信じる。走る。 語る。

ヨハネによる福音書20章1~18節(新209頁) 前置き イエス·キリストの復活を讃美します。世のすべてを無意味にする死にご勝利なさった主イエスが復活されました。天地万物が凍りつく冬が終わり、暖かい春が訪れてくるように主イエスは死から帰ってこられたのです。復活節は何の希望も許さない死に勝利され、新しい始まりを与えてくださった主イエスの復活を記念する日です。世の人々はこの日をイースターと呼んでいますが、イースターはアングロサクソン族の春の女神の名前に由来する呼び方です。初期の教会が異教徒の祝日をなくし、キリスト教の復活節に振り替えることで生まれた異教徒の祝日の残滓に過ぎません。ですから、この世が「イースター」と呼んでも、私たちはこの日をイエス·キリストの「復活節」とはっきり言い、記念すべきだと思います。今日はヨハネによる福音書20章の物語を通じて、主イエスが復活された日の朝の出来事について話したいと思います。2000年前のイエス物語を通して、2000年経った今を生きる私たちにとって、主イエスの復活とは、どういう意味なのかを考えてみたいと思います。 1.イエスの復活とイエスの人々の反応 今日の本文の朝は、イエスの人々にとってそれほど愉快な時ではありませんでした。その理由は、3年前に突然登場し、偉大なラビと呼ばれ、神の御言葉を宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせることで、ローマ帝国と悪い権力者たちの暴挙に苦しんでいるイスラエルに希望を与えた「イエス」という存在が3日前に十字架の上で最期を迎え、今や墓の中にいたからです。同時に世の人々はもうイエスの時代は終わり、おそらく、彼が人々の記から消えていくはずだと思っていました。ただ、彼に従った人々は最後までイエスに仕えようと心を籠めていました。その朝、マグダラのマリアという女は死んだイエスを記念するために朝早くイエスの墓に訪れました。ところが、墓に着いた彼女は驚愕してしまいました。大人の男性でも開けにくい重い石の門が取り除けてあり、イエスの遺体は見えなかったからです。もしかしたら、イエスに反対していた者たちが悪意を抱いて遺体を隠した可能性もありました。戸惑った彼女は、すぐに主の弟子たちに行き、イエスの遺体がなくなったと告げ(原文として語り)ました。その言葉を聞いてペトロと他の弟子(おそらく、弟子ヨハネ)は、急いでイエスの墓に向かって走りました。案の定、イエスの遺体はありませんでした。ただ、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるだけでした。その時になって彼らはイエスの遺体がなくなったことを信じ、絶望して家に帰っていきました。そして、マグダラのマリアは、すべてを失った人のように、墓の前に立って泣きばかりしていました。 しかし、彼らが見落としていることがありました。生前のイエスははっきり言われました。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイ16:21) イエスは他の誰でもない主なる神のご意志により必ず死んで必ず生き返ると何度も言われました。しかし、誰も常識を飛び超えるその言葉を信じることができませんでした。もし、誰でもその言葉を信じていたら、イエスの遺体がなくなった、この出来事を涙と絶望ではなく、喜びと希望の兆しとして受け止めたに違いありません。マグダラのマリアは絶望してイエスがなくなったことを「告げ(語り)」ました。二人の弟子たちはイエスがなくなったことを確認するために「走り」ました。そして、彼らはマグダラのマリアの絶望混じりの証言を「信じ」ました。彼らは「語り、走り、信じ」たのです。しかし、それらは自分たちの絶望と失敗だけに覆われ、主の約束が信じられない、間違った「語る、走る、信る」だったのです。彼らはまだイエスが言われた「三日目に復活する」という約束の真の意味を理解していなかったのです。主なる神は、聖書を通して、常に語っておられます。「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福する。わたしを信じなさい。」しかし、私たちは主の御言葉を完全に受け入れることができない弱さを持っています。イエスが復活した朝、その時の弟子たちとマグダラのマリアも私たちと同じ反応だったのです。 2. イエスの復活が持つ意味。 マグダラのマリアは、2人の弟子が家に帰った後にも、イエスの墓の近くに残っていました。彼女は相変わらず泣いていました。もうイエスの教えも、癒しも、弟子たちの活動も、自分の人生もすべてが終りそうでした。そうするうちにもう一度涙を流しながら身をかがめて墓の中を見ると、彼女は驚いてしまいました。「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」(ヨハネ20:12) 神の二人の天使がイエスの遺体が置いてあったところの頭側と足側に座っていたからです。聖書の学者たちは語ります。イエスの遺体が置いてあったところの上に座っている二人の天使の場面、それは旧約時代の聖幕と神殿にあった神の掟の箱を象徴するものだと。旧約の掟の箱は、神の御言葉である十戒の石板を保管する聖なる箱でした。そして、その蓋には神の天使を意味するケルビム形の二つの像がありました。そして、掟の箱は「神の足台」(詩99:5)と呼ばれていました。つまり、掟の箱を置いた聖幕と神殿の至聖所は、主なる神のご臨在を象徴する聖なる場所だったのです。ソロモン王の時代に、掟の箱は聖幕から神殿に運ばれ、イスラエルが滅ぼされた紀元前6世紀には、掟の箱は他国の侵略によってなくなりました。しかし、今日の出来事によって、主なる神は、その昔なくなった掟の箱の恵みをキリストの復活によって、再び、この世に与えてくださったのです。それは、死が支配すると言われる墓から始まり、主イエスの復活によって、神の恵みは墓の外に広がっていきました。死に満ちていた墓は、もはや、キリストによって、神の恵みに満ちた至聖所に変わったわけでした。 「イエスは言われた。婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。マリアは、園丁だと思って言った。あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。イエスが、マリアと言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、ラボニと言った。先生という意味である。」(ヨハネ20:15-16) マリアが依然として泣いている時、後ろから誰かが声をかけました。マリアは彼を園丁だと思いました。彼女は泣きながら、イエスを探していました。その時、イエスは言われました。「マリアよ」その時、マリアの目が開き、彼が三日前に死んだ自分の主イエスであることに気づきました。すべての人がもう終わりだと思ったその朝、死んだイエスは御言葉通りに三日目によみがえられてマリアの目の前に立っておられました。旧約聖書のなくなった掟の箱の御言葉が神殿に帰ってきたかのように、二人の天使が守っている墓の外には神の真の御言葉であるイエス・キリストが死に打ち勝ち、帰ってきておられたのです。そして、言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると」(ヨハネ20:17) イエスの復活は死にご勝利なさった主なる神の権能であり、地上の民たちを神と再びつながせる神のご臨在の象徴でした。イエスの復活によって、希望のない、この世に神とつなぐことが出来る新しい道が開かれたのでした。 締め括り 今日の説教題は「信じる。走る。語る。」です。このタイトルは、今日の本文の序盤に出てくるマグダラのマリアとペトロ、ヨハネの行為とかかわりがあります。マリアは弟子たちにイエスの遺体がなくなったと告げ(語り)ました。ペトロとヨハネはイエスの遺体がなくなったことを確認するために走りました。そして、確認してイエスの遺体がなくなったことを信じました。彼らはなくなったイエスの遺体という前提から少しも抜け出すことができませんでした。彼らはイエスの復活が信じられなかったのです。しかし、復活されたイエスが彼らに再び現れ、以後ペンテコステになっては、彼らに聖霊を注いでくださいました。その時、彼らはイエスの復活を信じ、全生涯をイエスのために走り、イエスの復活と福音を宣べ伝えるために語りました。同じ行為でも、全く違う結果につながったわけです。キリスト教において復活は、死者がよみがえることだけを意味しません。イエスによってキリスト者として生まれ変わることでもあります。イエスは死と復活を通して、この地上に神の憐れみをもたらしてくださいました。掟の箱に象徴されていた主なる神のご臨在が、イエス·キリストの復活によって、再びこの地に許されたのです。主イエスの復活を記念する今、私たちはイエスへの信仰によって信じ、イエスに仕える熱望によって走り、イエスの復活を宣べ伝える福音のために語らなければなりません。私たちの生涯を通して、神と世の中をとりなしてくださるイエスを信じ、主の栄光のために走り、主の福音を語る私たちであることを祈り願います。

ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)

創世記22章1~14節 (旧31頁) ヘブライ人への手紙9章23~28節(新411頁) 前置き 主なる神は、他者の助けを必要とされない方です。神は、三位一体の権能のみで世界を創造し、導き、罪と悪とを裁き、ご自分の民を救ってくださる方です。私たちは「他者の助けを必要とせずに」神はお働きになるということを絶対に忘れてはなりません。それでは、なぜ、神はご自分の民を呼び寄せ、主の教会を打ち立てらせ、教会を用いられ、世界を導いていかれるのでしょうか? それは、神がご自分の民にくださる賜物なのです。私たちは神を助けるために集まり、礼拝と讃美をささげ、伝道するわけではありません。神はいつも他者の助けなしにご自分で働き、すべてを成し遂げていかれる方です。神がご自分の民を用いられる理由は、助けが必要だからではなく、主によって救われた民に神の栄光のために生きる機会を賜物としてくださるためです。ですから、私たちは神を助ける者ではありません。むしろ、私たちが神に助けられて生きるのです。「ヤーウェ・イルエ」は「主は備えてくださる」という意味のヘブライ語です。私たちは信仰生活を「神のために何かを備える」として理解してはなりません。信仰生活は徹底的に神が備えてくださる恵みと愛とをいただいて生きることであり、その一環として主なる神は私たちに地上での礼拝を許してくださったのです。 1. 主なる神がアブラハムを試された。 今日の旧約本文は、神がアブラハムを試される出来事から始まります。「神はアブラハムを試された。神が、アブラハムよと呼びかけ、彼が、はいと答えると、神は命じられた。あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22:1-2)前回の説教で、私たちは「神は人を誘惑されない。」という言葉を学びました。「誘惑に遭うとき、だれも、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」(ヤコブ1:13) 前回の説教で聖書に出てくる「誘惑」と「試練(試み、試し)」は同じ原文を使うと話しました。文脈によって「誘惑」か「試練」に分かれるということでした。神は「試し(試練)」は与えられますが、決して「誘惑」される方ではありません。悪事をさせる誘惑は、完全な善でおられる神にありえない概念です。神は誘惑としての「試し」ではなく、信仰の成長のためのテストとしての「試し」だけを与えられる方です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 主なる神からの試練は、悪事を引き起こす「誘惑」とは違います。神からの試練は、ご自分の民を鍛えさせる訓練であり、民を倒すためではなく、むしろより健全で堅い信仰を養う養分になります。もし、自分が、神からの試練の中にいると思われたら、それは神が自分に害を及ぼそうとする意図ではなく、自分の信仰を大切にしておられるという証として受け止めたらと思います。神からの試練は、敵への刑罰ではなく、子供への戒めのようなものだからです。そして何よりも、神は試練の真ん中に共におられ、ご自分の民の苦難を知らないふりされない方です。むしろ、神は民に逃れる道を備えてくださる方です。ある日、アブラハムは神の御声をいただきました。「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」すなわち「私のためにあなたの息子を殺せ。」という命令でした。アブラハムにとって、イサクはどんな息子だったでしょうか。アブラハムと本妻であるサラの間には、一生、子供がいませんでした。神は必ず息子をくださり、彼によって多くの子孫を与えると約束されましたが、アブラハム自身も妻のサラも、すでに白髪の年寄になっていました。子供をもうけるには、常識的にありえない状態だったのです。 しかし、神は2人の肉体的な限界と常識的な限界を跳び越え、結局アブラハムが100歳、サラが90歳になった時、息子「イサク」を与えてくださいました。人間の常識では、ありえない、かけがえのない貴い息子が、このイサクだったのです。なのに、今日、神はその貴い息子「イサク」を神への献げ物としてささげなさいと言われたわけです。子どものいない私には、子どもの死ということの意味がまったく分かりません。にもかかわらず、もし息子がいて、アブラハムのような命令を聞いたとしたら、神に逆らって信仰をあきらめるかもしれません。口先では簡単に何でも捧げますと言えるかもしれませんが、実際に、そんな命令があれば、絶対にそうはいかないと反発したでしょう。しかし、アブラハムは、私よりはるかに高いレベルの信仰を持っていたようです。神の御言葉に聞き従い、自分の大切な息子イサクを連れて神に言われたところに赴いたからです。神がこのような命令をされないと信じていますが、このような試練をうける時、私たちはどのように反応すれば良いでしょうか? 私はこの言葉を頼りにしたいと思います。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 2. 神がアブラハムの信仰を確認された。 この出来事について聖書はこう語ります。「この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(ヘブライ11:18-19) 神はイサクを殺す意図でアブラハムに息子を捧げろと命じられたわけではありません。神はすでに何度もイサクという息子を通して、アブラハムの多くの子孫が出ると約束されたからです。それが前提になるためには、イサクは必ず生き残って、息子をもうけなければなりません。つまり、イサクが死ぬというのは、神の約束が成し遂げられないということです。アブラハムは主なる神の約束を信じ、イサクが死んでも神は必ずイサクを生き返らせ、約束を守ってくださると神を堅く信じたのです。最初から神の計画にはイサクの死などありませんでした。神は約束の結果であるイサクより、約束の源である神をより大切にするかどうか、アブラハムの信仰を確認することを望んでおられただけです。「アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」(創世記22:11-12) 神は本当に息子を殺し、焼き尽くす献げ物としてささげようとするアブラハムをご覧になり、彼の信仰を確認されました。そして、イサクが死なないように急いでアブラハムの手を食い止められました。神とアブラハムの約束は、イサクの生まれで終わりではありません。イサクの生まれは、神の約束のごく一部に過ぎません。神はアブラハムの信仰を確認することによって、イサクの生まれから始まった真の約束の成就を本格的に進めていかれました。神はご自分の民の信仰を確認される方です。その信仰の確認のために、時には私たちの人生に試練(試み、試し)を与えられる時もあります。アブラハムは、息子でさえ惜しまない信仰によって神からの試練をパスしました。神は、信仰の確認のために、私たちにもアブラハムのような試練をくださるかもしれません。私たちに、信仰の確認のための試練が与えられたら、私たちはどのように対応していけばいいでしょうか。ある意味で、私たちに与えられる苦難は、今日のアブラハムに与えられた神からの試練のようなものであるかもしれません。 3. イエス·キリストの苦難と試練を憶えて。 レント期間の終わりが近づいています。来る金曜日はイエス·キリストの十字架の苦難を記念する受難節となります。主なる神は、ご自分の民だけに試練を与え、苦しめる方ではありません。ご自分の独り子、御子イエス·キリストに「あなたの命を捧げて、わたしの民を救いなさい。」という残酷な試練を先にお与えになりました。そして、イエス·キリストは残酷な苦難の中でご自分の命を捧げ、神からの試練を堂々とパスされました。その結果、主イエス·キリストは教会をはじめ、この世のすべてをご統治なさる真の王になられたのです。神からの試練があるということは、私たちが神のお憐れみと愛との中にいるという証です。神は、決して愛しない者に試練を与えられず、試練を経験しない者は未来に向かって進むことができません。今日の本文に、このような言葉があります。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(創世記22:13) 神は雄羊一匹を送られ、イサクに取って代わる献げ物にしてくださいました。神はご自分の民の試練の前に、先にご自分の息子、子羊と呼ばれるイエスを試されることで、ご自分の民が試練を乗り越えるように逃れの道を開いてくださったのです。イサクの身代わりに雄羊をくださったように、私たちの身代わりにご自分の独り子を犠牲にしてくださったわけです。そして、その方は復活されました。したがって、苦難にあう私たちはキリストが先に試練を受け、乗り越えたことを憶え、主イエスに従って前を向いて進んでいかなければなりません。神が主イエスを備えてくださり、その方によって私たちの進むべき道を開いてくださったからです。 締め括り 先週の水曜日には、九州中会の定期中会がありました。志免教会だけでなく、各地の教会、伝道所にも多くの試練と苦難があることが分かりました。しかし、今日の説教を準備しながら神が九州中会を、いかに愛しておられるかが分かりました。苦難と試練があるということは、神が私たちをあきらめずに愛しておられるという良い兆しだと思います。主なる神は、イエス・キリストによる恵みとして、私たちに苦難と試練を乗り越える勇気と力とを与えてくださるでしょう。レントの期間、そして受難節を過ごし、来週の復活節(イースター)を準備していきたいと思います。苦難と試練の末に復活されたイエス·キリストを憶え、私たち志免教会の兄弟姉妹たちも勇気を持って信仰生活を続けていかれたらと思います。主なる神の恵みが志免教会に連なる皆さんの上に豊かに注がれることを祈り願います。

主イエスの祈り(完)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今日は、マタイによる福音書の山上の垂訓の中で、主イエスが教えてくださった祈りについての最後の説教をしたいと思います。私たちは、今までの説教を通して、他人に自分の信仰を見せつけるための祈りではなく、ひとえに「神と自分」という両者の真の対話として祈らなければならないということを学びました。つまり、主なる神に人格として接し「素直、淡白、明確」に祈ることが何よりも大事であるということでした。その後は主イエスが、ご自身で「主の祈り」を通して、どのような祈りが望ましいのかについて教えてくださいました。「神へのほめたたえと栄光を帰す祈り」「主の御心にあって私たちの必要を求める祈り」を通じて、キリスト者なら、神の御旨にかなう祈りを追い求めなければならないということが分かりました。今日は「主イエスの祈り」その最後の時間です。主イエスが教えてくださった祈りによって、私たちも主に倣って祈ることができれば幸いです。 1.こころみ(誘惑)にあわせず。 神へのほめたたえと栄光を帰す祈りの後、主イエスは「日用の糧をあたえたまえ」という、主の民の必要についての祈りも教えてくださいました。(前回の説教のあらすじ)しかし、その糧を求める祈りは極めて短かったです。「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という割と長い、讃美の祈りの後に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」という、たった一言くらいの私たち自身の必要のための祈りが記されているだけです。もちろん、人には、この世を生きるための最低限の必要があります。そのために、人はお金を稼ぎ、それが度を越えて欲張るようになってしまいます。しかし、主はその必要というのを重く考えておられないようです。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペトロ3:10)いつか、この世の富は、主の裁きによって全て意味を失ってしまうという終末的なキリスト教のことわりのためではないかと思います。ですから、イエスは物質的な必要より霊的な必要のほうが、さらに大事であると考えてくださったわけでしょう? そのため、体の必要を求める祈りのすぐ後に霊的な事柄である赦しについての祈りがおかれているかもしれません。 そういう意味として、今日学ぼうとしている「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」も「霊的な祈り」であると言えるでしょう。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13前)、私たちの必要を求める祈りより、さらに長くて重要に書いてあるのが、前回の説教で学んだ「隣人への赦し」、そして今日の「こころみ(誘惑)と悪からの救い」です。今日の聖書の本文には「誘惑」と記してあり、志免教会が使う主の祈りには「こころみ」と書いてありますが、ギリシャ語の原文は同じ言葉を使っています。文脈によって意味が変わるからです。しかし、ヤコブの手紙1章13節は語ります。「誘惑に遭うとき、だれも、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」神は誰にも悪意を持って誘惑「こころみ」に遭わせる方ではありません。 もし、神がこころみられるならば、それは苦難の中で民の信仰を成長させるための「善意の試み」であるでしょう。ですから、主の祈りに記されているこの表現は今日の聖書のように「邪悪な存在の誘惑」と理解するのが正しいと思います。それでは、邪悪な存在とは誰でしょうか? 2. 悪より救い出したまえ。 聖書は、人間が創造されるも前から、神に逆らって裁かれた「邪悪な存在」があったかのように語っています。(ユダヤの黙示文学、カトリックのエノック書、外典、偽典など) その邪悪な存在は「アダムとエヴァ」が善悪を知る実を食べて堕落するようにした「蛇」。あるいは、ヨハネの黙示録で主なる神と教会に敵対する「竜」。 または、エフェソ書2章2節の「空中に勢力を持つ者」のことかもしれません。 私たちは、この「悪い者」を分別しやすいと考えるかもしれません。「バケモノ」や「鬼」のような不気味な存在が思い起こされるからです。しかし、聖書は語ります。「サタン(神に逆らう者、邪悪な存在、悪魔)でさえ光の天使を装うのです。」(2コリント11:14) 悪は私たちの全く分からない方法で私たちを欺き、誘惑して、私たちが罪を犯すよう世を操っていきます。私たち教会は、その「悪」が支配する裁かれるべき世の中で、主の民として生きている存在です。私たちは自力で悪に勝つことも、そのしわざを見抜くこともできません。だから、私たちは、自分も知らないうちに悪の「誘惑」のもとにおかれてしまうのです。主イエスは、私たちの弱さがすでにお分かりで、主なる神が私たちを憐れんでくださり、助けてくださるように祈りなさいと教えてくださったのです。私たちは悪が支配する世に生きる神の民です。私たちは自力では、彼らを知ることも勝つこともできません。だから、私たちは主なる神の助けを求め、主によりかかって生きるべき存在なのです。 しかし、私たちは「悪」という存在、「邪悪な者」という存在が悪いからといって、彼らだけのせいにして、私には責任がないと言うべきではありません。前も何度もお話ししましたが、悪の誘惑を受け入れるかいなかは、他の誰でもない私たち次第だからです。悪魔は自分の手で悪を行うより、人間を誘惑して自分の支配下におき、操るのを好んでいるからです。その誘惑を受け入れることも、断ることも私たち自身にかかっています。しかし、その誘惑はあまりにも強烈なものです。他人を愛するより憎むのが容易く、他人のために自分が損するより、自分のために他人が損するのが良いと考えるのが人間の一般的な思いです。そのような誘惑の世だから、主イエスは悪の誘惑に陥らないように主なる神の助けを求め、その悪から自分を救ってくださることを祈りなさいと命じられたのです。聖書に記してある、主の御言葉を通じて、私たちはこの世が悪に支配されており、私たち自身もその悪の誘惑に負けやすいということが分かります。だから私たちは、毎日主なる神に祈らなければなりません。「罪を犯させる悪の誘惑から私たちを守り、自力で悪に勝てない私たちを救ってください。」祈りによって助けを求め、御言葉によって私たち自身を顧み、信仰によって悪の誘惑に抵抗する力を得て生きる私たちであることを祈ります。 3.国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 最後にイエスはもう一度、神をほめたたえ、栄光を帰す祈りによって、主の祈りを終わらせられます。つまり、主イエスの祈りは始まりも、終わりも、主なる神をほめたたえ、栄光を帰す姿勢を保っているということです。私たちの祈りが、短くて慣用句的な「ご在天の父なる神さま、主の御名を讃美します。」のような一言で始まり、「あれもしてください、これもしてください。 主の名前によって祈ります。」で終わるのとは非常に違います。もう一度申し上げたいですが、祈りは神と自分、両者の対話なのです。夫婦、親子、恋人が「あれしてくれ、これしてくれ」ばかりで対話することはありません。時には励まし、愛すると言い、口げんかもし、日常の話もするように、私たちも神との対話である祈りの時に、神に愛を告白し、苦しみと辛さで嘆き、感謝もし、極めて平凡な話しもしながら、神を人格として接するべきです。 それにより深い関係を結んでいくのが望ましい祈り方ではないかと思います。それに加えて、成熟したキリスト者ならば、それらのすべての上に神をほめたたえ、栄光を帰す祈りで祈りの始まりと終わりを作っていくべきだと思います。この世が悪の支配のもとにあると言ったのですが、しかし、それは神の許可のもとにある事柄です。つまり、悪の支配にはいつか終わりがあるということです。彼らの権勢は限界があるということです。真の権勢は神のものだからです。そして、終わりの日、主はすべての悪を裁かれ、主の栄光の中にご自分の民を導かれるでしょう。国と力と栄光は唯一の主なる神のものだからです。私たちは、その国と力と栄光の主の民だから、主なる神に、何の差支えもなく祈ることが出来るのです。 締め括り 以上、5週間、マタイによる福音書の主イエスの祈りについて考えてみました。主の祈りを通じて、決まり文句みたいな私たちの祈りを改善し、神とのより深い対話としての祈りに発展させていきたいです。最近、我が教会には祈るべき課題がたくさんあります。肉的、心的に弱まっている方々が多く、主なる神への願いも多くなってきています。しかし、このような時こそ、主イエスの祈りにならって、より一層主をほめたたえ、栄光を帰し、主のお導きを信じて、信頼を持って祈っていきたいと思います。主なる神が志免教会のすべてを、一番御旨にかなう方向に導いてくださることを願います。私たちの祈りの中に働いておられる神に信頼します。

主イエスの祈り(4)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 前回の説教の復習をしてから始めましょう。イエスは祈り方について、人々に見せつけとしての祈りではなく、ひとえに父なる神との対面としての祈りをすべきだと教えてくださいました。また主なる神に人格的に接し「素直、淡白、明確」に祈りなさいとも命じられました。イエスは、そのような祈りとはどういうものなのかの見本として「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは神に栄光を帰す序盤の祈りと、私たち自身の願を求める中盤の祈り、最後に、またもう一度、主なる神に栄光を帰す終盤の祈りに分かれます。前回の説教で、私たちは序盤の祈りである「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」(マタイ6:9-10)について学びました。それによって、私たちはまず神を褒めたたえる祈り、つまり、神に栄光を帰す祈りが何よりも優先であることが分かりました。私たちの祈りが、もっぱら自分の必要だけを求める祈りではなく、まず神に栄光を帰す祈りになることを願います。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)の言葉を憶えたいと思います。今日は主の祈りの中盤である私たちのための祈りについて話してみたいと思います。 1. 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。 前回の説教で、私たちが「願い求め」の祈りばかりしているのではないか、反省する必要があると話しました。実際に私たちは神を褒めたたえ、栄光を帰す祈りより、自分の必要のための「願い求め」の祈りをもっとしているかもしれません。しかし、「願い求め」の祈りが、悪いとは言えません。私たちは主イエスによって、神の子となった存在です。だから、幼い子供が親に自分にかかわるほとんどのことを願い求めることと同じように、私たちが主なる神にさまざまな必要を求めるのは当たり前なことだと思います。ただし、親が子供のすべての願い求めを受け入れてくれないことと同じように、神も私たちの祈りの中で御旨にかなう祈りであれば受け入れてくださり、まだ時が満ちていないか、御旨にかなわない祈りであれば断られる場合もあることを忘れてはなりません。だから、私たちは、主なる神に「願い求め」の祈りをしても問題はありません。ただし、主の御心によって、私たちの祈りが叶わない時もあるということを理解しつつ祈るべきです。イエスはまず神に栄光を帰す序盤の祈りを教えてくださった後、私たちの生活に必要な「願い求め」の祈りについても語られました。その最初は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」(マタイ6:11)です。「日用の糧」とは、ただの食べ物を意味するものではなりません。私たちが生きるために必要な最小限のものを意味します。 主は言われました。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:25-26)基本的に主なる神の民は、主によって生命をいただき、一日一日を生きる存在です。だから、自分のために必要以上の富を欲しがったり、必要以上にケチになったりするより、神に生命をいただいて、一日一日守られているという信仰を持って、心の余裕を持って、生きるべき存在なのです。そのため「日用の糧」を求める祈りは、単純な食べ物だけを求める祈りではなく、神が私たちを毎日導いてくださることを信じる信仰にあって、そのお導きを再び確認する祈りであると言えるでしょう。私たちは皆、自分の能力や力によって生きていくと思いやすいですが、主なる神の御守りがなければ、いつでもなくなり得る弱い存在です。私たちの人生のすべてにおいて、何一つ神の守りと導きのもとに置かれていないものはありません。神が毎日新しい生命を与えてくださることに感謝し、今日も生きることが出来るように導いてくださったことに感謝して「日用の糧」のまことの意味を理解していきたいです。 2. 我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。 次に主イエスは「赦し」について語られます。2014年夏ごろ、愛知県の小牧市にある先輩宣教師の教会で、3ヶ月間、短期宣教をしたことがあります。2012年の夏に最初訪問して約10日間過ごし、約2年後にまた訪問して日本語を学習しながら先輩宣教師を手伝ったのです。当時、先輩夫婦は韓国語教室をやっていました。2012年に訪問した際、韓国語教室の生徒、AさんとBさんは、いつも一緒に出席し、とても仲良くしていました。終始一貫和気あいあいな二人を見ながら「素晴らしいお友達二人」と思いました。ところが、2014年にもう一度、先輩の韓国語教室に訪問した時、Bさんは教室に出席していませんでした。Aさんに理由を聞いたら、Bさんと絶交したと言われました。小さな意見の違いで口げんかし、お互いに赦し合うことができず、結局は絶交したというわけでした。憎しみは小さなことから始まります。ちょっとした口げんかのような小さな理由から、心の中に憎しみが芽生えてくるのです。まもなく、その小さな憎しみは大きな木のように育ち、葉が茂るようになります。そして、その憎しみは最終的に人間関係を壊します。ですから、私たちの心の中の憎しみは小さな芽の時に抜いて無くさなければなりません。 特にキリスト者はなおさらです。私たちも人間なので、誰かを憎むようになりうるでしょう。しかし、聖書は語ります。キリスト者である私たちは、すでに神から大きな赦しをいただいていると。そのため、私たちは、自分が神からいただいた大きな赦しを憶え、自分に過ちを犯した隣人を赦し、愛しなければならないのです。確かにそれは、そう簡単なことではないかもしれません。しかし、自分がすでに神から、この上なく大きな赦しをいただいたと認めるならば、私たちは、絶対に赦さなければなりません。私たちが神に犯した罪が、私たちの隣人が、私たちに犯した過ちより、はるかに大きいからです。マタイによる福音書18章に、それと合うたとえ話があります。一万タラントンを借金(1タラントン=6,000デナリオン)したある王の家来と、百デナリオン借金をした家来の仲間の物語です。(マタイ18:21-35) ある王に一万タラントン借金した家来が返済しなくて良いと赦されたのですが、帰宅の途中に100デナリオンを借金した仲間に出会ってお金を返せと言い、返すまで牢に入れてしまいました。すると、王が1万タラントン借金をした家来のことを聞いて怒り、彼を呼びつけて借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡しました。そして、そのたとえ話の最後にはこんな言葉が記されています。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18:35) 「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りは「私が先に隣人のことを赦したから、主も次に私のことを赦してください」という意味ではありません。私たちが主なる神から、すでに大きな罪責を赦されたから、主に赦された者にふさわしく生きたいという誓いの祈りなのです。私もこの説教を書きながら、自分のことを顧み、反省するようになりました。最近、私たちの大切な姉妹が、心の病で困った状況に置かれています。ここ数年、教会で大変な奉仕をして、そして、家族との間の事情で、何よりも息子さんの死で、すごく悩んでおられたからだと思います。最初、症状が現れたとき、私は彼女にひどい暴言を言われました。その時は心の病を知らなかったから、大きく傷つき、彼女にがっかりするようになりました。しかし、その後、彼女に深い心の病があることが分かり、そのがっかりは消えてなくなりました。そして、憐れむべきという心になりました。彼女のために何をすれば良いのだろうか、いろいろ工夫しています。彼女に言われた暴言や行動より、私が神に犯した罪の方が、さらに大きいと聖書は語ります。しかも、彼女は病で苦しんでいます。自分がすでに神に赦された人だということを信じているから、赦しの心、哀れみの心を持って彼女に接していきたいと思います。自分の気持ちによって誰かを憎んで赦さないならば、父なる神も、赦されないということを憶えて、隣の人々を愛していくべきだと誓うようになりました。 締め括り 主の祈りは、このように私たち自身のために祈る時にも、自分の欲望のための祈りではなく、神の御旨にかなう範囲内で祈ることを教えてくれます。立派に成長した子供は、親と会話する時に自分の欲望を求めて言いません。両親に悩みはないか、体と心は元気か、必要なものはないか、いろいろ配慮します。自分の欲望に充実な会話は、分別のない幼い頃の両親にした甘えだけで十分です。成熟した信仰者は、自分の必要だけのために祈りません。まずは主なる神を褒めたたえ、神に栄光を帰す祈りをしてから、自分の必要のための祈りを主の御旨にかなう範囲内でします。そんな意味として、主の祈りは最も完全な祈りではないか、もう一度考えるようになります。私はまだ祈りが難しいです。だから、歩きながらも、運転しながらも、寝る前に横になっても、神に声をかけ、それを祈りとしてする場合が多いです。その時、心のすべてを主に打ち明けます。そして、聖書の御言葉の教え、時には心の中に響かれる最も望ましい思い、みんなに害を及ぼさない思いを、聖霊なる神の御声だと信じて生きようとしています。皆さんにとって祈りとは何でしょうか? 主の祈りを通じて、望ましい祈りとは何かについて考えていきたいと思います。

悔い改めの実を結ぶ。

ルカによる福音書3章1~20節(新105頁) 前置き 私たちは今、イエス·キリストの苦難と復活を記念するレント(四旬節)の期間を過ごしています。レントはイエス・キリストの苦難を記憶するために「灰」(イスラエルの文化で、灰は涙と悔い改めのイメージを持っている。)を額に塗って祈る「灰の水曜日」(2月14日)からイエスの復活を記念する「復活節(イースター)」(3月31日)までの約40日間を意味します。この期間は大昔から代々の教会がイエスの苦難と復活とを失念しないで、記念するために守ってきたキリスト教の長い歴史の伝統であります。もちろん、聖書に記録された、神の命令ではありませんが、代々の信仰者たちは主の苦難と復活を黙想し、自分を顧みる機会として守ってきた大切な伝統なのです。今日は「主イエスの祈り」の連続説教を休んで、レント期間にふさわしい説教によって聖書の言葉を話してみたいと思います。私たちの罪を振り返り、信仰を堅くするレントになることを祈ります。 1。希望のない時代にも主の御言葉は与えられる。 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:1-2) 今日の本文は、当時のイスラエルが、どのような状況であったのかを詳しく説明しています。ティベリウスはローマの第2代の皇帝です。ローマ帝国が地中海地域を掌握し、他の国々を植民地にしている時代でした。イスラエル地域には、総督のローマ人「ポンティオ・ピラト」が派遣されており、他民族出身のヘロデ家の人々がイスラエルを分けて支配していました。ヘロデ家はイスラエル人の王女と結婚したエドム民族(アブラハムの息子イサクの長男エサウの子孫) 出身者の子孫だったので、イスラエル人はヘロデ家の支配に抵抗がありました。例えば、もし、日本がアメリカの植民地に転落して滅び、他国出身の乱暴な王が天皇家の女性と結婚してアメリカの許可を受け、日本を厳しく支配するとしたら、日本人の心はどうなるでしょうか? それが当時のイスラエル人の心だったのです。 だけでなく、イスラエル人を代表する「大祭司」はローマの権力にこびついて、権力を振るい、律法もまともに守っていませんでした。政治、経済、宗教的にイスラエルは完全に抑圧下にあったわけです。何の希望も、力もない状況です。イスラエルの民衆は何もできず、指導者はイスラエル民族の味方でなかったのです。しかし、そのような暗黒時期にも主なる神は御言葉をくださいました。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」阿鼻叫喚のような残念ばかりの状況でも、主は御言葉をくださったのです。幸いなことに、現代を生きる私たちには、主の御言葉が記されている聖書があります。悲しみと苦しみにより、嘆きばかりしては変わることが何一つありません。困った状況の時こそ、主の御言葉を黙想しつつ祈るべきです。私たちの最も困難な時が、主の御言葉から最も大きな恵みを受ける機会であるかもしれません。神は洗礼者ヨハネを通して、主の御言葉をくださり、最終的には「神の御言が肉となった。」と言われるイエス·キリストを遣わしてくださいました。 2.悔い改めの実を結ぶ。 「そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:7-9) ところで、その主の御言葉はやさしいものではありませんでした。「蝮の子らよ。」この言葉は、当時のイスラエル地域にあって、最も厳しい毒舌だったと言われます。しかも、受洗のために来ている信仰者たちへの毒舌です。新約聖書のヘブライ人への手紙には、次のような言葉があります。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12) 神は決して慰めだけの方ではありません。 時には、間違っている子供を厳しく戒める父親です。良い父親は無条件に慰め、子供の過ちを見過ごすものではありません。小遣いだけたくさんあげて、子供がどうなっても何の干渉もない無関心な存在でもありません。是非を問うて、正しい道に進むように助けることこそが本当に良い父親のあり方です。 神は罪を犯した子供が自分の罪に気づいて告白し、悔い改めることを望んでおられます。悔い改めしないからといって、愛していないわけではありません。神は私たち人間という存在自体を愛しておられます。「悔い改めをしたから愛し、悔い改めしなかったから愛していない。」のような条件的な方ではありません。しかし、罪を悔い改めない存在は神の恵みに入ることができません。自らの罪を悔い改める時に、より大きな神の恵みに入るようになるのです。したがって、悔い改めは神と民のお交わりのための最も基本的な段階です。だから悔い改めなければなりません。牧師は皆さんの幸せや良い気持ちだけのために、甘い説教をしてはいけません。時には聖書の御言葉に基づいて、皆さんがプレッシャーを感じられるほど、厳しい説教もしなければなりません。それにより、私と皆さんが悔い改めに進むことができるように、御言葉による正しい道を提示しなければなりません。私たちにまだ悔い改めていない罪があるかどうか考えてみましょう。そして、このレントの間、私たちの罪を赦し、父なる神との和解のために代わりに死んでくださったイエス・キリストの愛を憶えましょう。レントは罪を顧み、悔い改める時間です。ヨハネの手紙一の1章の言葉「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」を記憶しましょう。 ところで、洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言います。これはどういう意味なのでしょうか? 「そこで群衆は、では、わたしたちはどうすればよいのですかと尋ねた。ヨハネは、下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよと答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、先生、わたしたちはどうすればよいのですかと言った。ヨハネは、規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、このわたしたちはどうすればよいのですかと尋ねた。ヨハネは、だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよと言った。」(ルカ3:10-14) 悔い改めは反省や後悔とは違います。これまでしてきた間違いをやめ、より良い信仰の生き方に変わっていくことです。例えば、虚しい欲望ばかりだったら欲望を減らし、人を憎んでいたら憎しみを減らし、嫉妬が多かったら嫉妬を減らすことです。早速に変わることは難しいですが、引き続き、主の御言葉にふさわしく変わっていこうとの志を持って生きるのです。イエス·キリストはご自分を嫌い、憎み、殺そうとしている者たちを赦してくださいました。十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのです。レントの期間を通して、このイエスの生き方に倣い、私たちも悔い改めつつ自分の間違いを減らしていくよう力を尽くしましょう。その中に悔い改めにふさわしい実は結ばれていくのではないでしょうか。 3.イエスだけが神から遣わされたメシア。 洗礼者ヨハネが悔い改めを宣言したとき、人々は彼が神から遣わされると記されたメシアではないかと思いました。しかし、洗礼者ヨハネは、さっそく彼らの心を見抜いてこう言いました。「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(ルカ3:16)人々には絶対的な人に憧れる傾向があります。「自分はできないが彼はできる。」となりやすいです。それで、時には誰かを必要以上に憧れるようになりがちです。数多くの異端団体は、リーダーに憧れ、彼を神にしてしまった堕落の結果です。神がお許しになった真のメシアは「イエス·キリスト」おひとりだけです。誰もイエスに代わって神とか、主とか、御使いとかになることは決してできません。ですから、ある団体の代表、志免教会で言えば牧師にあまりあこがれたり、拠り所にしたりしないでください。宗教指導者はただ一介の人間に過ぎない存在です。いつでも失敗し、躓きやすいただの人間なのです。神はひとえに「イエス·キリスト」だけをメシアとして認めてくださいました。皆さんが頼れる唯一の存在は誰でもない、イエス·キリストだけです。 締め括り 3月が始まりました。3月31日がイースター礼拝の日ですが、それまでレント期間は続きます。レントだからといって、それにかかわる説教ばかりするつもりではありませんが、それでも、皆さんは、この3月がレントであることを憶え、私たちの罪を赦し救ってくださるために来られたイエス・キリストの苦難と復活を記念されることを願います。苦難が大きければ大きいほど、主の御言葉の力もさらに大きくなります。 主の御言葉を頼りにしましょう。悔い改めれば、悔い改めるほど、神の恵みは深まります。悔い改めの生活を見に付けましょう。イエス·キリストおひとりだけが私たちを救い、助けになってくださる唯一のメシアです。イエス·キリストだけを私たちの拠り所にしましょう。今年のレントの間、主なる神が志免教会の兄弟姉妹に豊かな恵みと愛とを与えてくださるように祈り願います。