ゼカリヤ書9章9節(旧1489頁)
マルコによる福音書11章1-11節(新83頁)
前置き
今日のマルコによる福音書の本文には、いよいよエルサレムに、お入りになるイエスの物語が描かれます。イエス•キリストはこの世のすべての罪を背負い、自らを十字架のいけにえとして捧げ、罪人を救われる、神によって遣わされた唯一のメシアです。旧約の律法には人が神の御前で、自分の罪を償うために傷のない獣のいけにえを捧げなければならないという規定がありますが、その旧約のいけにえは一度で終わらず毎年行わなければならない不完全なものでした。獣の血では人の罪を完全に償うことができないからです。しかし、神がお遣わしくださった唯一のメシアであるイエスは、完全な神であり、完全な人であるゆえに、罪のないご自分の肉体を十字架で捧げることにより、罪人の救いをたった一度で完成する完全ないけにえになられました。イエスがエルサレムに向かわれる理由は、まさにその完全な救いのためにご自分の肉体を生贄になさるためでした。これまでイエスは病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、貧しい者たちの世話をしてくださり、弟子たちに福音の秘密を教えてくださいました。しかし、もはや主は癒され、宣教され、教えられる御業に終止符を打ち、これからは自ら罪人のための身代金になられるために、犠牲と贖罪の十字架の道に進まれるのです。今日の本文からは、十字架に向かって進まれる、主イエスの最後の一週間の物語が描かれます。
1.子ろばに乗ってこられた方。
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」(1-2)弟子たちと一緒にエルサレムの近所に来られた主は、すぐエルサレムにお入りにならず、その前にエルサレムの東側、オリーブ山のふもとのベタニアという小さな村に行かれました。そして、主はそこから子ろばを連れてきなさいと、向こうのベトファゲに二人の弟子を送られました。その後、主はオリーブ山の道を通ってエルサレムの方へお向かいになりました。オリーブ山はエルサレム神殿が見下ろせる低い丘ですが、神殿の入口が見える場所です。主がエルサレムの東側にあるベトファゲとベタニア、オリーブ山を通ってエルサレムに行かれた理由は、おそらく「メシアは東から臨まれる」という当時のユダヤ人の信仰と関わりがあると思います。「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」(エゼキエル43:4)そして実際に、東側のオリーブ山からエルサレムに目を向けると神殿の東側(神殿の入口)が丸見えなので、メシアの到来を意味するのかもしれません。ところで、ここで少しおかしいことがありますが。なぜ、主イエスは立派な白馬(馬は帝王の出現を意味)に乗ってこられず、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに来られたのでしょうか?
「見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、誠実および真実と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙示録19:1)黙示録を見ても、再臨のキリストが悪をお裁きになる時に、白い馬に乗っていらっしゃると書いてありますが、今日の本文のキリストはあまりにもみすぼらしい姿の子ろばに乗っておられました。何か間違ったのではないでしょうか。しかし、次の箇所を読むと考えが変わるかもしれません。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9) 今日の旧約本文であるゼカリヤ書は、メシアの出現について、このように話しているからです。旧約では、メシアの出現について2つの姿を描写しています。一つは、先日、説教で取り上げられたダニエル書の「天の雲に乗った姿」です。「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進んだ。」(ダニエル7:13) そして残りの一つは、今日のゼカリヤ書のように「子ろばに乗った姿」です。ゼカリヤ書はメシアは謙遜な方なので、雌ろばの子に乗ってくると表現しています。実際にイエスは自らを低くされ、罪人の贖いのために代わりに死んでくださる謙遜の王です。しかし、私たちはここで「子ろば」に目を奪われてはいけません。「まだだれも乗ったことのない」という表現に目を注ぐ必要があります。
主イエスが子ろばに乗られた理由は、旧約の預言の成就という意味でしょう。ところで「まだだれも乗ったことのない」という言葉は、イエスの本質につい教えてくれるヒントなのです。ミシュナーサンヘドリンというユダヤ人のタルムードには「王が乗る獣には誰も乗ってはならない。」という解説があると言われます。つまり、イエスは単純に子ろばというみすぼらしい獣に乗られたのではなく、誰も乗ったことのない預言に登場する特別な獣に乗られたということです。誰も乗ったことのない子ろばという表現がイエス•キリストのメシアとして、また王としてのアイデンティティを表しているわけです。また、普通の人々はエルサレムに入る時に獣から降りて歩いて入ったと言われますが、イエスが獣に乗ったまま、入城されたということ自体が特別な意味を持っているのです。そして、子ろばに大人のイエスが乗ったということで動物虐待と誤解する人もいますが、これは私たちが考える幼いろばではなく、元気な若いろばの意味として解釈できるということを見逃してはならないでしょう。現代を生きている私たちの目には、子ろばに乗られたイエスが滑稽に見えたり、不自然に感じられたり、するかもしれません。しかし、イエス当時のユダヤ人にとって、子ろばに乗ってエルサレムにお入りになったイエスのイメージは、旧約の預言に登場した真のメシアと重なって見えたということを理解したうえで、今日の本文を読む必要があります。
2.ホサナ:主よ、どうか私たちを救ってください。
イエスが、エルサレムに入ろうとされた時、多くの人々は子ろばに乗って来られた、このイエスというラビを見て、旧約の預言を思い起こしたでしょう。それで、人々はついにローマ帝国の圧制から自民族を救い上げる指導者が臨んだと考えたのでしょう。人々はイエスという若いラビがいきなり登場し、病人を癒し、悪霊を追い出し、多くの人々に食べものを与え、今までなかった権威ある講説をするといううわさを聞いてきました。そういうわけで、もしかしたら、この人こそがイスラエルを救い出すメシアであるかもしれないと思ったわけでしょう。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(8-10) 今日の本文にはホサナという表現が出てきていますが、これは「主よ、どうか私たちを救ってください。」という意味のヘブライ語です。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」(詩篇118:25) そして、その出所は詩篇118編です。ところで、ホサナの実際の発音は「ホシュアナ」です。「ホシュア」は救いを意味する「ヤシャ」という表現が文法的に変形したもので、「ナ」という表現は「どうか、ぜひ」などを意味します。この「ヤシャ」から旧約の「ヨシュア」新約の「イエス」という名前が派生しました。
さて、人々はどういう思いをもって、イエスに「ホサナ」と叫びながら喜んだのでしょうか? 彼らはイエスがこの世のすべての存在を惨めにする罪の問題を解決するために来られた霊的なメシアであるということを分かっていたでしょうか。実に残念なことは、主の弟子たちも、群衆もイエスをただ政治、軍事的なメシアとして理解していたということです。彼らが考えてきた救いは、ただ自分の国と民族が、ローマ帝国から解放され、自分たちの思い通りに生きることでした。神は創世記のアダムの堕落以来、この世を汚し乱す罪の問題を解決するために休まず働いてこられました。神は贖いの御業を成し遂げられるために、イスラエルという主の民を打ち立てられ、祭司の国にしてくださいました。イスラエルの使命は神の救いを、全世界に表す神の国になることでした。そのため、主は巨大な国々からイスラエルを守り、保たせてくださったのです。しかし、イスラエルは自分の使命を忘れ、世俗的な道を進み、数多くの罪を犯しました。そこで、神はイスラエルを滅ぼされ、帝国の植民地にされたのです。なぜ、神はご自分の民さえも滅ぼされるのでしょうか。神は巨視的にこの世をご覧になる方です。一国の興亡盛衰ももちろんつかさどる方ですが、それより、もっと大きな問題、すなわちこの世の全てを苦しめる罪の問題を解決するために、より広く世を見ておられる方なのです。神にとって最も重要なのはイスラエルという一国の復興ではなく、人類を罪から救われることでした。
しかし、当時のイスラエルの人々は、そうではありませんでした。彼らはあまりにも微視的な観点からメシアを理解しました。自分の祖国を解放する政治的な人、自分たちの欲求を聞いてくれる世俗的な指導者だけを求めていたのです。イスラエルの群衆は子ろばに乗っておられるイエスを眺めながら、どのような意味の「ホサナ」を叫んだのでしょうか。彼らは罪の問題を解決しようとされた神の巨視的な観点とは全く関係のない、自己欲望の解決というあまりにも微視的な観点からイエスを理解しようとしたのです。これは私たちの信仰とも関係があります。 私たちは毎週教会に出席し「ホサナ」を唱えます。もちろんホサナという表現は直接言いませんが、私たちの礼拝、讃美、教会生活が結局は「主よ、どうか私を救ってください」という無言のホサナではないでしょうか。ところで私たちは自分の罪を贖われるイエスへの愛と感謝としてホサナを呼んでいるのか、それとも自分の有益と必要だけのためにホサナを呼んでいるのかを、はっきり確かめなければなりません。ひょっとしたらイエスの贖いと救いの御業は、当時のイスラエル人においては、別に必要ないものだったかもしれません。 なぜなら、彼らが望んだ救いは罪の問題を解決する根本的な救いではなく、直ちに自分の願いが叶うという世俗的な救いだったからです。そして、彼らは自分の世俗的な欲望を聞き入れてくださらなかったイエスを自分たちの手によって十字架につけてしまいました。私たちはどのような意味としてホサナを呼んでいるのでしょうか? どんな心で信仰生活を続けているのでしょうか。
締め括り
今日はイエスが子ろばに乗って来られた出来事の意味について、そしてホサナの意味と理解し方について分かち合いました。昔、ユダヤ人のあるラビがこのような話をしたと言われます。「神の民がまともに備えていれば、メシアは天の雲に乗ってこられるだろう、しかし、神の民がまともに備えていなければ、メシアは子ろばに乗ってこられるだろう。」もちろん、これは一介のユダヤ教のラビの解釈ですので、キリスト者はこの言葉を真摯に受け入れる必要はないでしょう。しかし、私たちは彼の言葉を通じて、私たちがキリスト者として、どのような心構えで生きているのか、振り返ることはできると思います。主への純粋な信仰によってホサナを唱えているのか、自分の必要と欲望によってメシアを利用するために、ホサナを唱えているのか、私たちは常に私たちの信仰の純粋性について疑い、点検しつつ生きるべきです。これからマルコによる福音書で現れるキリストの十字架の道を通じて、より一層私たちの現在の信仰を顧み、主に正しく聞き従うために力を尽くす私たちになることを願います。今週も主の豊かな恵みにあって平安に過ごされますよう祈ります。