前置き
神は天地創造を終えた後、御自分が造られた世界を御覧になり、極めて良かったと満足なさいました。とりわけ、その中で人間の創造は、すべての創造の画竜点睛のような、最も重要な出来事でした。人間が、そのすべての被造物を神に導く代表的な存在だったからです。神は、このような人間に全てのことを自由に選択する自由意志を与えられ、その自由意志をもって神に仕え、愛することをお望みになりました。神は、そのために人間が自由意志を正しく扱うか否かを判断する「善悪を知る木」を造り、人間に「その果実を絶対に食べてはいけない。」という厳重な命令を与えてくださいました。しかし、最初の人間は、神の、その命令を自分の自由意志で破り、その果実を取って食べてしまいました。神だけに仕えるために与えられた人間の自由意志が、人間自身の欲望に仕えるための自由意志となってしまったのです。人間は、そのように神の言葉に逆らってしまいました。それが、まさに人間の堕落なのです。その最初の人間のように、今日を生きる私たちの生活の中にも、常に犯罪と従順という、まるで善悪を知る木のような選択の分れ目が存在しています。先々週の説教では、このような善悪を知る木と私たちの生活の中で、まるで善悪を知る木のように存在している犯罪と従順の分れ目について分かち合いました。今日は創世記3章の残りの箇所を通して、堕落した人間と救われる神について語り合いたいと思います。
1.目が開けるということの意味。
エデンの園に現れた蛇は人間を惑わし、神が禁じられた善悪を知る木の実を食べさせました。ヘビは人間に「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(5)と言いました。人間は拒否することが出来るにもかかわらず、自分の意志で、その実を取って食べてしまいました。おそらく人間は「目が開け、神のようになる。」という言葉に魅力を感じたかもしれません。自分たちも神のように賛美と礼拝を受ける存在になるだろうと考えたのかもしれません。しかし、ここで「目が開ける。」という意味は、そんな意味ではありませんでした。それは「善悪を知るようになる」ということでした。善悪を知るということは、何かを「判断」するという意味です。今年の始めにローマ書を説教しながら、真の判断は神だけがお出来になるものだとお話しました。神は絶対者でいらっしゃいますので、何が善であるのか、何が悪であるのか正確な判断ができるとお話しました。それは、神様は歪みのない真実を知っておられるという意味だったのです。しかし、人間は絶対者ではないため、自分の考えや経験に頼って、何かを判断することになります。そして、その際に必ず歪みを伴います。人間は真実の前で状況や事情によって揺らぐ存在だからです。
自分で判断することになったというのは、神の言葉ではなく、自分の考えで世の中を眺めるようになったという意味です。つまり、人間は、もはや神を必要としなくなったということです。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(7)神は創造を終えて「それを見て極めて良かった。」と言われました。これは当時の人間が裸であっても、神の御前では自然な状態であったということです。創世記3章で言う裸とは、現代のような恥の象徴ではありませんでした。創造の純粋さと、神の前での正々堂々とした状態を意味するものでした。しかし、目が開け、自ら判断できるようになった人間は、神が良しとされたことを、自ら良くないと思ってしまいました。神の御判断を自分の判断で無視してしまったのです。結局、人間は、すぐ枯れて消えるイチジクの葉っぱを綴り合せて着ることにより、神の創造の摂理を無視し、自分たちの判断に従いました。このように、神のようになるために善悪の木の実を貪った人間は、自らを神のように考えようとする歪んだ判断力だけを持つことになってしまいました。そして、その結果、神の言葉に逆らう罪の性質を持つ存在に変わってしまいました。
2.罪の性質
人間の堕落後、神はエデンの園に現れ、人間をお呼びになりました。 「主なる神はアダムを呼ばれた。どこにいるのか。」(9)しかし、人間は、そのような神を避けて園の木の間に隠れてしまいました。ここでの、「呼ぶ。」という言葉は、「カラ」というヘブライ語の表現を翻訳したものです。これは「呼ぶ。言葉をかける。招待する。」などの意味を持っています。旧約聖書で、神は御自分の預言者たちを召し寄せるとき、この「カラ」という言葉を使いました。 「だれだれよ!お前は、どこにいるのか?」 その時、モーセとサムエル等の神の預言者たちは、「私はここにいます。」と答え、そのお召しを承りました。しかし、堕落した最初の人間は、神を避けて隠れてしまいました。ここで一つ目の罪の性質を見つけることが出来ます。罪は神と人間の間の招待と応答を断ち切ります。神の子供のような人間に、神を父と考えず、他人のように感じさせます。それによって当たり前に神の言葉の重要性を見落とさせ、その言葉に聞き従わないようにさせます。罪は神と人間を遠ざけ、関係の破壊をもたらします。預言者イザヤは、罪に対してこう言いました。 「お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:2)
神との関係が破れた人間に見られる二つ目の様子は、「アダムは答えた。あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(12)との言葉から見つけることが出来ます。堕落したアダムは、自分の罪に対して自ら悔い改める姿を見せず、むしろ「あなたが私に与えた女が」「女に与えられたので」のように弁明し、神と隣人を責めることになりました。堕落した人間は、何よりも自分自身のことを最も大切にする性質を持つようになりました。このような姿は、私たちの中にも残っていると思います。自分の過ちより、他人の過ちがさらに大きく見え、他人は傷を受けても、自分だけは傷つきたくない心を持ちがちです。そんな自己中心的な心と行為は、最終的に人と人との関係の破壊をもたらします。人間が自分の罪を悔い改めるために、神の御前でありのままに立つということは、これらの堕落した人間の姿に立ち向かい、「神と隣人に仕える」神様に喜ばれる人間像の回復なのです。
なおまた、三つ目の罪の性質は、罪が移るということです。 「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(6)もし、堕落した一人のみが罪を犯し、それで終わることなら、その結果として、一人だけが滅びるでしょう。しかし、罪には伝染する性質があり、一人だけが滅びることではありません。女は果実を取って食べ、その果実を男にも渡しました。実際に歴史上で指導者の罪が全国民を煽り立て、皆が罪の中に置かれるようになったという話は数え切れないほどあります。ガラテヤ5章9節には、このような言葉があります。 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」これは神の真理に反する小さな誤りを犯せば、その小さな誤りが、ますます大きくなっていくことを警告する言葉です。パウロはそれを防ぐためには、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」という特段の措置まで述べています。人間の堕落後に生じた恐ろしい結果は、この罪が人間の生活の中のあちこちで働き出したということです。罪の伝染を覚えつつ、生活の小さな部分から罪を退ける生き方が必要ではないかと思います。罪はコロナウイルスよりも、恐ろしい魂の感染症だからです。
3.それでも人間をお見捨てにならない神の愛。
その日、神は男と女、そして蛇に将来のことについて仰いました。人間の堕落がもたらした最も大きな影響は、不滅の存在である人間が、必滅の存在に格下げされたということです。 「主なる神は、…アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(24)、神は人間を永遠に生きる存在としてお造りになりましたが、神との約束を打ち破った人間は死ぬことで、その罪を償わなければならない存在となりました。神は命の主です。殺すために創造なさった方ではなく、生かすために創造なさった方なのです。しかし、人間は、自らその命の神を裏切り、離れてしまいました。命の道を捨て去った人間に残ったのは死ぬことに決まっていました。以降、アダムは939歳まで長生きしました。しかし、長生きしたからといって良いとは言えませんでした。 「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(詩篇90:4)どうせ、神の御目に939年は、まるで一晩にもならないような、短い時間に過ぎないからです。 いくら1000年が長いといっても、永遠とは比較できません。神に1000年は一日のような短い時間に過ぎないですが、永遠は神にとっても永遠の時間だからです。結局、人間は永遠から外れ、有限に生きる死の存在となってしまいました。
「神が生かす方であるならば、堕落した人間であっても、生き残らせればよかったのではないだろうか。」と問い掛ける人もいます。しかし、罪なく永遠に生きることと、罪を持って永遠に生きるということは雲泥の差だと思います。罪のない永遠の命は神と永遠に一緒にいることを意味しますが、罪のある永遠の命は、神に見捨てられたままに地獄のように永遠に生きることだからです。おそらく神が人間の死を許され、永遠の命の木を守られた理由も、堕落した人間を救うための意味深い御心ではなかったのでしょうか?神は堕落した人間のために、蛇に呪いを下され、人間の子孫を通して蛇をお裁きになると言われました。たとい堕落した人間であっても、神の御救いは、その堕落した人間への御憐れみから始まりました。神は決して人間を見捨てられずに、最後まで彼らを回復させるためにお働きになることでしょう。また、人間の回復のために、蛇と表現された罪に取り組みつつ、人間を導いて行かれるでしょう。私たちキリスト者は、そのような神の約束を信じ、その約束の結果がイエス・キリストであるということを信じつつ生きています。キリストが罪に勝利されたように、私たちも神の御意志に基づいて、堕落に立ち向かい、罪を打ち破り、神につき従う人生を生きるべきでしょう。
結論
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(21)罪を犯し、神との関係が切れた人間はイチジクの葉っぱで、辛うじて自分らの恥を覆うしか出来ませんでした。しかし、イチジクの葉はすぐ枯れて消えてしまうはずでした。しかし、主は枯れたり、腐ったりすることのない皮の衣を作って人間の恥を隠してくださいました。そして、いつか蛇に惑わされて堕落した人間が、その蛇に勝利する日を約束してくださいました。神はそのように人間をお見捨てにならず、新しい道に導いてくださったのです。私たち人間は、罪と死の下にいる存在です。生まれた時から死に向かって生きる存在です。しかし、主はキリストをお遣わしくださり、私たちの罪を悟らせてくださり、その罪を解決する道をお示しくださる方でいらっしゃいます。自分の罪に対して自力で、何も出来ない、まるで「イチジクの葉っぱ」を着たような人間に、キリスト・イエスという永遠の罪の解決策をくださり、「皮の衣のような救いの服」を着せてくださる方です。創世記3章の言葉を通して、罪の中に生きていく私たちをお見捨てにならず、むしろ生きる道を教えてくださる神を覚えつつ生きてまいりましょう。自分の罪の前で自らのことを謙虚に弁え、避けるより認め、神の御助けを求める私たちになっていきましょう。神はそのような私たちにキリストを通じた御救いを持って喜んで答えてくださるでしょう。