イザヤ書49章1~3節 (旧1142頁)
エフェソの信徒への手紙1章3~14節 (新352頁)
前置き
もともと今日はマルコ福音書を説教する番でした。しかし、マルコ福音書の残りの箇所が主イエスの苦難と十字架での死、復活に関する話しであるため、レントとイースターの説教と重なると思い、しばらくはエフェソ書の説教をすることにしました。(エフェソ書の説教はマルコ福音書の次の順番でした。) エフェソ書の説教が終われば、またマルコによる福音書に戻って、残りの内容について話したいと思います。今年の志免教会の主題聖句はキリストの教会のあり方についての箇所でした。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」この言葉は、エフェソ書2章22節の言葉です。パウロはエフェソ書を通して教会の意義とあり方について語っています。教会は、神がご自分でお建てになったとても大事なキリストの体なる共同体です。今回のエフェソ書のみ言葉を通じて、教会とは何か、教会の一員である私たちは、どう生きるべきかについて一緒に考えてみたいと思います。今日は、その中でも特に主なる神のお選びと予定、お呼び出しについて話してみたいと思います。
1. 神の選びと予定。
「冬のソナタ」以来、韓流メロドラマが大人気です。韓流ドラマが人気な理由はいろいろあるでしょうが、男の主人公たちの甘いセリフも一役買ったと思います。例えば、イケメンの主人公の「生まれ変わっても君だけを愛するから。」のような照れくさくて切ないセリフは、数多くの女性視聴者の心をつかむのに十分だったと思います。ところで、神も主の民に向かってそのようなロマンチックな言葉を言われました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4) 神の御言葉である聖書へのロマンチックだという言い方は、神への失礼であるかもしれませんが、主はご自分の民を、この世が造られる前にキリストにおいてお選びになり、愛しておられるという、まるで韓流ドラマの男の主人公が言うかようなことをおっしゃったのです。「この世が造られる前に私はすでに君を選んだのだ。愛してるよ。」つまり、神がこの世の創造よりも先に、主の民一人一人をすでにご存知で、愛しておられたという意味でしょう。天地創造の前にお選びになった私たちを、キリストにおいて呼んでくださるために、神は大切なご自分の独り子イエス·キリストを十字架の献げ物として犠牲にさせられたのです。それだけに主の民と呼ばれる私たちは、主の切ない愛のもとに生きている存在なのです。韓流ドラマの女主人公を羨む必要はありません。主の愛はそれより深くて切ないからです。
改革教会において、大事な教理の中の一つで「神の予定」という概念があります。神がこの世の始まりの前から、すべてのことを知っておられ、あらかじめお定めになったということです。つまり、ご自分の民を天地創造の前に、すでにお選びになったということです。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(エフェソ1:5-6) 新共同訳聖書は「御心のままに前もってお定めになった。」という表現を使っていますが、それに基づいた神学の概念が、まさに「予定説」なのです。予定だからといって「誰かは選び、誰かは見捨てた。神は悪いことも予定される。」という意味ではなく、ただ「神は全知全能であるため、すべてをあらかじめ知っておられ、その御心のままに成し遂げられる。」と理解するのが正しいと思います。主はご自分の民をすでに知っておられる方です。私たち一人一人は、この日本で、そんなに影響力のない非常に平凡な普通の人であるかもしれません。そのため、誰かは自分のことを「つまらない、うまくいかない、みすぼらしい」など、低く評価しているかもしれません。しかし、神はそのような人でさえ、この世が造られる前から、すでに愛してお選びくださいました。主に特別に指名されたということです。したがって、私たちは自分のことを低く評価してはなりません。このよの造り主である偉大な神が、私たちを天地創造の前に選ばれたからです。そして、主はその選ばれた私たちをキリストによって、予定通りに教会に呼び出してくださったのです。
2. 神の予定を信じる者の生き方。
このような神の予定と係わりがあるような旧約の言葉があります。今日の本文です。「島々よ、わたしに聞け、遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。」(イザヤ49:1) この度、レント期間にキリストの苦難について説教する際、イザヤ書に出てくる「しもべの歌」について話しました。イザヤ書49章1-6節は、イザヤ書に出てくる四つの「しもべの歌」の中、二つ目の歌です。ここで、神のしもべは、自分が母の腹にいる時から、神に名を呼ばれたと告白しています。旧約に現れる神のお選びの箇所でしょう。このように新旧約を問わず、主はご自分の民をあらかじめご存知でおられ、呼んでくださる方なのです。私たちが願って神に選ばれ、キリスト者になったわけではありません。神が私たちをお望みになったので、私たちをキリスト者と呼び出してくださったわけです。先週の説教で、信仰は信じる人のものではなく、信じさせてくださる方のものであると話しました。主のお呼びも同じです。したがって、すべてを知り、すべてを計画し、すべてを予定される主なる神を信じる者は、私たちのすべてが主の御心のもとにあることを信じなければなりません。今現在の苦しみと逆境も、結局は神が知っておられ、主の御心にあって万事が益となっていくということを信じなければならないのです。
今日の新約本文であるエフェソ書は、いわゆる獄中書簡と呼ばれる手紙で、パウロがローマ帝国によって投獄されたときに記された聖書と知られています。彼は福音のために無実に投獄され、苦しみの中にありながらも、神の恵みと導きを疑わず、むしろエフェソ教会の兄弟姉妹たちにキリストにあって、神のご統治を堅く信じることを頼んだのです。また、今日の旧約本文であるイザヤ書49章は、イスラエル民族がバビロンの捕囚となった時代に主から与えられた慰めの言葉です。他国の植民地のようになり、もうこれ以上希望がなさそうな苦しい時にも、神は変わらずイスラエルを愛し、覚え、導いておられるということを訴える歌なのです。主の予定、計画、導くを信じる主の民は、何があっても主の御心が予定通りに成し遂げられていくことを信じなければなりません。パウロとイザヤ書49章の記録者が、苦しい現実にあったにもかかわらず、主のお導きを信じたように、キリストにおいて教会と呼ばれるようになった私たちも、何があっても主の御心が私と共にあるということを信じるべきなのです。それが神の予定を信じる者の生き方なのです。皆さんは神のご計画、つまり天地創造の前から、母の腹にいた時から、キリストにおいて神に選ばれた特別な存在です。その存在性にふさわしい信仰で神の御心を待ち望みながら生きていきたいと思います。
3. キリストにおいて。
さて、今日の新約の本文の中に、何度も繰り返される表現がありますが、それは「キリストにおいて、キリストによって」です。二つを言いましたが、原文としては同じ言葉なのでしょう。この表現は今日の本文だけでなく、これからもエフェソ書に、よく出てくる表現です。父なる神は「キリストにおいて」天のあらゆる霊的な祝福を満たしてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天地創造の前にわたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者にしようとお選びになりました。父なる神は「キリストにおいて」御心のままに前もってお定めになったのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちの罪を赦してくださいました。父なる神は「キリストにおいて」主の秘密である福音を私たちに教えてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天と地にあるものをキリストのもとに一つにまとめられたのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちを御国を受け継ぐ者としてくださり、父なる神は「キリストにおいて」私たちに聖霊によって神の栄光をたたえるようにしてくださったのです。以上、キリストにおいてという言葉を何度も繰り返しましたが、そのすべてが今日の本文に出てくる表現です。私たちが神によって天地創造の前から選ばれ、神への信仰を持たれ、罪を赦され、喜ばれ、教会に集められ、神のものとなったすべての根源的な理由は、まさに神の予定によって「キリストにおいて」の存在となったからです。
「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11-12) したがって、志免教会につらなる兄弟姉妹は皆、神のご計画により、キリストにおいて、前もって定められた神の民となった存在であり、またキリストにおいて、神に栄光を帰すべき存在です。私たちはキリストにおいて選ばれ、一つになってキリストを頭とする教会です。主の体なる教会という表現も、キリストにおいての共同体という表現の言い換えなのでしょう。私たちが、神の予定によって天地創造の前から選ばれた理由も、主のお導きによって教会に集まった理由も、主と共に毎日を過ごせる理由も、すなわち私たちがこの世に存在できるすべての理由が、まさにキリストにおいて、その全てが成し遂げられたからです。ですから、教会を形成する私たちは、私たちのすべてがキリストにおいてあることを必ず憶えて生きるべきです。私たちの人生の焦点がキリストに集められるべきであるということです。
締め括り
最後に、今日の説教についてもう一度まとめて終わりたいと思います。第一に、主はすべてを前もってお定めになる方です。主は天地創造の前から、ご自分の予定通りに私たちをお選びになり、教会に集めてくださいました。第二に、この神の予定を信じる者は、どんなことがあっても自分の人生のすべてにおいて神の御心があるといいうことを信じ、その方の御業を待ち望みながら信仰によって生きるべきです。最後に、このすべての神の恵みはキリストにおいて(よって)成し遂げられたのです。だから、私たちは主の教会の一員としてキリストを私たちの人生の最優先として生きなければなりません。これからは、エフェソ書を学んでいきます。使徒パウロがあれほど大事にしていたキリストの体なる教会。私たちはその教会を成す兄弟姉妹として教会を大切にしながら生きる使命を持っています。今週もキリストにおいて前もってお定めになられた者、教会の一員として生きていくことを祈ります。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。