サムエル記上16章1-13節(旧453頁)
マルコによる福音書3章31-35節(新66頁)
前置き
人間は世界を自己中心的に認識する傾向の存在です。クイズを出してみましょう。次はどの国に関する内容でしょうか? 「ナシレマッ、プトラジャヤ、バハサ・ムラユ」 おそらく、何のことなのか全くお分かりにならないと思います。それでは、これはいかがでしょうか? 「ハンバーガー、ニューヨーク、イングリッシュ」 この言葉は多分お分かりだと思います。それではこれはいかがでしょうか? 「お寿司、大阪、日本語」一番前にお話ししたのは、マレーシアの代表的な食べ物、ナシレマッ、代表的な行政地区プトラジャヤ、そしてマレーシア語を意味するバハサ・ムラユでした。遠いし、あまり興味がないので、普通の日本人は知らない人が多いと思います。しかし、アメリカの食べ物、都市、言語の場合は日本と多少関係があるため、お分かりになるでしょう。もし寿司、大阪、日本語が分からないなら、その人は日本人ではないでしょう。このように人は自分のことを中心に物事を認識していく傾向があります。このような自己中心的な認識は人のアイデンティティを築いていく大事なものでしょうが、また、多くの偏見と限界をもたらすものでもあります。そのため、人間は世界を自己中心的に歪曲して認識したりします。人間はいつも真実とは関係ない自己中心的な受け入れ方で、すべてのことを判断するものです。今日の本文は、イエスの身内の人々がイエスをどのように認識し、誤解していたのかについて教えています。互いによく知り合っている家族という歪んだ認識のため、メシアを見損なったイエスの身内の姿。このような姿が私たちのなかには無いでしょうか。今日は真実を見抜く目について話してみたいと思います。
1.自分の認識を通してイエスを理解していた主の親族。
今日の本文には含まれていないですが、前回の説教の本文には、このような言葉がありました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである。」(マルコ3:21)イエスが貧しい群れを「癒し、教え、宣教している時」主は食事も碌に摂れないほど、ご多忙の状況でした。一方では主は世話をしなければならない可哀想な人々を助けられ、他方ではイエスを中傷する人々と論争をしておられました。当時、イエスに対する評価は二つに分かれていました。1つは、「イエスは神に遣わされた偉大な預言者である。」という肯定的な評価と、もう1つは、「イエスはイスラエルを乱す気狂いである。」という否定的な評価でした。多くの人がイエスに癒され、苦しみから抜け出して自由を得てイエス様を称えました。しかし、ある人たちはイエスの権威を認めず、イエスへの間違った噂を作り出しました。イエスに対する偽りの認識から脱し、信仰を持って頼んだ人々は癒しを得、イエスの本質をまともに認識するようになりましたが、イエスに対する偽りの認識を作り、イエスを信じない人々はイエスを「気が変になっている。」と歪曲してしまったのです。ところで、残念なことに、イエスの身内の人々はイエスについての良い噂ではなく、悪い噂を受け入れたということでした。なぜなら、彼らは家族という固定した視座からイエスを認識していたからです。
聖書には、こういう言葉があります。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがお出来にならなかった。」(マルコ6:3-5)いくら、イエスが偉大な命の言葉を宣べ伝えられるといっても、イエスの故郷の人々はイエスを、ただの隣の息子、知り合い、平凡な人として受け入れました。今まで自分たちが持ってきた認識の中においてだけ、イエスのことを考えていた彼らは、神がイエスにくださったメシアという大事な役割への認識を見逃したというわけでした。そして、そのような認識を見逃がした人々に、イエスは何の奇跡も行うことが出来ませんでした。神は人の信仰をご覧になってお働きになる方ですが、歪んだ認識を持っている彼らには全く信仰がなかったからです。同じくイエスの身内の人々は、歪んだ認識による不信仰によって、イエスに与えられた本当の役割、つまりメシアとしてのイエスのことを見抜くことが出来なかったのです。
2.人は自分がすでに認識したものだけを受け入れようとする。
旧約からも認識に関する話が見られます。今日の旧約本文で、イスラエルの第一代の王であったサウルの不信仰の故に、神は新しい王を立てようとされました。そのために神は預言者サムエルをベツレヘムの人エッサイのところにお送りになりました。サムエルがエッサイに会い、彼の息子たちにも会った時、彼はエッサイの長男であるエリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ。」と思いました。おそらくエリアブは王になれるほどの容姿を持っていたのでしょう。ところが、その時、神はこう言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)エッサイには8人の息子がいましたが、エリアブを含む7人の息子たちは、みな候補から外れることになりました。かえって神は、エッサイが呼びもしなかった素朴な羊飼いの末っ子ダビデをお選びになり、満足され、彼を王に立ててくださいました。サムエルも含め人々は人の外見だけを見ました。しかし、神は人の心をご覧になり、王を立てられたのです。サムエルとエッサイの頭の中には、「王と言えば、こうあるべきだ。」という過去から作られてきた認識があったのでしょう。しかし、神は人々の持つ、そのような固定観念を超越し、真に王とするに値する存在を見つけ出されたのです。これは人間の間違った認識が神によって拒まれたということでしょう
旧約本文7節で「目に映ること」とはアインというヘブライ語を翻訳した表現です。これは「自分が好きなものだけを見る。」という意味で、創世記ではエヴァが知識の木の実を見た時に使われた言葉です。エヴァの目に、その木の実はとても見栄えの良いものでした。しかし、神の御目にその木は、人間に死をもたらすものでした。サムエルの目に、エレアブは非常に立派に見えました。しかし、神様が知識の木の実の本質を知っておられたように、エリアブは本質的に神の御心に適わない者でした。「長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」(サムエル上17:28)末っ子という自分の固定した認識により、ダビデをお遣わしになった神の御心に気づくことが出来なかったことから、彼が王になれなかった理由が分かります。神は本質をご覧になる方です。人間の本質である心をご覧になる方なのです。まだ、若くて未成熟なダビデでしたが、彼の心の本質は、神への純粋な信仰に満ちていました。その本質を見抜かれた神がダビデをお選びになり、彼にイスラエル王国をお預けになったのです。「私は人間が見るようには見ない。」神の御心と人間の思いは違います。しかし、人間は自分が、すでに認識したものだけを選ぼうとします。しかし、それはいつも神の御心と相反する可能性を持っています。そして、その人間の認識は、神への信仰を妨げる要素になりがちです。
3.信仰―自分が持っている認識を飛び越えること。
大信仰問答を始めた時、私たちは神認識という言葉を学びました。それは「人間は神をどう認識するのか?」という質問から始まるものでした。ある人は路傍の地蔵尊を神だと認識したり、ある人は神社の巨木を神だと認識したり、ある人はお寺の仏像を神だと認識したり、またある人は一介の人間を神だと認識したりします。いくら、彼らに聖書の御言葉を見せながら、真の神はイエス·キリストの父なる神だと言っても、そう簡単には信じられません。なぜならば、すでに彼らには、歪んだ神認識が備わっているからです。だから、伝道が難しいわけです。この前の説教でイエスを悪魔ベルゼブルの手下だと中傷した律法学者たちも、結局は自分の認識に捉われ、イエスの存在を押し曲げたのです。また、イエスに「気が変になっている。」と乱暴に言ってしまった何人かのユダヤ人も、自分の認識に捉われ、イエスを信じられなかったのです。そしてイエスの身内の人々さえも、イエスの存在を正しく認識できず、自分たちの経験と考えに閉じ籠ってイエスのことを誤解したのです。 このように人間の認識は、人が信仰によって生きるのに大きな障害になるものです。
「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」(32)今日イエスを取り押さえに来た家族は、その歪んだ認識による不信仰のため、イエスを一介の人間、自分の子供、兄弟、親戚にしか考えられませんでした。「まさか、彼がメシアであるはずがないだろう?」これがイエスの家族の認識だったのです。その時、イエスは人がどんな認識を持って生きるべきなのか教えてくださいます。「イエスは、私の母、私の兄弟とはだれかと答え、周りに座っている人々を見回して言われた。見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(33-35)主はただの同じ血統、家柄、出身がイエスの家族の印ではなく、到底信じられない状況であっても、イエスの本質を受け入れる者たち、自分の認識を飛び越えてキリストによる新しい認識を受け入れる者たち、すなわち神の御心を行う人たちをイエスの家族と呼んでくださったのです。ここで私たちは真の信仰とは、自分が持っている認識の範囲の中でのみ信じるのではなく、自分が持っているすべての認識と思想を超越し、神がお望みになるものを受け入れ、信じる時にはじめて、生まれるものであることが分かります。信仰を持っている私たちは、今日、自分が持っているすべての自己中心的な考え方を神に捧げ、ひとえに神の御言葉が示すことを受け入れようとする生き方を持つべきでしょう。自分が認識している範囲の中だけで信じることは、自分の認識によって歪められ、結局は変質してしまうものだからです。
締め括り。
「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:7-9) 当時のユダヤ最高の学者、ガマリエルの弟子として、ファリサイ派の次期指導者として適任者だった使徒パウロは、キリスト者を迫害するために、勢いよく振舞っている途中、主なるキリストに出会い、キリスト者となりました。彼はローマ市民権を持ち、前途有望なファリサイ派の人でした。しかし、イエスに出会ってからの彼は、自分が持っていた、すべての認識と思想を残さず捨てました。そして彼は、真の霊的真実、つまり真理であるイエスの福音を追い求め、殉教してこの世を去りました。しかし、彼は偉大な使徒として、2000年が経った今でも我々に福音の教えを宣べ伝えています。真実を見抜くためには、自分の知識と認識を捨てなければならない時もあります。自分が持っているものが、全てではないということを認めなければならない時もあるものです。自分の考えを抑え、聖書が教えてくれる神の御言葉で自分の認識を満たしていく時、私たちは真実を見抜く目を得られるでしょう。今まで、一生、自分が正しいと思ってきた全ての物事には、いつでも移り変わる恐れがあります。変わることなく永遠なものは、唯一の神と、その御言葉だけであるということを覚え、自分のことを弁え、へりくだって生きる志免教会になることを願います。