人間をとる漁師。

エレミヤ書16章14-18節 (旧1207頁) マルコによる福音書1章14-20節(新61頁) 前置き 先々週、マルコ書の説教では、悔い改めについて話しました。悔い改めとは、神の国の民らしく生きようと決意するキリスト者が、必ず追求しなければならい、キリスト者の生き方であると話しました。単に一度、口先で自分の罪を悔み、それで神に赦されたと満足して済ませることではなく、イエス・キリストの御救いに感謝し、主の御言葉に、常に聞き従って生きていく生き方。罪人から正しい人に身分が変わった人としての、新たな生き方が、まさに悔い改めの生なのです。従って、聖書で語られる悔い改めの単語的な意味は、「立ち返る、Uターン」と解釈できると話しました。私たちは、キリストの救いによって、神を知らない罪人の身分から、神を知っている正しい人の身分に、新たにされた存在です。なので、我々は毎日、自分の生活の中での罪を告白し、神とキリストの御心にふさわしい存在として生きていくべく努める必要があります。そのような生活の中で再び躓き、罪を犯してしまうたびに、キリストの御名によって罪を告白して、絶えず省みて、神の御心にふさわしく生きていこうとするのが、まさに悔い改める者の生き方なのです。今日は、この悔い改めて生きる民として、私たちが弁える(わきまえる)べき心構えについて本文を通して、分かち合いたいと思います。 1.主の弟子になるということ。 今日の本文には、先々週の説教の本文であった3章14-15節をも加えました。なぜかというと、16-20節に登場する「イエスの弟子になる。」ということと、14-15節での「悔い改めて福音を信じる。」ということの間には密接な関係があるからです。 「イエスは、私について来なさい。人間をとる漁師にしようと言われた。 二人は、すぐに網を捨てて従った。」(17-18)ここで人間をとる漁師という言葉は、後で説明することにして、まずはイエスの召しと、それに応じた弟子たちについて話してみたいと思います。洗礼と試練を受け、福音を宣べ伝え始められたイエスは、すぐにガリラヤで弟子たちをお集めになりました。最初に召された弟子たちはペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの4人の漁師でした。当時の漁師は、貧困層から中産層まで、幅広い階層がいたそうです。聖書によると、ペトロとアンデレは、そんなに豊かではなかったようです。しかし、ヨハネとヤコブの家は雇い人たちを使うほど、経済的な余裕があったと思われます。イエス様は、家柄の貧富の隔たりを問わず、公平に弟子たちを、お召しになりました。主は今日も人の貧富や容姿で人を差別なさる方ではありません。主は誰でも、主に聞き従おうとする者らを弟子にしてくださいます。 ところで、4人の弟子たちには、共通点がありました。それは「諦めて従った。」ということです。 「すぐに網を捨てて従った。」(18)「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(20)新共同訳聖書には、ペトロとアンデレは「網を捨てて」、ヨハネとヤコブは「父を残して」と翻訳されていますが、ギリシャ語原文では「捨てる。残す。諦める。」等の意味を持つ単語「アピエミ」と記されています。主の弟子たちは、それぞれ自分の財産と家族を諦めて、主に付き従ったわけです。ところで、少し気になる部分があります。主に従うためには、すぐに自分の財産、仕事、家族、日常を諦めなければならないという意味なのかということです。私たちは僧侶でもなく、社会と完全に断ち切られて生きていく身でもないのに、どうやって財産、仕事、家族、日常を諦めて、主に従わなければならないというのでしょうか。主に従うために、すべてを諦めれば、今後の生活費は誰が稼ぎ、家族は誰が面倒を見、仕事をやめたとき、その損害はどのように補償されるというのでしょうか? 従って、ここでは文字どおり、「すべてのことを諦めなければならない。」と解釈するより、先にお話しました悔い改めの概念と繋げて理解する方が正しいことではないかと思います。今までの罪人としての生き方を諦めて、主の民に相応しい生き方を選ぶこと、主の召しに応じて、主が望んでおられる、正しい生き方を目指して生きていくこと、先ほど、悔い改めとは何かについて分かち合ったように、罪人としての生き方から立ち返るということが、この本文を通して、私たちが教えられる教訓ではないかと思います。もちろん、特定の状況下では、自分のことを諦め、無条件に主に従わなければならない場合もあるでしょう。(牧師への召しなど)しかし、日常を生きていく私たちの立場では「諦めて従う。」という意味について、過去の罪に満ちた生き方を悔い改めて、立ち返って主が望んでおられる生き方、悔い改めて主に聞き従う生き方をしていくという解釈の方が、より合っているでしょう。現代を生きる私たちが、主の弟子になるということは、そのような意味なのです。日常を、家族を、仕事を諦める必要はありません。それは主が願っておられるところではありません。ただし、私たちが罪に対して抵抗し、キリストに従って正しく生きようとすることが、私たちに求められる生き方なのです。 2.人間をとる漁師とは? 主は弟子たちを召されるとき、特異な表現を使用されました。それは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(17)でした。これを、あえて文字どおりに解釈すれば、「自分らの豊かさだけを考えてお金を稼ぐために、魚をとっていた、あなたがた漁師たちを、今後、人を救う伝道の働き人として使おう。」と解釈することが出来るでしょう。しかし、もっと深く、漁師という表現について考えてみたいと思います。旧約聖書で漁師や釣りなどの表現は、そんなに肯定的な表現ではありませんでした。今日の旧約本文を読んでみましょう。 「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。」(エレミヤ16:16)この言葉は神様が、過去、旧約時代に神様に絶えず不従順で通したあげく、バビロンに連行されてしまったイスラエルの民を救ってくださると約束なさった後、イスラエルの民に警告なさる場面です。わかりやすく言い換えると、「私は君らの救いを約束する。しかし、イスラエルに帰って過去のように罪を犯す場合、私は漁師に釣られる魚のように、狩人に狩られる獣のように、君たちを裁く。」という意味です。ここで、漁師は、裁きの表現として用いられました。 エゼキエル書には、このような表現もあります。「わたしはお前の顎に鉤をかけ、鱗にナイル川の魚をつけさせ、ナイル川の真ん中から引き上げる。お前のうろこについた川のすべての魚と共に。わたしはお前を荒れ野に捨てる。ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで、引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥にお前を食物として与える。」(エゼキエル29:4-5)ここでは、漁師という表現はありませんが、邪悪なエジプト帝国を裁く媒介として漁師を思わせる表現が登場します。つまり、旧約聖書で漁師という言葉が持っていた意味は、神様の恐ろしい裁きと刑罰を意味する場合が多いのです。そういうわけで イエスの当時のイスラエル人たちにも、漁師という表現が持っているニュアンスは救いや伝道のイメージとは、異なって入ってきたかも知れません。ならば、主は弟子たちを用いて世を御裁きになるという意味で、これらの言葉をくださったのでしょうか?そうではないと思います。主イエスは、裁くためではなく、救うために、この地に来られたメシヤでいらっしゃるからです。主は、単純に御裁きの働き手とするために、弟子たちをお召しになったわけではないでしょう。 チャールズ・スミスという学者は、今日の本文をこう解釈しました。 「主が人間をとる漁師として弟子たちを召された理由は、単純に伝道だけのためではなく、差し迫った終末と裁きを宣言するためである。」今日の本文に対しては、いくつかの解釈がありますが、私はこれが割と適切な解釈ではないかと思います。私たちは、時には「人間をとる漁師」という語句を、漠然と伝道と関連付けて考えることがあります。私たちが伝道をしようとする理由は何でしょうか? 「人々がイエス様を信じて救われるように導かなければならないから。志免教会の将来のためにも、人々が増えるべきであるから。」など、いくつかの理由があるでしょう。もちろん、これらの理由も本当に大事だと思います。しかし、それと同じように重要なことは、主の弟子となり、人間をとる漁師に召されたならば、過去の旧約聖書が警告していた漁師のイメージのように、いつか主によってもたらされる終末と裁きをも人々に教える義務があるということではないでしょうか?クリスマスにイエスが来られた理由は、世の罪人を救うためでした。しかし、再び来られる再臨のイエスは、救いのイエスではなく、裁きのイエスです。私たちは、このような恐ろしい裁きがあることを知っている群れです。したがって、主の弟子、人間をとる漁師に召された私たちは、主の裁きを警告する見張り番としての役割をも持っていることを忘れてはならないでしょう。私たちは愛の主を伝えることと共に、裁きの主も伝えるべき使命を持っています。 締め括り 悔い改める者=主の弟子=人間をとる漁師。 私たちは、今日の言葉を通して、主の弟子になるというのは、悔い改めのある生を生きることと共に、神の裁きを警告する見張り番としての役割を果す者となることでもあると学びました。イエスを信じるということは、「イエスを信じて、祝福を受けて幸せに生きる。」ということだけの意味ではありません。もちろん救われた者たちは、そのような祝福の中に生きるようになるでしょう。しかし、使徒パウロは次のように語りました。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:10)真に救われた者なら、公に主を言い表すべきであるということでしょう。それには主の救いと裁きの御言葉も含まれていると思います。弟子としての人生とは、一生の間、罪の道から立ち返る悔い改めの生であり、罪の道に残っている人々に、救いと裁きの福音を宣べ伝える生なのです。私たちは、悔い改めの生を生きているでしょうか?私たちは、主の弟子として救いの福音を宣べ伝えて生きているでしょうか?私たちは、人間をとる漁師として、差し迫った神の恐ろしい裁きを人々に伝えているでしょうか?今日の言葉を通して、私たち自身の生活を振り返ることが出来ると思います。主の弟子、悔い改める者、人間をとる漁師としての人生になっているか、もう一度省みて、主に喜ばれる私達になりますように願います。

断ち切れない罪の性質。

創世記9章18-29節(旧12頁) ヨハネの黙示録1章4-6節(新452頁) 前置き 神の被造世界は、人間の罪のゆえに汚されました。神は創造を通して、神に礼拝する世界をお造りになりましたが、むしろ、被造物を神に導き、礼拝させるべき人間のために、世界は堕落してしまったのです。神は人間に自由な意志をくださり、自発的な礼拝を受けることを望んでおられましたが、人間は、むしろ自由な意志を用いて、神に逆らったのです。しかし、その後も、神は長い間、人間の悔い改めを待って来られました。しかし、結局、人間は変わらず、神に背く、罪にまみれた存在になる一方でした。神はそれに対する裁きとして、洪水を下されたのです。それでも、神はノアという正しい人のゆえに、裁きの後に新しい世界を許してくださいました。世界は裁かれましたが、正しい人ノアのゆえに新しく始まったのです。しかし、残念なことに世界は再び罪の道に進むようになってしまいました。正しい人ノアの家族から再び罪が生まれ、世界はまた、罪の蔓延るところになってしまいました。世の中が、新たに変わっても、罪は断ち切れられませんでした。今日は、このようなしつこい罪の性質を取り上げ、罪への警戒心を持つ時間になることを願います。 1.カナンの父、ハム。 ノアには3人の息子がいました。彼らはセム、ハム、ヤフェトでした。一部の学者たちは、それぞれ、「セムは東洋人、ハムはアフリカ人、ヤフェトはヨーロッパ人の祖先である」という主張をしましたが、現代では、全く根拠のない主張であると受けとめられています。このような主張が出てきた理由は、ハムが神の呪いを受けたため、ハムの子孫であるアフリカ人が、他の人種に支配を受けるものだという、植民地主義史観に立った聖書解釈のためではないかと思います。しかし、神はすべての人間を平等に愛しておられますので、このような解釈は、聖書全体の文脈とは、合致しません。それでも、今日の本文に、ハムは呪われたという言葉が登場するのは、紛れのない事実なのです。罪が消えた新世界で、なぜ、ハムは神の呪いを受けるようになったのでしょうか?ハムが呪いを受けるようになった理由は、後に登場する、イスラエル民族のカナンへの抵抗を予告する伏線としての意味を持つからです。なぜなら、ハムはカナンの父だったからです。創世記は、モーセ五書の最初の書で、モーセが神様に直接与えていただいた啓示として知られています。ある人は、モーセが直接記録したと、またある人は、モーセの言い伝えを、後世の人が、まとめて記録したと主張しています。いずれにせよ、創世記にモーセの影響が深く染み込んでいるということは明らかです。その意味は、つまり、誰が記録したにしても、創世記の内容自体は、モーセと同じ時代に生きていた人々のための、モーセの教えだった可能性が高いということです。 そういうわけで、私たちは、この創世記を単に礼拝のための経典であるという視点から考えるだけではなく、モーセの時代の人々が直面していた社会的な状況での行動規範としても、読む必要があります。当時、もうすぐカナンに入る状況、あるいは、カナンで生活していた状況で、カナン先住民の偶像崇拝と望ましくない宗教行為は、イスラエル人に良くない宗教性を及ぼす可能性がありました。神の御言葉は、邪悪な行為の禁止、神と隣人への愛のように、多少、守りにくい律法である反面、カナンの宗教は豊作のための宗教儀式として、男女の乱れた肉体関係を勧めるなど、神の御前で罪であることも、罪であると見なさない、快楽の宗教だったからです。おそらく、モーセは創世記を通して、そのようなカナン人の罪の性質が、その祖先であるハムに由来したものであるという警告を与え、彼らに同化せず、抵抗することを警告するために、カナンの祖先、ハムの罪を強調しようとしたのかもしれません。つまり、今日の言葉は、乳と蜜の流れるカナンの地で、カナン人と同化せず、むしろ抵抗して生きて行かなければならないイスラエルの民に、抵抗の正当性と使命感を促すための一種の説明書だと言えるでしょう。神に呪われたハムが持っていた罪の性質から抜け出し、そのハムの子孫であるカナンとは異なる区別された民族、すなわち、聖なる民族として生きていきなさいという、神の御命令だったということです。ハムが呪いを受けた理由については、このような視点から迫る必要があると思います。 2.ハムに残されている罪の性質。  「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって…わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。…これらを造ったことを後悔する。」(創世記6:5-7)創世記6章には、神が地上に洪水という裁きを下された理由が記されています。心に悪いことばかりを思い計る人間の姿を御覧になり、この世から罪を拭い去るために、人間と全ての被造物に裁きを下されたわけです。しかし、わたしたちは洪水の裁きの後も、依然として人間に罪が残っていることを、聖書を通して確かめることが出来、また、わたしたちの生活の中でも、そう感じます。なぜ、神が洪水でお裁きになり、新たな始まりを許されたにもかかわらず、世の中に、依然として罪と悪が残っているのでしょうか?それは、まさにノアの息子ハムから、再び罪が生まれたからです。 「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創9:20-22) 神の祝福によって、ノアは農業を始めました。 「今、お前は呪われる者となった。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。」(創世記4:11-12)弟アベルを無惨に殺したカインの罪ために、神は地の呪いを下されましたが、洪水の裁きの後、再び世界を祝福し、新たなる機会を与えてくださいました。ノアはそのような神の加護の下で農業を始め、豊作になりました。おそらくノアは嬉しい気持ちで自分の作物で造ったぶどう酒を飲み、酔って裸になっていたかも知れません。聖書は、ノアが酒に酔ったことと、裸になっていたことについて、一切の肯定的な、あるいは否定的な評価もしていません。ノアが飲みすぎた部分については、私たちにも注意する必要があるでしょうが、今日の本文の主題は、ノアの飲みすぎとは、あまり関係がありません。それでも、あえて意味を与えようとすると、健康に生き、しくじらないためにも、過度の飲酒は控える必要があるということでしょう。それでは、この物語で本当に問題となる部分は何でしょうか?まさにハムがやってはいけないことを犯したということです。 (今日の本文は学者によって、色んな解釈があるため、参考にだけしていただきたいと思います。) 今日の本文の「ノアが…酔い…裸になっていた。」という言葉は、創世記3章に出てくる「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った。」での裸とは異なる表現を使っています。後者は文字通りに裸を意味する反面(エロム)、前者は正しくない淫らな行為と関係があるものです(むき出す・ガラ)。ノアが裸であったという言葉に用いられたヘブライ語の表現を、他の聖書で探してみると、レビ記で20回登場していますが、まさに「誰かを犯して、辱めてはならない」という表現で親族との肉体関係、すなわち近親相姦を禁止する命令で使われています。「ノアが裸になっていた。」という表現には、ノアが妻と肉体関係を持っていたとの意味をも含まれているそうです。ノアが彼の妻と関係するということは自然な行為で、神様に許された、言わば摂理なのです。また、夫婦関係は他人によって侵害されてはならない大切なものです。なのに、ハムは、酒に酔った親のしくじりを見逃さず、その行為を見てしまいました。ここで「見る」というヘブライ語は、創世記3章でエバが善悪の木の実を貪った時、「その木をみると」に使われた表現で、正しくない欲望を含む表現です。つまり、ハムは親の行為を自分の意志で淫らに見たということです。ここから、いくつかの他の解釈も発生します。父の恥部を嘲弄すること、あるいは、母との望ましくない関係を犯すこと等です。つまり、ハムの心に決して、やってはならない淫らな心があったということが、今日の本文の問題点なのです。 3.罪は断ち切れない。 ハムには、淫らな罪の性質がありました。これは、単に性的な放蕩だけを意味するものではありません。旧約では、偶像崇拝について、「淫らに不倫を犯すこと」とよく表現します。ハムが犯した親への悪どい心も、とんでもない大きい犯罪ですが、その淫らな心の中に、また神を離れて、自分の欲望を追求しようとする不穏な思想が隠れていることは、さらに大きな問題なのです。結局、目に見えるハムの罪は淫らな思いを持っていたことですが、目に見えない、さらに大きいハムの罪は偶像崇拝の種を持っていたということです。神が洪水の裁きを通して、新たにしてくださった世界で、正しい人と言われたノアの、その息子によって、再び罪の性質が芽生えはじめました。ハムはカインで象徴される当時の罪人の血統ではなかったのに、結局、正しい人の血統からも罪が生まれたわけです。ここで私たちは罪の性質というのが、人の血統や家柄を通して受け継がれるものではなく、当初から人そのものに潜んでいるということが分かります。このように罪は断ち切れず、しつこく残るものです。ですので、私たちは、イエス・キリストの救いに感謝するとともに、毎日、自分の生活を顧み、自分の中から湧き出る罪の性質を制御するために、絶えず自分のことを弁えるべきです。 先週一週間の自分の生活を省みてみましょう。私たちは、どのような罪を犯してきたのでしょう?砂利も、大岩も、本質は石です。サイズに関わらず、結局、水に沈むものです。罪も同じです。罪は大きさを問わず、それを持っている人を罪人にします。嘘吐きと人殺しへの社会的な非難は異なりますが、神の御前では同じ「罪」なのです。十戒で「殺してはならない。」という戒めに先立ち、「親を敬いなさい」という戒めがあることに注目してください。神の御前では殺人も罪になりますが、親を憎むことも罪になります。同様に、偽り、結婚関係以外の淫らな行為、盗み、隣人を憎むこと、すべてが神の御前では罪になります。残念ながら、私たちも生きていく間、凶悪犯罪は犯さないかも知れませんが、小さい罪は犯したりします。しかし、神様にとっては、その小さい罪も、同じ罪です。したがって、私たちは依然として残っている罪の性質に対して、常に警戒心を持って生きるべきでしょう。私たちの中には、まだ罪が残っているからです。イエスは私たちの罪を赦してくださいましたが、まだ私たちの中の罪の性質を残して置かれました。私たちの罪は、自分が死んで、神に召される時まで、常に私たちについて来るはずです。したがって、常に罪に対して注意し、我らの罪を代わりに背負ってくださったイエス様の恵みに頼って生きていくべきです。 締め括り 「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」(黙示録1:5-6)私たちに罪が残っているにも関わらず、私たちに希望がある理由は、神様が罪に影響を受けない、完全な救い主を立ててくださったからです。正しい人と呼ばれていたノアからは、ハムという罪人が出てしまいましたが、正しい人イエス・キリストからは罪から解放された聖徒たちが出てきます。ノアの息子ハムも、我々キリスト者も罪から完全に自由になったわけではありませんが、少なくとも私たちには罪から完全に自由になっておられ、我々を罪から解放してくださるイエス・キリストがいらっしゃいます。従って、断ち切れない罪に絶望しないで、イエス・キリストを信じて進んでいきましょう。神の恵みが志免教会に豊かにありますように。

悔い改めとは。

エレミヤ書3章22節 (旧1179頁) マルコによる福音書1章14-15 節 (新61頁) 前置き マルコによる福音書は、イエスを信じているという理由だけで、ローマ帝国の迫害を受けて絶望していた、当時のキリスト者に、神は変わらない方でおられ、その独り子イエスも、これまで通り信徒たちと一緒におられるという希望のメッセージとして記録された書です。そのため、マルコによる福音書は一切の美辞麗句をそぎ落とし、最も重要な神の愛とキリストの福音について、力強く証ししています。マルコによる福音書の冒頭では、イエス様が、ご自分の民キリスト者と共にいてくださるために、メシアでいらっしゃるにも拘わらず、罪人が受けるべき洗礼と試練とを御受けになることによって、信じる者と一緒におられることを語りました。イエスは今日もまた、主の体なる教会と共におられ、教会の試練と苦しみを同じように体験しておられます。私たちは、マルコによる福音書の言葉を通して、ともにおられるイエスの御心を感じることが出来ます。このような愛と恵みの主を覚え、変わることなく、生ける主を仰ぎ見て、生きていきましょう。今日は、イエスを信じる者に促された福音と神の国、そして、悔い改めについて話してみたいと思います。 1.福音 – ユーアンゲリオン 皆さん、オリンピックといえば、どの競技を最初に思い浮べられますか?いくつかの種目があるでしょうが、私はオリンピックの花と​​呼ばれるマラソンが一番に初めに思い起こされます。マラソンという言葉は、地名に由来したもので、ギリシャの首都アテネから40キロメートルくらい、離れている人口9000人ほどの小さな町の名前です。約2500年前、アテネを侵攻したペルシャ帝国はマラソン市の周辺の野原でアテネの兵士たちと戦いました。アテネから11000人、ペルシャから15000人の大規模な戦でした。アテネは勝利に向かって真剣に戦いました。アテネの市民も心から勝利を願っていたはずでしょう。その願いが聞き届けられたのか、最終的には数的劣勢にも拘わらず、アテネ軍がペルシャ軍に大勝利を収めました。勝報を伝えるメッセンジャーはアテネの勝利を伝えるために、喜びをもってアテネに走り出しました。彼は一度も休まず、40キロメートルも離れているアテネにひた走りしました。結局、彼はアテネに到着して勝利のニュースを伝えて、倒れ息を引き取ったそうです。これに由来した陸上競技が、まさにマラソンなのです。マラソン競技では、そのメッセンジャーを記念して、メッセンジャーが走り抜いた距離と推定される42.195 キロメートルをマラソンの正式距離と定めています。 ここで息を引き取ったメッセンジャーが持って行った勝報のことをユーアンゲリオンと呼んだそうです。あまりにも良いニュース、言わば福音なのです。私たちが福音と呼んでいる言葉のギリシャ語が、まさに、このユーアンゲリオンです。福音はつまり、勝利のニュースなのです。このユーアンゲリオンという概念は、時間が経って、ローマ帝国の時代になっても、相変わらず続いていました。なので、ユーアンゲリオンは、帝国の勝報や、皇帝の勅令などを意味する言葉でした。この地上は、力の原理で支配される世界です。古代エジプト帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、近代のイギリス帝国、旧日本帝国、現代のアメリカや中国のように、世界は力の原理に基づいて、弱い者は苦しみを受け、強い者は威張って生きる、理不尽な世界です。過去から、これらの地上の原理は、一度も変わったことがなく、世界を支配する原理だったわけです。支配者たちは、自分らの勝利を良いニュースと呼んで、弱い者の屈従を当たり前に思っていたのです。強い者のために、弱い者たちが犠牲になっても、彼らには何の問題にもなりませんでした。どうせ、彼らにとって世界は強い者のための舞台だったからです。果たして、そのような強い者の福音が、弱い者にも同じく福音だったのでしょうか?強い者のユーアンゲリオンが、弱い者にも同様に適用されたのでしょうか? 2.イエスのユーアンゲリオン。 今日の本文で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ユーアンゲリオン、つまり福音という言葉が強い者であったローマ皇帝により、強い者のための概念として用いられていた時に、イエス様も福音という言葉を言い出されたわけです。それは、イエス様も世間の強い者らのような帝国主義者だったからでしょうか?そうではないでしょう。イエスは「神の国」の予告として福音を仰ったのです。強い者が弱い者を踏みにじる、帝国のための福音ではなく、天地万物を創造なさり、愛を持って、世界を治めておられる神の福音なのです。 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者です。洗礼者ヨハネが捕らえられて殺されたというのは、旧約時代が終わり、新しいイエスの時代が臨んだとの意味です。神は過去からの権力と暴力が支配していた時代に終焉を告げられ、神が手ずから治められる神の国を予告させ、その神の国の支配をイエスにお任せになるために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。イエス様が告げ知らせた福音とは、神の民らを暴力にまみれた、この世の支配から脱出させて、愛と恵みの神の国にお移しになる、神の支配の宣言だったのです。 アダムの息子カインが、神を離れて最初にしたのは、自分を守るための城を築くことでした。以来、彼の子孫は、自分のために他国を苦しめる残酷な古代の王たちになりました。彼らは自分自身のために、他人を踏みつけ、殺しました。帝国主義は、そのような暴力に基づく支配方式です。しかし、イエスは他人のために、自らを犠牲になさり、彼らを御自分の民とさせ、愛してくださいました。イエス様が支配なさる、神の国とは、そのような所です。力の原理ではなく、愛の原理で統治される所なのです。弱い者が守られ、強い者が仕える国です。なので、神の国で最も献身的に民に仕える方は、王であられる神、すなわち、イエス・キリストなのです。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」イエス様が初めて福音を宣べ伝えたところは、聖なる都であるエルサレムでも、帝国の首都ローマでもなく、差別と憎しみに傷付いていたガリラヤでした。主はガリラヤのナザレで育ち、いつもガリラヤ地域を中心として御働きになり、そこで弱い人々に御仕えになりました。主イエスは、愛と恵みに満ちた神の国を建てるために、みずから低いところに臨まれました。そして、主御自分の血潮で、弱い者のための愛の国、神の国を成し遂げられました。そのような主が、御自分の民を、直接治められるのが、福音が持つ真の意味なのです。したがって、福音は、弱い者(自分の罪を悟り、悔い改める罪人)がイエスを通して神の愛の中に入り込むことを意味するものです。 3.神の国の民の在り方? – 悔い改め ところで、イエス様は、このような神の国と、その福音を享受するためには、必ず行うべきことがあると言われています。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」イエスが公生涯に踏み出された時、すでに神の国は近づいてきていました。イエスの到来自体が神の国の到来を知らせる出発点だったからです。そして、キリストの十字架上での犠牲と復活を通して、神の国は、さらに完全に打ち立てられました。だから、イエス・キリストを信じる私たちは、すでに神の国に生きている存在です。神の国の王でいらっしゃるイエス様が、私たちと一緒におられ、私たちも主の支配の中で生きているからです。ここで、私たちは神の国という概念が場所というよりは、神の支配そのものであることが分かります。神の国を既に生きている存在として、私たちは、どのような生き方を貫くべきでしょうか?それは正に「悔い改めて福音を信じる。」ことです。福音を信じるということは、神が弱い者を召され、罪人を赦され、神の愛の中で、神の国の民として生きさせてくださることを信じるという意味ですので、そんなに説明が難しくありません。ならば、悔い改めとは何でしょうか?皆さんは悔い改めを、如何に理解しておられるでしょうか?過去の罪を悔み、自分のことを改善することを意味するのでしょうか? 過去の罪を悔い、自分のことを改めるという意味も、悔い改めの一部であることは、紛れもない事実です。しかし、悔い改めとは、単純に悔みだけに止まる(とどまる)レベルとしての概念ではありません。今日の説教の初めにマラソンの戦いの話をしました。また、ユーアンゲリオン、すなわち福音は、その戦いで勝利を勝ち取った時の勝報を意味する表現であると申し上げました。聖書に記されている悔い改めには、戦闘に勝利した凱旋将軍が、敵の捕囚となっていた人々を救い、解放させて、故郷に戻らせるという意味が含まれています。捕囚だった者が、凱旋将軍によって、自由人となり、その身分が変わったというのが、悔い改めの具体的なイメージであると言えるでしょう。つまり、イエスが十字架で罪に勝ち抜き、罪の影響下にあった罪人を神の国の民とならせたということから、悔い改めの基本的な概念が始まるのです。したがって、悔い改めは、キリストの勝利に基づくものです。主の勝利によって、御自分の民を過去の罪の生き方から立ち帰らせ、神の民としての生き方を追い求めさせるという意味です。過去の罪にまみれ、神を知らない人生から逃れ、絶えず凱旋将軍イエスに倣って、神に向かってUターンするということを意味します。もうこれ以上、罪の捕囚として、身勝手に生きるのではなく、神の側に立って、キリストの御心に服従して神を追求して生きるということです。だから、悔い改めとは、絶え間なくイエスに倣っていく、我らの心構えなのです。つまり、悔い改めは主イエスに解放された罪人が、全生涯を通して、諦めずイエスに付き従う生き方そのものなのです。 多くのキリスト者は回心し、決断して、イエスを信じるようになったら、二度と罪を犯さないようになると漠然と考えたりします。それは、回心直後の何日かの間は可能であるかも知れませんが、結局、人間の罪の性質は、再び現れます。その時、キリスト者は、自分自身に失望したりします。実際に罪の性質から完全に自由になるのは、不可能だと言っても過言ではないでしょう。そのため、正しい信仰を持つキリスト者は、自分に残っている罪のために、常に悩みます。そのたびに、本当に回心をしたのか、自分のことを疑います。しかし、このような悩みは極めて自然で、望ましい悩みです。むしろ、何も心配せず、自分の過ちも分からない人の方が問題です。なぜ、主はキリスト者に過去の罪の性質を残され、悔い改めさせるのでしょうか?これは絶え間ない悔い改めを介して、私たちを主イエスと共に生きさせ、日々新たになるようにするためです。キリストの恵みによって、最初に悔い改めた私たちは、その後も絶え間ない悔い改めを通して少しずつ、正しく変わっていきます。神の召しを受けて、この世から去る時まで、我々は悔い改め続けて、変わっていくということです。神学ではそれを聖化と言います。過去の生き方から何度も何度も立ち返って、神の民らしく生き、引き続き、自分の人生を神に向けさせること、それが、まさに悔い改めなのです。したがって、悔い改めとは神の国を生きるための、キリスト者の呼吸のようなものです。常に呼吸して生きるように、常に悔い改めて生きるということです。それが、キリスト者の悔い改めが持つ本義なのです。 締め括り 私たちは、キリストの御名によって神の民となったキリスト者です。しかし、私たちに残っている罪のため、残念なことに一気に完全に聖化されることはありませんでした。そのために必要なものが悔い改めなのです。私たちは、依然として罪に対して弱い姿で生きていきます。しかし、常に悔い改めることにより、私たち自身を神に捧げるときに、キリストは主の聖霊を通して、私たちを守り、導いてくださるのです。 「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」(エレミヤ3:22)主は旧約時代から堕落した民をお招きになる方でした。そして、我々はキリストを通して、神の国を生きる民となりました。主が私たちに悔い改めをお促しになり、悔い改めにお導きくださるからです。したがって、もし、罪を犯したと気づいたら、ありのままに罪を認め、神に助けを求めましょう。まるで、呼吸をするかのように、どんなに小さな罪でも、へりくだって絶えず悔い改めて生きていきましょう。神がキリストの御名を通して私たちを赦してくださり、神の国の民として受け入れてくださるでしょう。神の国を生きる民として悔い改め、毎日、神の御前で新たになる志免教会になることを祈り願います。

洪水Ⅲ‐ 永遠の虹の契約。

創世記9章1‐17節 (旧11頁)テモテへの手紙Ⅰ2章4節(新385頁) 前置き 創世記で、イスラエルの先祖、アブラハムが登場する箇所まで、最も多くの部分を占める物語は、断然、ノアの箱舟と洪水の裁きに関する話だと思います。アダムの堕落後、その10代目のノアが登場するまで、長い時間をかけて、神は人間の罪と悪を忍耐なさり、人間に悔い改めを要求してこられました。しかし、義人は極めて少数であり、殆どの人間は罪に罪を重ねて、神から離れるばかりでした。結局、神は、そのような罪にまみれた人間をお造りになったことに、御心を痛められ、結局、裁きをくだされましたが、まさにそれが洪水だったのです。神が真心を込められて、創造なさった世界が裁かれるということなので、洪水の物語は、決して軽視すべき話ではありません。人間の罪は、神が喜びをもって造られた、被造世界を打ちこわし、裁きに追いこむ、恐ろしい結果をもたらします。創世記6章から9章にわたって、長い紙面が割かれるほど、そして神の厳しい裁きをもたらすほどに、罪の結果は悲惨なものです。今日は人間の罪と神の裁きとしての洪水について話し、それにもかかわらず、正しい人を通して、新しい御業をお始めになった、神の愛と恵みについて、分かち合いたいと思います。 1.人間の罪の性質と箱舟の意味。 洪水については、前の2回の説教にわたって分かち合いました。少し時間が経ちましたので、記憶を辿るために再び話してみましょう。「地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(創世記6:1-2)洪水の物語は、神の御言葉から離れ、神を無視し、身勝手に振舞おうとした人間の罪から始まります。初めのアダムとエバは、神の御座を貪り、神のようになろうとしました。それは人間の堕落と呪いを招きました。しかも、長い歳月が経っても、人間のそのような罪の性質は、全く変わりませんでした。神の御言葉とは関係なく、自分の意志にこだわり、神の御命令よりも、自分の考えを優先しました。ノアの当時の人々の罪の性質は、依然として変わらず、世の中に蔓延っていたのです。神は彼らが悔い改め、神に帰ってくることを、長い間、忍耐されつつ、待って来られましたが、人間は日増しにあくどい罪を犯していったのです。神は長く忍耐なさる方でしたが、その忍耐は永遠ではありませんでした。結局、神は人間を造ったことを悔やみ、洪水で裁く計画を立てられたのです。しかし、そのような罪人の間にも、神を愛し、仕える正しい人がいました。その人はノアでした。 「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」ノアは、自分の考えではなく、神の御言葉に聞き従い、神と隣人を愛する正しい人でした。神は罪に満ちた世の中で、このような義人を愛し、探しておられる方です。世界のすべてのものが滅ぼされる状況でも、神は義人を生かそうとなさる方です。そのために作られたのが「ノアの箱舟」なのです。神は正しい人ノアを通して、ノアだけでなく、その家族と他の被造物をも、箱舟に乗り込ませ、救われる機会を与えてくださいました。つまり、1人の義人への救いが、他者にも救いの機会をもたらしたということです。一人の義人の存在と従順が、他者を生かす、大きな結果になったのです。私たちは、このノアと箱舟を通して、我々を救ってくださる主イエスと、箱舟のような教会の在り方についても学ぶことが出来ました。神の裁きは、人間の罪のために下されたものです。そして、義人は、その裁きの中で新しい希望を作り出しました。その希望は箱舟という名前で、多くの命を救い出しました。私たちの間におられるイエス様は、今日も教会という箱舟を用いて、救われるべき者を探しておられます。このように、私たちは、ノアと洪水と箱舟の話を通して、罪の恐ろしい結果と、真の義人キリストの救いを聞くことが出来ました。 2.御裁きになる神様。 かといって、裁きが取り消されるわけではありません。ノアによって多く存在が箱舟に乗り込み、救われたにも拘わらず、神の洪水の裁きは変わらず、やって来ました。神は御自分が与えてくださった箱舟という救いの機会を捕らえなかった、すべての存在に計画どおり、裁きを下されました。神はノアと、その家族、他の被造物を箱舟に乗り込ませ、手ずから箱舟の戸を閉ざされました。また、大いなる深淵の源をことごとく裂けさせ、天の窓を御開けになり、四十日四十夜、雨を降り続けさせられました。洪水の水位は山頂を上回る膨大な量で、罪にまみれていた世のすべての生命は、それによって最後を迎えることになったのです。生き残ったものは、ノアと箱舟に乗り込んでいた存在だけでした。 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」(創世記8:1)膨大な雨で全世界が裁かれた後、神は義人ノアと、彼によって生き残った命を御心に留め、彼らのために洪水をお止めになりました。箱舟はアララト山の上に止まりました。時間が流れ、洪水は徐々に減り、神は箱舟から生き残った命を再び世界に戻してくださいました。箱舟から降りたノアは、神に焼き尽くす献げ物をささげ、神はそれをお受け入れになりました。 神はこの世に救い主、イエスを送ってくださいました。イエスが来られてから、2000年以上の間、神は引き続き、救われるべき者を呼んでおられます。まるで、480歳で神の召しを受けて、120年の間に箱舟を作成しつつ、裁きを予告したノアのように、神は今日も御言葉を通して裁きを予告しておられます。しかし、そのような予告は永遠に与えられるものではありません。神はいつか、その予告を終わらせるはずであり、それからは、すべての存在は、恐ろしい裁きを受けるようになります。 「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。」(詩篇96:13)神の裁きは、御自分の御旨による結果です。義と真実の神様は、神に従った者と逆らった者を、確実にお分けになるに違いないのです。だから、私たち教会の使命は重いものです。ノアが自分の箱舟を通して、多くの命を救いに導いたように、キリストの体なる教会は、数が多くても、少なくても、神の救いを伝えて生きるべきです。キリストは救い主であり、神の御裁きが、明らかに来るということを、隣人に伝えて生きるべきです。それが伝道なのです。命の道を伝えることです。私たちの伝道は、ただ、神の救いと愛だけを伝えることではありません。明らかに近づいてくる、神の恐ろしい裁きをも、必ず伝えなければなりません。主の体なる教会は、そのような裁きを伝える、箱舟の使命を持っている存在なのです。 3.神と被造物の永遠の契約 – 虹 人間の罪で満ちていた世界は、神の裁きによって、新たになりました。神の裁きは、人からすれば滅びと終わりを意味するものですが、神と世界から見れば、新たなることと始まりを意味します。私たちは、過去、何回かの説教を通して、聖書で水が持つ意味について取り上げてきました。聖書で水は死を意味することと共に、清めを意味する2つの側面を持っていました。そのため、水をもって授ける洗礼は、罪への死と義への復活を、そして、罪を清めることを意味すると学びました。神の洪水は、罪人を滅ぼす、裁きとしての手立てでありますが、世を新たにさせる、清めの手立てでもあります。なので、洪水は、罪の裁きだけでなく、新天新地をもたらす神の強力な御業としての意味をも持っているのです。つまり、私たちは人間の視点から裁きを眺めるだけではなく、神の視点からも裁きを考える必要があるということです。洪水が終わった地上にノアの家族と被造物を送られた神は、こう言われました。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」(創世記9:1-2)神は、悪が消えて新たになった世界で、新しい始まりを許してくださり、義人ノアに、全ての被造物をお任せになりました。 神は、ノアに新世界をお委ねになり、また、このように言われました。 「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。…人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(9:4,6)ここで「血を含んだまま食べてはならない」という言葉は何を意味するのでしょうか?ちょっと、変な例かも知れませんが、ステーキを食べるとき、レアが好きな人はステーキの赤身から血が流れ出ることを知っています。神は血を含んだまま食べてはならないと仰いましたが、それでは、レアが好きな人は、神の御言葉に逆らう罪人なのでしょうか?もちろん、そうじゃないと思います。 「血を含んだまま食べてはならない」という言葉の意味は、他者の命を尊重し、愛しなさいという意味です。創世記が記された当時の中東の文化で、血は命を意味するものでした。 「焼き尽くす献げ物の場合は、肉も血もあなたの神、主の祭壇にささげる。その他のいけにえは血をあなたの神、主の祭壇の側面に注ぎ、肉は食べることができる。」(申命記12:27)旧約聖書には、「献げ物の血を祭壇の側面に注ぎなさい」という言葉が何度も記録されています。命の取扱いは神の権限であるため、神の権限である命を人間が勝手に扱ってはならないということを意味する言葉なのです。つまり、過去の罪人のように、身勝手に振舞わないで、神の御言葉を尊重し、神に従って生きなさいということです。 裁きが終わり、新たに始まった世界では、人が独断的に自分自身の意志で生きることではなく、神に従って歩み、神と隣人への愛を持って生きることを願われたのです。神はそのような、正しい生き方で、新しい世界を作っていくことをお望みになったのです。神はそのような罪から自由になった新しい世界を望まれながら、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」と、今回は全被造物に御命令なさいました。再びエデンのような条件を許してくださるかのように、人間と被造物に新しい機会を与えてくださったのです。そのような新時代の契約の証拠として、神は虹を与えてくださいました。それは、神と全被造物の新しい契約でした。その契約を通して、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」と約束なさいました。 「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:16)神と被造物の永遠の契約の証拠として虹を造られ、この虹を見て、神に聞き従い、神を最優先にして、生きて生きなさいと、被造物と新しい契約を結ばれたのです。このように、神の洪水の裁きは、ノアを初め、すべての被造物に、もう一度機会を与えてくださるという、神の御憐みと愛で終結しました。 締め括り 洪水の裁きについて語りながら、我々は、人間の罪の性質と、神の恐ろしい裁き、それでも義人を愛してくださる神の御心、裁きの中でもそれを逃れる道をくださる恵みについて学ぶことが出来ました。現在、地球の全人口は70億を上回ります。そして、その人類の歴史は、1万年も超えるほど長いのです。つまり、計り知れないほどの多くの人間が、この地上の生を経て行ったということです。そのすべての人間が罪によって、神を苦しめていたはずでしょう。しかし、その中でも、神は神に従う義人をお探しになっておられました。時には忍耐なさり、時には裁かれつつ、義人を待っておられたのです。恐ろしい洪水の中でも、一人の義人と彼による被造物を守ってくださった、神を見て、何としても人間と被造物を救おうとなさった神の愛が感じられます。多くの罪人の罪のために、御心を痛めながらも、一人の義人を通して喜ばれる神の愛を感じます。今日も神様はキリストを通して、救われるべき者を召しておられます。いつか、もう一度、洪水よりも恐ろしい火の裁きが、必ず臨むでしょう。その日がやってくる前に、神は、更に多くの者が救われることを望んでおられます。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)裁きの中で希望をくださり、御救いへと召してくださる神の愛を覚えつつ、その救いに属する者として、神の喜びとなる志免教会になることを祈り願います。

洗礼と試練を受けるイエス。-試練

申命記8章2‐3節 (旧294頁) マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き 先々週のマルコ書の説教では、メシア、イエスが、罪人の受けるべき洗礼を進んで受けられたとの話を分かち合いました。洗礼は罪人が水で洗われて、清くなるという意味を持つ儀式で、もっぱら罪人だけが受ける儀式だったのです。しかし、前の本文では、何の罪もないイエスが洗礼者ヨハネに、敢えて洗礼を受ける場面が出てきました。これは、イエスご自身には罪はありませんが、これから罪人の側にお立ちになり、彼らと一緒に歩み、救ってくださることを象徴することだとお話しました。つまり、主の洗礼はメシア、イエスが罪人の側に立つという崇高な愛の表現だったのです。洗礼は御言葉の説教、聖餐に加えて、改革教会の印を表す重要な儀式です。イエスはご自分を信じる者たちを教会に召され、教会の頭になってくださるために、自ら罪人の立場にお降りになり、洗礼を受け、進んで罪人の代表になってくださったのです。今日は、その洗礼に続く荒野でお受けになる試練について話してみたいと思います。神でいらっしゃるイエスは、なぜ、試練を受けなければならなかったのでしょうか?今日の言葉を通して、私たちを助けられ、愛され、導いてくださるイエスについて、そして、受けられた試練について分かち合いたいと思います。 1.試練 – 神の試み。 今日の本文に出てくる「誘惑を受けられた。」という言葉の原文は「フェイラゾ」というギリシャ語です。これは「試みる。試す。耐える。調べる。惑わす。鍛える。証する。」等、多くの意味を持っています。本文では、「イエスはサタンに誘惑を受けられた。」と出てきていますが、厳密に言うと、サタンがイエスを誘惑したわけではなく、神がサタンを用いられ、イエスにメシアとしての試みを課されたとの解釈が、より正しいと思います。したがって、今日の試練は、試みとも呼ぶことができるでしょう。私たちは試練について話す時、辛くて苦しい苦難などを思い浮かべがちですが、オックスフォード国語辞典では「実力・決心・信仰の程度をきびしくためすこと。また、その時の苦難。」だと書いてありました。つまり、神様から与えられる試練は、誰かを苦しめる刑罰ではなく、試練を許され、信仰を成長させる、養育の方法なのです。私たちは、自分が苦難に遭った時、「私は罪が多くので試練を受ける。」あるいは「神に見捨てられて試練を受ける。」などと心配したりする傾向があります。しかし、我々は、変わることの無い、イエス・キリストの血潮によって救われた存在なのです。ですから、私たちの試練は、神様が私たちを養ってくださるための、父親の養いだという心構えを持たなければなりません。神はキリストを通して、すでに私たちを受け入れ、愛してくださる方だからです。 しかし、聖書は試練のもう一つの側面を示してくれたりもします。 「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブの手紙1:13-14)歴史上、キリスト教が迫害を受けたことが少なからずありました。帝国主義により、共産主義により、試練を受け、数々の殉教者が出たりしました。そのような場合には、明らかに試練として迫害されたと言えるでしょう。しかし、時には教会が神の御言葉から離れ、独善的になり、世の塩と光にならず、嫌われる立場になって、人々の信頼を失った時もありました。恥ずかしいことですが、現代の韓国の教会がそうです。今、韓国の教会は、未信者に歓迎されているとは言えない状態です。いくつかの教会は、建物だけ大きく築く、その教会の有名な牧師が自分の子供に教会を受け継がせ、自分たちの利益のために信者を騙し、他者を蔑む、そのような自己中心的な姿によって、未信者の憎しみを買うようになったのです。 すべての教会が、そうであるわけではないでしょうが、権力と財力のある教会の中で、そんな場合がしばしば生じ、それによってプロテスタント教会全体が嫌われるようになったということです。しかし、そのいくつかの教会は愚かにも、そのような未信者の反応が自分たちを迫害しようとするサタンの仕業だと思って、自らを正当化しようとしたりしました。しかし、そのような迫害と憎しみは、サタンの仕業というより、教会が自ら招いた結果なのです。そのような場合の試練は、神から来るものではありません。ヤコブの手紙の言葉のように、神から離れた教​​会が自分の欲望のために、嫌われるようになったわけです。したがって、我々は、試練が神の訓練であるという心構えを持っている必要はあるでしょうが、まず自分の姿を弁えて、自らを振り返る姿勢を持つことが重要だと思います。私たちの試練が神から来る養いとしての試練なのか、それとも、教会の利己主義と間違いによる結果なのか、それら2つの側面に対する視点を持ち、はっきり自分のことを分別してみる必要があると思います。 2.イエスの受けた試練。 しかし、イエスの試練は、これら二つの側面とは別の意味を持っています。旧約のイスラエルは、神の御助けによって、エジプトの奴隷生活から解放され、荒野に脱出しました。彼らは神の言葉のように、すぐに乳と蜜の流れるカナンに入るだろうと期待していたでしょう。紅海を渡った後、彼らは明るい将来だけが繰り広げられるだろうと考えたのかもしれません。しかし、現実は違いました。食べ物も、水も足りなく、炎の蛇のような危険な生き物も多かったのです。神はわざわざ地中海沿いの近道ではなく、遠回りの長い道のりで、彼らを導かれました。 「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 」(申命記8:2)神は、彼らが、果たして神を追い求め、頼るかどうか、お試みになるために試練を与えられました。しかし、出エジプトしたイスラエルの民は、感謝より恨みで神を責めました。神の救いと同行よりも、目の前の飢えと不便さに目が向いていたわけです。 最終的に彼らは神の御救いさえ否定し、エジプトに帰ろうとしました。結局、神は40年間、彼らを彷徨わせました。しかし、神は彼らの試練の中で共におられる方でした。 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(8 :3)神は、ご自分を頼らず、むしろ恨んだイスラエルに試練を与えられました。その試練の中で最後まで一緒におられる神様について、悟らせるためでした。結局、神を恨み、信じなかった最初の世代は、40年を経て、ほとんど亡くなってしまいました。新しい世代だけがカナンに入るようになったのです。旧世代の中では、最後まで神を信頼していた何人かの人だけが、カナンに入ることが出来ました。神への不信仰で一貫していた世代は、カナン入りを許されず、新世代、すなわち神との同行の中で生まれた世代だけが乳と蜜の流れるカナンに入るようになったわけです。 イエスの試練は、これと関連があります。神の国を来たらせるイエスは、人々が自分らの罪によって昔の出エジプト時代の旧世代のように、神に完全に従えないということを知っておられました。マラキ以降400年の間、啓示が切れていた時代を生きてきながら、イエス当時の人々が望んでいたのは、共におられる神そのものというよりは、周辺国と権力者から自分らを救ってくださる神のその力でした。まるで出エジプト世代のように、神ではなく、神の力を用いて強い者からの解放だけを望んでいたことと同様です。しかし、イエスは御自分が、自ら罪人の代表となられ、神の力だけを求める民ではなく、神と共に歩む民にならせるように、人々の代わりに自ら試練を受けられました。そのため、神は人間の行為ではなく、このイエスの御功績により、イエスの名の下にいる者らを認め、赦してくださるのです。イエス様が御自分で試練を乗り越えたため、イエスを信じる者が失敗をしても、神はその人ではなく、その背後のイエスを見て、彼の罪をお赦しくださいます。イエスの試練は、信者に代わって受けられた試練です。そして主イエスは、その試練を、私たちのために乗り切ってくださいました。 3.罪人の代わりに試練を受けられたイエス。 イエスは神様でいらっしゃいますが、人間であるとを自任されました。なので、イエスにこの地上での神としての特権は全くありませんでした。女の体を通して、飼い葉桶で生まれ、財産も権力もないナザレの大工として育ちました。メシアにも拘わらず、洗礼者ヨハネに罪人が受けるべき洗礼を御受けになり、聖霊に送り出されて、荒野で試練を御受けになりました。誰が彼をメシアだと、神様だと思えたのでしょうか?主はお生まれになった瞬間から、神様としての全ての特権と力をしばらく止められて、すべてのことを、罪人の立場から臨まれました。「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」(マルコ1:12-13)つまり、イエスは罪人が受けるべき扱いを御受けになったのです。洗礼によって鳩のように臨まれた聖霊は、イエスに神としての力を許される前に、激しい試練に追い出しました。マタイは、イエスがお受けになった試練について詳しく説明しています。 試練については、マタイ書を通して詳細に探ってみたいと思います。まず、四十日間の断食の後、石をパンにしてみなさいとの、サタンの誘惑でした。そのサタンは、致命的な条件をつけました。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)サタンは、イエスの最も根本的なアイデンティティである「あなたが本当に神なら」という条件をつけたのです。しかし驚くべきことに、神であるイエスは、自らを否定なさり、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)という神の御言葉を引用して、退けられました。自分のアイデンティティと思いを投げ捨てて、ひとえに神の御言葉だけに従ったものです。そのあと神殿の屋根の端にイエスを連れて行ったサタンは、そこで、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言いました。その時は、サタンも神の言葉を持ちだして、イエスを誘惑しました。 「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」(マタイ4:6)しかし、主は神の御言葉を誤って用いるサタンに、神の御言葉を歪めることで神を試してはならないと叱られました。 最後に、サタンは非常に高い山にイエスを連れて行って、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、自分にひれ伏して拝むなら、財産、名誉、権力の全てをあげると誘惑しました。するとイエスは、自分の崇拝の対象は、唯一の神様だけだという最も根本的な真理をもってサタンを追い出されました。イエスは神を中心になさることで、サタンの誘惑を追い払われたのです。イエス御自身が神であり、世の所有者であり、権力の中心であり、比類できない栄光に満ちた方でいらっしゃるのに、そのすべてを否定して、ただ神様の御心に従うことを自ら御誓いになったのです。イエス・キリストは養われるための試練を受ける必要のない神であり、自分の欲望のために試練を受けるべき、弱い罪人でもありませんでした。イエスの試練は、自分の民を完全に立たせるための試練であり、そのすべての試練を乗り切ったイエスは、罪人を救う資格を持つに値する完全な方でした。だから、そのイエスを信じる者はキリストの名の下で完全な者と認められるようになります。これにより、イエス・キリストは完全な神であり、完全な人間であると神に認められるようになりました。イエスはこのように私たち、罪人のために試練を乗り越えた真のメシアとして公生涯をお始めになりました。 締め括り 今日、イエスがお受けになった誘惑、すなわち試練は、もともと、罪人が受けるべき試練でした。しかし、主は神でいらっしゃるにも拘わらず、自ら人間になり、罪人に代わって輝かしい勝利を収めてくださいました。ローマ帝国の迫害のため、苦しみと恐怖の中に生きていた初期キリスト者達に、イエスが既に勝利なさったという言葉は、恵みの雨のようなニュース、すなわち福音でした。マルコ書は迫害されるキリスト者に、すでに勝利なさったイエスが相変わらず共におられることを証した書です。これは現代の日本に住んでいる私たちにも適用されることです。私たちは、イエスを信じて、キリストの体なる教会として認められたというのは、かつてイエスが勝利なさった、その試練を私たちも勝利したということを意味します。主が受けられた試練は、私たちの試練でもあったからです。罪人ではないにも拘わらず、罪人の位置に立たれ、試練を受ける必要がないにも拘わらず、試練を受けられたイエスは、今日、私たちが希望を持って生きることが出来るように、すでに勝利してくださった方なのです。そのような私たちの主イエスを覚えつつ、常に感謝をもって生きていきましょう。私たちも、人生に迫ってくる試練をキリストの御名をもって勝利していくことを誓って行きましょう。来たる一週間、志免教会の皆さんに神の祝福がありますように。