イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁)
ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁)
今日は2025年の最後の主日です。今年も世界にはさまざまな出来事がありました。そのたびに私たちは心配の中に生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えながら、今まで生きてきたと思います。確かに心配事が沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えるようになり、主なる神に感謝します。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった主に感謝と賛美をささげる年末であるよう祈り願います。このすべての恵みが主からいただいたものであると信じます。
1.苦難の中にも、神の御言葉が共にあります。
ヨハネの黙示録は解釈が難しい聖書です。ほとんどの言葉が象徴的に記され、それらが何を意味するのかが分かりにくいです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても明らかです。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。」(黙示録1:3)主の御言葉を知ろうとする者、その御言葉を守ろうとする者は幸いな者であるというのが黙示録の中心的な内容です。つまり主の御言葉に聞き従う者は祝福されるという意味でしょう。ここでの祝福は、お金持ちになったり、名誉を得たりする世俗の祝福とは異なります。主に選ばれ、お守りと愛のもとに生きる霊的な祝福なのです。主の民が御言葉に聞き従い、その御言葉通りに生きようとするとき、主は祝福を限りなく注いでくださるのです。ヨハネの黙示録は西暦90年頃、記されたと知られています。当時のローマ皇帝はドミティアヌスという人でした。彼は残酷な独裁者で、暴政をしきながら、自分が主であり、神であると宣言しました。ひとえにイエス・キリストだけが主であり、神であると告白するキリスト者たちを残酷に迫害した者です。その時、苦難を受けている教会に慰めと希望を与えてくださるために、主イエスが使徒ヨハネを通してくださった言葉が、この黙示録であるのです。
主イエスの時代、主イエスが復活され、父なる神の右に座しておられ、聖霊なる神をお遣わしくださいましたが、地上のキリスト者は依然として迫害にさらされていました。むしろ、主を信じれば信じるほど、さらに辛くなりました。大勢のキリスト者が信仰を告白したゆえに、殺されてしまいました。それでも、キリスト者は、御言葉に頼り、世に立ち向かって生きました。主の御言葉には脅威と恐怖を圧倒する力があったからです。私たちがこの世に生まれ、生きる間、苦難は常に私たちと近くあります。時には、大きな罪を犯したこともないのに、苦難にあったり、誠実に生きて来たのに、失敗したりすることもあります。逆に他人を苦しめ、自分だけのために生きる人が、安らかに生きることもあり、理不尽と不法が蔓延っている場合も多々あります。しかし、今日の本文を通して主は言われます。「記されたことを守る人たちとは幸いである。」現状と世の理不尽に絶望しないで、変わらない主の御言葉から聞き、主に信頼する者は幸いです。永遠にありそうな世の不条理の終わりに、主なる神の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐに来るでしょう。その日が来れば、主はご自分の民のすべての苦難と辛さを慰めてくださり、報いてくださるでしょう。
2.恵みと平和の主が私たちを導いてくださる。
新しい一年を迎えると、期待と共に恐れもあります。来年の今ごろ、私はどう生きているだろうか。生きてはいるだろうか。明日、何が起こるか、私たちは到底予想できません。それが人生の漠然さでしょう。もし、明日、いきなり主が私たちを召されれば、私たちは、主のみもとに帰らなければなりません。私たちが一日を生きていることは、生命力が強いからではなく、毎日、主が私たちの命の延長を許してくださるからです。来年の年末ごろ、私たちは生きてはいるでしょうか。死を考えると本当に怖いです。もちろん、主のみもとに帰るという信仰がありますが、死が恐ろしいのは変わりません。2019年の12月、来日から一年経った時、車の事故にあったことがあります。事故当時、私の車は10メートル以上飛ばされ、車は完全に壊れました。事故にあった際「ああ、これが事故なのか。このまま死ぬのか。」と思いました。もし、運転席が反対側だったら、私は確実に死んだと思います。しかし、主は私を生かしてくださいました。幸いにも、膝の打撲傷で終わり、整形外科でリハビリを受けましたが、後遺症なく、全快しました。私が、その時死なず、今まで生きている理由は何でしょうか。まだ、主からの使命が残ってあるため、命を延ばしていただいたからではないでしょうか。
主なる神は主からいただいた使命を果たさせてくださるために、ご自分の民を生かし、導いてくださり、お守りくださる方です。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる主の愛と恵みとを信じ、感謝しつつ生きるべきです。黙示録が記された時代、多くのキリスト者が殺されてしまいましたが、それにもかかわらず、主の教会は生き残って迫害と苦難をたくましく乗り越え、福音を宣べ伝えました。主は苦難の中でも恵みと平和とによって、主の教会を導いてくださったのです。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」(黙示録1:4-5) この世は恐ろしいところです。しかし、私たちは使命を達成するまで、命を保たせてくださる主と共に生きています。永遠におられる父なる神、七つ(完全さ)として表現された聖霊と、世の王たちの支配者であるイエス・キリストが私たちと共に、永遠に歩んでくださるからです。
3.主はアルファであり、オメガである。
なぜ、キリスト者が苦難の中におり、また死の恐怖にさらされる時にも、主は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすように導いてくださいますでしょうか。それは、主こそがアルファであり、オメガ、つまり、万物の始まりであり、終わりであるからです。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8) ギリシャ語で「始まり」を意味する「アルケー」は「開始」という意味と同時に「根本」という意味をも持っています。また、ギリシャ語で「終わり」を意味する「テロス」は「終わり」という意味と同時に「完成」という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主である神が、私たちの主であることを古代ギリシャ風に示したものです。聖書はこれを旧約でも強調しています。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。」(イザヤ44章6節) イザヤ書44章は偶像崇拝、悪行などにより神に見捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、主によって解放され、主に再び機会をいただいた時、宣言された希望の言葉です。
当時のバビロンは強い帝国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、その強力なペルシャでさえ、主の御手に用いられました。「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。」(歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである主なる神は、どんな強力な存在でも逆らえない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、主のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎなかったのです。神は王の中の王であり、神の中の神であられたからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉によって、イエス・キリストを通して、弱い民を選ばれ、罪から解放させ、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという大事な意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では乗り切ることの出来ない恐ろしいものです。しかし、その苦難と死さえも、主の御手の中にあることを信じれば、私たちは主によって克服するようになるでしょう。
締め括り
今年の終わりが近づいています。今年、たくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えるようになりました。何一つ主の恵みでなかったことがありますでしょうか。主に感謝します。私たちの心配と不安の中で一緒におられた主が私たちを助けてくださり、無事に終わりを迎えさせてくださいました。誰かには、まだ苦難と心配が残っているかもしれませんが、アルファであり、オメガである主は、変わりなく私たちの歩みにともにいてくださるでしょう。 その主に希望をおいて、今年を終わり、喜びの新年を迎えたいと思います。2026年にも主による平和と祝福が私たちの上にありますよう祈り願います。






