イザヤ書59章1~2節 (旧1158頁)
ローマ信徒への手紙 1章18~32節(新274頁)
前置き
近代初期、ボヘミア(現代のチェコ)のモラヴィア兄弟団という教派所属のある宣教師が、グリーンランドで17年間宣教活動をしました。彼は現地の文化と言語を深く学びつつ宣教に尽力しました。彼は親切で先住民とも仲良かったですが、誰も改心していませんでした。ある日、親しくしていた先住民の一人とイエス・キリストの死と罪の赦しについて語り合うことになりました。その会話のあげく、その先住民は自分の罪に気づき、悔い改めるようになりました。この出来事が転機となって、本格的な伝道が始まり、多くの人が改心しました。この物語は、罪への警告と赦しの恵みという福音の大事なメッセージを私たちに伝えています。
1.罪の影響
キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。この世での富や名誉や自己省察のための宗教でもありません。イエス・キリストによって、天地を創造された造り主なる神と出会い、和解し、主と共に生きるための宗教なのです。ところが、この主なる神に出会うことを妨げる深刻な問題があります。それは人の罪です。今日の旧約聖書を読んでみましょう。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1-2) 罪により、造り主から離れた人間が救いを得るためには、絶対に造り主なる神の御前にいなければなりません。御前にいるということは、主なる神と共に歩むという意味です。しかし、罪というものがある限り、人は主の御前にいることが出来ません。罪が主と人の間を隔てているからです。
実に主なる神は、どんな状況にあっても、罪人を救える十分な権能を持っておられます。しかし、人が罪を持っている限り、主は人をお救いになりません。主の御手が短いわけでもなく、主の御耳が鈍いわけでもありません。それにもかかわらず、主なる神は人に罪がある限り、その人をお救いになりません。なぜなら、罪は主なる神の性質と正反対であるからです。罪は、主と人の間の大きい隔てをもたらします。罪は人間を憐れんでくださる主なる神の御顔を隠すものです。罪は主の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人が主に救われることが出来なくする結果、人が主に見捨てられる悲惨な結果をもたらします。人が自分の罪をきれいに解決しない以上、その人は絶対に救いを得ることも、主と共に歩むことも許されません。
2.罪の悲惨さについて。
ギリシャの哲学者、ソクラテスは「無知は罪なり」と語りました。ソクラテスは紀元前の人物で信仰者ではありませんが、この言葉には真理が隠れていると思います。罪からもたらされる惨めさの一つは無知です。罪人は、自分にどんな罪があるのか、何が問題なのかが分かりません。分からないから解決が出来ず、解決が出来ないから、救いに至ることも出来ません。今日の新約本文を読んでみましょう。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20) 創造の時、主はすべての被造物がご自分について知るように、主の神性を示してくださいました。だから、罪のない状態の人間は、何事においても主の存在を知ることが出来ました。しかし、罪によって主の神性から離れた人間は、主を知らない存在となってしまいました。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)
しかし、人間は本能的に、主の神性を認識しています。人間の本能がそれを証明します。「誰なのか詳しくは分からないけど、きっと全能者はいるだろう。」という漠然とした神認識はよくあることです。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、人間は、罪のため、自分が願うものを神だと思い込んでしまいます。木、石を、獣、人を神にしてしまいます。日本は古代から太陽を神と崇めました。そこから生まれたのが天照大神ではありませんか。しかし、創世記1章は、はっきりと太陽を含むすべてのものが、主の被造物にすぎないと証しています。人間の罪は自分の罪への認識を鈍くさせ、真の神を冒瀆する偶像崇拝の罪までもたらします。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28) 罪のもとにいる人間への最も致命的で悲惨な主の裁きは、罪人を自分らの罪の中に放って置き、救ってくださらないことです。主がどのような形の憐みもくださらず、引き続き罪を犯すように放っておかれ、赦しなく裁かれるのです。つまり、永遠に見捨てられるということです。
3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。
キリスト教信仰において、人間は皆、罪人であるという教えは、受け入れがたい点の一つであるかもしれません。特に、凶悪犯罪を犯したことのない善良な人々にとっては、自分が罪人であると認めることがなおさら難しいでしょう。しかし、聖書(ローマ3:23)は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と述べています。罪とは、主が定められた基準、つまり「主の御心に聞き従い、神と共に歩むこと」を満たせない状態です。旧約聖書のアダムとエヴァが神を裏切って離れたという原罪以来、人は皆、この根本的な罪を抱えて生きています。罪人は、自分の力だけでは主なる神の要求を満たせず、罪を解決することも、主の赦しを得ることもできません。この状態が続くと、人は自然に罪のもとに生き、最終的には主なる神に見捨てられ、永遠の死を迎えることになるでしょう。
イエス・キリストがこの世に来られたのは、まさにこの罪の問題を解決してくださるためです。これが福音(良い知らせ)と呼ばれる理由です。主なる神から来られたイエス・キリストは、私たちの罪を赦してくださる方であり、人が満たせない神の要求を代わって満たしてくださる方です。私たちは、このイエス・キリストの罪を赦す力と、神の要求を満たす力を信じることによって、主なる神に赦しを得ることができます。キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決されるために、私たちに身代わって十字架にかかり、死なれました。そして、死から私たちを救い、神からの新しい命を与えてくださるために復活されました。イエス・キリストだけが、私たちを罪の結果である悲惨さから救い出す、神から遣わされた唯一の救い主であり、私たちに希望をもたらしてくださるお方であるのです。
締め括り
パウロは今日の本文を通して、私たちにも罪があると教えています。私たちは、すでに救われ、主のもとにとどまっているのですが、罪ある人間ですので、主の民にふさわしくない行いをする時も多々あるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を喜んで赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じるからです。私たちは、キリストの罪の赦しによって日々新たにされます。主イエス・キリストは私たちが悔い改めるとき、ご自分の贖いによって罪を赦してくださり、私たちが主なる神と一緒に生きるように導いてくださいます。志免教会の兄弟姉妹みんなが、このようなキリストの恵みに感謝し、毎日、罪を告白し、悔い改め、罪の惨めさから自由になり、主と共に歩んでいけるよう祈り願います。







