イザヤ書66章1-2節(旧1169頁)
マルコによる福音書6章45-56節(新73頁)
前置き
邪悪な王ヘロデの暴挙と、正しい王キリストの愛、過去の2回の説教は、ヘロデとキリストという2人の王を比べつつ、我々の王であるキリストの愛について分かち合う時間だったと思います。私たちは神に召される時まで、否でも応でも、この地上に生きていくしかありません。皆さんは日本の国民として生まれ、日本の社会、政治、経済の中で生きていく存在です。しかし、皆さんが神に召される、その瞬間、もはや日本に係わる全ての物事から自由になります。その時、皆さんは、神の民というアイデンティティだけを持つようになります。ですから、皆さんの唯一の王は、地上の王でも、政治家でも、財産でもありません。生きる時も死ぬ時もキリスト者の王は、ただ神がお選びくださった真の王であるキリストお一人だけです。その点に留意しつつ、主に召される日まで、誠実な主の民として生きていくべきです。
1.大きい教会ではなく、正しい教会を。
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(45-46)イエスの弟子たちの出身成分は実に様々でした。ローマからの独立のために暴力的な闘争に加わっていたユダ、ローマにくっついて同胞を苦しめていた徴税人マタイ、荒仕事の漁業に携わっていた漁師ペトロなど。主の弟子の中には、主への信仰を持って追従していた者もいれば、他の意図で従っている者もいました。そんな彼らにとって、「五つのパンと二匹の魚」をもって男だけ5000人を食べさせた出来事は、強い衝撃となったはずでしょう。彼らは「少なくとも、この方さえいれば、飢えることは無いだろう。」と思ったかも知れません。さらには「この方こそローマ帝国からイスラエルを独立させる救世主である。」と判断する人もいたかも知れません。弟子たちは、主の偉大な奇跡の場を離れたくなかったことでしょう。すぐさま、ローマが滅びるとか、神の国がイエスによって成し遂げられるとかなど、何か大変なことが起こるだろうと思ったかも知れません。しかし、そのような弟子たちにイエスがされたことは「強いて舟に乗せ、行かせること」でした。
5000人を食べさせた出来事は、イエスの世俗的な権力を極大化する絶好の機会でした。ひょっとしたらイエスはローマ帝国に対抗する歴史的な英雄になれたのかもしれません。おそらく何人かの弟子たちには、そのような希望があったでしょう。しかし、主はそのような世の権力には、一抹の関心もお持ちになりませんでした。むしろ、群衆を解散され、弟子たちを次の地域に強いて行かせるだけでした。主のご関心は、世の権力ではなく、より崇高な神の御心に聞き従うことだったからです。時々、人は自分が追い求める何かを、信仰に投影させたりします。韓国には登録人数80万人の巨大な教会があります。植民地時代と朝鮮戦争の中で大きいのが最善という間違った認識が生じたからです。だからと言って、今の韓国の教会が正しいとは言えません。私は伝道師になってから数年間、韓国教会の問題点をいくつも目撃しました。今の韓国社会において教会への評価は最低です。規模だけ大きく、わがままばかりだからです。もちろん素晴らしい教会もあるでしょうが、ほとんどが小さい教会だと思います。大きい教会だからといって偉大なものだとは言えません。本当に偉大な教会、本当に大きな教会とは、主の御心とは何かを弁え、それに徹底する教会です。教会が大きくなり、教会員が増えたことに興奮する必要はありません。我々は一喜一憂せず、ただ主の御心に適う教会であるために最善を尽くして生きるべきです。
2.逆風の中の弟子たちに来られたキリスト。
「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」(46-47)、弟子たちを船に乗せて強いて送られた主は、祈るために山に行かれました。聖書で「山」という表現は、神に会う場所、神の権能などを象徴する場合が多いです。5000人を食べさせたイエスは、人気のために人の中に行かれませんでした。むしろお一人で神の御心を求めるために、祈りの場に行かれたのです。イエスは世の権力より、聖なる神とのお交わりをよりいっそう大事にされたのです。事がうまく行き、すぐにでも成功しそうな時、我々は何をするべきでしょうか? 何かがうまく行っているような時、我々は自惚れずに、神の前にひざまずくべきです。イエスは、それを実践することで手本になってくださいました。さて、主が山で祈っておられた時、弟子たちは湖を渡っていました。ところで、彼らに強い風が吹い出してきました。 「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」(48-49)主は弟子たちが苦境に立たされたことを知り、湖の上を歩いて彼らにおいでになりました。 聖書において海、湖は混沌や闇、世の風潮などを意味する場合もあります。
そこに風まで吹き始めたということは、象徴的に弟子たちが世の風潮の中で、大きく脅かされていたことと理解できます。主は神とお交わりになっていた山から、危機に瀕した弟子たちに下ってこられました。 つまり、これは聖なる神が混沌の地上に臨在なさったとのイメージです。ところで、面白いことは、主は弟子たちのそばを通り過ぎようとされたということです。せっかく弟子たちのそばに着かれた主は、なぜ彼らを通り過ぎようとされたしょうか。日本語で「通り過ぎる」と訳されたギリシャ語は「ファレルッコマイ」です。そして、この表現をヘブライ語に訳すると「アバル」になります。ところで、旧約聖書のいくつかの箇所では、この「アバル」が、神の顕現(現れ出る)を意味する表現として使われる時もあります。おそらく、マルコ書の著者は旧約の神の顕現のように、イエスが困難に直面した弟子たちに現れ出られたことを示すために、この表現を使用したと思います。つまり、主が弟子たちを無視して、通り過ぎたということではなく、助けてくださるために現れ出られたということでしょう。しかし、皮肉なことに弟子たちは主を見て、幽霊だと思ってしまいました。 権能の主イエスが共におられることを忘却してしまったわけです。神は御言葉と祈りの中で、私たちに現れ出てくださる方です。しかし、私たちは主の御心が理解できず、その方をまるで幽霊のように扱っているのではないでしょうか? 世の風潮に呑まれ、主のご臨在も感じられず、愚かに生きているのではないでしょうか。自分自身を省みる機会になればと思います。
3.再び世の中へ。
「皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(50-52)弟子たちは愚かでした。5000人も食べさせた奇跡を目撃しても、その権能に気付かず、風への恐怖で騒然でした。しかし、愚かな弟子たちが、主を見分けることができなくても、主から先に声をかけてくださったことに慰められます。主が船に乗り込まれると、湖は嘘のように静かになりました。弟子たちにとって、強い風は生命への脅威でしたが、創り主である神、主にとっては被造物の一つにすぎませんでした。我々も世を生きながら、何かに絶望、失望、悲しみ、恐怖をする時があるでしょう。しかし、主においては、それらすべては大したことではないでしょう。万物を支配され、導かれる主に恐ろしいことがあるものでしょうか。神はおっしゃいました。「天はわたしの王座、地はわが足台。これらはすべて、わたしの手が造った。」(イサヤ66:1-2)私たちが信じる主なる神は、天地万物を造り、また裁かれる、創り主であり、審判者であり、救い主である唯一の神です。その神に頼って祈り、その方にお委ねする私たちになることを願います。
「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」(53 – 56)イエスによって強い風から自由になった弟子たちは、五つのパンと二匹の魚の奇跡がもたらした興奮を後にして、ゲネサレト地域に着き、癒し、教え、宣教する、主のお働きの場に戻りました。ガリラヤの貧しい群衆は、イエスの偉大さを見分け、遠くから押し寄せてきました。イエスのそばで、大きな奇跡を目撃しても、湖の上でイエスを幽霊だと勘違いした弟子たちとは違って、群衆はイエスの船を見るだけで主と気づき、集まってきたのでした。時々、教会の内の人々よりも、教会の外の人々のほうが、いっそう神の御心通りに生きているかのような場合があります。教会は何もせずにじっとしているのに、世の中の社会運動家たちは、むしろ隣人と社会改革のために情熱的に働くことなどを例に挙げることができるでしょう。イエスは主を尋ねてきた人々のために癒し、教え、宣教してくださいました。その姿を見受けて、弟子たちは、まだ完全には悟れなかったかも知れませんが、少なくとも主イエスが、世の人気のために働かれる方ではないことは、かすかにでも感じたはずでしょう。キリストの弟子が追求すべき生き方についてです。
締め括り
我々の信仰の目標は、この世での大きな成功を追い求めることではありません。それよりも大切な神の御心に気づき、聞き従っていくことでしょう。 主イエスが望まれ、キリスト者が求めていくべき、主の弟子の在り方とは、まさにそのようなものではなかったでしょうか? 私の好きな賛美歌の中にこんな歌があります。「夜更けまで園で共におりたくとも『世に働きは多く』ゆけとの御声、主は日々共にまして我を友とせり、受けし、この喜びは誰も知らねど」主は、ご自分の民が今に安住せず、主と共に世に行き、主の福音を宣べ伝えることを望んでおられます。自分の安らぎだけを追求することでなく、神の御心を悟り、それに従って生きることを望んでおられます。主イエスは弟子たちのために、神とお交わりなさったお祈りの山から下り、湖の上を歩いて弟子たちに行かれました。主イエスはご自分の教会のために喜んで聖なる玉座を捨てて、この地上に降臨されました。そして、主の教会が神の御心を悟り、聞き従って生きることができるよう、御言葉と御救いを与えてくださいました。その主のご意志を承って生きる、我々志免教会になることを願います。主が望んでおられる、我々の在り方を記憶し、この一週間を過ごすことが出来ますように祈り願います。