創世記47章1-12節 (旧85頁)
エフェソの信徒への手紙1章22-23節 (新353頁)
前置き
長い長い創世記の説教の終わりが近づいています。2020年6月に創世記の1章で説教を始めて以来、もう3年近になっています。その間、私たちは創世記の言葉を通して、神の創造と人類の堕落、人類への主の救い(創世記に現れる部分的な救い、完全な救いはイエス·キリストによって成し遂げられる。)について話してきました。創世記は人類への神の祝福の記録です。神は祝福をもって人類を創造されましたが、人類は自らの罪によって神との関係を失い、呪われた存在となってしまいました。しかし、神は人類をあきらめられず、アブラハムという人を召され、神と人類が和解する道を作り始められました。神はアブラハムと息子イサクと孫ヤコブを用いられ、罪に満ちていた人類に、神の救いの道を伝える、主の民、イスラエル民族(ヤコブ部族)を造られました。そして、そのイスラエル民族を空の星と海の砂のように繁栄させるために、ヤコブの息子ヨセフをエジプトの総理として遣わし、彼を通してヤコブの家族をエジプトに移されました。その結果、出エジプト記になっては、数万人の大民族に栄えます。今日はヤコブの家族がエジプトに到着して経験した出来事について話してみたいと思います。
1.ヤコブとヨセフの再会
「ヨセフはファラオのところへ行き、『わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります』と報告した。」(創世記47:1) 今日の本文が始まると、私たちは一つの地名を聞くことになります。それはゴシェンです。なぜ、ヤコブの家族はゴシェンにいたのでしょうか? まず、今日の本文には含まれていませんが、本文の直前の46章28節から34節にはヤコブとイサクの再会の場面が出てきます。「ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。」(創世記46:29) 過去、息子たちの元気と羊の群れの無事を確認するために送った最愛の息子が、行方不明になって以来、十数年ぶりにエジプトの総理として帰ってきたました。過ぎ去った歳月、神としては、ヤコブの家族を飢饉から救い、大いなる民として繁栄させるために、ヨセフをエジプトに遣わされたわけでしょうが、前後の事情が分かるすべのないヤコブとしては、実に苛酷な試練の時間だったでしょう。毎日、涙とため息で過ごしてきたはずです。しかし、今この瞬間、ヤコブはこの上ない喜びを感じたのでしょう。 とういうことで、ヤコブは言います。 「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(創世記46:30) 神はヤコブの試練の末に、この上ない喜びを与えたのです。
ヤコブの試練は近くから見ると悲劇ですが、遠くから見ると喜劇です。もし、ヨセフが兄たちに売られずに、そのまま、ヤコブと暮らしたとしたら、大飢饉の中でヤコブの家族はどうなったでしょうか? 現代人にとっての飢饉は、それほど大きな問題にならないかもしれません。スーパーに行くと、変わらず米を買うことができ、水も足りないことがありません。しかし、古代人にとっての飢饉は命がけの問題です。今すぐに飲む水も、食べる穀物もなくなるからです。もし、ヨセフがエジプトに売られなかったら、ヤコブはしばらくの幸せだけで、後には飢饉によって滅びてしまったかもしれません。ヨセフがいなくなってから、ヤコブは長い間、悲しみで過ごさなければならなかったが、皮肉なことに、その結果は大飢饉からヤコブの家族が皆救われ、以後、神の御言葉通りに大いなる民族となることでした。私たちの人生の中に到底理解できない試練が近づいてくる場合があります。あまりにも、つらくて神が恨めしい時もあるかもしれません。しかし、私たちは憶えなければなりません。キリスト者の人生において、意味のない苦難はありません。今の苦難は私たちを養われる神の計画の一部です。もちろん自分の過ちによってやって来る苦難は自業自得でしょうが、自分の過ちなしにやって来る苦難は、神の祝福のための準備段階である可能性が高いです。ヤコブとヨセフの再会を目の前にして、私たちはこのような信仰を持つべきではないかと思います。
2.流浪のヤコブ、ゴシェンに住む。
父親との涙ぐましい再会の後、ヨセフは兄たちに、このように頼みます。「ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」(創世記46:33-34)ゴシェンはナイル川河口の東側にある草原地帯と推測されます。今でもグーグルマップを見ると、他の地域は砂漠であるに対し、そこは緑の地域であることが分かります。47章では、ヨセフの頼みのように、兄弟たちがファラオに自分たちは牧畜をする者と言いました。「ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。『お前たちの仕事は何か。』兄弟たちが『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます』と答え」(47:3) 彼らの答えに対し、ファラオは彼らがゴシェンに住むことを許可します。ここで気になる表現があります。46節34節の「羊飼いは、いとうもの」という表現です。ここで、羊飼いとは流浪民のことだと思われます。中世ヨーロッパのジプシー、現代アメリカのヒッピーなど、人々には定着せず、さまよい続ける人々を避ける傾向があります。歴史上、流浪民族が周辺民族を略奪したという記録が残っていますが、おそらく、その影響もあったと思います。詳しい理由はわかりませんが、流浪民族は定着民族に嫌われる傾向がありました。
最初から、ヤコブの家族はカナンの定着民族ではなく、流浪民族でした。その流浪民族がエジプトに入ったわけです。エジプトの人々は、彼らが、もしかすると自分たちに被害を及ぼすのではないかと警戒していたかもしれません。ですから、牧畜に適していて、エジプト人と離れたゴシェンの草原地帯にヤコブ一家がいることが良いと思ったでしょう。流浪民としてエジプトに来たヤコブの家族は、ゴシェンの地でエジプト人と区別されて暮らしていましたが、400年後に再び流浪民として、エジプトから脱出することになります。ここで、私たちはキリスト者のあり方について考えさせられます。キリスト者は昔の流浪民族のように人々に被害を及ぼす存在ではありませんが、しかし、流浪民族のように、この世に定着することもない存在です。なぜなら、エジプトのような、この世はキリスト者の目的地ではないからです。キリスト者は、世の中とは区別されたゴシェンのような存在である教会として生きながら、いつか帰るべき、神の国を待ち望みつつ、人生を歩んでいく存在です。ですから、私たちはこの世に属した存在ではありません。私たちはこの世ではなく、神に属した主の民です。 つまり、私たちの故郷は神のふところなのです。キリスト者はこの世と区別された、この世の人々にいとうものとされる(彼らと違う)存在です。でも大丈夫です。私たちは主に従って神の国に入る、世の中とは区別されたゴシェンのイスラエルの民のような存在だからです。
3.ヤコブがファラオを祝福する。
「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。ファラオが『あなたは何歳におなりですか』とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。『わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。』ヤコブは、別れの挨拶をして、ファラオの前から退出した。」(創世記47:7-10)以後、ヤコブはファラオを謁見しに、彼の前に立ちます。その時、ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べます。私たちは、この世とは区別された存在ですが、この世へ神の祝福を宣べ伝える存在です。祝福は目上の人が目下の人にすることです。神がこの世を祝福なさるのです。ヤコブがファラオを祝福したのは、ヤコブという人間ではなく、神の代理人として、ファラオに治められるこの世に祝福したのです。しかし、ここで、この世とは罪に染まり、悪があふれる世の中を意味するものではありません。罪がより大きくなり、悪がより隆盛するよう祝福するわけではありません。神の創造の摂理によって、この世が神に立ち戻り、神の御心が、この地上で成し遂げられるように祝福するということです。おそらく、ヤコブはファラオがこの世をうまく治め、神の御心にふさわしく生きることを祝福したのではないかと思います。
ヤコブは、今まで生きてきながら、多くの苦難を経験しました。130年という年月、人生の疲れをしみじみと感じてきたでしょう。しかし、その歳月が積もれば積もるほど、ヤコブは神が共におられること、神の恵みを切実に経験してきたでしょう。キリスト者としてこの世を生きるということは、本当に大変なことです。とりわけ、キリスト教が大衆的でない日本ではなおさらでしょう。しかし、主の祝福は大きな教会、小さな教会を問わず、平等に与えられます。そして、私たちはその神の祝福を世の中と分かち合いながら生きていくべきなのです。私たちは罪に満ちた世の中で、神の祝福を所有している存在です。キリストの愛を私たちが伝えなければならないということです。創造主の祝福が教会に託されているということです。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エヴェソ書1:22-23) 教会は万物を満たしている方が、満ちておられる所だからです。つまり、教会の使命は、主の祝福をこの世に伝えることです。私たちの人生において、主の恵みとお導きを通じていただいた、すべての物事を用いて、私たちは世の中に主なる神の祝福を伝える祝福の通り道にならなければなりません。私たちのそのような生き方は、神がアブラハムに約束された「君は祝福の源となる。」という言葉の継承になるでしょう。
締め括り
今日の話しをまとめます。第一、キリスト者の人生に理由のない苦難はありません。苦難は私たちを成長させる神の計画の一部です。私たちはいつか苦難さえも主による祝福の道具だったと感謝することになるでしょう。第二、私たちは世の中と区別された神に属する存在です。私たちの居場所はこの世ではなく、神の国であることを憶え、世の中の価値観に心を奪われないように気をつけて行きましょう。第三、教会は、この世に神の祝福を宣べ伝える祝福の通り道です。世の中と区別されるものの、世の中に絶えず祝福の主を伝える共同体として生きていきましょう。私たちは神に呼び出されたキリストの教会です。私たちのあり方が世の中のそれとは違うということを心に留め、主の御心と御言葉に従順に聞き従う群れとなりますように祈ります。 父と子と聖霊の名のもとに。 アーメン。