詩編74編9-17節 (旧909頁)
マルコによる福音書1章21-28節(新62頁)
前置き
マルコによる福音書は、ローマ帝国の激しい宗教弾圧で毎日毎日を恐れの中で生きてきた初期キリスト者を慰めるために記録された慰めの福音書でした。イエスは神である身分を捨てて、この地に来られ、人間と一緒にいてくださり、慰めてくださいました。イエスは神のメシアであるにもかかわらず、人間の側に立って、洗礼と試練とを体験してくださいました。これは、神でいらっしゃるイエス様が名目上だけ、人間の見た目をお取りになったわけではなく、自から人間の所まで低くなってくださり、人間の惨めさと弱さを直接体験してくださった愛の行為でした。さらに主は、この地上で神と罪人が和解できる方法を教えてくださり、人間を神のみもとに導くために、弱い弟子たちを召し寄せ、真理を教えてくださいました。イエスは、2000年が経った現代でも、変わることなく主の民と共におられ、わたしたちの進むべき道を導いてくださる真の救い主でいらっしゃいます。今日は、このイエスの権威とイエスに反抗する邪悪な霊について分かち合い、私たちへの愛をお止めにならない主について話してみたいと思います。
1.イエスの権威
今日は個人的な話で説教を始めたいと思います。小学校5年生ごろ、私の出身教会で、驚くべき出来事がありました。教会の近所に、ある悪霊に取り付かれた人がいましたが、その家族が彼を教会に連れてきたのでした。当時、主任牧師、伝道師、祈りに励む信徒たちは彼を囲んで切に祈りました。 「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」一緒にいた人たちは、長い時間、その人のために祈り、絶えずイエス・キリストの御名を宣言しつつ、邪悪な霊が立ち去ることを命じたのです。母によると、数時間後、悪霊は去っていき、その人は正気に返ったそうです。私の出身教会も日キや改革派教会のように、韓国の教派の中で、かなり静かで説教と聖礼典を中心とする教会だったので、その出来事は、いっそう衝撃的な経験として感じられました。ところで、それから30年近く経った今でも、私の脳裏に深く焼き付き、決して忘れられない言葉があります。それは「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」です。いったい、そのナザレのイエスという名前にどのような権威がある故に、悪霊という恐ろしい存在が追い出せたのでしょうか?私は、今日の本文で、その姿を再び、垣間見ることが出来ました。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣を起こさせ、大声をあげて出て行った。」(23-26)洗礼、試練、福音の宣言、弟子たちへのお召しなど、地上での御業の準備を整えられた主は、人間の目に見える強力な最初のしるしとして、悪霊を追い出して権威を示してくださいました。悪霊は人間の力では、到底どうしようもない存在です。「(あなたがたは、以前は)この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に、今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:2)悪霊は人間の力の及ばないところから、世を支配し、人間を罪の道に導き、不従順な者となるように操る、超自然的な強力な存在です。しかし、イエスは彼らを一言だけで簡単に追い出してくださいました。主の権威は、強力な彼らさえも完全に圧倒するものでした。
2.悪霊とは?
なぜ、主は悪霊を追い出すという出来事を、目に見える最初のしるしとして示してくださったのでしょうか?それを知るために、我々はまず、キリスト教で語られる悪霊という存在について探ってみる必要があります。過去のキリスト教の伝統には、悪霊と関わる多くの話がありました。ジョン・ミルトンという17世紀の英国の作家は、これらの話を用い、「失楽園」という古典を残しました。私たちは、その本の内容を通して、昔のキリスト者が考えた悪霊の起源を、ある程度、推し量ってみることができます。 以下は失楽園に出て来る悪霊についての粗筋です。「遥かに遠い昔、神の傍らで賛美を捧げる天使であったルシファーは、ある瞬間、自分の栄光に酔って自制心を失ったあげく、神の輝かしい栄光を嫉妬してしまいました。彼は野望と傲慢と、神を越えようとする邪悪な反抗心で、自らが神になることを企てて、手下の天使たちを煽り、戦争を引き起こしました。神の大天使ミカエルの軍隊とルシファーの手下たちは、長い間、戦争を続け、最終的にルシファーと手下たちは敗北して天から落ちることになってしまいました。ルシファーは天上で神の僕になるより、地獄で王になるのが増しだと思い、最後まで邪悪な姿勢を取りました。」もちろん、これはあくまでも失楽園という作品の一部なので、聖書のような真理として受け入れるべきではない物語です。しかし、少なくとも、聖書に出てくる悪霊が、人が死んで化ける怨霊や、幽霊ではなく、堕落した天使に由来するというヒントを得ることは出来ると思います。
聖書が教えてくれる悪霊とは、神の権威を奪おうとする、邪悪な存在を意味するものです。神を賛美し、礼拝するために造られた、この被造世界で、神への賛美と礼拝を捧げられないようにする、神に不従順にさせる存在なのです。彼らは創世記のアダムとエバ、カイン、カインの子孫、バベルの塔の罪人たちのように、「自ら神になろうとする人」を誘惑する存在として描かれています。また、彼らは、そのような思想を貫くことによって、この世を支配している存在です。過去、世界を支配しようとしていた帝国の皇帝は、自らを神だと名乗り、神の座に上がろうとしました。古代エジプト、ペルシャ、ローマの皇帝、旧日本帝国には現人神という概念があり、現代の中国と北朝鮮では共産党が、その位置を占めています。これらすべての「人が神の座を奪おうとする行為」は、聖書が語る悪霊の仕業に似ています。つまり、聖書に登場する悪霊は「自ら神になろうとする全ての行為」の起原のように使用される表現です。したがって、我々は、この悪霊という表現を実際に存在する邪悪な霊的存在として理解しつつ、同時に神に反抗して聞き従わない、すべての邪悪な意図と心根であるとも理解できるでしょう。
創世記3章には、蛇の姿で人を不従順へと誘惑した存在がいましたが、キリスト教では、この蛇を悪霊の化身であると信じています。また、イエスの試練の時、イエスを誘惑した存在が、まさにこの悪霊という存在だったと信じているのです。このように悪霊は、人に傲慢さを与え、神を裏切るように誘惑する邪悪な存在なのです。私たち人間には自らを高めようとする意志があります。神は人に意志をくださり、その意志で神を賛美し、世界を美しく治めることをお望みになりましたが、罪によって汚された人間は、その意志を間違ったことに用いて、自分を高め、自分が崇拝されるものとなろうとする傾向を持つようになりました。神ではなく、自分を高め、神への礼拝のためではなく、自分の欲望を満たすために意志を誤用したわけです。聖書は、このすべてが悪霊の誘惑によるものだと言います。だからといって悪霊にすべての責任を負わせることはできません。誘惑は悪霊の仕業だとしても、その誘惑を受け入れる者は、まさに私たち自身であるからです。したがって、悪霊という存在は、実在する悪い霊であることと同時に、私たちの心の中に潜んでいる、自身を高め、神に不従順にさせる、自分の中にある邪悪な罪の性質であることを心に留めておくべきでしょう。
3.悪霊を追い出す権威ある新しい教え。
イエス様が一番最初に悪霊を追い出すというしるしを示してくださった理由は、イエスの到来と共に、今後、邪悪な霊の支配に終焉を告げるという意味を持つからです。 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)、「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。 イエスは言われた。わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」(ルカ10:17-19)イエスが悪霊を追い出されたその日、すでに神の国は、この地に実現しました。悪霊が支配していた、この地はイエスの到来の故に、神の本格的な支配の中に入るようになったのです。イエスの存在により、この地で悪霊の支配が崩れ、神の国が臨むようになったのです。イエスの権威によって主の体なる教会は、悪霊の力から逃れる権威を得る存在となりました。イエスを知らなかった時の私たちは、邪悪な霊に支配され、罪の性質を持って他人を憎み、自分の欲望だけに従って生きていましたが、今や、私たちは、イエス・キリストの存在により、そのような支配から脱した存在となりました。今日の本文のイエスは、実際に人に取りついた悪霊を追い出されましたが、今、私たちの間におられるイエスは、私たちが、邪悪な霊の誘惑と支配から逃れる道を開いてくださるのです。
悪霊を追い出す権威ある新しい教えとは、そういうことです。私たちを、もうこれ以上、悪の存在の手に振り回させず、キリストを通して神の御心に聞き従わせる主の御言葉なのです。私たちは、もはや自分を中心にし、自分自身だけのために生きる存在ではなく、イエスの御言葉を中心にし、主のように神と隣人を愛して生きるようになった者です。 「人々は皆驚いて、論じ合った。これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」(マルコ1:27-28)主は口先だけで神について語る方ではありませんでした。御言葉に伴って、それに相応しいしるし、つまり、悪霊を追い出すことによって、ご自分の絶対的な権威を示してくださいました。そして、その結果、イエスの御名が世の中に伝わりました。私たちがイエスのように完全な存在になることは有り得ません。しかし、私たちは少なくとも、イエス・キリストが、すでに悪霊の支配する世に勝利なさったことを悟りました。御言葉と権威はイエス様にあります。今や私たちは、その御言葉と権威に依り頼み、主を宣べ伝え、主に喜ばれる生活を営むべきです。なぜなら、私たちは、この世を恐れず、堂々と進んで行ける資格を与えられたからです。また、私たちの頭であるイエス・キリストが悪霊をも滅ぼされる御言葉の権威で、私たちの中に一緒におられるからです。
締め括り
「しかし神よ、古よりのわたしの王よ、この地に救いの御業を果たされる方よ。あなたは、御力をもって海を分け、大水の上で竜の頭を砕かれました。レビヤタンの頭を打ち砕き、それを砂漠の民の食糧とされたのもあなたです。あなたは、泉や川を開かれましたが、絶えることのない大河の水を涸らされました。」(詩篇74:12-15)詩編74編に出てくる竜とレビヤタンはイスラエルを支配していた強い国を意味するもので、多くの学者たちに世界を支配した悪の存在の力として解釈されました。主はこのような邪悪な存在さえ、御裁きになる全能な方なのです。イエスが悪霊を追い出されたのも、このような視点から、解釈することが出来ます。神はイエス・キリストの到来を通して、世に新しい希望を与えてくださいました。アドベントの期間を過ごしている今、神に与えられた権威をもって世界を治めておられるイエス・キリストを覚えたいと思います。私たちの中に、如何なる困難と障害と挫折があっても、真の勝利者イエス・キリストを覚えて生きていきましょう。主イエスがカペナウムの悪霊に取り付かれた者を救ってくださったように、神様が帝国の邪悪な支配からイスラエルを救ってくださったように、私たちにも同じ救いと平和を与えてくださると信じます。クリスマスを迎えて、来たるべきイエス・キリストを記念しつつ、私たちに勝利と救いをくださる主を賛美する1週間になることを祈ります。