列王記上19章11-13節(旧566頁)
マルコによる福音書10章46-52節(新83頁)
前置き
前回のマルコによる福音書の説教では、聖書が語る「栄光」について話しました。「栄光」は非常に抽象的な表現ですので、定型表現として定義づけしにくい概念です。しかし、新旧約聖書に記された原文から、私たちは栄光が持つイメージについて、ある程度知ることができました。「ある存在が自分らしくあること」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が栄光のイメージであると話しました。「強くて、輝いていて、栄えた何か」が栄光ではなく「神が神らしくいらっしゃること」が神の栄光であり「神を正しく知り、正しく告白すること」が信者の栄光であると言いました。そういう意味で、主イエスの救いと聖霊の導きを通じて、主のことを正しく知り、正しく告白するようになったことは、主を信じる私たちにとって、掛け替えのない栄光だと言いました。前回の説教で学んだ栄光の意味について、もう一度思い出してください。さて、今日の本文もある意味で、主の栄光に関わる話になると思います。
1.盲人バルティマイと出会われたイエス。
今日の本文は、エリコの町で主イエスと盲人「バルティマイ」の出会いから始まります。「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) バルティマイは、ただの個人の名前というより「息子」を意味するアラム語「バル」にギリシャ語「ティマイオス」という人名がくっついた合成語です。つまり「ティマイオスの子」を意味します。それでは、ティマイオスはどういう意味でしょうか? 新約のギリシャ語で「ティマイオス」は「尊敬する」という意味の単語ですが、子を意味する「バル」がギリシャ語ではなくアラム語であるだけに、ギリシャ語の「ティマイオス」も実はギリシャ語ではなく、アラム語の当て字である可能性が非常に高いです。そこで、いくつかの解説書を引いてみると、この「ティマイオス」が、アラム語の「タメ—」に由来したことが分かりました。その意味は 「不浄である、汚い」などでした。これにより、バルティマイは「汚れた者、罪人」のイメージを持つ存在であることが推測できました。つまり、バルティマイは自らでは到底、自分自身を救うことができない「罪人」を象徴する存在であり、そのような罪人は、比喩的に盲人のような存在であるということです。ところで、主イエスは、この「汚れた者、罪人」を象徴する盲人バルティマイの目が見えるように癒してくださったわけです。
今日のイエスと盲人の出来事を見ながら、前にもあった盲人の物語が思い起されました。「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」(8:22) 8章にもイエスが盲人を癒された物語があるからです。ところで、なぜ、同様な物語が再び出てくるのでしょうか? 同様な話しを二度するのは、紙面の無駄づかいではないでしょうか? しかし、今日の盲人の物語は、必然的な話しです。その理由は、8章の盲人の物語と今日の盲人の物語がつながっているからです。けっこう時間差のある物語なのに、いったいどういう意味でしょうか。実は8章22節から、10章52節までは、一つの長いエピソードなのです。そして、その2つの物語は、道(ギリシャ語ホドス)という表現によって繋がっています。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中(ホドス)、弟子たちに、人々は、わたしのことを何者だと言っているかと言われた。」(8:27)「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、途中(ホドス)で何を議論していたのかとお尋ねになった。」(9:33)「イエスが旅(ホドス)に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10:17)「一行がエルサレムへ上って行く途中(ホドス)、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32) 「バルティマイという盲人が道端(ホドス)に座って物乞いをしていた。」(10:46) つまり、二つの盲人の物語の間には、このようにホドス(道)という言葉が架け橋のように何度も登場しています。
2。道の上のイエスと弟子たち
なぜ、道(ホドス)という表現が、繰り返し登場しているのでしょうか? 道はどこかに至るために存在するものです。そして主はその道に沿ってどこかに進んでおられます。前回の説教で、私たちはイエス•キリストの栄光について学びました。「救い主として来られたイエス•キリストが救い主らしくいらっしゃること」が主イエスの栄光であると話しました。その言葉の意味は「滅ぼされるべき罪人の贖いのために十字架で死に、復活して御救いを成し遂げること」が、すなわち救い主イエスの救い主らしい状態であり、イエスの栄光であるということです。主イエスはそのご自分の栄光のために十字架に向かう道を進んでいかれるのです。主は御父がご自分に与えられた罪人の贖いのための死と復活という、栄光の杯をお受けになるために道を進んでいかれます。そういうわけで、主は8章、9章、10章で3度もご自分の苦難と死と復活に言及されたのです。主イエスの道は罪を贖うための死の道であり、真の命のため復活の道であり、その目的地は苦難の十字架なのでした。そして、その十字架での死と復活が成就する時、主イエスは、御父から真の栄光をお受けになるのです。ところで、その道の上に弟子たちもいました。しかし、弟子たちは、その道が持つ真の意味が分かりませんでした。彼らは世俗的な思いで、メシアの権力と輝かしい栄光だけを望んでいたのです。彼らはイエスと同じ路上にいたにもかかわらず、主の御心がまったく分からない状態でした。
今日の本文で盲人バルティマイは、実は主人公ではないかもしれません。もしかしたら、癒しが必要な真の盲人は弟子たちだったのかもしれません。8章の盲人と10章のバルティマイという、目が見えない二人の物語を通じて、マルコによる福音書は、私たちに「目が見えない」ということの本当の意味について、何か特別なメッセージを投げているのかもしれません。そのメッセージとは、主と一緒に主の道の上にいるにもかかわらず、主の存在理由を見ることができず、気が付くことも出来ない、この情けない弟子たちこそが本当の盲人であると暴いているのではないでしょうか。 8、9、10章で主と一緒に路上にいた弟子たちは、どんな姿だったでしょうか。主は3度もご自分の苦難、死、復活について言われましたが、その度に弟子たちの反応は、恐れ、否定するだけでした。主が山の上で輝かしく変容された時、一緒に山に登った3人の弟子たちは、それを主の栄光と勘違いして、そこに安住しようとしました。主が山の下にお降りになった時、残りの弟子たちは、汚れた霊を追い出すことが出来ず、律法学者たちと論争する無力な姿を見せるだけでした。イエスの道を歩きながらも、権力に目がくらんで互いに争いました。イエスに会うために子供を連れてきた人たちを叱りました。ヤコブとヨハネは、主の栄光まで欲したのです。主イエスに最も身近な弟子たちが、主を一番理解していない状態だったのです。
3.目が見えるようになるということ。
恐ろしいことは、これがイエスの弟子だけに限った問題ではないということです。今日のこの物語は、講壇で説教する私自身をはじめ、この説教を聞いておられる、すべての方々にも適用される事柄です。私たちは果たして目が見える状態だと自負できますか? 私たちは本当に主の道の上で、主イエスに正しく従っているのでしょうか。習慣的に説教し、習慣的に説教を聞き、習慣的に祈り、習慣的に礼拝に出席しているのではないでしょうか? 私たちの信仰は、主の御心に適ったものなのでしょうか、それとも、私たち自身の欲望のための信仰なのでしょうか。常に自分自身のことを振り返るべきだと思います。そうでなければ、私たちは自分も気づかないうちに、8,9,10章の弟子たちのように目を開けてはいるけど、目が見えない盲人のような存在になってしまうかもしれません。「バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) しかし、私たちに希望はあります。主イエスが私たちの目が見えるように導いてくださるからです。今日、バルティマイの目が見えるようになったのは、主イエスのことを正しく知り、正しく告白した、彼の信仰に基づきます。主イエスが誰なのか、正しく知り、正しく告白したバルティマイは、その信仰によって癒されました。私たちに主イエスによる正しい信仰さえあれば、私たちも主によってバルティマイのように目が見えるように癒されるということです。
「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」(10:48) 他の人たちが何と言おうとも、彼は意に介さなかったのです。彼はイエスが誰なのか正しく知り、ひたすら告白しました。「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:51-52) 主は、ご自身へのバルティマイの告白を彼の信仰と認めてくださいました。 そして彼はその信仰を認めてくださったイエスによって目が見えるようになりました。罪人たちはバルティマイの名前のように、罪によって汚され、どうしても自らを清められない惨めな存在です。 しかし、主イエスへの正しい信仰は、罪人を赦してくださり、目が見えるように癒してくださる主イエスへと導いてくれます。そして主イエスはその信仰をご覧になって、罪人を救ってくださいます。弟子たちのように、自分の欲望のために信仰を利用しないようにしましょう。バルティマイのように惨めな状況にあっても、主への信仰と希望とで生きられるように祈りましょう。主イエスの御心に適う信仰者になることを追い求めていきましょう。真の信仰によってこそ、私たちの目は見えるようになるからです。
締め括り
説教を書きながら、ふと、今日の旧約本文が思い起こされました。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12) 旧約の預言者エリヤは、アハブとイゼベルという悪い指導者たちに脅かされ、神の山に身を避けました。主はいつも彼と一緒におられましたが、信仰が弱くなったエリヤが恐怖に陥ったからです。神は、彼を呼ばれ、激しい風と地震と火を見せてくださいました。主の権能でした。しかし、主はそこにおられませんでした。むしろ主はささやく声、つまり御言葉を通して彼と共におられました。目に見える現象だけを追求するのは霊的な盲人のような姿です。主の栄光は目に見えるものではありません。主を真の主として仕え、主を正しく知り、告白し、信じること、それらに真の栄光があり、主は私たちを霊的な盲人の姿から救ってくださるのです。目が見えるということはどういう意味でしょうか。その質問を持って過ごす一週間になることを願います。