創世記33章1-20節(旧56頁)
前置き
前回の創世記32章の説教では、故郷に帰るヤコブの姿が描かれました。 20年間の奴隷のような生活を終えたヤコブは、神の恵みによって老獪(ろうかい)なラバンに財産を奪われることなく無事に故郷に帰ることができました。しかし、ヤコブには依然として心配がありました。それは20年前、兄に犯した過ちに対する恐怖でした。全能なる神がすべてを備えられて故郷に帰れと命令されたのに、ヤコブは神の導きより、兄の報復をより恐れていたわけです。神はそのようなヤコブにご自分の御使いを遣わされ、夜通し格闘をさせられました。つまり、神がヤコブと格闘されたということです。夜明け頃、神はヤコブを祝福し、これからヤコブではなくイスラエルであると新たに名付けてくださいました。その出来事を通じてヤコブは神が自分と一緒におられることを悟ったのです。ヤコブはその出来事を「主の顔を見たこと」のように思い、神と闘った場所を「ペヌエル」すなわち「神の顔」と名付けました。
1.神との格闘-祈り
前回の説教の内容について、もう少し話してから、今日の本文に入りたいと思います。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」(創世記32:24) 神は民と格闘をされる方です。前回の説教で格闘と訳されたヘブライ語は「レスリング」のような力比べのイメージを持っていると話しました。倒れそうで倒れない、互いに制圧しあい、力を競うかのような模様が、まさにヤコブと神の御使いがした格闘のイメージなのです。これによって、私たちは神がご自分の民と力比べをする方であることが分かります。現代のキリスト者にとって、神との力比べとはどういう意味でしょうか。それは単刀直入に言えば祈りです。なぜ全能なる神が、まるで力比べをするかのように民と祈りという格闘をされるのでしょうか。ヤコブが兄のゆえに思い煩う時、御使いを遣わされ「すべてのことを私に任せ。君は恐れずに故郷に帰れ!」と一言だけ通報してくださったら、ヤコブも気楽に帰郷したのではないでしょうか。それがより効率的ではないでしょうか。考えてみたら、私たちの人生にもこんなことが少なからずあります。 私たちの家庭や職場に困難なことが生じて切実に祈る時、主が一言だけ答えてくださればよさそうですが、事実、そういうことはありません。牧師に相談しても「一緒に祈りましょう。」という答えが全てです。
一体、神はなぜ速やかな答えではなく、祈りという遠回りを選ばれるのでしょうか? それは神がご自分の民を尊重される方だからです。 神学校時代に「聖霊論」という授業を受けた時の教授の話が思い起こされます。「聖霊は聖なる恥ずかしさで働かれる方である。」聖霊なる神が恥ずかしがるなんて一体どういう意味でしょうか? それは神が全能者だからといって独善的に支配されないということ、ご自分の民への礼を失されず、尊重してくださるという意味でした。神は民の人生と選びが無理やりに侵されないように慎重にその人生に介入される方です。民を束縛して、勝手に引っ張る暴君のような方ではありません。むしろ祈りという力比べによって少しずつ、しかし、変わることなく一緒に歩んで行かれる方なのです。ヤコブの人生には愚かなことがたくさんありました。また、私たちの人生にも愚かなことが少なくないと思います。しかし、主は絶対に無理やりに民を引っ張られる方ではありません。力比べのように長い祈りを通じて、悟らせて導かれる方です。 「引っ張っていく」のではなく「導いていく」のです。 ですから、お祈りの回答がすぐに出なくても挫折したり失望したりしないでください。神は私たちの祈りの中で私たちのすべての願いを聞いておられるからです。
2.イスラエルとなったヤコブ、しかし…。
しかし、そういうわけで、問題も生じえます。それは神からの問題ではなく、人間からの問題です。神が祈りという力比べを通して少しずつ変えて行かれるため、人間が神の御心に気づくことが出来ず、自分の思い通りにしようとすることです。今日のヤコブがそうでした。「ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った…ヤコブは…カナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。」(17-20) 兄のことで心配していたヤコブは、神との格闘の後に兄と再会することになりました。創世記32章7節によると「使いの者はヤコブのところに帰って来て、兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございますと報告した。」と記されています。エサウがヤコブを「迎える」ために来ていたということです。ここで「迎える」という表現は「カラ」というヘブライ語で「軍事的遭遇」というニュアンスの意味も持っています。日本語では優しいニュアンスに見えるかもしれませんが、原語的にはその意味が曖昧なのです。しかし、神と夜通し格闘をしたヤコブは、最終的に兄と和解することで終わることが出来ました。それは、格闘のような祈りの結果だったのです。
ここまでは本当に良かったと思います。兄との再会という絶体絶命の危機の中で、神と闘ったヤコブが主にいただいた力と恵みで兄との関係を円満に解決したからです。ところで、これくらいになったら、神に感謝し、神の御心を聞き、従順に従うべきなのに、ヤコブは兄の招きを避けるために嘘をつき、またベテルで神に帰るという創世記28章の約束を破り、異邦人のシケム(当時異邦人の大きい町)へ行きました。神と祈りの力比べをして主の答えも受けたヤコブですが、問題が解決されるやいなや、再び自分勝手な生き方に戻ってしまったのです。今日の説教のタイトルは「イスラエルとなったヤコブ、しかし」です。それでは「しかし」の後に私は何を言いたかったでしょうか?「再びヤコブになってしまったヤコブ」なのです。信仰とはもともと波のようなものです。上がる時があれば、降りる時もあり、降りる時があれば、また上がる時もあるものです。ところで、上がるのは良いのですが、なぜまた降りてしまうのでしょうか?神が恵みを与えて引き上げて下さっても、また降りてしまう理由は、人間に罪の性質が残っているからです。使徒パウロは言いました。「自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(第一コリント9:27) 彼の言葉のように罪を制御しない限り、人は再び罪の中に飛び込んでしまうからです。
3.目的地はシケムではなく、ベテル。
皆さん、信仰が成長したと感じられる時が、一番つまづきやすいものです。ヤコブがイスラエルとなったからといって、すべてが終わったわけではありません。私たちがこの地上での人生を完全に終えて神に召される時まで、私たちの信仰はいつも現在進行中のさまです。私たちはいつも同じ罪によってつまづいたり弱くなったりするでしょう。私たちはイエス•キリストによって新約の新しいイスラエルとなりました。それは主イエスの恵みと救いによるものです。しかし、依然として私たちにはヤコブの性質が残っていることを忘れてはいけません。イエスによってキリスト者となり、主の義によって私たちも義と神に見なされた存在ですが、私たちに罪の性質があることを謙虚に受け入れ、どのように生きていくべきか、常に顧みて生きなければならないでしょう。神が信者から罪を完全に取り去られなかった理由は、神の力が弱いからではありません。その罪に気づき、自分の限界を見つけ、主だけに頼って生きさせられるためです。だから新約のイスラエル、つまりキリスト者となったからといって気を緩めてはなりません。常に自分自身を振り返り、自分の罪を悔い改め、主の御心を察して、正しい道に向かって生きていきましょう。イスラエルではなく、ヤコブの道を選んでしまったヤコブに、次の本文では大きな困難が近づいてきます。
そして、ヤコブには、主なる神とのまた違う力比べの格闘が近づいてきています。次の説教の内容をあらかじめお話しますが、ヤコブの娘ディナはシケムの首長の息子に強引に犯されました。怒ったヤコブの息子たちはシケムの人々を虐殺します。瞬く間にヤコブの家族は、その地方で危険な存在と目されてしまいます。ヤコブの人生は再び風前の灯火のようになります。そして彼はまた神の前に進むことになります。自分がパダン・アラムに向かった時、夢の中で神と出会った所、ベテルに立ち戻り、神の御前に悔い改めることになります。神は彼を再び祈りの場、神との力比べの場に呼び出してベテルへと導かれたのです。今の時代を生きていく私たちにとって、ベテルとはどういう意味を持つでしょうか。神の御心に従う人生を意味します。自分の欲望と思いをやめ、神の道に進む人生こそが、私たちにとってベテルに行く道であるのです。キリストにならって、その方と一緒に歩む人生こそが、まさにベテルに赴く人生なのです。しかし、私たちが自分の欲望と思いのため、神に従順に聞き従わない時、また罪の道に入ってしまう時、主なる神は再び、ご自分の民を力比べつまり祈りの場に呼び出されるでしょう。そのような霊的な訓練を通じて、主は民が気づくまで、民を導いていかれるでしょう。ベテルではなくシケムに向かう人生に神との格闘は続くでしょう。そして結局、民は厳しい格闘の末に悟り、正しい主の道に向かうことになるでしょう。
締め括り
ヤコブはイスラエルとなりましたが、再びヤコブの人生に向かってしまいました。旧約聖書の偉大な先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは、皆完璧な聖者ではなかったのです。実はキリスト以外に聖書に完全な人はいませんでした。皆が罪人だったからです。しかし、神は選ばれた民を決して御捨てられず、格闘の場、祈りの場に呼び出され、彼らを訓練させ、最後まで導いてくださいました。ドルト信仰基準という改革教会の教理には「聖徒の永遠堅持」という概念があります。それは、神が一度お選びになった、ご自分の民の信仰がいくら弱くても決して御捨てられず、救いに至るまで堅く守って導いていかれるという意味です。神は一度選ばれた民に罪と愚かさがあっても、絶対にあきらめられない方です。ヤコブのように祈りの格闘を通じて、正しい道に導かれつつ天国に入るまで、民を見守ってくださるのです。私たちはイスラエルよりヤコブに近い本性の存在であるかもしれません。しかし、今日も主なる神はキリストを通して、私たちを義と認めてくださり、祈りの力比べによって導いていかれます。この主を憶え、主の御心に適う人生になりますよう生きていきましょう。今週も主の祝福が豊かにありますように。