詩編33編8-15節 (旧863頁)
ローマの信徒への手紙16章25-27節(新298頁)
前置き
ローマの信徒への手紙は、キリスト教のとても大事な教えを終始一貫訴えています。人の罪と、その破壊力についての知識、それでも人間への変わらない主なる神の愛、罪人のために独り子を遣わして自らが犠牲になられた御業、そして、その独り子を通して、私たちに与えてくださった救い、最後に主なる神と共に生きる生き方など。多くの部分において、私たちに福音にあって生きる方法を教えています。今日は、そのローマの信徒への手紙から、福音への私たちのとるべき生き方について聞いてみたいと思います。
1.福音
パウロは、自分がなぜローマ書を書いたのかを、今日の本文を通して教えています。 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」パウロは福音を「他の誰かの福音」ではなく、自分の福音、即ち「私の福音」と語っています。福音は、この地上のものではありません。天の主から地の人に与えられるメッセージです。また、この福音はキリストのみによって与えられるものです。福音とは、主なる神が主イエスを通して、この地上に真の救いをくださると伝える「良い知らせ」です。だから、主以外の誰かが「私の教えのみが福音である。」と発言するなら、それは偽りなのでしょう。なのに、パウロはなぜ「わたしの福音」という言葉をわざわざ使っているのでしょうか。それは福音が自分にとって、いかに大事なものなのかを積極的に表す告白だからです。自分の人生をかけて、世の人々に伝えても全く惜しくない、大切なものが、まさにこのキリストによる福音であるという意味です。つまり「わたしの福音」は、キリストの福音へのパウロの堅い信仰告白だったのです。
2.パウロ(私)の福音
パウロは、ユダヤ人の若い人材でした。彼は有名なラビであるガマリエルの弟子であり、ローマ市民権者でもありました。ローマ市民権者なのにユダヤ人として深い信心を兼ね備えた素晴らしい知識人。そんな彼がユダヤ教の信仰のゆえに、異端であるイエス一党を処断するために立ち上がりました。そんなある日、深い信仰をもってイエス一党を捕まえるために出た旅で、パウロは人生が変わる不思議な経験をすることになりました。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのかと呼びかける声を聞いた。」(使徒9:3-4) 神と民族を愛していた青年パウロは、イエス一党を捕まえるために出た旅で、そんなにも嫌っているイエスに出会ったのです。「主よ、あなたはどなたですかと言うと、答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)
偽り者、異端、呪われた者と思っていたイエスが現れ、パウロの知識と信念を揺さぶりました。その瞬間、パウロの心に驚くべき変化が起こりました。彼が幼い頃から学んできた神の言葉が絶えず証してきた真のメシアが、自分がそんなに迫害してきたイエスであることを認識したからです。その時はじめて、パウロは神の福音が何かに気付きました。「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(25-26) キリストの福音は昔からすべての民族に伝えようとされた神の御計画でした。そして、それはキリストを通して、この世に与えられるべき救いと恵みの神の命令でもありました。その日、パウロはキリストに出会い、今までの知識を超え、神の福音を悟ることになりました。
福音は宗教的な知識に限るものではありません。福音とは、主なる神の御心が人の心の中で生き生きと働くものです。聖書の御言葉と教理をよく理解しているのも重要です。しかし、そのすべてを知っているとしても、その中に隠れている主の心が分からなければ、それは殻に過ぎないのです。教会で学んだ神の御心に私たちの心を従わせ、御心に従順に生きていくこと。神の御心を隣人に伝えること。それこそが、私たちが追い求めるべき福音、キリストを通して私たちに託された福音なのです。今、この福音は誰の福音なのでしょうか。それは今、私たちの福音となっていますでしょうか。昔の預言者と使徒たちの福音ではないでしょうか。本当に私たちの人生の中で、私たちを変え、隣人に良い影響を与え、真の私たちの人生の原動力となっている福音でしょうか。福音はほかの誰でもなく「私の福音」にならなければなりません。
3.イエス・キリストの福音
しかし「私の福音」の主人は私自身ではありません。それはイエス・キリストのものです。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります…その計画は…信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」(16:25-26から)私たちを強め、導き、御心に従わせる福音は、ひとえにキリスト・イエスによってのみ生まれるものです。福音の権勢はキリストのみから出るという意味です。あまりにも伝道が難しい日本、その中でも小さな群れである志免教会を考えると、私たちは現実的な壁に直面し、挫折しやすいです。しかし、それにも関わらず福音は変わりません。福音の源である主イエスが変わらないお方だからです。聖書は一度も数字で、大きさで、教会を測ったことがありません。聖書に出てくる数値や規模は、神の民の集まりを意味するものであり、その大きさを重んじるわけではありません。 むしろ主なる神は、少数でも主イエスに希望を置いて従う真の信仰者を喜ばれるのです。
大事なのは、イエス・キリストが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18-19)と宣言されたということです。福音は「私のもの」である前にキリストのものです。主は教会の大きさと規模に関係なく、御自分を保証に福音を伝えることを命じられました。大事なのはキリストの福音を宣べ伝えることです。なぜなら、福音の真の所有者であるイエス御自身が福音に対して責任を負ってくださるからです。主の教会は、目に見える建物や団体ではありません。主の教会は、キリストの福音を告白する目に見えない主の民の集まりなのです。したがって、主はその教会を通して絶えずに福音を伝えて行かれるでしょう。私たちは、そのイエスに従い、現状にがっかりするよりは、折が良くても悪くても福音を伝えるべきでしょう。それこそが福音に対する私たちの在り方ではないでしょうか。
締めくくり
「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩篇33:8-15)この言葉は、主なる神が世界を判断されることを示しています。世が主の教会を判断するのではなく、教会の主である神が世を判断されるのです。したがって、目の前の状況に恐れず、主イエスの福音の権勢を信じてまいりましょう。主イエス・キリストが、神に栄光を帰すために、御自分の福音を成し遂げて行かれるからです。






