創世記47章13~26節 (旧86頁) エフェソの信徒への手紙4章13節 (新356頁)
前置き
今まで私たちは、主にヨセフという人物の明るい面について話してきました。若い頃、自分の夢を話しつつ、父親と兄たちに分別のない言動をしたこと以外に、ヨセフはいつも信仰の人物、主と共に歩み、逆境を乗り越えた人物のように描かれました。しかし、今日はヨセフという人物の理不尽について語り合い、彼の暗い面について話してみたいと思います。これを通して、ヨセフを信仰的に勝利した人物と理解している私たちの認識に変化を与え、ひとえにイエス·キリスト以外に完全な者はいないということを分かち合いたいと思います。多くの聖書の学者たちが、ヨセフを旧約に現れるキリストのモデルとして理解してきました。しかし、ヨセフも結局は罪人の中の一人に過ぎない存在です。 実に私たちにとって、イエス·キリスト以外に希望になれる者は一人もいません。 主お一人以外に頼れる者は一人もいません。 すべての人間は不完全で、罪を持っている存在だからです。
1.ヨセフの行動は、すべて正しかっただろうか。
ヨセフが、エジプトの総理になった時代のファラオとエジプトの支配層は純粋なエジプト人ではありませんでした。ヒクソス人というセム族系統の民族で、紀元前17世紀頃に勢力を伸ばし、馬に乗って戦争する騎馬術や鉄器武器と鎧などを武装して、北側からエジプトまで進撃し、ナイル川の三角州地域を征服、その後エジプトの北部地域の一部を占領したと言われます。当時、騎馬術に慣れていなかったエジプトは、簡単に征服されたそうです。このヒクソス人はエジプトの王朝の中で、第15王朝として知られています。 ヨセフの曾祖父アブラハムもセム族系統だったので、ヨセフは割と難なく総理になったと思われます。つまり、ヨセフはヒクソス人ではありませんでしたが、同じセム族系統で、有能だったため、エジプトの最高権力者になることができたのです。ということで、ヒクソス人ではなかった彼は、自分の政治的な基盤のために、彼らに自分の忠誠心を見せる必要があったと思います。 「飢饉が極めて激しく、世界中に食糧がなくなった。エジプトの国でも、カナン地方でも、人々は飢饉のために苦しみあえいだ。 ヨセフは、エジプトの国とカナン地方の人々が穀物の代金として支払った銀をすべて集め、それをファラオの宮廷に納めた。 」(創世記47:13-14) そのため、ヨセフはエジプトと周辺民族を助ける良い政策を出したにもかかわらず、結局、それを用いてエジプトの被支配層と周辺の民族に穀物を売って、彼らのお金と家畜、そして土地を手に入れ、ファラオに捧げたのです。
「ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分の畑を売ったからである。土地はこうして、ファラオのものとなった。」(創世記47:20)もし、私たちに馴染みのあるヨセフという人物ではなく、他の人がこのような政策を広げたとしたら、私たちは非常に抑圧的だと批判したかもしれません。しかし、彼が親しみのあるヨセフだから、私たちは自分も知らないうちに、ヨセフの行動に疑いを挟まないのではないでしょうか。創世記はヨセフをまるで主人公のように描写しているからです。 「ヨセフはこのように、収穫の五分の一をファラオに納めることを、エジプトの農業の定めとした。それは今日まで続いている。ただし、祭司の農地だけはファラオのものにならなかった。」(創世記47:26) このようにヨセフはエジプトの民の土地と、その高い税金までファラオに捧げることで、実は普通の民ではなく権力者に合わせた政策を広げてしまいました。イザヤ書では、神のメシアがどんな人物なのか、非常に詩的な言語で表現しています。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザヤ42:3) 果たして、私たちはヨセフをメシアのモデルと考えても良いのでしょうか? いくら有能な神の民だと言っても、人間は不完全は存在です。偉大な信仰の人物たちも神の御前では、不完全そのものでした。モーゼが、アブラハムが、ダビデが、そして、ヨセフも不完全な弱い人間でした。どんなに偉大な存在でも、彼が人間なら不完全から自由ではなりません。それが罪を持っている人間の限界なのです。
2.聖書を読む時に注意したいこと。
私たちは、最初、聖書を学び始めた時から、聖書が神の御言葉だと聞いてきました。実に聖書は神の御言葉が記録されている書です。しかし、この聖書の文字一つ一つが100パーセント神の御言葉であると言えるでしょうか? それでは、旧約でイスラエルが盲目的に異邦人を差別したり、憎んだりしたのも神の御言葉によるものであり、新約で女性は教会で教えてはならないという言葉も神の御言葉によるものなのでしょうか? 現代のイスラエル人がパレスチナ人を迫害したり、いくつかの教派で女性に牧師や長老の按手を授けないことも、神の御言葉に従っているためでしょうか? これからの話は、今まで聖書と神学を研究しながら私なりに整理した、多少個人的な意見です。そのため、皆さんの聖書観と少し違う点があるかもしれません。神は不思議な力で、直接ペンを動かして聖書を書かれたわけではありません。各時代の預言者のような神を信じる、しかし、不完全な「人間」をお呼びになり、聖書を記録させられたのです。そのため、聖書には記録した人の民族的な特徴や歴史的な限界が現れる場合もあります。確かに聖書には神の御言葉が記録されていますが、神に用いられた著者たちの歴史的、社会的、民族的な思想も、一緒に記録された場合が少なからずあるということです。 改革教会では、モーセ五書のほとんどがイスラエルの指導者であったモーセの記録だと見なしています。つまり、モーセ五書には、彼の神学、民族、性向が、ある程度投影されている可能性が高いということです。
というわけで、モーセ五書の一部である、創世記47章で、ヨセフはヒクソス人のファラオと、その宗教指導者たち、そして自分の家族には、とても優しく接しているのではないでしょうか? 創世記を記録したモーセの見方(ヒクソスの次の王朝の弾圧を経験した)がある程度適用されたと思うからです。そのためか、その他の人たちには非常に厳しい姿を見せます。そして、まるでヨセフが賢く政策を広げたかのように描いています。エジプトとカナンの普通の民が一文無しになったという描写はありません。私たちは聖書を読む時、これに注意する必要があります。「聖書は神の御言葉」という名目で、暴力的で不条理な記録さえ、神に許されたと考えてはならないということです。聖書に記録された文字一つ一つが神の御言葉そのものだと受け止めるより、聖書を貫く大きな脈絡に神の御言葉が込められていると理解するのが正しくないでしょうか。そうでなければ、私たちは旧約聖書に現れる暴力までも、神の御言葉によるものと誤解してしまう恐れがあるからです。 何の疑いもなく聖書の記録を盲目的に神の御言葉として理解するよりは、聖書の著者たちも私たちのような人間だったこと、にもかかわらず、主は彼らを用いて聖書をくださったとの理解を持って、聖書への正しい理解のために神に祈り、きちょうめんに勉強しつつ読まなければならないと思います。
3.ヨセフという人間の理不尽
また、本文の内容に戻り、ヨセフは果たして正しい人だったでしょうか? 例えてみましょうか。太平洋戦争の時、原爆で日本は無条件に降伏します。当時、アメリカのマッカーサーは日本を占領し、天皇の上の支配者のようになりました。ところで、この時、日本の捕虜だったスミスというイギリス人がおり、戦後、賢い政策をアドバイスして、いきなり、マッカーサーの補佐官になったと仮定してみましょう。自分の家族を日本の最高の地域に呼び込み、足りない物資を利用して、日本の産業とお金と土地をすべて没収してアメリカに渡し、日本人をマッカーサーの奴隷にしたとしたら、皆さんのお気持ちはどうなるでしょうか。これがまさにヨセフがエジプト人と周辺民族に行った政策だったということです。私たちは、常にヨセフの側から創世記を読むので、これが悪いという認識が薄くなる場合が多いです。しかし、エジプト人やカナン人の目から見ると、これ以上の暴政があるでしょうか? 神はすべての人類を愛される方です。キリストをお遣わしになった理由も、イスラエルだけでなく、この世のすべての人類を救ってくださるための普遍的な恩寵だったのです。もちろん、その中でご自分の民をお選びになるのは、神の主権によることですが、少なくともすべての人類にイエスを信じる機会は与えてくださったのです。つまり、神は皆に公平な方であるということです。
だからこそ、イエス·キリストの愛もすべての人類に公平に与えられるものなのです。とういうことは、イエスの体なる私たち教会の、この世への愛も公平な愛でなければならないということです。信徒同士だけが愛し合い、教会の外の人には愛しなくて良いというわけではありません。キリストの愛が、この世のすべての人類に許されたように、私たちの愛も教会と社会にあって、皆に普遍的に伝えられるべきです。そんな意味で、ヨセフはエジプトの指導者だけのための政策を広げてはなりませんでした。ファラオがヨセフに無理やりにさせたことではありません。ヨセフ自身がそのように行ったわけです。他の人々はファラオの奴隷のようになろうがなかろうが、自分の上司であるファラオ、自分の家族であるエジプトの宗教指導者たち(ヨセフの妻アセナトは、エジプト祭司のポティ・フェラの娘でした。)そして自分の父親であるヤコブとその家族だけに特権が与えられる政策でした。皆さん、ヒキソス人のエジプト支配が何年間続いたかご存知でしょうか? わずか100年過ぎの短い期間でした。その後、再び政権を奪還した純粋なエジプト王朝がヒキソス王朝を追い出し、エジプトを掌握したのです。出エジプト記の苦しむイスラエルの姿は、もしかしたら、ヨセフが行った政策の結果だったかもしれません。ヨセフという人間の理不尽が子孫を苦しめる悪を作り出したわけです。
締め括り
最後に、今日の新約の本文を読んでみましょう。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13) 聖書が語る「知識」とは、行いと体験を伴うものです。頭だけで知るわけではなく、実践が伴う知識という意味です。私たちが聖書に現れる神の御言葉を信じ、知るということは、主の御言葉の意図通りに生きるという意味です。かつてヨセフは神と共に歩んだ者と呼ばれました。しかし、総理になった彼の歩みはどうだったでしょうか? 神と共に歩む者なら、賢い政策という名目で他人の財産と労働力を一方的にファラオのものにしてはならなかったでしょう。ヨセフが正しいかどうか、聖書ははっきり評価していません。しかし、少なくとも、ヨセフの行為を、私たち自らが一度考えてみる必要はあると思います。それによって、私たちはヨセフも、結局、不完全な罪人だったことを知ることになるでしょう。すべての人間には理不尽があります。罪を持っている人間の宿命です。このような不完全さを見て、私たちはもう一度完全なキリストに頼ることがどれほど大事なことなのかを憶えることになると思います。今日、ヨセフの姿を見て、自分がヨセフだったらどうしたか考えてみたいと思います。私たちは果たして、どのように生きるべきでしょうか? 主の知恵を求めます。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン。