非常に神聖で、恐ろしい儀式だったということが分かります。もし、入っても大祭司に少しでも罪が残っている場合、その場で即死するほど、恐ろしい場所でした。そこには契約の箱がありました。聖書ではこの契約の箱が神の足台だと記されています。『ダビデ王は立ち上がって言った。わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。わたしは主の契約の箱、わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めてきた。』(歴代誌上28:2)、すなわち、神殿の中、契約の箱が置かれる至聖所は聖なる神がご臨在なさる場所だったということです。 今日の週報に契約の箱のイメージを載せておきましたので、ご参照くださいませ。契約の箱の蓋には、ケルビムと呼ばれる二つの天使像がありました。聖書は、この二つの天使像との間の空間を贖いの座と語っています。また、至聖所の契約の箱には、十戒の石板が入っていたそうです。これは、神の御言葉、御命令、御意志が、契約の箱という象徴物として、この地上にあったということを意味します。それほど契約の箱は、神とこの世を繋ぎ合わせる大事なシンボルなのです。つまり、大祭司、至聖所、契約の箱は、罪に満ちた世の中に神の赦しと臨在があることを象徴する大切な執り成しの象徴です。今日、私が大祭司と至聖所、契約の箱を、何度も長く説明する理由は、まさに今日の新約聖書の本文に大祭司、至聖所、契約の箱を象徴するイメージが隠れているからです。『イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 』(ヨハネ20:12) イエス・キリストの遺体が置かれた墓、そこは死の気配が漂うところでした。イエス・キリストは十字架で死に、葬られました。彼が普通の人間だったら、そこから腐敗し、骨だけが残り、最終的には埃のように消えていったのでしょう。しかし、イエス・キリストはそこで復活され、死の気配を破って命の主になられました。そして、イエスが死から蘇られたその場所は、命が死に勝利した場所になったのです。イエスはそこで、罪の支払う報酬である死に勝利したのです。イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が来て座っていました。これは、まるで神の聖なる契約の箱を連想させるような模様でした。キリストの復活は、死に支配されていた墓を、神の契約の箱のあった至聖所のよう変えさせました。死が変わって命となり、墓が変わって至聖所になったのです。神の大祭司イエス・キリストが、この地上に神の至聖所をもたらしてくださったのです。 神の至聖所は、誰もが入ることの出来ない聖なる場所でした。しかし、大祭司イエスを通して成し遂げられた贖いと赦しは至聖所を私たちの生活の中にもたらしました。イエスを信じる全ての場所が至聖所となり、イエスと一緒にいる全ての場所が至聖所となったのです。死に満ちた墓も、人々の罪が蔓延された世の中も、苦しみと悲しみで破られた人生も、イエスと共に歩むなら、神様の栄光に満ちた至聖所となることが出来ます。ひたすら、主の御名を呼ぶとき、イエスを我らの主と信じるとき、イエス・キリストは、私たちの人生に神の至聖所をもたらすでしょう。その時、私たちは、今日の言葉のように、神を私たちの父、私たちの神と呼ぶことが出来るようになるでしょう。『わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると。』(ヨハネ20:17) 締め括り 『嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。』(詩篇28:2)詩編の詩人は、苦しみの中で、神の御助けを求めました。聖なる神殿の最も聖なる場所である至聖所におられる神に依り頼みました。至聖所は、このように御救いと御助けの場所でした。イエス・キリストの苦難と復活は、私たちにこのように遠くにある至聖所を、私たちの人生の真ん中にもたらす出来事になりました。そのため、キリストに寄り掛かる私たちは、いつでも至聖所の神に進んでいくことが出来ます。また、人生自体が至聖所となった私たちは、常に神を私たちの父と呼ぶことが出来るようになりました。最近、ウイルスのため、大変で、不安でいらっしゃると思います。しかし、この時間もいつかは過ぎ去ることでしょう。実はこのウイルスよりも、さらに恐ろしくて怖い死がいつも私たちの生活の中に隠れています。私たちがウイルスに恐怖を感じる理由は、ウイルスそのものではなく、ウイルスによる死だからです。しかし、神は、キリストが許された人生の至聖所を通して、いつでも死に勝って私たちを助けてくださり、導いてくださるでしょう。私たちの人生が主イエスによって神の至聖所となることを悟り、感謝していきたいと思います。至聖所の主である大祭司キリストは、私たちの人生を至聖所とされ、永遠に私たちと一緒におられるでしょう。

イエスの十字架。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 19章14-30節(新207頁) 前置き 本来、十字架はローマ帝国の残酷な処刑道具でした。しかし、今や十字架は救いと命、平和の象徴として、さらに知られています。呪いと冒涜、苦しみの象徴であった十字架は、いかにして、こんなに別のイメージを持つようになったんでしょうか?それは、その十字架の上で、主イエス・キリストが、特別なことを成し遂げられたからです。神は呪いを祝福に変えることが出来る方です。もともと、罪によって死ぬしかなかった私たちは、神様であるキリストが十字架で成し遂げられた救いの恵みにより、正しい民として新たに生まれ変わりました。キリストが十字架で私たちのすべての罪を受け持って、代わりに死んでくださったからです。十字架も同様です。もともと、呪いの象徴だったものですが、イエスが十字架で全人類の罪を負って死に、救いを成就させましたので、もうこれ以上、呪いの象徴ではなく、救いの象徴になったということです。今日は苦しみを受けるイエスの出来事を通して、主の十字架について、さらに詳しく話してみたいと思います。 1.呪いを祝福に変える王の十字架。 『見よ、あなたたちの王だ』(14)ユダヤ人は、イエスを殺すために、主を掴まえて総督に引き渡しました。そして、主が自称ユダヤ人の王だという名目で皇帝に反逆を図ったという濡れ衣を着せました。父なる神は、イエスをユダヤ人の王として、ご自分の民に遣わされました。 『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。』(詩篇2:6)旧約聖書はこのように神に認められる王が遣わされると証言しています。その結果が、まさにイエス・キリストのご降臨だと、私たちは告白しています。しかし、ユダヤ人たちは、むしろ、イエスを否定し、神聖冒涜を犯した罪人として取り扱いました。そして、何の関わりのない反逆罪を主張し、イエスを殺そうとしました。しかし、神様は、むしろローマ総督ピラトの口を用いて、もう一度、イエス・キリストがユダヤ人の王であることを、ユダヤ人の目の前で明らかにご宣言なさいました。 「見よ、あなたがたの王だ。」 『ピラトが、あなたたちの王をわたしが十字架につけるのかと言うと、祭司長たちは、わたしたちには、皇帝のほかに王はありませんと答えた。』(15)しかし、ユダヤ人たちは、結局、イエスも、神様も、捨て、偶像のように扱っていたローマの皇帝が自分たちの王だと告白してしまいました。ユダヤ人の王は果たして誰だったのでしょうか?神だったのでしょうか?イエス・キリストだったのでしょうか?それとも、ローマの皇帝だったのでしょうか?『地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』(詩篇2:2)神を拒む地上の王や支配者たちがやるべき逆らいを、神の民と呼ばれるユダヤ人たちがやってしまいました。彼ら、自らが主の油注がれた方に敵対することにより、地上の王のように振舞ってしまいました。つまり、彼らの王は彼ら自身だったということです。自分たちの欲望が彼らの神だったのです。 『天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り。』(詩篇2:4)それに対して、神は彼らをまるで、嘲られるかのように、ローマの総督ピラトの口を借りて、『イエスが王だ。』とされたのです。 旧約の油注がれた方は、メシアを意味します。そして、メシアは通常、イスラエルの王を意味しました。神はメシア、すなわち、イスラエルの王が、この世に否定されることを、旧約聖書のあちこちで既に教えてくださいました。しかし、神はまた、詩編を通して、苦しみと逆らいの中でも、神ご自身が、王を守り、立ててくださることを宣言されました。王であるイエスの苦しみと死は確かに悲しいことだと思います。しかし、彼の苦しみは無駄な苦難ではありませんでした。彼の苦難は、神が保証してくださる王の苦難だったからです。皮肉なことに、苦しみと逆らいの十字架は、イエス・キリストが、神に認められた王であることを証明するシンボルです。苦難の十字架がキリストの王であられることを証明する逆説的な道具になったということです。したがって、十字架は、もはや呪いの象徴ではありません。神の救いの象徴です。この世が十字架を否定しても、神はこの十字架を通して、祝福を受ける者を探しておられます。神がキリストを通して、十字架の呪いを祝福にお変えになったからです。この十字架のイエスを信じる者には、呪いが祝福に変わる神様の逆説的な恵みが臨みます。それはまさに神の御救いなのです。 2.教会を守る和合の十字架。 イエスは生前、各界各層の弟子を養われました。貧しい者、豊かな者、独立運動家、帝国協力者、穏健派、急進派など、様々な性格の人々を集め、神の国について教えられました。彼らは、皆、違う思想を持っていましたが、イエス・キリストを中心として、一つの共同体を成したのです。このように神の国は、様々な人々が、イエス・キリストを中心とし、互いに愛し合い、大事に守り合う愛と和合の国です。イエスがこれらの各界各層の人々を集め、弟子として、教えられたのは、神の国が、ただ理想の国ではなく、既にこの地上で成されたことを示すためでした。主の共同体は、このような神の国の一部でした。しかし、イエスが亡くなる前、これらの愛と和合の共同体にヒビが入る出来事が生じました。ユダがイエスを裏切ったこと、ペテロがイエスを否認したこと、弟子たちが主を放って置いて逃げたことなど、色んな出来事がありました。これは主の共同体の崩壊のように見えたでしょう。すべての人の目に、イエス・キリストの王国は終わったと見えたでしょう。 しかし、主は命が尽きるまで、決してそのような愛と和合の共同体を諦められませんでした。『イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、婦人よ、御覧なさい。あなたの子ですと言われた。 』(26)私たちは、この言葉に接するとき、ふと、主が母親のために、最後の親孝行をなさるだろうと考えがちだと思います。しかし、これは単に母親への親孝行だけの意味ではないと思います。イエスには兄弟がいたからです。私はこれを、母親の親孝行や愛を超える信徒と信徒の和合の象徴であると解釈したいと思います。『それから弟子に言われた。見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。』イエスのこのような御命令に応じて、主の愛する弟子はイエスの母親を自分の母親のように仕えました。主は最後の命令として、和合を命じられて、息を引き取られました。 ですが、もし、このように信徒と信徒が、新たに和合したことだけで、イエスが完全に亡くなられたら、これは、ただ美しい悲劇に過ぎなかったと思います。しかし、主がこのように母親を愛する弟子に任せられた理由は、少し後で、復活され、聖霊を通して母親とも、弟子とも、共におられると約束されたからです。主は亡くなられました。しかし、主の復活は決まっています。主は弟子に母を任せることによって、家族のような共同体、和合する共同体、愛の共同体を夢見ておられたのです。そして、その夢は、主が復活されることによって、必ず成し遂げられることでしょう。十字架は和合の象徴です。イエス・キリストを頭と信じ、聞き従う教会は、主の愛の中で永遠に一つになるでしょう。私は今日、この主の和合の御命令が、志免教会でも守られることを望みます。私たちは、皆住む所も、出身も、事情も異なりますが、イエス・キリストの十字架を通して一つになりました。これからも、愛し合い、助け合う和合の共同体になることを願います。 3.神の御心と信徒の救いを成し遂げる成就の十字架。 『この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、渇くと言われた。』(28)ここでの『成し遂げられる。』という言葉は、「借金を完全に返済する。」という意味をも持っています。罪人のために十字架につけられたイエスは、その十字架での死を通して罪人の罪を完全に償われました。罪を犯した人間に罪の報いとして、死の判決を下される方は神様です。だから、この罪の報いは必ず返さなければなりません。しかし、すでに罪を持っている人間は、その罪を完全に解決する力も、資格もありません。そのため、イエスは、罪のない神として、その判決を満足させるために、自ら人間になられました。そして、十字架での苦しみを通して人間が返さなければならない罪の報いを、ご自分を犠牲にして、償われました。つまり、裁判官が罪人の立場に代わりに行き、罪を完全に解決したということでしょう。これは死と、完全に反対側におられる神様が、自ら死を選ばれたという、絶対に有り得ない大きな出来事でした。 しかし、この『成し遂げられる。』という言葉には、さらに深い意味があります。イエスは十字架の苦難を通して何を成し遂げられたのでしょう?人間は苦難というイメージを考えるとき、『肉体と精神の痛み』を思い起こす傾向があると思います。しかし、神様が感じておられる苦難は、人間のそれとは異なります。三位一体なる神は父、子、聖霊という三つの位格でいらっしゃいます。この位格というのは人間からすれば、人格であると言えるでしょう。理論的には、三位一体なる神は、死を経験しない方です。しかし、御子イエス様は罪人を救うために、特別に死を選ばれました。これは三位一体なる神に大きな苦しみになりました。神は、罪とは全く関係のない方なのに、御子なる神様が直接、罪を担当されたからです。罪を担当した御子は、三位一体から切れる痛みを味わわなければなりませんでした。父なる神も、その罪の担当のために御子を捨てなければなりませんでした。これは人間が想像もできないほどの大きな神の苦難でした。 私たちは、聖書を通して、主が受けた肉体と精神の苦しみを覗き見ることが出来ます。しかし、我々が必ず知っておくべきことがあります。主の真の苦難は、神様が『イエスを罪人の代わりに死なせる。』とご計画なさった時から、始まったということです。すでに非常に長い間、主の死は決まっていました。大昔からあった御子の苦難の計画は三位一体においては、その存在自体が苦難でありました。主は十字架で、このような永遠に近い、神の苦難を完全に終わらせました。人間の罪によって、生じた神の永遠に近い苦しみが、十字架の上で完全に解決されたということです。主の十字架での死は、神のご計画を完全に成就した出来事です。そして、その計画に基づいて、人間に完全な救いを与える偉大な苦難でした。主は十字架の苦難と死を通して、神の御心を成し遂げ、人間の救いも完全に成就なさいました。このように主の十字架での苦難は、神においても人間においても、完全な成就を与えた、大きな恵みとなりました。 締め括り 十字架は、特別なものではありません。十字架は、お守りのようなものでもありません。十字架が私たちを救うとは言えません。救いはただイエス・キリストだけの事柄だからです。しかし、十字架には、私たちを救ってくださった神様の恵みが潜んでいます。私たちは、十字架を眺めるときに、イエス・キリストの苦難と愛が自然に思い起こされます。重要なことは、今でもこの十字架の恵みが、私たちの間に、まだ存在しているということです。この十字架の恵みは、主が再び来られる日まで、変わることなく永遠に続くでしょう。呪いの十字架をこのように祝福の十字架に変えてくださったイエス・キリストの愛と恵みを覚えていく一週間になりますように。主の苦難が私たちの喜びとなり、主の死が私たちの命になりました。主の恵みに溢れる一週間になることを祈ります。