イザヤ書55章6~9節(旧1152頁)
マタイによる福音書4章17節(新5頁)
前置き
今日は、金牧師が佐賀めぐみ教会の聖餐式の執行と説教応援のため、留守です。とういうことで、今までの連続説教ではなく、別のテーマを取り上げて説教しようとしています。今日の説教の主題は「悔い改め」です。私たちは、日曜礼拝を始めるたびに「罪の告白」の時間を持ちます。この「罪の告白」の時間がある理由は、礼拝を始める前に、救い主キリストの執り成しに力づけられ、 過ぎた一週間の私たちの罪を告白し、赦され、清められた状態で、神に礼拝をささげるためです。悔い改め無しには、神のお慈しみもお赦しも御恵みも決してないからです。このようにキリスト者の人生において、悔い改めは神への礼拝の原点となる、非常に重要な意味を持っています。今日は、この悔い改めについて学び、私たちの信仰において、悔い改めが持つ意味について考えてみたいと思います。
1. 新・旧約を貫く聖書の呼びかけ – 悔い改め
聖書を読みながら、最も多く見つかる表現を取り上げてみると、神の恵み、救い、愛、信仰、赦し、祈り、奉仕などがあると思います。しかし、これらに引けを取らないほど、頻繁に出てくる表現がありますが、それは悔い改めです。旧約聖書でも、新約聖書でも、神は聖書を通して、絶えず悔い改めを求められます。なぜ、聖書はそんなに悔い改めについて力を入れて呼びかけているでしょうか? 悔い改めは神と人間との間にある隔てをなくす、大事なカギになるからです。神は完全無欠な方です。世のどんな汚れも神にはなく、世のどんな不条理も神にはありません。神は罪に汚されて完全さを失った存在を決して許されない方です。しかし、大きな問題があります。それは、人間は罪のため、完全無欠とは遠い存在ということです。人間には生まれつき罪があり、一生、罪の影響のもとに生きていきます。そして、それがまた別の罪を生み出します。したがって、人間は罪から絶対に自由ではなく、罪があるからこそ、神と純粋な交わりができない状態です。もし、人間が罪のもとで生き続けれてしまうなら、結局、完全無欠な神との接点を作ることができず、滅ぼされてしまうでしょう。だから、人間には、罪の解決という絶対的な課題が与えられているのです。その罪の解決ができなければ、人間は神に立ち返れず、最終的に悲惨に霊と肉の死に至るようになるでしょう。
初めの人間の堕落以来、神が新旧約聖書を通して絶えず悔い改めをお求めになった理由はこれです。神は人間との和解を誰よりも切に望んでおられる方です。神は、初めの人間にくださった、その完全無欠さが人間に引き返すことを望んでおられ、それによる人間との愛の交わりを望んでおられます。しかし、人間に罪があるかぎり、神は人間と付き合われることができません。神は絶対者と言われるのにどうしてできないのですか? 全能者にもできないことがあるということでしょうか。しかし、それが神がお造りになった法則だからです。神が全能でおられる理由は、何でも出来るからだけではありません。ご自身が造られた法則を無視なさらず、守られることも、ある意味で全能さなのです。つまり、その法則によって、神は罪を容認されないのです。だから悔いのない罪人も赦されないのです。しかし、神はキリストの救いという特別な恩寵によって、罪の問題を解決することができる手立てを与えてくださいました。人間には罪がありますが、イエス·キリストの執り成しがあるなら、罪人は神の御前に立つことが出来ます。神は赦しの御心(神の愛)も、赦しの手立て(キリストの救い)も、赦しの道しるべ(聖霊の導き)も設けて置かれました。そして、聖書を通して罪人たちにお告げになります。「キリストの名によって、あなたの罪を悔い改めなさい。そして、主なる神に立ち帰りなさい。」だから、悔い改めが大切というわけです。すべてを設けておかれ、罪人の決断だけを求めておられるからです。そして、その決断、それがまさに私たちの悔い改めなのです。
2. どう生きるのが悔い改めの生き方なのか?
ですから、私たちは一生悔い改めを繰り返して生きなければなりません。ところで、悔い改めは、一度だけで良いのではないでしょうか。なぜ、繰り返さなければならないのでしょうか? 聖書にはキリストが、ただ一度ご自分の体を献げられて、罪人を救われたと書いてあるのに、なぜ、毎週の礼拝で、罪の告白をしているのでしょうか? それは、イエスがただ一度で成し遂げられた救いを否定する発想ではないでしょうか? その答えについては、マタイによる福音書からヒントを得ることができます。「そのときから、イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいたと言って、宣べ伝え始められた。」(マタイ4:17) イエスが地上での御業を始められた時、主は「悔い改めよ」という言葉で天国の到来を告げられました。その時、主が「悔い改めよ」と言われたギリシャ語の表現は「メタノエオ」です。その意味は「考えを変える」という意味です。今まで持ってきた主に逆らう考え、思想、生き方を変えなさいという意味です。さらに大事なのは、この表現に使われた文法です。ギリシャ語の「動詞、現在形·能動態」(難しいことは覚えなくてもいいです。ただこういうのがあるんだと理解してください。) 現在形·能動態は、ある行為を一度行って終わることではなく、繰り返し行われるというニュアンスを持っています。つまり、イエスのこの言葉は、ただ一度で終わる悔い改めではなく、絶えず繰り返して考えを変え、生き方を変え、神に立ち帰れという意味なのです。というのは、一生が悔い改めの人生にならなければならないということです。
悔い改めを意味するギリシャ語「メタノエオ」をヘブライ語に訳すと「シューブ」になります。このシューブのイメージは、運転手がUターンするのと似ています。以前の方向の反対側に回ることです。つまり、罪、悪い欲望、望ましくない生き方、不信心からUターンして神の御心に適う生き方、聖書が教える生き方、聖霊の導きに従う生き方に立ち帰ることです。ですから、悔い改めは単純な反省、後悔という意味ではありません。実質的に、自分の生き方の改善を神の御前で誓う行為なのです。昨日、誰かと争ったなら、今日は仲直りしなければなりません。昨日、嘘をついたなら、今日は真実を言わなければなりません。昨日、自分が人生の主人だったら、今日は主を自分の人生の主人として招くのです。しかし、私たちは今日、悔い改めても、また、明日に罪を犯す可能性を持った不完全な存在です。したがって、悔い改めは、一生私たちが繰り返し行わなければならない課題なのです。今日、失敗したら、明日また挑戦するのです。イエス·キリストの救いの恩恵が私たちに絶えることなく機会を与えているからです。今日、罪を犯したとがっかりしないでください。今日、失敗だったら、主イエスの御名によって、明日、また新しい人生を生きるために進めばいいです。一生、失敗するたびに悔い改め、また進んでいきましょう。主は私たちの絶え間ない悔い改めのために、ご自分の命をもささげられました。U-ターンを覚えておいてください。私たちは主イエスの十字架の恩恵のもとで、悔い改めの機会をいただいた毎日U-ターンするべき存在なのです。
締め括り
福岡から東京に車で行くと考えてみましょう。途中で道を間違えて大分に行ってもUターンすれば良いです。四国に入ってもまた高速道路に出ればいいです。大阪で少し休んでも、また東京に向かえばいいです。そうすると富士山が見えてき、横浜を通って結局は東京に着くようになるでしょう。悔い改めは信仰の高速道路を走っていく私たちが、道を間違えた時、再び神に向かわせるU-ターンのようなものです。キリストは、神に向かう一本道であり、聖書は主なる神への正しい方向を指し示す交通標識のようなものであり、聖霊の導きはナビゲーションのようなものであります。このように説明すると、簡単に理解できるでしょう。だから毎日悔い改めて生活しましょう。小さい罪を犯したとしても悔い改めましょう。そして、再び機会をくださる主に感謝して、明日はまた違う生き方で生きましょう。そのような繰り返して悔い改めする人生を、主が喜んでくださると信じています。今日も主は聖書を通して、このように言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰る(シューブ)ならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イサヤ55:6-7)今週も悔い改めによって勝利する志免教会の兄弟姉妹の皆さんであることを祈ります。
主のお導きを祈ります。
父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。