申命記7章6-8節 (旧292頁)
エフェソの信徒への手紙2章11-22節 (新354頁)
前置き
2023年が明けました。2022年にも、志免教会を守ってくださった神に感謝します。一年間、志免教会に仕えてくださった兄弟姉妹の皆さんにも感謝いたします。今年も主の恵みと平和と愛の志免教会であることを祈ります。今年の中心聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)です。この言葉はキリストの教会のあり方についての代表的な言葉です。今日は新年を迎え、教会という存在について、そして教会を成すキリスト者のあり方について話してみたいと思います。
1.神がご自分の民をお選びになった理由。
今日の旧約の本文は、出エジプト以後40年間、荒野をさまよっていたイスラエルの民が、長い旅を終え、カナンに入る直前、イスラエルの指導者であるモーセを通して語られた神の御言葉です。そして、この言葉は旧約の民だけでなく、現在を生きる新約の民にも適用できる言葉でもあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7:6) 主の民(旧約のイスラエル、新約の教会)は主ご自身に選ばれた宝物のような存在です。主の教会である私たちは、それぞれ生まれは違いますが、この志免教会に集まってキリストにおいて一つとなった主の大切な民です。それぞれ異なる背景と人生を経てきましたが、主の時に呼び出され、今は主の教会の一員となった主のものなのです。しかし、主は偶然私たちを選ばれたわけではありません。主は、生まれる前から私たちを知っておられ、私たちの喜怒哀楽の中に共におられ、ここ志免教会に導かれ、一つにしてくださったのです。したがって、私たちは自分の意志によって神の民となった存在ではありません。主なる神が主権的にキリストの福音を聴かせ、信じさせ、聖霊によって信仰を与え、主のご意志に従って、私たちをご自分の民、志免教会にしてくださったのです。
それでは、主はなぜ私たちを選んでくださったのでしょうか? 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:7) 主は私たちが偉い存在だから、選ばれたわけではありません。むしろ、歴史上、主の民、つまり教会は貧弱な場合がもっと多かったのです。主は私たちを強弱に従って選ばれたわけではありません。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し…救い出されたのである。」(申命記7:8) 主は誰かとの約束を守るために私たちをお選びになったのです。旧約のイスラエルは先祖であるアブラハムとイサクとヤコブとの契約を、新約の教会は救い主イエスとの契約を守るためにお選びになったのです。神は主イエスを信じる者を必ず救ってくださるとの契約によって、罪人を愛し、ご自分の民とし、宝物のような大切な存在としてお選びくださったのです。
2。 教会のアイデンティティ。
それが私たち、志免教会のアイデンティティです。 私たちはこの日本で誰よりも弱い存在であるかもしれませんが、誰よりも偉大な神に愛される共同体です。キリストが十字架でご自分の命をかけて、私たちを救い、主の教会として呼び出してくださいました。父なる神は最愛の独り子の命を身代金とし、私たちをご自分の所有とされました。ですから、神は御子イエスの教会を、御子のように愛しておられます。これが教会のアイデンティティなのです。教会は親睦団体でも、営利団体でも、欲望を実現するための団体でもありません。教会はご自分の血潮によって主ご自身が選ばれたキリストの体です。神はキリストを教会の頭にし、教会はキリストを頭として一つになった主の民の集まりなのです。今日の新約の本文を読んでみましょう。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々(ユダヤ人)からは、割礼のない者と呼ばれていました。」(エフェソ2:11-12) 私たちは皆、もともと神と何の関係もない異邦人でした。クリスチャンホーム出身といっても、結局ユダヤ人ではないので、その根本は異邦人です。旧約のユダヤ人は、異邦人を地獄の炎の焚き物と扱っていました。異邦人はいつ滅びても構わない見捨てられた存在だったのです。
しかし、神はその異邦人さえもキリストの御救いによって、ご自分の民と受け入れてくださいました。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:13-14) 神はキリストの血によってユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り壊してくださいました。イエスの中ですべての人種と民族と国の違いが意味を失いました。キリストの中にいるなら、誰でも神の民になり、神の子供になるからです。志免教会には日本人、外国人の区別がありません。ただキリスト者がいるだけです。言葉、文化、思想が多少違っても構いません。キリストだけが自分の主であり、自分はキリストの民であり、神の聖なる民であることを信じるなら、私たちは一つなのです。主が私たちの和平であるからです。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:16) また、キリストの十字架の恵みによって、私たちは神と和解しました。私たちは神の御前で罪人としての重荷から自由になったのです。これらすべてがキリストが教会の頭になってくださった恵みによるものです。
3.教会を考える。
以上の旧約と新約の言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、神はキリストとの契約によって、私たちを愛し、呼び出され、主の民、志免教会にしてくださいました。二つ、神はキリストを志免教会の頭としてくださり、私たちと和解し、平和を与え、私たちをキリストの体と呼び、一つにしてくださいました。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」(エフェソ2:19) だから、エフェソの信徒への手紙は、私たちが外国人でも、寄留者でもない、神の国の民であり、神の家族だと証言しているのです。それでは、主の教会として召された私たちは、どのような心構えで生きるべきでしょうか。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エヴェソ2:20-22)、私たちは使徒たちと預言者たちという土台、すなわち主の御言葉の上に建てられた存在です。私たちは主の御言葉を私たちの基準にして生きなければなりません。自分の考えや思想ではなく、主の御言葉が指し示す方向に進まなければなりません。主の御言葉を謙遜にいただき、それを私たちの羅針盤として生きていかなければなりません。
また、私たちは主を教会のかなめ石として生きるべきです。つまり、教会の頭であるキリストの御心に従って生きるべきです。主の御心は世の中の常識とは全く違います。この地上で主がどのように生きられたか、主が何を追い求められたか、私たちは常に主のみ言葉によって、主の御心に耳を傾けて生きるべきです。かなめ石は、一つの建物が倒れないようにする支えの石です。どのようなかなめ石かによって、その建物の価値が変わるのです。つまり、かなめ石は基礎なのです。教会のかなめ石であるイエスは神への愛と隣人への愛という最も基礎的な生き方を私たちに教えてくださいました。教会もまた、そのような最も基礎的なキリストの教えに従って生きる義務を持っています。教会は主の体だからです。私たちは個人の思想、個人の意思、個人のやり方ではなく、主の御望みを追い求め、主の御心をわきまえつつ、教会を健全に建てていく義務を持っています。最も低いところに来られたイエスのように最も低いところを追求し、お互いに愛しあいなさいとおっしゃったように愛し合って生きるべきです。そのような主の御心の中で、教会の一人一人がお互いに赦しあい、愛しあい、助けあいながら生きていくべきです。ヨハネによる福音書で主は言われました。「イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハネ2:19,21) 私たちはかなめ石イエスの御救いによって真の神殿となった共同体です。一緒に組み合わされていく存在です。主の教会はキリスト・イエスにおいて一つとなり、一緒に建てられていく、新約時代の神殿そのものだからです。
締め括り
今年は教会とは何かについて深く学んでいきたいと思います。教会はこの世にありますが、この世とは区別された存在です。私たちの思いではなく、主の御心によって建てられていくべき存在です。それこそが健全な教会のあり方なのです。この一年、志免教会の主であるキリストを、そして、キリストが私たちに求めておられることとは何かについて深く考えつつ生きていきたいと思います。主の言葉を常に身近に置き、祈りの生活を続けていきましょう。神と隣人を愛して過ごしましょう。どんな困難があっても、ひとえに主イエスだけを頼りにして生きていきましょう。私たちが誰なのかを主の言葉によって自覚して生きていきましょう。2023年は教会について深く悟り、志免教会という主の体に、どのように仕えていくべきだろうかと思いながら生きたいと思います。これからの一年、主なる神が志免教会に豊かな祝福を与えてくださることを祈り願います。父と子と聖霊によって。アーメン。