詩編49編7-9節 (旧882頁)
マルコによる福音書10章13-22節 (新81頁)
前置き
マルコによる福音書の説教を始めてから、もう1年半が経ちました。最初、マルコによる福音書の説教を始めた時、私はローマ帝国の迫害の下で苦しんでいたキリスト者たちを慰め励ますために、この福音書が記録されたと話しました。マルコによる福音書1章でイエスが最初におっしゃった言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。」でした。つまり、マルコによる福音書は、苦難と迫害にさらされているキリスト者たちに「神の国」という理想的な世界が、キリストによってまもなく到来することを宣言する、希望のメッセージだったのです。そのためかイエスはマルコによる福音書の所々で神の国について言われるのです。今日の本文も例外ではありません。したがって、今日の本文も、その「神の国」という観点から取り上げる必要があります。特に、今日は「富」と「神の国」とを結びつけて話しています。人間の一生において、富とはとても大事な事柄です。適切な富がなければ、私たちは飢えるか他人に迷惑をかけることになるでしょう。しかし、私たちがキリスト者である限り、この世が追い求める貪欲に染まった富の価値観に、そのままついていくわけにはいきません。私たちキリスト者にとって、真の「富」とは何でしょうか。今日の本文を通じて富について考えてみたいと思います。
1.子供のような者–神の国を所有する者。
10章1節では、イエスがユダヤ地方に行かれたと記されています。当時のユダヤ地方といえば、エルサレムを中心とするイスラエルの中心部を意味します。比喩で言うと東京23区のような所だったでしょうか。つまり、イスラエルの宗教、政治、経済、社会の中心部であり、物質的にも、精神的にも最も豊かな地域だったということでしょう。ところが、そこに行かれたイエスが初めて体験されたことは、前回の説教でも取り上げた間違った結婚観によるファリサイ派の人々の質問攻めでした。当時ユダヤ人は結婚と離婚をあまりにも軽んじているだけでなく、宗教指導者たちさえも結婚に関する律法の教えを誤って理解していました。ユダヤ地方は物質的だけでなく、精神的にも最も豊かであるべきユダヤ教の中心地だったのに、むしろ宗教の中心地という華やかな表だけで、精神的な貧困によって聖書の本来の意味さえも、まともに理解できずにいたのです。表向きは裕福そうな地域でしたが、心の中は貧弱極まりない状況だったということです。そして今日の本文は、そのようなユダヤ地方の状況を改めて想起させる物語なのです。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(13) ところで、今日の本文を通じて、私たちはイエスの弟子たちも当時のファリサイ派の人々と大差ない姿を見せることが分かります。彼らもまた、ファリサイ派の人々のように目に見えることだけを見て、本当に重要な価値に気付かずにいたのです。
なぜかというと、弟子たちが「イエスに触れていただく」ことを願って子供たちを連れてきた人々を叱ったからです。ここで「触れる」を意味するギリシャ語「ハプトマイ」は「所属する、関わる」という基本的な意味を持っています。自ら主に帰属するために来た存在を、主の弟子たちが外見だけを見て叱り、追い出したわけです。その時、主は弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とおっしゃいました。当時、子供たちは大人の思いに左右される存在でした。大人たちの言葉をそのままに受け入れ、従順に従わなければならない存在だったのです。しかし、それだけに子供たちは、ずる賢くなく純粋でした。イエスはそのような子供たちを貴いとされました。単純に弱い者であるからだけでなく、純粋で謙虚に大人に従う彼らの生き方を愛されたからです。主は子供たちの中に神に従順に聞き従うべきキリスト者の在り方を見つけられたでしょう。そして、主はそのような子供たちのように主に従う者たちこそが、神の国を所有することができると教えたのです。表では裕福そうでしたが、裏では神の言葉である律法を、まともに理解できなかったユダヤのファリサイ派の人々より、表面的には弱いが、そのままに主の御言葉に聞き従う子供のような者たちが、真に神に愛される存在であることを、子供たちを受け入れることで見せてくださったのです。ここで、私たちは神の国を所有することができる、真の裕福な者とは子供のように神の御言葉に純粋に聞き従う者であることが分かります。
2.永遠な命とは何か?
子供たちが去った後、イエスの所に、ある金持ちの男が訪ねてきました。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17) そして彼はイエスにどうすれば永遠の命を得ることができるかについて質問しました。ところで、ここで永遠の命とは何でしょうか。ただ長生きすることでしょうか。もし、人が死なずに数千年、数万年も生きるとしたら果たして幸せでしょうか?もしかして退屈にならないでしょうか。私たちはキリスト教が語る永遠の命について、正しい理解を持たなければなりません。今日の本文の永遠の命のギリシャ語は「ゾエン・アイオニオン」という表現で、「アイオニオン」は「常に、いつも」を、また「ゾエン(ゾエ)」は「命」を意味する表現です。つまり、常に命にあって生きることを意味します。しかし「ゾエ」は単純に生物学的な命を意味する表現ではありません。英語には「バイオ(BIO)」という単語があります。バイオは生物学的な命、つまり肉体の命を意味します。そういうわけで、生物学をバイオロジーといいます。ところが、このバイオという表現はギリシャ語の「ビオス」に由来します。ギリシャ語には生物学的で物理的な命を意味する「ビオス」と、根源的な(霊的な)命を意味する「ゾエ」が区別されています。今日の本文で永遠の命には「ビオス」ではなく「ゾエ」という表現が使われました。つまり、聖書が語る永遠の命とは、肉体の命を超え、それより深い意味を持つ根源的な命を意味するのです。
言い換えれば「ゾエ」は、根本的で霊的な命を意味します。そして神に由来する命をも意味します。聖書はその「ゾエ」の源が神であると証ししています。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩編36:10) 神がこの世の中を創造されたのも、この神の「命(ゾエ)」を世の中に表したものです。キリスト者が、主によって救われ、真の命を得たという表現も、単純に「ビオス」的な表現ではなく、真の「ゾエ」を得たという意味です。したがって、聖書が語る永遠の命とは、神に「命(ゾエ)」を得て限りなく根源的な命を享受することになったという意味です。つまり、命の源である神と、いつも、常に一緒に生きるようになったという意味です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3) そしてさらに聖書はこの永遠の命はイエス•キリストを通じて得ることになると証言しています。そのような意味として、今日の、イエスの前に出てきて「触れていただく」ことを願った子供たちは、真の永遠の命を見つけた存在であったかもしれません。そして、彼らこそが神と一緒に生きる、真の裕福な者だったのかもしれません。永遠の命とはいつも神と一緒に生きることです。永遠の命は神を信じ、その御言葉に従順に生きる人々に与えられる神の贈り物なのです。今日の御言葉は、その永遠の命を持った者こそが、まさに真の裕福な者であることを私たちに教えてくれるのです。
3.真の富とは何か?
今日の17節に登場するイエスのところにやってきた金持ちの男は、一見、永遠の命を探求する者と見られます。最初の質問が永遠の命についての問いだったからです。またイエスを善い先生と告白し、律法もよく守る者です。どこから見ても理想的な信仰者です。そして金持ちです。もし、このように信仰を追求し、御言葉に真剣であり、イエスに友好な金持ちの人が、志免教会に来たら、私たちは皆その人を疑わずに大歓迎するでしょう。彼は教会に活気を与え、毎週の献金も目立って増えるでしょう。しかし、イエスもそう考えられたでしょうか。イエスは人の外見だけをご覧になる方ではありません。もちろん主は本文の金持ちの男の情熱を慈しんでおられます。しかし、イエスはそこで留まらず、彼の最も弱い部分を見抜かれて鋭く掘り下げられました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21) 主にこう指摘された金持ちの男は、自分の多くの財物のため、悲しみながら主のもとを立ち去りました。何も持っておらず、力の弱い子供たちが主の御前に無邪気に出てきたのとは反対に、彼は自分の力でイエスの前に出てきて、自分の思い通り信仰にも熱心に生きてきましたが、彼の財物を標的とした主の鋭い指摘の前で崩れてしまったのです。彼は自分の持ち物を諦めることができず、真の富であり、永遠の命であるキリストとの歩みを逃してしまいました。
聖書が語る富は、非常に霊的な事柄です。これは単純な財物の多寡の問題ではありません。イエス•キリストに人生の希望を置いて神の国を待望する者は、貧富を問わず、実際には裕福な者です。財物、名誉、権力など、神以外のものを追求するために神の国への待望も、期待もない者は、いくら富裕と言っても実際には貧しい者です。イエスの前に出てきた子供たちは低くて貧しい存在だったかもしれません。けれども、彼らは主の祝福を限りなく享受する真の富を持った存在でした。主と歩むことが出来る永遠の命が彼らにはあったかもしれません。しかし、多くの財物を持っている金持ちの男は、もしかしたら自分の財物を守るために主との歩みを諦めてしまった霊的に貧しい者だったのかもしれません。聖書が語る富の基準は、神に属することを望むか否かの問題です。人間は貪欲に満ち、満足を知らない存在です。今日、主イエスがおっしゃった「天に富を積む」という言葉の意味は貪欲を捨て、神の完全なご支配に自身のすべてを委ねるという意味です。(多くの献金をしなさいという意味ではない。) もし神を最も大事な方とし、すべてを神に委ねることが出来るならば、その人は真の裕福な者であり、永遠の命を享受する者であるでしょう。しかし、神以外の自分の物事のために神の御心に聞き従えない者は、真の貧しい者であり、永遠の命から遠い者であるでしょう。今日の物語は私たちに、富に対する霊的かつ根源的な基準について教えているのです。
締め括り
「どうして恐れることがあろうか、財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」(詩編49:7-8) 詩編は富の虚しさについてこう話しています。いくら多くの財物を持っていると言っても、人は皆死んで神のところに戻らなければなりません。いくら多くの財物があると言っても、一人の魂を救うには、とても足りません。真の富とは私たちが持っている財物ではなく、主への私たちの信仰にかかっています。主への信仰こそが私たちの魂を救いに至らせる唯一の道だからです。神の国では財物の多少ではなく、神への純粋な信仰だけが真の富と認められます。確かに私たちに、ある程度の富は必要です。家庭を守るために、子供を育てるために、老後の生活のために、私たちは富を積まなければなりません。つまり、富そのものは悪ではありません。しかし、それが私たちにとって真の富ではないことを常に念頭に置いて生きるべきでしょう。私たちの真の富は主なる神への私たちの信仰と従順に従う人生そのものです。私たちの心があるところに私たちの富もあるのです。この世の富ではなく、神の国で認められる富が、私たちが追求すべき真の富であることを憶え、この世の財物より、神への信仰をより大切にする私たちになることを願います。そのような生き方に主は真の富を豊かに与えてくださるでしょう。