イザヤ書53章1-7節(旧1149頁)
ガラテヤの信徒への手紙2章19下-20節(新345頁)
前置き
今日から受難週が始まります。多くのキリスト者が、この受難週を通してキリストの苦難を思い起こし、自分の罪を悔い改め、栄光の主の復活を記念します。しかし、私たちは主の苦難を記念していても、その苦難についてよく理解していません。それは、人間が想像できるレベルの苦難ではなく、言葉では言い表せないほどの苦難であり、被造物が計り知れないほどの大きく、深く、広い意味を持っているからです。主の苦難を説教している私さえも、主の苦難を完全に理解することはできません。もしかすると、私はイエスの苦難がまったく分からない人であるかもしれません。しかし、それでも我々は主の苦難を理解できる範囲で学び、記念していくべきでしょう。私たちが主イエスの苦難をすべて理解するすべはないでしょうが、それでもその苦難の理由は、ほかの誰でもない私自身という罪人の救いのためだからです。今日の説教を通して主の苦難を学び、黙想して過ごす一週間になることを心から願います。
1.イエスの苦難について
説教を始めるにあたり、まず主がなぜ苦難を受けられることになったかを考えてみたいと思います。初めに神が天地を創造された時、神はその完成をとても喜ばれました。また、ご自分にかたどって人間を創り、何よりも満足されたのです。この世の創造そのものが、神の形を持って創られた人間への贈り物のようなものだったからです。しかし、人は自分の欲望のために神を裏切って罪を犯し、その罪の結果、神との関係が絶えるようになってしまいました。永遠の命である神と断絶することになった人間に訪れたのは永遠の死であり、まさにその永遠の死から人間の苦難は始まったのです。神と一緒に生きるために創造された人間が、神から離れることになったため、人間の苦難は必然的なものでした。神に背いた者に幸せはあり得ません。ただ苦難が待っているだけです。けれども、神は苦難の中の人間を見捨てられず、その人間を赦してくださるために自ら人間の姿で来られました。私たちはその方を私たちの主イエス•キリストと信じています。イエスは罪人を苦しめる永遠の死による苦難、つまり神との断絶という苦難を自らの体で代わりに背負って、罪人を救うためにこの世に来られたのです。
そういうわけで、キリストは罪人が担うべき苦難と侮辱と断絶を代わりに担当してくださいました。三位一体なる神は、三つにいまして一つなる神です。御父、御子、聖霊は、永遠の昔から永遠の未来まで、一つであり、絶対に断絶できない関係でおられます。お互いへの信頼と愛にあって、この世を導いていかれる方なのです。しかし、肉となって来られた神、御子が人間が担うべき苦難を、代わりに背負い、十字架で死んでいかれた時、神は人間の救いのために三位一体の関係から御子を断ち切って地獄のような苦難に投げかけられました。「陰府に下り」という使徒信条の告白は、このような神とキリストの断絶による苦難を言い表す表現なのです。私たちもこの世を生きつつ、苦難に遭う時があります。心の苦難、肉体の苦難など、数多くの苦難が私たちの人生にあります。しかし、我々の苦難と主の苦難は質的に全く異なるものです。神は私たちの苦難に対しては、イエス•キリストという仲保者をくださり、私たちと一緒にいて守ってくださいますが、イエスの苦難に対しては、徹底的に背を向けて死へと導かれました。我々の苦難には、仲保者がいますが、キリストの苦難には仲保者はいません。つまり、主イエスはすべての苦しみと痛みを徹底的に経験してくださったという意味です。罪人のために、そのすべての苦難を経験なさったキリストは、最終的に死の権能に勝利され、我々の救い主となってくださったのです。
ここで、私たちが誤解してはならないことがあります。イエス•キリストの苦難を、ただの肉体の苦難として受け止める誤解です。イエスの苦難は聖晩餐の後、オリーブ山でローマ兵士に逮捕された時点から始まったものではありません。キリストの苦難は、父がキリストをこの世に送ろうと計画された時から、キリストが飼い葉おけの赤ちゃんに生まれる前から、もしかしたら人間が堕落して神に追い出された時から始まったのであるかもしれません。神が人間になることそのものが、まさに苦難なのです。それだけに主は罪人を愛し、進んで苦難を受け、命を捧げられたのです。したがって、イエス•キリストの苦難は、私が受けるべき苦難であり、イエス•キリストが神に見捨てられたことは、私の代わりに見捨てられたということを、私たちは必ず覚えておくべきです。そして、そのすべての苦難を乗り切って復活されたイエス•キリストは永遠に変わらない私たちの仲保者として、今も後も私たちと一緒におられる方なのです。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6)
2.十字架-苦難が栄光になった象徴。
キリストが、このように私たちの代わりに苦難を受けられたことにより、もはや私たちの苦難は、私たちを滅ぼす死の脅威としての苦難ではなく、キリストの御守りと御愛の中で乗り越えることが出来る苦難となりました。新約聖書では、こういう苦難(キリストの支配下で受ける苦難)を栄光のための必須要素としてまで描いているほどです。キリストはすでに死の苦難に打ち勝ち、主の恵みのもとで我々と一緒におられます。ですので、私たちの苦難は私たち自身を成長させる訓練にはなるものの、私たちを滅ぼす死の道具にはなれません。主が苦難の概念を変えてくださったからです。私たちはこれを十字架から学ぶことが出来ます。元々十字架はローマ帝国の処刑道具だったと言われます。 特に、ローマ皇帝や政権を脅かす政治犯や、ローマ市民を殺そうとしていた奴隷に下された残酷な刑罰で、長い時間、苦痛を与えつつ最大限に死なないようにし、人間の精神的、肉体的な限界まで追い詰めた後殺す、最もひどい刑罰でした。これからの内容はけっこう残酷ですので、ご理解をお願いします。まず、十字架刑に処せられる死刑囚は、気絶するまで厳しくムチに打たれました。この時、ムチの先端には動物の骨片や、鋭い鉄片などがついていて、一度打つたびに罪人の肉片が剥がれ落ち、周りは血まみれになるほどでした。3世紀の歴史家エウセビオスの記録によると、このようなムチ打ちによって、ひどい場合は血管や筋肉が剝きだされ、さらにひどい場合は腹が裂かれて死ぬこともあったと言われます。
そのため、死刑囚の家族はムチを打つ執行人に賄賂を渡すほどだったそうです。優しくしてほしいという意味ではなく、苦痛を減らすために早く死なせてほしいという意味でした。すでにぼろぼろとなった死刑囚は、18-50Kgの横型の大きな木の棒を背負って刑場まで歩いていきました。その時も、ムチ打ちは休まず続きました。刑場に到着した死刑囚は、5-7インチの金釘に手首とかかとが刺されました。背負っていた木の棒は、その後、さらに大きな縦型の棒に固定され、死刑囚は十字架につけられることになります。すると、死刑囚は体重を支えるために体を動かし、その時、手首とかかとから血が噴き出します。この時、感じられるめまいは想像を超え、同時に激しい苦痛がして死刑囚が気絶することもあると言われます。そんな状態で、死刑囚は死ぬまでパレスチナの乾燥した気候にさらされ、徐々に枯れていくかのように死んでしまいます。そして最終的に死刑囚が死んだら生死を確認するために足の骨を折りますが、その場合、生きている死刑囚も足の骨が折れるショックによって絶命するのです。残酷な描写で申し訳ございませんが、これが実際にローマ時代に行われた十字架刑でした。何の罪もない主イエスは、罪人の救いのためにこういう十字架に処せられ、死んでくださったのです。
ところで、この十字架刑は旧約の焼き尽くす献げ物に非常によく似ています。イスラエルの民が焼き尽くす献げ物のため神殿に上る際、傷のない献げ物(雄牛、雄羊、雄山羊、鳩)を持ってくると、祭司は彼の手を生け贄の頭に乗せ、彼の罪を犠牲に転嫁し屠らせました。そして、犠牲の血をとった祭司は、その血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出し、肉は完全に焼き尽くして神に捧げました。それは民の変わりに犠牲を屠り、民の罪を贖う意味を持っていたのです。主イエスもご自分の民の贖いのために、ご自分の血を流し、十字架につき、まるで燃え尽くされるようにパレスチナの乾燥した気候の中で死んでいったのです。もともと十字架は呪いと恥の象徴でしたが、主イエスはこの十字架の上で人類のすべての罪を担われたのです。その後、時が経ち、キリスト教はローマ帝国の国教となり、十字架も処刑道具からキリストの贖いと恵みの象徴と変わったのです。つまり、イエスは十字架で罪人の代わりに苦難を受け、焼き尽くす献げ物のように死んでくださいました。この意味が変わった十字架のように、主はご自分の苦難を通して、私たちの苦難を主の栄光に変えてくださったのです。主の苦難は、ただのロマンチックな救いの物語ではありません。 私たちの救いのための主の壮絶な犠牲と愛の物語なのです。
締め括り
「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) キリストは、私たちの救いのために苦難を受けて死に、私たちの平和のために復活されました。そして、キリストは私たちを主の苦難と十字架にお招きになります。キリストはすでに十字架で苦難を受け、救いを成し遂げられましたので、もはや我々の苦難は死に至る苦難ではありません。そして、十字架はもはや恥と死の十字架ではありません。私たちは主の苦難と十字架を黙想し、主の苦難から学び、主と共に生きていきます。私たちが苦難に遭った時、主はその苦難の中におられ、私たちが十字架を仰ぎ見る時、一緒にその十字架を背負ってくださるでしょう。主の苦難が私たちを正しい道へと導き、主の十字架は私たちの義を証明するでしょう。今年も受難週が始まりました。私たちはこの一週間をどう生きていくべきでしょうか。今日の本文を憶えて、苦難と十字架の主を謙遜と愛をもって従って生きたいと思います。