ローマの信徒への手紙14章1-12節
前置き
ローマ書を通して、人間の堕落と神の愛、キリストによる御救いなど、キリスト教の教義への知識を幅広く教えたパウロは、後半に入っては、キリスト者の生きるべき生き方について勧めました。 12章ではキリスト者らしく、この世に倣わず、聖なる生ける生け贄となり、弁えのある生活をすることを勧め、13章では、国と団体の権威へのキリスト者の対応と在り方について述べました。今日の14章では教会の中での生活、とりわけ裁き、いわゆる、判断することについて語っています。前のローマ書2章の説教では、判断は神の固有の権限であり、正しい判断ができない人間は、判断を手控え、判断に謙虚さと慎重さを持つべきだと話しました。また、先週の創世記の説教では、神の固有の権限である判断することを貪った人間が、そのために堕落したとも話しました。判断は自分が正義であるという前提に基づいて始まることです。時々、教会内で信徒同士が自分の信念や判断により、相手を憎んだり、紛争が起こったりする場合があります。パウロはローマ教会の内部でも、このように判断による争いがあるのを知り、14章の言葉を通して判断に対する正しい知識と信徒同士の平和を望みました。今日は、その信徒の判断について話してみたいと思います。
1.ローマ教会の内部の争い。
まずは、ローマ教会があった1世紀のローマ地域の話を分かち合いたいと思います。ローマ教会では、ローマに住んでいるユダヤ人のキリスト者と、異邦人のキリスト者が共存していました。彼らは文化の違いと思想の違いを持っていましたが、イエス・キリストへの信仰を通して一つになり、教会を形成していました。しかし、当時は今のようにグローバル化された時代ではなかったため、同じ信仰と教会を持っているにもかかわらず、各々の思想の幅を狭めることは、非常に難しい問題でした。世の中がどんなにグローバル化された今でも、それぞれの思想と文化の距離を狭めることは依然として、そう簡単ではない問題です。隣国である日本と韓国の歴史観が異なることはもとより、米国と中国の世界観も全然異なります。東京都民と福岡県民の考え方も異なると思います。志免町民と須恵町民の考え方も異なるかもしれません。ましてや、2000年前の古代社会で、それぞれの思想や文化間にある隔たりは、今よりも遥かに狭めることが難しかったのでしょう。そのような条件の中で葛藤が生じるのは当然の結果だったのです。
ローマ教会の内部にも、そのような問題がありました。ローマ教会の問題については、大凡3つに分けて考えることが出来ます。1つ目は食べることに関する問題です。 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」(2)当時ローマ帝国で流通してい肉は全量皇帝のための生け贄として使用された肉です。当時の皇帝は神のような存在と扱われており、その皇帝のための異邦宗教の供物としての意味が込められていた肉の中で、残ったものを市場で販売していたものです。神様のみを信じようと告白したキリスト者の中で、ある人々は、その生け贄に使用された肉は、偶像への供物なので、食べてはならないと思いました。しかし、あるキリスト者たちは、すべてのものが神によって創造され、神様以外の偶像は存在しない無力なものなので、肉を食べても問題なんかないと信じていました。それで、彼らは互いに持つ考え方の違いにより、互いに非難し、争うことになりました。
二つ目に、日の問題です。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(5)これは、初期キリスト教会でのユダヤ人の安息日とキリスト教の聖日への認識の違いから生まれた問題でした。ユダヤ出身者たちは、安息日は守るべきだと思いました。しかし、異邦人たちは、イエスが復活された日である聖日が、さらに大事だと思いました。結局、礼拝する日への認識の違いによって葛藤が生じたということです。当時の、ある教会では、葛藤を抑えるために安息日と聖日、すなわち土曜日と日曜日の両日に礼拝を守ったとの記録も残っているそうです。三つ目に、ローマ書では出て来ませんが、当時の教会で頭痛の種だったと言われる割礼の問題があります。ユダヤ人は割礼を必ず守らなければならないと考えていましたが、異邦人は、あえて割礼を守る必要があるのかと思いました。実際に、イエス・キリストが受肉を通して律法のすべてを完成された後に、割礼は、あえて、守る必要のない儀式となりました。しかし、一生をユダヤ教の伝統を守りながら、生きてきた人々にそのような伝統を無視することは簡単なことではありませんでした。また、ユダヤ教から来た律法の儀式を強いた偽の教師たちのために、そのような割礼の問題は、教会内に大きな傷をつけるほどの深刻な問題となりました。このように、ローマ教会の中で、異なる考え方が衝突し、教会を分裂させる重大な恐れが生じたのです。
2.本当に大事なこと。
これらの問題は、現代の日本に住んでいる私たちにはあまり重要ではない問題と思われるかもしれません。しかし、現代の教会でも類似の出来事が起こったりします。私は日本に来て、まだ教会内の葛藤や問題を見たことがありませんので、挙げる例え話がありません。なので、私が韓国の教会で働いて経験した話をさせて頂きたいと思います。韓国教会の一部の人は、早天祈り会を大事に守っています。また一部の人は、早天祈り会は行ってもいいし、行かなくても構わないと思っています。誰かは早天祈り会を大切に扱っていますが、誰かは必ずしも守る必要はないものとして扱います。ところで、さてある日、信者の二人が早天祈り会への異見のため、論争しました。そんなことで争う必要があるのかと思われるかも知れませんが、2人には大事な問題だったのです。別の例としては、一部の人はキリスト者は酒を飲んではいけないとし、一部の人は酒を飲んでも構わないとして論争が始まりました。聖書には飲んでも良いというニュアンスと飲んではいけないというニュアンスの両方があるからです。正直、早天祈り会も、飲酒の問題もキリスト教の根本を損ねるほどの重要な事柄ではありません。しかし、それぞれの信仰や信念では、それが重要な問題となることもあり、重要ではない問題となる可能性があります。しかし、問題は皆が自分の主張だけを考え、相手のことを無視したことから生まれたのです。
このように重要ではない教会の問題をギリシャ語で「アディアポラ」と言います。その意味は、「本質的ではない問題」という意味です。やっても良いし、やらなくても構わないこと、つまり、信仰に大きな影響のない非本質的なことを意味します。キリスト教で決して疎かにしてはならない本質的な問題には何があるでしょうか?イエス・キリストは救い主、すべての人は罪人、神が世界を創造されたこと等のように決して変えてはならない重要な教義があります。しかし、他宗教の生け贄を食べてもいいか?どの日に礼拝を捧げるべきなのか?酒とタバコを楽しんでもいいか?等は教義にするに恥ずかしいほど本質的ではない問題です。これらのアディアポラが非常に盛んに行われていた中世カトリックでは、針の先の上に天使が何人まで立つことが出来るのかというとんでもない質問が神学的な問題になったりしたそうです。何の意味もなく、心配する必要もない問題でした。しかし、司祭同士は真剣に論争をしていたという話しを聞き、爆笑した記憶があります。今日、パウロが話しているのは、まさにこれです。 「教会の内に多くの問題が存在するが、それでも教会は、神に召された貴い共同体である。したがって、本質的ではないことのために兄弟姉妹を憎んではいけない、むしろ容認し受け入れなさい。」
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)教会の内には、様々な人々が存在します。一部の人は、アディアポラを超える堅い信頼を、一部の人々は、アディアポラのために躓き、倒れてしまう弱い信仰を持っています。しかし、信仰の強い人にしろ、弱い人にしろ、彼らは皆主に愛される、神の子供なのです。したがって、信仰の強い人は、自分の知識や信念を持って強いて教えようとせず、信仰の弱い人を理解し、受け入れなければなりません。信仰の弱い人は、まだ自分が知らない信仰の考え方があるかも知れないと、謙虚に考える必要があります。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(8)私たち皆は、自分自身の判断と考え方ではなく、ただ、主の御心に従って生きていきます。自分の考えと信念に合致していない物事が、教会の中にあるかも知れません。しかし、自分の気持ちだけを主張する前に、教会と兄弟姉妹の状況を考えなければなりません。キリストは、そのような神の民の平和と調和のために十字架で死に、復活なさったのです。 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9)
私たちが自分の考えだけを貫くために兄弟と争い、憎み、判断すれば、そのすべてのことが、神様の御前で罪となります。そして終わりの日、神の前で、そのような判断の罪に対して厳重に裁かれるのでしょう。 「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(10)私たちは皆、お互いの状況を察し、必要のない紛争が生じないように、自分自身を抑えつけなければなりません。信仰の強い人は、信仰の弱い人たちのために配慮し、信仰の弱い人も、自分の考えに誤りがあることを認め、皆がお互いに理解し合い、受け入れるために力を尽くすべきでしょう。 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(13)、私たちに本当に大事なのは、私の信仰を持って他人を判断するのではなく、すべての弱さを理解し合い、お互いに受け入れ、愛することではないでしょうか?
締め括り
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17)、神の国はどんなところでしょうか?おそらく、そこでは神の中で、皆が一つになり、憎しみも、争いも、妬みもない場所だと思います。また、この地上での生活とは違って、辛さも、惨めさも、悲しみも無い、常に喜びに満ちた所だと思います。そういう意味で、神の国は、私たちの生活の中にも、部分的に存在するということでしょう。皆がお互いに受け入れ合い、愛し合う所は、どこでも神の国になると言えるでしょう。今の世界は戦いに満ちています。日中韓が互いに警戒し、特に日韓は北朝鮮のミサイルを心配しています。日本国内でも与党と野党が政治的な異見で争いをしたりします。このように戦争で満ちている世界で、教会だけは、お互いに仕え合い、人を自分より優れた者と思い、尊重し、愛する生活を営んでいきたいと思います。この地上での神の国は、お互いの理解から始まります。そして、その理解は、キリストの愛に基づきます。人が嫌になったり、その人によって心の中に怒りが込み上げるときは、その人を愛して、彼のために死んで復活されたイエス・キリストを思い起こしましょう。そして、彼を理解し、愛するために祈りましょう。兄弟姉妹を憎まず愛して欲しいという、私たちの心と祈りの中で、神様は、義と平安と喜びで私たちを満たしてくださるでしょう。その時初めて、私たちは愛に満ち、地上での神の国を味わうことが出来るでしょう。愛に満ちて、誰も判断しない志免教会となり、この志免町に神の国を立てていく共同体になることを願います。神の恵みと平和を祈り願います。