創世記 4章16-26節、5章28-29節 (旧6-7頁)
エフェソの信徒への手紙4章22-24節(新357頁)
前置き
初めの人は、神に象った存在として生まれました。初めの人は、神のように義を求め、神と和やかで、共に歩み、神の御心を示す存在として生まれたのです。使徒パウロは、エフェソ書4章24節を通して、このように語っています。 「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」「新しい人を身に着ける。」という表現は、神が御計画なさった神に象られた、創造の時の人間像を回復せよという意味です。そして、その創造の時の人間像は「真理と正しさと清さ」を身に着けている義人を意味するものです。つまり、神に象ったということは、神様に由来する「真理と正しさと清さ」を持っている存在を意味します。ところで、この「真理と正しさと清さ」を破るものは人の罪です。初めにアダムが堕落して以来、今までに、神は「真理と正しさと清さ」を追い求める人を探して来られました。そして、今日の本文は、それを追求した者らと疎かにした者らの系図を示しています。今日は創世記4章に出て来る、神を追求する系図と神を求めていない系図について分かち合いたいと思います。 「私はどの系図に属する人なのか?」自分のことを省みながら、御言葉にあずかりたいと思います。
1.罪人をお捨てにならない神。
初めの人間、アダムは神のようになろうと、神との約束を破り、その結果、神から呪いを受けました。そのため、彼は神の御前から追い出されたのです。しかし、神は彼に怒りだけを発してはおられませんでした。彼が罪を犯したにもかかわらず、神はイチジクの葉でかろうじて体を覆っていた彼に皮の衣を着せてくださり、すぐに殺すことはなさ
らず、代を継承する機会を与えてくださいました。確かに彼から永遠の命は御取りになりましたが、少なくとも彼の分身のような子供たちを儲ける余地は残してくださったのです。アダムはいつか死ぬのです。しかし、彼の子孫は、代を継いでアダムという先祖があったということを覚えるでしょう。愛の神は人間の滅びを望まれる方ではありません。アダムは、しばらくして、カインとアベルという二人の息子を儲けることになりました。成長したカインとアベルは、めいめい農業と牧畜を営み、エデンの周辺に住みつきました。神はアダムと同様、彼らをもお捨てになりませんでした。約束を壊し、神との関係が切れてしまったアダム、また、彼から生まれた息子たちでしたが、愛の神は、依然として彼らの人生の中に共におられたのです。
しかし、罪によって堕落した人は、神に完全な礼拝を捧げることができませんでした。アベルは純粋に信仰を守り、神の御心に相応しく生きようとする者でした。しかし、カインは神に完全な礼拝を捧げませんでした。同じ親から生まれ、一緒に神について学んだにも拘わらず、アベルは神を追い求めたのに対し、カインは神を疎かに扱ったのです。人の罪は人が完全に神に聞き従えないように、絶えず妨げるものです。ひょっとしたら、私達の中にもカインとアベルの生き方が存在しているかもしれません。時にはアベルのように完全な礼拝を夢見たりしますが、時には、カインのように神を疎かに扱ったりするという意味です。結局、カインはアベルへの憤りと妬みのため、一人だけの弟を殺してしまいました。人の罪の勢いが、神を追求する善い心を押さえ込んでしまったのです。このような出来事を通して、カインは、なおさら神から呪いを受けてしまいました。しかし、それでも、神はカインをお捨てになりませんでした。先々週の説教でも申し上げましたが、神はカインが「エデンの東」に落ち着くことを許されたのです。神はむしろカインが戻って来るのを望んでおられ、機会を与えてくださったのです。その証拠がまさに今日、登場するカインの系図なのです。たとい罪人だといっても、子孫を通してでも、彼らが戻ってくるのを望んでおられるのです。神は罪人に絶え間なく懺悔の機会を与えてくださいます。悔い改めて戻ってくることができるように、忍耐に忍耐を重ねられるのです。
2.なぜ神は罪人の存続を許しておられるのか?
しかし、残念なことにカインの子孫が神に戻ってくるのは、今日の本文では現れていません。むしろ、カインの子孫レメクは自分の力を誇るために、小さな傷の報いとして、ある弱い男を無惨に殺す罪を犯しています。 「レメクは妻に言った。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。」(23)それなのに、レメクは自分の殺人が正当であると居直りをしています。それだけでなく、神の言葉を引用して、このように告げてもいます。 「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。」(24)自分が神より11倍も大きい罰を下すと威張っているのです。このカインの子孫は、カインの悪をそのまま受け継ぎ、隣人を翻弄し、神をまで嘲弄しました。アダムの反逆から生まれた小さな罪の種が、アダムから永遠の命を奪い、カインが神に正しい礼拝を捧げることを妨げ、弟を殺す悪を作り、カインの子孫レメクが、神を嘲笑する絶え間ない不義をもたらしました。神は常に罪人に悔い改めの機会をくださいますが、もし罪人がその罪を悔い改めなければ、その罪はさらに大きくなり、一層あくどい罪を犯すように導きます。実に、罪というものは延々と人間を悪に追い込む厄災なのです。
レメクは神を嘲笑しつつ、まるで自分が神よりも強力な存在でもあるかのように、自分を高ぶっていました。しかし、それでも神は彼を、直ちに裁いてはおられませんでした。むしろ、彼の子供である、ヤバル、ユバル、トバル・カインが経済、文化、技術を掌握し、世界の先端を主導するように放って置かれました。神はなぜレメクと、その子供たち、すなわち罪人カインの子孫を直ちに裁かれなかったのでしょうか?カインはヘブライ語で「儲ける。生む。」という意味です。アダムが罪を犯し、永遠の命を奪われたにも拘わらず、神は死に値するアダムに息子をくださり、跡を継げるように、新しい命を与えてくださいました。これは神が罪人を許されたという意味ではありません。ただ、彼らが罪から離れ、神に戻ってくることを願っておられたからです。つまり、罪人から一縷の望みでも探そうとなさったからです。神は人殺しではありません。神は殺す方ではなく、生かす方なのです。したがって、神様も罪人をつれなく処断なさるよりは、彼が悔い改める機会を与えようとなさるのです。しかし、神は強制的に人間を操ることはなさりません。いつも人間に機会を与えてくださいます。罪に従うか?神様の御赦しの機会に応じるかは人間次第です。神は、そのためにアダムに与えられた自由意志を堕落したアダムの子孫たちにも残されたのです。もちろん、周知の事実のように罪人の自発的な懺悔はありませんでした。だからこそ、罪人を悔い改めに導かれる主イエスの恵みが輝くのでしょう。しかし、罪人への神の愛は私たちに神の御心を教える大事なものだと思います。
私たちは、偶にはこのように問い掛けたりします。 「なぜ神は不義な者をじっと置かれておられるのだろうか。」私は、今日の話を通して、こう答えたいと思います。 「愛の神は、彼らにも戻って来られる機会を与えてくださるのだ。人は誰もが、いつか死ぬに決まっているので、神の御裁きは定まっているのです。人間の目には、鈍く見えても、神の裁きは休まず進められているのです。命が尽きる、その日まで神様が与えられる、赦しの機会を捕まえられなければ、最終的には人間は死で裁かれます。そして肉体の死の後は、神に永遠に捨てられる真の死があるのでしょう。今、世の中はレメクの子たちのように、経済、文化、技術に大きな価値を置いて、肉の財力、権力、誉れに執着しています。いやひょっとしたらイエスを信じると告白している私たちも、それに捕らえられているのかもしれません。しかし、それらは神に逆らうカインの子孫も得ることが出来るものです。むしろ、カインの子孫が、そのようなものを掌握しているといっても過言ではないでしょう。しかし、そのような派手なものに対比される神への悔い改めと従順は、みすぼらしく見えます。神はいつも罪人にチャンスを与えてくださいます。罪人はいつも、そのような分れ目を前にして生きていくのです。私たちは、この華麗な世の文化の反対側にある、悔い改めと従順に集中しなければならないキリスト者たちです。キリスト者は、カインの道から外れ、神が与えてくださる赦しの機会を追い求めるべき存在なのです。
3.二人のレメクの物語。
アダムを通して生まれたカインとアベル、人類はこの二人の性質に沿って分かれます。神を疎かにするカインのような者と、神を大切にするアベルのような者。しかし、アベルはカインに殺されました、そのため、神はアベルの代わりにセトという息子を与えてくださいました。セトという名前はヘブライ語で「保存する。得る。」という意味を持っています。セトがアベルに代わる息子だという意味でしょう。アベルの純粋な信仰が、このセトを通して受け繋がれたということです。 「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(25-26)26節にセトがエノシュを生んだ時、人は初めて神の御名を呼び始めたと記されています。 「神の御名を呼ぶ。」という意味は、ヘブライ語の慣用句で神を礼拝し始めたという意味です。神はセトを通して、アベルが求めていた神への愛と仕えを回復させられたのです。しかしどういうわけかセトの子孫は、カインの子孫のように華麗で力強い印象は与えていません。有名なエノクを除けば、皆いるのかいないのか分からないほどの存在感で系図に名前が載っているだけです。このように、聖書では時々、義人が悪人より劣っているように描かれる場合もあります。しかし、神は人間の強さより、弱さの中でも、神を待ち望む、その謙虚な心をより大事に、評価なさいますので、神にとってセトの子孫の、その弱さは大きな問題にはなりませんでした。
面白いことにセトの子孫、すなわちアベルの精神的な子孫の中にもレメクという人がいました。カインの子孫の中にも、セトの子孫にもレメクという同じ名の人がいたのです。 「メトシェラは187歳になったとき、レメクをもうけた。」(5:25)(今日の本文は長すぎて、5章の一部だけを読みましたが、なるべく帰宅後に創世記5章全体をお読みいただくことをお勧めします。)セトの子孫レメクは、あのノアの箱舟を造った有名な人物ノアの父なのです。しかし、彼はカインの子孫レメクとは違い、神の御名を呼ぶ人、すなわち礼拝者でした。 「彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノアと名付けた。」(5:29)彼は神の約束を信じていました。神が女の子孫がヘビの子孫を打ち砕くという約束の言葉を待ち望み、その子ノアを通して神の慰めを願ったのです。同じアダムの子孫で、同じレメクという名前でしたが、二人は全く別の眼差しを持って、神と世を見ていたのです。一人は自らが神よりも偉大な者だと思い上がって高慢に生き、他の一人は神様が自分のことを慰めてくださるという謙虚さをもって生きました。私たちもまた、このような高慢と謙虚の岐路に立っているのではないでしょうか。カインの子孫のように生きるべきか、それとも、セト即ちアベルの子孫のように生きるべきか、いつもそれは私たちに課題として与えられているのです。
締め括り
「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4: 22-24)使徒パウロは、今日の新約本文の言葉を通してキリスト者なら、罪人の時の生き方を捨て、キリストによって与えられる、新たな心を持って、神に象って作られた者らしく生きることを促しています。私たちは、カインの子孫とアベル、即ちセトの子孫の話を通して、古い人と新たにされた人の生き方について、考えてみることが出来ました。新約時代を生きている私たちは、神の義を完全に成し遂げられたイエス・キリストに力づけられて生きている存在です。イエスは私たちの罪の償いを完全に支払ってくださり、また聖霊を送ってくださり、神の御心に相応しいキリスト者としてお召しくださいました。このような私たちが、旧約時代のカインの子孫ように神を疎かにして生きるということは、イエス・キリストを裏切る人生になるでしょう?まだ、イエスが受肉されなかった時代のアベルとセトの子孫も、神の前で義人になるために、一生懸命に神に仕えていきました。まして、キリストの体である私たちは、なおさら真実に生きるべきではないでしょうか。イエスがいつも私たちの力になってくださるからです。私たちの生をアベル、即ちセトの子孫の生のようにしてまいりましょう。主に召される日まで、その生き方を貫く志免教会になることを願います。