創世記13章1〜18節 (旧16頁)
テモテの手紙Ⅰ 6章17-19節 (新390頁)
前置き
前回の創世記の説教では、飢饉によってエジプトに行ったアブラハムの信仰の失敗についてお話しました。彼はカナンで遭った飢饉について、神の御心を伺わずに、もっぱら自分の判断で、神が定めてくださった土地、カナンを去ってしまいました。その結果、彼は妻を他人に渡すことになり、不正な富を得ることになり、エジプトの住民に災いをもたらすことになってしまいました。私たちは、これらを通して、神の御心を求めず、自分の判断だけを追求する人生が、どれだけ、大きな問題を引き起こしてしまうのかが、はっきり分かりました。今日は、そのようなアブラハムの失敗から生まれたもう一つの問題を取り上げてみたいと思います。それは不正な富が巻き起こす問題なのです。人間の生活において富は必要不可欠なものです。しかし、富は肯定的な側面と否定的な側面の二面性を持っています。聖書は、富に対して、どのように語っているのか、また、私たちは富に対して、どのような心得を持つべきか、今日の言葉を通して考えてみたいと思います。
1.旧約聖書が語る富。
皆さんは、お金のない世界をお考えになったことがありますか?お金は非常に重要な価値を持っています。お金、つまり富が無ければ、日用の糧を食べることが出来ず、基本的な衣服を着ることも出来ず、また、風と雨を避けることも出来ないでしょう。富が無ければ、子供たちに良質の教育をさせることが出来ず、家族を誠実に扶養することも出来ません。このように富の力は強いのです。そのため、世のすべての人々は富をなすために毎日、熱心に働き、生きていくのです。文明が生まれて以来、人々は富を用いて多くのことを享受してきました。ひょっとすると、富は人間という存在を人間らしく生きさせる、最も基本的な価値であるかもしれません。しかし、富は人を破滅させるものでもあります。富のゆえに暴力が生じ、富のゆえに関係が崩れ、富のゆえに命を失うことも珍しくないからです。宝くじに当たって、大きな富を手に入れたものの、悲劇的な結果に終わる話は、よくあることでしょう。そのためか、聖書は富に対して中立的な姿勢を取りながら、同時に過度の富がもたらす副作用についても警告しているのです。
先ほど、申し上げましたように、旧約聖書は、富に対して否定的には語っていません。神は忠実なダビデ王に多くの富と権力をくださり、知恵を求めた、彼の息子であるソロモンにも富を許してくださいました。旧約で富は神の祝福の一つだったからです。しかし、この富は人を変質させる力を持っているようです。最初は神の御前に純粋だった信仰の人物たちも、富と権力を味わってからは変わってしまったからです。ダビデは他人を羨むことのないほどの富と権力を手に入れてから、神に禁じられた人口調査を強いて行なって、罰せられてしまいました。 (サムエル下24)ソロモンは富と権力を手に入れてから、隣国との同盟のために、異教徒の娘を王妃に迎えました。その結果、イスラエルは二分されてしまいました。(列王記上11)また、ダビデとソロモンの子孫であったヒゼキヤ王はバビロンから来た使者に自分の富を誇ってしまい、神に滅亡の予言を聞かされてしまいました。 (列王記下20)このように、富そのものは、悪いものではありませんが、その富を取り扱う人間の心が変わって、富を悪の道具に使ってしまったのです。これが富に対する聖書の基本的な視座なのです。
2.アブラハムとロトを別れさせた富の副作用。
多くの旧約神学者たちは、アブラハムが甥ロトと同行した理由が、ロトを自分の相続人にするためだったと思いました。神がアブラハムをお召しになった時、彼には子供がいなかったからです。そのため、アブラハムは、甥を養子縁組し、相続人にするつもりでロトを連れていったのでしょう。ところで、アブラハムは、そのロトの目の前で大きな間違いを犯してしまいました。それは前回の説教でお話しましたアブラハムの信仰の失敗によるものでした。韓国のことわざの中に「子供の前では、冷たい水もやたらに飲めない。」という言葉があります。その意味は、「目上の人の悪い言動を若者たちが、やたらと見て真似をする。」という意味です。アブラハムは、自分の大切な妻を他人に渡し、あまりにも簡単に不正な財産を得ました。そして、神がそれを解決してくださる時まで、別に悔い改めの姿も示さなかったのです。おそらくアブラハムは、そんな望ましくない姿を見習ったロトに、知らず知らずに間違った富と信仰の基準を提示してしまったのかもしれません。そして、そのようなアブラハムの過ちは、カナンに戻ってきた後、実際の出来事として現れ始めました。
「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていました。 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかったのです。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのです。 アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。」(13:5-7)エジプトを去って、カナンに戻ってきたアブラハムの前に予期せぬ問題が待っていました。多くの財産により、甥との関係に葛藤が生じたことでした。エジプトに行く前まで、二人は様々な問題に出くわしても、理解し合って力を合わせ、逆境を勝ち抜いたはずでしょう。しかし、エジプトで得られた不正な富のゆえに二人の間に葛藤がもたらされたのです。その富により増えた数多くの家畜のため、飼う者たちの間に争いが起きたからです。また、一度エジプトを体験して、富に対する間違った基準を持つようになったロトは、過去のように叔父と一緒に逆境を乗り越えることなく、自分の富を守るため、アブラハムを離れようとする心をも持つことになったのでしょう。
「アブラムはロトに言った。わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」(13:8-10)当初からアブラハムがロトを相続人として養子縁組をしたならば、アブラハムはロトをそう簡単に行かしてはならなかったのでしょう。しかし、彼らの富は、そのような関係を破壊してしまいました。互いに葛藤があっても、アブラハムはロトを抱き、調和をなさなければならなかったはずです。しかし、彼はあまりにも簡単に別れを宣言してしまいました。また、ロトも叔父に良い土地を譲らず、まるでエジプトのように潤った地を選んで、離れてしまいました。その結果として、ロトは罪と悪の地、ソドムとゴモラで悲惨な結末を迎えることになります。結局、エジプトからの不正な富さえ無かったら、起こるはずの無かった葛藤が、二人の間を引き離してしまったのです。富による貪欲と富への異常な追求が、二人共に別れという極端な結果をもたらしてしまったのです。
3.聖書を通して学ぶ富に対する心構え。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)主は山上の垂訓の時、まるで、富を人の主人のように描かれました。現代の多くの人々も富から自由になることが出来ません。差し当たって、国からの年金が出なければ、あるいは、職場からの給料が出なければ、私たちは果たして気軽に日常生活を営み、教会に行って礼拝をささげることが出来るのでしょうか?それだけに富は重要なものであり、絶対に必要なものです。しかし、それにもかかわらず、私たちは、その富のみを追い求めて、生きてはいけない存在です。富を利用するが、富に捕らわれない生き方が必要なのです。富のために仁義に反してはならず、富のために信仰を捨ててもなりません。つまり、富が私達の主人のようになってはならないという意味です。私たちは、ひとえに神様のみを主人にして生きるべき、キリスト者だからです。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)ロトが去っていった後、相続人への希望も、富の意味への希望も失われたアブラハムに、神は現れて言われました。 「私こそがあなたの富である」主はアブラハムにとっての真の富が、神ご自身であると教えてくださいました。そして、アブラハムが、その神を信じた時、初めて神は彼を義と認めてくださいました。富は神様が私たちに与えられたプレゼントに過ぎないものです。プレゼントは、あれば良いし、なくても構わないものでしょう。もともと、我らのものではありません。重要なことは、私たちにプレゼントを与える存在なのです。私達はプレゼントを渡すとき、「気持ちだけです。」と言ったりします。重要なのはプレゼントをする者と、その心なのです。プレゼント自体が大事ではありません。富に対する私たちの心構えも同じです。重要なのは、富を与えてくださった神様への信仰なのです。私たちが、日常生活の中で本当に神の御前に恥のない信仰者として立つためには、富への正しい姿勢を取ることからだと思います。
締め括り
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 」(テモテⅠ6:17-18)私たちの真の富は、神ご自身でいらっしゃいます。そして神を通して、私たちに来られたイエス・キリストなのです。旧約で富と豊かさで表現された数多くの神の祝福は、新約になってからは、イエス・キリストと、その方への信仰として、完全に置き換えられました。金持ちも貧しい者も、キリストへの信仰と信頼がなければ、すべてが無意味になることを忘れてはならないでしょう。神様が私たちに与えられた富を用いて、神と隣人に仕え、富のとりこではなく、富の主人として生きるべきでしょう。それが私たちに与えられた富への在り方なのです。富は神の祝福になることも、呪いになることも出来るものです。もし私たちが主の御心に従って、神に望みを置いて、富を正しく利用すれば、その富は私たちに祝福となるでしょう。私たちの富を用いて、神と隣人への愛を実践して生きていきましょう。私たちの行い次第で、富の性質が変わることを心に留めて、神の御心に適う一週間を過ごしましょう。