マタイによる福音書 1章18~25節 (新2頁)
前置き
今日の礼拝は、全人類の救い主であられる主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマス記念礼拝です。毎年迎えるクリスマスですが、今年、私たちが向き合う降誕の意味はさらに格別です。アメリカと中国の貿易戦争、終わらないウクライナとロシアの戦争、日本と中国の対立、そして隣国の韓国では権力掌握のための戒厳令があり、今は裁判中であります。その他、世界の各地で数多くの大小様々な紛争がありました。世界は依然として混乱しており、個人の生活にもそれぞれの苦しみと霊的な渇きがあると思います。このような時、キリスト者である私たちが改めて貫く真理はたった一つです。それは「主が私たちと共におられる」というインマヌエルの約束です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルを訳すると「主が私たちと共におられる」という意味になります。この言葉はキリスト教信仰の核心とも言える重要な教えです。今日はこの御言葉を通じて、主なる神が私たちと共に歩んでおられること、そして主イエス・キリストのご降誕の意味について話してみたいと思います。
1. 苦しみの中に共におられる神
主イエスのご誕生は、人間的に考えると、一人の人間の「苦しみ」から始まりました。本日の本文に登場する主イエスの父ヨセフはダビデの子孫でした。そして妻のマリアも系図上、同じくダビデの子孫でした。ダビデはイスラエル史上、最も偉大な王と言われる者でしたが、長い年月が流れる中で、その子孫はかなり衰退し、王族とは呼べない普通のイスラエルの民になっていました。しかし、ヨセフとマリアは偉大な王の子孫にふさわしく、気品があり善良な人々でした。彼らは貧しかったですが、他人に恥じることのない人々でした。ところが、ある日、あまりにも苦しい出来事が起きてしまいました。婚約した二人のうち、マリアが結婚の前に妊娠してしまったからです。当時のユダヤ社会において、婚約した女性が夫以外の誰かの子を身ごもると、石打ちにされて死ぬこともある重い罪になりました。それだけでなく、夫の立場からも屈辱的なことでした。ヨセフにとってこの状況は理解しがたい裏切りであり、人生最大の危機でした。しかし、19節は、このヨセフを「正しい人」と語っています。正しい人である彼は、マリアのことを表沙汰にして彼女を懲らしめずに、ただ密かに縁を切ろうとしました。ところが、その瞬間、主なる神の啓示が与えられました。
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)ヨセフはマリアに対しては裏切られた気持ちを、自分に対しては無力な気持ちを感じていたでしょう。その時、夢に現れた主の御使いは驚くべきことを言いました。「マリアの子は不義の子ではない。主なる神が聖霊を通してくださった特別な方なのだ。」婚約者の不貞と誤解していたヨセフは、夢で啓示を聞いた瞬間、さっぱりした気持ちで婚約者を見直すことになったでしょう。おそらく以前、彼女は受胎の経緯をヨセフに打ち明けたはずです(ルカ1:26-38)。しかし、ヨセフはそれが信じられなかったでしょう。ところが、主なる神が自分の妻を通して偉大な人物を聖霊によって宿されたというのですから、もはや以前ほど戸惑ってはなかったでしょう。主はヨセフの苦しみと戸惑いをすでにご存知でおられる方でした。ヨセフの苦しみは心痛かったのですが、主の摂理の中でその苦しみはメシアの誕生という恵みへと繋がりました。時には、到底理解できない苦難が襲ってきます。経済の危機、不和、病気など、私たちを苦しめることがあり得ます。しかし、主はそれらの苦難の中に共におられ(インマヌエル)より良い結果へと私たちを導いてくださるでしょう。ヨセフの夢に現れたように、主はご自分の民の苦しみの中で語られます。「恐れるな、わたしがあなたと共にいる。」
2. インマヌエル — 主が私たちと共におられる
インマヌエルとはヘブライ語で「主が私たちと共におられる」という意味です。「イン(イム)」は「共に」「ヌ」は「私たち」「エル」は「神」意味します。「イン(イム)」と「ヌ」がくっついて「インマヌ」と変わり、そこに神を意味する「エル」が付いて「インマヌエル」となるのです。それでは、「主が私たちと共におられる」ということには、どのような意味が込められているのでしょうか。新約聖書のローマの信徒への手紙にはこのような言葉があります。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:23-24) 聖書はこの世界を主なる神が創造されたと創世記を通して証ししています。しかし、創造の中心である最初の人間の罪によって、人間は堕落のほだしに陥り、それによってこの世界も罪の影響で汚されたと証ししています。そのような罪の性質を持った人間は、神を主と認めず、自らが主となって自分の欲望に従って世界を乱し、神ではない他の存在を偶像として自分勝手に生き、結局滅ぼされることになりました。主なる神は罪の性質を持つ人間への裁きとして「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」つまり、罪人のままに放っておかれました。ということで、この世は常に悪へと走り、正義よりも不義が満ちる世界となったのです。
しかし、主が私たちと共におられるというのは、もはやこの世界を汚れの中に放っておかれるのではなく、積極的に関わって正しく導いていかれるという強い意志の表明なのです。主はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わしてくださったのです。21節で主の御使いはマリアが身ごもった子の名前を教えます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「イエス」は「神は救いである」という意味です。インマヌエルの目的は人間と世界の「救い」なのです。世の中の人々はクリスマスを単なる西洋の祭りだと思います。しかし、クリスマスの本質は、人類の最も根本的な問題である「罪」を解決するために、神ご自身が人間の間に来られたということです。人間は自分自身を救うことができません。自分の罪を解決する力が人間にはないからです。ですから、主なる神はインマヌエル、すなわち私たちの傍らに、ご自分の独り子(三位一体)を遣わされ、罪人の代わりに罪の償いにされたのです。クリスマスは、主なる神が他人事のように「頑張れ」とただ励ます日ではありません。泥沼のような私たちの人生の中に直接関わってくださり、私たちの手を握って救い出してくださったことを記念する日なのです。主が私たちと共におられる理由は、私たちの救いに積極的に関わってくださるためです。主が私たちと共におられるというインマヌエルの約束には、このような意味が隠されているのです。
3. 御言葉の成就
インマヌエルは神の御言葉の成就の結果です。本文22節と23節は、これらすべての出来事が偶然ではなく、主の緻密な計画と約束の成就であることを示しています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばる。」(マタイ1:22-23) 旧約聖書にはこのような言葉があります。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14) この言葉は、周辺諸国の武力挑発によって混乱の中にあるイスラエルを助け救うという主なる神の救いの御言葉でしたが、その当時だけに限らない、ご自分の民に向けた主の御心が込められた救いの宣言でもあります。
また、この言葉は数百年という年月を経て、ヨセフとマリアを通して再び主の民に与えられた救いの宣言でもあります。そして、この言葉はイエス・キリストのご誕生によって成し遂げられました。主なる神は聖書の御言葉を通じて私たちに「わたしはあなたを離れない。共にいてあなたを守る」と約束されました。「インマヌエル」という言葉は、主なる神の変わることのない誠実さを象徴しています。世の約束は状況によって変わり、人の心は葦のように揺れ動きますが、主の約束は永遠に変わりません。インマヌエルはただの感情的な慰めではありません。それは「宇宙の創り主がご自分の民の味方となり、彼らの傍らに立っておられる」という厳然たる事実なのです。24節でヨセフは眠りから覚め、主の御使いに命じられた通りにマリアを迎え入れました。主なる神の約束を信じたからこそ、彼は恐れを乗り越え、従順に従うことができました。私たちもこのインマヌエルの約束を信じる時、世に打ち勝つ大胆さを主からいただくことでしょう。
締めくくり
私たちは毎年12月になると、クリスマスを準備し、クリスマス記念礼拝を捧げます。人生の中で数十回も迎えてきたクリスマスであるため、その感激はそれほど大きくないかもしれません。あまりにも慣れ親しんでいるからです。しかし、主なる神は独り子イエス・キリストをこの地上に遣わされることによって、主の民の人生に深く関わられました。そして、その御業を誰よりも喜んでおられるでしょう。主イエスを自分の救い主と告白し、その方によって神を信じる者は、主なる神の責任ある守りによって永遠に導かれることでしょう。年一度のクリスマスですが、私たちはこの期間を通して、なぜ主イエスが人間になられたのか、なぜ私たちの罪のために代わりに死んでくださったのか、なぜ私たちは毎年このクリスマスを記念すべきなのかを、憶え、振り返る機会となることを願います。






