華やかさと真面目さの間で。

サムエル記下 6章1-15節 (旧488頁) / 使徒言行録 5章29節(新222頁) 11月の初め、韓国の釜山で、年ごとに催される花火大会があります。釜山告白教会のある広安里という海水浴場で行ないますが、その周辺は路上に人が多すぎて通り抜けられないほど、大混雑になってしまいます。どれだけ盛大なのかというと、天気が良い日は対馬北部の海岸からでも花火が見えるほどです。この大会に参加するために、日本からも多くの方々が見に行くそうです。人々は大会当日に良い席を占めるために午前から急いで動きだします。広安里の見晴らしの良いカフェは一年前から予約が決まっており、借りる費用も1万-3万円を上回るとか聞いています。広安里花火大会は一晩で一時間くらいの短い行事ですが、5億円以上の大金を火薬の準備に払うと言われます。一時間に5億円、想像も出来ない程の大金でしょう。 場所を移して、米国カリフォルニア州に行ってみましょう。リバモアという都市の消防署には110年以上も使われている電球があるそうです。それは、少なくとも明治40年以前に作られたものです。この電球は、これまで3回の停電を除き、ずっと使われていることになります。この素朴な電球は、わざわざ訪ねるほどの大したものではありませんが、まだ、その寿命を保ち、その消防署の片隅で相変わらず、光を照らしているようです。そのためいつからか地域の名物になったといいます。皆さんは1時間の華やかな5億円の花火と110年の小さな電球のうちで、どっちの方がお好きでしょうか?派手な火薬の寿命は僅か5分も超えないでしょう?リバモアの電球は非常に古くて、安い物でしたが、それでも110年以上、変わらず一堂を照らしてきました。本当に人のために大切に用いられた火はどちらでしょうか?しばらく楽しんで消えてしまう空の花火と長い間、消防署を明るく照らし、消防士たちと一緒に働いてきた小さな電球。皆さんはどっちの方が、より大切に感じられますか?私たちは、このような華やかさと真面目さの中での、選択の岐路に立つことがあります。 1.この世のやり方を憎まれる神様。 今日、私たちは本文を通して華やかさに憧れる人々と派手ではありませんでしたが変わらない一人の人を見ることが出来ます。イスラエルの王となり、周辺国との戦争で連戦連勝していたダビデ王。彼の統治により、イスラエルの民は自信満々となりました。イスラエルを強い国に成長させたダビデ王は、数十年前にペリシテとの戦争で奪われて、やっと取り戻した神の箱、すなわち契約の箱が聖なる幕屋ではなく、他の場所に保管されていることを悲しく思い、自分の王宮に移そうとしました。ダビデは精鋭兵士3万と一緒に神の箱が保管されていたアビナダブという人の家に行きました。ダビデは神の箱を受け取って派手な新しい車に載せました。ダビデは凱旋将軍のように神の箱とともにエルサレムに向かいました。その行列は非常に華やかでした。様々な楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルが奏でられました。民は歓声を上げました。武器を持っている兵士たちと、数え切れないほどの人々が、神の箱を迎えました。これを見て、ダビデは調子に乗っていたことでしょう。長い間、幕屋ではなく、別の場所にあった神の箱を華やかな行列で、さらに素晴らしい自分の宮殿に運んで行くのですから、どれほど胸がいっぱいになったことでしょうか?神様もきっと、このパレードを喜ばれると考えたことでしょう。ところが、その時、思いも寄らない出来事が起こりました。 エルサレムに行く途中、牛のよろめきにより、神の箱が倒れないようにと、神の箱の方に手を伸ばし、押さえたウザが神に罰せられ、即死した出来事でした。瞬く間にパレードは、水を打ったように静まり返りました。その時、ダビデは何か間違っていると気づきました。彼は思いがけない状況に怒りました。ダビデは一体なぜ、腹が立ったのでしょうか?その怒りは神様への怒りでしょうか?それとも、ウザあるいは自分への怒りでしょうか?ここで使われているヘブライ語の動詞は『腹が立つ。怒る。』という意味の他に『気が揉める。気が焦る。』という意味としても使える表現です。怒ったというよりは、気が揉めるに近い意味だと思っても構わないでしょう。なぜなら次の節では、ダビデが神様への『畏れ』を感じたからです。一体何が間違ってたんでしょうか?ウザはただ、その箱を守ろうとしていただけなのに、なぜ、神はそのように厳しく罰を与えられたんでしょうか? 『ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。』(ヨシュア3:14)神と民の契約の言葉、掟の板が入っていた神の箱は、車で運べるものではありません。必ず、聖なる祭具は祭司たちが肩に担いで運ばなければならないと旧約聖書は証言しています。民数記によると、ケハトの子孫の祭司だけが運ぶことが出来ると定まっています。神様が、その移動方法をそのようにお定めになったからです。正直、人間がしたければ、神の箱は、車でも運ぶことが出来るでしょう。しかし、可能なことと絶対的なことは異なります。神様は御言葉を通して、ご自分の契約の箱を絶対にケハトの子孫の祭司が担って運ぶように指定されました。ケハトの子孫でも、祭司でもなかったウザが死んだことには、そういう理由があったのです。ダビデは、派手な車とパレードは準備しましたが、基本的な神の御言葉への理解が足りませんでした。神様が望まれたことは、華やかな行事ではなく、神の御言葉に忠実に聞き従うことでした。初めは良い意志で神の箱を移そうとしたダビデでしたが、彼の無知のゆえに、結局、ウザは不幸にも死んでしまいました。神様は主の御言葉に心を向けず、見えを張ったやり方を好んでいたイスラエルにお怒りになったのです。 2.世の方式とは違う神の方式。 自分のやり方に問題があると気づくことになったダビデは、その足でオベド・エドムの家に神の箱をしばらく置いておこうとしました。歴代誌上を読んでみると、オベド・エドムが幕屋の門衛であることが分かります。 『祭司たちシェバンヤ、ヨシャファト、ネタンエル、アマサイ、ゼカルヤ、ベナヤ、エリエゼルは、神の箱の前でラッパを鳴らした。オベド・エドムとエヒヤも門衛として神の箱を守った。』(歴代誌上15:24)門衛とは、そんなに派手な役割ではありません。聖なる幕屋の門を守ったり、開けたり閉めたりする人だったでしょう。一生をその幕屋のために奉仕する者だったでしょう。王、大祭司、預言者のような者に比べれば、その影響力が大きい人ではなかったでしょう。しかし、門衛は一生変わらず神の幕屋の門を守る務めでした。認めてくれる人がいなくても、神から与えられた務めを黙々と行う者でした。誰かに認められなくても、オベド・エドムは、ダビデとは違って、神様が定めた通り契約の箱を守ったんでしょう。『あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは私の神の家の門口に立っているのを選びます。』(詩編84:11) 神の箱がオベド・エドムの家に行った後、三ヶ月が経ったある日、誰かがダビデに『神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる。』と告げました。ダビデはその時やっと、神様が前の過ちを赦してくださったと考え、律法に記されているようにケハトの子孫の祭司たちに契約の箱を移させました。『アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかかる。』(民数記4:15)いくら名望のあるアーロン家の祭司であっても、聖なる箱を移すことは不可能でした。ただケハト家の祭司だけが、それを遂行することが出来ました。神の御命令だからです。ようやくダビデは華やかな姿を捨てて、律法に記された方式で、純粋な礼拝者の姿で契約の箱を迎えることが出来ました。神様はそのように改めたダビデの方式を認めてくださいました。神様は、御言葉を無視したダビデと3万人の華やかな兵士たちより、黙々と静かに自分の任務を果たしたオベド・エドムを喜んで祝福されました。神様はダビデがオベド・エドムを通して学び、神の言葉に聞き従うことを望まれたのです。 世の多くの人々は、基本を忠実に守らず、自分に相応しくない欲を張ったりします。他人の前で体面を保つために、他人に強がりを言うために、大切なことを忘れ、派手なものに心を奪われたりします。みすぼらしいものは強く拒み、華々しいものに憧れたりします。ある人達は抜きん出た学力により、他人とは違う特別な利益を享受したいという欲望があるでしょう。ある人達には既得権者になって、他人を抑えたいという野望もあるでしょう。教会にも、そのような例はあります。日本の教会の信者たちの中で、米国や韓国の大きな教会を経験した一部の人々は、メガチャーチを望んだあげく、日本の教会を小さいと無視する場合もあるそうです。このように目に見える華やかさだけを追い求める思いが人を可笑しくして行きます。しかし、神様は常に表に見える派手なものより、人と教会の心をご覧になる方です。神様は派手で大きなことよりは、小さくても、正しいことを、もっと愛される方です。 『主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」』(サムエル記上16:7) 3.イエスを通して見られる神のご関心。 聖書は、神がどのような人を愛しておられるのか、主イエスの生涯を通して詳しく示しています。再臨の日、イエスは王の王として、被造物があえて触れることが出来ない権威と力を持って再び来られる方です。しかし、イエスが初めて来られた際は、わざわざ大工の息子として、しかも、飼い葉桶に来られました。彼は公生涯の始めに神ご自身として、華やかに悪魔の3度の試練に勝つことが出来ましたが、神の御心に従い、真面目に御言葉に頼って退けられました。 『イエスは言われた。狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』(マタイ8:20)彼は神殿や王宮ではなく、むしろ決まったお住まいもなく、民を助けてくださりながら、生活されました。高慢な皇帝と総督など数多くの権力者ではなく、救いを切に望んでいる徴税人や娼婦などの罪人の友達となってくださいました。イエスのご関心は権力者、義人ではなく、弱い者や罪人を招くことにありました。力を持っておられるにも拘わらず、その権力を使わず、おとなしく従って十字架につけられたのです。 『神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。』(ローマ14:17)飲み食いというのは物理的な満足、肉的なやり方を意味します。使徒パウロは神様の方式によって治められている神の国が、どのように成されているのかを説明しました。神様の方式は、物理的、肉的な満足にとどまりません。イエス・キリストはこの言葉のように、神の方式を自ら実践されたのです。イエスは肉的な華やかさより、神が望んでおられるご自分の役割に真面目さをもって取り組まれました。そして、神の御心に聞き従い、十字架でみすぼらしく死んでくださいました。『だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。』(使徒言行録2:36)華やかさを捨てて、真面目に神の御言葉に従ったイエス・キリストは、神の御手によって主キリストとなり、この世界のすべてのものを治める王の王になりました。神のご関心は大きくて派手なところにありません。神のご関心は小さくても真面目で正しいところにあります。非常に小さな神のご命令でも、神の言葉に従おうとする人に神の愛と関心があります。 締め括り 意気揚々として神の命令も正しく守らず、鼻が高くなった帝王ダビデになるより、誰にも認められなくても黙々と命令に従った幕屋の門衛オベド・エドムになりたいと思います。今日のこの言葉を通して、私たちも自分についてもう一度、省みましょう。私たちは、ダビデに近いでしょうか?それとも、オベド・エドムに近いでしょうか?私達はどちらを追い求めて、この世を生きていますか?ただ派手な人生ですか?派手ではないけれど、神のご命令に聞き従う真面目な人生ですか?今日、神様が私たちに望んでおられるのは、果たして、どれでしょうか?安らかさと華やかさを追求している、この時代、この世に生きていく私たちは、世の華やかさにより、神様の小さなお声を聞き逃して生きているのではないでしょうか?華やかで良い物に覆われ、神の御心とは何かについて忘れて生きるよりは、不便であるにも関わらず、神の言葉に真面目に耳を傾ける志免教会になってまいりましょう。この言葉を通して神様の御心をもう一度、顧みることができますように祈り願います。

迫 害

エレミヤ書 15章15節 (旧1206頁) ヨハネによる福音書 15章18-27節(新199頁) 日本の自然はとても美しいと思います。私が世界のあちこちに旅行した結果、アジアでは日本が最も美しい自然を持っていました。私はその中でも、糟屋郡の景色が一番好きです。ボタ山から佐谷に至る志免と須恵の風景、教会の庭で楽しむ星空、若杉山の森と青空、米の山の天辺で眺める玄界灘(げんかいなだ)の夕焼け、何一つも美しくないものはありませんでした。私たちは、このようにあまりにも美しい日本で生きています。しかし、この美しい日本は、実際には戦場であります。目に見えない霊的な戦いが絶えない戦場なのです。神様を知る少数の人々が、神様を知らない空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊と激しく戦っている、恐ろしい戦場であります。しかし、普通の人々は、それを知りません。ひたすらイエス・キリストを信じ、彼を通して神様を知っている私たち、キリスト者だけが、この美しい日本という戦場で苦闘して生きているのです。 神様は千年を一日のように、一日を千年のように、生きておられる方です。千年が一日のような方ですので、百年も生きない人間は、神様の御業を見ることが出来ません。だから、神という存在は全くないと言い、神の存在自体を否定したりします。そのような人間は、自分の力では神を知ることも、見ることも出来ません。そういうわけで、人間は自分らの思想、民族、理念だけが正しいと思いつつ、生きていきます。空中に勢力を持つ者、悪魔はそのような人間の思想、民族、理念を用い、分裂させ、苦しみをもたらします。そのような悪魔に支配されている、この世で、神様を知ることも、見ることも出来ない人たちと一緒に生きていくキリスト者は、必然的に迫害を受けることになっています。彼らとは違う価値観を持って生きていくからです。今日は、イエスを信じる私たちが絶対に避けることが出来ない生き方、迫害を受ける生について皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。 1.主の御言葉に従う人は迫害を受ける。 旧約聖書に登場する人物の中で、迫害を受けた者として一番有名な人は多分、エレミヤでしょう。神は生まれる前から彼を選ばれ、彼に預言者としての人生を命じられました。しかし、エレミヤはマイナーな祭司の家柄出身でしたので、彼の社会的な影響力は非常に微々たるものでした。そして当時のイスラエルの民は非常に堕落していましたので、主の御言葉に背く一方でした。彼が宣べ伝えたメッセージは、常に人々に退けられました。エレミヤは自分の故郷でさえ、憎まれた人であり、神の御言葉を宣言する際すら、酷い迫害を受けなければなりませんでした。エレミヤは神様に正式に召され、神のご命令に聞き従い、『イスラエルの民が悔い改めなければ、神の罰によって滅ぼされる。』と絶えず伝えました。しかし、皆、彼の警告を無視する一方でした。結局、エレミヤは、自分の国と民族が滅ぼされることを悲しみと涙で目撃しなければなりませんでした。そのためか、ある人はエレミヤを涙の預言者と呼んだりします。 『主の名を口にすまい、もう、その名によって語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。』(エレミヤ20:9)神様がエレミヤに与えられた使命は、むしろ、彼にとって呪いのような苦しみとなりました。いくら伝えても変わらないイスラエルの民を見て、エレミヤは数多くの虚しさと悲しみを感じたでしょう。しかし、その後も、イスラエルは全く変わらなかったのです。しかし、神の命令は厳重で、エレミヤの使命の炎は消えませんでした。『エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。あなたは死刑に処せられねばならない。』(エレミヤ26:8)彼はその使命に従い、神の言葉を加減なしに伝えたのに、むしろ民は彼を殺そうとしました。 神はエレミヤに、常に正しい御言葉を伝えさせました。民が悔い改めて神に戻ってくるように絶えず伝えさせたのです。しかし、民は自分勝手に振舞い、自分たちの耳に聞きやすい言葉だけを聞こうとしました。そのため、偽預言者たちが偽りの予言を伝え、民を誘惑し、人々は彼らの言葉を好んで聞きました。神様の言葉をそのまま伝えたエレミヤは、むしろ、そのような人々によって甚だしい迫害を受けなければなりませんでした。彼は毎日泣き、苦しみ、悲しみました。正しい道を告げ知らせたエレミヤでしたが、彼に戻ってきたのは、批判と憎しみだけでした。なぜ善良で誠実なエレミヤは迫害を受けたのでしょうか?その理由は、まさに神の御言葉を、ありのままに宣べ伝えたからです。 イスラエルの民が神の言葉より、自分たちの耳に楽しい言葉だけを聞こうとしたため、神の言葉に従おうとしたエレミヤは、激しい迫害と苦しみに生きなければならなかったということです。 2.真剣に主に従おうとするなら迫害は避けられない。 『歴史は繰り返される。』という言葉があります。聖書でも、そのような例を見つけることができます。エレミヤが伝えた警告の言葉に背く一方だったイスラエルは、最終的に滅びました。ユダ王国のゼデキヤ王はバビロンに捕えられ、拷問されて両眼を失いました。王子たちも残酷に殺されました。彼は死ぬまで捕囚として生きなければなりませんでした。神様に聞き従わなかったイスラエルは、そのように滅ぼされたのです。約70年後、バビロンの捕囚から解き放され、再び故郷に帰ってきたイスラエルの民は、祭司エズラを中心とし、過去の罪を悔い改めて真面目に神様に仕えようと誓いました。ところが、数百年の時間が経ち、イエスの時代になると、過去、切に悔い改めたイスラエルの子孫が、しかもエレミヤを尊敬すると言う人々が、神から直接遣わされた者を、もう一度、激しく迫害します。まさにイエス・キリストのことです。 『世はわたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。』(ヨハネ7:7)迫害の理由はエレミヤと同じです。神の言葉に従い、間違ったことを間違っていると話されたのに、人々はその言葉のため、イエスを憎んだのです。主イエスが神の御言葉を加減無く、ありのままに伝えられたからです。 エレミヤとイエスの出来事を通して、私たちは、変わらない真理が分かります。『世の人々にありのままの神の言葉を伝えると憎しみ、すなわち迫害を受ける。』ということです。先ほど、申し上げましたが、この世界は空中に勢力を持つ者に支配されています。空中に勢力を持つ者とは、神様を憎んで反抗する悪魔と呼ばれる悪い霊を意味します。この邪悪な霊は、人間の思想、民族、理念を用い、分裂を起こし、苦しみをもたらします。ところで、そのような悪魔の支配による人間の悪行を、神の言葉を持って、間違っていると指摘すれば、この世は全力で神の言葉に跳ね返ります。その際、神様に属している人は、彼らに迫害を受けます。彼らが神様を憎んでいるから、イエス・キリストを憎んでいるからです。『あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。』(ヨハネ15:19) ヨハネは、イエス・キリストが肉となって来られた神の言葉であると語りました。いつか、私は説教を通して神の言葉、ロゴスの意味は、神の御心、意志、精神だと申し上げました。私は聖書が示している神の御心とは、『すべての人がイエスを信じて救われ、神に戻ってきて、神の下で皆がお互いに愛し合い、イエス・キリストの再臨の時まで、この世界から悪を取り除き、善を成し遂げること。』だと理解しております。神様が御言葉であるイエスを遣わされた理由は、そのイエス・キリストが、その神の御心を成し遂げるための親石となるからです。しかし、先にお話しましたように、神の言葉が、ありのままに伝わって世が変わると、空中の権力を持つ悪い霊が居場所を失ってしまいます。つまり、悪魔は自分たちが生き残るために、神様に正面から反発し、絶えず悪を行うということです。そして、その悪の中、イエスを通して神様に属している者たちを苦しめるのです。そこから来るのが、まさに迫害であります。空中の権力を持つ者と彼らに支配される世が、神様とイエスを憎んでいるので、そのイエスの体である教会と、その教会員も憎まれます。そういうわけで、キリスト者は迫害を避けることが出来ないのです。 3.迫害を恐れてはいけない! もし、私達が本当にイエス・キリストを正しく信じているなら、完全に神に属しているならば、私たちは必然的に迫害を受けつつ、生きていくしかありません。もし、周りの人々に、キリスト者としてのアイデンティティをも見せず、彼らに『キリスト者のあの人は、私たちとは何か違うところがある。』というような評価を全く受けられないほど、キリスト者としての在り方とは関わりのない生活をしているならば、私たちは、自分自身を一度、反省してみる必要があるでしょう。もし、迫害を恐れ、人々の目を恐れ、キリスト者であることを隠すなら、自分自身の評判のために教会を否定するなら、隣人の魂への憐みのために、キリストの福音を伝道しないならば、我々は、自分が本当にイエス・キリストに属しているのかどうか、真剣に省みるべきでしょう。キリスト者に対する迫害は、すでに定まっている事実であり、避けられない道であります。なぜならば、私たちは、この世が憎むイエスに属しているキリスト者だからです。 17世紀、徳川幕府の下で、多くのカトリック信者は迫害を受け、殺されました。キリストへの信仰を守るために、多くの信者が命を掛けました。イエスの顔が描かれている銅板を足で踏むことにより、自分の信仰を諦める踏み絵を拒否し、消えて行った大勢の信者の血が、今も九州のあちこちで叫んでいます。しかし、それとは違って、軍国主義の迫害を恐れ、教会を守るという口実で帝国に屈した日本のプロテスタント教会ではたった一人の殉教者も出さなかったそうです。むしろ、日本の教会は、朝鮮を始め、アジアの植民地の諸教会に神社参拝を強要し、その中で、朝鮮の教会も、その強要に屈して、一緒に神社参拝を行いました。日本キリスト教会は、後日、それを徹底的に反省し、謝罪しましたが、まだ日本にはそんな過去の罪を悔い改めていない教会が、たくさん残っています。また、韓国でも、その偶像崇拝の罪を悔い改めていない教会がたくさんあります。迫害を恐れていた旧日本のプロテスタント教会は日本カトリック教会の殉教の歴史に泥を塗ってしまいました。戦後、韓国の教会は神社参拝の歴史により、四分五裂してしまいました。私たちは、このような迫害に負ける歴史を二度と繰り返してはならないでしょう。 締め括り 『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』(マタイ7:13-14)『人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。』(マタイ10:33)私たちが住んでいる美しい日本は霊的な戦場です。そのため、私たちはいつも迫害に晒されています。イエス・キリストは今日も御言葉を通して、キリスト者が受ける迫害について語っておられます。迫害の道は狭いです。しかし、命に至る道です。迫害を避ける道は広いです。しかし、その道は滅びの道です。今日の自分の安らぎために、イエス様が予告された迫害を避けようとする人は、それより恐ろしい神の裁きが待っていることを心に留める必要があります。ヨハネ10章には、『羊は飼い主の声を知っている。』と記されています。私たちが、イエスの守りの下で生きていく喜ばれる民になるためには、イエス様から得る安らぎの道だけではなく、イエスのために得る迫害の道をも進むべきでしょう。主の御言葉を知っているからです。なにとぞ、主の聖霊が私達と一緒におられ、イエスを主と信じている我々、志免教会に迫害に屈しない勇気と信仰をくださるように心から願い、祈ります。

助け主聖霊の予告。

詩編20編7-9節 ヨハネによる福音書14章15-21節 前置き キリスト教が他の宗教に比べて特別なところは、我々が信じる神という存在が、ただ崇拝されるだけで、かけ離れた存在ではなく、私たちと同じ立場で、私たちの弱さと痛みを一緒に背負っておられる方であるということです。もっと詳しく言うと、神と人間の仲介者、イエス・キリストが神側の代表であると同時に、人間側の代表でもあり、神と人間の間に堅固な架橋になってくださるということです。世界のどの宗教も、神と信者の間にそのような関係を結んでいません。神は誰よりも大いなる方、強い方でいらっしゃいますが、自分の子供である信徒たちのためには、自ら小さくなり、弱くなってくださる方であります。それにより口先だけの慰めと愛ではなく、ご自分の体で直接信徒たちの苦痛を背負ってくださる方であります。 もし、神がただ崇拝されることだけを求める存在だったら、神の息子、神ご自身であるイエス・キリストは十字架で死ななかったでしょう。キリスト教の特徴は、まさにそこにあります。キリストが私たちと共におられること、私たちの苦しみを知っておられること、そして私たちの弱さを知っておられること、これにより、私たちは神と繋げられ、もはや一人ではないようになること、私たちの痛みが癒されること、私たちが主によって強くなるということでしょう。主は今日も私たちを愛しておられ、喜んで私たちのために損害を甘受してくださる、私たちの家族、父、兄弟、助けてくださる方になってくださいます。それでは、主はどのような方法で、人間と一つになり、私たちの痛みを感じられ、私たちの助けになってくださるでしょうか? 1.聖霊を送って私たちと一つになってくださる主。 聖書で、聖霊は、しばしば油に例えられます。特に、使徒言行録では油注がれたという表現で、聖霊の臨在を示すこともあります。『ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。』(使徒言行録10:38)ここで『によって』として翻訳されたギリシャ語は、もともと、『何かを塗る。』という意味として使われる表現です。『聖霊と力が、まるで油のように主イエスに塗られた。』という意味でしょう。もちろん、聖霊は油ではありません。ここでの油は、神が旧約時代の王、祭司、預言者を選ばれる際に、行われた特定の行為に用いられた材料に基づいた言葉です。『油の壺を取って彼の頭に注いで言いなさい。主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とすると。』(列王記下9:3) 先ほど読んだ言葉には、イスラエルの王だけが登場していますが、旧約聖書をよく読んでみると、王だけでなく、祭司、預言者まで、皆が神が命じられたように、油を注がれて、自分の役割を果たしたことが分かります。王、祭司、預言者はめいめい自分の場所で、神に代わって、神の統治を示す仕事をしていた者です。王は自分の権力と名誉のために働いていた者ではなく、真の王である神の統治を代理に行うメッセンジャーだったというわけです。祭司は神と民の間で民の代表となって、神に生け贄をささげた者でした。預言者は王と祭司、民に生きておられる神の厳重な言葉を伝える者でした。彼らが、その務めを上手く行う際に、神は民を惜しげもなく助けてくださり、油そそがれた者とその民に平安と幸福を許されたのです。  彼らが神に油注がれた理由は、自分のためではなく、民への神の統治を示すために、神と民のお交わりのために、神の御言葉を民に伝えるために、ひたすら神の手と足となるためでした。つまり、神は王、祭司、預言者のような油注がれた者たちの務めを通して民の中におられることを示され、油注がれた者たちは、自分らの務めを通して人々に神の臨在と統治を示したということです。その中で、神はご自分の民を祝福されたのです。民に聖霊が臨まれるということは、このような油注ぎと似ています。聖霊が民に臨まれるというのは、神ご自身の統治を現わし、民に崇められ、民に御言葉を伝えられることを意味します。つまり、聖霊が私たちの中にいらっしゃること、聖霊の臨在は民と一つになられ、その民を助けてくださる神の存在をリアルタイムで民に見せてくださり、祝福してくださることを意味するものです。 2.聖霊を通して主が我らの間に、我らが主の中に。 旧約の油注ぎは象徴性を持った行為です。神ご自身の僕に油を注いでくださることは、神の聖霊が彼に臨まれ、その僕が神の力を持って神の御働きをするようになるということです。あの有名なモーセも、ダビデも、士師も、最終的にイエス・キリストも油注ぎという象徴性を持つ聖霊の存在により、自分たちの務めをし、それを成し遂げたのです。そして、かれらを通して民は祝福を受けたのです。つまり、油注がれるということは、聖霊が神のメッセンジャーに強く臨まれ、豊かな神の力の中で、神の御業をするために選ばれること、そして、それを通して人々に神の祝福を流すことを意味するものです。 今日の旧約本文は油注がれた者への神のお助けについて、こう描いています。『今、わたしは知った、主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。』(詩篇20:7)詩篇20篇は、神が立てられた帝王、メシアが神のお助けのもと、勝利を勝ち取ることを褒め称える帝王詩であります。神はご自分が立てられた油注がれた者をお助けくださり、勝利を与えてくださるでしょう。これは新約まで繋がり、神から遣わされたキリスト、イエスに成し遂げられる予言でもあります。神のメッセンジャー、油注がれた者は、自分の力と考えに従っては、務めません。神の聖霊のお導きのもとで、神の御心に聞き従うことによって、自分に委ねられたことを行うだけです。そして、その行ないの中心には、聖霊の主権的なお助けがあります。 先週の説教を通して、我々は、イエス・キリストによって歴史の外におられる神を歴史の中で知ることになると学びました。その神と人間の間に入ってこられ、お互いを取り結んででくださったイエス・キリストは、神の油注がれた者であって、聖霊の臨在の中で働いておられる方です。このイエス様によって来られた聖霊を通して、私たちは神を悟るようになり、神の中にいるようになり、神の祝福を受けるようになります。また、このイエスを通して来られた聖霊によって父なる神は、私たちの間にとどまってくださいます。神とイエス・キリストから送られた、この聖霊は、イエス・キリストを通して、私たちの中にとどまってくださるようになり、まるで私たちが旧約の油注がれた者のように、神のメッセンジャーとして生きることができるように私たちを導いてくださいます。聖霊が私たちに臨まれたということは、もはや自分のために、私一人だけのために生きるのではなく、私たちの生活を通して神様の偉大な御業が行われるということを意味するものです。 3.聖霊の御働き。 『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。』(ヨハネ14:16)旧約の王、祭司、預言者たちに注がれた油は、メシア、イエス・キリストにも注がれ、今ではそのイエス・キリストを通して、彼を信じる新約の信徒たちにも注がれています。今や油という象徴ではなく、本物の聖霊が私たちの内に臨んでおられるのです。これに対してイエスは、「イエス・キリスト、ご自身ではなく、別の助け主、聖霊が来られる。」と言われました。『この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』(ヨハネ14:17)この聖霊は、誰にも臨まれる方ではありません。ただ、イエスを通して、イエスを信じる者だけに来られる方です。これは聖霊が歴史の外に戻り、玉座に行かれたイエスの霊として来られ、この世界の終わりまで、イエス・キリストを信じる者達に臨まれ、共に歩んで行かれることを意味します。 『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』(ヨハネ14:12)肉体を持ったイエスは、もはや私たちの隣におられなくなりましたけれども、そのイエスを通して助け主である聖霊が私たちの内に来られるようになったということです。イエス・キリストは肉体を持った方ですので、お疲れを感じ、痛みを感じる弱さを持っておられましたが、霊である聖霊は、それとは違います。聖霊はイエスの御心を持っていますが、肉体ではなく霊でいらっしゃいますので強力な神の力を持って、私たちの内にいらっしゃる方です。その聖霊が私たちの内に、イエスの心をくださり、イエスの力をくださり、イエスの手と足として、主の御業を代わりにさせてくださり、それより大きな業が出来るようにしてくださるのです。私たちの心に聖霊がおられますので、私達はイエスを信じるようになり、隣人のために善を行なうようになり、神を愛するようになり、神が感じられるようになるのです。 『わたしは、あなたがたを孤児にはして置かない。あなた方のところに戻って来る。』(ヨハネ12:18)イエスの代わりに、私たちの内におられる聖霊は、また御父の御心をも、私たちに教えてくださいます。私たちは、私たちの願いによってはこの世に生まれてはいません。ある人は、生まれてから今まで事欠くことなく、安らかに生きてきたかも知れません。しかし、ある人は肉体的にも、精神的にもあまりにも苦しく生きてきたかも知れません。時には死にたいほど絶望した時もあるでしょう。しかし、聖霊が私たちの内におられれば、その聖霊を通して御父の愛と慰めが私たちのところに来ます。この世の中に、私たちが一人ぼっちのように残されたと感じられる時、御父は私たちを息子よ!娘よ!と聖霊を通して呼び掛けてくださいます。私たちは、孤児ではありません。父なる神の御心を持っておられる聖霊が今も私たちの間に一緒におられるからです。 締め括り イエス・キリストはこのように聖霊という助け主が来られるということの予告を通して弟子たちを慰めてくださいました。これは、今の私達においては、すでに聖霊が私たちの内におられるということを意味します。実際に使徒言行録では、聖霊が臨在されたことを証言しています。旧約聖書の聖霊は、特別に選ばれた油注がれた者に許されましたが、しかし、今ではイエスを通して、イエスを信じるすべての人に許される方であります。今日も聖霊は、私たちがイエスを信じるように導いてくださり、御言葉が分かるように教えてくださり、神と隣人を愛するようにさせてくださり、私たちが福音を伝えることが出来るように助けてくださいます。 先週、私たちは『お互いに愛すること』を通して歴史の外におられる神に会えると学びました。聖霊も同じだと思います。私たちが『互いに愛し合うこと』によって、イエス・キリストの新しい戒めを守る時、その愛の中で聖霊はお働きになるでしょう。その愛の中で、父なる神の御心を示してくださり、その愛の中で、イエスの愛を示してくださり、その愛の中で、私たちが主の御業をすることが出来るよう助けてくださるでしょう。私たちの生活の中に聖霊がおられます。この聖霊を通して私たちは、今日も神の御業を代わりに行うことが出来ます。聖霊を通して私たちの内におられ、私たちを祝福してくださるイエスに頼ってまいりましょう。私たちは決して一人ではありません。いつまでも聖霊が私たちと一緒におられるからです。

歴史を超える神の恵み。

イザヤ55章6-9節 ヨハネによる福音書 13章31-35節 すべての人は、歴史の中に生きていきます。すべての生き物や物事には歴史が潜んでいます。庭の草一本にも、この志免教会にも、皆さんお一人お一人にも歴史があります。すべての個人の歴史が集まり、九州の歴史、日本の歴史、地球の歴史、最終的に1つの巨大な歴史が成り立ちます。先日、インターネットで『歴史とは、すべての科学の基である。』という言葉を見ました。誰の言葉かは分かりませんが、確かにそうだと思いました。私たちは、科学を考える際に、ロボット、宇宙船などを思い浮かべる傾向があります。しかし、科学という言葉は、より広い意味で『原因と結果が明らかな何か。』を意味します。数学、物理学、生物学のように一定の対象を客観的に研究するというのが科学なんです。なので科学は、主に人々の予測範囲の内で行われるものであります。だから、科学の基となる歴史というのも、原因と結果が明らかであると思います。つまり歴史というものも、結局ある程度、人間の予測の内にあるということです。 その反面、神様は歴史の外におられる方です。人々が同じ題名で一緒に祈っても、ある人は一日で祈りが叶う一方で、ある人は、10年間祈っても叶わない場合があります。また、人間が精一杯、神の御心を知ろうとしても全く知ることが出来ないこともあります。なぜなら神様は定められた予測の中に、つまり歴史の中におられる方ではないからです。いくら、全世界の70億の人口が頭を寄せ合って工夫をしても、主の深い御心を知ることは出来ません。なので、神様は、イザヤ書を通してこう言われます。『天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。』神様は歴史の外におられる方です。神のお考えを人間が知り抜くことは不可能です。ヨハネによる福音書の後半を飾る十字架の福音も同じです。歴史の外にありますので、人間が全く理解できない神秘的なものです。今日はこの歴史の外におられる神様が歴史の中に、イエスを遣わされ、何をなさったのかについて考えてみたいと思います。 1.人の手で触れることが出来ない全能の神様。 神様はこの世界を創造し、秩序をくださった方でいらっしゃいます。世界を創造された主は、この世界のすべてをご存知でいらっしゃる方です。彼はいつも世界の外から、全世界を一目で眺めておられる創り主であるからです。被造物は、歴史という領域の中で生きていますが、この歴史というのは、時間と空間によって構成されています。時間と空間を創造された神様は、歴史をも造られ、その中にすべての被造物を置かれました。ですので、被造物は、その時間と空間によって成り立つ歴史に逆らうことが出来ません。さらに、人間は歴史の外におられる全能の神様を知ることも出来ず、探すことも出来ません。偉大な神様は、時間と空間を超越する方、私達の畏れるべき方であります。 つまり、これは人間が先に神様を見つけることが決して出来ないということを意味します。人間の科学が発達して遠い宇宙に飛んで行っても、そこで神様を見出だすことは出来ません。人間が地球の中心部まで掘り下げて行っても、そこに神を見つけることは出来ません。人間の手の届くところは、時空の歴史の中だけに存在するからです。 『全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。』(ヨブ37:23)ですから、人は神様の御心を知ることが出来ません。個人的な話ですが、昨年の今頃、私は夜のお祈りをする際に神様に問い質したことがあります。私は当時、非常に怒っていました。 『神様!日本のキリスト教会は、欲張らず、政治との癒着もなく、誠実に神に信頼していると思います。なのに、なぜこのように牧師が足りないのですか?なぜ、このように未来が危うくならなければならないのですか?神様は、日本の教会のために何をしておられるんですか?あなたは本当に働いておられるんですか?』 私は、全く理解できませんでした。全能者と呼ばれる神様は、ご自分の民と共におられると聖書は常に証言しているのに、神様は、日本のキリスト教会のために、一体何をしておられるのか分かりませんでした。恥ずかしい話ですが、韓国ではカトリックとプロテスタントを含め、全人口の三割に近いかなりの人々が神を信じていますが、日本の教会と比べれば、政治、社会的な不条理が本当に多いと思います。それに比べて、日本の教会は、とても綺麗で真面目であると思います。それにも拘わらず、日本の教会を1%未満の小さな群れに放って置かれる理由が分かりませんでした。その翌日、聖書を読んでいる時、神様は御言葉を通して私にお答えくださいました。 『どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩』(イザヤ26:4)その日、私はやっと気づきました。 『私が考えている現実は、おそらく神様が考えておられる現実とは異なるかも知れないな。神のお考えは、私たちの考えとは全く違うだろうな』と。その御言葉をいただき、悔い改めた記憶があります 。 2.歴史の外で栄光を収められる神様。 今日の新約本文はエルサレムに入城されたイエス・キリストが亡くなる前に、弟子たちの足を洗ってくださり、一緒に聖晩餐を施される箇所の最後の場面であります。 3年間、一緒に生活した弟子の1人イスカリオテのユダがイエスを売り渡すために席を蹴っていく場面です。私達は、すでにイエスがご自分の民を救われるために、死ぬために来られた方であることを学んで知っています。イエス様が必ず十字架につけられるということ、そのためにユダが必ずイエスを裏切らなければならないということをも、よく知っています。しかし、私たちと違ってそれを知らなかった、当時の弟子たちにとって、イエスの死とユダの裏切りは、想像も出来ないほどの心苦しいことだったでしょう。たとえば、今、一緒に礼拝している志免教会員の一人が突然、立ち上がって外に出て、信仰を捨てれば、私たちの心はどうなるでしょうか?しかし、主は、すでにユダの裏切り、ご自分の犠牲をすべて知っておられました。 主はまるで、すべてをご存知であったように不思議なお話をなさいました。『ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』(ヨハネ13:31)3年間、一緒にいた人が突然、走って出て行ったのに、しかもイエスを売り渡すために出て行ったのに、歴史の外の神様、全てを知っておられるイエス様は、なぜご自分が栄光を受けたと仰るのでしょうか?そして、なぜ、このイエス様によって、神様が栄光を受けられたと仰るのでしょうか?まず、栄光という言葉を取り上げてみましょう。私たちは、栄光という言葉を聞くとき、輝かしくて素敵な何かを思い浮かべたりします。もちろん栄光という言葉は、その意味をも持っています。しかし、別の意味も持っています。栄光とはギリシャ語で「ドクサ」と言いますが、この言葉は「ドケオー」に基づいた言葉です。 「ドケオー」は、『 – に見える。』 『- と思われる』という意味です。つまり、栄光というのは、その栄光の持ち主が – に見えるとき、 – と思われるとき、完全に輝けるという意味です。 神様が神様のお働きをされ、神らしく見えるとき、なので、神様が神様として思われる時、神の栄光は一番明るく輝くのです。すべてのことを計画される父なる神様の、そのご計画が成し遂げられた時、父なる神様の栄光は、光るのです。世の罪と罪責を解決するために、御父のご計画通り来られた御子が、罪と罪責を完全に解決するために十字架につけられ、ご自分の役割を果たされる時、御子の栄光は、明るく輝くでしょう。つまり、イエス様がイスカリオテのユダによって売られてしまったのは、人間の目には、惨めな最後のように見えましたが、神様とイエス様の目には、ご計画の達成として見えたということです。その計画によって行われたイエスの十字架の死は、人間には終わりでしたが、神様には終わりではなく、栄光の新しい歴史の始まりだったというわけです。そのすべては、人間が理解できない、神様の偉大なご計画でした。人間のための神様のご計画、イエスの死が、結局イエスの栄光となる逆説性、イエスの死によって御父の御心が成し遂げられ、神様の栄光が輝くようになったという逆説性、それは時空間の歴史の中に生きていく人間には絶対に理解できない、神の意義深い計画でした。 3.愛を通してご自分の民と会ってくださる愛の神。 『子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしが行く所にあなたたちは来ることができないとユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 』(ヨハネ13:33)ユダの裏切り、イエスの死はややもすれば、すべてが終わるように見えたかも知れませんが、歴史の外から歴史を眺めておられる神様には、より大きな栄光と成功のための一歩前進でした。その一歩、十字架の死によって人間を救われたイエス様は、もはや貧しくて弱く見えた最初のイエスではなく、再臨される王の中の王として栄光を受けられることでしょう。そうすれば、彼は歴史の外に、神の玉座にある元の場所に戻って行かれ、世界を治められるでしょう。時空間を超越する全能の神になられるでしょう。その歴史の外に弟子たちは、出て行くことが出来ません。そこは神の場所だからです。その代わりに、イエス・キリストは歴史の外におられるご自身と歴史の中にいる弟子たちが交わることが出来る方法を教えてくださいました。それは正にお互いに愛しあうことなんです。 『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)イエス・キリストは、十字架での死と復活の後、弟子たちが来ることが出来ない場所に行かれるでしょう。そこは時空間と歴史を超越した神様の場所であるからです。しかし、主はそこで弟子たちと新しい掟、愛を持って弟子たちとお交わりなさるでしょう。ここで、新しい掟とは何でしょうか?ギリシャ語には、二つの新しいという言葉があります。 「ネオス」と「カイノス」です。 「ネオス」は『ニュース』の語源ですが、順序的な新しさ、日本語では言葉通り『新しい』を意味するものです。「カイノス」は、過去から存在していたが、まだ実現できなかったものが、最終的に実現されて質的に更新するという、日本語では『新たな』に近い意味を持っている言葉です。そのため、Ⅱコリントでは『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』(Ⅱコリント5:17)とあります。過去からあったものが、何かによって新たになったという意味で使われます。もともと存在していたものが、イエス・キリストを通して、新たに更新されるという意味です。これが「カイノス」、新しいという意味です。 このように完全に新しくなった掟、主が与えられた新しい掟が、正に『イエス・キリストの中でお互いに愛すること』であります。新しい掟というのは過去からずっと続いてきた神様の掟、律法が更新されたということです。それが正に「互いに愛しあいなさい。」ということです。イエス・キリストを信じる主の弟子たちが、このような愛を持ってお互いに仕え、愛する時、主は主の弟子、教会とお交わりくださるのです。それによって世界はイエスの弟子たちを通して、歴史の外から世界を見ておられるイエスを、歴史の中でも見出すことが出来るようになります。『あのキリスト者、素晴らしくない?あの人を見てたら、イエス・キリストは本当に存在すると思うわ。』というように。イエス・キリストは神のご計画に聞き従って、十字架で自分を捧げました。そして、そのイエスを通して彼を信じる者は、神の赦しを受けました。歴史の外におられる神様は、そのようなイエスの死と罪の赦しを通して、歴史の中の神の子らを再び呼んでくださったのです。これが神様の栄光になりました。人間は歴史の中で、歴史の外におられる神を見ることが出来ません。しかしイエス・キリストから得た、互いに愛しあうという新しい掟を通して、人間は歴史の外におられる全能の神に会うことが出来るようになったのです。 歴史を超える神の恵み。 今日の旧約本文では『主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。』(イザヤ55:6)という言葉が出てきます。私たちが、主を尋ね求めるべき時はいつでしょうか?彼が私たちの近くにおられるうちはいつでしょうか?イエス・キリストが歴史の外から歴史を引き裂かれ、私たちにこられ、主の言葉を通して、私たちを召される時です。主の御言葉を通して福音が宣べ伝えられている、今です。私たちは、決して歴史の外におられる神様に行くことが出来ませんが、イエス・キリストが歴史を引き裂かれ、歴史に入って、私たちを召されるとき、私たちはそのイエスを通して神に会うことが出来ます。神のお考えは、私たちの考えとは異なります。ですから、私たちは、神の御心を到底理解できない時もあるでしょう。 しかし、神様は、イエス・キリストを通して、私たちが神様を知り、彼の御心を悟ることが出来る道を与えてくださいました。歴史を引き裂かれて、私たちに来られたイエス・キリストは、神様と人間をつなぐ唯一の架け橋になってくださいます。この日本で、地球でイエスを信じるということは、掛け替えのない祝福であります。誰が歴史の外におられる全能の神と繋がることが出来るでしょうか?私たちを神様につないでくださったイエス様を信頼し、最後まで神様を信頼してまいりましょう。そして、このイエスを志免と須恵に住んでいる近所の人々に伝えて生きて行きましょう。来たる一週間、神様を信頼して生きる志免教会になりますように祈り、願います。