詩編25編1~11節 (旧885頁)
ペトロの手紙一3章18~22節 (新432頁)
前置き
今日はレント第2主日です。先週、私たちは主イエスが荒野で受けられた3つの試練(苦難)と、その苦難を御言葉によって勝利された主の偉大さ、そして、私たちの人生に適用できる点について学びました。今日はイエス・キリストが苦難に打ち勝ち、勝利を収められた方であるということ、そして、そのキリストの勝利が、今、苦難の中にある主の民にどのような恵みを与えてくれるのかについて、話してみたいと思います。
1. 勝利のイエス・キリスト
主イエスは勝利されました。主はこの世を支配する罪と死の勢力に打ち勝たれたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ 16:33) 聖書は、主イエス・キリストが世に勝たれたとはっきりと宣言しています。これは、罪と死、そして苦難への勝利です。しかし、主の勝利は、世の人々が言う、世俗的な勝利とは異なります。主イエスはこう言われました。「イエスは、このぶどう酒を受けると、成し遂げられたと言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30) ヨハネによる福音書を通して、主イエスが告げられた「成し遂げられた」という言葉は、ギリシャ語では「完全に償った」という意味を持ちます。これは、主イエスが人類の救いのために、何らかの代価を支払われたという意味になります。主は何を支払われたのでしょうか。それは、人類の罪の代価として、ご自身の貴い命を身代金に支払われたということです。ここに、主イエスの勝利の本質が現れます。それは「逆説の勝利」です。この世の支配者たちは、自分の権力を手に入れるために他者の命を奪い取ります。歴史上の数多くの帝国が、その代表的な例です。
旧約時代の、エジプトは自らの権力のために、奴隷イスラエルの命を軽んじました。アッシリアやバビンといった帝国もまた、自らの権力のためにイスラエルを侵略しました。新約時代のローマ帝国も、それらと何ら変わりがありませんでした。近代の数多くの列強諸国が自らの権力のために植民地を侵略しました。現代においても、大国が自国の利益のために小さな国々に圧力をかけることがしばしばあります。これが、世の言う「勝利」の条件なのです。自分のために、他者を抑圧するのです。しかし、主イエスの勝利は違います。主はご自分の命を捨て、その命の代価をもって罪人を赦し救われました。主なる神は、このようなイエス・キリストの苦難と犠牲を「勝利」と認めてくださったのです。それゆえに神は、主イエスを復活させ、この世の真の支配者へと高めてくださいました。イエス・キリストの勝利は「逆説の勝利」です。自分が死に、他者を生かす勝利です。自分は苦難を受けるが、他者には自由を与える勝利です。人の命は救い、死の権勢は滅ぼす勝利です。ここに、イエス・キリストの勝利の奥義があります。イエス・キリストにとって、ご自分の苦難とは勝利のための前提条件であったのです。
2. 苦難に勝利する主の権能
このような主イエスの勝利について、今日の新約の本文は次のように語っています。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(Ⅰペトロ3:18,19,22) この箇所は非常に難解な言葉として知られており「十字架で死なれたイエスが陰府(捕らわれていた霊たちのところ)に直接行かれ、そこにいる霊たちのために宣教された」と誤解しやすい言葉です。死者にも救いの機会が与えられるという煉獄教理の根拠とされる言葉です。しかし、この言葉は死者の救いについて語っているわけではありません。これは手短に言って「主なる神の裁きの下にある罪と死の権勢、そしてそれに属する不従順な霊たちに、キリストが最終的な勝利を宣言された」と理解するのが、最も福音的な解釈だと言われます。今日の新約の本文は、このようなイエス・キリストの完全な勝利を劇的に描いているのです。そして、苦難と死に打ち勝ち、復活された主イエスは、今、苦難の中にあるご自分の民に、その勝利を分かち合ってくださる方なのです。
それでは、今日の新旧約聖書の箇所を通して、苦難に勝利された主イエスの権能について考えてみましょう。第一「憐れみの権能」です。「わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように、敵が誇ることのないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。」(詩編 25:2-3) 詩編25編は、神への嘆きの詩です。詩人の敵が彼を苦しめる時、すなわち詩人が苦難に置かれた時、主の御助けを祈り求める詩なのです。主なる神は、主イエスという真のメシアを通して、この世で、信仰のゆえに苦難を受ける民を助けてくださる方です。苦難に置かれている者の嘆きを聞き、彼らを慰め、再び立ち上がる力をくださる方なのです。主なる神は、苦難を受ける、ご自分の民の慰めと癒しのために、まず御子に苦難を受けさせ、その苦難に打ち勝たせてくださることで、また、苦難の中にある者らの「慰め主」とならせてくださいました。それゆえに、イエス・キリストは苦難を受ける者を深く憐れみ、彼らを慰め、助けてくださるのです。今日もイエス・キリストは、私たちの嘆きの祈りに耳を傾け、御言葉と聖霊を通して慰めてくださいます。キリストには「憐れみの権能」があるからです。
第二「贖いの権能」です。十字架の苦難を受け、死んで葬られ、その死から復活されたイエス・キリストには、贖いの権能があります。これは福音の最も重要な教えであり、毎週、礼拝において宣べ伝えられる救いのメッセージです。主なる神は、イエス・キリストの贖いを通して、罪と死の権勢を無力化されました。私たちが「死」という永遠の刑罰を恐れることなく、むしろ「新しい始まり」と信じる理由も、イエス・キリストに罪人を赦し、神の民として生活させてくださる贖いの権能があるからです。この贖いの権能こそ、イエス・キリストの十字架の勝利がもたらした最も意義深い贈り物なのです。第三「支配の権能」です。私たちはイエス・キリストについて考えるとき、自分の罪を赦し、救ってくださる「救い主」としての姿ばかりを思い浮かべがちです。しかし、それだけでは主イエスの本質について半分しか知っていないことになります。主なる神は、主イエスを単に罪人の救い主としてだけ遣わされたわけではありません。今日の新約の本文は、次のように語っています。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(Ⅰペトロ3:18,19,22) 主なる神は、復活された主イエスを、もはやイスラエルの素朴なラビのままにはしておかれませんでした。ローマ皇帝よりも偉大な、すべての被造物の真の支配者として立てられたのです。この地上に生きる中で多くの苦難を経験せざるを得ない主の民は、自分の主こそがこの世の真の支配者であるのを信じることによって、苦難に打ち勝つ力と希望をいただくことができるのです。
3. キリスト者の苦難の結末は「勝利」
このように、イエス・キリストは十字架の苦難と死によって人類の罪を赦し、罪人を深く憐れみ、ご自分の民を守ってくださる方です。そのために、自ら十字架の苦難を選び、死んで復活されたイエス・キリストは、今や罪と死に勝利され、苦難の中にあるご自分の民の悲しみと苦しみを知り、助けてくださるのです。主ご自身が先に苦難を受けられたので、私たちの苦難をも、よく理解してくださるのです。それゆえに、キリストは私たちの「慰め」となられるのです。苦難に勝利されたイエス・キリストの民である私たちは、信仰のゆえに苦難を受けるとき、主が共におられることを忘れてはなりません。私たちが苦しみの中でうめき、叫ぶ時であっても、主イエスが必ず自分と共にいてくださるという信仰によって、勝利していく者でありたいと願います。主の受けられた苦難の結末は「勝利」でした。主イエスの民である私たちもまた、苦難を経験することがあるでしょう。しかし、主が共に私たちの苦しみを共感し、理解し、共に歩み、助けてくださいます。主の導きと愛によって、私たちの受ける苦難もまた、間違いなく「勝利」をもって終わるでしょう。
締め括り
今、私たちは、レントを過ごしています。 レントはキリストの苦難を記念し、憶える時間です。 主は苦しみを受けましたが、その苦しみを乗り切り、死に勝利し、復活されました。 主が勝利されたので、その体なる教会である私たちも必ず勝利するでしょう。 そのような堅い信仰を持って、このレントの期間を主の苦難と試練を黙想し、感謝しながら、過ごしたいと思います。勝利の主が志免教会につらなる兄弟姉妹を見守ってくださることを祈り願います。







