イザヤ書6章9-10節(旧1070頁)
マルコによる福音書 7章31-37節(新75頁)
前置き
前回のマルコによる福音書の説教では、ティルスという異邦の町でシリア・フェニキア出身のギリシア人女とイエスの間に起きた物語について話しました。古代地中海世界でフェニキア人は歴史的、文化的に由緒ある誇りの高い民族でした。それにもかかわらず、ユダヤ人イエスの前で謙遜に振舞っていたフェニキアの女は、その謙遜な信仰により、悪霊に取り付かれた娘を救うことができました。これによって、私たちは謙遜こそ信仰者に求められる信仰の本質であり、神が謙遜な者をいかに愛されるのかが分かりました。今日は、主が、ある耳が聞こえず舌の回らない人を直してくださる物語です。今日の言葉を通して私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか? 一緒に話してみたいと思います。
1.孤独‐主と私との1対1の時間。
「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」(32-33)今日の本文でイエスのところに群衆が来た時、彼らはある「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れてきて、治してほしいと願いました。ところで、主はその人をその場で治さらず、彼だけを群衆の中から連れ出されました。なぜ、イエスは群衆の中で彼を治してくださらず、その人だけを連れ出されたのでしょうか? 何人かの学者たちは「奇跡を起こすための特別な行為である。」「イエスが自分の奇跡を隠すためにその場を離れた。」「情熱的な取り巻き連中を避けるための措置である。」など、様々な仮説を提示しました。ですが、そのすべてが仮説に過ぎず、私たちには、その明確な理由が分かりません。しかし、確かなことは、この事を通して、その人は自分が属していた群衆を離れ、主イエスと1対1で向き合うようになったということです。人々は一生の間、よく孤独を経験することになると思います。時々、この世に自分一人だけが残されているような孤独の中で、人々は恐怖を感じたり、その状況から抜け出そうとしたりします。この間、インターネットで面白い文章を読んだことがあります。日本のドラマや映画でよく見られる典型的なセリフに関する文でした。それは「タダイマ、オカエリ」でした。
例えばある映画で、恋人同士が長い葛藤を乗り越え、相手を理解するようになった時、男が「タダイマ」と言えば、目頭を熱くしていた女が「オカエリ」と答え、二人が強く抱き合って映画が終わります。両者の対立が終わり、元の状況を回復したということです。このような場面は「和を大事にする日本人にとって、本来の自分の居場所(所属)を取り戻したかのような安定感を与える。」との興味深い文章でした。そういう意味から、もしかしたら私たちは、独りぼっちの孤独を自分の居場所から逸れている異常な状態だと、つい考えてしまうかも知れません。しかし、キリスト教信仰においての孤独は世の感覚とはだいぶ異なります。旧約のヤコブ、モーセ、ダビデ、エリヤ、エレミヤといった信仰の人物は、孤独の中ではじめて、神と向き合うことが出来ました。主イエスも公生涯を始める前に孤独の中で試練を経験されました。この世の感覚においての孤独とは、恐ろしくて苦しいものであるかも知れませんが、キリスト教信仰の感覚においての孤独とは、神と自分という二人の存在が真っ向勝負する場なのです。(比喩です。創世記32章の神の天使とヤコブの格闘を思い起こしましょう。)今日の本文においても耳が聞こえず舌の回らない人は群衆を離れ、主と自分の二人きりの時に、自分を一生苦しめてきた障害から自由になることが出来ました。我々は孤独をどのように理解しているでしょうか。キリスト者にとって孤独は、神と出会える絶好のチャンスです。孤独の中におられる神を見つける時、その時はじめて主は私たちのそばに、いつも共にいおられることを教えてくださいます。
2.イエスの独特な行為
「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」(33)耳が聞こえず舌の回らない人と二人きりの場所を設けられたイエスは、彼の両耳に指を差し入れ、唾をつけてその舌に触れられました。ある人々は、この行為を古代の宗教儀式に見られる呪術的行為だと思いました。しかし、以前のイエスは呪術的な行為なしに、御言葉だけで多くの病者たちを治してくださいました。そして、イエスは迷信のようなまじないをする呪術師ではありません。世界を御言葉によって創造なさった創り主であるからこそ、御言葉で病人を治される方なのです。今回の説教を準備する際に参考にした解説書の著者は、このような行為を「ヘレニズム(ギリシャ文化)的脈絡」に従って行われた行為だと言いました。これはいったいどういう意味でしょうか?事実、マルコによる福音書は、ユダヤ人より異邦人向けとして記された可能性が高い書です。マルコ福音書はローマ帝国の迫害にさらされたキリスト者たちを励ますために書き残された書であると言われています。つまり、主な読者層が異邦人である可能性が高いということです。そして今日、本文の登場人物も異邦人のように描写されています。ですから「ヘレニズム的脈絡」とは当時のギリシャ文化圏の異邦の読者たちが読んで理解できる「ギリシャ文化的背景」を意味するものだと思います。
例えば、イタリア料理の中にスパゲッティとピザがありますが。もし、イタリア人が江戸時代の日本人に、今まで見たことも、食べたこともないスパゲッティとピザを説明しようとしたら、どうすれば効率的な説明が出来るでしょうか? スパゲッティはまぜうどんのような麺料理で、ピザはお好み焼き(起源は安土桃山時代と知られている。)のような料理だと説明すれば、おおまかに理解できるようになるでしょう。このように「ヘレニズム的脈絡」とは、当時のギリシャ文化圏であるローマ帝国に住んでいた異邦人たちが理解できる方式で、ご自分の御業を説明するために、イエスが独特な行為を加えたということを意味します。神はイエスを通して、人間が理解できる方法によって、ご自分のことを教えてくださいます。昨年の大信仰問答の学びでも「神の啓示」について話しました。主イエスは天から来られた神ですが、人間と一緒におられる人間でもあります。主は必要な時に人間が理解できる方法で、人間の目線に合わせて、ご自分のことを示してくださる方です。主イエスは指を両耳に差し入れず、唾をつけて舌に触れられなくても、ただ、命じるだけで彼を治せる方でした。しかし、主は今日の本文に登場する異邦の群衆のために、わざわざ、このような行為をされたと思います。主は弱い人間の目線に合わせて、ご自分のことを見せてくださる、人間を愛する方だからです。
3.エッファタ(開け)
「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、エッファタと言われた。これは「開け」という意味である。」(34-35)「ヘレニズム的脈絡」の行為である「指を両耳に差し入れ、唾をつけて舌に触れる行為」により、ご自分の御業を異邦人の群衆に見せてくださった主は、今度は深く息をついて「エッファタ(アラム語)」と言われました。ここに出てくる「深く息をつく」という表現も「ヘレニズム的脈絡」による行為の一つとして見られます。つまり、古代ギリシャ文化圏にあった「呪術的な治癒行為のための叫び」あるいは「無我の霊的興奮の状態」などと同様な脈絡だということです。異邦人たちは、その行為を見てイエスが治癒のために何かを行っていると理解したわけです。しかし、当然、主はそのような古代の呪術的な行為をする方ではありませんでした。多くの聖書学者たちは、この行為を祈りだと考えました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」(9:29)主は9章でも、祈りの重要性を語られました。私たちは今日の本文を通して、異邦人が認識できるような方式で、イエスが治癒を施されたことが分かります。異邦人の目線に合わせた主イエスのこの行為によって、耳が聞こえず舌の回らない人は癒され、群衆はイエス・キリストという存在について確実に認識することになったのです。
イエスは、私たちが理解できる方式で私たちを呼んでくださった方です。人生の数々の出来事を通して、私たちが認識できる方法で私たちを呼び出されたのです。まるで、今日の本文で独特な行為を通して人々が主を認識できるようにしてくださったように、我々の人生の中でも私たちが理解できる方法で私たちにご自分のことを示してくださったのです。旧約聖書のイザヤ書には、こういう言葉があります。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るなと。」(イザヤ6:9)神が預言者を通して、いくら真理を伝えようとなさっても、人々は自分の罪のゆえに真理、つまり主の御言葉が聞こえない状態です。もし、聞こえるといっても聞こうともしません。人間が持っている罪のためです。この言葉は、そういった人間の罪への糾弾なのです。しかし、神の真のメシアであるイエス・キリストが来られてからは、聞くべき者は聞けるようになり、見るべき者は見られるようになりました。イエス·キリストがおられなかった時の我々は、聞いても聞けず、見ても見られない、まるで今日の本文の耳が聞こえず舌の回らない人のような存在でした。しかし、イエス·キリストのお導きによって我々は聞くことが出来、見ることが出来るようになったのです。主イエスは、今日も神の右に座しておられ、ご自分の民のために祈りつつ、呼び守ってくださり、癒してくださる方です。そして私たちの耳を開き、聞けるように助けてくださる方なのです。主イエスは今日も私たちの間におられ「エッファタ」と命じてくださる方なのです。
締め括り
今日の本文を通して、私たちは自分自身について顧みる機会を持つべきです。我々は、いつも聖書の登場人物の立場に私たち自身を適用する必要があります。私たちは、時には主の弟子たちのような存在であり、時には今日の耳が聞こえず舌の回らない人のような存在であり、また時には主の癒しを目撃した群衆のような存在であるかもしれません。主は今日の本文の出来事を通して、弟子たちにも、耳が聞こえず舌の回らない人にも、群衆にも、神が孤独の中に一緒におられる方であり、人々の目線に合わせてくださる方であり、耳と口を開いてくださる方であることを教えてくださいました。今日も主はエッファタ、つまり「開け」と命じられるのです。今を生きる我々は、何を開いて生きるべきでしょうか? 主の御言葉の前では耳を開いて聞き取り、人々の前では口を開いて主の福音を宣べ伝えて生きるべきではないでしょうか。私たちと一緒におられる主から聞き、喜んで、その方の御言葉を宣べ伝える私たちになりたいです。そのような志免教会の上に主の恵みが豊かに与えられると信じます。この一周間も主なる神の恵みが豊かに注がれますように。